暗い部屋にいた。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。僕はベッドの中でずっと考えていた。
 今日僕は学校を休んでしまった。小毬さんたちにフォローを受けて、鈴の方はなんとか学校に出られているというのに。ひどい体たらくだ。
 恭介も今日は学校へ行った。最初はいつものように就職活動に行こうとしたが、まるでどこを見ているかわからないような状態で足取りも危険だったため、先生に止められたのだ。
 けれどみんなからは、僕が一番傷を負ったと見なされていた。
 ごそごそと、枕元に置いてあった白の紙を取る。
 この進路調査表の最後の締め切りは、明日だった。僕がこのまま明日も学校へ行かなかったら、この紙はどうなってしまうのだろう。
 そんなの、もうどうでもいいや。
 一体、なにがいけなかったんだろう。
 笹瀬川さんからは「まだ諦めないでください」というメールが送られてきた。その応援の言葉がとにかくストレートすぎて、僕はもはやなにも言い訳や反論ができなくて、メールを見た瞬間ぐずぐずと泣き出してしまった。
 暗い部屋で、うずくまって、僕は今一体なにをやっているのだろう。
 あの恭介の想いは強烈だった。強烈すぎた。
 だったらどうして僕は、最初から恭介の気持ちを汲んでやれなかったんだろう。
 なにも知らないでのんびりやっていたのは、僕なのに。
 身の程を弁えずに真実を知ろうとして、場を荒らそうとして、真実を知った時の衝撃を受け止めきれる力もなくて、無責任に二人を傷つけてしまった。
 最低だ。
 本当に僕は、最低すぎる。
 二木さんからも「私を止めたのだから、最後までやり抜きなさい」とメールをもらったけれど、その二木さんが言う「最後」というのがどこまでなのかわからない。
 まさか、これ以上他に知ることがあるというのか。
 そんなものは無い。二人の願いはずっと平行線なままだ。
 どちらも相手の意見を聞き入れる気はないし、その主張を取りやめる気もない。
 むしろそれより、相手を傷つけてしまったことへの罪悪感でどちらも頭がいっぱいになっていて、まともな妥協案を考えることすらもできないだろう。
 だったら今僕がすべきことは、一体なんなんだろう。
 今まで通りに、二人と仲良く接することか? それとも、金輪際二人の前に姿を現わさないことか?
 それともまさか……ここからまた、先の真実へ進んでいくことか?
 そんなのもう嫌だ。
 もうこれ以上二人を傷つけたくない。真実を知りたくない。
 もう傷つきたくない。
 けれど。
 まだ一つだけ……本当は、ちょっと気になっていることがある。
 でもそれを今さら知ってなんになると言うんだろう。もしかしたら、その秘密を明らかにしてしまったせいで、もっと深く恭介や鈴が傷ついてしまうかもしれないのに。
 僕はそう思ったが、けれど一つだけ、歯の間に食べカスがちょっぴり挟まっているかのような不思議な気持ち悪さを感じ、僕は必ず頭の中だけで完結させることを自分に堅く約束した上で、ひっそりと最後の推理をしてみることにした。
 これが、本当に最後の推理だ。はやく終わらそう……。

 

 

 

 
 最後までわからなかったのは、あの鈴の真意だった。
 恭介が「俺は大学へは行けない」と言ったとき、鈴がしきりに叫び返したセリフは、「そうじゃない」だった。
 あの時は色々衝撃的なことが起こりすぎて、その発言も自然と流してしまったが……よくよく考えてみれば、不思議なセリフだった。
 鈴は別に、恭介が大学へ行くことを望んでいたわけじゃなかった……?
 そういえば、この前からの鈴のセリフにやたらと多く含まれていたのは、「恭介はあたしのことをこれっぽっちも考えてない」だった。
 もしかして、鈴が願っていたのは、ただ恭介に自分の気持ちをわかってもらいたいということだったんじゃないのか……?
 だとしたらその肝心の内容は何だっていうんだ。全然鈴の気持ちが見えてこない。
 恭介にわからなかったものが、僕なんかにわかるというのか……。
 無理だ。
 でも……もうちょっとだけ、やってみよう。

 

 

 

 
 僕は鞄の中からルーズリーフとシャーペンを取りだし、この前からの鈴の言動を少しずつ思い出しながら、次々とメモを取っていった。
 そして、だんだんその作業を進めていくうちに、僕は鈴に対して途方もない勘違いをしてしまっていたことに少しずつ気づいてきた。
 まず、事の始まりはこうだ。

 ――また、きょーすけは就職落ちたのか? ふわぁ……それじゃあたしもお先真っ暗だ。勉強もわけわからんしな。

 恭介と電話で話していた時の言葉。
 これは一体どういう意味だったのだろう。一見すると意味不明だが、よく考えてみれば、まんざらそうでもないことに気づく。
 真実の欠片がほんの少しだけ落ちている気がした。
 よし、次だ。

 ――どうでもいい。そんなことよりあたしはスクレボの『ときど さや』に夢中なんだ。悪いが話しかけんでくれ。

 鈴は……本当に進路など、どうでもよかった?
 だとしたら何が狙いだったのだろう。わからない……。
 作業を続ける。

 ――なんであたしが大学へ行くことが前提になってんじゃ、ぼけ!

 これは、鈴が恭介の話に突っこみを入れた時のセリフだ。
 鈴は、まず大学か就職か、という質問を恭介にしてほしかった……?
 そんなのどっちでもいいと最初に言ったのに? 何故だ。わからない。
 
 ――だっ――……れが、大学になんか行くかぼけぇ――――――っっっっ!!!
 
 このセリフも、初めて聞いた時はわけがわからなかったが、今改めて見てみればまったく違う意味となって、頭に浮かんでくるような気がする。
 そうか。鈴は……まずちゃんと、恭介に話を聞いてほしかったんだ。
 聞いてほしかったということは、そこで鈴は恭介に何かを伝えようとしていた……? なにか伝えたいことがあったのか?
 それはなんだ?

 ――あたしは、そんなもんどっちだっていいって言っただろ。勝手にあたしの気持ちを想像すんな、ぼけ。

 これは次の日に、鈴が僕に送った言葉。
 やっぱりだ……鈴は、本当に就職でも進学でも、そんなのどっちでもよかったんだ。
 そこに何の迷いも抱いていなかったことは、確かに終始一貫している!

 ――迷っていることなどない……けど、あたしはまだ考えちゅーなんです。

 このセリフの意味もやっとわかった!
 鈴は本当に迷ってなどいなかった! でも、なにか調査表を提出することができない理由があったんだ!
 それがなんなのかは……今はまだわからない。
 けれど、あるいはもしかしたら……そういうことになるのかもしれない。
 僕は作業を続けた。ええっと……次は何だ。

 ――あたしの気持ちだってちゃんとあるんだっ! どーして誰かにあたしの未来を勝手に決められなきゃいけないんじゃ! そーゆーの、もうたっくさんなんじゃっっ! 誰にもあたしの未来を勝手に決めさせないんじゃっ!

 これは、鈴が猫のように暴れて椅子を蹴っ飛ばしていってしまったシーン。
 いいや……違うはずだ。鈴は確かに進学でも就職でもどっちでもよかったはずなのに、そんなことを言い出すのはちょっとおかしい。
 ならば、言ってる意味が違うということだ。
 鈴は別に進みたい進路があったわけじゃない。ならば……ただそれを強制されては困る理由がどこかにあったってことだ!
 ということは、まさか……まさか!
 あの状況を冷静に考えてみれば……答えは限られてくる!

 ――棗さんは、お兄さんのことが大好きって言ってましたから……。

 あの笹瀬川さんの言葉も、実は重要な意味が含まれていた!
 鈴は恭介のことを嫌っているわけじゃなかった。むしろちょっと危ないくらいの好意を抱いていたはずだ。
 これで僕の推理がだんだんと形になってきたぞ……ならばこのまま矛盾点を見つけ出さずに最後まで行けるか……?
 
 ――あいつが就職を決めるまでだ。

 そうだ。鈴は恭介の就職先が決まるのをずっと待っていた。
 僕の「いつまでこんなことを続けるの?」という質問に対する鈴の答えは、実はこういう意味だったんだ。
 鈴はあのとき、僕の質問の意味をちょっと勘違いして答えてたんだ。

 ――どーせきょーすけは、あたしのことなんかどうでもいいと思ってるんだろう。

 別にどうでもいいわけではなかった。ただ……鈴の望むものと恭介の望むものは決定的に違っていた。
 そもそもこれは平行線なんて生易しいものじゃない。元々根本的に食い違っている問題だったんだ!
 恭介がそれに気づいてやったり、鈴が諦めて真意を口にしたりしなければ、絶対に噛み合わない問題だった!

 ――あたしが就職するって言ったらどうする? ――止めるさ。

 ――じゃあお前は大学へ行くのか? ――行かねえ。

 このやり取りの後、鈴はブチ切れた。
 自身を犠牲にしつづける恭介への説得のためとも見て取れるが、もし僕の仮定が正しければ、このとき鈴はまったく別の意味で怒ったことになる。
 すんなりと小川の水が流れるように、ぱしり、ぱしり、とパズルのピースが嵌っていった。

 ――ち、違う……! そうじゃない……あたしが、言いたいのは、そーゆーことじゃ、ない……そうじゃないんじゃぁ……っ。なんで……なんで、わかってくれないの、きょーすけ……。

 そして、鈴が零した涙の雫が、僕の暗い頭を見違えるように透明にしていった。
 見えてくるのは、ぽかぽかとした明るい日だまりの中。
 恭介と一緒に猫の世話をする、幼い頃の鈴。
 おずおずとしながらも、とっても楽しそうに顔をほころばせて、遊んでいる。
 穏やかな春風に、頭につけた鈴がちりんちりんと鳴っていた。
 そういえば、あのあたりから鈴は猫を好きになっていったんだっけ……。
 毎週のように僕らの遊び場に恭介が猫を連れてきて、鈴は最初はびくびくとしながらも、だんだんとお姉さんのようにませた態度で猫を可愛がるようになって、それをあの真人にからかわれたりしてよく喧嘩になったりしたっけ。
 僕が「りん、本当にそのねこ、かうの?」と聞いたら、ぶすっとしながらも「うん」と答えていた。
 それはどうしてなのだろう……。
 どうして鈴は、猫を好きになった?
 ああ、そんなの考えるまでもないことだった。
 
 なぜなら、拾ってきたのは、彼だったから。
 
 僕は走り書きで汚くなったメモをもう一度眺めて、ゆっくりと頷いた。
 ああ、これは、そういうことだったんだ。
 僕は鈴に対して、もの凄い馬鹿な勘違いをしてしまっていた。
 そのせいであの鈴を傷つけてしまった。恭介を傷つけてしまった。
 きっとそのことは、これからも決して許される罪じゃないのだろう。
 でも。
 でも、僕はちゃんと約束したじゃないか。
 傷をつけたら、必ずそれを治すからと!
 こんな真実を、頭の引き出しになんかしまっていられない!
 大丈夫だ、まだ間に合うはず!
 この真実があれば、二人の傷はきっと治る――!
 僕はカーテンを開き、時計の時間を確認した後、急いで制服に着替え始めた。

 

 

 

 
 夕焼けに沈む校庭をひたすらに走っていた。
 携帯にかけても繋がらなかった。もしかしたら僕の名前を見て、もう話したくないと思ったのかもしれない。
 代わりに小毬さんに連絡したら、ずっと保健室で休んでいたところを、放課後になるなり野球の練習さえも休みにしてとっとと帰ってしまったらしい。涙の滲む声で、「理樹君たのむよ……理樹君しか、もう助けられないよ」とお願いされた。
 僕はまだ、『今』に立っていた。
 もしかしたらこの謎は、『今』に立ちつくしている僕にしか、解けない謎だったのかもしれない。
 未来を向いている小毬さんからそんなお願いをされれば、僕の胸はなんだかむず痒くなってしまうのだが、とにかく僕はそれを引き受けることにした。
 もう一度説得するんだ。
 もう一度説得して、今度こそ終わりにする!
 鈴は、特に恭介の幸せを望んでいたわけではなかった。
 恭介のことを「自分のことしか考えてない」と非難していたくせに、鈴だって自分のことしか考えてなかった。
 さすが兄妹だ。呆れるぐらいに似ている。
 自分勝手に願いをぶつけ合うしかなかった兄妹の想いの果ては、仲直りか、後悔か――。
 ずっとこの問題に付き合ってきた僕の手にこそ、その運命を変える鍵は握られていた。
 絶対に、このままじゃいけないんだ!
 必ず、どうにかする!

「恭介っ!」

 驚いたように振り向いて、すぐに向こうにいた恭介は顔をつらそうに歪めた。
 僕のことを、死神かなんかだと思っているのかもしれない。
 僕が息を切らせながらそこにたどり着くと、恭介はおずおずと、身を引きながら答えた。

「……よう」

 僕は肩で息をしながら、しゃがんでしまいそうになるのを堪えて、言う。

「うん……恭介……恭介、頼む……もう一回僕の話を聞いてほしい」
「断る。もういいだろ。お前が自分のやったことを悔やむ必要はねぇから、もうこれ以上、俺の件には触れないでくれ」

 冷たい言葉が僕の耳を貫いていく。
 苦しい。
 でも、恭介もつらそうだった。後悔と苦痛に顔を歪め、短い息を吐いていた。
 そしてそのまま立ち去ろうとする恭介を、僕は腕を掴むことによって止めた。

「離せよっ!」

 腕を勢いよく振り払われる。だが僕はさらに正面に回り込んで、腕を広げて恭介を止めた。

「……お願いだ。もう一度だけ考えてほしい、恭介。恭介は……ずっと大学へ行きたかったはずだ」
「……っ」

 苛立たしげに眉をひそめ、恭介は吐き捨てるように言った。

「……ああ、そうさ。でもそれは、お前が思っているほど綺麗な感情じゃない。俺には、なにか学びたいことがあったわけでもない。なりたい職業があったわけでもない。……強いて言えば、経営関係の勉強に少し興味があったぐらいだ……俺の願いは、たったそれだけだった」
「それだけで十分じゃないっ! 全然足りなくなんかないよ! 恭介、恭介は大学生になる資格は十分――」
「ねぇよっっ! 俺はただ……そういう未来に憧れてただけだっ! 普通の学生らしく、普通に金持ちで、普通に進学して、普通にサークル入って……普通に恋愛して、普通に学校サボったりして……そういう、普通の大学生に憧れてただけだったんだよ! なにも学びたいことなんかねぇ! 特別目指したい夢なんかねぇ! そんな俺が、親の大事な大事な金を使えるわけがねぇだろ! 情けなくって……恥ずかしくって……そんな願いをひそかに抱いていることすらも、俺は誰にも言いたくなかったのに……! 俺に大学生になる資格なんか、もうねぇんだ! もう遊んでいられる時間は終わりなんだよ! けれど鈴さえ、幸せなら……俺さえ、こんな腑抜けじゃなければ……俺はそれだけでよかったのに……。ちくしょう……どうして、俺は……っ!」

 恭介は泣き崩れるように地面に膝をついて、未来に向かって拳を打ち付けた。見下ろす僕も、うっすらと涙が滲んできていた。
 もしかしたら恭介も、自分のあり方について、自分の資格について、ずっと悩み続けてきたのかもしれない。
 ずっとそうやって苦しみ続けたきたんだ。
 ああ、これは僕だ。
 僕は今、僕の未来の成れの果てを見ているんだ。
 恭介は、ただお金がないから進学しないんじゃなかった。
 なにも目的を持てない自分を恥じて恥じて死にそうなくらいに恥じまくって……大学へ行く資格なんかきっとないと思っていたんだ。
 きっと恭介は、進学はやっぱり止めますと先生に告げに行ったとき、そこで本当に、途方もない解放感を得られたのだろう。
 これで自分は本当に自由なった、と本当に思ってしまったのだろう。
 だから恭介は、こんなにも自分自身を恥じているんだ。
 狂ってしまいそうなほどに。
 けれど恭介。知ってほしいことがあるよ。
 僕だっているよ。君と同じで情けなくて、不甲斐なくって、どうしようもなく恥ずかしい格好をした、僕がいるよ。
 僕の目の前で恭介がそうやって泣きじゃくってしまっていたら、僕だって未来に希望を持てないよ。
 だから恭介、君は……ちゃんと大学へ行かなきゃだめだ。
 恥ずかしくたっていいんだよ。それが普通だ。
 目的がなくたっていいじゃないか。恭介は恭介だよ。そんな恭介を馬鹿にするような人間は、無視しちゃえばいいんだよ。
 僕は恭介の良いところをたくさん知ってるよ。あの恭介なら、今からだって受験は全然間に合うよ。
 恭介が頑張れば……きっと必ず、叶えられない夢なんかないんだよ。
 そのために僕は、最後の一手を打たなければならない。

「恭介……」

 僕も地面に膝をついた。
 恭介の顔と目線を合わせるようにして、口を開く。

「恭介が大学へ行ける方法が、たった一つ……たった一つだけ、あるよ」
「……え?」

 驚いたように目を見開いて、恭介が聞き返す。
 そんな嘘みたいな魔法があるのかと聞き返さんばかりの表情だ。僕はゆっくりと頷いた。
 恭介が大学へ行けるようになる方法が、本当は、たった一つだけ存在する。
 けれどこれは、ただの僕の推理にすぎない。確率はかなり高いと思うが、それでも百パーセントじゃない。
 僕は、ここでそんな大ばくちを打てるのか……。
 失敗したら、僕は本当に恭介や鈴と顔を合わせられなくなるかもしれない。
 それでも親友の望む未来に覚悟を決めて、最後の真実へと足を踏み出せるのか。
 そんな勇気が果たして僕にあるのか。
 でも……。

「あ……」
「えっ……?」

 後方からよく聞いたことがある声が響いてきて、慌てて振り返る。
 蜂蜜を溶かしたような甘い金色の彼方に、一人の女生徒が立ちつくしていた。
 あれは、まさか……。
 その女生徒は、僕らの姿を発見するなり声を上げて、後ろに逃げ出してゆく。

「待って、鈴っ!」
「!」

 鈴がふと、立ち止まる。
 ひどく困ったようにそわそわと体を動かし、けれど鈴はそこから去ろうとしなかった。
 こちらに背を向けたままの鈴に、僕は叫び続けた。

「鈴は、そうやって逃げちゃうのっ!? 鈴の気持ちが最後まで恭介にわかってもらえないままでいいの!? それでいいの!? ど……どうして勇気を出して自分から言えないんだよっ! 鈴のその一言があれば、恭介は救われるのかもしれないのに!」
「な、なんだって……?」

 恭介が涙を拭いて立ち上がる。
 しかし怪訝そうな顔をしたのは一瞬。すぐに後悔の色に沈んで、鈴から目を逸らした。
 肩をぐっと掴まれる。

「や、止めてくれ……! もういい! 俺は大学になんか、行きたくねぇ! だからもう鈴を巻き込むな! 俺は……あいつに会わす顔なんかもう……っ!」

 僕は構わず、鈴に向き直って叫ぶ。

「ねぇ聞いて、鈴! 鈴の願いを叶える方法がたった一つだけあるよっ! 鈴の本当の気持ちを伝えればいいんだ! ねぇ鈴、人間はね、どうしても相手に分かってほしいことがあったら、でもそれを相手が分かってくれなかったら……だったら自分から、それを伝えようとしなきゃダメなんだ! ねぇ鈴……今、恭介はここにいるよ! 早くしないと、この僕が恭介に言っちゃうよ!?」
「なっ――なにぃ……っ!? ちょ、ちょちょ、ちょっと待てぇっ! だめだ、言うな! あほ! ばかぁ! 言うんじゃない! 言うんじゃないぞ、絶対!」

 鈴が顔を真っ赤にして、全速力でこちらに駆け寄ってきた。
 それに反応して、今度は後ろの恭介が逃げ出しそうになったが、僕は慌ててその手を掴む。

「くっ……!」
「待ってよ、恭介……! 今ここで、兄貴が逃げてどうするんだよ! 鈴はこうやって来たよ! だから絶対に、逃がさないよ……恭介!」

 僕は力一杯叫んで、恭介を引き止める。
 掴む手がミシミシと軋み始めているが、意地でもこの手は離さない。
 絶対に離してやるもんか。
 もうこの二人に嫌われてもいい! 二人を傷つける覚悟はできた! そして、僕自身が傷つく覚悟も!
 けれど、真実だけは突き止めるんだ!
 そうしないと、もうここから先へは進めない!

「う……あ……」

 鈴がもじもじとしてしまって言いあぐねている。気まずそうに恭介から視線を逸らしたのを見て、恭介自身もゆっくりと足を止めた。
 しかし申し訳なさで胸が痛むのか、恭介は制服のネクタイをぎゅっと上から握りしめて、鈴の方へと静かに振り返った後、またすぐに視線を逸らした。
 周囲の景色が金色から緋色へと徐々に変わっていくのと同時に、鈴の顔も、だんだんと赤い熱を帯びていった。
 目をぎゅっと閉じて、ぷるぷる震え、今にも散ってしまいそうな花びらのような口が、かすかに動いて、言葉を紡ごうとする。
 けれど。

「や……やっぱ言えぇ――――――――んっっ!」
「えぇー!」

 頭を抱えてそう叫ぶなり、鈴は逃げだした。僕も驚き、慌ててその手を掴む。

「は、離せぼけぇっ!」

 ぶんぶんと振り回されるが離さない。離すもんか。足に体重をかけて、思いっきり引っ張る。

「絶対、離さない……!」
「あ、あああたしが言ったってなんも意味がないんじゃ、ぼけっっ! あたしが恭介に『お願い』したって、いつまで経っても状況は変わらないんじゃ! だから、行かせろ! この能なし馬鹿がそれに気づくまで、あたしは永遠に逃げ続ける! たとえばーさんになっても!」

 なにを言ってるんだ……鈴。混乱してめちゃくちゃなことを言っている。鈴はばーさんになるまでニートでいるつもりか。そんなの誰も喜ばないっ!
 
「お、おい……もういいよ、理樹。これは全部俺が悪いんだ! だからお前が無理することなんかねぇ! ……その手を離せ。俺はもう……帰るぜ」
「っ!? ま、待てやぼけぇっ!」

 鈴が足を止めて、慌てて振り返って叫ぶ。
 怒りに眉を吊り上がらせて、恭介に食ってかかる。

「またお前はそんなこと言うのかっ!? どーせそんなことを言ったって、自分が悪いだなんて本当は思ってないんだろう! あたしらのことをそうやって上から見下して、一人で全部抱え込んだフリしとんじゃ! そーゆーのが、あたしはとってもとっても、むかつくんじゃっ!」
「な、なんだと……?」

 恭介が怪訝そうな顔になって足を止めた。
 ああもしかして、またこの二人は喧嘩になってしまうのだろうか……鈴、君は本当に自分勝手だ。
 鈴は本当にいつも自分勝手で……だから鈴は、とびっきりに可愛らしい女の子に見えるんだ。
 僕がそのことに早く気づいてあげられれば、鈴もこんなふうに傷つくことなんてなかったのに。
 ごめんね、鈴。

「鈴……俺はな、もうお前がなにを望んでいるのかわからない。ここで俺がどう謝ったってお前は怒るだろう? お前の笑わせ方が、もうわからねぇよ……ごめんな」

 恭介が疲れ切った表情のまま、溜息を吐きつつそう言った。
 そしてそんな言葉を聞いて、鈴は顔を憎悪にみなぎらせ、歯を思いっきり噛みしめていた。
 ああ、ここに僕がいてよかった、と本当に思う。
 二人を傷つけてしまったのも僕だけど、その傷を治すのも、やっぱり僕だった。
 鈴にその役を任せたんじゃ……ダメだったんだ。
 だから僕も最後まで、自分勝手でいなくちゃならなかったんだ。
 もう、二人に喧嘩はさせない。

「恭介――聞いてっ! 鈴はね……鈴は、ずっと――」

 恭介の濁った目がこちらに向けられる。
 後悔と疑問の波にさらわれ、疲弊しきってしまった恭介は、最後に怪訝な表情を僕に向けていた。

「わっ! や、止めろ理樹っ! 言うな、あほ!」

 必死の形相となった鈴に、制服の肩をひっつかまれる。
 僕は鈴の必死の手から逃れるように顔を反らし、恭介の目を見て口を開く。
 
「ずっと恭介のことを待っていた! ずっと恭介が気づいてくれるのを待っていた!」

 もう自分への羞恥に、苦しむ必要はないよ。
 そんな恥ずかしさや惨めさなんか、簡単に覆い尽くしてくれる優しいヴェールがあるから。
 ここに、あるから。
 そう、僕だって――。

 

「鈴は――、ずっと恭介と離れたくなかっただけなんだよっっ!」

 

 二人の時が、降り止む黒い雨のように、止まった。 
 やがて、鈴の僕を掴む手から、だんだんと力が抜けていく。
 恭介が驚きに目を見開いて、僕を見すえていた。

「恭介が就職するっていうんなら自分も就職へ! 恭介が大学へ進学するなら、自分も同じように進学するつもりだった! 鈴は……鈴は、恭介と違った立場になっちゃうのをずっと恐れてたんだよっ! ずっと恭介と同じ立場でいたかった! 離ればなれになりたくなかったんだっ!」

 不意に、この前の二人のやり取りが目の奥に浮かんできた。

 ――あたしが就職するって言ったらどうする? ――止めるさ。

 ――じゃあお前は大学へ行くのか? ――行かねえ。

 そうだった。
 鈴はずっと恭介と同じ進路へ進むことを望んでいた。だから一方的な選択を押しつける恭介に、思いっきり腹を立てたんだ。
 これは、たった、それだけのことだったんだ。
 それはまるで小さい子供が考えつくような、単純な夢の形だった。
 でも鈴のそんな願いは、小さい頃から一緒にいる僕たちからしたら、本当に当たり前のことだったように思える。

「僕らは、ずっと今まで同じ進路を歩んできたんじゃないか! 当たり前のように! 鈴は、今回もそれを実行しようとしただけだったんだ!」

 これは単に、鈴の子供っぽいわがままだった。
 けれどまさか、兄と同じ職場や学校に行こうだなんて、さすがの鈴もそこまで非現実的なことは考えなかっただろう。
 でも、極力同じ立場でありたかった。
 大好きなお兄ちゃんの恭介と同じ話題を共有して、同じ苦しみを分かち合って、同じ経験を身に宿したい。
 それこそが、鈴の考えついた最後の妥協案だった。
 
「鈴は、恭介を置いて一人進学することなんて全然望んでいなかったよ! ずっと二人、一緒がよかったんだ! そんな当たり前なことをどうして一番傍にいた恭介が気づいてやれなかったんだよ!」

 恭介はずっと目を剥いたまま、固まっていた。
 まるで世界の時がすべて止まってしまったかのように、微動だにせず、静かに僕の話に耳を傾けていた。
 けれどその瞳からは、だんだんと混濁とした迷いの奔流は消え去っていき、清々しい輝きが戻ってきた。
 
「え、えう……」

 恭介がゆっくりと視線を移せば、鈴は火を吹くように顔を真っ赤にさせ、俯かせ、口をもごもごとさせていた。
 けれどもう逃げることはなしかった。やはりまだ恭介の答えが気になるのだろう、不安そうに眉を下げ、ちらりちらりと上目遣いでその様子を窺っていた。
 僕の推理は、どうやら当たっていたようだ。
 否定しようとせずに黙ったままでいる鈴を見て、恭介は少し泣きそうに顔を歪めた。哀しそうに目を細めた後、一度目蓋をゆっくりと閉じた。
 今までのやり取りに、流れる星のような思いを抱いているのだろう。そうして今までの間違った態度に思いきり後悔する準備ができると、ゆっくりと中腰になって、鈴と目線を合わせた。
 もう恭介は、鈴を上から見下ろすことはない。
 それも鈴の願いの一つだったのだろう。

「鈴……」
「ん……」

 恭介が静かに微笑んで、鈴は恥ずかしそうに視線を逸らした。
 けれどまた、ゆっくりと顔を戻して、最後に恭介と視線を交わした。

「……ごめんな。鈴の言っていた意味……やっと俺、全部わかったよ。本当に俺ってやつは馬鹿だった……。全部、お前の言うとおりだったな」
「あやまらなくていい……」
「そうか?」

 少し悪戯っぽく恭介が聞き返した。
 鈴はぶすっと口を尖らせながらも、だんだんと嬉しそうに顔をほころばせていき、言った。

「……ゆるしてくれ、も言わなくていい。なにも言わなくていい。結局お前は、あたしの言ってることにずっと気が付かなかった。こうなれたのは、全部理樹のおかげだ」
「……そうだな」

 理樹のおかげ、という言葉に、僕は胸の奥に突き刺さっていた碇がすーっと抜けていくような気がした。
 これでよかったのだろうか。
 少し申し訳なさそうに笑う恭介に、鈴は手を添えた。ゆっくりと背中に手を回して、顔を肩に乗せる。

「……おい、こっちの方、見るなよ」
「見ない見ない」

 涙に滲んだ声でひっそりと注意する鈴に、恭介がおかしそうに笑って、片手を鈴の背中に添えた。
 一瞬びくっ、と震える鈴だったが、そのまま恭介の向こうの景色を見る顔で、「だからな……」と続けた。

「だから……その代わり、あたしのことを許さなくてもいい。むしろ許さんでくれ。ずっと、あたしのことを許さなくてもいいから……だからその代わり、」
「ああ……そうだな。俺のことも許さなくていい。むしろ許すな。俺は、鈴にたくさんひどいことを言った。けれど……それは謝らなくていいんだよな、お前が言うには」
「そう」

 それでいいんだ――と、幸せそうに笑う鈴に、僕も胸の内がぽかぽかとした日だまりのように、ふんわりと温かくなっていくような気がした。
 自身の迷いもすっと消えていくように、鈴は溜息を吐いて、続けた。

「あたしの望んでいた未来も、これだった」
「ん」
「けれど……叶えるのは難しかった。あたしが普通にお前に『お願い』したって、お前はそれを絶対に聞いてはくれなかったろう。お前が自分でちゃんと気づいてくれて、それでやっと意味があった……って思ってたんだ。ずっと望んでいた未来だ……あたしの馬鹿な望みが、望んじゃいけないと思っていた未来が、今、叶ったんだ……」

 目を細めて語る鈴はどこか神秘的で、本当に幸せな光に包まれているように思えた。
 金色に染まった目蓋から涙が一滴だけ、零れる。
 鈴も恐らく、僕や恭介と同様、自分の望んでいた未来の形にどこか羞恥を覚えていたはずだ。
 ずっと理想と現実の挟間で、揺れ続けていたのだ。
 だから鈴は、調査表を最後の最後まで提出したがらなかった。提出することができなかったんだ。
 でも、今なら書けるだろう。
 それは僕も。
 そして当然、この人も――

「鈴」
「なに?」
「俺……大学、行くことにするよ」

 恭介は、静かに言い切った。

「もう間に合わねぇとか、馬鹿だとか、頑張って夢を目指してる奴に失礼だとか、誰かに好き放題言われたっていい。俺は……お前に大学に行ってほしい。純粋に。妹だからとか関係ねえ。そこでもっと自分を磨いてほしい。もっと楽しい未来を、見つけていってほしい。そのために動かなきゃいけねぇのは、他の誰でもない俺だったってことが、わかった……」

 恭介の声にも、若干涙が滲んでいった。
 
「俺も……大学、行くよ。今から全力で勉強して、必ず試験に合格するよ。だからお前も、俺と一緒に大学へ来てくれ。勉強しながら働きまくって、なんとか生活してみるよ。だからお前も……俺と一緒に働いてくれ。俺と一緒に頑張ってくれ。そうすれば、二人一緒にいられるだろう」

 鈴は、今やっと全てのことに救われたかのように、幸せそうに顔をほころばせた。

「しょーがない……あたしも働いてやる」
「ああ……言っておくが、かなりキツくなると思うぜ。箱入りのお嬢様なんかには特にな」
「ふ、ふん。お前のこれからの勉強よりはましじゃ……ぼけ」
「ははっ、その通りだな。じゃあ俺も、浪人しちまわねぇように頑張るよ。応援しててくれ」
「うん……わかった」

 照れくさそうに笑い合う二人を、そっと金色の蜜の輝きが包み込む。
 僕も一緒に甘い蜜のシーツで包み込まれ、刻まれた傷は次第に癒えていった。
 香りのいいそよ風が、未来への道を明るく指し示してくれる。
 想いを最後まで通すことのできた二人に、僕もたくさんの希望をもらえた気がした。
 これで僕の願いは果たされた。
 二人を傷つけて、最後に二人を癒すことができた。
 そこで得られた新たな答えは、僕に未来へ真っ直ぐに進む力を与えてくれるだろう。
 情けない想いを捨てられなくたってよかった。誰にも認められない価値を宝物にしていたってよかった。
 後悔や羞恥と共にあったって、人間はこうやって望んだ未来に向かって歩いてゆける。
 僕も、こんな素晴らしい兄妹と同じように美しくありたいと願った。
 つまり、僕の選んだ未来は――。

 

  

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