僕は、グラウンドの隅で鈴を見つけた。

「……なにようじゃ」
「恭介に会ってください。お代官様」
「……おだいかんはいらん。つか、なんでじゃ」

 鈴が暗い声でぼそぼそと答える。
 鈴の目には明らかに疲労がたまっており、顔は人形のように青白い。斜めに差しかかる逢魔が時のくすんだ赤に、今にも溶けて消えてしまいそうだった。
 
「鈴こそなんでさ。どうして恭介と会おうとしないで、ずっとそうやって辛そうにしてるの?」
「……辛くない」
「どう見たって辛そうだよ。一体いつまでこんなこと続けるのさ?」

 鈴は気怠そうに、視線を斜めに逸らした。
 少し体勢を崩しながら、片足で赤茶けたグラウンドを蹴る。

「あいつがしゅーしょくを決めるまでだ」
「……恭介が、就職を決めるまで……?」

 僕は、ぽかんとしてしまった。
 一体どういうことだろう。恭介が就職先を決めてしまったら、もうなにもかもが終わりになる、ということだろうか?
 しかし、その未来がやって来る可能性は限りなく低いはず。
 なぜなら――。

「でも鈴、そうやって辛そうにしながら、いつやって来るかわからない未来を待つよりは、恭介に素直な気持ちをぶつけちゃった方がいいと思うよ?」
「……」

 鈴が嫌悪感を含ませて僕を睨む。
 その目の鋭さが兄貴とそっくりで、僕は思わずたじろいでしまった。けれどじっと恐怖に耐えて、鈴に優しい微笑みを向ける。
 先ほど僕は、放課後が終わった直後に二木佳奈多さんの教室を訪ねた。
 そこで恭介について詳しい話を聞き、僕は二木さんから重要な答えを得ることができた。

「もしかしたら棗先輩は……まだ今も、大学生というものに未練を抱いているのかもしれないわ」

 二木さんは、この前クドや謙吾たちと楽器屋に買い出しに出かけたとき、「格好が大学生みたい」という感想を聞いて深く考え込む恭介を見たのだと言う。
 そのときはただ、進まなかった道へのちょっとした未練を抱いているのかと二木さんは考えたが、その後も順調に就職面接をハズしていく恭介を見て、もしや……と心配になってしまったらしい。

「でも棗先輩は今まで、就職という道をずっと選び続けてきたのよ。誰かに強制されたわけでもない。外野の私たちが今さらそこに口を挟むなんて、ただのお節介に過ぎないし、棗先輩への侮辱になるわ。自己責任という言葉もあるし、私は今のが正しいとも思う。けれど……」

 そこからは二木さんも、僕と同意見のようだった。
 曰く、自分の気持ちをずっと押し殺し続けてきた結果の選択だったら、それをどこかで解放してやらなくちゃならないとのこと。
 もしそれが為されないままだったら、恭介はこの先必ずダメになってしまうとのこと。
 しっかりとした職に就けず、望みも枯れ果て、プライドも消え去り、生きているのかも死んでいるのかもわからない状態になる。
 だったら僕も同じ未来を歩むのだろうかと考えたら、ぞっとした。
 二木さんは、恭介を引っぱたいてでも気持ちを白状させたいと言っていたが、僕は丁重に遠慮しておいた。
 僕が一人でこの件を勝手に調べた、ということにしておきたかった。

「どう、鈴?」
「……」

 そして、今。
 僕は野球の帰りに、一人で途方に暮れていた鈴に話しかけていた。
 鈴は顔を怪訝そうにしかめ、無言で僕を睨み続けている。
 あるいはそれは、僕と重なっている恭介の姿を見ているのかもしれない。
 乾いた風があたりに吹いて、頭の鈴がちりんと鳴った。

「あたしは、むかつくんじゃ」

 鈴がゆっくりと口を開く。

「どうして、あいつはあたしに会いに来ないんだ。どうしてあたしを説得しに来ないんじゃ。……どーせきょーすけは、あたしのことなんかどうでもいいって思ってるんだろう。だから……むかつくんじゃ。言いたいことも言えないし、ぶっ飛ばすこともできない。逃げたままだ」

 鈴は悔しそうに顔を俯けて、拳をぎゅっと握りしめた。
 僕は鈴の体に触れないままで、話を続けた。

「恭介は、鈴のことをどうでもいいだなんて思ってないよ。ずっと大切にしてるよ。今は、就職活動で忙しいから会えないだけなんだよ」
「……。だったら、あたしはどうすればいいんだ……」
「会えばいいんだよ。勇気を出して、自分から会いに行くんだよ。僕も一緒に付いていくから」

 鈴は顔を上げて、僕の方をそっと見た。
 透き通った瞳だった。
 哀しみに揺らいではいるが、ちゃんと芯が一本通った綺麗な瞳だ。
 僕は、鈴の手をそっと握った。

「鈴。僕と一緒に恭介に会いに行こう。そこで言いたいことを言って、聞きたいことを聞いてみよう。落ち着いて話せば……きっと恭介もわかってくれるよ」
「……」

 鈴はまだ少し迷うようだったが、

「……うん」

 ゆっくりと小さな声で、頷いた。
 暗赤色の夕焼けが、だんだんと藍に沈んでいった。

 
 

 

 
 正しいことは何もない。
 呪文のようにそんな言葉を吐き出して、どれだけの日々が経っただろう。
 この世は間違っていることだらけだった。
 それは俺自身も――。
 そうやって間違っていることを自分自身で認めて、なにかに救いを求めるようになったのはいつからだろう。
 自分自身がもう、なにを望んでいるのかもわからない。
 まるでふわふわと宙に浮かんでいるかのようだ。
 ああ――。

 帰り道は、どこだったろう。

 

 

 

 

 ルームメイトさんも、恭介の様子がだんだんとおかしくなってきているのをなんとなく察知していたみたいだった。
 恭介はここ一週間くらい前からだんだんと様子が変になってきていて、昨日僕と一緒に帰ってきてからは加速度的にその傾向が強くなったらしい。
 なにやら凄くやつれているようで、ここじゃ勉強が集中できないから自習室に行ってくると言って、ルームメイトさんは部屋を出ていった。

「……忙しいんだよ。今から履歴書を書かなきゃいけねえ。何枚も」
「恭介。鈴だよ。鈴が来たんだよ。久しぶりに」
「見りゃわかる……でも忙しいんだ。明日には必ず就職先を決めてくるから、次の日にってことにはならないか」
「ならないよ。それじゃもう遅いんだ。ほら……鈴」

 僕は背中に隠れていた鈴を前に押しやって、恭介の目の前に立たせる。
 恭介は椅子の背もたれに寄りかかった状態で、横目でちらりと鈴を見やった。
 口元に薄い笑みを浮かべている。

「……ひでぇ顔だな。ちゃんと睡眠取ってんのか?」
「お前にはかんけーない」
「はっ……」

 らしくなく鈴に冷笑を浴びせると、恭介はまた机に向かってゆっくりと作業を開始した。
 数秒の沈黙が訪れた後、机に向かったままの恭介が再び口を開く。

「進学先は決めてくれたか?」
「べつに決めてない」
「そっか。早く決めろよ」

 言って、また沈黙。
 そんなとぎれとぎれの会話を聞きながら、僕は胸が痛みで押しつぶされそうになっていた。
 なんて、味気のないやり取りなんだ。
 本当にこれが、あの棗兄妹なのだろうか。
 僕や鈴が現れるとあんなに嬉しそうにはしゃぎ回っていた恭介は、一体どこに行ってしまったんだ。
 甘い計算で、鈴と二人で説得すればなんとかなるなどと考えていた過去の自分を、僕はここで思いっきり殴りつけてやりたい気持ちになった。
 
「なぁ……」

 そんなとき、今度は鈴の方から口を開いた。

「どうした?」
「あたしが就職したいって言ったら、お前はどーする?」
「止めるさ」

 まったくの、即答だった。
 こちらを振り返ることもなく、順調に作業を続けながら、恭介は冷淡に言い放った。
 その有無を言わせない無感情な口調は、まるでロボットが当たり前のごとく義務を遂行しているように思わせた。

「じゃあお前は、大学へ行くのか?」
「行かねえ」
「……っ」

 ぎりっ、と歯を強く噛みしめる音が聞こえてきた。
 見れば鈴は、歯を剥き出しにして、小さく体を震わせていた。真っ白になるくらいに手を強く握りしめていた。
 僕はこの時に、自分が完全に失敗してしまったのだと、はっきり悟ることができた。
 今にも恭介に飛びかかってしまいそうになる身体を精一杯押しとどめて、鈴は気持ちを押し殺しきった声で言葉をついでいった。

「いつもそーだ……お前は」
「ん?」

 怒気を滲ませた低く呻くような声に、恭介はここで初めて鈴の変化に気がついたようだった。
 顔をこちらに向けて、そっと眉をひそめた。

「お前はいつも、あたしのことなんかこれっぽっちも考えてないんだ……。お前が大事にしてるのは、いつもお前自身だ」
「は? おいおい……なに言ってるんだよ、鈴」

 恭介は首をすくめて、おかしそうに笑った。僕はそんな恭介を見て、胸が詰まりそうな気持ちになった。

「そんな勘違いするなんて酷いぜ。全部お前のためさ、鈴」

 痛々しげな色が恭介の瞳に浮かんだ後、ベッドに置いてあった茶色の枕が、高速で恭介の顔へと飛んでいった。
 恭介はそれを最初から予測していたのか、特に驚きもせず、真正面から飛んできた枕を受ける。
 一瞬、なにが起きたのかわからなくって、僕の身体はまったく動かなかった。

「ふっざけんなっっっ! この馬鹿兄貴っ! どこがあたしのためじゃ! 勘違いしてんのは全部お前の方じゃっ!」
「ちょ、ちょっと鈴!?」

 僕が慌てて止めにかかっても、鈴は物を投げるのを止めなかった。手近に置かれてあった漫画や教科書を掴んで、次々と恭介に投げつける。
 そのはずみで、恭介の机に積み上がっていた書類の山がドサドサと雪崩のように崩れ落ちた。
 恭介は、動かないままだった。

「そんなんであたしが嬉しがるとでも思っとんのかっ!? お前に感謝して『ありがとう』とでも言うかと思ってんのかっっ!? このクソ馬鹿兄貴! おっ、お前が大事にしてるのは、いつも『あたしに優しい』お前自身だろうがっ! そうやってお前自身のためにあたしに無理やりわけわからんこと押しつけて、その裏で一人で満足してんだっっ! あたしの気持ちなんかこれっぽっちも考えてないんだっっっ!」
「り、鈴っ! ちょっと!? ダメだよ!?」
「うっさぁ――――――いっ! 離せ、この馬鹿!」

 部屋の埃と一緒に、涙の粒が舞っていた。
 鬼のように顔を真っ赤にさせ、鈴は泣き叫んでいた。
 それはまるで、恋人に裏切られた一人の儚い女のように。
 それでも果てることのない想いを、物に込めて投げつけるかのように。
 僕が押さえつける腕からも、震えと共に、怒りと絶望がありありと伝わってきた。

「そ、そういうところがむかつくんじゃっっ! このかっこつけ馬鹿! あっ、あたしの考えてることなんて、お前にはこれっぽっちもわからんだろう! わからんだろうなお前には! だから許せないんじゃっっ!」
「鈴! も、もう止めてよ! 言ってくることがめちゃくちゃだよ!?」

 敵意剥き出しで暴れまくる鈴を、僕は羽交い締めにして全力で押さえつける。
 もう鈴がなにを言ってるのかもわからない。
 なにを望んでいるのかもわからない。
 鈴は、ただ恭介の幸せを望んでいたんじゃないのか? そしてその延長で、自分のことを一人前として認めてくれない恭介に苛立っていただけじゃないのか?
 ただ恭介に、大学に行ってくれって……一言口にするだけでよかったんじゃなかったのか!?
 だったら、なんでこんなことをしなくちゃいけないんだ!
 どうしてこの二人は、結局こんなふうになっちゃうんだ! もう僕にも、わけがわからない! 
 
「……ってんだよ」
「え?」

 ぱらぱらと埃が舞い散る部屋の中で、恭介がぽそりと呟いた。
 声が掠れていてよく聞き取れず、僕が思わず恭介に聞き返すと、恭介はゆらりと立ち上がって、次の瞬間――。
 辞書を取る鈴の腕に、勢いよく掴みかかっていた。

「じゃあどうしろってんだよっっ! 俺は、お前の考えてることなんて全然わかんねぇよっ! だったらこっちで勝手にやるしかねぇだろう!」

 稲妻のような大声と、こちらも鬼のごとき恐ろしい形相に、鈴はすくみ上がるように体を縮ませながらも、精一杯反論する。

「ひっ――だ、だからっ、だからお前は馬鹿だって言うんだ! あたしはどうしてくれとも言ってない! わ、わけわかんないなら全部お前で考えろ、あほっ!」
「はぁ!? わけがわからねえ! 一体どうしてぇんだよお前はっ! 俺が大学に行きゃあそれでいいのか!?」

 言って恭介は、掴んだ鈴の腕をぶん投げるように振り切った。
 体勢を崩し、壁に衝突しそうになった鈴を、僕が回り込んで精一杯受け止める。
 背中に壁が思いっきり当たる。痛い。
 ま……まさか、恭介が鈴にこんなことするなんて……僕は、完全に道を間違えてしまったのか!?
 
「もう無理なんだよっ! 今を何月だと思ってんだ!? もう三年の十一月だ! 受験勉強なんてほとんどやってねぇ! 余った時間なんて、全部お前らとの遊びの時間に費やしちまった! こんな俺が今さら大学になんか行けるわけねぇだろ!」

 ずっと恭介がため込んできた感情が、ここにきて嵐のように吹き荒れていた。
 顔を真っ赤にして声を張り上げる恭介の、涙混じりの感情の奔流に吹き飛ばされそうになる。
 鈴が怖がるように身を竦め、僕は後ろから鈴を包み込むように抱きしめていた。
 恭介は辛そうに顔を歪め、続けていった。

「もっと現実を見ろよ! 金がねぇんだよ! そもそも、高卒で働き出すのはそんなにおかしいことかよ!? 大学に行かねぇってのはそんなにおかしいことか!? 夢の一つや二つ捨て切れないで、なにが大人だよ! 俺はそんなに子供じゃねぇんだ! てめぇらと一緒にすんな!」
「ち、ちがっ……!」
「なにが違ぇってんだ! ……ああ、そうだよ! これがバレちまったら、お前らは必ず俺を説得に来るってわかってたよ! 俺だって、もっと金に余裕があれば……もっと俺が利口な人間だったら! 望んでたよ! んなの当たり前だろ! 悪ぃか! でも……でも、もう無理なんだよっ! 夢はもうゴミ箱に捨てちまった! もう取り戻せねぇんだよっっ!」

 恭介の仮面はこれで全て剥がれ落ちた。けれどそれは、最悪の形で、だった。
 恭介の顔は涙で赤く染まっていた。
 あの時と同じように、自分の取り戻せない過去への悲しみに切り刻まれて、恭介は泣いていた。
 突然、不意に昼間の笹瀬川さんの忠告が頭をよぎる。
 もう、この件にはこれ以上の希望はない。
 二人の願いは、平行線のままに終わる。
 そうか。
 僕は。
 一体、なんてことをしてしまった……。

「ち、違う!」

 縮こまっていた鈴が、僕の腕の中で力一杯叫んだ。

「そうじゃない! あたしが言ってるのは、そういう意味じゃないっ! 違うんだ! な、なんでわからないんじゃ、お前はっ!」
「わかんねぇよっ! もうお前の考えてることなんか、全然わかんねぇよ! ……くっそ……俺だって、もう就職活動なんか行きたくねぇのに……。行く資格なんか、あるわけ、ねぇのに……! こんな馬鹿な俺を取ってくれる会社なんか、この世のどこにもあるわけねえのに! それでも行かなきゃいけない俺の気持ちがわかるかっ!? 俺だって、もっと気が済むまで遊んでいてぇよっ! けれど、俺はただ、お前に楽をしてほしくて……バイトなんかしねぇで、奨学金も取らなくていいから……学びたいことを学んで、したいことをして、遊びたいだけ遊んで、自由に過ごしていってほしかったんだ! なのにお前にこんなに罵られなくちゃいけねぇ俺の気持ちがわかるかっっ!?」

 恭介の魂の慟哭は、僕の胸をも例外なく突き破っていった。
 恭介の気持ちは、ある意味では僕の予想通りだった。
 けれど、まさかここまでだとは思ってもいなかった。
 なんてことをしてしまったんだろう……。
 鈴が震えている。僕の腕の中で。
 鈴の口から、久しく聞いたことがなかった嗚咽が、涙の雫のように、零れた。

「ち、違う……! そうじゃない……あたしが、言いたいのは、そーゆーことじゃ、ない……そうじゃないんじゃぁ……っ。なんで……なんで、わかってくれないの、きょーすけ……」

 僕の制服の裾に、しとしとと涙の雨が落ちていった。
 ひっく、ひっく、としゃくり上げる鈴の声に、僕も恭介も、体中の筋肉が弛緩してしまったみたいに、動けなくなってしまった。
 恭介が、どさっと床にへたり込む。
 その顔からはだんだんと怒気が消え、覇気が消え、なにもかもが消えて、恭介は目を伏せて、ぼーっとした顔で、涙を一滴だけ零した。
 僕は、恭介のことを殴れなかった。
 殴ってやりたいのは、むしろ自分の方だった。
 いっそここから、消えてなくなってしまいたかった。
 僕のような存在がいなければ。
 真実を暴き出そうとする、こんな馬鹿な狼藉者がいなければ。
 二人はここまで傷つかなかった。
 治るまで傍に居る……だなんて、なんて甘っちょろいことを考えていたんだ僕は。
 これで二人に、一生治らないかもしれない傷をつけてしまった。
 この僕が。
 この、二人の親友『だった』、僕が。
 どうやって……この傷を治せと言うんだ……。
 僕の、大馬鹿野郎。
 ああ僕は、本当に最低なことをした。

 

 

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