あれから数日が経っていた。
 恭介はほとんど寮に帰ってきていない。 
 きっと就職活動の方で忙しいのだろう、寮に帰ってきてもすぐに寝てしまうか、自分の部屋で明日の計画を立てたりなど必死な様子だった。
 僕と恭介はあれから、ずっと携帯のメールでやり取りをしている。主に鈴のことだったり、進路先の相談であったり、就職活動の愚痴だったりなど様々だ。布団の中に入って長いメールを打つのにも慣れた。
 そんなときは大体『理樹と鈴に会えなくて寂しいぜ……ヨヨヨ(T_T) あ、ちゃんと写真は財布にしまってあるからな! いつも見てるぜ!』などというお決まりの文句によって会話を締めるのだが、その割に恭介は鈴とメールのやり取りをしてないらしく、寂しいながらもなんだかおっかなくて出来ない状態なのだということだった。
 実の兄がそんな体たらくだから鈴も怒るんじゃないか、と僕は突っこみたくなったが、こんな恭介に頼られているなんていう希有な状況を前にして、僕も少し恭介への同情心が沸いたみたいだ。あれからずっと、恭介と鈴の仲の取り持ちをしている。
 もちろん回復の兆しは一向に見られない。鈴は自ら話を聞きに行こうとする気はないみたいだし、忙しいのを理由にして自分の前に姿を現わそうとしない恭介に、かなりむかっ腹を立てているみたいだった。
 けれど、その鈴もここ数日、なんだかとてもやつれてしまっているように見える。葉留佳さんや来ヶ谷さん、笹瀬川さんにところどころで突っつき回されても、気のない返事ばかりで、一人の時も教室などで考え込むことが多くなった。
 もしかしたら恭介に会えなくて寂しがっているだけかもしれないが、正確なことは僕にもわからない。
 そんなことよりも僕は僕自身でも考えることがたくさんあって、けれどそちらも同じように打開の兆しが一向に見えないのだった。
 最後のHRが終わり、僕が立ち上がって一旦部室に行こうと歩きかけたとき、唐突に担任の先生に呼び止められた。

「おーい直枝、棗。悪いが、この後でちょっと話がある。鞄を持って生徒指導室に来てくれ」

 ついに、来た。
 鈴の方にそっと視線を送ると、本人はぼんやりとした表情で先生の姿を見すえていて、こくんと一度だけ頷いた。
 そして僕もそれに従って、はい、と小さく返事を返すことにした。

「頼んだぞ。別になにか罰を与えるとかいうわけじゃないからな。怖がることはない。ちゃんと来てくれよ? こんなときに限って、逃げ出す奴が多いからな……」

 先生はそう言って、分厚いバインダーを持って教室を出て行った。
 確かに罰を与えるつもりなどないのだろうが、説教を下すつもりはあるのだろう。僕らがしているのはそういうことだ。
 教室の外へと伸びかけた足を戻して、僕は真人のところへ歩いて行った。

「ごめん。今日はちょっと先にグラウンド行ってて。用事済ましたらすぐに行くから」

 力ない声で真人に伝える。
 僕が呼び出された原因もすでに知っているのだろう、真人は逆になにも言わずに、「おーう」と気の良い返事をしてくれた。
 心配そうな視線を送ってくるクドや小毬さんに曖昧な笑みを返して、僕は遠くにいる鈴にそっと目配せをする。
 鈴はぶっきらぼうな態度で鞄を持って立ち上がり、一緒に夕陽が差し込む廊下へと出た。

「……」
「……」

 会話はない。
 HRが終わった直後だからか、熱が溶け出したような色の廊下は慌ただしい活気に満ちており、たとえ僕がここでなにかを言おうとしても、この騒然とした空気に押しつぶされ、宙にかき消えてしまったことだろう。
 開いた窓から入り込んだひんやりとした涼風が、どうしてか僕の中にわき起こってくる熱気を冷ましてしまい、不思議と僕の歩く速度はゆったりとなった。
 鈴もそれに合わせて、ぼんやりと僕の隣を歩いていく。
 生徒指導室は、校舎の一階の外れにあった。

「……失礼します」

 鍵は開いていた。僕はそう小さくつぶやいて、引き戸の古くさい扉を開く。
 その指導室の中には、さっきの担任の先生がいた。
 くすんだ木のテーブルの前に腰掛けて、こちらを横目で見るなり、柔らかく微笑んだ。

「おう、ちゃんと来たな。まあお前らは比較的真面目な方だから、心配はしてなかったが。まあ座ってくれ」

 はい、と短く返事をして、僕は先生の正面にある椅子へと腰掛けた。
 鈴も無言のまま、それに続く。
 生徒指導室は、実際あんまり使われることのない部屋だ。奥に並んだ資料の背表紙などはどれも色褪せていて、部屋全体もどこか埃くさかった。

「さて……と。今日の話はわかってると思うが、お前らがまだ出してない進路調査表の件についてだ。……一体どうしたんだ、二人とも。お前らはいつも井ノ原とかと比べたらずいぶん真面目な方じゃないか。なのに、今回はどうしてこんなに提出を渋ったりしてるんだ?」

 少し不審がるような声に、僕は机の上に置かれた調査表へと目を落とす。
 もう調査表を提出していないのは、クラスの中で僕と鈴だけになっていた。
 あの真人でさえも、さんざん頭を悩ましたあげく、結局は大学進学という道を選んだ。もちろん合格する見込みなんてほとんどないが、本人曰く、やるだけやってみるということだった。
 鈴は劇のセリフを棒読みするように、淡々と答えた。

「あたしはまだ考えちゅーだから、しょーがないんです」
「そうは言ってもな……もう一週間経つぞ。親御さんたちともちゃんと話したんだろう? 直枝も、後見人のおじさんからちゃんと許可は得てるんだろうに」
「……はい」

 目を伏せて答える。
 後見人のおじさんの返事はただ一言、「大学に行ってほしい」ということだった。
 けれど僕はそんなおじさん一言に対して、なにも大した言葉を返すことができなかった。
 結局僕自身は、どこにも行こうとしていない。
 大学を目指す資格なんて、きっと今の僕にはないのかもしれない。
 
「はぁ……一体なにをそんなに迷ってるんだ。先生に話してみろ、力になれるかもしれん」

 先生が落ち着いた声で話しかけてくる。
 けれど僕は黙って俯き、隣の鈴はぷるぷると首を横に振るだけだった。

「迷ってることなんてない……けど、あたしはやっぱりまだ考えちゅーなんです」
「お前なぁ……」

 テーブルに肘をついて、苛立つように頭を押さえる。
 窓から夕陽の光が入り込まないせいで、この部屋はどこか薄暗く、隣に座っている鈴の表情もうまく読みとれない。
 けれどその声色からは、本当に鈴には迷いなどないように思えた。
 まるでこれこそが自分自身で決めた選択なんだとでも言うかのように、その声は凛然とした響きを携えていた。
 けれど、なんだろう。
 もう擦れきってしまって目立たなくなった不安というか、どうにもならないでぐつぐつと煮えたぎっている不安定な気持ちを冷やして固めて彫像に仕立て上げてしまったような、そんな真っ暗な違和感が、鈴の声からは感じ取れた。
 この鈴は、本当に僕らの知ってる鈴なのだろうか?

「直枝の方は、どうだ?」
「えっ」

 唐突にターゲットを変えられ、言葉に詰まる。
 
「迷っていることとか、直枝の方にもあるんじゃないか? 先生に話すことができないようなことだったら、別に譬えでも構わんぞ。話してみろ」

 ぶっきらぼうな言い回しだったが、先生は優しい眼差しを向けていてくれた。
 けれど僕は、それでも首を横に振らざるを得なかった。

「……いいんです。僕が迷っているのは、全部僕の弱さのせいだから……それはいつか、僕自身でどうにかしなきゃいけないことなんです」
「はぁ……ったく、なんでお前らはいっつもこう……」

 先生が苛立たしげに溜息を吐いて、こめかみを押さえた。
 馬鹿な子供だと思われただろうが、やっぱり先生にそのまま話すことはできなかった。
 正直に打ち明けたって、ただ自分が恥をかくだけだ。
 自分の惨めさや情けなさの故に、大学にも就職にも向かう気概を持てないなんて、笑い話にもならない。
 僕にとって一番大事なことは、まさしく今この瞬間であって、未来ではない。
 けれど、そんな考えが通用しないことぐらい、ちゃんとわかってる。
 だから僕はきっと、だんだんと失われていく幸せな現在を目の当たりにして、少しショックを受けてしまっただけなのだと思う。
 ずっと前から覚悟していたことだったのに、実際にその光景を体験してみたら、また違った衝撃の波が待ち受けていた。
 それに、あの恭介の哀しげな顔と、鈴のここ最近のおかしな様子。
 僕はもうちょっと、彼らに関わってみたいと思うようになっていた。

「ひょっとして金の心配をしてるのか? だったら大丈夫だぞ。経済的に貧しい学生にはちゃんと機構から奨学金が出るし、働きながら必死に勉強している学生だってたくさんいるんだ。先生も昔そうだった。毎晩塾や居酒屋のバイトをしながら、必死にボロアパートの家賃を払ったり、バカ高い大学の授業料を納めたりしていたんだ。みんなそうして必死に頑張ってるんだ。金がないからって就職に逃げるのは、正直言ってすごく勿体ないことだと思うぞ。あの三年の棗恭介だってそうだった。あいつも昔、進学する金がないとか言い出して、進学から就職に転向することになったんだ。先生は何度も説得したんだが、どうしても聞かなくってな――」

 けれどその刹那、心臓が凍った気がした。
 弾けるように顔を上げ、先生の顔を見つめる。
 今……一体なにを言ったんだこの人は? なにか、とんでもないことを口走った気がするぞ。

「って、ど、どうした二人とも。急にこっちの顔を見て。なんか気になることでもあったのか?」
「……あの、先生。今ちょっとよく聞こえなかったんですが、もう一度言ってくれますか?」
「ん? 先生が何度もあいつを説得したってところか?」
「そうじゃなくてっ。もーちょっと……もーちょっと前のところですっ。先生は、さっきなんて……」
「んん? だから、そこの棗のお兄ちゃんの恭介が、昔金がないっていう理由で進学を諦めたってことだ。二年の初めにな。その時も進路相談は先生が担当していたんだが……」

 僕は、心臓を銃でぶち抜かれたような気持ちになった。
 まさか。
 あの恭介が、昔進学を諦めていただって? 
 そんな馬鹿な!
 そんな、そんな事実、今まで全然知らなかったぞ僕は! 

「恭介は、最初から就職を希望していたんじゃなかったんですか!?」
「んむ? そうだが……まさか直枝、知らなかったのか? その通りだぞ。この学校に入ってきたんだから、むしろそれが当たり前だろう。あいつも最初はバリバリの模範生徒だったんだ。その時はリトルバスターズなんていう集団もまだなかったんで、こっちも楽だった……。あいつは生徒会役員にも選挙で当選して、一年の統一模試では全国トップクラスになるほどの優秀なやつだったからな。正直、こいつはこのまま行けば東大にでも行ってしまうんじゃないかって期待してたんだが……二年の初め、ちょうどお前らが入学したての頃になるかな。急に先生のところに来て、やっぱり進学は止めますって言い出したんだ。うちには金がないから、っていう理由だった」

 僕は、その滔々と語られる衝撃の真実を、まるで壊れたブリキ人形のように呆けた表情のまま、耳にしていた。
 一体なんなんだ、その話は。
 あの恭介が、お金がないから進学を諦めただって?
 そんなこと、僕はあの恭介から、一度も聞かされたことがなかった!
 恭介はずっと、最初から就職一本だと思ってたのに!

「まさか……お前らまで就職を希望するつもりか? 先生はあまりお勧めしないぞ。そうだ、特に棗。お前は、こうやって兄貴にちゃんと金を残してもらったんじゃないか。お前が仮にここで就職を選んでしまえば、あいつの気持ちを全部無駄にしてしまうことになるんだぞ?」

 先生が低い声で、少し咎めるように言う。
 そうだ……鈴はこの話を聞いて、一体どんな気持ちになったんだろう。
 恭介の真意を耳にして、どんな想いを抱いたんだろう。
 もしかして、最近の鈴の沈んだ様子は、このことをなんとなく予想していたからだったのだろうか。
 それとも鈴は、もしくは最初からこの恭介の秘密を知っていたのだろうか。
 どうなんだ、鈴……。
 
「あたしは……」

 鈴は顔を俯け、唸るような低い声で、言った。
 
「あたしは……そんなの知りません。それは、あの馬鹿が勝手にやったことです」

 その意外すぎる落ち着いた声に、僕は自分の予想が当たった気がした。

「っ……お前な……」

 先生の咎める声が、一段と大きく膨らんだ。鈴の自分勝手な物言いに激しい憤りを覚えたんだろう。
 けれど鈴は臆せずに顔を上げて、虎のように激しく睨み付けると、威嚇するみたいに鋭く言い放った。

「そんなの、あたしが頼んだんじゃありません。あいつが勝手にやったんです。あたしは……あ、あたしの、気持ちだって……、ちゃ、ちゃんとあるんだ! そんなのっ、全然知らんわっ! なんで、あたしの未来を誰かに勝手に決められなきゃいけないんじゃ! そーゆーの、もうっっ、たっくさんなんじゃっ! あたしは、あたしなんだっ! 全部あたしが決めるんじゃ! 誰にも、あたしの人生を決めさせないんじゃっっ!」

 鈴は思いっきり椅子を蹴っ飛ばして立ち上がり、暴れるようにテーブルをどかして部屋から飛び出していってしまった。
 僕は慌ててそれを追いかけようとしたが、先生にがしっと腕を掴まれ、動けなかった。
 振りほどくことはできなかった。振りほどいてしまったら、もうこの人に僕たちの選択を待ってもらえない。
 仕方なしに僕は急いで携帯で真人に連絡し、鈴のことをみんなに探してもらうように伝えた。
 恭介のことは……伝えないでおいた。
 今はもっとこの先生に詳しい話を聞きたくて、僕は再び席へ戻ることにした。
 けれど、その先に待っていたのはさらなる後悔の闇だけでしかなかった。
 僕は、恭介のことをなんにも知らなかった。
 どうして恭介は就職を選んだのか。
 どうして恭介は進学という道を諦めたのか。
 どうして恭介は生徒会を辞めることになったのか。
 どんな気持ちで恭介はみんなと笑っていたのか。
 そんなこと、僕は今までこれっぽっちも不思議に思わなかったし、知ろうともしなかった。
 僕は最低の大馬鹿野郎だった。

 

 

 

 

 何故、恭介は就職を選んだのか。
 なにも言わないままで、僕たちと笑って遊び続けたのか。
 僕は知らなければならない。

 

 

 

 
 その日の夜、僕は恭介の部屋を訪ねた。
 扉をノックして少し待つと、ルームメイトの人が出てきてくれた。
 恭介の方はいつもと変わらずに明日の準備をしていたらしく、けれど僕が直接会いに来たとわかると、嬉しそうに部屋の外へ飛び出してきてくれた。
 ルームメイトの人は現在勉強を頑張っているとのことだったので、僕らはうるさくならないように寮の外まで出て話をすることにした。
 人気のない裏庭にまでやってくる。
 なんだか、懐かしい風が不気味にそよいでいる気がした。

「で、どうしたよ? わざわざこんな人気のないところまで連れてきて。……ま、まさか……お前もついに、西園の毒電波にかかっちまったのか……? おっ、俺は嫌だぞ? 俺はまともなんだからな! 俺は、ちゃんと女の子が大好きな、普通の――」
「違うから。あ、怪しい想像しないでよ、この馬鹿恭介! 僕も普通の男の子だよ! こんなところ連れてきたって、僕はなにもしないよ!」
「ほ、ほんとか……?」

 身を引いたまま、おずおずとこちらに近づいてくる。
 取りあえず僕に害意がないことがわかると、一転して安心の溜息を吐き出し、額の汗をぬぐった。

「ひゅう……そっか、悪い。ちょっとびびっちまったぜ……こういうの、漫画じゃよくある状況だからよ、思わずここでいきなり理樹に抱きしめられて、潤んだ瞳で告白されるシーンまで想像しちまったぜ」
「いやいやいや、男同士のくせにそこまで妄想できる恭介の方が絶対異常と思うよ……」

 恭介は一体僕のことをどういった存在として扱っているのか、甚だ問いつめたくなるような妄想だった。

「そうじゃなくってね……僕は、ちょっと恭介に聞いてみたいことがあったんだよ。メールじゃなくって、こうやって実際に会ってみてね」
「ん? ほんとか? なんだよ理樹……いつになく真剣だな。……いいぜ。俺に答えられることだったら、できる限りの範囲で答えるよ」

 恭介は笑顔を消し、引き締まった顔でこちらを見つめた。
 けれどその口元にはまだ僅かな笑みが残っており、どちらかと言えば、僕が恭介に真実を問いただすというより、恭介が僕の抱えている悩みを聞いてあげるという体裁に近い状態だった。
 この恭介との関係を一旦壊さなければならないことに、僕は心臓を荒縄で縛り付けられるような心地になったが、どうにかして精一杯勇気を振り絞って、口から声を出していく。
 僕はきっと、このことを知ろうとしなければ、前へ進むことができない。

「恭介は……最初、就職希望じゃなかったんだよね」

 恭介の目が驚きで見開かれた。僕は構わず続けた。

「恭介は、本当は進学を希望していたんだよね……有名な国立理系大学に行けるほどの実力で、全国統一模試でもトップだった。生徒会にも入っていて、副会長を務めていたりもした。きっと将来はすごい人物になるだろうって、周りの先生たちからも期待されていた」

 矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。
 恭介が生徒会に入っていたという話は以前から聞いていた。本人が言うには、生徒会の権限を使って散々馬鹿な遊びをやり尽くしたあげく、結局最後にはリコールを食らったのだと。
 けれど、その真実は全然違っていたし、恭介が副会長だったという話も初耳だった。
 なのに、恭介は――。

「ねぇ……どうしてなの、恭介? どうして諦めちゃったの? どうして、全部捨てちゃったの? どうして僕らになにも教えてくれなかったの? 周りの情報をうまく操作して……最初から就職一本で行っているように見せかけて……どうしてそこまでしたの? なにが……恭介をそこまで追いつめちゃったの? よければ……僕に教えてくれないかな」

 恭介は眉間に皺を寄せ、低い声で答えた。

「誰に……聞いたんだ?」

 恐ろしい黒影のような声に、僕は思わず息を飲む。

「僕らの……担任の先生だよ。知ってるでしょ? 恭介の進路相談を受けてくれた人」
「あいつか……」

 恭介は憎々しげな声で低く唸った後、頭を押さえた。
 僕は、その久しく聞くことがなかった恭介の暗い声に、内心震えていた。
 怖い……。

「……で? あいつになんて言われたんだ?」

 今度の恭介の声は氷柱のように冷たく研ぎ澄まされ、まるでその先端で僕の胸を貫くようだった。
 僕は胃が縮むような思いをしながら、精一杯虚勢を張って答える。

「今、言ったとおりだよ。恭介は……最初から就職を希望していたわけじゃなかったんだって。進学を諦めた理由は、ただ進学するお金がなかったからだって」

 僕は背中に降りかかりそうになる闇を精一杯振り払うように、一気に言葉をまくしたてた。

「ねえ、そんなのっておかしいよ! 恭介だったらちゃんと機構から奨学金は出たと思うし、バイトとかして、安いアパートとかで我慢すれば、ちゃんと学生としてやっていけるって先生が言ってたよ! そんな、鈴のために恭介が我慢することなんてないんだよ! そんなの、鈴だって絶対望んでないよ!」

 僕は言いながら、先ほどの鈴の暴れた様子のことを思い出した。
 鈴だって、きっと恭介にそんなことされて、とても苦しい思いをしたはずだ。
 未来を誰かに縛られて、選択する権利さえも剥奪されて、無理やり人生のレールを敷かれて――。
 あの時、とっさに大声を出して部屋を出て行ってしまったのもわかる。
 恭介に決して悪気はなかったんだろうけど、その選んだ選択肢は間違っていた。
 今からでも遅くはない。恭介は就職を止めて、今から進学を目指すべきだ!

「はぁ……ったく、よ」

 けれど恭介は舌打ちをして、頭をかいた後、

「熱くなりすぎだ、理樹。もうちょっと冷静になれ。お前はそいつに騙されてる」

 そんなことを言い出すのだった。
 僕は体の芯から灼かれるような気持ちになって、恭介のことを思いっきり睨み付けた。

「おいおい怖いな……大丈夫だよ、ちゃんとお前の質問には答える。……で、なんだったけか」

 そんな白々しいセリフを吐いて、恭介は視線を宙に投げた。
 冷たい夜風が僕の方から恭介の方へと流れていき、その前髪がさわさわと揺れた。

「そうか、大学のことだったな。……まず初めに、お前はいくつも勘違いをしているということを伝えておく、理樹。騙されてんだ。この学校の教師ってのはつくつく自分勝手なもんで、とにかく生徒を大学に入れさえすれば、それだけ自分の点数になるって考えてんだ。輝かしい未来や無限の可能性が待っているとか適当なこと抜かして、結局は自分のことしか考えてねぇ奴らばかりなんだよ」

 それは恭介のことじゃないのか、と僕は思わず口にしてしまいそうになったが、止めておいた。
 もしかしたら、自分勝手な周囲の期待に苦しんでいたのは、恭介も同じだったのかもしれない。

「人生はそんなに楽じゃないぜ。金っていうのは、時としてこの世で最も大きな壁になる。どうにもならねぇことだって……あるんだよ。奨学金をもらえれば大学に行けるのか? バイトで稼げば、そいつはそれだけで学生をやってられるのか? ……ちげぇだろうがよ。そんなのは所詮、いいとこのお坊っちゃんが言う理屈に過ぎねぇのさ」

 重い現実を語る恭介の顔には、セリフを連ねる度にだんだんと険しい色が付け足されていった。
 恭介は、先生のことを憎んでいるのか、うらやんでいるのか……最後の言葉を吐き捨てるように言った。
 さっきまでの明るい恭介は、一体どこに行ってしまったんだ。

「もう一つある。俺は別に、金がないからっていう理由だけで進学の道を捨てたわけじゃない。そんなの、周りの説得を回避するための方便さ。決まってるだろ? 金がないって言っておけば、もう誰も文句を言ってこないからな」

 恭介は乾いた冷笑を浮かべ、眇めた目で僕を見て続けるのだった。

「遊びたかったんだよ。生徒会や勉強なんて、ただお前らに会えなかった間の暇つぶしに過ぎなかったんだ。だって言うのに、周りの連中はそんな仮面を被ってる俺をちやほやと褒めそやしやがった……そういうの正直、ちょっとうざったいと思ってたんだ。そのときお前らが無事に入学してきてくれて、やっと逃げられるぜって感じに先生に報告しに行ったってわけだ」

 まるで手品の種明かしをするかのように大仰な手振りで語る恭介を前にして、僕は体の内がとても熱くなっていた。
 これは嘘だ。
 こんなふうに変にハイになった時の恭介が語る言葉は、大抵嘘だと決まっている。真実を隠すための。
 今恭介の頭の中には、次々と都合のいい言い訳が積み木のように組み立てられていってるはずだ。
 恭介は目を閉じて、すましたように言う。
 
「成績が良いとか、生徒会やってたとか、そういうのはそいつが進学しなきゃならない理由にはならねぇぜ理樹。なにを好きこのんで大学にまで行って勉強しなきゃならねぇんだ。俺はもう高校だけで十分だよ。もう解放してくれ……自由にさせてくれ。うざってぇんだ、そういうの」

 もう止めてくれ!
 そう叫びだしたかったけど、僕のその言葉は声にはなってくれなかった。
 こんなの、ただの嘘に決まってる。
 恭介の言っていることは全部嘘だ。
 その証拠に、今恭介はこの前とまるっきり矛盾していることを言った。
 鈴にだけは進学の良い点ばかりを指摘したくせに、自分のこととなると今度は悪い点ばかりを吐き出した。
 この前のときと、まるっきり態度が違うじゃないか!
 恭介は、絶対に嘘をついている!
 だけど……その点を今僕が指摘したって、恭介はすぐに新しい理屈を上から被せて逃げていってしまう。
 なにか僕が決定的な証拠を持ってこない限り、この恭介の壁は打ち崩せない――!

「なぁ、もういいだろ? 俺に大学へ行く資格なんて元々なかったんだ……。こんな大馬鹿で、いっつも遊んでばっかりの怠け者には、どっかの会社に適当に雇ってもらえるのがいいんだよ。……ま、鈴の方には大学へ行ってもらうがな」

 僕はその言葉を聞いて、体の内にたまった熱が、急速に冷めていく気がした。
 なんて、自分勝手なんだ、恭介。
 こんなのが恭介の答えだっていうのか。真実だというのか。
 そんな馬鹿な。
 絶対に違うはずだ。
 恭介はまだ、僕に隠し事をしている。
 でなければ、あの時に見せた恭介の哀しそうな顔の意味が説明できないし、情報操作までこなして必死に僕たちにこの事実を隠そうとした理由も見つからない。
 恭介はきっと、ただ無理をしているだけじゃないのか。
 鈴のために、ただ自分を犠牲にしているだけじゃないのか。
 そうじゃないのか――。
 
「ほら、もう辛気くせぇ話は終わりだ。ただの進路の話だろ? そんなのにお前が熱くなるなんて馬鹿らしいぜ」

 恭介は、がしがしと僕の頭を撫でた。

「もう終わった話なんだ。まだ就職先は決まってないが……こうやって頑張り続けていれば、いつかきっと俺を受け入れてくれるところがある。ほら、この前理樹も俺にそう言ってくれただろ?」
「……うん」

 僕は俯きがちに、頷いた。
 恭介は軽快な言葉を続けながら、もうこれ以上深入りするな、と無言で僕に伝えているみたいだった。
 それが無性に寂しかった。
 希望は、もう残ってないのだろうか。
 僕という人間は、恭介にとってそれっぽっちの存在でしかなかったんだろうか。
 こんな何一つ悩みを共有し得ない、支え合うことのない、ただの暇つぶしの遊び相手としか見なされてなかったのだろうか。
 違うはずだ。
 僕にはまだ希望がある。まだ知らない事実がある。
 少なくとも恭介が嘘をついているという証拠を僕は掴んでいる。
 そうだ。恭介のことをまだ僕はなにも知らない。
 恭介がどんな思いで僕たちと笑っていたのかも。
 恭介が人知れず抱えていた痛みも。
 知らなければならない事実を、僕はまだ知っていない。
 
「ほら、戻ろうぜ。警備員に見つかる」

 そうして結局、僕は恭介に答えをはぐらかされたまま、月明かりの裏庭を後にしたのだった。

 

 

 

 
 あるいは俺は、そんな人物が現れるのを待ち望んでいたのかもしれない。
 おかしな真似をしているこの俺をふん捕まえて、ぶん殴ってくれる。俺の前に立ちはだかって、全力で俺を否定してくれる。
 俺がそれをしなくなるまで、しがみついて離さない。
 俺はそんなクールな人間なんかじゃない。君たちが言うような、立派な人間じゃない。
 止めてくれ――!
 俺は偽物だ。本物を前にしたらあっけなく見破られてしまう、偽物の人間なんだ!
 止めてくれ。息苦しい。誰か俺を疑ってくれ。殴ってくれ。殺してくれ。駄目な人間だとわかってくれ。ぶっ倒してくれ!
 そうすれば、俺はまた生まれ変われるような気がするんだ。
 けれど現れた。
 俺を倒してくれそうな人間が。
 うん……よし、わかった。
 お前が向かってくるのなら、俺はお前をコテンパンにやっつけてやろう。
 身の程知らずが。生意気なんだよ。いくらお前が強くなったって、俺なんかにまだ勝てるわけがないだろう。
 大人しく言うことを聞け。
 けれど、頼む。
 俺を見捨てるな。また来い。いつでも来い。そうやって歯向かってこい。
 そうすれば、俺はきっと嬉しくなる。
 自分が卑しい卑しい最低な人間だって、再確認できるから。
 俺はきっと、何になる資格もない。

 

 

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