「べつにどーでもいい」
「は?」

 という間抜けな声は、恭介から発せられた。
 鈴がご機嫌だったのはシュークリームをむしゃむしゃ食べていた時だけで、その後は勉強を全てほっぽり出して、やる気なしの状態で体育座りのまま漫画を読み続けている。

「あたしはそんな進路のことなんかより、こっちのスクレボの『ときど さや』の方が重要なんだ。実は、今あたしはこいつに闘い方を学んでいるところだ……悪いが、あんまり話しかけんでくれ」
「お、おいおい鈴……そんな、どうでもいいってことはねえだろう。仮にもここは進学校だぞ。二年の後半にもなってどこも進学先を考えていないなんて、だったらお前は一体ここに何しに来たんだってことになるだろう」
「それって、思いっきり恭介のことだよね……」
「よせ、言ってやるな理樹……他人のネタを使わねばならんほど、こいつは今切羽詰まってるってことだ……なるべくそっとしておいてやれ」
「いや、そう思うんならむしろ突っこんでくれよ! 寂しいだろ!」

 くわっ、と目を見開いて恭介が謙吾に反論する。鈴はうるさそうに眉根を寄せたまま、引きつづき読書に入った。
 僕も勉強するような状態じゃなくなっちゃったから、今は謙吾と一緒にデザートの後のお茶を飲んでいる。
 恭介は一つ舌打ちをして、就職活動に持っていったらしい黒い革製の鞄をごそごそとあさり始めた。
 
「ちっ……別に切羽詰まってなんかいねえよ。ただ俺は、鈴のことが心配で……だからこうやって受験雑誌を買ってきてやったんだろう。ほれ、理樹も読んでみろよ」
「う、うん……」

 恭介が少し複雑そうな顔をしながら、放り投げるように雑誌を寄こした。
 見ると、その雑誌の表紙には大きく『受験情報 最後の志望校選び』と書かれてあった。どうやらこれは、今年の三年生向けに発行されたものらしい。
 ぺらぺらと適当にめくってみる。

「お、おおうう……あ、頭がいてぇ……」
「ええっ!? もうなの!?」

 僕が開いたのは法学部のページだった。僕の後ろにいた真人はそれを見ただけで頭を抱えだし、毒を食らったみたいに顔を青白くしていた。

「だ、ダメなんだっ……オレは、法学部って文字を見ちまうと……急に意識が遠のくみたいに、頭が痛くなってくるんだ……くっ、悔しいぜ……これがなかったら、法学部最強の弁護士、ハイパー真人くんを目指してたのによう!」

 絶対嘘だ。そんなの幼稚園児にだってわかる。僕が冷たい視線を真人に送っていると、ふと謙吾がひょいと雑誌を奪い取り、あるページを開いて真人の目前に押しつけた。
 そのとたん、真人は大きな奇声を上げて後ろに仰け反った。

「ぎゃ、ぎゃああああぁぁぁぁ――――――っ! 持病の理工学部病がぁ――――!」
「って、どんな病気だよ!」
「ふん……取りあえずこれで証明されたな。こいつは、ただこの難しい単語の羅列に反応していただけだ。まったく……よくこれで進学校なんぞにやって来られたものだな」

 僕が思わず突っこんでしまうと、対して謙吾は溜息をつきながら受験雑誌を手元に戻し、哀れむような視線を真人に送った。
 それを挑発と受け取ったのか、回復した真人(速い!?)が目を剥いて、謙吾に食ってかかろうとする。

「あんだと謙吾! そりゃてめえ、オレのことを脳みそ筋肉馬鹿だって言ってんのかよ!」
「ふん、おおむねその通りだが?」
「へんっ! ざーんねーんでしたー! 引っかかったな謙吾! オレは脳みそ筋肉って言われても別に全然悔しくないもんねー! いやむしろ、それこそ筋肉の誉れってやつさぁ!」

 悪いが誉れなど微塵もない。ただの開き直り馬鹿だ。
 謙吾が絶句している反対側で、恭介が顔を覆って溜息をついた。

「真人……お前には、マジで進学は無理だな……」

 恭介のその重い呟きは、この場にいる四人の共通意見だった。
 うんうんと声に出して頷き合う周りのメンバーに、真人の決まり悪そうな「んだよ……」という声が重なった。

「まあ、真人はそれでいいとして……理樹に謙吾。お前らの方はどうなんだ? 進路のこと、ちゃんと考えてるか?」
「ん……」

 唐突にターゲットが切り替わった恭介の話題に、僕は思わず言葉をなくしてしまう。
 謙吾と顔を見合わせ、一体どうすればいいのか悩んでいると、やがて謙吾は静かに微笑んで、また恭介へと視線を移した。
 まずは俺から言うぞ、ということだろう。

「実はまだ言ってなかったが……前の春の大会の後に、大学からのスカウトが俺のところにやってきたことがあった」

 謙吾がなんでもないように言った次の瞬間、一同から大きな驚愕の声が上がった。あの鈴も漫画から視線を外して、目を剥いて謙吾のことを見つめている。
 すると謙吾は少し照れくさそうに笑って、「ま、断ったがな」と息をついた。

「そもそも突飛すぎる話だったし、まだ俺には時期尚早だと思ったんだ。彼らの申し出は嬉しかったが、あのとき俺はまだ二年にもなってないガキだったからな。どれほど自制しても天狗になってしまうと思ったんだ……。そして、成らなかった話をいちいち周りに喧伝する必要もないと思ったんで、あのときお前らには黙っていた。まあ、彼らはまた来ると言っていたが」

 嬉しさと恥ずかしさだけは隠しきれないのか、謙吾は口を緩めながら目を伏せて滔々と語る。そんな謙吾の隠されたエピソードに、僕はなぜか、心の奥が少しざわついた。
 しかしよく考えてみれば、当たり前な話だった。
 謙吾は昔スポーツ雑誌の一面にまで載ったことがある選手だ。そんな有名な選手をすぐにでもスカウトしようとする大学があるのは当然のことだった。

「じゃあ、またそいつらが来るっていうことは……謙吾」
「ああ。今年の春の新人戦や、来年の夏で俺がたくさん活躍すれば、きっと彼らとはまた会えると思う。そのときの俺になにも問題がなければ……俺は、その話を受けてみようと思うんだ。まあ……受ける理由は、そこの大学の授業料が何割か免除になるという話を聞いたからなんだがな。もちろんその分の勉強はするが、親にはなるべく負担をかけたくない」

 蛍光灯の光に照らされて、長い睫毛の影がうっすらと頬に落ちる謙吾の横顔は、びっくりするぐらいに大人びて見えた。
 急に謙吾の存在が遠くなったように思えて、僕は胸の奥がきゅっと締めつけられる。
 けれど次の瞬間、そんな憂鬱な感情はすべて消し飛ぶこととなった。

「くっそぅ……なんか謙吾だけずりぃな。なあ理樹、筋肉推薦とかねぇかな? この筋肉の美しさに惚れ込んで、とある大学の生物学研究所に招かれるとかよ」

 自信満々にマッスルポーズを作って言う真人だった。しみじみとしたシーンが全て台無しとなった。ていうか、普通にそんなのありえないから。後それってただの実験台なんじゃ?

「いや、意外とありそうで怖いぞ……モルモット、オブ、真人……」
「きっ、きしょいわ! 変なこと想像させんなぼけっ!」
「なんでだよ! オレだって別にそんなこと望んだっていーじゃねーかよ! こいつだけ大学に行けてオレの方は行けねぇなんて、なんか悔しいんだよ! ……あっ、そうだ、理樹の方はどうすんだ? やっぱ理樹は頭いいし、大学か?」

 真人の気軽そうなセリフを聞いて、僕はまた声に詰まり、目を伏せてしまった。
 僕は正直、どうすればいいのかわからなかった。今はなりたい職業もないし、行きたいと思う学部もない。
 あまり答えたくない質問だった。
 けれど、わざわざこうやって心配してくれた恭介の恩に報いたいという思いもあって、僕はゆっくりと視線を上げて口を開いていく。

「ん……たぶん、進学……かな。お金は両親の遺産がまだ残ってるし、後見人のおじさんも、やっぱりそっちの方が面目が立つだろうから」

 口に出してみれば、思いっきり主体性のない理由に自分で嫌気が差してしまった。
 僕はそれを取り繕うように、もう少し本心を乗せた言葉を継いでいく。

「でも正直……自分でもどうしたいのかわからないよ。恭介みたいに明確に就職したいっていう気持ちがない以上……僕は、多分進学することになるんだと思う……けれどそれって、今必死に夢に向かって頑張ってる人に対して、すごく失礼になる気がするんだ」

 僕は静かに語りながら、ふと視界の隅で、少し哀しそうな顔をしている恭介を捉えた。
 つくづく自分は、夢や志などというものに興味がない人間なのだなと思う。でもそれも仕方がないのだ。
 だって今がこんなにも楽しいのだから。
 他のことに興味を向けられないくらいに、僕は今、青春を最高に満喫できているように思う。
 そして自身でも、今はできるだけそんな幸せに浸かっていたいと思っている。
 だけれど、本当に夢に向かって今を精一杯頑張って生きている人には、きっと僕はどうやっても勝つことができないし、恐らく面と向かって顔を合わせることも憚られるだろう。
 だから恭介がそんな顔をしたって、僕はこう答えるほかないんだ。
 これが、今の僕の精一杯の答えだ。
 でも、なんでだろう。
 恭介の顔に今浮かんでいるのは、ただの僕への失望感だけじゃないような……?
 なんだか、自身の胸の奥にある傷を思いっきり抉られたみたいに顔をきつく歪ませて、じっと苦痛に耐えているような気がする。
 恭介は今、なにを思っているのだろう。
 それともそれは、ただの僕の気のせいだろうか……?

「まあ……理樹はそんなところか……わかったよ。まあ、そんなに思い悩むなって。人間誰だってそんな完璧なことなんてないぜ。誰かに失礼なことをやったり、周りに迷惑とかをかけたりしながら、ぼろぼろになって生きてゆくんじゃねえのか」
 
 言いながら恭介は辛そうな顔をほどいて、ゆっくりと静かに微笑んだ。
 反対側で聞いていた謙吾がそれに続ける。

「そうだぞ、理樹。危機感を持つのはいいが、お前はあくまでお前なんだ。自分のペースでやればいい。理樹にはちゃんと、まだまだ時間があるんだからな」

 そんな謙吾に僕は微笑んで、「大丈夫、そのつもりだよ」と答えようかと思ったが、また視界の隅で寂しそうに顔を伏せる恭介を見て、声をなくしてしまった。
 他のみんなはあんまり気づいていないみたいだったが、今僕は、はっきりと見た。
 恭介は謙吾の言葉を聞いたとたん、驚きに目を見開き、またも哀しそうに眉を下げて俯いてしまった。
 けれど、鈴が伸ばした足でガシガシと恭介を突っつく頃には、いつもの強気な笑みに戻っていた。

「ん? なんだよ、鈴?」
「お前はあたしになにも聞かないのか」
「なにを」
「今、理樹たちに聞いたこと」

 本で顔を隠しながら、ぶすっとした口調で言う鈴に、恭介は悪戯っぽく笑って答える。

「なんだ。お前は今、学園スパイの朱鷺戸沙耶に夢中なんじゃないのか」

 ぎろり、と目だけを本から外して、鈴が答えた。

「うむ……確かにその通りだ。だが今は、『ときかぜ』が罠を地道に仕掛けるシーンに入ったんで、あたしはすっごいつまらんから大丈夫だ。そういうわけで、今ならもれなく抽選でお前の質問に答えてやらんこともない」

 めちゃくちゃ偉そうに『かまって宣言』をする鈴に、僕と恭介は顔を見合わせて笑ってしまった。
 さっきの恭介のおかしな表情のことは気にかかったけれど、案外楽しそうな様子で笑っている恭介のことが見れたので、僕もちょっとは落ち着いた。っていうか、漫画なのにそんな地味なシーンがあるんだ。敵の親玉のくせにシュールすぎるよ。

「おいおい、時風のこともちゃんと見てやれよ。そいつ、実は結構いい奴なんだからよ」
「うっさい! こいつはいちいちキザったいから嫌いじゃ! てかお前は早くあたしに質問しろ! そうしないとあたしはどんどん先に読み進めていってしまうぞ! え、えーっと……『ふっふっふ、ここの温泉の罠は、実は男女が裸で身を寄せ合あって浸からなければ解かれることはないのだ。つまり、恋人も友達もメル友さえもいないひとりぼっちの『ときど さや』にはこの罠を絶対解くことができないのさっ! はーっはっはっは! せいぜい一人でこの温泉に浸かって独り身の寂しさに溺れてしまうがいいさ! はーっはっはっはっは!』……って、なんなんじゃこいつは! 陰険すぎるぞ!」

 顔を真っ赤にして手元の『スクレボ』を朗読し始めた鈴は、そのあまりの時風のセリフに自分で思いっきり突っこみを入れていた。てか、もの凄くお馬鹿な仕掛けだなぁ……でも、かなり効果はあるかも……昔僕も夢でそんな仕掛けに出くわしたような記憶があるけど、そのときすっごい恥ずかしかった気がする……。

「そこが時風のチャームポイントなんだよ。あいつは確かにクールで陰険だが、どっか頭が馬鹿で、最後まで悪者にはなれないキャラなのさ」

 恭介は笑いながら注釈をしつつ、みかん箱の上に置かれてあった雑誌をおもむろに手に取った。

「ほら、じゃあこれからお前にも質問していってやるよ。鈴はどこの学部に行きたいんだ?」

 ページをパラパラとめくりながら軽快に尋ねる恭介に、またもや鈴は顔を赤くして、怒ったように反論した。

「な、なんでそーなるんじゃ! なんであたしは大学に行くこと前提になってんだ、ぼけ!」
「え? だってそーだろ? 鈴はやればできる子だし、鈴の分なら大学に行く金だってウチにはあるし、ほら……それに見ろよ、こいつらこんなに楽しそうなんだぜ? サークルにゼミナールに……後、コンサートホールみてぇなバカデカい教室での講義もあるぜ? 友達もきっといっぱいできるし、なにより高校と違って勉強がすげぇ楽しくなるらしいぜ。こりゃもう行かないわけにはいかねぇだろう」
「は、はぁ?」

 恭介らしくポンポンと魅力的な点を指摘していく。
 まるで自分がこれから行くみたいに話している恭介の声と、ペラペラとスピーディに雑誌のページをめくる音だけが続き、そしてその度に、鈴の眉間にとっても不機嫌そうな皺が寄っていった。
 その皺がもはや谷のように深くなってきていることにも気づかず、恭介は一際明るい声で、受験コンサルタントのように次々と説明を続けていく。

「ほら、海外留学とかもやろうと思えばできるんだぜ。優秀な学生には機構が全額援助してくれるんだってよ。ははっ、すげーな! あの鈴が海外留学かぁ……。はっ……! も、もしかしたら、大学教授にでもなっちまうかもしれないぞ!? おおお、マジかよ!? すっげぇぇ――――っ! だ、だったらどんな学問だ!? 猫学か? いや、生物学か!? いやいや、一番近いのは獣医学か……? で、でもだとしたら、俺はこれから鈴のことを『棗教授』って呼ばなきゃならないのか……? ううむ……それは少し恥ずかしいかもしれんが、ある意味ではありかもしんねーな。棗教授か……いや、鈴先生……? すみません、鈴先生、ここ教えてください、わかりません……って、え……?」

 ふと恭介はなにかに気づいたように、ハッとした。
 恐る恐る振り返ってみると、そこには目尻をキンキンにつり上げて恭介を睨む鈴の姿が。
 歯をむき出しにして、まるで恭介を今にも食い殺さんとばかりに深く噛みしめ、獰猛な虎のように低いうなり声を上げる鈴に、恭介だけでなく、周りを取り囲む僕らさえも慄然としてしまっていた。
 ゆっくりと、わずかに身を引いた恭介に、鈴は鋭く底光りするような朱色の瞳とともに、その耳たぶまでもを真っ赤にして、恭介の耳元に虎の咆哮を叩き込んだ。

「だっ――……れが、大学になんか行くかぼけぇ――――――っっっっ!!!」

 部屋を揺らしてしまうかのような大音声に、僕らは思わず耳を塞いだ。間近でそれを食らった恭介は、床に大きくすっ転んだ。
 鈴はその真っ赤な顔のまま、恭介の頭にうにゃうにゃと漫画や雑誌を思いっきり投げつけ、

「帰るっっっ!」

 壊れてしまいそうなほどに扉を思いっきり強く閉めて、出ていってしまった。

「……」

 ゆらゆらと埃が舞い散る僕の部屋に、冷えた静寂が降りてくる。僕含め恭介たちは、みんな変に仰け反ったポーズのまま、固まっていた。
 い、一体なにに怒ってしまったのだろう、鈴は……。
 やっぱり、鈴を一人置いてきぼりにして恭介が勝手に浮かれポンチになっていたことに対してなんだろうか……でもそれにしては、ちょっと怒り方がおかしかったような……。
 いつもはハイキック一発ぐらいはお見舞いするのに、今日は大声で恭介を怒鳴り散らしただけだ。
 もしかして鈴は、恭介の就職活動のために体を大事にして……って、そんてことはないか、やっぱり。
 でも……鈴、本気で怒ってたよね、今……。

「……なんなんだよ……一体」
「わからん……ただ今のは、確実に恭介が悪い。それだけはわかる」

 真人と謙吾から冷えたような一瞥を受けるが、その恭介も、なにがなんだかわからないというように目を見開いて扉を見つめていた。

「な、なんだよ……鈴。わけ、わけがわからねえ……。一体、なにが不満だってんだ……く、くそっ、こんなに楽しそうだってのによ……」

 むくりと体を起こして、恭介が床に落ちていた雑誌を拾い上げる。

「やっぱ、いきなりすぎたのか……けれど、鈴だってもう二年の後半だし……そろそろ考えなくちゃいけねぇ時期だろう……商学部……経済学部……」

 パラパラとページをめくりながら、恭介は寂しそうに独りごちた。
 実際に鈴が大学生になったときの未来に思いを馳せているのだろう、恭介は続けて「文学部……法学部……」とページをめくり続け、目を細めて、神妙な顔つきでどこか遠い風景を眺めていた。
 僕はそれを見て、なんとなく寂しい気持ちになった。
 今恭介の望んでいることと、鈴が望んでいることは、もしかしたらまったく違うことなのではないか。
 大学と、就職。
 鈴はさっき大学へ行かないと言っていた。けれど恭介は、鈴が大学に進むのを、どうやら当たり前なことだと考えているようだ。
 うーん……なりほど。それじゃ鈴が怒り出すのも当然かもしれない……。
 でも、鈴は本当に大学へ行く気がないのだろうか?
 うーむ……ちょっと今のやり取りだけじゃ、よくわからない。
 二人とも、どうしてそんな結論に至ったのだろう。でも僕が思うのは、ただ二人には仲良くしてほしいということだけだ。
 落ち着いて話し合えるような機会を作れば、二人はきっと仲直りすることができるはずだ。ちょっと大げさな考えかもしれないけど……。

「本当に、どうしてだよ……鈴」

 恭介が暗い顔のまま、雑誌をパタンと閉じて、静かに零した。
 なんとなく気まずい沈黙が周囲を包み込むと、とたん恭介は弾けるように顔を上げて、立ち上がった。

「ど、どうしたの……恭介?」
「こうしちゃいられねえ。俺がぐずぐずしていたって何も始まらねぇんだ。鈴が女子寮にたどり着く前に、もう一度説得してみる」
「へ? ちょ、ちょっと待ってよ恭介!? 今行ったって絶対に逆効果だよ! 取りあえず、もっと時間を置いた方が――って、わひゃ!?」

 恭介は「悪い!」とだけ残し、立ち上がった僕の脇を疾風のようにくぐり抜けて、部屋の外へと走っていってしまった。
 再度、ぽつん、と残された僕ら。
 追いかけることもできず、茫然とそこに立ちつくしていた僕に最初に投げかけられたのは、

「わけがわからねえ……」
「同感だ」

 という、二人の溜息混じりの言葉だった。
 僕も、いつもと少し様子が違っていた鈴と恭介のことを思い浮かべて、悩むまでもなく同意して床に座った。
 その後、「逃げられた……」と恭介が泣きそうな顔をして帰ってきたのは、言うまでもなかった。

 

 

 

 

「ふむ。まあ、事情はわかったよ」

 翌日、僕は教室で、来ヶ谷さんに昨日のことを話していた。
 来ヶ谷さんはすましたように目を片方だけ閉じて笑うと、向こうに座ってぶすっとしている鈴の方へと視線を送り、また少し微笑んだ。

「安心するがいい。鈴君を元気づけるのは、なにも事情を知らない私たちの方が向いているだろう。明るく馬鹿に騒いで、嫌なことなどすぐに忘れさせてやるさ」
「忘れさせてもらっちゃ困るんだけど……」
「言葉の綾だよ、理樹君。あの本当は頭の良い彼女が、私たちと少し遊んだくらいですぐにそれを記憶から消してしまうと思うか? 私たちが消すのは『嫌なこと』だけだよ、理樹君。それについての嫌なイメージだけを取り除いてやるのさ。まぁ、見ているがいい」

 来ヶ谷さんはそう言って、ゆったりとした歩調で鈴の方へと歩いていった。
 その直後に向こうの方から恥ずかしがるような鈴の悲鳴が聞こえ、僕はひとまず苦笑混じりの溜息を吐いて、安心したのだった。
 それにしても、来ヶ谷さんも相変わらず強引な人だ。
 鈴のぶすったれた表情から問題の所在をいち早く察知し、早速最も適当だと思われる人物にこうやって無理やり詰め寄ってくるのだから。
 それに僕への質問など、どうせほとんど最終的な確認を取るための答え合わせのようなものだし、僕がたとえしらばっくれたって来ヶ谷さんは答えをもう知っているわけだから、どうしても僕は本当のことを話さざるを得ないというわけだ。ある意味、世界で最も強引な人と言えるだろう。
 けれど来ヶ谷さんは要領を十分に弁えていたようで、特にそれについて自身の見解を述べることもなく、なにも知らないように振る舞ってまっすぐに鈴と付き合えているのだから、まったく恐ろしい人だった。……というか、だったら僕に答えを聞く必要なんか別になかったんじゃないか。

「ああ、理樹君。ちょいといいか」
「うひゃっ!?」

 気づいたら、来ヶ谷さんが僕の耳元にまでやって来ていた。
 慌てて振り返ると、来ヶ谷さんはニヤニヤと恍惚の表情を浮かべて微笑んでいた。

「ふふふ。いい顔だな、理樹君。まるで情事を知らぬ純真な小学生のようだよ」
「わ、わけわかんないよっ!? というか、一体なに!? まだ僕になにか用があるの!?」

 来ヶ谷さんが嬉しそうに頷いた。

「ああ。ただの好奇心からこんな質問をしてすまないとは思うがね。うむ、その……君はやっぱり、大学に進学するつもりなのかい?」
「へ?」

 言いながら、来ヶ谷さんの瞳が少し真剣な色を帯びていくのがわかった。突然変わった場の雰囲気に、僕は思わずそのまま間抜けな声を発してしまう。
 見ると、鈴は小毬さんやクドたちと一緒に遊んでいるみたいだった。
 来ヶ谷さんには先ほど鈴のことを頼んだばかりだったので、その恩もあると言えばある。さらにこれで案外懐が深い人であったりするので、別に正直に答えても問題ないとは思うが……。
 それでも僕がその口を開くのをちょっと躊躇ってしまったのは、やっぱり自分自身へのぼんやりとした情けなさが、まだ心の奥に渦を巻いてくすぶっているからだった。

「うん……大学へは多分……行くことになると思う。もちろんまだまだ勉強しなきゃいけないけど……僕は他に行くところもないから」

 来ヶ谷さんは少し驚いて目を見開き、その後で、ゆっくりと慈しむように笑った。

「そうか。学部はどこだ?」

 僕は思わず、その全てを許すような優しい微笑みに心を掴まれたような気がしたが、敢えて直接顔には出さないようにして、黙って首を振った。

「全然決めてないよ……でも僕は文系だから、きっと法学部とか文学部とか、そういう方面になると思うけど」
「おや、なるほど。それは奇遇だな。私もちょうどこの前の進路調査で、文系を選ぶことにしたのだよ。ふむ……もしかしたら、来年も一緒のクラスになれるかもしれないな」
「えっ!?」

 僕は、来ヶ谷さんの言葉を聞いて愕然としてしまった。目を見張って、まじまじとその顔を見つめる。
 い、一体どうしてだ、この人はバリバリの理系じゃないか。あの数学におけるハイパー頭脳の凄まじさを僕は忘れていないぞ。来ヶ谷さんならきっと、そのまま大学で数学教授にでもなれるかと思っていたのに。

「なんだ……そんなに驚かなくたっていいじゃないか。これでも少しは考えたんだぞ」

 少しじゃなくって、ちゃんとそこはしっかり考えるべきだ。やっぱりどこかアホだこの人は。
 来ヶ谷さんは不機嫌そうに口を尖らせてぶーたれた後、冗談っぽく顔を綻ばせて続けた。

「ふっ。理系の大学なぞ行っても、もう学びたいことは限られているのだよ。ならばこれからは、自身の新しい領域を開拓していこうと思ったまででな」
「あ……な、なるほど」

 そういうことだったのか。なるほど、とても来ヶ谷さんらしい……。
 僕が素直に頷くと、来ヶ谷さんはまたもやつまらなさそうに目を細めた。

「なんだ……こっちの方は驚かないんだな」
「あはは……うん。来ヶ谷さんの頭の良さはもう十分に知ってるからね。それくらい簡単にやってのけちゃう人だって思ってたよ」
「ちっ、つまらんな。君は」

 口を尖らせてそっぽを向く。
 いちいちこうやって破天荒で、あり得ないほど頭が良いはずの来ヶ谷さんなのに、たまにそんな子供っぽい行動をする様子がなんだかおかしかった。僕は安堵して笑う。
 来ヶ谷さんは最初こそは不服そうに僕の笑う様子を眺めていたけど、その後は徐々に嬉しそうに、少しずつ顔を綻ばせていった。

「ふ……ついでにもう一つ質問しようか。なかなか本人たちには聞きにくい話題だからな……。あの馬鹿二人はどうするつもりなのだ?」
「え、謙吾と真人?」

 こくん、と来ヶ谷さんは頷いた。
 別にあの二人は自身の選択に悩んでる様子はないし、どんどん聞いちゃってもいいと思うけど、まさか成績の件で傷つけてしまうかもしれないとでも思っているのだろうか。意外に気遣ってるんだなあ、来ヶ谷さん。

「恐らく謙吾はスポーツ推薦。ちゃんとその分の勉強はするって言ってるけど。真人の方は……まあ、本人は大学に行きたいとか言ってるけど、成績があれだしね……どうなることやら」

 本当はそれすらもただの謙吾への張り合い根性にすぎないんだけど、さすがにこれ以上ダメ人間のレッテルを貼られる真人を見るのも忍びないので、僕は黙っておくことにした。
 来ヶ谷さんはそれだけでなんとなく事情を察知したらしく、呆れたように顔をしかめ、謙吾と腕相撲をしている真人の方を見やって溜息をついた。

「はぁ……可能性としてはあるかもしれんと思ったが、あの馬鹿がよもやそんな大それたことを考えつくとはな。日本の教育界もそろそろ終わりに近づいているということか……」

 ひどい言われようだった。他人事ながら、胸が痛む。
 だが来ヶ谷さんはそれで短く息をついた後、少し斜めに体勢をずらして腕を組み、「まったく、しかたない」というふうに笑ってみせた。

「まあ、まぐれで受かってしまって日本教育界の恥を晒してしまうわけにもいかんからな。せめて受験しても恥ずかしくないぐらいには、私が勉強を見てやるか……」

 どうやら来ヶ谷さんは、真人のことを助けてやるつもりのようだった。どこか眩しいものを見るように目を細めて笑う来ヶ谷さんは、見ればちょっと楽しげで、とっても優しそうな顔をしていて、僕は人知れず心の内で、真人のことをうらやんだのだった。ひょっとしたら再び過酷な特訓を受けさせられて、ずたぼろになって帰ってくるかもしれないけど……。
 そしてそうこうするうちに、やがて来ヶ谷さんは踵を返し、鈴のところへと戻っていった。

「……あ、そうだ。理樹君」

 だが途中でこちらを振り返り、思い出したように口を開く。

「さっきの進路のことだが……。私はそうやって自省して思い悩んでいる理樹君を見るのは好きだよ。せいぜいもっと悩んで成長するがいいよ、少年。それじゃあな」

 やっぱり、全部ばれてたみたいだった。
 来ヶ谷さんはそんな意味深な微笑みを残した後で、僕の元からすたすたと去っていった。
 残された僕は、曖昧な苦笑を浮かべ、いそいそと次の授業の準備へと取り掛かったのだった。

 

 

 

 
「ねえ。ちょっといい、鈴?」

 昼休み。石灰を溶かして混ぜたような灰色の空の下、体育館脇のとあるスペースで、鈴を見つけた。
 僕が近づいて声をかけると、鈴は少しだけ顔を上げて眉をひそめ、そのまま僕のことを無視して猫の世話に戻った。
 もっと歩いて近づいていく。

「あのさ、鈴。昨日のことなんだけど……」
「あの馬鹿がどうした」
「うっ……」

 いきなり冷たい声でぴしゃりと言い止められる。
 来ヶ谷さんたちのフォローのおかげで少しは話ができるようになったみたいだけど、やっぱりまだまだ鈴は恭介のことを怒ってるみたいだ……うう、どうしよう……。

「え、えっと……鈴はさ、やっぱりその……大学に行く気はないの? 恭介と同じで、卒業したら就職しちゃうの?」

 鈴はその質問に答えないで、猫たちの背中に視線を落としたままでいる。けれど少しだけ、その眉が困ったように垂れた気がした。
 どうやら、別にそういった話題の全てが嫌ってわけじゃないようだ。僕は言葉を続けた。

「ただの僕の勘違いだったら悪いんだけど……もしかして、きっと鈴は、昨日の恭介の自分勝手っぷりに呆れちゃって、つい咄嗟にそんなこと言っちゃっただけじゃないのかな? 鈴はさ……やっぱりまだ、迷ってるんじゃないのかな?」

 この言い方は少し賭けになるかと思ったが、鈴はそれにちょっぴり顔をしかめただけで、ムキになって怒り出すようなことはしなかった。
 子供のように口をすぼめ、指でぐりぐりと猫のお腹をいじりながら、不機嫌そうに洩らす。

「あれは全部きょーすけが悪いんだ……それだけだ」

 当たりだ。やっぱり鈴は、恭介の態度に対して怒っていただけだった。
 鈴はそのまま寂しそうに、指でいじくってる猫のお腹に視線を落とす。

「あいつは……あたしと兄妹のくせに、あたしのことなんかこれっぽっちもわかってない。いつも自分のことばっかり考えてる。だから、いつもくちゃくちゃに腹が立つんだ……あのエコ野郎めが」
「エゴ野郎?」
「……そうともいう」

 恭介が環境保護士じゃないことを指摘しても、返す言葉にはいつもの覇気がない。どうやら、鈴も昨日のことを思い出して落ち込んでいるみたいだった。
 僕は鈴と向かい合うようにして道端にしゃがみ込んで、寝そべっている猫の背中をなでてみる。
 幸せそうに目を細めて、尻尾をぱたぱたさせていた。気楽でいいよなぁ、猫は……。

「僕も、恭介の昨日のあれはやりすぎだったと思うよ。あれじゃ鈴が可哀想だ。でも、そんな恭介の行き過ぎたやり方も、やっぱり鈴のことを大切に思ってなんだと思うよ……だから、」
「だからってあたしは許さん。あたしのことを何だと思っとるんじゃあいつは……って、思った。大学に行けば、みんながみんな幸せになれるとでも思ってんのか。だったら本当に馬鹿だあいつは。もしそうだとしたら、あたしは本当にきょーすけのことを許せなくなる……。そのときは……」

 そこで鈴は言葉を切って、手をぎゅっと握りしめた。思い詰めた顔をしている鈴に、僕は若干の戸惑いを覚える。
 うーん……なんか色々話が飛びすぎてると思うんだけど。恭介が本当にそんなことを思っていたのかまでは定かではないはずだ。けれど……だったら鈴は鈴で、それについてなにか思うことでもあるのだろうか。
 僕は昨日の恭介の悲しそうな顔のことを思い出し、鈴に最後の言葉を投げかけることにした。
 やっぱりこの二人は、仲良くしていなきゃだめだ。

「鈴の言いたいことはよくわかったよ。でも、それを本人に伝えないままこうやって喧嘩してるんじゃ、恭介がちょっと可哀想だよ。昨日の恭介……すごい泣きそうになってたんだよ」
「う……」

 少し咎めるように言い、鈴の体がぶるっと震えた。顔を上げて、困ったようにこっちを見つめている。
 さすがに鈴でも、自分の行き過ぎた行動が原因で恭介の心を傷つけたとなれば、少しは罪悪感を覚えるらしい。
 けれど鈴は、それでも頑なに首を横に振った。

「理樹は……いちいち大げさなんだ」
「へ?」
「あたしときょーすけは別に喧嘩なんかしていない。ただあいつの言い方にちょっとむかついただけだ。すぐ元通りになる。それに……」

 鈴は立ち上がって、ぽんぽんと制服についた猫の毛を払う。
 そして数歩歩き、こちらを振り返ってぶっきらぼうに言った。

「あたしは、そんなもんどっちだっていいって言っただろ。勝手にあたしの気持ちを想像すんな、ぼけ」

 思わず僕は、言葉に詰まってしまった。
 その言葉の通り、冷淡な眼差しを向けられたからじゃない。
 こちらを振り返ったときの鈴の表情が、その口調とはまったく異なるものをそこに宿していたからだ。
 鈴の瞳は、まるでこの白濁とした曇天のごとく、大いなる迷いと不安をそこに宿していて、必死にこちらへと助けを願っているようだった。
 まるでだんだんとタイムリミットが迫ってきているかのような、どうしても向かい合わなきゃいけない現実を目前にしたかのような、不気味な静けさをその瞳に宿して、鈴は背を向けて歩いていった。
 遠ざかっていく鈴を見て、僕は思う。
 たとえ未来のことに悩んでいる僕だって、きっとあそこまでの顔はしてなかっただろうと。
 恭介と鈴は……一体、なにを考えているのだろう。全然わからない……。
 僕は、自分が今までひどくちっぽけなことを悩んでいたみたいに感じて、おもむろに携帯を取りだしてメールを打った。
 恭介から返ってきたメールは、『(T_T)マジカヨ……。取りあえず、引きつづき説得を試みてくれ(>_<)』だった。
 

 

 

 
 放課後。僕らは教室にみんなで集まっていた。
 外は、しとしとと小雨が降っている。
 そのしめやかな雨音は、まるで僕たちを優しく包み込む子守歌のように、優しく耳に響いていた。

「ねーねー、みおちんみおちん、もう何書くか決めたー?」
「何度も同じ質問をしないでください。まだ決めてないです。三枝さんはどうなんですか」
「うーん……はるちんはやっぱり、まだまだ決めてないですヨ。今までなんとなく適当に誤魔化してきただけに、ちょっと難しいかな……」

 葉留佳さんは手に持った進路調査表をヒラヒラとさせながら、疲れたように言った。
 葉留佳さんの言っているとおり、これはなんとなく適当に誤魔化せてしまうような楽な進路調査表じゃなかった。三年のクラス分けに直接繋がる大事な大事な進路調査表だった。
 つまり、この紙に一度進路先を記入してしまえば、もうそれを元に来年のクラス編成が決まってしまうというわけだ。

「期限が三日後というのもまた急だな……。もちろん、すでに考えが決まっている奴らなら、こんなものすぐにでも出せるのだろうが」

 謙吾の困ったような言葉を聞きながら、僕は手にした調査表に目を通して、溜息をつく。
 もちろん、ここで就職を希望してしまうという選択肢もきちんとあった。
 もちろんそれを選択する人数は極少数だが、仮にここで就職を希望した生徒は、文系でも理系でもない中間クラスの方へと配置されることになる。恭介が現在いるのもそこだ。
 そこでは主に国公立を目指す人たち用のクラスであり、時間割編成も今までとあんまり変わらない。
 なにも進路先を決められないという状態であるなら、取りあえずそこの中間クラスを希望しておくという手もあるが……。

「よしっ。できたよー!」
「お、おお? 小毬ちゃん、もう決めちゃったんですか? は、はやいですネ……どれどれ……」
「う……は、恥ずかしいからあんまり見ないでね……はい」

 小毬さんが顔を赤くしながら、もじもじと葉留佳さんに調査表を手渡す。
 それを(無遠慮かと思ったが)全員で覗き込んでみると、調査表の下の方の『文系私立希望』の欄のところに、ちっちゃく丸がつけられてあった。
 これは……つまり。

「やーんっ! 見ないでって言ったのにぃー!」
「そんな、見てほしくないなら葉留佳さんに渡しちゃダメでしょ……でも、これは……」

 はっきり言って、意外だった。
 そのあまりの堅実さにというか、小毬さんの将来への確かな見通しに、僕は思わず感嘆の息をついていた。
 いつもはあんなに無邪気に振る舞っているのに、なにも考えていないような天真爛漫な少女だと思っていたのに。
 なのにこういうときだけは……やっぱり、僕は僕をとっても情けなく思う。
 これが、そもそも普通のことなんだ。
 やっぱり馬鹿だ……僕は。

「ふむ……小毬君は、最初からこの行き先を考えていたのかね?」
「ふえ? う、うーん……それを言うのは、またちょっと恥ずかしくなるんだけど……」

 来ヶ谷さんに紙を返してもらうと、小毬さんはまたちょっぴり頬を赤く染め、はにかむように微笑んで言った。

「うん……そーだよー。私数学が全然ダメだから。お母さんやお父さんにも相談して、今度このお手紙が来たときはそう書こうって思ってたの。行きたい大学とか、学部とかも、そのときにほとんど決めちゃったんだよ」

 先ほど見せてもらった小毬さんの調査表の中には、もっと下の要項のところに、志望先の大学名や学部名なども詳しく書かれていた。
 具体的な偏差値などはわからないが、確かどれも中堅以上の有名な私立大学だったと思う。
 小毬さんは、主に文学部系を志望していた。

「私ね、将来は絵本とかを書く人になりたいんだ。私の書いた絵本をみんなに読んでもらって、それでみんながちょっとでもいい気分になれたら、私はそれだけでとっても嬉しいなって思うんだ」

 夢を語る小毬さんは恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、その両の瞳はキラキラと幸せな光に満ちていた。
 僕には、その幸せな笑顔は眩しすぎて、とても直視することはできなかった。

「でも、本当は絵本っていうのはとっても書くのが難しくって、ちゃんとしたお話を作るならものすっごい勉強しなきゃいけないんだよ。たくさんのお話を書いて、たくさんのことを考えなきゃいけないの。もちろん、ただ学校の勉強だけをしてればいいわけでもないんだよ」

 きっと小毬さんは、いつか立派な絵本作家になるだろう。
 子供たちに大いなる夢と感動を与え、大人たちにはかつての想いと安らぎを贈るだろう。
 そんないつかの小毬さんを、僕はいつか、大人になって見てみたいと思った。
 そのときの僕がどんな姿をしているのか、それは今の僕には想像もつかない。

「なんか、すっげぇな、そういうの……」
「わふっ! こうなったら私も頑張っていくのです! 小毬さんには負けてられません!」

 何故かメラメラと対抗意識を燃やしているクドに、小毬さんは手を大きく振って恥ずかしそうに言った。

「そんな、まだ全然決まってることじゃないよ〜。本当に作家さんになれるまでに、まだまだたくさん時間があるんだから、そんな夢きっと途中で変わっちゃうかもしれないよ」
「ふむ、謙遜しているな、小毬君。まぁ……確かにそうだな。人の夢というのは儚く、確かに移ろいやすい。だったら小毬君は、福祉関係の仕事の方も考えているのかね? ほれ、君がよくボランティアに行っていた老人ホームがあったろう。あちらの方に将来転身する気はあるのか?」

 来ヶ谷さんの何気ない問いに、小毬さんはそこではっきりと首を横に振った。

「ううん。そんなことはないよ。お爺ちゃんやお婆ちゃんたちには、お金では付き合わないよ。今のボランティアだけで十分だよ。みんなも私も、それでいいって思ってるんだ」

 小毬さんが浮かべる眩い光のような笑顔には、迷いなど欠片もなく、確とした答えだけがあった。
 きっと小毬さんは、僕よりもずっとずっと大人な人だった。
 合格だ、という敬意の眼差しを向ける来ヶ谷さんも、小毬さんに触発されて必死に調査表と睨めっこしているクドも、西園さんも、葉留佳さんも。
 小毬さんを褒めそやすように祝福の筋肉踊りを続ける真人も謙吾も、みんながみんなそれを証明している。
 僕は、そんな小毬さんやみんなを見て、喉が詰まり、首の後ろにじわじわと氷を押しつけられるような気持ちになった。
 そしてそれはきっと、彼女も――。
 ぼんやりと静かな視線しか送ることのできなかった僕と鈴には、このしめやかで優しい雨音も、ただの外から見送る列車の音にしか聞こえなかっただろう。
 雨の音は、優しくて寂しかった。

 

 

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