思わず目を背けてしまいたくなるような惨状が広がっていた。
 しかし体は動かせない。
 目を逸らしてしまうこともできず、目を瞑ることはやっぱりただの逃げだと思って結局それを見続ける。
 そんな、まるで初めてBL本を読んでしまった時のような恥ずかしい心境のまま、うっすらと目を開いて、そしてそれを恥ずかしさで閉じようとしてもやっぱり見続けてしまうというような、背中が思いっきりムズムズと痒くなってしまいそうな羞恥心の渦の中に、美魚はいた。

 ――もう、やめてください……

 しかし彼女がそんな恥辱に喘いだ声を上げても、世界のマスターはただ嬉しそうに嘲笑うだけ。
 むしろもっと泣き叫べ、もっともっとこっ恥ずかしい嬌声を上げろ! とでも言わんばかりに美魚の羞恥心を煽り出す。
 美魚は、まさにこれこそ生き地獄という名の業に相応しいと、必死にその辱めに耐え続けながら思う。
 こんな仕打ち夢であってほしい、と考えたのはこれで何度目であろうか。

「ではー、この問題を前に出てきて解いてくれる者ー?」
「はいはいは――――いっ!」

 そうやって元気いっぱいに手を挙げた人物が誰なのかがわかって、美魚はまた再び目を覆いたくなる。

「なんだまた西園か? なんだかよくわからんが、今日はとんでもなく気合い入ってるな。急にどうした?」

 教壇に立つ国語教師のいたく感心したような声が美魚の耳にも入ってくる。
 だがそれは当然、この美魚自身に対してかけられたセリフではない。
 美魚は、だんだんと近づいてくる教師の顔のこめかみのあたりに、うっすらと滲んでいる冷や汗のようなものを察知し、またもや涙を流しそうになる。
 
「いえいえー。私今日ふと思ったんです。たまにはこうやってみんなと一緒に真面目に勉強にしなきゃって。いつも授業中机の影でこっそり本読んでる分、今日はしっかり頑張っていきますよ!」

 ――ちょ、余計なことばらさないでくださいっ!

「そ、そうか……なんだ西園、授業中にそんな悪いことをしてたのか。だが、今日のお前は本当に素晴らしいぞ。この調子でどんどん問題を解いてってくれ! ……と言いたいところだが、ちょっと頑張りすぎて体調悪くしてしまうのもいかんからな。もうちょっと休んでてくれてもいいんだぞ?」

 副音声で「もうお前いい加減出てくんの止めろ」と洩らす教師の顔には、当然のごとく引きつった笑みが浮かんでいた。
 教師という人間からすれば、延々とたった一人だけに問題を解かせるわけにもいかないのだろう。
 それは美魚にも十分すぎるほどにわかっていた。
 むしろこの教師は、バランスよく全員に問題を解かせるようにとなるべく気を配っている方だと美魚は前々から認識していた。
 だがそれでも、もう一人の美魚の方は怯まない。
 もちろんそんなことは全部わかった上でやっているのだろう、野に咲いた一輪の花のように可憐な笑みを浮かべ、嫌みったらしく爽やかにこう答えるのであった。

「はい、お心遣いありがとうございます先生。ですが、いつもはぐーたらと布団に寝そべって一人読書している身ですので、こちら体力だけは有り余ってます。これからもよろしくお願いします。……さぁ、どうですか!? この問題!」
「う、うむ……完璧だ」
「やったぁ――――っ!」

 耳に入ってくる大きな拍手が実に痛い。
 いまや西園美鳥は、クラス中の人気者となっていた。
 最初こそは一体なにか悪いものでも食ったのかと周囲の女友達から心配されたが、元々ここは大半のリトルバスターズのメンバーが集うクラス。その周囲の人間たちもどこかズレていて然るべしというもの。美鳥の健康そうな微笑みを一度でも見せてやれば、すぐに「たまにはそういうときもあるよね」「だよねー」と納得してくれた。
 美魚がそんな心の広すぎる友人たちに心中で泣いて喚いて「誤解です!」と声高に言い張っても、まさかそんな儚い声が現実まで届くはずもなく、一人で涙を流しながら項垂れる結果に終わった。
 美鳥がくるりと前を向いて拍手に笑顔で応えてみれば、視界に入ってくるのはもちろん我がリトルバスターズの面々。
 後方で二大巨頭が立ち上がって謎の万歳をしているのは当然のごとく、前方の机では小毬や鈴、クドが嬉しそうに手を叩いている。
 美魚の気持ちを見透かしているのか、窓際に腰掛ける来ヶ谷はニヤニヤと一人楽しそうな笑みを浮かべていた。
 自分の席へと戻りながら美鳥が理樹の方に視線を送れば、そこには未来における美魚の苦難が偲ばれるのか、はたまた美鳥にやりすぎだと言いたいのか、あははと曖昧な苦笑を浮かべている彼の姿。
 きっと今席についたのがそのままの美魚自身だったとしたら、とっさに恥ずかしさで顔を覆ってしまうことだろう。
 この痛ましい惨劇の場にあの恭介と葉留佳がいないというだけ幸運とみるべきか。

「あー、うむ。それじゃあ次のページに移るぞ。ふむ……ならもういっそこっちから当ててしまうか。じゃあ直枝、そこからちょっと読んでいってくれ」
「あっ、はい! えーっと……子貢、曰く……貧にして諂うなく……富みて、驕るなきはいかん……」

 ちぇー、とそれを見て一人つまらなさそうに零す美鳥に、美魚は地を這うような恐ろしく低い声で話しかける。
 
 ――あなたにはもう、言うべき言葉もありません……

 そんな言葉を耳にするなり美鳥は、悪戯が成功した時の子供みたいにほくそ笑んでそれに答えた。

「(いやー、別にお姉ちゃんを虐めたかったわけじゃないよー。言ったでしょ? これは全部お姉ちゃんのためなんだってば)」

 物理的に声を発するのではなく、美鳥は美魚と同じようにそのまま直接心に言葉を響かせてくる。
 言葉の文だけを見ればなんて優しい妹なのだろうと皆感銘を受けてしまうのだろうが、続けてその両端が意地悪く釣り上がった口元を見てしまえば、その気持ちは全て風に乗って霧散してしまうことだろう。
 明らかに人を小馬鹿にしたような美鳥の言動に、美魚は昨晩の信じられないやり取りへと思いを馳せる。
 
 ――あっ、あれの、一体どこが私のためなんですかっ!

 美魚の目算としては、美鳥の行動においてはその九十五パーセントが自分のため、残りのちょっと五パーセントくらいがせいぜいオマケとして美魚のためとして割り振られているのだろうといった感じだった。自分のためといっても、それが単に利己的な欲求に基づいたものではなく、ただ人が困るのを見て自分が楽しんでいるという行動原理にその大半が基づいているのだからなおたちが悪い。
 思い返せば、どれもひどい有様だった。
 美魚らしい淑やかな態度を装って鈴の部屋まで遊びに行き、本人が油断したところで思いっきり抱きついたり、そして理樹の部屋まで行けば本人にヘッドロックをかましたりなど。
 あれでは、こちらの胸のサイズがほぼ完璧に推し量られてしまったに違いないではないか。あれで今後どうやって会いに行けというのか。

「(え〜? 美魚のあれっていうのが何を指しているのかわからないけど、取りあえず私は楽しかったよ?)」

 可愛くしなを作って言う声は、こちらを馬鹿にしているようにしか聞こえない。
 今自分に人間の手があれば美鳥の頭を引っぱたいてやれるのだが、こちらが白鳥の姿になっていて、しかも美鳥の姿が見えないとあればそんなこともできやしない。
 美魚は、思わず頭が痛くなる。

 ――想像以上に、私はあなたのことを嘗めていました……ならば私は、あなたに罪悪感などを抱くべきではなかったかもしれません……

「(あっはは〜。照れなくてもいいって〜)」

 ――照れてなどいませんっ!

 ああ言えばこういう、というまるで終わりのない妹とのやり取りに、美魚はふっと昔の懐かしい光景を思い出すが、今はそんなことよりも重要なことが他にあった。
 自分は、一体これから何度あんな生き地獄を味わわされなければならないのだろうか。それが心配だ。
 このままではまず精神が保たない。
 昨晩の食堂での筋肉馬鹿への呼び名のことなんかこっちは気持ち悪くて泡を吹きそうになったし、その後の女子だけのパジャマパーティではもう美鳥の発言が際どすぎて美魚の方は軽く悟りを開きそうになったほどだ。
 ならもうとっとと美鳥と交代してしまえばよかったのだが、けれど美魚はなんとなくそれが言い出しづらいのだった。
 そもそももうクラスには美鳥の明るすぎなイメージが知れ渡ってしまったのだから、そんなのもう今さらになってしまう。
 今さら自分が戻ったところで余計に危ない娘と見なされるだけだから、今日一日ぐらいはこのままでじっと耐え忍ぼうというのが美魚のひとまずの方針だった。
 しかしそれでも、いつまで自分の心が保つかわからない。
 美魚としては、もうなるべくこの美鳥には今日一日大人しくしていてほしいというのが本音だったが、まさかこの意地悪な妹がそんな願いを聞き入れるはずもない。
 駄目もとで、美魚はもう何度目になったかわからないセリフを口にする。

 ――お、お願いします……もう、できるだけ大人しくしていてください……まず私の方が保ちません……

「(え〜? そんなこと言われても〜。私の使命感的にはここでは『ガンガンいこうぜ!』でやらないとダメなんだよ)」

 ならそんな馬鹿な使命感はドブ川に捨ててしまえ、と美魚が叫び返しそうになった瞬間。

「あー、まだちょっと時間は早いが今日はここまでとしようか。それじゃ日直、黒板頼んだぞー。号令ー」

 そんな教師の発する言葉とともにクラスの日直が号令をかけ、美鳥ももれなく椅子から立ち上がる。
 そしてみんなで軽く礼をして、教師が教室を出て行った後、とたんに教室内が騒がしくなった。
 そこで美鳥がなにか行動を起こす前にもう一度念を入れておこうと美魚が口を開きかけた瞬間。
 美魚は、目の奥に怪しく煌めく光を見た気がした。

「へーいっ! りっきく――――ん、一緒にお昼食べよ――っ!」

 ――美鳥ぃぃぃぃぃ――――っっ!

 周りから放たれるクスクスとした失笑が、美魚の説教を絶叫へと変えたのだった。

 

 
 *

 

 
 疾風の騎士、という名が今の自分にはよく似合う気がした。
 手には一本の聖なる矢。風を切り、荒れた戦場を駆け抜け、宙に踊る。
 護るは青鳥。狙うは大将。
 今、直枝理樹は、疾風迅雷の気を身に纏い、思いきり白の大地を蹴った。

「好機っ!」
「甘い!」

 空中で理樹が投擲した矢は謙吾のジャンパーによってぴしゃりと弾かれた。
 理樹は地を這うようにもう一度低く地面を蹴って、宙を舞っている矢をそのままダイレクトでキャッチ。すかさずバックステップで謙吾と距離を取り、後方の姫を護る。
 まさか、あそこに回り込まれるとは思わなかった。

「ちいっ! 塞がれたか……!」
「わふぅーっ!? 間一髪でした!? せ、せんきゅーです、宮沢さん!」

 奇襲は失敗。ターゲットであるクドの安堵した声が聞こえてくる。
 こちらの大将の姿をおおっぴらに見せて謙吾の気を引いておき、その隙にナイトの理樹が素早く回り込んでターゲットを討ち取るという作戦だったが、間一髪というところで戻ってきた謙吾のジャンパーに食い止められた。
 予想通り、なかなか手強い。
 理樹は向かい合った状態で謙吾の動きから一切目を離さず、じりじりと互いに隙を窺うように睨み合ってから、一つの提案を投げかける。

「真正面からぶつかる形になっちゃったね……これじゃなかなか埒が明かないな。ここはひとまず、互いに引き下がるってのはどう?」
「ふん、だまし討ちしてきたお前が言うセリフか? ……まあよかろう。それはこの場合の最良の選択肢だからな。だが……お前の目はまだまだ俺と闘いたがっているように見えるが?」
「できることなら今すぐにでも後ろのクドを討ち取りたいよ……謙吾みたいな強敵は、今のうちにとっとと倒しておきたいからね。けれど、こっちの後方をがら空きにしておくわけにもいかないんでね……」

 不敵な笑みとともに理樹がそう呟いた瞬間だった。
 理樹のこめかみからすっと頬に汗が滴り落ちる頃、後方の青鳥の姫がなにか騒ぎ出した気がした。
 謙吾の動きに最低限の注意を払いつつ後ろを振り返ってみれば、そこにはなんと別の勢力の姿が。
 まずい。
 奴らは、がら空きになってしまった姫のことを狙っている。
 それにこのままでは自分たちは必然的に挟み撃ちとなって負けるのは必至。
 理樹は、冷えた頭で瞬時にこれからの対応を検討し始めた。
 
「おっ! ターゲット発見したぜ! しかもバトル中じゃねえか!」
「おおーっ!? ラッキー! がら空きですヨ、がら空き! ほらほら真人くん! 理樹くんチームを討ち取りますヨ!」

 意気揚々とした敵の声が聞こえてくる。
 隣の教室へと隠れるのは、ダメだ。逃げ場がない。じりじりと追い込まれてアウトだ。
 ならば後方の真人組の方を突破するか。
 それもいいが、勢いづいている二人の壁を無傷ですり抜けるのは至難の業だ。
 だったら、と理樹は矢を握りしめる力を強くし、すぐさまもう片方の手で姫の手を掴んで走り出す。
 攻めるのは、そのまま前方の謙吾組だ。

「隙ありだっ!」

 姫の手を掴みに一旦後方へ下がったのを好機と取ったのか、謙吾が一気に跳躍してこちらに攻め込んでくる。
 狙っているのはもちろん、こちらの大将。
 謙吾の投擲コントロール力は未だ情報にないが、その並はずれた戦闘力と反射神経を考えれば、理樹がここで小手先の対応を取っても簡単に討ち取られる結果となるのは推して知るべしだ。
 しかし、ならば小手先の対応を取らなければいいだけのことだ。

「な!? がはっ!?」

 人間は攻撃している時にこそ最大の隙が生まれるもの。
 跳躍した状態で回避が不可能となっていた謙吾の腹に、こちらも体を丸めて勢いよくタックルをかましてやった。
 あちら素人だと思って油断し、大振りとなって攻撃に転じてきた強敵への会心のカウンターが成功した。
 理樹は姫の手を思いっきり引っ張り、そのまま遠心力で前にぶん投げるようにして、ターゲットのクドへと突進させる。

「なにいっ!? あ……し、しまった!」

 そしてその姫の手の中には、あの例の矢が握られていた。謙吾もその意味を一瞬で理解したはず。
 
「わふーっ!? に、逃げるですっ!?」

 先ほど謙吾にタックルを食らわせた際、理樹はこっそりと姫に矢を手渡していたのだ。
 姫とはなにも打ち合わせなどしてなかったが、あの目前が利く人物あれば瞬時にその全ての意味を理解したであろう。一目散にターゲットのクドへと突っ走っていった。
 そもそも、ターゲットに攻撃していいのはなにもナイトだけとは限らない。ルール上はまったく問題ないはずだ。
 クドもすぐにこの状況の意味を察知したのか、あたふたとしながら全速力で後方の階段側へと走り出した。
 
「させないよ!」

 理樹は、すかさず謙吾と姫の直線上に割り込むようにダッシュし、そのまま謙吾の投げた矢を肩先で受け止める。
 そしてきゅぽん、と先端を外し、そのまま隣の空き教室へとスローイン。
 後ろから謙吾の絶叫が聞こえた気がした。

「わ、わっふぅー!?」
「ごめんよークーちゃん! はーい、討ち取ったりー!」
「うひゃーっ!?」

 そして、成った。
 ここから遙か前方の彼方で、やっとクドに追いついた美鳥が、その頭の上から矢を突き刺していた。
 理樹はこれでひとまず安心した。なんとか無事謙吾組を倒せたことに取りあえず息をつくが、すぐに元のように顔を引き締める。
 現在無防備となってしまっている美鳥の前に新たな敵が現れてしまったら大変だ。
 これは相手への情も誇りもなにもない無慈悲なバトルロワイヤル戦なのだから、自分たちは一時たりとも油断はできないのだ。

「く……っ! お、俺としたことが! すまん能美ぃ――!」
「ちっ! なんだよ、終わっちまったのかよ! くっそぉ!」

 後方から聞こえてくる悔しげな声を耳にしながら、理樹は廊下の角を全速力で曲がりきる。
 そしてその先の光景を見ると、理樹はようやく体に溜まった緊張の塊を吐き出すことができた。

「わふー……」
「いやー、危なかったねー。でもさっきの理樹くん最高だったよ! これで謙吾くんとクーちゃん組は撃破だね!」
「うん。けれど、まだ後ろの方にも真人組がいるから油断はできないよ。取りあえずここから急いで移動しよう。ごめんねクド!」

 理樹は美鳥に矢を返してもらい、片手を上げてクドに挨拶してから、駆け足でそのまま階段を上っていく。
 そして三階にまで一気に上りきり、その先の廊下に敵の姿がいないのを確認した後で、もう一度ゆっくりと安堵のため息をついた。
 階段の入り口から数歩足を動かして、少し距離を取る。
 この距離が、一番安全な位置だ。
 階段を上がってくる敵も廊下の向こうからやってくる敵も、どちらもすぐに察知できる。
 そして念のため、向かいにある教室の中も確認した。
 さっき自分たちがやってみせた奇襲作戦というのが、その教室の中を利用するというものだったからだ。

「ふ〜……疲れたね〜。日頃から運動不足だからかな? すぐに息が上がっちゃうよ」
「さっきは体力有り余ってるとか言ってたじゃない……でも、すごい良い動きだったよ。美鳥」
「え、本当? やったぁ〜、ナイト様に褒められちゃったにゃ〜ん♪」

 言葉の意味を二重に被せてくるのは美鳥の常套手段だ。いちいち真剣に考えてたらキリがない。理樹は仕返しとして、こちらも意味が二重に取れるような曖昧な笑みを美鳥に返すことにした。
 美鳥が言っているナイトというのは、ただのこの昼休みに行われているゲームの中にある役割の名称にすぎない。
 恭介が考案した『姫とナイトのバトルロワイヤル! 〜勝ったご褒美にチューがもらえたら嬉しいな〜』といういつもの通り謎のタイトルとなっているこの馬鹿なバトルゲームは、そのタイトルからは容易に察することができないが、要はただのチーム対抗のバトルロワイヤル戦ということである。
 恭介がまず用意したのは五本の玩具の矢。それを二人一組となった五つのチームにそれぞれ一本ずつ分け与え、その矢を使ってバトルし合うという方式だった。
 相手の姫役(別にターゲット役でも大将役でも色々呼び名は変えていい)に自分たちの矢を突き刺せれば勝利。逆に相手に突き刺されれば敗北となる。
 そして、その姫たちをそれぞれ身体を張って守り抜くというのが、理樹や謙吾たちナイト役ということだった。

「ふーむ、真人くんたち追ってこないね〜。まあ、あんな予測つかないチーム相手にするもの嫌だけどね。ふふん」
「うん。姫役がなんとあの葉留佳さんだからね……でも僕はなんだかんだ言っても、あの恭介チームを一番相手にしたくないかな。言わずとも最強のチームって感じだもん」

 先ほどの攻防の通り、このゲームは姫とナイトのチームワークこそが勝利の鍵となる。
 つまり姫といってもただ後方でじっとナイトの闘う様子を見ているだけでなくて、どんどん自分から動いていく必要があるのだ。
 姫自身がよく動き、それでナイトとの連携が合えば合うほど、そのチームは強敵ということになる。
 その点、恭介と鈴のチームは現時点で最強の組み合わせと言えた。
 いまだ理樹たちは彼らと鉢合わせていないが、もし相対する状況となったら、そのときは速攻でリタイアさせられる覚悟を十分にした上で闘いに臨まねばならない。
 さて、ならば次にこのバトルフィールドに現れるのは来ヶ谷組か、恭介組か、と理樹が真剣な顔で作戦を練り始めた頃、隣で壁に寄りかかっていた美魚がこちらを見ながら一つ咳払いをした。
 少し話を、ということだろうか。
 ゆっくりと理樹はそちらに顔を向ける。

「あのさ〜……」
「ん?」

 そうして少し目を伏せて言いよどむ美鳥の姿は、そのまま美魚だと勘違いしても不思議ではないほど淑やかな様だった。
 思わず、理樹の心臓がわずかに跳ねる。
 自身の中の朧気な記憶によれば、美鳥はこうして制服の上着を着ていることもなかったように思う。そのためか、今纏っているめずらしい雰囲気と相まって、どことなく新鮮なふうに理樹の目には映ってしまうのだ。
 美鳥は、少し恥ずかしそうに目線を下にずらして、ぽつりぽつりと囁くように声に出す。
 そんな慎ましやかな様子が、もしかしたら美鳥の作戦だと勘ぐってしまう自分は最低な男なのだろうか。

「なんかさ、意外と楽しいんだね〜……こういうの。美魚って、こんなこと毎日やってたんだ……」
「あれ? 美鳥は、いっつも西園さんの目からみんなの様子を眺めてたんじゃないの?」

 自分では至極真っ当な質問かと思ったが、美鳥はおかしそうに首を横に振って笑いながら答える。

「あはははっ。私のことは呼び捨てにしてるのに美魚のことはさん付けするってなんか不思議な感じだね。うーん、でも、いつもいつも見ていたわけじゃないよ。現に私は、君たちの夕食の取り方をあんまり知らなかったじゃない。それにやっぱり、遠くからじっと見ているのと、ちゃんと体験してみるのは全然違うと思うよ。ほら、百聞は一見に如かずって言うじゃない?」

 ぴんと人差し指を立てて講釈するように言う美鳥に、理樹は黙って頷いた。
 それはやっぱり、きっとこの美鳥は今、別に演技しているわけではないのだと思ったから。
 仮にこの言動が演技だとするならば、美鳥はあの世界でのリトルバスターズとの生活をきっと一番最初に考慮に入れるはずだ。
 それがないということはつまり、美鳥はこうして本当のリトルバスターズと遊んでみて、本当にとっても楽しかったということだ。
 それは、理樹をからかうのを忘れてしまうほどに。
 それで純粋に嬉しくならないほど、理樹は捻くれた馬鹿じゃない。

「なんてーか……いいもんだね、こういうのも。ただ美魚の気持ちをどうにかするために最初はこっちに来たんだけど、なんかさ……これじゃ、私の方がまるで……」
「え……?」
「い、いーやいやっ! なんでもないよ!? あ、あはは! なに変なこと言ってるんだろうね私ったら! 似合わないなー!」

 美鳥は慌てて手を振り、そして誤魔化すように陽気に笑う。
 笑いながら頭をかいて、少し気まずそうに視線をきょろきょろと動かす美鳥を見て、理樹はふと思った。
 こんな、年相応の少女らしさが滲み出た美鳥を目にするのは、もしかしたら初めてかもしれないと。
 いつもは人前で陽気に笑っていても、どこかそれは気持ちが冷めたようで、一歩引いた状態で相手と接しているという印象が強かった。
 いちいち『演技』という分厚い仮面をかぶった上でみんなと接しているという印象が強かったのだ。
 まだ理樹は美鳥と再会して一日とも経っていないが、今までのやり取りの中でなんとなくそんなふうに美鳥の姿をイメージしていた。
 しかし、ならば今の切なげな美鳥の笑顔は一体なにを意味するのだろうと思う。
 無遠慮だと思いながらも理樹がそのことを頭で考え始めた瞬間、長い廊下の正面の方から、やかましい騒音が耳に入ってきた。

「ふははははははははは――――っ! さぁ追いかけてくるがいい、棗兄妹!」
「やーんっ! 唯ちゃん待ってぇ! ぱ、パンツ見えちゃうよぉ! もういいから降ろしてよぉーっ! もう私たちの負けでいいよぉー!」
「ち、ちくしょう! 今すぐ助けてやるからな、小毬! お……おおう、不思議動物……」
「なに見とんじゃど変態っ! 待ってろこまりちゃん! 変態は全部あたしが倒してやるからな! こぉーのぉーっ! 待てくるがやー!」

 向こうから全速力で駆け寄ってくるのは、嬉しそうに口を歪ませる来ヶ谷と、その脇にちんまりと抱え込まれた小毬。
 ひらひらと風に舞うスカートの中身を見てしまったのか、顔を真っ赤にした恭介と鈴がその後に続いていた。
 そして、どうやらやがて向こうの集団もこちらの存在に気がついたようだ。
 あちらとの闘いは避けられないか。
 理樹がそう思って体を強張らせた瞬間、ふと隣からかすかな笑い声が聞こえた気がした。
 それは、これで余計なことを考えないで済む状況になって安心したのか、もしくは楽しすぎる今におかしくてつい笑ってしまったのか。
 でもそれは理樹にはよくわからなかったことだったし、深く考えている余裕もなかった。
 ただ、これだけは思う。

「よし! 行くよ美鳥! あの来ヶ谷さんの魔の手から小毬さんを解放するんだ!」
「はーいっ! で、あわよくば恭介くんたちもついでに討ち取っちゃおうってことだね?」
「そういうこと!」

 お互い楽しそうに笑って頷き、走り出す。
 さっきの美鳥が浮かべた笑顔の意味は、きっと理樹にはわからない。
 けれど思うのはただ、美鳥と想いを共有しているはずの西園美魚なら、それを知れたのではないかと。
 そしてもう一つ。
 せめてこの美鳥も幸せであるように、ということだった。

  

 

 *

 

 

 軟式の野球ボールが、透き通るような水色の空に舞っていた。
 センター方面に弱く打ち上げられたそれは、ちょうどセカンドとセンターの合間にワンバウンドしてヒットとなるかと思いきや、素早く手前に走り込んできたセンターのグローブにぴたりと吸い込まれていった。
 同じ体であれど、運動神経の方はだいぶ違うらしい。
 嬉しそうな笑顔を作って鈴に投げ返す、美鳥だった。

「よし! ナイスプレーだ、美鳥!」
「えっへへー♪ 任せてよ恭介くん! 理樹くんもどんどんこっちに打ってきていいよ!」

 朗らかに胸を叩いて笑う美鳥に、理樹も笑ったまま頷く。
 まだ意識して打ち分けなどできる腕ではないが、どうしてか不思議と美鳥のいる方へとよく飛んでいってしまう。
 実は狙いやすい球が来たときだけ外野まで飛ぶようにと力を込めているのは内緒だ。

「うにゃっ!」

 鈴のあの燃えるような目。
 ライジングニャットボールか。

「えいっ!」

 放ってくる球がなんとなくわかっていれば、こちらもだいぶ打ち返しやすくはなる。
 ただ少し打った箇所が悪かったのか、ワンバウンドしてからのショートゴロになった。恭介が素早く拾ってファーストの謙吾に送る。
 そして最後にボールを投げ返された鈴の苛立たしく地面を蹴る音が、ピッチングがどうにも上手くいかないことからくる苛立たしさなのか、もしくは今ムカついている奴をなかなかぶっ飛ばせないでいることから来る悔しさなのか、それのどちらを示しているのかは定かではなかった。

「おーい鈴、あんま怒ってんなよー。もっと肩の力抜いていかねぇと筋肉動かねぇぞー」
「うっさいわぼけっ! だれが怒っとるっちゅーんじゃ! ちょっと手が滑っただけじゃ!」
「はっ、へいへい……ったくやれやれ。まだ鈴に筋肉方法論の話は早かったか。しょうがねぇな」

 端っこで素振りをしている真人からもやんわりと窘められるが、どうやら火に油を注いだだけに終わったようだ。
 続けて真人自身も意味不明なことを口に出して苦笑いしていたが、どうせいつものことだったので理樹は無視することにした。
 全てのボケにツッコみ続けるのは、さすがに疲れる。

「もっとこっち飛ばしてこーい! ばっちこーい!」
「おー、ばっちこーい! ですヨ! ……って、そもそもばっちこーいってどういう意味でしたっけ?」
「ん? ごめん知らないよ! でもよく言うじゃん、ばっちこーいって!」

 見ると、似た者同士ずいぶんと仲良くなれたようだ。葉留佳と美鳥の楽しそうな会話が聞こえてくる。
 理樹はそんな二人の期待に応えられるように、ぐぐっと手に力を込める。

「へいへーい! ばっちー♪ こーい♪ です! わふっ!?」

 だが手が滑った。
 調子外れなクドの謎の歌声に引き寄せられるかのように、稲妻のような鋭い打球がそちらの方に飛んでいってしまった。
 あれは、力のないクドに捕球できるような球じゃない。
 もしかしたらクドの顔に怪我をさせてしまわないかと理樹が慌ててバットを投げ捨て、駆け寄っていこうとしたその瞬間。

「うーりゃー! 美鳥ちゃん全力ダーイブっ!」

 センターから全速力で駆けてきた美鳥のダイビングキャッチによって、なんとか事なきを得た。
 理樹は思わずほっとため息をついたが、続けて舞い上がった砂ぼこりに、今度は美鳥の怪我の方を心配する。

「あ、ありがとですっ! 美鳥さん! って、だ、大丈夫ですか!? お怪我は!?」

 クドの慌てふためくような声が聞こえる。
 その近くにいた葉留佳、恭介、小毬たちも一緒に心配そうに駆け寄るが、立ち上がった美鳥はなんでもないようにポンポンと制服を叩いて笑いながら言い返す。

「んー? これ? ぜーんぜん大丈夫だよー。美魚の体も実は結構頑丈みたいだねー。どこも痛くないよ?」
「ほ、ほんとですかー……?」

 ただの強がりではないそんな言い方に、理樹の方もほっと重苦しい息を吐き出した。
 野球の練習でこういう危険なプレーに出くわすことはたまにあるが、そんなときは決まって自分の調子が悪いときだ。実際に怪我がなくとも軽い自己嫌悪に陥ってしまうというものだ。
 本当に、怪我がなくてよかった。

「ほわぁ……よかったよぉ〜……で、でも、今のすごいかっこよかったよー。みーちゃんー」
「え? そ、そうかなぁ? 私の運動神経だったら、これぐらいは普通だよ? 全然たいしたことじゃないってば」
「い、いえいえです! 危なかったところ、本当に助けてくださってありがとうございました! べりーべりーさんきゅーなのです、美鳥さん!」

 自分を救ってくれたスーパーマンを見たかのように、クドはその碧眼をキラキラと輝かせて深く頭を下げる。
 そうまで言われてしまうと謙遜するのも失礼だと思ったのだろう、美鳥は似合わずながら頬を少し赤らめて、目を逸らしつつそっと答える。

「ど、どういたしまして……。で、でもさ、私たちはリトルバスターズって仲間同士なんだから、これぐらいは当たり前なんじゃない? あの美魚だってみんなが怪我したときは治療してくれたんでしょ?」
「はいです! だから、美鳥さんにもありがとうなのです! 西園さんと同じでとってもありがとうなのですよー」

 クドはもう一度、本当に嬉しそうに笑って頭を下げた。
 しかしそんなクドの真摯すぎる笑顔と言葉は、時として刃にも似てしまうのだと、理樹はこっそりと美鳥の顔を見て思った。
 美鳥は、苦しそうに目を細めながら笑っていたのだ。

「あはは……よくわかんないよ。大げさだなぁ、クーちゃんは」
「わふ?」

 けれど、傷はいつか治るというもの。
 少なくともクドが持つ刃は、その傷が治ったときにはもっと頑丈な体にしてくれる、そんな魔法を持った優しい刃であった。
 ぱしぱしと少し茶色に染まった手でクドの帽子を叩く美鳥は、照れくささからか目を若干伏せて、囁くように言葉を続けた。

「でも……ありがとね。クーちゃん。きっと私は、そんなお礼なんてもらっていい人間じゃないと思うんだけど……うん、ここは黙って受け取っておくことにするよ」

 美鳥が浮かべた自虐的な笑みは、きっと理樹や恭介以外にもちゃんと伝わったのだろう。
 きっとこの一日にも満たないわずかな時間で、美鳥はそこまで本音の表情を出せるようになっていた。
 それは理樹にもとても嬉しく思えたけれど、実際にその言葉を放たれたクドは不思議そうに首を傾げていた。

「はれ? なんで美鳥さんが私にお礼を言うのですか?」

 美鳥は少し驚きに目を見開いて、その後にまた苦しそうに顔を歪めて笑ってみせる。

「なに、そんなこともわからないの? やっぱりだめだなぁ……クーちゃんは……でもそこがかわいいんだよ!」
「へ? わ、わふー!?」

 じんわりと瞳の奥に滲む涙を誤魔化すためだろうか、と理樹がちょっと思ったのは、もしかしたらこの美鳥への裏切りになるかもしれない。
 美鳥はしっとりとした場の雰囲気を無理やり吹き飛ばすかのように陽気な笑顔を浮かべ、クドの顔にもにゅもにゅと頬摺りし始めた。
 この場に来ヶ谷がいれば、咄嗟に葉留佳や小毬をも巻き込んで「全部私がいただく!」などと大騒ぎになるかもしれないが、美鳥とクドが気持ちよさそうにこうしているだけでは、その周囲を囲む雰囲気はまったく変わらないようだった。
 むしろ、綺麗に締められたとさえ思う。美鳥の予想に反してだが。
 これなら、美鳥が自分たちと本当の仲間になれる日は、意外と近いかもしれなかった。

「って、なーに嫌らしい笑みを浮かべちゃってるのかな理樹くんはー! あ〜……もしかして、君もクーちゃんとほっぺたぎゅ〜ぎゅ〜したいの〜? うっわ、どうするクーちゃん? やってあげる?」

 って、ちょ! とツッコむ暇も与えず、美魚は意地悪く笑う。

「は、はええっ!? り、りりりリキとですか!? そ、それは、あの〜……ちょっと、いろいろともんだいがあるといいますか〜……えっとその、わたし、その……今すぐにはちょっと〜……」
「だってさー! ごめんよ理樹くんー! 君も女装してこないとダメだってー」
「っていやいやいや、誰も言ってないでしょそんなこと! それに僕女装してまでそんなことクドに頼み込んだら、まるっきり変態になっちゃうよ!」

 そんな理樹の切実な叫び声に、周りからは楽しそうな笑い声が上がった。
 今度こそ美鳥の企みは成功したようで、だんだんと周囲に元の活気づいた雰囲気が戻ってきた。
 そのだしとして自分が使われたのであれば複雑な気分にならないこともないが、結果として理樹もその空気に乗じて笑ってみせたのだった。
 美鳥がそういう気持ちであるならば、理樹としては一切邪魔をしないつもりだった。
 だって自分は、決して美鳥にとって特別な人物になろうとしているわけではないのだから。
 ただ理樹は、美鳥の幸せを望んでいるだけだ。ただの親友として。
 それをただの偽善だと言われたらおしまいだが、こうして心のうちで願うだけなら構わないだろう。
 心の中で思うだけならば、偽善も自由だ。
 理樹はみんなと一頻り笑った後、再びバッターボックスの方へ歩き出すが、調子づいた美鳥によって腕を引かれる。

「もー、クーちゃんを見てあんなに息を荒らげてた人にもうバッターは任せられないよ。また危ない球をクーちゃんの方に飛ばして、『だ、大丈夫かいクド!? 怪我してないかい!? よし、ならば今のうちに……すりすりはぁはぁすりすりはぁはぁ』とかしちゃおうと思ってるんでしょ? 全部見抜いてるんだからね」

 そして、最高に酷い言いがかりだった。
 隣で恭介が驚いたように目を見開いていたのは、なるほどその手があったか、と思っているせいだろうか。
 美鳥はそんなお説教をするような厳しい口調とは裏腹に、自らの唇の端を最高に楽しそうに吊り上げて、さらに続けた。

「というわけで理樹くん、バッター交代ね。今度は私が打たせてもらうよ。ね、いいでしょ恭介くん?」

 顎に手を添えて一人考え込んでいた恭介は突然はっとして、誤魔化すように気丈に笑って答えた。

「あ、ああ! もちろんだとも! なるほど、美鳥がそう言うなら今日は全体のバッティング練習としちまうか! よーし、理樹はキャッチャーに就け! ピッチャーの鈴とコンビを組んで、誰一人として打たせないようにしろ! いいな!?」

 恭介に強く指を指されて、命令される。
 まさか恭介のロリ属性を読んだ上で、とは思いたくないが、美鳥がすぐさま恭介に話しかけたことは正解だったようだ。
 滅多なことじゃ恭介は全体の指揮を執ろうとしない。
 なによりもまず全員が楽しむことを目的にしているから、いつも恭介は気が向いたときにでも適当に練習メニューを考えたり、調子がいいときに漫画に書いてあったプレーをさせたりなどしかやってこなかった。
 なのに、今はこれだ。
 理樹の嫌そうな声など、みんなの気合の入った大声にかき消されてまったく聞こえちゃいない。
 ふとマウンドの方に目をやれば、鈴はこちらをちらりと横目で見ただけですぐにぷいと顔を逸らしてしまう。
 あんな状態で鈴とバッテリーを組めというのか。
 せめてこれを機に仲直りができればいいのだが、などと理樹はのんきに思いながら、キャッチャーのマスクを被りに行く。

「よぉーっし! さぁ鈴ちゃん、どこからでもかかって来なさい! 今溜まっているストレスを全て理樹くんにぶつけるように!」
「ちょっ、それは普通、自分にぶつけろって言うんじゃないの!? なんで僕なんだよ! や……やだよ鈴! 僕は健全なるフェアプレーを望むよ! あのとき勝手に逃げたことだったら、いっ、今すぐ全部謝るから! って、うひゃあ!?」

 もはや百四十キロを超えていたのではないかと思える剛速球は、しかしミットには到達しなかった。
 代わりに耳に入ってきたのは、小気味よい弾けるようなバットの衝撃音。
 そして美鳥の嬉しそうに弾んだ声と、鈴の驚愕したような叫び声。
 目をうっすらと開けてみれば、見えるのは、やや赤みが差し掛かった青空に高く舞い上がった野球ボールだった。
 そして美鳥はみんなからの歓声を受け、本当に幸せそうに笑って、手を振り返した。
 幸せな美鳥に、理樹もまた怯えた顔を溶かして、幸せそうに笑ってみせたのだった。

  

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