吐く息も白くなってきた12月の初め。
化学実験室。
まだ昼休みだというのに、ここはやたらと薄暗い。
全ての窓に対してカーテンがかけられ、入り口のドアにある小さな光源にさえも暗幕がしかれている。
まるで、誰の侵入も許さないといったほどの手の込み様。無駄に怪しい雰囲気である。
この科学部という連中は、こういった黒魔術的なアレがお好みらしい。
自分たちがまるで本当に中世の魔術師にでもなったかのように振る舞う科学部員達を前にして、そこに佇む来ヶ谷唯湖はとても愉快そうに微笑んだ。
「――例のものは」
「ここに」
「……うむ」
部員の一人が、大きなアタッシェケースを手に持ってやってくる。
そして、来ヶ谷の手前にあるテーブルに静かに置き、横についたキーボードを使って長い暗証番号みたいなのを淀みない動きで入力していった。
すると取っ手の横についたネジが自動的に外れ、そこから『ぷしゅーー』とわざとらしい煙が出てきた。ぶっちゃけ無駄な演出である。
ちなみに、来ヶ谷以外の部員は全員ガスマスクをしている。これも無駄である。
だが当の来ヶ谷は、そんな無駄で怪しい雰囲気を嫌う人間ではなかった。
いやむしろどんどんやれと。
カオスな雰囲気はおねーさん大好きだぞ、と。
一時の『楽』の感情のためにはどんな労力さえも厭わない彼女は、ある意味この中で一番『らしい』存在だった。
「ふ……」
煙を吐き出しながらゆっくりと開かれていくアタッシェケースを前にして、来ヶ谷は嫌らしく笑う。
何も知らない人間がこの光景を見ていたとすれば、来ヶ谷唯湖はもう完全に謎の組織のラスボスとなっていただろう。
まあ実際には、ただの依頼人――もっとぶっちゃけて言えば、ただの脅迫人であったに過ぎないのだが。
「うむ……確認した」
「――ではこれで、私たちのことは」
横から聞こえてくるくぐもった声に、来ヶ谷は涼しげな笑みを作って答える。
「構わんよ。君たちが恭介氏や西園女史と結託して怪しい薬を作り、その見返りに女装した理樹君の写真を受け取っていたことは黙っておこう」
「ありがとうございます」
「うむ」
そう頷いて、来ヶ谷はケースの中にあった『それ』を手に取って眺める。
特別人体に有害なものではない。当然ガスマスクもつける必要もないし、いちいち煙を吐き出させるぐらい保存に気を遣わなくても良い。
なぜならそれは――
「――効果は、覚えていますね?」
「わかっている。効果は約半日、そして幾つにも分けても良いということだったろう?」
「その通りです。ただしかし……あまりにも小さく分解しすぎてしまった場合、効果は保証できませんので。せめて半分くらいに留めておくことをお勧めします」
「ふむ……了解した」
そうして来ヶ谷は満足そうに『それ』をポケットに仕舞い、
「礼を言おう、科学部諸君。それでは、放課後を楽しみにしていたまえ」
はっはっはっはー、という不敵な笑い声と共に、ドアを開け放って去って行くのだった。
『……』
残された科学部員達はそれぞれ顔を見合わせ、足音が聞こえなくなった頃を見計らって――
『やっちゃった……』
――そう、後悔の言葉を洩らすのだった。
脅されていたとは言え、またもや規格外なものを作ってしまった。
何だか自分ら、あのリトルバスターズのお得意先になっちゃってない? なんて今更なことは誰も言わない。
ただここで思うのは、一番渡してはいけない人にあれが渡ってしまったという事実への憂慮と――
『(でも、ちょっと楽しみかもしれない……)』
――あれを食べさせられるだろう人への、僅かな期待だった。
そう。さっき彼女に渡した物は、まさしく食べ物だった。
今や科学部の主要な研究対象となっている――発している本人にも何だかよくわからない、何にでも融通が効くご都合主義100%配合のSS作家の皆さんに大変優しいアレ――NYP(何だかよくわからないパワー)の総力をぶち込んで作成した物。それは――
――セイカクハンテンダケ。
ネーミングセンス云々のことに関しては、これを最初に口に出した人に言ってもらいたい。
「ふ……」
来ヶ谷は6限目の数学を一人サボタージュし、裏庭にあるお茶会のテーブルに腰掛けて、その例の物を弄くりながら作戦を立てていた。
どうやらこれはその名の通り、食した人間の性格を逆転させる効果を持った茸らしい。
原理は全てNYPだとか。全てそれで片づけようとするのもSS作家としてどうかと思うが、ここで人格を再構成させるだの、新たな人格に元の人格を乗っ取らせるだの、そんな中二病的な小難しいことを長ったらしくちまちまと説明させられるよりはまだ私が楽が出来ていいかと来ヶ谷は何となく考える。
――重要なのは、誰に食べさせるか、だ。
効果は科学部で既に実証済みとのことだが、今の自分の目では確認しようが無いため、100%信用は出来ない。
どの程度まで性格を逆転させることが出来るのか、そもそも逆転させる際の基準となるものは一体何なのか、それらは全て曖昧だ。
だって何だかよくわからないパワーだもん。しょうがないじゃん。
――だが、それでこそ面白いというものだ。
……来ヶ谷は、こういう得体の知れないものに対してはいつも貪欲だった。
それは生まれつき持った並大抵ではない知的好奇心からか、それとも昔ずっと退屈な日々を過ごしてきたことからの反発なのか、はたまた全く無関係の所から来た……自分が被害者になるわけではないということからの無責任さからなのか。
その原因の所在を来ヶ谷は一瞬頭の隅で考えたが、それもまたどうでもいいことだと思い適当に打ち消した。
「これを誰かに食わせるとして……候補は」
まず最初に思い浮かぶのは、いつも自分と仲が良い三枝葉留佳――――却下。
別に反転させても面白くはない。
どーせ二木佳奈多のようなお堅いツンデレになるか、自分のような冷めた人間になるだけだ。
あれで意外と彼女は常人の部類に入ることを思い出して、来ヶ谷は再度頭に検索をかける。
なるべくもっとぶっ飛んだヤツがいい。常人を表すバーを軽く振り切るぐらいに。
……そんな奴居たっけか、と一瞬思い悩んだが、それに該当する人物はすぐに見つかった。
――クドリャフカ君なら、どうだ?
別に能美クドリャフカは変人ではないが、あのキャラは十分個性的だ。
舌っ足らずなあの口調、いつもほんわかした空気を醸し出している正統派天然素材。
あれにこの茸を食べさせることが出来れば……いや。
――やめだ、やめ。
意外と上手くいかないもんだ、と思いながら頭を振る。
能美クドリャフカを反転させた場合、どうなる。
……想像したくもなかった。
ヤンキーのようにグレてるクドリャフカなど、絶対にご免だった。
あの舌っ足らずな喋り方で井ノ原真人のような台詞を言って貰うのは、それはそれで一見の価値があるが、別に最近は奴の影響も受けてか、調子が良い時にはどんどん乱暴な言葉遣いをするようになっていたので、わざわざこれを使って見る意味も無いだろうと思った。
「ふむ……では」
ならば、あの筋肉馬鹿――――は、どうでもいいか。
どうせ反転させても理樹少年のような貧弱ツッコみキャラになるだけだ。気持ち悪すぎるので即刻0,1秒で却下である。
……我ながら、何で一番最初に出てくる異性の名前があいつなのだと半ば理不尽な気持ちになったが、目的のためにとすぐに頭を切り換えた。
「……なかなか丁度良い奴が居ないな」
テーブルの上で茸をくるくると回しながら考える。食べ物で遊んじゃいけません。
「小毬君は……ダメだ。クドリャフカ君と同じになる」
同じ理由で理樹もダメ。
来ヶ谷はどちらかと言うと、冷めた系は好きではなかった。
いや、それが佳奈多のようにツンデレだったり、美魚のようなクール天然系だったならまだ許せる。むしろ好きだ。
だが、だとしても、わざわざこれを使って見たい程でも無い。
冷めた奴なら……もうここに座っている人間だけで十分だからだ。
「ふ……」
――と思った所で、来ヶ谷は、いつの間にか自虐的なことを考えていた自分に苦笑する。
誰かが傍に居るわけでもないのに、そうやって卑屈になる理由は何だろうと。
自分は……そうやって何を求めているのか、と。
だがそれは、簡単に出せる答えでも無かったし、そもそも一人でこんな暗いことを考えるのも馬鹿らしいと思ったので、とっとと頭の隅に追いやることにした。
――まあ、一人だから……こんなことを考えてしまうのだろうが。
そこで来ヶ谷は、ある一人の少年の顔を思い浮かべる。
一人の馬鹿な少年。
自分がこうやって暗くなりそうな時には、必ず傍で馬鹿をやってくれていた少年。
……それにどれだけ自分が救われていたか、今はもう考えるまでもない。
来ヶ谷自身、決して表には出さないが、彼には最大限の感謝と尊敬の気持ちを抱いていた。
彼は今の自分にとって、やはり…………と、そこまで考えた所で。
――いかん、いかん。
慌てて頭を振る。
今はそんなこと、どうでもいい。
今考えるべきなのは、これを誰に食べさせるか。それに尽きる。
せっかく科学部にここまでやらせたのだ。ここで何もしなかったのなら、彼らの頑張りが無駄となってしまう。
そんな、いつもの行動からは全く意外な程の律儀さをもって、彼女は思考を再開する。
「理樹君もダメ。小毬君もダメ。筋肉もダメ。クドリャフカ君も、葉留佳君も……」
――ダメだ。
これ以上のアプローチは無駄だとわかった来ヶ谷は、一度まず自分の理想とする人物像を特定することにした。
――まず、絶対にこれを使わないと見ることが出来ないような性格の奴が良い。
せっかくなのだ。普通に性格を逆転させて、きゃーわーすごーい萌えーだけでは面白くも何ともない。
これを使わないと、絶対に見ることが出来ない。
これを使えば、絶対にしてくれそうもないことをしてくれる。
そしてその上で、自分の好奇心を満たしてくれるような、さらに自分の趣味に合うような……そんな人間。
そんな都合の良い人間が、果たしてこの学校に居るものかと少し疑問に思った所で。
……来ヶ谷の頭の中に、一瞬の閃光が走った。
「――なんだ、居るじゃないか」
見つけた。
最高にこれにお似合いの人物が。
自分のすぐ近くに。自分と同じクラスに。
「ふ……ふふ」
決めた。
今回のターゲットは、『あいつ』だ。『あいつ』しか居ない。それしか考えられない。
我ながらスーパーファンタスティックなアイディアだ、と存分に自分を褒めちぎった後で、立ち上がる。
それと同時に、申し合わせたように6時限目終了のチャイムが鳴った。
まるで運命の女神が自分を導いてくれているようだ、と若干ハイになった頭で喜び、来ヶ谷はこれからの予定を瞬時に組み立てる。
ここからはショートホームルームを挟んだ後、すぐに放課となる。
普段の来ヶ谷ならばこのまま先に野球の部室へと向かう所だが……今回ばかりは違う。
目指すは教室。ショートホームルームが終わる前にどうにかして辿り着き、そして――
「ふっふっふ……待っていろ、鈴君」
――これをどうにかしてあの子猫に食わせる。具体的な方法はまだ作者も検討中だ。
だが、これで自分のやることは決まった。
これを棗鈴に食わせ――性格を反転させる。
そして、某ハンバーガーショップも顔負けなくらいのスマイルで『お姉ちゃん♪』と呼ばせる。
いつもより素直になった鈴と、女の子らしいスキンシップ(という名のセクハラ)をしてみるのも良いかもしれない。
……ああ、何という挑みがいのあるミッションだろうか。
題して――
「――題して、『最強の天然系ツンデレ打倒作戦 by どうにかしてお姉ちゃんと呼ばせ隊』!」
……。
…………。
………………。
「行くか」
12月の風は寒かった。