5
 
 働き続ける彼の姿を見ているうちに、鈴の心の中に、彼のようになりたいという憧れが湧いて出てくるようになった。
 真人はバイトを続けている。建築関係の仕事。つまり大工さんだ。勉強もしている。設計や道具、はたまた新人の教育法まで熱心に。
 鈴は、新しくバイトを始めようと思った。
 真人に相談すると、面白そうだからやってみろと言われた。
 そこで、ペットショップに履歴書を書いて持ってったら採用してもらえることになった。
 だが、
「この子猫、かわいい〜。ねぇパパ、買ってよ〜。買って買って!」
「うん。まあそうだなあ。この子猫はどんな感じですか? よく動きますか? それとも大人しい?」
「レオノーレのことですか?」
「レオノーレ……?」
「あ、いえ、名前は勝手に決めてるだけなので……ええ。とっても元気に遊びますよ。いたずらもよくしますけど」
「よし。じゃあお父さんこれならいいぞ。きっといいペットになるぞ。じゃあ、これください」
「はい……」
 鈴はガラスのドアを開けて、ペットスペースに入っていく。
 レオノーレを抱くと、周りにいた彼女の友達のジャック・バウアーとフェニックス、和泉式部が不安げな眼差しで見ていた。
 売られていくのがまだわからないようである。
 鈴は固まった。
「レ、レオノーレを売る、だと……?」
 正面に抱き直した。
「こんな可愛いやつなのに……一緒に遊んだっけな……子供たちとも遊んで、また一緒に遊ぶ約束もしたっけな……あ、あ、あたしには無理だ! レオノーレをこのペットショップから追い出すなんて! ここは楽園なんだ! みんながいる、リトルバスターズみたいなところなんだ。なあ、式部。おまえもそう思うだろう?」
 鈴は抱いてガラスのドアから外に出た。
「こ、こいつの悪い癖を今から全部教えます……」
 鈴はあること無いこと語り始めた……。
 
 鈴は真人の部屋にやって来て、テーブルに突っ伏した。
 テレビを点けて、スルメをかじっていた真人は不思議そうに鈴の様子を観察した。
「何だ? どうしたんだよ、鈴」
「バイトやめちゃった……」
「あ? マジで? 入ってから一ヶ月で? うっわー、おまえ一体何やったんだよ」
「別に何もしとらんわ……」
 鈴はむくりと顔を上げる。
 涙が溜まっていた。
「だって……あたしには元々ペットショップなんて向いとらんかったんだ」
「一体何があったのか、言えよ」
「うん……」
 鈴は細かくこの前あったことを説明した。
 真人は手を額に当てる。
「だっはー……なるへそ。そりゃあ、だめだ」
「売り物にしなくちゃいけないんだって……愛着持ち過ぎちゃいけないんだって……店員は、割り切って考えないと……」
 鈴は顔を真っ赤にして怒った。
「アホか! あたしにそんなことできるかっ!」
「まぁ……おまえの場合、ペット売り場の店員っていうより、飼い主、って感じだもんなぁ」
「その形容は当たってるぞ。あたしは飼い主になったつもりでみんなを優しく育ててやった……どうしてそれを、見ず知らずの野郎に売り払えというんだ? 冒涜じゃないか?」
「いやオレに言われても」
「とにかく! あたしには合ってなかったんじゃ!」
 鈴は台所に行って、勝手に冷蔵庫を開けてミルクを飲んだ。
「ぷはぁ。ったく、やってられんわ」
「親父みてぇな飲み方するよなぁ……一応オレが口つけたやつなんすけど……あ、ビールじゃねぇだけマシか……」
「真人。飲むぞ」
「牛乳を?」
「全部飲み干す!」
「やぁーめろって! ほれ、麦茶にしとけ。腹壊すぞ」
「だって頭に来る!」
「おまえは悪くない! 分かってるよ! だから、とりあえずスルメでも食おうぜ!」
「あたしは悪くないのに無職になったことが腹に来るんじゃ!」
 鈴は麦茶の入った容器を持ってきて、コップから飲んだ。スルメを一つ取って噛み千切る!
「まったく……世知辛い世の中だなあくそ」
「おまえにゃ向いてなかったんだよ。別のバイトでも探せよ」
「うん……でも明日からにする……なんか今日、色々ショックじゃったから」
「あそ」
 真人はぼうっとテレビを見ている。
 鈴はクッションを胸に当てて、ぼこすか殴る。
 そのうち寂しくなったので、ちょっと真人の方へ移動すると、真人は笑いながら鈴の隣にやって来た。
 胸に頭を預ける鈴のことを撫でると、鈴は落ち着いたのか、盛大なくしゃみをした。
「は〜っくしゅん!」
「きたねぇ!」
「あ〜……真人。もう一杯!」
「え? もう全部飲んだの?」
 
 鈴は次の日も学校が終わると真人の家にやって来た。
 食事を終えると、鈴はタウンワークを取り出した。
「バイトなんて山ほどあるんだ……あたしに相応しいものがきっとあるはずだ……一緒に探してくれ」
「鈴のバイトかぁ……」
 真人はパラパラとタウンワークをめくる。
「そういやぁ、一度もこの前面接行くまでバイトしたことなかったんだっけ。鈴って」
「うん」
「ま、そうだよな。バイトする必要なんてねーし。おまえ金使わねーもんな。漫画くらいしか」
「それだ」
 鈴は指を一本立てた。
「あたしはもっと金を貯めようと思う」
「何で?」
「何でって、そりゃあ……将来のために?」
「将来? 将来、何かすんのか?」
 鈴は顔をひくひくさせた。
 明らかに不機嫌になったのが分かったので、真人は口を慎むことにする。
「あ! 鈴! これなんてどうだよ!?」
 鈴は顔を上げる。
「モデル! ファッションモデルだって!」
「いやじゃぼけ」
「え〜。何でだよ? 写真撮られるだけだぞだって」
「その写真が嫌なんじゃ。写真撮られるの嫌じゃ」
「ふ〜ん……」
 真人は、「あ、そういえばこいつ写真嫌いだったっけ……」と思い、後悔の念に駆られた。
「で、でもなぁ! 鈴、結構美人さんだしよ。スタイルもいいし、イケてんじゃねーかなーって……オレ……あ、いえ……その……ごめんなさい……」
 鈴が本気で怒っているのが分かって真人はどんどん小さくなっていく。
 鈴は溜息をついた。
「たく……まあ当然だがな」
「は?」
「おまえがあたしの美貌に見とれたことくらい千回も聞かされて耳にタコができとるっちゅーくらいだからな」
「オレ一回も言ったっけ。そんなこと」
「だが、モデルは却下だ。見ろ、こいつら足は長すぎるくらいだし、おっぱい大きい」
「へ? ま、まあ、そうだなあ……確かに、そうかな」
「あたしは需要ない……」
 勝手にへこみ出す鈴に、すぐさま真人はパラパラとめくって次なるバイトを探す。
「ちょっと貸せ」
「お? お、おう……」
 真人は考えた。
 いろいろなこと。鈴のこのけなげな姿を前にして。
「う〜ん。真人。あたしに合いそうなバイトを何か言え」
「何か言えって言ったって……」
「何でもいい。あたしがそれを取捨選択していく」
 真人は思案した。とりあえず思いつかないので、コンビニ。と言う。
「こんびに?」
「コンビニのバイトだよ……ああ、こう、『しゃっせ〜』って言ってみ」
「しゃっせ〜」
「あじゃじゃとした〜」
「あじゃじゃとした〜」
「プッ」
「?」
「だぁ――はっはっはっは! ウケる! だめだ鈴、オレ笑っちまうよ! 合いすぎ! おまえ合ってるよプハハハハハブゴォ!?」
「よけーなお世話だ……おまえが何言いたいのか分かってさらにむかつく……」
 蹴り飛ばされる。
「だってよぉ……イメージはいいと思うぜ」
「あんなところやじゃ。変なの来られても困るし、時給安いし」
「時給高いとこがいいのかぁ……」
 それから二人の問答が始まった。
「ウエイトレス」
「え〜」
「おお……なんか姿がエロいのしか想像できねぇ! カモ〜ンぐはぁ!」
「スケベ野郎!」
 テイクツー。
「じゃあ宅急便とか?」
「重いの持てない」
「だよなぁ……ガテン系だし」
 筋肉さえあるオレならできるが、と付け加える。
「じゃあ漫画喫茶?」
「漫画喫茶かぁ……」
「だめだ。漫画読み始めたら止まらんこいつ……じゃねぇと発狂しそうだし」
「おまえは何かあたしに失礼なことばっか言ってないか?」
 真人は小休止した。
 鈴がパラパラとめくっている。
「真人。家庭教師」
「ぶ! そこ改めてチョイスしますか鈴さん!」
「だめか? 大学生歓迎――って書いてるぞ」
「いろいろ問題あるだろ! 想像できねぇよおまえ、家庭教師ってよぉ。小毬や西園なら分かるが」
「む……じゃあ、ホテルの掃除・ベッドメイキングスタッフ」
「やめとけ。死ぬぞ。ストレスで」
「じゃあパソコンのオペレーター」
「おまえパソコン詳しいっけ?」
「理樹を呼べば何とかなる」
「うわ……おまえがやるんじゃねぇのかよ……おまえの存在が謎だよ……」
「ピザ宅配スタッフ」
「免許ねぇだろうが」
「パン屋さん」
「朝起きれねぇなおまえじゃ……」
「朝5時から勤務だって……死ぬな……」
「おまえじゃ無理だよ」
「はぁ……」
 鈴はタウンワークを投げ出して、溜息をついた。
「あたし、ニート状態から抜け出せるんだろうか?」
「何の話だ?」
「真人……働いていて、偉いなって……すごいな、って、思ったんじゃ」
「あ? オイオイ、いきなり何言い出すんだよ。オレなんかたいしたことねぇよ。そもそも――オレが働くのは――」
「おれが働くのは?」
「――何でもねぇ。一応目標あっけどさ。全部まだ発表できる段階じゃねぇんだ。もちっと何とかなったら言うからさ」
 鈴は何だか釈然としない思いだった。
 真人はコーヒーを入れて持ってきた。
「ほらよ」
「うん」
「だいぶ×埋まったな……」
「全部入れた。無理そうな職種……」
「後はほとんど時給安いな……なぁ鈴、働くってよ、金じゃねぇと思うわけよ。とくにおまえはさ。金にならない価値を持ってるんだからさ。お前のやりたいのやりな。楽しようとか思わずにな。そうすりゃ、多分おまえに向いてる環境が向こうからひとりでにやってくるぜ」
「真人……」
 鈴は嬉しそうな顔をした。
 楽しそうにまた冊子をめくる。
 すると、さっきからずっと惹かれていた一つの職種に目が行く。
「これがいい。見て、真人」

 鈴は公園で子供と戯れる。
「それっ!」
 縄跳びを使って、子供を真ん中で飛ばせてやる。
 今度はブランコ遊び。
 ボール遊び。
 おままごと。
 若くて綺麗なバイトの先生は子供たちから引っ張りだこに合っていた。
 
「真人! 最高に楽しいぞ!」
 真人はするめをかじっていた。
 鈴は興奮して顔を上気させる。
「貴明くんと加那ちゃんが実は恋し合ってるんだ……あたしはその仲をとりもった……でも、実は宗次郎くんも加那ちゃんのことが好きで、後であたしに相談してきた……」
「うん」
「それから、みんなで鬼ごっこして遊んだんだ!」
「え、宗次郎の話はどこ行った?」
「鬼ごっこの次はみんなで隠れんぼ、次はボールでサッカーをやって、女の子たちとも一緒におままごとして遊んだんだ! 子供の扱いが上手いって先生に褒められた!」
「ほぉ……」
 目まぐるしく変わっていく話の中身に真人は多少混乱していたが、その興奮ぶりからとても楽しかったのだろうと想像しても外れはなさそうだった。
 時給は安い。
 だけど、学童保育の仕事は鈴にピッタリだったらしい。
「あたし、子供とっても大好きなんだ」
 顔をほころばせて言う鈴に、真人は喜んだ。
「そうか。そうだよな。おまえ、大人より子供の方がなんとなく近いもんな。……おっと。蹴り……あれ? 来ねぇな」
「別に怒らないぞ」
「えー! 何でだよ!?」
「子供が大好きなんじゃ。そこでは絶対に暴力は禁止だ。先生が彼氏に暴力振るってるなんて噂に入ったら、とんでもないことになるじゃないか」
「先生って……もしかして、鈴のこと?」
 鈴はうなずく。
 真人は目が点になっていた。
「先生か……」
「先生は彼氏にとても優しくしてやるのだ」
「どうなるか見物だなこりゃ……」
「絶対に怒らないぞ」
「鈴、あのオレの作業着洗っといて」
「おまえで洗え!」
「あれ? 怒らないんじゃ……」
「くっ!」
 鈴は歯ぎしりをした。
「千円で手を打とう」
「高ぇよ!?」
 真人は自分で洗うことにした……。
 
 鈴はいつものように公園で預けられた子供たちと一緒になって遊んでいるところ、
「なんだよ! おまえ、オレのおもちゃ返せよ!」
「貸してくれるって言ったろ!」
「こら! ちょ、やめろおまえたち!」
 鈴が間に入る。
 喧嘩だ。喧嘩が起きている周りでは子供たちが静まりかえる。
「一体どうした?」
「だって健仁がオレにおもちゃ貸してくれるって言った!」
「言ってねーよ! ちょっと触らせてやるって言っただけじゃんよ!」
「うっせぇよおまえ! 生意気なんだよ!」
「やるか!?」
「あーあー」
 髪の引っ張り合いっこが始まってしまう。
 一旦そこだけは鈴の力で仲裁したが、その後、ボール遊びでサッカーをやっているとき、
「あ」
 健仁くんの蹴ったボールが、仁科秋男くんの顔面に当たってしまう。さっきの子だ。
「ふぇ……うえぇぇ〜んっ!」
 鈴たち学童保育の保母さんたちが集まるが、たいした怪我ではなかった。
 健仁くんに謝らせたが、それでも秋男くんは泣きやまなかった。
 秋男くんの姉と思しき人に引き取られていったが……。
 次の仕事の時。
「またか!」
 他の子供たちと遊んでいるときに、向こうで喧嘩が起きてしまう。
 この前の二人だ。
 今度は殴り合いの蹴り合いになってしまって、秋男くんが膝から多くの血が出る怪我を負ってしまった。
 そこからがまた大変になった。
 秋男くんの母親が抗議に来たのである。
 健仁くんの母親に対して慰謝料と治療費を請求する有り様となった。
「いいかげんにしてよ! また怪我させられて帰ってくるなんて信じられない!」
「信じられないのはこちらです。どうして子供の喧嘩で慰謝料なんか発生するんですか。最初に手を出したのは秋男くんの方らしいじゃないですか。おたくこそいい加減にしてくださいよ」
「何ですってこの!」
 親の喧嘩まで始まってしまう。
 子供たちが見ている。
 鈴は慌てて仲裁に入った。
「あ、あの――喧嘩はよくありません」
「あなたこそぼさっとしてて何子供に怪我させてるのよ! 職務怠慢なんじゃないの!」
「えっ」
 鈴は黙ってしまう。
「何ならあなたに治療費払ってもらいましょうかね!」
 それを聞いて先輩の保母さんが間に入る。
 そういうのは一切できないので。と言うこと。ただ極力へり下った、及び腰の対応だ。
「ふざけんじゃないわよ! どんだけ酷い怪我か分かってるの!」
 鈴は立ち向かった。
「あの、」
「何よ馬鹿ヅラ下げて!」
「喧嘩は、」
 両者の手を取って、
「よくありません」
 握手させる。
 そのままにさせる。お互いが汚らわしいものに触ったように引っ込めようとするが、
「子供が見ています」
 その声がいやにはっきりと両者の間に響いた。
「何よ! 元はと言えば――」
「あたしが慰謝料と治療費を払います。ごめんなさい」
 鈴は頭を下げる。
「でも、」
 両者に目を配る。そして後ろでじっと聞いている子供たちにも。
「子供に親が喧嘩しているところを見せてはいけません……だって、お母さんの怖いところを見たら、どんな子供だって思っていることを言えなくなります。あたしにもお父さんとお母さんがいます。でもあたしの前で怒鳴ることはありませんでした。……あたしが悪いことをしたとき以外は。でも両親が喧嘩していることをあたしたちは知っていました。でも、両親はあたしたちの前ではうまく演技をしていました……」
「何よ」
「プッ……全くその通りね」
 健仁くんの母親が笑い出した。
「こんなこと下らないわ。行きましょ、健仁。健仁、大丈夫だった? 怖かったわね……おいしいもの食べに行こうね。……なにがいい? ……」
 健仁くんの母親は去って行ってしまう。健仁くんを連れて。
 よく見たら子供たちも遠くへ行ってしまった。他の保母さんが遠ざけたのだ。
「何よ」
「あの、おいくらですか」
「うるさい! いらないわよそんなの! 馬鹿じゃないの! もうこんなところ二度と来ないわよ! ふん!」
 鈴は財布をしまう。
 秋男くんのお母さんが去って行ってしまうと、すぐさま他の保母さんが飛んできた。
 そこで初めて鈴の緊張の糸が解ける。――
 
 結果的に、鈴は何の注意も受けなかったし、また来週来てくれるよう頼まれた。よくあること、と先輩は言っていた。
 鈴はまたも真人の部屋でテーブルに突っ伏した。
「どした? 鈴」
「うん……」
 今度は何も言わない。
「何か言えよ。何か言ってくんねぇと、こまんだろ」
「言えない……」
「何か、つれぇことあったのか? オレ、そいつが来たら何か文句言ってやろうか?」
「違う! ……なんか、うまく言えない……。真人……あたし怖い……なんだかうまく言えないけど……言ったら、たぶん、めちゃくちゃになっちゃうと思う。あたし、つらいことあったんだ……でも、真人に言ったら卑怯になる……きっと、自分が嫌いになる……」
 真人はぽりぽりと頭をかいた。
 背中をゆっくり撫でてやることに決めた。
 しかしどうしたことだろう。
 ここに二人しかいないとは。
 部屋の大きさに真人は心を打たれた。
 鈴が泣くだけでこんな無力を感じる部屋だったっけ。
 真人はゆっくり背中を撫でた。
 喉につっかえているものがうまく消化できるように。
 言葉でない言葉で。
 真人は何かが足りないと思った。
 もう1ピースだ。
 そのとき、あることに閃いた。
 真人はその後もずっと撫でていたが、鈴はすすり泣きを最後までやめなかった。
 
 鈴が三日後にまた真人の部屋にやって来たときだった。
 鈴は三日間暗い顔を解くことがなかった。
 消化できている顔には全く見えなかったが、部屋の中に入ったとたん、その顔はみるみる和らいでいった。
「あ、これ……どっ、どうした!」
「子猫だって。同僚の家からもらって来たんだ。猫が子供産んじゃって、大変なんだってよ。前からちょっと考えてたんだよ」
「ここ、ペットオーケーなのか!」
「大家さんに了解もらってる。ま、犬じゃねぇならいいって」
 鈴はその小さな黒猫を抱き上げた。
 弱々しい声で「みぃ」と啼いた。
「マイルス……じゃ、なかった。名前決めないと」
「それよりもまずミルクじゃねぇ? と、オレも世話してくけどよ、基本オレあんまいねぇから、悪いけど、お前がちょくちょく世話してくれよ。可哀想だから、無理だったら帰してくるけど」
「ううん! だめ! こいつ絶対世話しなきゃ!」
「そっか」
「ねぇねぇ名前何がいいかな? 真人、決めていいぞ」
「えー? じゃあ……真人2号」
「おまえネーミングセンスのかけらもないな」
「みぃ」
「あ、笑った。かわい〜な〜……よしよし」
 鈴の胸に抱かれてる子猫。
 真人はそれを覗き込んでいる。不思議なものを見るかのように。
「なんかママみてぇだなぁ……鈴」
「勝手にママにするな。おまえの猫だろ」
「え? そりゃあなぁ……さて、猫について研究するか……一応、パパだと思ってもらえるようによ……」
 真人は猫の雑誌を持って奥へ入っていく。
 鈴がその後に続く。

 
 
 6
 
 真人は鈴に言った。
「どっか旅行行こうぜ」
「どこに?」
 ある週末の晩だった。
 真人が作ったパスタを食べ終えた二人は、お茶を飲んでぐうたらしている。
 鈴の膝の上に、真太郎(飼い猫。真人と鈴が命名した)が乗っている。
「どこでもいいんだけどよ。どっか行きたいとこあるか? 別に海外でもいいぜ」
「海外? じゃあ、ハワイ」
「即決だなぁ……何か思い入れとかあんの?」
「別にない」
 真人は笑った。
「そっか。じゃあハワイに行くか?」
「え、本気で行くのか?」
「本気だっつーの。金たまったし」
「マジでか! こっ、こまりちゃんに連絡しなきゃ! 理樹にも、恭介にも!」
「待て鈴!」
 鈴は立ち上がる。その膝から真太郎が飛び降りた。
「一つ言っておくが……オレとおまえの二人だぜ旅行に行くのは」
「ええー! こまりちゃん誘っちゃだめなのか!」
「いきなり海外旅行行くっつったって、用意とか無理があるだろさすがによ……オレはオレとおまえの分しか金出せないし」
「ええー。ぶーぶー」
「ぶーぶー言うな! あーその……オレはだな、その、おまえと行きたいわけよ。小毬や理樹たちとじゃなくてだな。どうだ?」
「ふーん……まーいいが」
 わりとすんなりいくもんである。
 真人はほっと溜息をついた。
「しかし、ハワイかぁ……行くなんて一生の間にねぇと思っていたが……鈴は行ったことあったっけ?」
「ないぞ」
「じゃまた何でハワイに?」
「だって、ハワイに行ってると言うと、大人のステータスになるかと思った」
「……とりあえず、旅行の計画たてるか」
「もっと楽しんで行くぞ真人! 二人なんだから、もっと盛り上げていかないと!」
「疲れんのはごめんだけどな……」
 真人と鈴の二人は、それから数日後にパスポートセンターに行ってパスポートの申請をしてきた。
 旅行は一ヶ月後。
 真太郎は鈴の実家に預けていった。鈴は旅行当日、朝はおそろしく早く起きて、真人宅を訪問した。真人が寝ているところを突撃したので、鈴にそのことを問い質すと、
「眠れなかった」とのこと。
 興奮している鈴をよそに、真人は旅行の引率の役も兼ねているのでうまく危険なく旅行できるか心配だった。
 車に乗って空港に向かうかたわら、鈴が
「そういえば、やっぱり飛行機で行くんだよな」
「ああ……おまえのことだから、何か別の方法で行くと思ってたんだろうが……さすがにオレの筋肉でも太平洋横断するのは酷だな……」
「違う。船だと思ってた。飛行機……か。あたしの場合、できればあれには乗りたくないんだがな」
「できればとか、もう予約済みっすから」
「にゃんだと!」
「当たり前だろ! まさか今から予約取り消せとか言わねぇよな!」
「あああ当たり前だ、いや、そうだな……おおお真人、ああああたし怖くなってきた……」
「え、おまえ飛行機苦手とか、そういうクチ?」
「真太郎も一緒がよかった!」
「無茶言うなぼけ!」
 空港に着いてからも、鈴は震え上がっていた。
 チケットを手に入れるときも、出国準備のときも、バスでハワイ便にまで向かうときも。
 真人が手を握ってやっても、鈴の振動は止まらなかった。
「いや、いや、いや……おそろしいぞ真人! 途中で爆発したらどうしよう!」
「あのよー……オレにどこまでその被害妄想に付き合えと?」
「だって逃げ場がないじゃないか! 空じゃ!」
「どっちにしろ爆発したら逃げ場ねーよ!」
「いやだ! 死ぬのは御免だ!」
「死なねぇって……ほらほら、よしよし」
「本気か、真人?」
 頭を撫でてやるが、不安は取れない。
 子供のように真剣な眼差しで、真人のことを見つめてくる。
「ま、どこにいたって一緒だって。今ここで隕石落っこちてくっかもしんねーんだし……死ぬときは死ぬさ。無事だったら無事だ。ま、死ぬことなんて滅多にないだろ」
「真人が彼氏でよかった……」
「あ? どしたよ急に?」
「だって……そう言ってもらえると、自分の身は自分で守んなきゃ、っておもえてきて、ちょっと安心する。もしも、『絶対に大丈夫』とか言われたら、怖くてどうしようもなかったかもしれん」
「褒め言葉になってねーんだよなー……いちいちよ……ま、行くぞ。時間だ」
 鈴は真人の手を両手でぎゅっと握った。
「な、真人。一つ約束してくれ」
「あ?」
「死ぬのが確定したら、ロミオ! って呼ぶから、ジュリエット! って言って」
「何でそんなコントみてぇなことしなくちゃいけねぇんだか……まあ、分かったよ。はいはい。言いますよ」
「あとお菓子買ってきてもいい?」
「いくらでも買ってこいよ……」
 鈴は真人から離れて売店へ急いだ。
 
 離陸するときが、鈴の恐怖の頂点だった。
 子供みたいに真人の肩に抱き付いて、ぶるぶる震えていたが、離陸しきってしまい、安定し出すと、とたんにいつもの鈴に戻った。
 それどころか少し恥ずかしそうにしていた。
「真人、鞄から取って。小説」
「おう? 何だ、鈴。小説なんか持ってきたのか?」
「みおから借りた。機内じゃ暇になるからって……」
「何かお守りはさまってんぞ?」
「いいから貸せや!」
 真人はお守りがはさまっているページを開く。
 そうすると、紙片が出てきた。
「飛行機は大変危険な乗り物なので、これを持っていってください……西園美魚」
「はやく貸せって!」
「あの野郎……」
 交通安全のお守りだった。きっと旅行に行く前、鈴にとんでもない話を聞かせたに違いない。
 鈴は恥ずかしそうにしながら、本を読み出す。
 鈴のその真面目っぷりが面白かったので、真人はしばらくその様子を見ていた。
「何じゃ」
「いや、楽しそうに読むなぁ……と」
「ふん。よゆーぶっこいているようだがな」
「あ?」
「一ついいことを教えといてやる。飛行機は7時間も空の上を飛ぶ」
「んなのオレでも知ってるよ」
「暇潰しが重要なのだ……機内の戦はもう始まっているのだ……とゆーわけで、あたしの読書の邪魔をしないでもらいたい。グッドラック」
 真人は鈴の恥ずかしがっている様をにやにやしながら見つめていた。鈴はそれが気になって真人を殴りつけた。
 
 真人は睡眠から目覚めた。
 何もすることがないので眠っていたのである。
 時計を見ると、十二時。
 全然まだ時間はある。
 隣を見ると、鈴がぐーすか寝ていた。
「この野郎……平気の平左じゃねぇか……あれだけ騒いでたのは一体なんだったんだ?」
 真人は首をごきごきと鳴らす。
「おーい、起きろ鈴。メシが配られるって」
「むにゃ……?」
 機内放送がかかって、昼食が配膳される。
 鈴はシーフードで、真人はビーフを頼んだ。
 食事を終えると、真人が退屈の音を上げ始めるようになった。
「あ〜……これじゃ体なまっちまうな。どうすりゃいいんだ」
「筋トレしようとか考えるなよ」
「いやね、オレ様、さすがに考えたよ。機内で筋トレできるトレーニングルームがあったら最高なんだけどなって。これってアリじゃねぇ?」
「おまえくらいしか利用者いなさそうだけどな……おまえ、これが交通手段だとゆーこと忘れとるだろ……」
「おまえだって、漫画が機内にあったら喜ぶだろうが」
「入り浸るなそれは」
「何しに来てんのかわかんねーなこれ……やめだやめだ。恥かくだけだな。また寝て時間潰そう」
「あたし、小説読み飽きた」
「映画でも見ようぜ。今からやるらしいから」
 真人と鈴は席にあるイヤホンを付けて、前方にあるスクリーンに映し出される、一昔前の映画を見た。
 見終わった後、また二人とも寝てしまった。
 
 空港。
 到着したときには真っ暗だった。
「着いたぞ。鈴」
「むにゃ! ひっ! 暗っ!」
「暗いな確かに……こっちだと夜っぽいな」
「夜に着くとか信じられんぞ。おまえ調べて来なかったのか?」
「うっせぇーよ! オレは夜が好きなんだよ!」
「そんなの初めて聞いた」
 二人は機内から出る。
 入国審査を受けて、無事通されると、空港の静けさに呆然とした。
「今、ここ、夜の9時だって……」
「げぇ……まずい!」
 公衆電話から真人はどこぞの誰かさんに電話をかけた。
 しばらく英語で話していたが、「あ? 日本語いけるの?」と聞き、それから、まだホテルがチェックインできるか、迎えのバスが来ているか聞いて、頼むことになった。
「真人、おまえ……」
「来てくれるってよ。ふぅー、助かった」
「英語できたのか!」
「はっ!」
 自分の胸に手を当てた。
「オレ、アメリカ出身だからさ……」
「えぇ――っ!?」
「嘘だよ嘘。正真正銘日本人です。いてぇ!?」
「嘘言うな! めっ! だ」
「冗談だっつーの。本当はハワイ行き決まってから、同僚にアメリカから来た黒人いたから、そいつに英語習ってただけだよ。英語喋れねーと何かあったら困っかんな」
「真人のくせに生意気だ」
「うっせぇ」
 迎えの人が来て、ホテルにまでたどり着くと、まだ全然眠くないのにもかかわらず、食事もない、テレビもほとんどやってない、と、またも飛行機内の延長戦のような様相を呈すことになってきた。
 二人は空港で買ったチョコレートでひもじい思いをしながら一夜を明かすこととなった。……
 
 海。
 燦々と照る太陽が、のんびりとした空気をただよわせながら、行ったり来たりする波をキラキラと輝かせていた。
 目を凝らせば、透けるような色で、海の下の土の様子までよくわかるようになっている。
「うわぁ! 真人! すごいなぁ!」
「鈴……あのさ、一つ言わせてくれ! オレすごく眠くって眠くって……おまえのそのノリには付いていけるかどうか……」
「言っちゃだめだ! ここは無理してでもはしゃぐんだ! でないとこの光る海に対して申し訳がたたん!」
「あー……ったく。走って人にぶつかるんじゃねぇぞぉー!」
 鈴は真紅のビキニ。
 日本の季節は夏ではなかったので、とても肌が白い。その透けるように美しい肌は、明らかに周りから浮いているように見えた。鈴の健やかな美しさも、ひときわ目立っている。
 鈴はイルカ型の浮きを持って、海に飛び込んでいった。
 真人はその後からのろのろと歩いていく。
「真人ぉー! こっち来―いっ!」
「分かってる。今行くっつーの! うがぁ! ぼぼぼ!」
 海底にいる不思議な生物に足をからめ取られる。ワカメみたいなものだった。真人は引きはがして鈴のところへ逃げた。
「なーにやってるんだ。その歳で溺れるなんて同行者として恥ずかしいぞ」
「り、鈴……オレの足が犯された!」
「は? 何を言っとるんだおまえは……」
「おまえの浮きにしがみつかせてくれぇ!」
「わ、ちょ、押すなアホ! わぁ――――っ!」
 真人がものすごいスピードでその場から逃れようとしたので、鈴はとんでもないスピードで波の上を走っていくことになった。
 バランスを崩して二人とも溺れかけた。
 
 真人がスキューバダイビングに行こうと言った。鈴がようやくうとうととし始めてきたころだ。
「向こうのオッサンがツアーやってんだって。他の客もいっぱい来てるぜ」
「いくら?」
「五ドル……まぁ、安い方だろ」
「ふーん」
「で、行くの?」
「行く。……一人にしようとしてみろ。舌かんで自殺するからな」
「いやどんだけおまえ臆病なんだよ!?」
 鈴と真人はスキューバダイビングツアーのボートに乗ったのだったが、そこで隣り合わせたアメリカ人と真人は親しげに何やら会話し始めた。
 通じているようで、通じていないようでもある。
 ある時一人の筋肉質のアメリカ人が鈴の方をちらちら見ているのに気が付いた。怖かったので真人の影に隠れると、鈴のことを指して、結構真剣な顔になって何か言っている。
 真人はジェスチャーをまじえて何かしきりに言っていたが、鈴に聞こえて来たのは、「アイ」とか「マイ」とか、簡単な単語だけだった。
 それからアメリカ人が笑顔になってこちらを見た。握手して、何か言う。
「あ、あいむそーりー……」
 真人が何か言う。
 するとアメリカ人の一行はとんでもなく驚いた顔をして鈴のことをしげしげと見た。やたらと恐縮したように何度も頭を下げる。
「何て言ってんだ? くちゃくちゃ怖いんだが……」
「オレがロリコンなんじゃねぇかって言ってんだ」
「は?」
「実は、鈴、おまえのことを最初、こいつらは妹かなんかと勘違いしたらしい。それでオレが『オレの女』だって言ったらびっくりして、『おまえは幼児性愛者か?』って冗談っぽく聞かれた。それでおまえの歳を言うと……」
「何て言ったんだ?」
「21歳とは思えない。14歳に見えたってさ……」
「……」
 それでか。
 鈴は頭を下げてくる男の隣にいた、胸がばいんばいんに大きいブロンド女を見た。
 自分のに手をやる。
「おまえ、あいつの女のおっぱい見ただろ……?」
「あ? あいててててて! 見てねぇ! 見てねぇよ! ちゅーか何でいきなり腕をつねるんだよぉぉぉ!」
「あたしだけを見てろ! ここは危険な場所だ!」
「だからどういう意味だよぉぉぉ!」
 
 それから二人はスキューバダイビングをして楽しんだり、また元の砂浜に戻って日光浴したり、海で泳いだりして楽しんだ。
 眠気と疲労感で初日はぐっすり寝込んだ。
 それから二人は島の観光名所めぐりを始める。おみやげ物屋に行ってめずらしいものを見たり、地元の料理屋に行ってめずらしい食べ物を食べたりして遊んだ。
 三日して、最後の日の夜。
 真人と鈴は地元の料理屋で食事してから、暗い砂浜を歩いていた。まだ少しサーフィンをやっている男たちがいる。音楽がどこからか聞こえる。
 陽気なところだった。
 真人はどこか勇気を得られる場所のような感じがした。
 本当は、今言おうと思ってなかったことだったが、
「あのよ、鈴」
「んー?」
「本当は、今言おうと思ってなかったんだけどよ、」
「あー?」
「オレ、日本に戻ったら、引っ越そうかと思うんだわ」
「な、」
 鈴は飛び上がる。
「なんだと! だめだ! 行くなぼけ!」
「あ? はは!」
 しがみ付いてくる鈴を安心させるように、ぽんぽんと頭を撫でる。
「違ぇって……遠くには行かねぇよ。同じ地元だよ。ちょっと広い部屋にしようかなって、そう思っただけだよ」
「本当?」
「本当」
「はー……心臓どきっとしたぞ。おまえ、あたしが怖がりだと知ってそういうこと言うかフツー?」
「悪ぃ悪ぃ」
「で、何でまた引っ越しなんてするんだ?」
「おう。鈴、一緒に住もうと思ってるんだが」
「は? 誰と」
「おまえと」
 鈴は一瞬何が起きてるのか理解できないようであった。
 真人が次を続ける。
「オレ、もう少ししたら、現場の指示任されそうなんだ。そうしたら、社員として雇ってもらえるようになるから、給料すげぇ上がるし、安定した保険も手に入るんだ」
 鈴は茫然自失したようにじっと真人を見ている。
「そうしたら、もちっといいマンション見つけられそうだな……って、ずっと考えてたわけよ。もちろん、おまえと住むためのな」
「ああ……」
「どうだ? 一緒に来ねぇか? ま、そういうの嫌だったらいいんだが……」
「行く」
「マジ?」
「うん。だって、もう住んでるようなもんだから」
「はっ」
 真人はほっとしたように溜息をついた。
「そっか……それもそうだよな」
「終わり? 発表」
「うん? ああ、まあな」
「はあー……」
「あ?」
「よかった」
 鈴は真人を見て、とても可愛い微笑みを向けるので、真人は急に鈴を抱き締めたくなってしまった。
「おう。何がいいんだよ」
「だって、こまりちゃんやはるかとずっと話し合ってたんだ」
「何を」
「真人はいつになったら同棲のこと話すのかなって」
「ぶっ」
 危うく内臓まで全部吐き出しかけた。
「くるがやなんか、真人のことぐちぐち文句言ってたぞ」
「あ、そ……ったく、気が早いやつらだぜ」
「あたしは一人、真人のことをずっと信じてた」
「おう?」
「真人、時が来たら絶対そう言うって。そんで、あたしのこともよく分かってるから、色々いいように決めてくれるって」
「よく分かってんなそりゃあ」
 鈴のことをいつもより愛情込めて撫でてやった。鈴はくすぐったそうにした。
「じゃ、日本帰ったら部屋探しすっか」
「ああ! あんまり高い場所はいやだぞ。一階か二階にしてくれ」
「へぇへぇ」
 一回キスをしてから、二人は笑い合って夜の海岸を静かに歩いて行った。

 つづき

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