球技大会から二ヶ月が経った。

 あれから生徒たちは勉学の方に打ち込み、どこかピリピリした空気を作り上げていた。みな不安の中に安心を見出そうと、躍起になって勉強していた。

 そんな十一月の中旬のことである。

 真人は担任から渡された封筒の上部を、ゆっくり切り離した。

 中身の書類を取って、そっと、その紙を開いてみる。

「どうだ?」

「ちょっと……待ってくれよ……うぇぇ……怖ぇぇ……」

「いいから速くしろ。一度の成績発表くらいでびくびくするな」

「んだよ! おまえは頭いいからいいだろうけど、オレはいつも自分の馬鹿さ加減と闘ってんの!」

「いいから! 見せろ!」

 来ヶ谷は真人から模試の結果シートをひったくった。

 折った紙を開いて、じっと見つめる。真人もその裏から薄目を開いておそるおそる眺める。

「……よっしゃぁぁあああ――っ!」

「うるさいぞ!」

「D評価じゃん! うおおぉぉぉ――っ! いでっ!」

「だから、うるさい!」

 回し蹴りを食らって倒れる。

 来ヶ谷はもう一度じっくり評価シートを見て、思案した。

 来ヶ谷と同じ大学――つまり第一志望はD評価となっている。

 これは、今までずっとE評価だったことを鑑みれば、真人にとってはようやく壁を越えたと言ってもいいことだろう。

 その他の志望校――来ヶ谷が実力を見るために、偏差値ランク順に適当に書かせたものだ。それらはほとんどC評価にランクアップしている。

 真人はまた起き上がって、跳びはねていた。

 来ヶ谷は溜息をつく。

「そんなに喜ぶことか? 真人君よ」

「だってよぉ! きっと一生この評価変わんねーって思ってたから、いや、マジで変わるんだと思って嬉しく、」

「しかしD評価は、もっと努力しろ、という意味だぞ」

 それでも真人の喜びようは変わりなかった。生徒のみんなをうざがらせてでも筋肉踊りをやめなかった。

「はぁ……」

「真人、嬉しそうだね」

「理樹君。ああ、すまない。私としては、一つの結果ぐらいであんなに喜ばせたくないんだが……どうもああ一生懸命なところを見ると、許してしまいそうになる」

「いいんだよ。頑張った結果がここに出たんだから、嬉しいに決まってるよ」

 真人は理樹を見つけると、肩に腕を回し、しきりに理樹に評価シートを見せつけた。理樹が誉め讃えると、真人は顔を赤くして照れた。来ヶ谷も嬉しくないではなかったが、11月でD評価というのは必ずしも安心できることではなかった。

「他のC評価の学校も結構いいところだよね。これは、限りなくCに近いD評価なんじゃないかな」

「そうだな。そうかもしれん。しかし、」

 来ヶ谷は溜息をついた。

「十二月にまた行われる模試では、必ずC評価をこの学校で取らねばならん。それでなければあまりにも厳しい」

「Cってどんなだ?」

「五分五分、ってことだよ。その学校を受けるに値するか、ボーダーラインになるってことかな」

「へぇ……って、まだ勉強しなきゃなんねぇの!?」

「当たり前だ!」

 来ヶ谷は腕組みして仁王立ちした。

「この時期からは時間を増やすぞ……毎日10時まで勉強だ!」

「げげっ!」

「ちょ、いいの!? 来ヶ谷さんのプライベートは……」

「やむを得まい」

「勉強しなくても?」

「私については問題ない」

 さらっと言ってしまうあたりが、理樹は物凄いと思った。

「正直10時まででも足りないと思うくらいだ……時間が足りなさすぎる」

「まあ、あの真人が大学だもんねぇ。しかもかなりレベル高い大学……っていうか、日本一?」

「学部が違うから多少難易度は変わる」

 来ヶ谷は、ふと、真人の希望の学部をちょっとしか、いや漠然としか聞いたことがなかったことを思い出した。

 後で聞いてみる必要はある。

「つーか……日本一なの?」

「私が知る限りではそうだが」

「げぇ……あっ、そう……まあ、いいけどさ……」

「嫌そうだな」

「いや、嫌じゃねぇよ……でもさ……オレにもプライベートというか、筋トレとか運動の時間というものが……」

「筋トレか」

 来ヶ谷は顎に手を添えて考えた。

「むしろやらなくてはならん」

「へ?」

「だが10時から、勉強が終わった後にやるというのも酷だろう。放課後が終わったら目一杯やりたまえ。勉強は五時からにする」

「うっひょぉ――――! いいの!? よっしゃぁぁ――っ!」

「勉強しなくてもいいの?」

「体が運動不足では、脳の働きが鈍くなるし、間違った解答に辿り着きやすくなるものだ。私の考えだが、本来は勉学と運動をバランスよく、同時間取り入れるのが理想だ」

 来ヶ谷はバランス、といったものを大事にしている。

 運動や勉強に偏りすぎることを、来ヶ谷は今まで危険なことだとして来た。そのための勉強法も真人のために修正してある。

 学者然とした物言いに理樹は感心して聞いた。

「それに運動不足はストレスに陥りやすい。よく寝て、よく食べ、よく運動し、よく勉強する。それも暗記系の勉強は、真人君にとっては毒だ。一切を排除している」

「へぇぇ」

「あ、そうだよな。一切暗記とか、オレしてねぇんだ。ただ英文読んで歌ったり、意味とか読み方とか聞いたり、言葉の成り立ちとか、なんか色々知ってんだこいつ。めちゃくちゃ変なエピソードとかあるんだよ。欧米の文化とか、そういうんだったらオレも面白ぇしな」

「暗記というのは、それに向いている人間とそうでない人間がいる」

 来ヶ谷はこめかみに指を立てた。

「真人君はこれが苦手だった。何より目的が不明確だったり、用途がわからないものは特にだ。それがだ、たとえばこの数式が物の設計図に使われたりとか、放物線が物を投げたときの軌道を描いたもので、その行き先と曲がる角度を描いたものだとか説明すれば、すんなり理解するし、興味を持ってくれる」

「へぇぇ……しかし、よくそんなんで、あんないい評価とか、点取れるよね」

 理樹は首を傾げた。

「いい生徒なのだよ」

 来ヶ谷は微笑んだ。

「テストの時とかも、オレ結構楽にやってんだぜ。わかるところだけ、簡単にすぐわかる問題だけ解くんだ。後、考えてもわかんねぇところはそのままにしておくのさ。それでいいんだって、こいつが言うからよ」

「真人君は何よりもテストが嫌いだった。だから、点数を十分に取る必要はないと教えた」

 来ヶ谷はうなずいた。

「だから、点数は、真人君が努力も何もしないで取れる点数だ。それでいいし、一番重要な時にいい点数が取れればいいのだから、楽にやってくれた方が気力も使わないで済む。それを広げていくのが私の仕事だ。じょじょに、頭をほとんど使わずとも解ける問題を増やしていく。それでこの半年間、何とかやっている」

「何か、楽しそうだね」

「おう! 悪くねぇぜ! こいつの勉強すっごく楽しいんだからよ!」

 真人はめずらしくも来ヶ谷のことを誉め讃えた。人前でだ。

 真人は嬉しかったんだろう。来ヶ谷に自分のことを理解してもらえたのが。

 寛容なことに、そして誰よりも聡明なことに。

 来ヶ谷も嬉しくなったので、言い返した。

「私の理想的な生徒だ」

「来ヶ谷さん」

「真人君はね、」

 真人が用意をし始める。勉強道具を片付けて、久し振りに放課後に運動するので。そんな様子を眺めながら、こっそりと来ヶ谷は言う。

「我々の失ったものを、まだ新しいままに、新鮮なままに保持している、希有な例だ……」

「失ったもの?」

「子供の心だ」

 来ヶ谷はうなずいた。

「何物にも興味を抱く。事物の謎を解明してみせようと思う……その真っ直ぐな心。偏見を持たず、虚心で学問に望むその広大無辺な心。精神的な物に嫌悪を抱かない、綺麗な心だ」

「それなら言えるかもしれないね……真人は」

「私が幼い頃に持っていたものを思い出すのだよ」

 来ヶ谷は微笑む。

「ずっと前になくしてしまったもの……それは、不幸な環境によるものだ。そうして、私に真人君のような才能がなかったためだ。だから真人君が私はうらやましく感じる時が、ここ最近多いんだ。私は真人君だからああいう教育ができている。子供に対するようにね。何も知らない、子供に対するように」

「それが真人にも幸せだよ」

「しかし、意外だったのだよ」

「何が?」

「彼が、こんなにも頑張ってくれるとはね……私は何も予想しちゃいなかった……最初はいつばてるかと計算してたんだ……だがいつまでも彼は熱意を持ってやり通すことを止めようとしなかった。不思議なんだ。あんなに勉強を嫌っていたというのにね」

「あ? 何の話だ?」

「君が、勉強を頑張っているのは凄いということだよ」

 真人が戻ってきて、話を聞くと、にかっと笑った。

「あんだよそんなもん。おまえが授業してくれるからに決まってんじゃねぇか」

「え?」

「オレにわかりやすく楽しくやってくれるしよ。後オレ、おまえのことかなり好きだから、そういうのもあるんじゃねぇかな」

 話が止まった。

 来ヶ谷が絶句する。理樹も。

「……あ? どした?」

「ま、真人君!」

 上擦った声がする。

 来ヶ谷の顔が狼狽に包まれる。顔が赤い。

「そういうのは……理樹君の前で言うことじゃないだろう……」

「え? 二人の時は言ってるの?」

 時が止まった。

「あ。あぁ――っ! なるほどな! すまん!」

 真人はようやく気付いたようで、ぽん、と手を叩く。

「き、きさま……」

「あー……なんか、悪ぃ……」

「こぉの馬鹿もんがぁ――――っ! グラウンド、200周やって来ぉい――――っ!」

 真っ赤になって叫ぶ来ヶ谷。

「ええ!? 200周? そんな、無理だろ! 一体どんだけかかると思ってんだよ! えぇーっと、オレが平均5分で一周するとして……200周で1000分かかるから……多分、16時間以上は平気でかかると思うぞ」

「つべこべ言うな! 500周だ!」

「さっさと行ってきますぅ――っ!」

 ぴゅーっ、と走り去って行ってしまう。

 理樹は苦笑した。

「僕も……やろうかな。ランニング。真人の話聞いてたらやりたくなってきちゃった。ちょうど運動不足だったし」

 理樹は教室を駆けだして、「おぉい! 真人ぉー!」と叫びながら行ってしまった。

「む? 何だおまえら? おい! 楽しそうじゃないか! 俺も混ぜろ! ひゃっほぉ――いっ! 何だか楽しいなぁ!」

「謙吾! 来んじゃねぇよ気持ち悪いんだよおまえ!」

「いいじゃないか! 俺も一緒に走ってみたいんだ! よぉし、競争だぁぁ――――っ!」

「いいからやめろそれ! 俺後500周を一日の内にやんなくちゃならないんだぁぁ――!」

 来ヶ谷は赤い顔で息を切らしている。

「……あの、馬鹿者が……」

 つかつかと歩き回りながら思案する。

「私も……最近運動不足だし……やってみるか……」

 そっと、廊下を窺いながら、つかつかと歩き出して行った。

 腕を組みながら――恥ずかしい妄想を抱きつつ。

 

 つづく

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