謙吾は昼食を取った後、体育館へ行き、バレーの決勝に参加することになった。

 理樹たちはサッカーの決勝に参加し、何とかつらくはあったものの、勝利を収めることができた。優勝するときは多くのギャラリーから賞讃を受け、さすがリトルバスターズと、校内での評価がさらに高まった。

 とはいえ、疲労が溜まっていないわけではなく、野球の試合を最後までこの体力でやれるのかどうか、また疑問ではあった。

 小休憩を取った後、野球の帽子とユニフォームを借りて、決勝グラウンドへと向かう。

 葉留佳が、凄い勢いで素振りをやっている。

「ヘイ、リトルバスターズ……」

「……」

「ヘーイ、ガイズ!」

「アイ・ドント・スピーク・イングリッシュ……」

「はるちんもだーいっ! ヘイ! ヘイヘイ! チョーシこいてられんのも今の内だぜよ! ちょーっと邪魔されて計画狂っちゃったけど、野球とサッカーとバレー以外では優勝することができてんだから! あ、あと卓球もだ。バスケット、そしてテニス、ラグビーは、はるちんたちA組が頂いちゃってるんですヨ!」

「それがどうした」

 鈴が進み出た。

 素振りをやめて、葉留佳が野球帽の廂を上げながら、うすく笑う。

「鈴ちゃん」

「おまえ、もういい加減にしろ」

「……」

 葉留佳はうすら笑いを止めて、真剣な顔つきになった。

「イヤ」

「……」

「ちょ、ちょっと、鈴」

「はるちん、野球では絶対負けらんないんだよね。だってリトルバスターズであんなに練習したんだし」

「リトルバスターズのエースはあたしだぞ。負けるわけない」

「へーっ。じゃあ、勝ったらエースやめてくれるの?」

「やめてやる」

「……」

 葉留佳は、メラメラと瞳に炎を宿した。

「いいよ。はるちん負けたらもう生意気なこと言わないから。もうやめる。そんで三年生終わるまで適当に過ごしてやるから。はるちんだってねぇ、おふざけでこういうことやってんじゃないの。真剣なんだから!」

「アホ」

 鈴は真剣に怒ってるようだった。

「はるちんアホじゃないもんっ!」

「ちょ、ちょっと葉留佳さん!」

「覚悟しててよね! E組っ!」

 ぷんすか怒りながら言ってしまった。

 理樹はなんで鈴があんな言い方をしたのか不可解だったが、葉留佳のあの怒りようも、もっと不可解だった。

「理樹」

 口を三角にして、何やらすごい眼差しをした鈴が理樹を見すえた。

「絶対勝つぞ」

 

 葉留佳は、ピッチャーらしかった。

 何度か投球練習をして、チームメイトに微笑みかけている。

 葉留佳は、もう敵になってしまった。

 そんな気が、理樹の中で奇妙にくっついて離れなかった。もう敵は自分たちに笑いかけてくれない。本気の勝負を挑みに来ているのだ。

 なぜだろう、と思った。

 何がいけないのだ。と思った。

 葉留佳は、自分で、自分の立ち位置を守らなくてはいけないのだ。

 葉留佳は、プライドが高い人間だ。

 いつもは悪戯ばかりして、へらへらしているが、それは、自尊心が低いというわけではない。

 愛されることのなかった幼い時代の名残なのだ。愛されたいがためにわざわざそんなことをするためで、誰よりも誇りを胸に持って生きている人間だ。

 だから、葉留佳は自分の存在の価値を見出さなくてはならない。

 自分の力で。

 それが、葉留佳にこの騒動を引き起こさせた由来だった。

 自分の存在の価値など、もうとっくからあるのに。

 鈴や、小毬たちが、葉留佳を愛している。

 それがどうして伝わらないのか、それが鈴を怒らせた謎だった。

 でも、もっと大切なことが、葉留佳の心中では望まれていた。

 もっと大切な望みのために葉留佳は戦っていた。

「ひゅー……速ぇな」

「ものすごい投球だよ。いつの間に……」

「鈴ちゃんぐらいすごいね……」

「……」

 鈴は少しでも相手の投球の弱点を見つけようと、一心不乱に投球フォームを睨んでいた。

「練習した、ということかな」

「えっ? それって、どういうこと?」

「葉留佳君は、葉留佳君なりに、この勝負に尋常じゃないほどの思い入れを持ってる、ということじゃないかな。我々も、サッカーの時みたいに油断しているとあっという間にやられてしまうぞ」

 鈴は、バットを軽く振って、バッターボックスに入った。

「プレイボール!」

 審判の合図とともに、葉留佳の足が上がる。

 左手にとてつもない集中が籠もる。

 それは、そのまま恐ろしいくらいの威圧的なものを持って、振り下ろされる。

 鈴はそのボールを見送った。

「ストライク!」

 鈴は、肩をならして、もう一度葉留佳の姿を見つめた。

 集中力を高める。

 葉留佳は、今まで見たことのないくらい真剣な表情をしている。

 それは、ある種の美しさを伴っている。

 鈴は気が付いた。

 葉留佳は葉留佳のために、本気で戦っていることに。

 それは、切実な思いなのだと。

 そして自分がそれに相対するには、まだ準備が足りていなかったこと、そして、葉留佳のことに、彼女の思いの丈に気付いてやれなかった自分の浅はかさに気が付いた。

「ストライク!」

 バットを横に振ったが、遅い。

 葉留佳は、とてつもなく速いボールを投げる。

「ふん」

 鈴は、体中が熱で沸き返ってるのを感じた。

「あたしほどじゃないな……」

 三球目。

「うにゃ――――っ!」

 かろうじてバットに当たる。

 だが、それは威力が伴わなかった。

 ショートに回収されて、ファーストへ送られる。

「アウト!」

 鈴は、息を切らせてファーストへ向かうが、間に合わなかった。

 うなだれて、戻ってくる。

「鈴、ドンマイ!」

「うっさいわ……」

 鈴はヘルメットを脱いで、ベンチに座った。

 それからまたすぐに、葉留佳の投球を見つめた。

「よし」

「姉御。行くっすよ」

「来たまえ」

 2番。来ヶ谷がバットを構える。

 葉留佳は一球目をボール。二球目を外角高めストレート、と続けて投げた。

 来ヶ谷はそれをじっと見送っていた。

 来ヶ谷は、次で打てると確信していた。

 変化球は持っていないようだ。

 ただゾーンギリギリに投げ分けてくるコントロールの高さがある。

 来ヶ谷なら、ギリギリゾーンのエリアを見極めることができる。

 来ヶ谷はバットを振った。

 ファールになる。

「重い……」

 振り切れない。

 とてつもなく相手は集中している。

 いやなボールだ、と思った。

 内角低めを振ろうとしたがカスっただけだった。

 またファール。

 イライラしてきた来ヶ谷は、ボールっぽい球にまで手を出してしまう。

 ファーストゴロになり、アウトになった。

「チッ……」

「楽勝!」

 チームメイトと喜んでいる葉留佳を忌々しく目で追った。

「オーウ。ドンマイ。……しっかし、お前が打てないとはな」

「まったく、どうなっているのやら」

 来ヶ谷は真人の隣に座った。苛々した仕草だった。

「葉留佳君は楽しそうだ……」

「あー。確かに、勝負を楽しんでる目だな。ありゃ」

「我々を何だと思っているのか……」

「う〜ん……」

 真人としても容易に答えを出せない問題だった。

 三番手の理樹がバッターボックスに入る。

 難しい球を打たされてしまい、サードがそのままキャッチした。

「チェンジ!」

「やっちゃった……」

「理樹君。次から本気でやるぞ」

「えっ? これって本気じゃなかったの?」

「うむ。どうしてもこの勝負、負けたくなくなった」

「そうか……そうだね。もっと必死にならないと、ダメってことかな。サッカーの時とはだいぶ違うみたいだ」

「これが最後の試合になりつつあるからな」

 来ヶ谷はグラウンドの周囲を見渡した。

 他の競技があらかた終わって、ギャラリーはさらに増えている。

 また、競技の優勝回数はA組が一位で、二位がE組だ。

 バレーは謙吾たちが優勝を決めたと聞いたが、それでも現在は一位のままだ。

 謙吾は今卓球の試合を行っている。

 あとは、野球の試合だけだ。

 A組とE組。

 どちらが優勝するのか。

 

 野球の試合は、投げ合いとなった。

 一球一球が限りなく、ピリピリした雰囲気の中で投げられた。

 時々走者は出るものの、お互いの守備陣が懸命に守り、点数は一度も入らなかった。

「こりゃ、一点が重要になるな……」

 三回。

 三回表の終了となり、A組の攻撃が始まる。

「鈴! いつも通り、一球一球大事に行こう!」

 鈴はこくりと頷いて、投球フォームに入った。

 威圧的な風貌の多いA組チームだったが、鈴は臆することなく投げた。それはかなりブレない投げ方だった。鈴はもう怖くてタイムを請求する人間じゃない。果敢に、必死に投げるピッチャーに成長していた。

「ストライク! アウト!」

「くそったれ!」

 バットを叩きつけて、最初の打者が去っていく。

 その後には、葉留佳が待っていた。

 黒いヘルメットを被り、その後ろから一本に結われた髪の毛を出して。

 手袋を締め、不思議な眼光を光らせ、口を一文字に結んだ葉留佳がバッターボックスへと入った。

「絶対に負けんぞ」

「ひゅー。言うじゃん。絶対に負けられないのはこっちもなんだからね」

「葉留佳。おまえなんか、怖くないからな」

「鈴ちゃんも、別に全然怖くも何とも思ってねぇデスヨ。さっ! 来てみなよ!」

 葉留佳はバットを垂直に構える。

 鈴は投球を開始した。

 ボール。ストライク。

 ライジングニャットボールでもう一つストライクを取った。

 葉留佳はバットを振ったが、そのとてつもないスピードには冷や汗を浮かべるばかりだった。

 しかし、またも果敢に口を引き結んで、前を見すえた。

 鈴の顔には汗が流れる。

 土ぼこりで、顔が汚れる。

 しかし眼光は消えていない。

 むしろ研ぎ澄まされているほどだ。

「にゃ――お!」

 投球は、

 葉留佳の、

 バットに当たり、

 頭上高くへ、そして、勢いも物凄く、飛んでいった。

 それは綺麗な打球だった。

 ライト方向へどんどん飛んでいき、カバーの頭上を越えた。

「いよっしゃぁぁぁ――――!」

 A組の応援団がわき返る。

 葉留佳はスプリントを始めた。

 物凄いスピードで一塁を蹴って二塁へ。

「すまん! 井ノ原!」

 ようやく捕ったライトが、セカンドの真人に投げる。

 その頃には二塁を蹴って、三塁へ向かっている。

 真人はボールを受け取ると、力の限りサードに送った。

 しかし、

「セーフッ!」

 軽々と、三塁を踏み越えた葉留佳の笑顔によって、それは無意味と化した。

「いよっしゃぁぁぁ――――っ!」

 三枝コールがわき起こる。

 この一連の騒動で、かなりファンも増えたみたいだ。

 葉留佳はヘルメットを取って、額の汗を拭い、笑顔を振りまいた。

 鈴は信じられない気持ちだった。

 気持ちの面では負けてないつもりだった。

 どこに手落ちがあったのか、わからない。

 鈴は急に焦り始めた。

 次を投げてアウトにできる気が全くしなくなり、このままずるずると負けてしまう光景が目の奥から離れなくなった。

 足が震えて、手が震えた。

 ワンナウト、三塁。

 控えるのは屈強な男たち、そして、凛々しいスポーツ女子たち。

 鈴は膝に手を置いた。

「タイム!」

 理樹が宣言して、キャッチャーマスクを上に持ち上げながらマウンドに駆け寄った。

「大丈夫? 鈴」

 ファーストの小毬や、セカンドの真人たちもやって来る。

「大丈夫……」

「おまえ、あんなの気にすんなよ。きっちりツーアウト取れりゃいいんだ」

「おまえが言ってるほど簡単じゃないんじゃっ!」

 鈴は叫んだ。

 自分に言い訳しているような気持ちだった。

 センターフライを上げさせたら、おそらく点が入る。葉留佳のスプリントなら、捕球された後でもバックホームに辿り着ける。

 怖い。

 鈴はそう言ってしまいそうになった。

 理樹は不安げな眼差しを送る。

 鈴は理樹と視線をかわし合った。

 そのときに、何がもたらされたのか、何を通じ合ったのか、わからないが、鈴の心から迷いと焦りが消えていった。

 口の強ばりは消え、余裕の風が吹いてきた。

 溜息をついて、額の汗をぬぐった。

 深呼吸をする。

 そうすると、あのボールは、自分のミスでも何でもなくて、ただ相手が上手かっただけなのだということが、正しく理解できるようになってきた。

「大丈夫? 鈴」

「うん。もう大丈夫だ」

「無理すんじゃねーぞ。おまえ、頑張り屋さんなんだからよ」

「鈴ちゃん! ずっと祈ってるから! 頑張って!」

「うん。ありがとう。みんな」

 メンバーは散っていった。

 投球が再開される。

 相手は足の速い打者だ。バットを振って、研ぎ澄まされた神経を行き渡らせ、ボールを待ちかまえる。

 鈴は緊張を解いた。

 理樹がじっとこちらを見てくれているのが目に入る。

 葉留佳を見ると、やはりこちらを注目している。腰を低く落として、いつでもスプリントできるようにしていた。

 鈴は振りかぶった。

 変化球。スライダー、そしてボール球。大丈夫。

 きちんと投げれている。

 鈴は一人目を三振にし、二人目をフォアボールで一塁へ行かせてしまいはしたものの、三人目をきっちり三振させた。

「スリーアウト! チェンジ!」

「よし!」

 葉留佳は地面を蹴った。

「ちぇー。やるじゃん」

 三塁からベンチへと戻っていく。

 試合は四回へと移行する。

 理樹たちは、打順が後半だったので、三者凡退してしまった。

「ドンマイ!」

 理樹はキャッチャーマスクを被って守備についた。

(ここで……取られたらまずいな。暑いし……もうそろそろ限界だ)

 理樹は顔を上げた。

 日射しがじりじりと土を焼いている。

 九月だというのに。

 これでもかというくらい、夏は最後の一光をもたらしていた。

 鈴は汗を何度もぬぐった。

 息も切れてくる。

 喉の奥がジンジンする。埃くさくて、いやになる。

 手がざらざらだ。

 だけど、踏みとどまらねば。

 この試合は五回までで、それでも決着がつかなかった時は延長戦となる。

 ここで得点されてしまったらアウト。

 しかしA組が何もしてこないはずはなかったし、理樹たちだって次の若い打順で決めるつもりでいた。

 鈴は振りかぶった。

 何とか一打者目をアウトにするが、二打者目で一塁打を打たれた。

 呼吸が荒くなってくる。

 蜃気楼が見えるようだ。

 夏はまだ残っている。鈴はもう一度振りかぶった。

 カーブ。ストライク。もう一度カーブ。ボール。

「鈴! 頑張れ!」

 みんなから応援されている。

 周りには応援歌を合唱するギャラリーもいる。

 鈴は小さい背を目一杯伸ばし、ボールを頭上高く上げた。

「いっけぇ!」

 ボールは捕獲された。

 バットの芯に直撃したようで、気持ちいい音を立てて、レフトへと飛んでいった。

 ライナー系の打球で、真人の上をギリギリでかすめ、バウンドしてクドの方へ行った。

 クドは大慌てで捕球して送りかえすが、一つ一つの動作がやはり無駄にあふれ、打者はそのまま二塁まで到達してしまった。

 二、三塁。

 ワンナウト。

「はぁ……はぁっ……はぁ……」

 鈴は脱力する。

 次は背の高い女子がやって来た。スラリ、としていて、恭介のような目をして、何かやられる、といった恐怖が一瞬で鈴の奥の奥までねじ込まれてしまった。

 結果は、本塁打ギリギリだった。

 レフトの頭上を軽々と飛び越え、走者は二人とも楽々ホームベースに戻ってくる。その女子は決して速くはなかったものの、三塁を蹴って、ホームベースにまで迫ってきていた。

 ようやく真人によって返される。

 走者と理樹は激突し、結果は……、

「アウト!」

「そんな……」

 スラリ、とした黒髪の女子は、ヘルメットを脱いで、とぼとぼとベンチへ帰っていったが、歓喜によって迎えられた。

 対するE組は、凍り付いていた。

 理樹は作戦を練り直し、真人は舌打ちをして首を振り、来ヶ谷や小毬、ベンチで見守る美魚にも絶望感と焦りが浮かぶ。

 鈴は膝に手を置いて、今にもうずくまりかけていた。

「タイム!」

 鈴は限界のように見えた。

 無理もない。

 昨日からずっと激しい運動とぎりぎりの勝負を繰り返してきた。

 神経はもうすり減っているだろうし、何よりこの暑さで、体力も落ちているだろう。

 理樹は鈴の肩を揺さぶる。

「ごめん、理樹……ごめん……」

 泣いている。

 めったに涙を流さないのに。

 理樹は出かかった言葉を失ってしまった。

「りき……ごめん……ほんともう、わけわからん……やめたい……」

 理樹は鈴の顔が真っ赤になっていることに気が付いた。

「鈴。喉渇いてるんじゃない?」

「うっ……ぐす……喉、からから……」

「すっ、すいませーん! 水分補給してもいいですかー!?」

 審判からオーケーサインが出た。

 慌てながら美魚はスポーツドリンクを届けに行った。

 鈴は涙を手で拭いながら、蓋を開けて飲んだ。

「大丈夫?」

「うん……ほんと、すまん……もう四回なのに……打たれちゃった」

「いいんだよ。気にしないで」

 真人は後ろからやって来て、グローブで頭を叩いた。

「気にすんなよ。後アウト一つだろ? 集中して取ってけ。後、あの女がマジでやばかったんだよ。元々スポーツ軍団なんだからよ。いちいち気にすんな。後で取り返しゃいいんだ」

「その通りだ鈴君。相手は強敵だが、鈴君一人で戦っているのではないのだ。我々全員でサポートする。私たちで一緒にもう一つアウトを取ろう」

 鈴はごしごしと目をこすった。

 涙声で「うん」と言った。

 土まみれになったボールを回して、キャッチする。

 鼻にある汗を、シャツで拭う。

 相手の打者を睨みつけた。

 一つずつやっていくしかない。自分のミスを取り返すというのは、これほどまでに自分のプライドをズタズタにするもので、これほどまでに苦しいことだと鈴は思わなかった。

 ことに、自分のミスだとはっきりと認められるようになってからだ。

 鈴は、自分の悪い事を認められるようになってから、生きにくくなったことに気が付いていた。しかし、今まではその分、どれだけ理樹や真人、謙吾や恭介に迷惑をかけ、その間でぬくぬくと嘘をつき続けながら生きてきたのだろうかと思うと、自分が汚い虫のような気がし、ぞっとする思いに囚われるのだった。

 だから、鈴は生きるのは大変だと思った。

 戦うことから逃げることは簡単だ。

 でもみんな戦っている。努力してる。

 逃げることはいつでもできる。

 自分が好きになるために、だけど、戦わなければならないのだ。

 戦って、勝つ。それが生きるってことだ。

 だからこんなにも大変なんだ。

「ストライク!」

 プライドを失って、そしてもうそれを過去に戻っても取り返すことができず、それでも受け入れ前に進んでいくこと。

 自分を律する、この気持ち。

「ストライク!」

 鈴は投げた。投げやりにじゃない、真剣に。

 一球一球理樹を信じて。恥ずかしい自分を心底励ましながら。

「ストライク! バッターアウト! スリーアウト!」

「あいつ、マジかよ!」

「ちっくしょー!」

 鈴は帽子の鍔を押さえた。前髪を隠し、目を隠しながら走ってベンチへ行った。

 クドがベンチの隣に座って、話しかけてきた。それも涙を拭きながら。

「すいません……鈴さん……わたし、えらーみたいなことばっかりして……」

 鈴は苛々した。おまえのせいだ! と言ってしまいそうになった。

 そしてその一瞬の後、そんなことをクドに対して思った自分が信じられなくなり、クドに抱きついて、「ごめん……」と泣いた。

「わたしこそです……ごめんなさい、鈴さん……」

「ごめん……」

 二人は泣き合って、抱き合った。

 まさかこれほどまでに苦戦することになろうとは。

 野球の試合の難しさはさっきのサッカーとは比べものにならない。

 あの葉留佳を何とかしなくちゃならない。この一回で。

「逆転するよ。みんな」

「おう」

「何としても三点取らなきゃ……みんな、力を貸してほしい」

『おーっ!』

 理樹たちは立ち上がった。

 葉留佳がマウンドに立って、こめかみの汗をユニフォームの袖で拭いている。

 口は少し開けられ、浅く息をしている。

 こちらを見たときの顔は、明らかに体力を消耗し、疲労を重ねている顔だった。

 条件は同じ。

 勝つに相応しい方が勝つ。

「バッター! 九番能美さん、出てください」

「はわっ! わたしでした! それじゃ、行ってきます!」

「クー公」

 真人が笑いながら腕を振る。

「最後なんだから、振って終わって来い! やるだけやって負けて来たら許してやる!」

「もー! まだ負けてないです!」

「くど」

 鈴も少し笑いながら言う。

「がんばれ」

 クドも笑った。

「はいです!」

 葉留佳はそんな光景をじっと見つめていた。

 腰に右手を当て、肩に何千キロもの重石が乗っかっているような気持ち悪さを感じながら、浅く息を繰り返して、もう切れ切れになった集中力を、再びかき集めて、練り上げようとしていた。

「クー公ですか」

「三枝さん……」

「後スリーアウト……クー公。悪いけど、容赦なんか一瞬だってしないからね。そうすればわたしたちの勝ちなんだから」

「容赦なんかしてほしくありません」

 バットを構えて、真剣な眼差しで葉留佳を見すえた。

 小さい。

 まるで子供を相手にしているようだ。

 バットを振るだけでも大変だろう。

 葉留佳は、うすく笑って、相手を油断した。

 二木佳奈多にそっくりな油断する微笑みだった。

「別にどうだっていいよ。疲れちゃってはやく終わらせたいから。クー公が相手でよかったよ……ほんともう、腕の筋肉痛くてやばいんですから」

「負けません」

 くすりと笑って、葉留佳は集中を高めた。振りかぶり、一球目を投げる。

 速い内角低めストレート。

 当然手を出さない。クドはゆっくり見極めようと視線をとぎすませてボールを見送る。

「ストライク!」

 葉留佳は一球ごとに溜息をつく。

 鈴より消耗しているのは明らかだった。あのスプリントだってかなり体力を振り絞ってやったものだった。

 足にもかなりガタがきている。

 昨日から休みなしに挑戦を繰り返してきたのだから。

 挑戦。それは、葉留佳の願いであり、賭けであり、存在を証明するための戦いであった。

 ここで終わるつもりはない。

 死ぬほど苦しいけれど、最後まで投げ抜かなきゃ。

「うりゃ!」

 ボール球。だがギリギリストライクゾーンに寄せてある。

 何回も練習した。

 鈴にばかり任せてられないので始めた練習だった。

 ピッチャーになりたかったわけじゃない。

 ただ恭介に控えとして練習しておくように言われただけだ。

「ボール!」

 それでもこんなに役に立っている。

 葉留佳は、にやり、と笑った。

 さっさと倒れて欲しい。リトルバスターズ。その時に、葉留佳は本当の意味でリトルバスターズの仲間になれるのだから。

 でももし、葉留佳の頑張りを仲間が理解してくれなかったらどうしよう。

 葉留佳は首を振ってその考えを払拭した。

 そんなはずはない。

 いや、真面目になんかなるんじゃなかった。いつものとおりへらへら笑っていれば。

 冗談みたく生きていれば。

 でもそれじゃ。

「やあっ!」

 何も変わらない。

「ストライク!」

 彼は見てくれているのか。

 もう彼と呼べばいいのか、また名前など持たず呼び名など持たず、何か、と呼べばいいのか、ただ、葉留佳は悲しみを胸に持って、戦うしかすべはない、それしか生きる道はなかったし、ここで戦わなかったら、何のために自分はこうして存在するのかわからない。

 みんなから疎まれ、蔑まれて生きてきた自分。

 もう自分は蔑まれる存在じゃない。

 認められなきゃ。

 そうして、自分自身のことをもっと好きになりたいのだ。

 勝って。

 勝ち続けて。

 誰もできないような偉業を達成するのだ。

 そうしたら自分は自分を愛することができる。

 それが唯一の慰めだ。

「今度こそ……終わりっすヨ」

 クドはその可愛い顔をこちらに一心に向けていた。

 勝てるはずだ。

 打てるはずがない。

 葉留佳は投げた。

 ストレート球。内角低め。ストライクゾーン。

 だがその小さいものは勢いよく反応した。

 カキン、と気味のいい音を立てて、ボールは転がる。

「ショート!」

「あいよ!」

 バウンドした球は、ショートによって捕球される。

 ファインプレーだ。転がりながらもファーストへ送られる。

 葉留佳は焦りを覚えた。

 今は、ショートのファインプレーだ。

「アウト!」

 打たれた。

 あの小さい女の子に。

「よし! ワンナウト!」

「あと二つ! しっかり取って行こうぜ!」

「う、うん」

 肩を叩かれる。

 帽子を取って、額の汗を腕で拭う。

 帽子を被ってバッター席を見た。

 腕が痛い。

 頭の中はもう空っぽだ。空っぽであることすらわからない。空っぽをそのまま認識できない。色んなものがごちゃごちゃと混ざり合っている。

 ただ投げる。ということだけが自分の本能のような気もする。

 葉留佳は目を瞬かせた。

 眩しい。

 いやな土埃だ。

 相手の顔もよく見えやしない。

「来い。はるか」

「鈴ちゃんか……」

 後ツーアウト。死にそうだけど、やれる。

 打たれても、ひどい当たりじゃなければ味方がフォローしてくれる。

 葉留佳は真剣に勝負を挑んだ。

 ボール。

 ボール。2ボール。

「ひゅー」

 鈴は微動だにしない。ギャラリーがわき起こっている。鈴の大胆さを讃えているのか、葉留佳の臆病さを皮肉っているのか。

 葉留佳は集中した。

 外部の雑音が消える。

 もう一球。打たれる。

 ファール。

 もう一球投げた。

 ボール。

「はぁ……はぁ……っ」

 肩がつらくなってきた。

 呼吸が苦しくなってくる。

 集中が続かない。

 もう一球。

「あっ!」

 葉留佳は、なぜか、コントロールを誤ってしまった。

 ストライクゾーンギリギリを狙ったつもりが、予想以上にボールが伸び、鈴の体にヒットする。

「デッドボール!」

「鈴ちゃん!」

 葉留佳は悲鳴に近いものを上げてバッター席に駆け寄る。

「鈴ちゃん! 大丈夫!? ごめん! 当てるつもりは――」

「全然大丈夫だ」

 鈴は腕をかばって痛そうにしていたが、不敵に笑ってみせた。

「一塁もらったぞ」

 そう言って葉留佳に背を向けて走っていく姿は、葉留佳のことを笑って受け入れてくれるようでもあり、ひどく馬鹿にしているようでもあった。土埃が舞っている。午後の輝きは黄金色を帯びてくる。

「鈴ちゃん……」

 心配そうな眼差しは、次の打者の一声によって遮られる。

「行きたまえ。次は私だ」

「あっ……」

 来ヶ谷が立っていた。

 真剣な眼差しを受けて、葉留佳は走ってマウンドへ行った。

 相対する彼女の表情は、純粋で美しかった。

 一度は恨みもしたし、なじりもした。心の中で。

 でもボールを打つことに真剣に目を研ぎ澄ませているあの少女は美しかった。

 

 つづく

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