三ヶ月、あれから過ぎた。

 九月に入り、最初に実施された模試の結果が、今日返ってきた。

 真人は、そっと封を破って、中を覗いてみた。

「げげっ」

「真人。どうだった? うわっ……だいぶこれ、ひどいねぇ……」

「見せてみろ。ふーむ……」

 来ヶ谷は顎に手を置いて、思案顔。

 クラスはざわざわと自分の結果を眺めて盛り上がっていた。

「ま、気にすることはない。私の予想の範囲内だ」

「でぃ、Dってよぉ……しかもオレの一番の志望校、評定Eだし」

 Dはもうちょっと頑張れ。

 Eは志望校を考え直せとのことだ。

 来ヶ谷が行く予定として考えている日本のトップの学術機関は言うまでもなく真人にとってE判定。志望校を考え直せ。受ける資格なしときている。

「何でこんな目に……」

「気にするなと言っているだろう。まだ九月だ。私の計算には入っているのだ。本番でさえいい結果を出せばいいのだ。さっ、授業の準備をしろ。今日から高校一年の問題に入るぞ」

「って言ったってよぉ! もう後三、四ヶ月しかねぇんだぞ!? どうやって受験しろってんだよ!」

「そんな言葉は聞きたくなかったな」

 来ヶ谷は頭をかいた。

 呆れた眼差しで真人のことを見ている。

「一つ、言っておくことがある」

「んだよ」

「私を信じろ」

 それは、何よりも真実に近い言葉だった。来ヶ谷は信じてもらうのに足ることは全部やってきたと言う。

 真人が信じてやれないのは、怖がっているからだ。

 来ヶ谷がやれると言ったならやれる。ここから先は、そんな一種盲目的とも言える勇気が必要になってくる。

「……おう。わかってらぁ。後いくら失敗したって、付いてくぜ」

「ひゅーひゅー」

 三枝葉留佳がやって来ていた。

「はろーはろー☆ 姉御ー。遊びに来たよー」

「葉留佳君」

「なかなかお熱いですなぁ……何? テストの結果? ああ、模試? ちょっとはるちんにも見ーせて☆ ……うおあ、」

 絶句である。

 真人は立ち直りかけていたところだったのが、葉留佳の目が異常な形で開かれたのを見て、また突き落とされそうだと思った。

「ひどい点数……志望校、Dが二つにEが三つか……姉御ー。ほんと大丈夫なんすかぁー? これで」

「問題ない。まだ後三ヶ月は最低残されているからな」

「そっかー。ま、真人君も頑張りたまえ」

「うっせぇよ……」

 ところで、と理樹は言った。

「葉留佳さんはどうだったの? 模試」

「模試? ……フフン、はるちんは、模試を! 受けてさえ! いない!」

「どうだ! とでも言わんばかりだね……」

「だぁーってさぁ、模試って言われても、ねぇ……」

「受けなくていいものなのかよ」

「あ、あの時はるちんお説教室で漢字の書き取りやってたから」

「説教されてたのかよ!」

 葉留佳はどこか誇らしげだ。

「とゆーわけで、あーねご☆ 遊びにいこっ!」

「あぁ、すまん葉留佳君。ちょっと、この男の授業時間をこれから増やしていこうと思ってね……」

「えぇーっ!?」

 心底がっかり、とまでは行かなくとも、かなり不満のあるジェスチャーをする。

「何でデスか! はるちんと毎週土曜の午後は遊んでたじゃないデスか!」

「すまん……言い忘れていた。もう、余裕などはほとんどないのだよ。今日の結果を見てわかった。今日から授業をする時間を増やそうと思っている。だから葉留佳君。君と遊ぶのは卒業後まで待ってもらいたい」

「卒業しちゃったら姉御大学行っちゃうじゃーん!」

「すまん」

「もー!」

 葉留佳は地団駄を踏む。

「こら、三枝」

 謙吾がやって来た。

「その態度は何だ。そもそも模試を受けていないだと……我々は全生徒受けることになっていたはずだ。どんな生徒だって受けなくてはならないのだ。悪戯してお説教室に缶詰めされていたとはいえ、威張れることではあるまい。真人の努力を認めてやるのだ」

「なーんすかぁー? うっさいなぁ……別に謙吾君に関係ないじゃん!」

 謙吾はびっくりして、一歩引いてしまった。

 ここまで怒るとは。謙吾は自分が何か間違ったことを言ってしまったかと思ったが、間違ったことは言ってないはずだ。

 体勢を立て直して、目をきりりと鋭くさせた。

「関係などないものか。俺は友人に忠告してやっているのだ。今からでも受けさせてくれと先生に言ってこい。解答なら出ているから、それで自分で採点し、真人と比べてみるのがいいだろう!」

「うっさいなぁもう! ほっといて!」

 葉留佳はぴゅーっ、と逃げてしまう。

 そして扉から少し顔を出して、謙吾に向かってあっかんべーをした。

「何なんだ……あいつは」

「宮沢さん。最近三枝さんと仲が悪いのですか?」

「西園。……いや、知らないな。俺は何だかよくわからん。あいつの不真面目は最近始まったことではないが……真人の努力を笑っていたので、少し厳しい言葉になってしまったな。そこは反省している」

 美魚は小首を傾げた。

 鈴も小毬も、また何かが始まりそうだと、謙吾と葉留佳を見ていてそう思った。

 

 あれからまた一週間。今度は続けて中間試験があり、真人はまたも戻ってきた自分の答案用紙を見て歓喜した。

 10点ほど、前よりも点数が上がっていた。

 前よりも格段に問題が解けやすくなったのである。

「どうだ! 見ろよ、これ!」

「何度目だ貴様……ちゃんと見ている」

 真人の子供のようなはしゃぎように謙吾は呆れ顔。

「へっへーん! 今度はマジで簡単に解けたんだ……ああ、やべえ、オレあの中三のころのフィーバーしていたオレに戻りつつあるな……マジでこのまま大学受験も楽にいくかもよ……」

「調子に乗るな」

「あいたぁ!」

 脛を蹴られる。

 悶絶する真人を見下ろす来ヶ谷がいた。

「10点か……もう少し前より上がってほしかったがな」

「国語70点も取ってんだから、もうこれで全然大丈夫だろうが!」

 来ヶ谷は溜息をついた。

 首を振る。

「私の計画では、こんなもの、80点は取っていなければだめだった。……何度も言うが、大学なのだ。生半可な努力ではやっていられん」

「ああ、そういやぁ……オレ大学の問題で全然やってねぇんだよなぁ……授業についてくのも最近ようやくできてきたぐれぇだし……」

 真人はあれから授業の問題により集中して取り組むことができるようになってきた。

 最初は苦痛でしかなかったあのノートのメモも、今では前よりはるかに容易に取ることができるようになった。

 それというのも来ヶ谷が徹底的に基礎を叩き込んだからだ。きちんと教わらないまま流れ去っていった重要問題を真人にわかりやすく、魅力的に教えたため、真人は引っかかることなく、すいすい新しい知識を理解することができるようになった。

 理解できれば、たいていの授業は面白い。

「まだ大学うんぬんと言えるレベルではない。ここからきちんと足を一歩一歩進め、最後の最後で少し触れていく。それしかあるまい」

「真人はすごい先生についてるんだね」

「へへ。たまに蹴りを食らうのが、また大変だけどな……」

 来ヶ谷が大きく咳払いをした。

 余計なことは言うな、というのだ。

 ガラ、と教室の扉が開かれ、お決まりのごとく葉留佳が楽しそうにやって来た。

「やーやー☆ 諸君こんちは〜! はるちんだよ! ……あ、なになに、真人君またやらかしたの? み〜せてっ!」

「あ、てめ!」

 答案用紙を奪い取られる。

 葉留佳がそれを見たとたん、固まる。

 妙な静寂が流れる。

「え? ……なに、これ」

「オレんだけど」

「名前書き間違いじゃないよね?」

「誰が井ノ原真人なんて書き間違えんだよ! どーだっ! これがオレの点数だ!」

「数学68点……? 英語は? 英語、66点……国語70点……社会82点……ええええぇぇ!」

 葉留佳は答案用紙を放り投げると、およよよ、と泣き崩れた。

「はるちゃん!」

「よよよ……マジ、ショック……はるちんが……はるちんがまさか真人君に……」

「え?」

「おぉーっと! その先は言えねぇや! はるちん、別に真人君の点数なんか気にしないもんね! というか、これも全部姉御のおかげだよ! ねー、姉御?」

「う、うむ……」

 来ヶ谷は俯いた。葉留佳が少し気の毒だった。

「元気出してくださいー。葉留佳さんー」

「大丈夫だよクー公! はるちん元気出すよ! あぁ……でも、この答案用紙は燃やしてやりたい気がメラメラと……」

「はるちゃん……あとで、お菓子食べよ? 大丈夫だよ。はるちゃんのために大好きなワッフル持ってきたから!」

「ありがとぉー! 小毬ちゃん! マジでラブっす!」

 来ヶ谷はこめかみに手をやった。

 ちょん、と肩を叩く。葉留佳が「何?」と振り返る。

「君は点数が悪かったのか?」

「姉御……実はそうなんすよ……いや、別に悪くはないんですけれどネ。ただちょっと……ほら、受験でみんな頑張ってるでしょ? だからこう、相対的に……ね?」

 来ヶ谷は溜息をついた。

 真人と同じで葉留佳は基礎がごっそり抜けている。

 真人のように学業をサボっていたからではない。葉留佳にはそもそもそういう機会がなかったのだ。

 おそらく葉留佳は、理樹以上に頭がいい。

 才能があふれているのだ。でなかったならば、今ここでこうしてそこそこの点数など取れていない。

 だからこそ、葉留佳がこうして苦渋をなめているのが、実はおかしいという気もする。

「君は誰かに教えてもらうとか……そうした方がいいように思えるな。佳奈多君には教えてもらえないのか?」

「ああ。お姉ちゃんデスか?」

 ちょっと残念そうに肩を落として言った。

「やはは……お姉ちゃんはいつも多忙なので……寮の仕事もかなり溜まってるし、それに自分の勉強で精一杯だって……受け付けてくりゃしません」

「そうなのか……あ、そうだ」

 こっそりと、声を落として、小さい声で来ヶ谷は言った。

「謙吾君と……最近よく一緒にいるところを見かけないが……何か、あったのか?」

「別に何にもありゃしませんよ。『何にも』ね」

 何にも、というところを強調した。

 葉留佳は今度は不機嫌そうに、片隅にいる謙吾に目をやった。

 バンドをやっていた頃はそれなりに仲が良かったように思えるが……葉留佳は、それに、謙吾のことが嫌いであるようにも見える。

 でも、

「なんか……はるちん、謙吾君に嫌われてるっぽいんですよね」

「本当か?」

「別に。よくわかってないんですけどネ。でも本人は剣道と理樹君たちに夢中じゃないですか。まったく部活なんてとっくに引退したくせに……いつもいつも鍛錬ばかりでサ……会えば説教食らうし、まったく、意味がわからないっすヨ」

「そうか……」

「ところで!」

 突然元気を出したので、来ヶ谷は面食らってしまった。

「マジで真人君すごいっすネ! どうか、来ヶ谷先生! はるちんにも勉強教えてくださいまし!」

 来ヶ谷は瞬きした。

 困った。

 腕を組む。どうしようか……と思案する。

 葉留佳がかわいそうだ。しかし、

「すまん……葉留佳君。葉留佳君も教えるとなると、また中学生の問題からスタートしなくちゃいけない。真人少年の方は今が大事な時期だ。二人をいっぺんに教えることは、今では難しい」

「えーっ!?」

 葉留佳は信じていたのに、裏切られた、といったような傷付いた目をした。

「やだやだーっ! はるちんも一緒にお勉強したいよー!」

「すまん。誰か、他の頭のいい人を探してくれ」

「えーっ! そんな人、いないっすヨー!」 

 葉留佳の矛先は真人に向けられた。

 真人の服をつかんで、引っ張ったり、揺さぶったりした。

「真人君、姉御を返してよー! 姉御は姉御、真人君は真人君じゃん! 姉御を取らないでよー! ねーぇ、ったら!」

「あ、ちょ、こら三枝! 離せっ……おい、無茶言うなって! あいてててて! 髪を引っ張るな!」

「葉留佳君!」

 来ヶ谷は反射的に葉留佳の腕を突き放してしまった。

 真人の方が大事に思えたのである。

 やってしまってから、しまった、と思った。

 葉留佳は、目から涙が溢れそうになっていた。

「姉御ぉ……」

「は、葉留佳君」

「うわぁ――んっ! もういい! もういいよぉー! 姉御の馬鹿! 真人君の馬鹿! みーんな、はるちんのこと馬鹿にしてるんだ! はるちんだってねぇ……いつも一生懸命なんだよ! もういいよ! 二人はこういうときだけラブラブいちゃいちゃしちゃって! はるちん、もういいもん!」

 出て行ってやる、とでも言うように、葉留佳はずかずかと教室の扉に歩いていった。

「はるちんも素敵な彼氏見つけて、教えてもらうからもういいもんっ!」

 そして大声でそう言って、走って出て行ってしまった。

 教室は騒然となった。

 噂好きの女子は、ひそひそと葉留佳のことを噂し、おかしそうにクスクスと笑い合った。

 男子も男子で、葉留佳の彼氏が誰になるかについて噂し合った。

 その中で、リトルバスターズの面々だけが、ただならぬ雰囲気を醸し出していた。

「どうしよう……はるちゃん、怒っちゃったね」

「うむ……」

 来ヶ谷は一人、罪悪感を覚えていた。

 葉留佳の腕を引きはがした、この右手が、何だか非常に汚らわしいものに思えてならなかった。

 しかし、ああするしかなかった。葉留佳の行動は誰が見ても痛々しいものだったし、恥をこれ以上晒す前に、ああして行ってくれて、よかったとも思う。

 来ヶ谷は自己嫌悪を感じた。

 結局自分の行為を慰めるにしか過ぎなかった。ただもう、悪いとしか思われなかった。

「宮沢さん、追っかけないんですか」

「何の話だ」

 美魚は教室の席に座って参考書を開いていた謙吾にこう声をかけた。

 それが少し大きい声だったので、教室はまたも静かになる。

「あれを見て、何にも感じないんですか」

「感じたさ。三枝はあれでどうするつもりだろうな……まったく、馬鹿らしい」

「恋人を作って来るかもしれませんよ」

「信じられん。馬鹿馬鹿しくてな」

「謙吾君!」

 小毬が大声で謙吾に言った。

「追っかけてあげてよ! はるちゃんかわいそうだよ! はるちゃん誰も味方してくれないと思ってるんだよ!」

「だから、何で俺だ」

 謙吾も苛々したような口ぶりだった。

「おまえたちの方が、三枝についてよくわかってるだろう。俺は男で、おまえたちは女だ」

「謙吾、おまえ、アホだろ」

 鈴の口調もかなり冷ややかだった。

「宮沢さん。追っかけてください!」

「だから、」

「追っかけてあげて!」

「何で、」

「三枝さんがかわいそうです!」

「……」

 謙吾は辺りを見渡した。

 自分のことを全員が注目している。

 謙吾は溜息をついた。

 きっと、何か、誤解しているに違いない。

 何もないんだ。

 自分と三枝は、ただの友達なのだから。

 そう自嘲しているようでさえあった。

「わかった。どうして、俺がこんな目に遭わなければいけないのかわからんが、行くだけ無駄だとも思うが、行って来よう」

 謙吾は、実を言えば、葉留佳のことを一番心配している男だった。

 葉留佳は謙吾にとって、一番親しい女友達だったし、一番理解できる女友達だった。

 ただ、それ以上ではないというだけで。

 だから、この事の真相というか、謙吾が行った結果も、謙吾自身には分かりすぎるほど分かっていた。

 葉留佳のことをそっとしてやりたく、そして、それが一番いい、間違ったことは自分自身で気付くはずだと謙吾は決めてかかっていたので。それがああした行動に移ったのは自然な感じだった。

 それで、謙吾は葉留佳を探して、居場所を突き止めた。それでどうなったかと言えば……、

「あ、宮沢さん。……どうしたんですか、そのほっぺた」

 教室に帰ってきた謙吾は、教室内を騒然とさせた。

「見てのとおり、これが全てだ」

 ビンタの跡がすさまじくはっきりと残っていたのである。

「うわ、痛そう……」

「そうとう強くぶっ叩かねぇと、あんな風にはならねぇぜ……」

「それ見たことか」

 鈴はやはり謙吾に対してはまだ冷淡だった。

「何が、それ見たことか、か。俺にはさっぱり事情がわからんぞ」

 謙吾は、美魚を恨みたい気分だったが、美魚は、

「行っただけでもポイントとなったんですから、よかったじゃないですか」

「何がいいものか……この跡が見えないのか?」

「ああ、その張り手の跡ですか……たいそう、お似合いですよ」

 美魚が笑顔で皮肉ったので、謙吾はややもすれば泣きそうになったくらい落ち込んだ。 

 

 つづく

inserted by FC2 system