そんな五月のある日。

 来ヶ谷と真人は、海岸都市へやって来ていた。来ヶ谷が誘ったのである。日曜日の今日、いつもだったら野球か、みっちり伸ばされた来ヶ谷の個人授業があったはずだが、何故かどっちも執り行われなかった。来ヶ谷はデートに誘い、いつも以上に笑って、真人を電車に連れ出し、ここへやって来た。

 ここはよく校内のカップルがやって来る場所だった。とは言うものの、来ヶ谷も噂に聞いていただけで、来てみるのは初めてである。真人とは。

「今日は、自由な日だ」

 真人は空を見上げた。

 真っ青な空が広がっている。

「自由に過ごしてよいのだ。日頃から君は努力しているからな。私からのご褒美だ」

「ご褒美……か」

「何をしてもいいぞ。私は君の行きたいところはどんなところでも付いていくことにしよう」

 今日は来ヶ谷はいつもどおり髪の毛を下ろしていたが、日頃よりかは可愛い格好をしていた。黒いシャツに、薄い桃色のスカートを履いて、ハイソックスとドレスヒールで決めていた。黒髪は艶が出ていて、日にキラキラと照り映えて、それでいて野暮ったくはない、とても高貴な印象を醸し出し、聡明さ、寛大さ、美しさ、およそ女性の魅力と呼べるもの、そして男が尊敬を注ぎそうな要素をすべて兼ねそなえていた。その唇は茶目っ気にあふれ、そして、それでいながら、男を愛する嬉しさに輝いていた。

 真人はそれでいながら、少々野暮ったい服装である。もともとファッションセンスなどあまりなく、ひいては金すらもない。そんな男に不釣り合いかと、この場では思われるかもしれないが、二人がくっつけば、どこか微笑ましい空気が現れた。それは、どこか調和が生み出されていた。来ヶ谷も、決して派手な服装は好まないタイプだ。真人も野暮ったくもあるが、しかし堂々としているし、それに清潔だった。五月らしい男。そんな初夏の気候も彼とは友達でいるような気がする。

 真人は来ヶ谷をシーバスに連れていった。

 シーバスとは、海上バスのことで、船である地点まで連れて行ってくれる、ロマンティックなサービスのことである。

 休日だっただけにカップルが多かったが、そんなことは気にならなかった。

「ひゃっほーう! みろよ、これ!」

「ちょっと、落ちるぞ!」

 船の舳先に身を乗り出して、真人は来ヶ谷を引き寄せた。

 風が飛沫を巻き上げて、風に乗って船の舳先に砂のように、あるいは粉のように、たいそう陽が当たってキラキラと輝き、舞い落ちるのだった。

 それで二人とも服を少し濡らしたが、真人は少年のようにはしゃいだ。

 あるとき飛行機が近く、非常に近くを飛んで、それもまるで幼い子供のように真人は目を輝かせて追って行ったものだ。

 来ヶ谷はこんなとき、弟を眺める姉のような気持ちになる。

 一緒になって遊ぶことが楽しい。

 お互いに感動した様子を話し合っても、それは陳腐なこととは思われない。

 非常に興味深く、また、非常に洗練されているように思われる。

 次は真人は、中華料理街へ行ってみたいと言った。

 そこはどちらかと言えば、地元の学生や、遠方からの旅行者が多く、華やかさ、ロマンティック加減とは全く別物で、海上や海岸とは全く違った空気を作り出していたが、そこで巨大な肉まんを食べてみたり、あつあつのホイコーローを味わってみたり、一見くだらなく思える話題を、ふざけ合いながら、お茶目に交換したり、そんな子供のようなやり取りに、来ヶ谷は仕方ないな、と呆れては見たものの、弟を見るような、そんな寛大な愛情、そして満足感を、はしゃいで歩く真人に抱いていたのだった。

 真人は中華料理を平らげて、公園で少しリラックスすると、何か行きたいところあるか、と来ヶ谷に問いかけた。

「行きたいところか?」

「おう。オレ、そろそろネタ切れだよ。なんか悪ぃし、好きなところ連れてけよ」

「まったく……」

 来ヶ谷は腕を組んだ。

 これでは、だめだ。

 まったく面白くない。そもそも、来ヶ谷は彼がどんどん自分を引っ張っていくことに非常な興味と新鮮さを覚えていたので、このような反応はひどく興ざめするものだった。

「いつも君の頑張りに免じて、私を一日好きにしていい権利をやったっていいのに」

「は?」

 目が点になる真人。

 これは、少し意地悪したくなってきた。

「もっと、エッチなことを頼んでもいいのだぞ」

「それならエッチなことを頼むぜ」

(え――――っ!?)

 来ヶ谷は顔を真っ赤にしてしまう。腕を引っ張られ、町中へ連れて行かれてしまう。

 来ヶ谷は思索の渦へ没入していった……。

 何が何やら、決してそんなことを望んでいなかったのに、しかし、あり得ない話ではなかったし、そもそも自分が悪い、

 でも、いきなり、そんなことをするほどこやつは積極的だっただろうか。

 何やら自信満々に歩いて行くようだし、……胸よ! 静まれ! 

 まだ真っ昼間なのに、変なことをするなと言ってやるのだ! ……と思ってはみたものの、意外と強い力に胸は高まるばかりだし、頭は沸騰し続けていて、足も覚束ない、声は変に上擦るし、どうしたら……このままでは、貞操の危機――声を、声を張り上げてみようか、でもそれはちょっと可哀想でもあるし、もともとまんざらでもそうでもないような、あれ……と、来ヶ谷はだんだん目が回る心地になってきた。

「まっ、まさとくん! ちょっと、待ちたまえ!」

「いいこと思いついたんだ――くっくっく……いつもおまえに色々言われっぱなしじゃあ、しゃくだしな……オレにそんなことを言ったんだ……責任は取ってもらわなきゃなあ!」

「せめて、水着のぽろりとかにして!」

「はあ? いいからこっち来いよ!」

 変な店へと連れ込まれた……。そこは、どうやらデパートのような場所であった……。

 妙な品物ばかりが並んでいる。

 そこで待たされて、真人が何か買いに行っている間に、来ヶ谷は胸を押さえて、息を吐いて、吸って、吐いて、吸って、を繰り返していた。

 ふらふらと店内を移動する。

 暖簾が何やらかかっていて、KEEPOUT! と書かれている。

 ふらり、とその暖簾を押して中に入ると、来ヶ谷は小説の中でしか知らなかった、あれやこれの、大人のおもちゃが並んであった。

「※☆▼???!!」

「おーう。あれ? どこにいんだ?」

 真人の声が外でする。隠れようとすると、変な道具がある棚にぶつかってしまう。ガラガラと音を立てて崩れていく品物の列。そこで何やら試供品のボタンを変なふうに押してしまったらしい。女の甘ったるい、扇情的な声がかなり大きい音量で流れて、場が一瞬凍り付いた。それもちょっと来ヶ谷の声と似ていたので、その中で真人が縮こまっている来ヶ谷を見たときは、一種異様な雰囲気が二人の間に流れつつあった。

「ひっ……」

「……ぷっ」

「え?」

「ぶわ――――はっは! なぁーにやってんだよおまえ! 馬鹿なのにも程が――ぶわっ! ぐほ!」

「とっとと戻って来い! この筋肉だるま!」

 飛び蹴りで今度は、また妙な物が倒されて、不思議な、抑圧的な男性の声が店内に響き渡ることとなった……。おもちゃを転がしまくったので、二人は転げ出て、そそくさと店を去って行った……。

 

「コレだよ、コレ」

 真人が取り出したのは、なんと「うさぎちゃんヘアバンド」だった。真人は額に出来た血のにじんだ跡をさすりながら言った。

「何だ……それ」

「うさぎちゃんヘアバンド」

 うさぎの耳だった。

 来ヶ谷はそれを手にとって眺める。

「で?」

「付けろ」

「え? よく聞こえなかったんだが」

「付けろ。そしていつもより十倍増しに猫撫で声で頼む――うおぉぉぉぉ――――っ! ぶほ!」

「スケベ野郎が!」

 来ヶ谷は蹴り飛ばしながらも、そそくさと、若干恥じらいながらもそれを付けた。

 真人が起き上がって、感動した目で眺めている……。

「キサマは、何がしたいのだ……」

「オレは、今、猛烈に感動しているぜっ! ひぃやっほぉぉぉ――――っ!」

「そんな掛け声いらないわ!」

 耳まで赤くなっている。

 ぴこぴこと体の動きに合わせて動く「うわぎちゃんヘアバンド」が、来ヶ谷の美貌と微妙なマッチングを醸し出して、シュールな光景を作り上げている。

「さ、写真写真。はいチーズ」

「撮るな!」

「かわしてみせる!」

 来ヶ谷の足は宙を切った。

「くっ……やるじゃないか」

「へっ……まあな。そんだけ日頃から何十発も食らってりゃあ、嫌でも身に付くさ……おまえの切れ味は鋭すぎるからな……」

「微妙に変態っぽいじゃないか、その発言」

「くっ……そんな頭をされた本人に言われてもな。くっくっく……だぁ――はっはっはっは!」

「くっ……くぅぅううう!」

 恥ずかしい。

 死ぬほど恥ずかしい。

「ほらほら……もっと、悔しい振りとかやめて、嬉しそうにしてみろよあぁーん?」

「こ……こうか」

 上目遣いで真人を見つめるその素振りは、対照的にふんぞり返って、人生の悪を全てその顔に凝縮したとも言わんばかりの真人の顔を両者見比べると、何かの映画の撮影のようにも見えるだろう。ここで二人を恋人だと認識するのは難しい。

「違う! もっと、こう!」

「くっ……こ、こう?」

 目がうるうると自然と潤んでくる。

 その衝撃たるや。

 凄まじいものだったが、真人は自我を失わずに何とか済んだ。

「ふ、ふん……よし、そのまま『天才様、真人様、愛しています』と猫撫で声でぶぉぉぉおおお――――っ!」

「いい加減にしろ――――っ!」

 血の涙が真人の目から流れたのだった。

 

 うさぎちゃんヘアバンドは結局来ヶ谷のバッグの中へと消えていった。そして、それが理由でその後しばらく来ヶ谷は真人に主導権を握らせなくなった。

 真人と来ヶ谷は自然公園でスポーツ用具を借りて、テニスをやったり、サッカーボールでリフティングをやったりして遊んだ。二人はとてもうまかった。若干テニスは来ヶ谷のがうまく、リフティングは真人のがうまかった。それから日向ぼっこをして、少し昼寝して、帰ることにした。

 二人は帰りがけ、電車から降りると、駅前に屋台が出ているのを発見した。クレープ屋だった。

「あ」

「あん? どうした?」

「いや……」

 来ヶ谷は甘いものが欲しかった。運動した後で、喉が甘いものを要求していた。

 でもクレープはそんなに好きじゃなかったし(子供っぽいので)、真人にそんなふうに誤解されたら嫌だから、無視した。

「あぁ〜、ちょっと、寄ってこうぜ」

「え?」

 真人は手を引いて屋台の方へ寄っていく。

「何か食うか?」

「私は……」

 来ヶ谷はもう否定などしなかった。クレープが食べたかったので、遠慮なく好きなものを選ぼうとした。

「ふーん。ストロベリーか。じゃ、オレブルーベリーね。おばさん、ストロベリーとブルーベリー二つくれ」

「はいよ」

「おい真人くん。別にいいよ。私が出すから」

 真人は手を引っ込めさせた。片方の手で財布を出して、千円札を出しておばさんに渡した。

 クレープが出来るまで待っている間、来ヶ谷は不思議そうな顔をして真人の横顔を見ていた。

「真人君……そんな、いいのだよ。今日は私が君にあげたご褒美だったのだし」

「ありがとよ」

「え?」

 クレープを受け取って、真人は笑って屋台のおばさんに手を振った。来ヶ谷に笑いかけて、そのお礼の意味を述べた。

「いつも付き合ってくれてさ。大変だったんだろ? オレの授業考えんの」

 来ヶ谷の瞳が揺らいだ。

 はっ、として、瞳が輝きだした。

「そんなことは、ないよ」

 お礼を言うほどでもない。そう言ったつもりだった。

「いいや。そんなことあると思うぜ。ま、これからもよろしく頼むぜ。来ヶ谷先生」

「真人君」

「あ〜うめぇな」

 真人はそっぽを向きつつ、空を眺めた。

 夕焼けが、広がっていた。それは赤い色と青い色の混合だった。とても美しい佇まいで、そっと星とともに、幸せそうに流れていた。

 

 輝かしい未来が待っている。

 そんな気がした。

 来ヶ谷のしらけた顔を見るまでは。

「どぉぉ――だっ!」

 真人が開いたのは中間テストの答案用紙。五教科すべて並んでいる。

 どれも、以前の真人の平均点より、約20点、アップしている。理樹は、そんな真人の点数にわりと正直な気持ちで拍手していた。

「すごいよ! 真人! 58点だなんて、一年振りくらいじゃない!?」

「へっ……オレはちまちま点数だなんて気にしねぇからなぁ……いっつも真っ赤だったのは気にしてたんだが」

「どこがすごいのだ?」

「なにっ……おまえ、58点だぞ58点! 数学58点! どうだ、マジですげぇぜ! オレってやっぱりやればできる子だったんだなぁとマジで感動――」

「理樹君より30点も低いではないか」

 真人は落ち込んだ。

 理樹は気が引けたように、後ろで微笑んでいる。

「理樹……理樹は別格だよ。真面目だしよ。そんなオレでも頑張ったんだよ! 見ろよ、コレ!」

「私と似た点数なのが腹立たしいです」

 美魚が真人を睨みながらそう言った。

 美魚は数学を苦手としている。

 その代わり、国語は98点だ。

 来ヶ谷は難しい顔を解かなかった。

「甘やかすんじゃないぞ、理樹君。君ぐらいの点数を取ってはじめて威張れるというものだ。めったに賞讃などするべきではない。そのようなことをするとますます増長する」

「いいじゃねぇかよぉ。いっつも赤点だったんだから。ここはひとつ、お祝いということで」

「ふざけるな!」

 真っ赤な鬼がいた。

 真人からは頭に角が生えているように見えた。

「く、来ヶ谷さん」

「私も、真人君とは似た見解を持っている。……もっとも、君のように都合良くはできていないがな。テストの結果など私は興味を抱かない。それにこのような簡単な試験……全くレベルが違う問題が大学入試では出てくると思え。よってこんなテストで歓喜している君はまだまだ甘い」

「そんな、来ヶ谷さん」

「いいんだ。理樹」

 真人が首を振って言う。

「あいつはああ言って人を奮い立たせてくれるんだ。だから、感謝しねぇとな。オレの、頭が、浅はかだった……ぜ……」

「いいよ、涙拭きなよ!」

「女ってよぉ! 女ってよぉ――!」

「うっさいわぼけ!」

「ちなみに、来ヶ谷さんの点数はおいくつでしたか?」

「言いたくはない」

 来ヶ谷はほとんど96点以上である。100点満点も、2教科ほどある。

「でも、ゆいちゃんの言うとおりだよ〜。わたしたち、過ぎたことを言い合ったってしょうがない。また次の試験に向けて頑張ろう?」

「小毬さんの言う通りだよ……」

「だけどよぅ……もうちょっと何かあったっていいんじゃね? オレの点数、奇跡的にここまで上がったってのによぉ……」

「そういえば真人、一体どんな来ヶ谷さんの授業があったの?」

「ん、まあ、こんな感じだな」

 真人はいつも来ヶ谷とやっているようなことを、簡単に話した。

「いつもいつも何をやってるんだろう……って思ってたけど、でも、よくそんなのでこんないい点取れたねぇ」

「ま、ただいつものノートをぱらぱら流し読みしただけだぜ。それしかやっちゃいけねぇ、って言われてたからな」

「なんだかうらやましいのですー……わたしもあんな、家庭教師が必要なのです。ほーむ・てぃーちゃー! リキー、お願いしますー」

「むっ、無理だよ! 僕に家庭教師だなんて!」

 真人がやったのは、実に理にかなった勉強方法だった。

 来ヶ谷が教えたのは、物事の基礎となる事柄。基礎的な考え方を導入し、刷新した。

 そして、徹底的に暗記学習を排斥した。

 ノートを取るのはメモの役割と同時に、無意識記憶の役割も持っていた。

 必要以上に暗記に気を配るのはやめにして、柔軟な思考、そして流れるような論理の構築、偏見の除去を最優先にして行われる授業は、真人の怠惰な学習方法を一気に真新しく、有用なものに取り替え、20点も点数が上がったのはやや低すぎる結果と言わなければならないほどだった。

 来ヶ谷は誰よりも喜びたかったが、もう時間が無い卒業までに仕上げる理想図を見ると、気を引き締められずにはいられない。そして誰も自分に賛同し、理解を示してくれないのが何だか寂しい感じがした。

「姉御ー。姉御は何か勉強やったんデスか?」

「私か? 私はいつも夜に勉強しているよ」

「どんな?」

「言いたくはない。だが主に読書が中心ではあるよ」

 来ヶ谷は実はほとんど勉強はしていない。ただ、時折ノートや教科書をパラパラと眺めたりしているだけだ。

 それとは別に、自身が選んだ本を読んでいる。文学や歴史書、哲学書、化学の本など。

 

 それとは別に、来ヶ谷は真人を賞讃してやりたい気持ちがないわけではなかった。

 でも三月に出来上がっている理想図を考えると、どんな時間も使わねばいけない気がした。

 そして、できるだけ彼に優しいところなど見せるまい、それが、必要であるように思われた。

 とは、言うものの、物事にはメリハリが必要なのであって、休みの日には勉強外のことで仲良く振る舞って見せたりもした。

 しかし、大事なのはもっと別のことだった。

 来ヶ谷はこの日、頭が朦朧としていた。

 熱を計ってみると、37度と微熱がある。集中力が散漫になり、頭を使う作業を一日の間に重要事と見ている来ヶ谷には一大事で、非常にイライラさせられることだった。ストレスはさらに集中力を減少させる。体に力を入れると疲労も溜まりやすくなる。視野も狭まり、大事な判断力がなくなる。

 来ヶ谷は途中何度も頭を抑えて、低く呼吸した。それでなんとか、一日の授業を終えた。

 来ヶ谷は真人に厳しく言った手前、自分が休んでいられないという妙なプライドを抱えていた。

 保健室に行っておけばよかったと後悔したのは放課後になってから。もう真人との授業が始まる。

 顔が、青い。

 真人がそう言ったのは覚えているが、その後何を話したのか、記憶が定かではない。

 来ヶ谷があるとき、はっと目を覚ますと、自分は布団の中だった。

 来ヶ谷は起き上がろうとして頭痛がするのに気が付いた。

 熱がある。

 だんだん思い出してきた。

「おっ」

 声のするほうを振り向く。

「ダメだ。寝てろって。何やってんだよ。ほら」

「あ、ちょ、おい」

 布団をかけられ、寝かせられる。

 見たところ、真人の部屋のようだった。

 そうだ。今日は真人の部屋で勉強をしたのだった。

「ほら、こいつを飲みな」

 ペットボトルを渡される。それはポカリスエット。

「ちょっと起きろ。そうだ、ゆっくりと。なんか着るか? ブラウスじゃさみぃだろ。これ、羽織っとけ」

 来ヶ谷は真人の学ランを肩からかけられた。

 ペットボトルの蓋を外して、少しずつ飲む。喉がひりつくような感じがした。

 咳込み、喉がジンジンするのが感じられた。

「うぅ」

「熱、計れよ」

 取り出された体温計で熱を計ると、38度7分もあった。

「おっめ、馬鹿だなー。何でこんなんなるまで気付かなかったんだよ」

「気付いてはいたさ……でも、勝手に治るだろうと思っていた。学校に行かないわけにはいかんし」

「ったく……保健室行くとかなんでも手はあるじゃねーか。いきなり目の前で気絶されてみろ。こっちの身にもなれよな」

 反論したかったが、また眠気が襲ってくる。

 学ランを返して、また布団の中に沈み込んだ。その布団が誰のものか知るよしもせず……。

 来ヶ谷が目を覚ましたのは九時だった。

 理樹はそのとき席を外しておいてくれ、真人の看病に任せておいた。

 目を覚ますと、真人が忙しく立ち回っているのが見えた。

「真人……君?」

「おっ。また起きたな。寝坊すけ野郎」

「ここは……そうか。君の部屋か」

 思考力は前より戻っているような気がした。汗をかいている。ブラウスの胸元を開けると、涼しい風が入った。

 枕元に置いてあるペットボトルからポカリスエットを飲んで、はっとする。

 真人の部屋だと再認識して、慌ててブラウスの胸元を閉じた。

「ぬぅ……今は、何時だ?」

「夜の九時だよ」

「えっ」

 しまった、と頭を抱える。

 もう夜の九時。大事な授業に穴を開けることになるとは。

 教育プランを立て直すはめになった。

「大丈夫だって。事情話してあっから。好きなときに女子寮戻れるようになってる」

「そうじゃない! 授業が……」

「授業ならホレ、自習にしておいた」

 真人のみかん箱の上には参考書とノートが広げてあった。相変わらず中学一年の内容だったが、やった後は窺えた。

「みんな、どうした」

「もう帰ったよ。ちょうどオレの勉強見てくれたりしたっけな。あとおまえの世話の仕方も色々教えてくれたよ。ほら、とりあえず熱計れ」

 胸元を隠しながら、熱を計ると、37度に戻っていた。微熱だが、さっきよりは苦しくない。むしろ、爽快さまで感じる。

「うーん。こりゃ、風呂入んねぇほうがいいな。明日は学校休めよ」

「んなわけにいくものか」

「泊まってくか?」

「だ、だから、そんなわけに行くかぁ――っ!」

 冗談だとはわかってても、真人には否定しておきたい。一体何を言っているのだ。

「ここなら好きに使っていいぜ。オレは謙吾のところに泊まっからよ」

「……別に、もういい……そう言うことではないというに」

「は? まぁ、これ食えよ。言われたとおりに作ってみたんだが、食えるといいが」

 真人はおかゆを持ってきた。

 小さいお椀から湯気が出ていて、ふんわりと香りが漂っている。

「食えるか?」

「食欲が、ない……」

「似合わねーこと言うな、夕飯食ってねぇし、いつもみてぇにばりばり食えよ」

「そんなに食うものか! ちっ……仕方ないな。さ、寄こせ」

「何でそんなに偉そうなんだよ……ほら、食え」

「? お椀を寄こせと言っているのに」

「いいからこれ食えって。ほら、がぶっと」

「え――っ!?」

「?」

 真人はレンゲごと来ヶ谷の口の近くに持ってくる。それは、俗に言う「あーん」の技法……意識して、やっているのか、いないのか、どちらにしろ、来ヶ谷は病弱なため、厳しく追求することも、冷笑することもできやしない。

 それに、弱っていると、何だか相手のこんな要求さえ、受け入れやすくなるものだ。

 来ヶ谷は目を閉じて、顔を赤くして、口を小さく開けた。

 量が少なく、またよく冷まされてあったので、口の中はほんのり香る美味しさが殺されずに、とてもよく味わうことができた。

「うまいか?」

「……まあまあ」

「まあまあ、ね。まあ初めて作ったには上出来ってところかな。難しいのは一切できねぇがな」

 それはとてもシンプルに味付けされたおかゆだった。薄味で、そしてほんのりしょっぱい。塩の味がする。

 来ヶ谷は二杯目を要求していたが、どうもそれを頼むのが嫌だった。さっさと二杯目をくれと思った。

「ほれ。どんどん食うか?」

「……」

 ぱく。と、子供のように幼い動作でレンゲを噛む。

 その後で貴婦人のように上品に咀嚼するので、真人は妙な感じがした。

「もっと食うか?」

「そんな、いきなりガツガツ食えるか」

 真人は笑って、わりぃ、と言った。

「ここは……君のベッドか」

「ああ。変な臭いとかすっか?」

「少し。でも……悪くない」

 来ヶ谷は自分が言ったことに対して、信じられなくなるような気持ちになって、さっと顔を赤くした。

 真人は言った意味を理解してるのか、いないのか、男って臭うかんなー、とあっけらかんと笑っていた。

「真人君。何とか大丈夫そうだ。そろそろ帰るよ」

「もちっといろって。ほら、これ入れとけよ。できたから」

「何だこれは……」

「湯たんぽだよ。理樹の借りて作っといたんだ。こうやって、足元に……」

「あ、お、ちょっと」

 布団の端をめくって、来ヶ谷の足に温かい枕のようなものがあてがわれた。ぽかぽかと足が温められるので、来ヶ谷はすぐにここを抜け出せなくなってしまった。あまりにも気持ちよかったから。

「ぬぅ……」

「な? 温かいだろ? それと、よっと、氷嚢作っといたから、新しいのに交換させてくれ」

「あ」

 真人は枕の上にあった古い氷嚢をどけ、新しいのを布に包んで置いた。そこに頭を乗せると、ひんやりと心地よくなっていくのを感じた。

「新しいのを買ってきておいたから、飲みな」

「何から何まで……本当に、すまない」ポカリスエットをもらう。飲む。

「別にいいって。気にすんな。結構楽しいもんだぜ」

 来ヶ谷は、また眠気が襲ってくるのを感じた。

 少し眠ってしまう。

 次に起きたのは十時ごろだった。

 理樹はまだ戻って来ていない。

 来ヶ谷がゆっくりと背を起こすと、真人は真剣な表情で問題集に取り組んでいた。

 来ヶ谷はもうすっかり熱が引いているのを感じた。これはすごいことだ。まだ少しだるいが、それはただの疲労に過ぎなかった。体は驚くほど軽くなったように感じられ、喉の痛みもだいぶおさまっていた。

「真人君」

「おう。起きたか。ふわ〜あ……なかなか進まなかったな」

「腹がすいた」

「おう。さっきのあれ、食うか? ちと待ってろよ。温めてくっからよ」

 お腹がすいていた。台所に向かう彼を、来ヶ谷は感謝の眼差しで追っていた。

 みかん箱の上を見ると、問題集とノートが開かれていて、消しゴムのカスがあふれていた。えんぴつの書いた黒い跡も、真人の努力の成果をとても明確に、形として残していた。

「ほら。待たせたな」

「ありがとう」

 真人はまたもレンゲにすくって、来ヶ谷に食べさせた。

 甲斐甲斐しく世話してくれる彼の一生懸命さに来ヶ谷は心から感謝の念と、尊敬の念を覚えていた。

 どうしてこんなに世話してくれるのか。

 前までは謎に満ちていた彼の行動だった。

 でも今ならわかる。

 彼の目が語っているからだ。ただ心配で、来ヶ谷のために何かしたいと切に思っていたからなのだ。

 だから来ヶ谷は前よりもただ単純に彼の愛情を、そのままの加工されない形で、まっすぐに受け取ることが可能だった。そしてそれは、真人のために夜更かしをして、授業の案を練り続けていた来ヶ谷の愛情とひたむきな努力に報いるにおおいに余りあった。

 来ヶ谷はここに幸福を感じていた。

 それは、言葉に表せないほどだった。真人の姿がただ輝いて見えた。そしてそれが、無私の愛情が、来ヶ谷に全て向けられていることに、来ヶ谷はとても光栄なことだと思うようになった。

「ふふ」

「んだよ」

「何だか変だな。と思って。いつもは私が君の世話をしてるのに、いつの間にか、君は私とは比べものにならないほどに頑張り、そして輝いて見える」

「ただオレが健康で、おまえが不健康だっただけだろ? ったく、夜更かしとかすっから、こういうことになんだってんだよ」

「面目ない」

「ったくよ、次からはもちっと、自分の体に気を遣えよ? おまえは頭がいいんだから、もちっと人のためより、自分のために考えて、うまい具合に両立させてみろよ。いつかばてるぞ。今日みてぇによ」

「考えておくよ」

 来ヶ谷は最後の一粒まで食べてしまい、それでもまだ空腹なことに気が付いた。

 体に活力が戻ってきているのを感じ、それら全てが、真人の愛情の賜物だと来ヶ谷は思え、そしてまた感謝の情をもってこの男を愛する眼差しで見つめた。

「そろそろ……帰るよ」

「おう。そうか」

 真人は当たり前のように送っていこうとしたが、来ヶ谷は立ち上がって、真人の胸に手を置いて、首を横に振った。

「もう……大丈夫だ。明日は休むよ。完全に直して、また戻って来るから。もう二度とこういうことが無いように気を付けるよ」

「またなんべんでも風邪ひいていいんだよ。人間なんだからよ。ただもちっと、おまえのことも気遣ってやれってこった。……でも本当にいいのか? 一人でいけるか?」

「私を誰だと思ってる」

 真人は、そうか、と言って笑った。

 来ヶ谷はブレザーを着て、鞄を持ち、リボンを締めた。

 振り返って、

「真人君」

「あん?」

「ちょっとこっち向いてくれないか」

「おう」

 真人はお椀を片付けていたが、来ヶ谷の呼びかけに応じる。

 すると来ヶ谷が面前にいて、びっくりした。

「お、おい!」

「何でこうしてくれないんだ……私は、君をどれほど好きか、わからないと言うのに」

 来ヶ谷は真人にキスをした。

 熱が唇から喉の奥へ抜けていき、これだけで体が健康になったような気がした。

 もう喉や唇は枯れてなく、生き生きと潤いを持っていた。唇を離した後、来ヶ谷は

「あっ」

 と口を押さえた。

「す、すまん。真人君。風邪あがりだったのに……うつしてしまったかもしれん」

「いいんだよ」

 またキスをした。

 それがまた来ヶ谷には甘美で、嬉しく、身をとろけさせるようなものだった。

 キスはいつでも熱いものだ。

 そして精神的であればあるだけ、これ以上ない感動と幸福を与えるものだ。

 来ヶ谷は徹底的に精神的な人間だった。

 そして真人も、物理的であれど、来ヶ谷との付き合いは精神的なものに分類された。

 彼も感動を味わっていた。

「いつでも、風邪なんかひかねぇよ。オレは。だからそんなこと気にすることなんてねぇんだ。もらって、逆に、風邪を殺してやる」

「……ありがとう……」

 来ヶ谷は上目遣いで彼のことを眺め、肩に顔をうずめてから、そっと離れた。

 部屋の段を降りて、ローファーを履く。そして恋する乙女らしく、清純そのものを表情に宿し、少し顔を赤くして、晴れ晴れとした眼差しで微笑んだ。

 部屋が閉まると、真人の耳には、トッ、トッ、ト、と健康的な、規則正しい足音が聞こえて、それがだんだん遠ざかるまでじっと聞いていた。

 

 つづく

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