学校が再び始まって、数週間の時が流れた。

 今真人たちは電車で、都会までやって来た。

 通学生たちに混じり、ある大学の門をくぐる。

 真人は校舎を見上げた。

「ここかぁ……」

「なかなか大きいな」

「おまえ、大きいってもんじゃねぇだろ。ここ広すぎだよ」

「広すぎるのも悪くないがね。どうも私たちが一目見ただけではわからんくらい広いからな。あとで地図をもらっておこう。そうすればわかるはずさ」

「迷子になんねぇかなぁ……」

「私がついている」

「本当かよ……やだぞ。二人揃って試験官ん所に駆け込むのは」

「私を信じたまえ」

 来ヶ谷は胸に手を置いて自信たっぷりにそう言った。

 とはいえ、まだ時間もたっぷりあったので、少々道に迷う余裕はあった。

 校舎に入っていくと、試験官たちが受験票のチェックをして、どう進んでどう行けば会場に着ける、と説明してくれた。

 私服で着ている人もいる。半分はここの学生で、半分は高校生以外の受験生。

 真人はものめずらしそうに辺りを見回していた。

「すっげぇ建物……さすが、日本一」

「迷子になるなよ。私の手を握っていろ」

「おまえ、ガキじゃねーんだからよっ!」

「ふふ」

 来ヶ谷は微笑みながら階段を上っていく。

 古めかしい建物だが、そこかしこに威厳が感じられた。

 そしてそれはまだこれからもずっと輝き続けるはずだ。

 それは、どんなに楽な道でないか、試験を受ける前から受験生に悟らせる。

 だが真人や来ヶ谷には気後れがなかった。

「緊張は?」

「してっけど……なんつーか、バトルが始まる前の緊張感って感じさ。試合みてぇなもんだ。やるだけやってやる」

「そうさ。やるだけやってみろ。十中八九うまくいく」

「勝算あんのかよ。おまえから見て」

 来ヶ谷は少し考え込む素振りを見せて、少ししてから、微笑む。

「大丈夫さ」

 散々あれだけ厳しく指導されたというのに……まるであれが嘘だったかみたいに来ヶ谷は優しい微笑みを見せた。

「散々君に厳しく言い聞かせたが……君の言うとおりというやつで、試験はさほど難しくないはずだ。君の言うとおり、『想像力こそ最も危険なれば』だ」

「やってみるまで勝ち負けはわからねぇ……か」

「そのとおりだ。言ってしまうが、十中八九合格すると思う」

「おいおい……本当かよ」

「本当だとも。そう信じるのだ」

 来ヶ谷はここのところ微笑みが少なかった分、ここで取り返そうとしているかのように微笑みを振りまいた。

 あるいはそれは、真人を元気づけるためだったかもしれない。

「私はそう信じている」

「……オウ。悪ぃな。オレもだんだん気楽になってきたわ」

「む……。着いたな」

 来ヶ谷は指さした。そこには100人くらい入れる中程度の講堂があった。

「私はこっちだ」

 廊下の先を差す。別々の講堂なのだ。

「ここから先は離ればなれだな……」

「拳、こう出せよ」

「こうか?」

 胸のあたりまで持ってきて、相手に向かって突き出す。

「こう、ぶつけるんだ。相手を讃える証になる」

「こう、か」

 がちっ、と力強く拳を合わせた。

「やってやんぜ。おまえも頑張れよ」

「ああ……」

 来ヶ谷は微笑みを浮かべて、真人から離れていった。

 それを見送って、講堂に入ろうとしたところ、

「真人君!」

「お?」

 顔を赤くした来ヶ谷が戻って来ている。

 手を振って、エールを送った。

「ファイト!」

「おう!」

「私なりの応援だっ!」

「ははは!」

「なんだまったく! 恥ずかしいことをしてしまった! 絶対合格するんだぞ!」

「元気出たよ! 見てろ!」

 来ヶ谷は力強くうなずいた。

「うむ!」

 真人は来ヶ谷と別れて、講堂に入っていった。

 受験票の番号と席順を見比べて、自分の席を探し出す。

 ちょうどその場所が見つかったので、真人は鞄を置いて、隣の生徒に挨拶する。

「ちっす。隣だな。よろしく」

 眼鏡をかけたその生徒は、不思議そうにちらと一瞥を寄越しただけで、またノートの確認に没頭してしまった。

 真人は「やれやれ」と思いながら、鞄から筆記用具を出しつつ、あくびをした。

 試験が始まるまで一眠りでもすることにした。

 

 春の優しい風が吹いていた。

 草花は輝きだし、憂鬱な風などどこかに行ってしまう。

 川は賑わいだし、人々の顔を綻ばせる。

 そんな三月のある日。

 鈴は、ピッチャーマウンドに立って、ボールを握りしめ、振りかぶった。

「うりゃっ!」

「ストライク!」

「やったぜ! 鈴、続けていけぇ!」

 恭介のベンチからの応援が届いたのか、鈴はボールを受け取りつつ、「うっさいわぼけ!」といらない口を叩く。それでも久し振りに兄妹で野球をすることができるのが嬉しく、おかしそうに微笑んでいた。

「ちっくしょー……あんな娘っこに負けてたまるかよぉ!」

「元野球部エースだろあんちゃん! ぶっ放してやれ!」

「ふん」

 地元野球チームとの戦いが、ここ河川敷で行われていた。

 相手は社会人や地元商店のおじさんたち、また幼い子供たちであった。

 鈴は第二球を投げた。

「あれっ!」

「へーい! 何やってんだい! へっぴり腰じゃねぇか!」

「うっせぇ! カーブだぞありゃあ! 姉ちゃん素人じゃねぇな!」

「素人です」

「嘘つけ! どう見てもあんなカーブ投げれるのが素人なわけねぇだろ!」

「もう一球投げますからね」

「うし! 来いや!」

 相手は結構若い人間だったのだが、鈴のボールは結局捉えることができなかった。

「アウト!」

「何だとぉ!」

「ナイス、鈴!」

 キャッチャーの理樹が投げ返す。

 鈴は軽々とアウトを取ったことに満足し、不敵な微笑みを浮かべながら野球帽を直した。

 あれから、またみんなが久し振りに集まった。

 リトルバスターズ。

 もうずっと、離ればなれになっていたものが、ここにこうしてひとたび集まれば、以前の結束を示せるというのだから驚きだ。

 あれから一年が経っていた。

 真人たちは――、

 

 真人と来ヶ谷はある日、非常にどきどきしながら大学の校舎へと向かっていた。

「真人君……くじを引いていかないか?」

「いや……やめようぜ。くじって何か縁起悪くねぇ?」

 来ヶ谷は大学前の神社でためらいを見せていた。

「くじ引いて、もし大凶とかだったらどうするよ……」

「その時はだな……せ、せめてお守りだけでも!」

「今さらお守り買ってどうすんだよ! 結果は出てんだから行くぞ!」

「ぬっ……す、すまん」

 腕を引っ張られ、来ヶ谷はようやく平静を取り戻したのだったが、大学の門をくぐると再び恐怖で体が震えてきた。

「うう……」

「おまえ、オレしかいなくてよかったな!」

「なんだ……あんまりそう意地悪を言わないでくれ……本当に怖いんだから」

 来ヶ谷は真人の腕に掴まりながら、ずるずると引っ張られていったが、合格者発表の掲示板へと向かった。

 結果は――合格だった。

 二人とも。

「やったぁぁ――――っ!」

「よっしゃぁぁ――――っ!」

 二人とも抱き合って、ぴょんぴょん跳ねているうちに、大学のサークルの人たちに囲まれて、胴上げが始まった――もう何度目かの胴上げを――。

 

 ここで葉留佳たちのことも述べておきたい。

 葉留佳は、あの野球の勝負の日から、やはり独学で勉強を進めていた。

 もちろん大学受験者の平均のレベルにも全然達しなかったが、それでも勇気を出して試験を受けに行った。

 結果は不合格だった。

 でもいいのだ。

 葉留佳はほとんどショックを受けていなかった。

 ただ、これからどうしようか考えているところだった。

 謙吾がやって来て、これから旅に出ないかと言ってくれた。

 謙吾とはあの日以来、もっと親密な仲になりたいとお互いに告白し、ずっと仲が良くなっていた。

 謙吾も謙吾で葉留佳の面倒を見てやりながら、面白おかしく三年生の三学期を過ごしていたのだが、やはり謙吾は入念に準備をしたため、スポーツ生枠でばっちりいい大学に進学を決めた。

 それでも、休学をするつもりだなどと言うのだ。

「自転車で日本全国回ってみるっていうのは、どうだ」

 葉留佳は面白くなって、すぐにオーケーを出す。

 そこから人生はもっともっと楽しくなっていった。

 すぐに自転車を買って、旅の用意をした。

 謙吾がずっとこういう気ままな旅をやってみたかったのだというが、葉留佳のことをずっと気にかけていてくれたのは葉留佳にも明らかに分かった。

 そういう不器用なやつなのだ。

 不器用なところはお互いそっくりだ。

 でもじょじょに変えていけると思う。

 理樹たちの元には一週間に一回程度、写真が送られてきた。

 バックパックを背負い、競技用のヘルメットを被り、サングラスをかけた謙吾に理樹たちはおかしくなりすぎて噴きだしてしまう。その隣には常に幸せそうに笑っている葉留佳がいて、結果的に二人のことがむしろ羨ましいといつも思うのだった。葉留佳たちは海に山に街に田舎に、あらゆるところを駆け抜け、半年たって、故郷に帰ってきた。

 謙吾は復学して、葉留佳はまた独学で資格を取るための勉強と、講習通いを始めている。謙吾はまだ剣道をつづけ、葉留佳は新しくバイトを始めたようである。

 手紙には二人の夢も書いてあった。理樹たちはそれを読んで、微笑ましい思いと、羨ましい思いをいつも抱くのだった。

 

「ストライク! バッターアウト! スリーアウト!」

「何だよ〜……あんなの聞いてねぇぞ」

「若いやつらは元気だな……」

 鈴は理樹とハイタッチをした。

 まずは一回目の守りを難なくこなした。ほとんど進塁されなかったのだから、楽勝かもしれない。

「ここからだぞ。おまえら」

 恭介が知った顔で話す。

「ここから重要な心理戦が始まるんだ……おまえら、オヤジやお姉さんたちをなめるなよ」

「年の功……」

「ふ。聞こえんな」

 恭介はすぐさま打順を発表した。

 理樹が一番という無茶苦茶な打順だ。鈴は四番になっている。

 遊んでいる。でも、こういう空気も久し振りだった。

「ここから俺たちのアンビシャス・ロードが始まるのさ」

「意味わからんぞ」

「ゆけ! 理樹! 第一球をおまえが打ち破るのだ!」

「はいはい……」

「直枝さん、頑張ってください」

「リキ、ふれーふれーですっ!」

「はいはい」

 微笑みながら理樹はバッターボックスへと向かった。

 バットを振る。相手は若い高校生だった。目の力がある。

「よし、行くよ! お兄さん」

「どんと来い――」

 

 それから、言っておきたいことがある。

 もう一つ。

 真人が大学受験に成功したら、親から100万をもらえるという話をまだ覚えているだろうか。

 井ノ原家の父は度肝を抜かれ、慌てて月賦払いを申請した。まさか受かるとは本当に思っていなかったので、その用意がなかったのだ。

 真人は冗談だと思っていたので、まさかそんな大金をもらえるとは夢にも思っていなかったのだが、とある思いつきで、その事は黙っていた。金が必要だったのである。

 もちろん真人はバイトをして生活費を稼いでいる。入学金も、貯めていたお金から出した。

 だから、金が必要という生活状態ではむしろなかった――しかし、今すぐに金が必要な事態があった。

 それは、彼女に捧げるためのものだった――。

「夕焼け、綺麗だな」

 大学進学が決まってから一週間が経った日のこと。

 二人は海沿いにデートにやって来ていた。

 水族館でイルカたちと遊んできた後、二人で海岸へとやって来た。

 来ヶ谷は春らしく薄着の可愛い少女のようないでたちで、海に面した手すりに寄りかかっていた。そして焼けるような夕陽を見て、瞳の中で反芻させていた。

「ほらよ」

 真人が何か手に持って、差し出してきた。

「何だ。それ」

「いや……ええと、何といいますか……」

「箱?」

 シックな黒い箱があった。

 来ヶ谷は手に取ると、カタカタ、と音を鳴らす。振ってみたところ中の形状はよく分からない。

「これが、何だ?」

「ああ……えっと、礼……かな。開けてみろよ」

「ちょっと待て。何の礼だ」

「礼さ……今まで、本当にありがとな。オレの努力に付き合ってくれてさ」

「何を言うか。私は最初は君のことを信じていなかったんだぞ。君が私のために頑張ってくれたから……今、ここで……」

 来ヶ谷は箱を開けてみて、衝撃を受けた。

 実は、その中には、高価な指輪が入っていたのだ。

「え……これは……まさか、」

「そのまさか。ちなみに、こっちにもあるから」

 真人は片方のポケットから、同じ箱を取り出した。

 手の中でもてあそぶ。

 来ヶ谷の反応を待っている。

「ええと……その……礼?」

「今までのもろもろひっくるめての、それさ。ありがとう、だけじゃ足りねぇかな? 今後ともよろしくどうぞ、来ヶ谷さん」

「う……」

 そういえば、最近指にやたらと触ってくるのはこのためだったのか。と来ヶ谷は内心意味もないことを反芻して、混乱状態に陥っていた。

 ただ、非常に嬉しくもあるし、意味がわかるという気もする。

 私たちはこれからも何の疑いもなく一緒だし、そしてその考えを共有してくれる、信頼するに足る相手がいる、そして彼が――ということも非常に嬉しく感じる。

 ただ彼の目の前でつけるのは――。

「ちょ、ちょっとそっちを向いていてくれないか」

「あ? ああ……」

 いぶかしく思いながらも真人は振り向いた。

 来ヶ谷は慌てながらそれを付けて、――たいそう震えていたので、海に一度落としそうになったが――うまく左の薬指にぴんと収まって、銀に赤に輝くその指輪を空にかざして、感激した思いでそれを見つめていた。

 嬉しく思う心と、何だか妙な一体的な幸せを感じる心。

 新たな発見を感じた。

「い、いいぞ」

「じゃん」

 真人も付けていた。見せびらかすように薬指は指輪をまとって夕陽に輝く。指輪の上の宝石は二人の手の間で触れ合った。

「は、恥ずかしいやつめ……」

「へ?」

「おまえがそんなに恥ずかしいやつだとは思わなかった!」

「あ、ちょ――逃げるな馬鹿!」

 来ヶ谷はどたばたと海岸を逃げていく。

 真人はその後ろから追いかける。

 それでも幸せな気持ちは隠せないでいた。走りながらもずっと手にある感触は覚えていた。

 それをただ一人でじっと感慨に耽りながら、これからのことを夢想する時間が必要だったというだけで。

 

 理樹は打った。

 クリーンな打撃音が聞こえ、打球はレフトとサードの間に落ちる。

 理樹は一塁にギリギリ間に合い、一塁ヒットとなった。

「っしゃぁ!」

「行け、真人」

「はいよ」

 バットを持って、バッター席に向かう。

 真人は大学二年生になる。来ヶ谷も一緒に。

 まだあのころのままだ。普通の恋人として、楽しく幸せにやっている。

 何か変化したものはない。

 ただこれからの長い人生、何でも二人でやれる、という気がする。

「行け、真人君!」

 真人はバットを振る。

 綺麗な打撃音が響き、打球は――、

「行け――――!」

 打球は、ぐんぐん空へ伸びていく。

 真人はそれを見ながら走り始める。

 打球は、ぐんぐん蒼い空の中へ、雲の近くへ、どんどん伸びていく。

 真人は線の上を走っていく。手を振りかざして。

 見守っている彼女に笑顔を振りまきながら。

 

 

  

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