センター試験が全部終わってから、一週間くらいしたころだ。

 風が強く吹きつけて、また乾燥もしているので、とても過ごしにくい、寒く、心細い日のこと。

 教室では温かい話題が歩いていた。

「今度さ、温泉旅行いかない? 恭介が企画してるんだ」

「おおーっ! ほんと? ほんとう? やったぁー! はるちん行く! 絶対行く!」

 理樹は葉留佳に微笑んだ。

「みんな受験前だしさ、英気を養う意味でもどうかなって。リトルバスターズみんなで行こうよ」

「わふ〜! 卒業旅行ですね! あい・らいく・とりっぷ!」

「楽しそうだな。勉強ばかりでいやになってきたところだ。温泉とは、恭介にしてはいい計らいじゃないか。楽しんでいくとしよう」

 美魚も小毬も、全員乗り気で、鈴だけは温泉という裸を見せ合うものが苦手だったが、一応旅行という誘惑に惹かれたのか満更でもなさそうだった。

 真人と来ヶ谷は全くそういうことを考えておらず、デートで英気を養うことを企画していたのだが、喜んでその企画をキャンセルした。

 理樹たちは一週間後に恭介の引率で、温泉旅行に行くことになった。

 ところが、

「恭介の奴が来れないだとぉ!?」

「そうらしいんだ……なんか仕事が急に入っちゃったんだって。どうしても出なきゃいけないっぽくて」

「どうすんだよお。オレら、何も旅館の場所なんか知らねぇよ」

「それに関しては恭介が後でメールで詳細送ってくれるって」

「企画はお流れにはならないようだな」

「そうなんだけど……1人欠くってのは、ちょっと寂しいね」

「ふむ」

 隣で聞いていた葉留佳が、良いことを思いついた! という顔をして、くすくすと笑った。

 不思議そうに小毬たちが首を傾げるが、当面は、この9人になりそうだと誰もが思っていた。

 ところが、そうではなかった。

「ええ――っ!?」

 当日。

 駅に集まった全員の前に、二木佳奈多が腕に「風紀委員会」の腕章を差して現れた。

「ど、どうして二木さんが!?」

「あなたたち、忘れているようね。引率者のいない生徒だけの旅行は禁止されています」

「え、えぇーっと……あ、そうだ! 恭介がいなくなっちゃったから……」

「棗先輩は来れないと聞きました。というわけで、私が仕方ないけれど引率者として一緒に参加します。どうぞよろしく、皆さん」

「えぇ――っ!」

 二木佳奈多は知った顔で、久し振りに装着した腕章を見せびらかすように、宿の場所を確認し、各自切付を買うように言った。

 二木佳奈多の随行に反対する者はいなかったが、何故彼女がこのことを知っているのか、考えられることもなかった。また変なのが来た……と、それくらいである。彼女と仲のいい女たちは会話を楽しんだ。

「ふっふっふ……はるちんに感謝したまえよ。君たち」

「やっぱてめぇかよ。あいつを呼んだのは」

「だぁーって参加したさそうにしてたんだもん!」

「嘘は言うんじゃないわよ。葉留佳」

「嘘なんか言ってないもん! だってお姉ちゃんに『今度旅行いくんだ』って話したら、『あ、そう……』って残念そうにしてたじゃん」

「余計なことは言わなくて結構です!」

「どうせ友達いねぇんだろ?」

「あなたに友達のことを心配される必要は感じません。井ノ原真人。それより切付買った? 東京駅までのよ。そこから新幹線だから」

「わぁーってるよ!」

「仕切り屋だな……」

 理樹たちは、小さい駅だったので、東京駅にまで行って新幹線の切符を買うことが必要だった。

 がやがやと荷物を持って電車に乗り込む。佳奈多は荷台を使いなさいとしきりに指示したり、あまり騒がしくならないようにといちいち行ったり来たりしなければならなかった。佳奈多は決してそういう仕事が好きじゃなかったが、心配性が頭をもたげてきたので結局そういう役回りをせねばならなかった。東京駅にはほとんど行ったことがなかったので、きちんと乗り場までたどり着けるか、私はこの集団をきちんと引率できるのか?(佳奈多には教師とほとんど同程度の権限が与えられているので心配はない)怪我したり病気になったりした場合は? と余計な考えに頭を疲労させ、旅行を楽しむ気配など少しもなかった。

 佳奈多たちが東京駅について、何とか駅員さんたちに案内されてもらいながら、新幹線乗り場へとたどり着き、切付を買ったのはいいものの、駅弁を買うとか、お菓子を買うとかで女子たちが騒ぎ出し、真人がトイレを探して迷子になったりと、佳奈多は心休まる瞬間もなかった。

 ようやく新幹線に乗れて、ほっと一息ついたころには、佳奈多には眠りが訪れたので、旅行を楽しんでいるようには理樹たちには全然見えなかった。

「寝ているぜ……見ろよ」

「気絶したという方がやや正確だと思います」

「佳奈多君は大丈夫か? 余計な心労を費やすなどこの集団に対しては無意味だというのを勉強してもらわねば困るな」

「かなちゃん、大変そうだねぇ……」

「恭介君ならここをさくっと乗り越えちゃうあたり、やっぱりお姉ちゃんには引率役には向いてませんネ」

「ま、普通に楽しんでもらいたいものだな」

「ちょっとかわいいな。こまりちゃん」

「うん……でも、もう携帯のメモリいっぱいなの……」

 何枚撮ってるのか理樹は聞きたかった。

 そんなこんなして、新幹線は山に向かっていく。標高の高い、隠れた温泉街へとバスで向かい、一行は予約していた温泉宿へと到着した。

「はい。棗恭介です。いえ……男なのは、予約者が来れなくなったためで、代理で私が……はい。よろしくお願いします」

 佳奈多は恭介の代わりに記帳をすませ、部屋の案内を受けた。

 それが10人程度が寝られる大部屋だったのを見て、衝撃を隠せないようであった。

「え……? これで全部ですか?」

「そのように伺っておりましたが」

 宿の女将さんはうろたえ始める。

「じょ、女子と男子で相部屋ということ!?」

「そ、そのようにお聞きしてましたけど……私たち、何か間違いでも?」

「あー! いえ、いいんですヨ! それで正しいんです! さっ、お姉ちゃん、ちょっとこっちへ……」

 女将は安心して戸を閉めた。

 佳奈多は絶句したまま連れ去られるが、動揺は憤激へと変わった。

「ちょっと、どういうこと!? こんなの認められません! 早速予約変更できないか問い質してきます!」

「えー、あ、ちょっ! 待ってくださいよお姉ちゃぁーん!」

 予約の変更はできなかった。

 当日のチェックイン済みなのだから当然だった。と、いえども、何とか別の部屋を紹介してもらえないかと尋ねたが、その分料金は増えてしまうといわれ、さすがの佳奈多もどうしようかと迷うところだった。

「ねね、お姉ちゃん……」

「こ、ここ、これは風紀の乱れの最たるものだわ! ここであんな男たち三人と寝なきゃならないだなんて! あなたたちねえ! 一体ここで何をしようとしてたのっ! ま、まさか……いけないわそんなこと!」

「お姉ちゃんの妄想してるようなことは絶対ありえませんって! 恭介君がそんなこと考えてるだなんて……あ、でも、彼ならエッチな思いつきとかするかも」

 佳奈多は電話をかけた。恭介に文句を言ってやるためだ。

「もしもし」

「あっ、棗恭介ね? もしもし、これどういうこと? 相部屋だなんて聞いてないんだけど!」

「あ? あれ……言ってなかったっけか」

「ちょっとどうしてくれるの!」

「HAHAHA……まあ、青春ってのはそうじゃなくちゃ燃えねぇだろ? ま、あんまり目くじら立てたってしょうがねぇぜ……おまえも楽しんじまいな!」

「そんなことするわけないでしょ!? 私だけでも少なくとも他の部屋に寝ます!」

 しかし財布を見ると佳奈多の威勢も衰えるのだった。……

「……ここって、結構いい宿よね。いくらしたの?」

「一千万円」

「どうやら……死にたいようね。後で帰ったらぶっ飛ばしてあげるから」

「嘘だよ嘘。一万円程度だよ。ま、普通の宿かな。……あ、悪い、ちょっと忙しくなってきたから切るぜ。アデュー!」

「あ、ちょっ」

 ツー、ツー、と不愉快な音。

 佳奈多は顔を赤くさせて、スイッチを切りながら部屋を見渡した。

 理樹や鈴、小毬たちは何でもなさそうに床に座って談笑している。

 クドや謙吾、真人たちは遊んでいる。

 来ヶ谷と美魚は景色を見て、とても満足そうに笑っている。

 ここに味方などいない。心細くなりながらも、ここで発展する未来の目も当てられない風景にどぎまぎし、またお金の払えない自分の財布の心細さにいらいらしながら、佳奈多は部屋をどうにか分割できないかと模索してみたが、やっぱりダメだった。

「あなたたち! いいわね!?」

 部屋は静まり返る。

「男子はベランダで着替えること。これ徹底。後、寝るときは女子と男子で布団を離して寝ること。これを遵守しなさい」

「はぁ――っ!? 何でオレらベランダで着替えなきゃなんねぇんだよ!? この寒さ知ってるだろ?」

「黙りなさい。だったら廊下で着替えてもらうことになるけど?」

「ううっ……仕方ないよ、真人。まさか同じ部屋で着替えるわけにもいかないし」

「別に何にも起こらないし、もっと肩の力抜いてもいいと思いますけど、お姉ちゃん」

「私には責任があるの! 何か起きてしまってからじゃ遅いのよ!」

「佳奈多君に一票だな。好きにさせたらいい。それに、ある程度のプライベートは必要だ」

「あなたももう少し恥じらいというものを持ちなさい! 全くなんなのこの集団は!」

 顔を赤くさせたり青くさせたり、心労が余計積もっているように見える佳奈多だった。

「はっ? あっ……もしや、棗恭介のことだし、混浴風呂だったりするんじゃないかしら? やばい……私が調べてきます!」

「あ! お風呂はるちんも行くー! ねーねー、ここ露天あるんだってさー! みんなで入ろうよ!」

「うん! いこっ! はるちゃん!」

「わふー! 楽しみですー」

「貴重品を忘れないようにしてくださいね」

「みんなで入るのか……」

「いい? 男子。私が戻るまで絶対ここを出たらだめだから。いいわね!? それじゃっ!」

 佳奈多はぴしゃり、と戸を閉じる。

 女子は全員行ってしまった。

 真人は頭をぽりぽりとかく。

「横暴だな……」

「いや、ある意味当然だと思うけど……」

「あいつがあんなにうぶだとはなぁ……ま、恭介もたいがいだけどな」

「あいつが参加できないとは残念だったな」

「で、どうするよ? あんなこと言われちまったけど、ずっとこんなとこいる趣味ねーし、探険でもしねぇ?」

「興味深いな。確かに俺もずっと屋内にいる趣味はない。まだ日は照っているし、近くに小川もあるようだ。どうだ理樹、一緒に外を散歩して来ないか?」

「え、でも出るなって言われたし……」

「あ? 馬鹿野郎。理樹はオレと旅館を探険するんだよ。広そうだしよう」

「は? 貴様は阿呆か? 俺の自然の雅を愛する風流の心を理解できんとはな……ここの自然は素晴らしい。ぜひ小川の散歩にすべきだ」

「てめぇのじじい趣味には付き合ってらんねーよっ! オレらは探険すんだよ! てめぇ一人で行ってこいや!」

「貴様……」

「やるか……?」

「だから、ここから出ちゃだめだって言われたでしょ! 佳奈多さんに怒られる!」

「大富豪で勝負だぁ――――!」

 

「あ、負けた」

「よっしゃぁぁ――――っ! けっ、相手になんねぇな!」

「くっそぉぉぉ……この俺が、こいつごときに負けるとは……」

 理樹たちは大富豪で遊んでいた。謙吾が負ける。

「よし。これでオレの探険に行けるな」

「仕方ない……」

「でも、本当にいいのかな?」

「問題なかろう。……しかし帰りが遅いな……」

「風呂でも入ってんじゃねぇの? だったら大丈夫だろ。オレらも風呂用具持ってこうぜ」

「大丈夫かなぁ……」

「風呂に近付かなければいいんだろう。他のところなら問題あるまい。適当に館内をうろついて、その後で頃合いを見計らって男湯に行けばよかろう」

「混浴だったらどうするよ? おまえ」

「無論だ」

「どっちの無論なの!?」

 そういってがやがやと賑わいながら、戸を閉める。

「そういやここ防犯ってどうなってんだ?」

「大部屋だから鍵がないようだな。女将に言おう。多分それ用の防犯システムがあるはずだ」

 フロントに行くと、きちんと対応してくれた。また財布や携帯などは預かってくれるようで、理樹たちは貴重品全て預けてしまった。

「これでオーケーだな」

「ここって結構広いんだね……今地図見たけど」

「へっへっへ……こりゃ探険しがいがありそうだぜぇ」

「うろちょろするなよ」

 真人たちは卓球台を見つけた。

「うおっ!? 楽しそうだなおい! 理樹、ちょっとやろうぜ!」

「遠慮しとく。ちょっと旅で疲れちゃったよ。風呂入った後でやろうよ」

「ちぇっ。風呂入った後でもできっけどよぉ……よし謙吾。やるか?」

「俺は浴衣を着てからでないと考えられん」

「妙なポリシーだね……」

 真人はまたゲームセンターを見つけた。

「うお! ピンボールピンボール!」

「またえらく古いゲームだな……インベーダーがある……」

「こっちにはスロットがあるよ……」

「何というか、ここまで来てゲームとは……あまり食指が動かんものだな」

「同感……」

「え? やらねぇの?」

 それから風流な庭を見たり、水槽で泳いでいる魚を見たり、マッサージ器具を使って遊んだりしたが、一行は色々あってようやく温泉にたどり着くことができた。

「おっ、風呂だな」

「笹葉の湯か……どれ、ちょっと覗いてこよう」

 謙吾が廊下の奥へ消えていく。

「何か、男湯とか何にも書いてないね」

「そだな。見たところ、一つしか扉ねぇけど」

 がらっ、と戸が開く音がして、ぴしゃり、とすぐ閉める音。

 つかつかと歩いてきた謙吾。

「むっ……むむむ……」

「どうしたの? 謙吾」

「女湯だった……」

「えぇ――――っ!?」

「おまえ、わかったのかよ?」

「何かおかしいなと思ったら、俺は見落としていたんだが、扉の脇に小さく女湯と書いてあった……」

「そうだったんだ……女湯しかないなんて、変な温泉だね」

「で、見たのかよ?」

「何をだ」

 ごくり。と唾を飲む音。

「何って……おまえ、」

「見たのは見たが……」

「見たのかよ!?」

「下着類だけだった……」

「……」

 妙な空気が流れる。

「ちぇっ……そうか。残念だったな」

「そういえば悲鳴とか聞こえなかったね」

「こいつだったら女湯でも平気で入ってくからな。気付かれなかっただけかもしんねぇぞ」

「貴様なんかと一緒にするな」

「あ!?」

「ねーやめようよ。あ、あったよ! もう1つ!」

 今度はきちんと男湯と女湯があった。それを見た三人は首をひねる。

「どういうことだ……」

「温泉が二つあるってことだろうな」

「どっちにみんな入ったんだろうね……」

「それを言うか? フツー……」

「え? だって気になるし……」

 三人は急に咳払いをした。

「まさか謙吾が見たのって……」

「ま、気にするな」

「そうだな。適当に流しとけばバレねぇだろ。とっとと入って来ようぜ」

 三人は男湯の暖簾をくぐっていった……。

 

 一方女湯。

 佳奈多は隅っこに隠れて、丹念に体を洗っていた。

「かなちゃーん! こっち来ないの〜?」

「……」

 佳奈多はなるべく背中の傷を見せたくなかったので、無視している。シャワーを出して、ゆっくり体についた石鹸の泡を落とす。

「ねぇって〜」

「ああ、うるさいわね! って、うひゃっ!」

「すごい傷だね〜……」

 背中に触られた。

 すす、と人差し指でくすぐるように。

 佳奈多はかなり変な感じがした。

「どうしたの? これ」

「べっ、別に……小さいころ、怪我しただけよ……」

「残っちゃったんだ……かわいそう……」

 ふん、と佳奈多は思った。

 幼いころからそれは言われ続けている。これから神北小毬も自分を気味悪がって、離れていくだろう。

 期待するだけ虚しいのだ。とっとと忘れてほしいと思った。

「えいっ」

「あはっ! ちょ、な、何するの……」

 人差し指で触られる。

 本当に妙な感じがする。

「え? あ、なんか肌すべすべだなって思って……」

「い、いいからあっちに行ってなさい!」

「どうしたんだ? こまりちゃん。わっ!」

 佳奈多は振り返って背中を隠すようにした。

 鈴と小毬を睨みつけると、二人はますます興味深そうにした。

「何なのよ……別にめずらしくもないでしょ」

「痛くないのか?」

「別に……もう全然痛くないから」

 温泉に無理矢理誘われてしまうとは佳奈多も想定外だった。

 本当はこの傷があるため一人で入りたかったのだが、それはみんなが許してくれなかった。

 傷について知っている来ヶ谷やクドは、特にめずらしいものとは思わず自由に振る舞っていた。

「かなた、一緒に入ろう」

「ちょ、ちょっと待って……」

 手を引っ張られて、湯へ連れてかれる。

 露天は風雅な景色をバックに存在していた。

 淡い水色の、夕暮れの景色が、静かに、また霊妙な佇まいで、遠くの黒い山脈をかたどっていた。鳥が群れをなして飛んでいく様や、近くに小川が流れ、森が風に揺れている音が絶好に心を休める風流として存在していた。

「かなちゃん、こっち来てよ。気持ちいいよ〜」

「ささ」

「ちょっと引っ張らないでよ!」

 鈴に引っ張られ、露天の一番景色がよく見えるところへ入れられる。

 そこへ無理矢理くつろがされて、二人に挟まれ、佳奈多はどぎまぎした。

「な、何なのよ……」

「かなちゃん。ゆ〜っくり、してね」

「いろいろ悪かったな。迷惑かけて」

「……べ、別にいいのよ。そういう役回りだって、最初から知ってるし」

「でも、かなちゃんって本当肌すべすべだね〜……ウエストもくびれてるし」

「ちょ、ちょっと何触ってるの!」

「佳奈多君は実にいいスタイルを持っているよ……私が保証する」

「一体何の保証なんですかぁーっ!」

「髪も綺麗だし……」

「一体なんなんすかね……この姉妹の差」

「三枝さんも素敵ですよ」

「えっ、ほんとう!?」

「私ももう少し胸があれば……」

「……」

「えっへん! 気にすることないのです! わたしたちはこれでもなかなか需要があると……」

 クドが妙な演説をぶろうとしたその時だった――。

「へぇ〜、広いじゃねぇか! あっ、オレいっちば〜ん!」

 ざぶん、と、壁の向こうから、湯に浸かる音が聞こえてくる。

 女湯は静まり返る。

 皆壁の向こう側を透視するかのように、見つめている……。

「ちょっと真人。体洗ってからにしようよ。汚いよ」

「本当だな。全く、他の者たちの身になってみろ……」

「おっ、悪い悪い! よっしゃ、理樹! 流しっこしようぜ!」

「あ〜、やると思ってた……」

 女子たちは顔を見合わせた。

 パントマイムで会話する。

 やつら、そこ、いるの? いると思います。

 え、まじ?

 話していいの?

 いえ、やめたほうが……。

 佳奈多君、声をかけたまえ。

 わたし!?

「ね……ねぇ……」

 向こうも静まり返る。

「ちょっと、静かにしてくれない? その……声響くのよ……」

「……」

「あ、あれ? 何か私一人で喋ってて恥ずかしいじゃない! そっちも何とか言いなさいよ!」

「……え? か、佳奈多さん?」

「そ、そうだけど!」

「ええっ! やっぱりいんのかよ! そっち!」

「ばっちり全員いるぞ」

 来ヶ谷が笑って言うと、向こうは何だか妄想を始めたらしく、また急に黙りがちになった。

「ねーえ、いい湯〜? そっち」

「む……あ、ああ。いい湯だぞ」

 葉留佳が声をかけると、謙吾が答える。

「そっちはどうだ?」

「いい湯だよ〜」

「そ、そうか」

「……」

「……」

 理樹たちは、なんだか気恥ずかしいと思った。

「なんちゅーか……普通にくつろげねぇな……」

「そうだね……」

 体を流して湯に浸かっていると、向こう側から妙な声が聞こえた。

「よいっしょ……」

「ちょっと葉留佳! あなた一体何やってるの!」

「し〜っ! ばれちゃうって! 気にしないで入っててよお姉ちゃん!」

「一体あなたが何しようとしてるのか答えてくれたら入るわ」

「だから駄目だって。あっ、そっち支えてて」

「え……?」

 かた、かた、と何か桶を手に持ってぶつける音が響く。

「な、何だ……?」

「さあ……」

 向こう側からは、葉留佳の「よいしょ。よいしょ」と作業する音が聞こえてくる。

「はっ、葉留佳! あなたなんてことしてるの! 降りなさい! みっ、見えちゃうじゃない!」

「あ〜もう! そういうこと言わないでよ恥ずかしいから!」

「ぶほっ……」

 真人と理樹と謙吾が同時にむせた。

「い、一体何が……」

「何か、嫌な予感しかしないんだが……」

「ちょ、ちょっと向こうから離れてようぜ」

 真人たちがそそくさと壁の一方に移動するのと同時に、女湯と男湯を隔てている壁の上から、にょきっ、と女の髪が現われた。

「あっ」

 理樹は、女湯の壁の上に現われた、葉留佳の目と合った。

「やっ」

 爽やかな笑顔で手を振り挨拶する葉留佳に男湯の男たちは度肝を抜かれた。

「うわぁ――――っ!」

「やははは。やは、う、うわぁぁぁ――――っ!」

 ガラガラと崩れる音。

 桶が四方に飛び散る妙な破裂音に似た音が、向こうの女湯で響いた。

「な、何なんだよこの逆覗きはよぉ!」

「ちょっとはるちゃん大丈夫!?」

「げっ、げほっ……いたたたた……腰、打った……」

 葉留佳は一方、裸で浴槽の外にぶっ倒れていた。

 辺りには桶が散らばっている。これをピラミッド上に重ねて、男湯を覗こうとしたのである。

「葉留佳……なぜ、こういう意味もないことをあなたはするの? いつもいつも聞きたかったけど」

「え? だって、覗きってこういうところで定番じゃん?」

「定番って……それは、男たちが女を覗くものじゃなかったっけ? いつもいつも馬鹿らしいと思ってたけど」

「そう。だから私が覗くの」

「意味がわからないけれど……」

「やはは。だって本気でこっち覗かれても困るじゃん」

「意味不明よ……」

「葉留佳君。よくやった。さっ、こっちにもう一度入りたまえ」

「うん! 姉御!」

「怪我とかしてない? 床の石尖ってるから危ないよ……足とか切らなかった?」

「大丈夫大丈夫」

「壁に穴などを探す手もあったと思うんですが」

「で、見たか?」

「見た見た。……けど、ごめん、湯気で何だか大事なところは見えなかったですヨ」

「筋肉もりもりでした?」

「そりゃもう! マッチョだったよ真人君も謙吾君も! あ〜、理樹君はもうちょっと筋肉あった方がいいね」

「ちょっと待って! 理樹くんはあれでいいと思うの!」

 佳奈多は絶句していた。

 何なのこの集団! と、今日何回吐いたかしれないこの言葉をもう一度吐くことになった。

 男湯との壁に耳を近付けると、今の騒動で不気味に思ったのか、出てしまったらしい、もうほとんど物音は聞こえない。

 全く……と溜息をついた。

「向こう、出たみたいよ。はやくも」

「さて、ではそろそろ私たちも上がろうか。だいぶのぼせてしまったからね」

 来ヶ谷が上がると、まだ入っていたい葉留佳や小毬たち以外はみんな出た。水風呂を見つけて掛け合ったりして遊びながら、ふと来ヶ谷は入り口近くにサウナ部屋を見つけた。

「サウナがあるぞ。……どうだ鈴君。お姉さんと一緒に汗をかかないかね?」

「別にいいぞ」

「そうか……では中で楽しいことをしよう」

「え、中で何をするつもりなのよ!?」

「冗談だ」

 佳奈多のつっこみをよそに、来ヶ谷は勢いよく扉を開けて、むっとするサウナ風呂の暑さにもものともせず、入っていく。椅子に腰かけて、腕を組み、涼しげにこちらを見る。

「君も入ってみたらどうだ。きっと美容にいいよ」

「うん……それもそうね……」

 ちょっと来ヶ谷に何かされそうだと恐怖が胸の中を動いたが、佳奈多は鈴と一緒にサウナへと入り、椅子に座った。

「あ! 姉御サウナっすか!? はるちんも入る〜」

「サウナ……わっ、わたしも入ろう! お菓子食べすぎたし……今後のために……」

「私も最近汗をかいていないので」

「じゃ、わ、わたしも〜……わふ〜……熱いです〜……」

「クド君。無理するんじゃないぞ」

「だいじょうぶです〜……わふ〜……」

「くるがや、競争しよう」

「ほう。鈴君。私に勝負を挑むつもりか。死ぬんじゃないぞ」

「誰が死ぬもんか」

「何を賭けるつもりだ?」

「フルーツぎゅーにゅー」

「では私もそうしよう」

「じゃ、よういスタート!」

 サウナ風呂は無言となった。

 来ヶ谷の隣でふやけるようにしているクドが早速心配になった。

「クドリャフカ君。君は暑いのが苦手なんじゃないのか? 北国のルーツだろうが」

「ええ、そうなんでしゅけど……も、もうちょっと〜……もう、ちょっと〜……わふ〜……やっぱりもう無理です――――っ!」

 扉を開けて肌を真っ赤にしたクドが出て行ってしまう。

「脱落者1名だな……」

「えっ、これってはるちんたちもやってんすか?」

「無論だ。それぞれ何か私に献上しろ。肩を揉ませる券でもいいぞ」

「いや〜……それは何だか恐怖を感じるというか……」

「おい。勝つのはあたしだぞ」

「強がらないほうがいい……見たまえ、汗が噴き出してるじゃないか……」

「おまえもだぞ……」

「何のこれしき……」

「あぁ……サウナに入る前に体力をつけておくべきでした……私ももう出ます」

 ふらふらになりながらも美魚が出て行った。……

「私ももう出るわ。何だか馬鹿らしいし」

「あっ、お姉ちゃん。う〜ん……はるちんも、もうちょい頑張りたいけど……すんません姉御っ、はるちん離脱します!」

 次々と扉を開けて出て行く。

 小毬と鈴と来ヶ谷だけが残った。

「はうあうあ〜……」

「こまりちゃん、目が回ってるぞ」

「らいじょうぶ〜……おかし、いっぱい食べたいから頑張る〜……」

「ちょっと待てコマリマックス。お菓子を減らすという方法は考えつかないのか?」

「えへへ〜……だって、お腹ぷにぷにしちゃって……でも、……あれ? 何だかゆいちゃん三人に見えるよ〜……不思議だね〜……」

「出ろ! コマリマックス!」

「出てくれこまりちゃん!」

 二人によって真っ赤になった小毬は運び出される。

 扉を閉めて、ますます暑くなったサウナに二人は残った。

「会話を、しようか」

「そうだな……」

 二人は会話を始めた。無言でいると体力は確かに消耗しないがストレスが溜まるからである。

「最近猫の調子はどうだ」

「みんなあまり元気ない。寒いからな。あまり遊びに出て来ないんだ。体育館の倉庫で温まっている」

「我々の校のセキュリティシステムは一体どうなってるんだ……」

「猫たちはどこでも忍び込むからな……」

 ははは、と力なく笑う。

 汗の量が尋常じゃなくなってきた。

「り、りり、鈴君……どうだ、もう十分じゃないか……君はこれでだいぶスリムになったぞ」

「く、くるがやこそ……きっともうワンランク下のスカートを履けるぐらいになったぞ……」

「ば、……馬鹿を言え、そんなに一気に減ったら、脱水症状を起こして死んでしまう……」

「だっすいしょうじょう……まさに今のあたしたちがそうじゃないか……」

「喉が渇いたな……」

「あ〜……だめだ。くるがやが四人に見える……」

「りんくんこそ、いつのまに五人に分身できるようになったのだ……」

「あはは……いつからだろう……」

「ニンジャだったのだ……わはは……」

 その時、とてつもなく勢いよく扉が開け放たれた。

「葉留佳! 運び出して! 私は鈴さんを背負うから!」

「がってん! さぁ姉御! お迎えにあがりましたぜ!」

 気を失いつつあった二人は外へ運び出された。

 水風呂に浸けられ、回復を待たれる。

「はぁ……だから、私のような人間が必要だったわけよ!」

 この言葉を吐けて、まんざらでもなさそうな佳奈多だった。

 

 顔が真っ赤になった二人は意識を取り戻したが、いつになく怠そうで、ふらふらしていた。

 浴衣に着替えた女子たちが廊下を歩いていくと、近くにある卓球場でのびている男二人と、牛乳を飲んでいる理樹に出会った。

「あら……直枝理樹。あなたたちここにいたのね」

「あ、佳奈多さん。うん。ごめんね。部屋出ちゃって」

「別にいいのよ……あら?」

 佳奈多は後ろでのびて、椅子にへたれ込んでいる真人と謙吾に気が付いた。

「……って、こいつらもやってたの!?」

「え? あ、そうなんだよ……サウナで持久大会だって……僕が運び出したんだよ。……って、そっちも!?」

 その時来ヶ谷と鈴が目を回したまま、顔を火照らせて歩いてきたので、理樹は慌てて身を引いた。

 二人はふらふらと脇の椅子めがけて崩れ落ちた。ちょうど謙吾と真人の隣に。

「四人とも馬鹿よ……無茶して……」

「何のためだったんだろうね……」

「リキー、卓球やりませんかー?」

 クドから声をかけられて、理樹は謙吾たちから目を離した。

「うん! いいよ、やろう!」

「直枝さん、ファイト、です」

 横で応援している美魚に笑いかけながら、理樹はラケットを持った。

 卓球で遊んでいる小毬や葉留佳たちをよそに、来ヶ谷は低い声で話しかけた。鈴は目を回したまま答える。

「フルーツ牛乳……飲まないか……」

「うん……かってきて……」

「むりだ……ああ、ありがとう……」

 佳奈多がかわいそうな二人のために牛乳瓶を渡してやった。

「ああ……生き返る……」

「あのさ……」

「何だ」

「疲れたな……」

「想像以上に汗をかくという行為は、我々の体力を消耗させるものだ……これでその証明となったな」

「あのさ……」

「何だ」

「たのしく、ないな……」

「無論」

 横でのびている二人も、ついさっきそんな会話をしたばかりだった。

 

 つづく

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