私、来ヶ谷唯湖は、幸せを感じている。

 この二年生の三月、我々は幸せの絶頂にいる。

 彼と、またこうして、付き合うことができて……。

 

 

「そのまま、そのまま……」

 真人は来ヶ谷に、不安げな視線を送っていた。

 来ヶ谷はなんだか面白くない気持ちだった。

 口を曲げて、一心に手元のオールを見つめている。

「怖ぇんだよ! そんな力入れんなって! ひっくり返るだろうが!」

「う、うるさい! 黙っているがいい! 今、猛烈に私は集中している……余計な口出しすると、蹴り飛ばすぞ」

 真人と来ヶ谷は今、自然公園の湖にあるボートの真上にいた。

 ボートの真下はキラキラと蒼穹、そして太陽の明かりを輝かす水面である。空は雲が一点もなく、抜けるような蒼穹が広がっている。

 やや肌寒いこの季節、穏やかな風の吹く、この湖は、何故か、剣呑な空気に包まれたカップルに占拠されていた。

「お、落ち着くんだ……いいか? 一、吸って、二、吐いて」

「お、おおお、落ち着いている! きさま、わたしをばかにしているか!?」

「声が上擦ってるよ! 馬鹿にしてんじゃなく心配してんだよ!」

 来ヶ谷がこう言ったからだった――。

 得意げにすいすいボートを滑らせる真人に、私にもできないはずがない、と――。

 だが、こういった野性的な大胆さが必要になる作業は来ヶ谷には向いていなかった――なぜなら、来ヶ谷は熟考するからで、時にはそのせいで物事がうまく回らない、時には大胆な決断を要するスポーツもあるからである。

 とにかく、力を抜いて、真人の言うとおりにオールを使えばよいのだが、真人が注視しているせいか、はたまた気負いのせいなのか――来ヶ谷の手は危険な円運動をしていた。

「お、落ち――おちちゅいている!」

「いいから貸せって」

「あっ」

 真人にボートのオールを奪われた。

「何をするか!」

「何をするって――身の安全のためにだな」

「ああ! 腹が立った!」

 直接奪い返そうとすると、ボートがどんどん危険な運動をし始める。

「わ、わかったわかった! だけど、しばらく動かすんじゃねぇぞ! このままだとおまえが――」

「ふん」

 落ちそうになっていたので、真人の手が来ヶ谷の肩に伸びていた。

 手があったって、落ちるときは落ちるものだが――来ヶ谷は嬉しくないわけではなかった。

「私は、こうしている方が落ち着くのだ」

「あぁそう」

 手にオールを持って、深呼吸している。そんな様が真人は面白かったのか、笑っている。

「はぁ……うまくいかんもんだな」

「オレは昔恭介らと何回もこういう遊びしたかんな――キャンプにも死ぬほど行ったし。ボートはさ、泳ぐのと似ていてな、あんまりオールを使わなくたって、適当にぷかぷか浮いてて楽しいもんなんだよ。ま、オレもおまえみたいにムキんなってひっくり返したことあったけど」

 来ヶ谷は面白くなさそうな顔つきで、上目遣いながら、口を尖らせ、真人のことを見つめている。

 来ヶ谷はデート用に髪をポニーに結い付けて、化粧も施している。黒のコートに、派手とは無縁の彼女らしいシックなパンツを合わせている。

 真人も私服として、普段の格好に似ているが、それでも少しオシャレなものを着ている。

「こうやって、」

 真人は、オールを手放して、ボートの先端に頭を向けて寝っ転がった。

「空を見上げてさ、よく昼寝したんだよ。ここまで漕いでさ。理樹ともよくやったっけ」

「漕いでていいか?」

「ひっくり返すなよ」

「わかってる」

 そろそろと、来ヶ谷は、あまり力を入れずに、流れに任せるようにオールを漕いだ。

 真人は気持ち良さそうに目を閉じて、笑っている。

 来ヶ谷はだんだんコツを掴んで来た。良いところを見せようとして、格好つけた漕ぎ方を実践しようとしたのが間違いだった。

 ただ、真人が見てくれないのがなんだかつまらなく、すぐに飽きて、オールを手放してしまった。

「お?」

「まったくそうだ。漕ぐのより、こうやって、空を眺めている方が楽しい」

「お、おいおい。重――」

「何か言ったか?」

「い、いいえ!」

 めっそうも――。真人が顔を青くしているので、来ヶ谷は何だかおかしくなった。

 そのまま真人の上に乗っかるようにして、空を眺めた。

 真人の方が身長が大きいので、まるで兄妹のように、真人の中に来ヶ谷は小さくなって、とてもちょうどよく、収まっていた。

「いきなりだったから、びっくりしただけだって」

「重いと言われたら、おまえを蹴り殺そうかと思っていた」

「え、本気?」

「冗談だ」

 でも、と笑った。

「正直ショックだ……」

 ふと下の真人へ振り返って、泣き顔を作ってやる来ヶ谷。

 来ヶ谷と真人は、あれから、きちんとした恋人として付き合うようになっていた。というのは、真人があのデートの後、来ヶ谷に告白したからだった。

 来ヶ谷はなにを今さら、と言って茶化した。

 どんなに、その言葉が必要だったか、後になって、冷静になって考えてみて、来ヶ谷は得も言われぬ幸福を感じ取った。

 それからだった。

 真人は来ヶ谷への歩み寄り方に若干の苦手意識を感じており、どうやってこれから仲を深めていけばいいのかわからないでいたが、来ヶ谷が全部それを一気に解決してしまった。

 来ヶ谷は潜在的に悲観的な性格であったので、相手の好意が得られるまでは至極控えめに、そして自分からすすんで好意を示すことなどないのだが、ひとまず解き放たれれば、とても人なつっこくなった。

 来ヶ谷があまりにも真人に好意を示すので、それが「好き」という言葉の表現となって余りあった。そういうわけで、二人は誰よりも自然な、好き合う恋人へと、安心しながら発展を遂げたのである。

「キスしてしまいそうだ……その口を、いけない口を、塞いでしまいたい……」

「別にいいぜ。っていうか……オレからしたいというか……」

「んっ……」

 二人はキスをして、おかしそうに笑い合った。

 こうやって、二人は、お互いの感情を確かめ合うのに、実に適したカップルだった。

 来ヶ谷は尽くし屋だし、真人は真人で、相手の感情の機微に聡かった。来ヶ谷のしてほしそうなことはすぐにわかった。それがたとえ男としては不可解なものであっても、真人は女性への寛大と気遣いをほぼ満点に備えていた。その点で魅了されてしまう女性が多いではないかと、来ヶ谷はあるとき心配になったほどだ。

 しかし来ヶ谷も寛大といえば寛大だった。相手には、一度好き合っていいとわかれば、とても尽くしたし、その多くの行動を善良な心で寛大に解釈し、また明朗な調子で相手に合わせた。

 そうして二人は、付き合ってから二週間ばかり、逢い引きを繰り返し、ずっと深い仲を構築するようになっていた。

 三月の中旬、春休み。

 これから少しばかり、楽しい期間が始まる。

 その間、この明朗で健康で、優しい素敵な彼氏のために、めいっぱい時間を使おうと画策する来ヶ谷だった。

「気持ちいいな……こうしていると」

「そうだな」

 来ヶ谷は再びあおむけになって、空から降ってくる白い光を手で廂を作り、遮りながら、遠くの空を眺めていた。

 来ヶ谷は下にいる真人の温かみを感じ、こうしてくっついていることの、まだ冷めない楽しみを感じていて、いつまでもこれを享受できると、少女のように感じてやまなかった。

 真人は真人で、来ヶ谷の落ち着いた香水の香りに胸を休めていた。もう嗅ぎ慣れた、このシトラスの少し甘い香り。それは何だか、自分の胸を打つように感じられる。その中で、とても大事なものとして、この温もりを守りたい、という、至極青年らしい使命感と愛情をかき立てられる感じがするのだった。それは、「平和」という愛情だった。

 二人はそうやってしばらく水上を逍遥して、その後水辺にあるレストランで昼食を取った。このレストランは冬である今でもカップルで賑わっている。

 さすがにボートで水上を滑って遊んだのは真人たちぐらいであったが。

 それからしばらく自然公園の中を遊んで行ったり来たりした。

 山と森が二人や多くのカップルたちを迎えてくれ、鳥たちが彼ら彼女らを祝福した。だんだんと終わりを告げつつある、この冬枯れに歓喜しているようでもあった。光が差し込む森の中に、やや広いスペースに子供たちが遊ぶ用にアスレチックが設けてあり、それに果敢にも二人は挑戦して、お互いに笑い合ったりして楽しんだ。

 それから街に戻って、買い物をしたり、ゲームセンターでプリクラを撮ったり、真人にしてみれば、単に来ヶ谷の楽しみに合わせただけだったが、おおいに新しい楽しみが開発されたような気がし、新鮮な楽しみでいっぱいになった。

 来ヶ谷とこうして遊んでいるのは、リトルバスターズでは公知となっている。かといって、あまり口出しもされていない。彼らはリトルバスターズ内ではよき友達で、決して彼女を友人に優先させたり、嫉妬にやきもきしたり、その他不快になるような恥入りもしたくなるような事柄を持ち込まず、誰とでも公平に付き合ったからである。そういうもので、誰よりも尊敬し、羨ましがられ、好意を持たれやすいカップルになっていた。というのも、ほとんどは真人の性格に由来していた。

 彼らは帰宅するとき、いつも河川敷を通ることが決まりとなっていた。河川敷はたまに恋人たちの溜まり場となる。それというのも川が綺麗で、また、西に太陽が落ちてくると、ちょうどそのオレンジ色が川に美しく、また優しげに照り映えるので、恋人たちはそこで存分にロマンティックにひたれる、というわけである。

 来ヶ谷たちも、真人の手に手提げを持たせてそのあたりを逍遥しながら、仲の良さそうに話し込んでいた。

「明日、恭介氏の卒業式だな。我々は出てはいかんことになっているが……出るか?」

「出るさ、出る出る。まったくあいつもよくやったよな。全校生徒の代表だろ? オレ、謙吾と話してるんだが、二階のあいつが壇上から見える位置に横断幕をかざすつもりでいんだ。ま、見つからねぇようにちくちく準備したんだよ」

「まったく君たちは……今度から私も仲間にいれるがいい」

「へぇへぇ」

 来ヶ谷は自分の知らないところでそんなことが進行していたことに若干腹を立てもしたが、すぐに許してやった。真人がニコニコ笑っていたからである。

 恭介が無事、仕事が決定し、先生たちやリトルバスターズの面々を安心させたのは言うまでもない。

 でも、まさか、総代に選ばれるとは思わなかった。というのも、彼は様々な行事に、生徒会長よりもずっと深く、多方面で関わっており、それで学校を盛り上げ、人気校とすることに一役も二役も買っていたからである。

 恭介は嫌がっていたが、最後も最後で何だかやらかすつもりでいたんだろう。総代として挨拶することでそれは代わってしまったが、それほど残念だとも思ってないフシがあった。恭介は今日までもやはり恭介らしかった。荷物をまとめて、実家に帰らずに、そのまま会社近くのアパートに引っ越してしまった時も、いつもそれを遊びに変えてしまい、相当な騒ぎとなった。それを思い出して、真人は笑っているのだろう。

 恭介がここを去って、遠くへ行くことを来ヶ谷はひどく寂しく思っていた。

 そのことを真人に打ち明けると、真人は朗らかに笑って言った。

「そのことを、恭介に打ち明けてみろよ。飛び付かれるぜ」

 来ヶ谷はこのような冗談に本来だったら、顔を赤くして憤慨するところだったが、恭介の阿呆らしさを思い出して、この時だけは元気付けられた。

 真人にはとても元気付けられることが多かった。

 日頃のやり取りでさえ、ひょっとしたら剣呑な空気になりかねないかという時さえ、真人は真人らしくあけっぴろげに、素晴らしい馬鹿っぷりで周りを穏やかな空気に変えてしまうのだった。

 穏やかで朗らかな空気を望んでいるのは真人が一番だった。

 この男は、世界で一番そんな目に見えない「いつもの幸福」とやらを熟知しているのかもしれない。

「私は、幸せだな」

 こっそりと口にする。

「私は、この男に会えなかったら、ひどく残酷な人間に育っていたかもしれない」

 未来を「もしも」に変えて考察することは得意ではなかったが、ときおりまだ来ヶ谷はひどく自虐的になる癖を抜け切らせていないことに気が付いた。

 彼は、彼女を幸福にする。

 それは、単純な男女の関係とは違ったものであるかもしれないが、私たち、つまり来ヶ谷と真人はまさに、そんな関係だと言えた。それは、あまりにも来ヶ谷が陰に過ぎ、真人が陽に過ぎるせいで、それでバランスが取れているからだった。

「私は、この幸福を、未来にも引き延ばすことが可能だろうか?」

 ひとつ、こんな命題を、来ヶ谷は真人の横顔を眺めながら考えている。

 真人の横顔には太陽の温かな緋色が当てられ、穏やかな風が吹きつけており、どこか彼自身と一体化しているようであった。この風景が。

 真人の足元にサッカーボールが転がってきた。

 サッカーボールを蹴り返す真人。その先には、少年たちが数人おり、元気よく「ありがとう!」とお礼を言ってきた。

 真人の笑顔は心を癒やした。

 それを、来ヶ谷はかけがえのない物だとして見ている。

「まだ、ずっと一緒にいたい」

 ここにただ二人でいるだけで満足している。

 でも、その歓楽に身を任せるだけでは、どこか後ろめたさがあることも否定できない。

 真人と一緒にこれからもずっといたい、という思いがある。

 しかし来ヶ谷は悲観的に過ぎるし、大胆でもなかったので、そんな要求は真人には伝えられない、と勝手に結論づけていた。

「私は……彼と一緒にいたい。片時も離れたくないと、とても、切実に、そう思う。だけど、その要求は叶えられそうにもない。彼は私とは別の道を行くだろうから」

 卒業後のことを考えていたのである。

 三年生の間は一緒にいられる。けれど、その先はどうやっても、同じ場所にいられる想像がつかない。

「いやだ……」

 来ヶ谷は胸が苦しくなった。

「何とかならないものか」

 しかし、自尊心が高い来ヶ谷はひどく臆病である。

 来ヶ谷は真人に何も要求できなかった。ただ、彼が自然のままであってくれれば、と願うばかりで。

 それは、少なからず、来ヶ谷の自慢できることでもあった。

 だから、来ヶ谷は、せめて、自分が耐えればそれでよいのだと、それさえできれば、いやそうするほかに道がないのだと思った。

 彼の道に合わせることを真人は了承しないだろうし、自分と彼とでは、求められていくことも違う。来ヶ谷はやや無意識ながら、そんな少し不遜な考えを抱きつつ、真人の横顔を見ていた。

 しかし来ヶ谷は、

「これでいい」

 認めていた。我々は、お互いのことを大切に想い合っている。

 それでいい。

 私は、あくまで、どこに行っても、彼の一番の女となろうし、それは、揺るぎない。

 このような愚かな私に「好きだ」と言ってくれたのだから。

 私は――認め、耐え、それでも微笑む彼女となろう。

 そう想っていた。

 それで満足していた。自分の寛大さが来ヶ谷の心を満足させたからだった。

「ところでよ」

 来ヶ谷は少し呆然とする。

 やや遅れて現実に戻ると、逆光で暗くなった真人の顔が、こちらに向けられていた。

「ん」

「オレさ、決心したことがあってよ」

「何かな」

 どんなことであれ、受け入れよう。

 君は君の道を行き、そして私は私の道を行く。

 それを受け入れ、そして、その上でも私はあなたを愛し続ける。

 それがもう来ヶ谷の中で決定事項となっている。だから、

「オレ、大学受験挑戦すっから」

「え?」

 呆然とした。

「意味が、わから、ない」

「あ? オメー、ひょっとしてオレのこと馬鹿にしてるか? 馬鹿だと思ったんだろ? 正直に言え」

「正直に言えば、無理だと思う」

「てめっ! この!」

「あっ! やめろ! このボケナス!」

 来ヶ谷は笑いながら逃げた。

 追っかけてくる真人を振りきって、河川敷を下っていった。

 穏やかな川岸まで逃げて、真人の襲来に遭った。真人は柔らかくヘッドロックをかけて、笑う彼女をさらに楽しませた。

「だっか、らー! オレは何でもできる天才なので、大学受験することにするわけです。ユー、アー、アンダスタン?」

「ドゥー、ユー、アンダスタン? が正解なので、残念だったな。このクレイジーボーイ」

「くっ! いいんだよ! そんな細けぇこたぁ」

 細かくはない。中学一年生で解けなくてはいけない問題である。

 真人は自分の言葉が茶化されたことに憤慨していたが、めいっぱい怒ると、やがて来ヶ谷を解放した。

「こんな頭でもオレは天才だったから、高校にも入れた。おまえと同じ高校にだ」

「そういえば、そんな話を聞いたことがあったな。裏口入学の話を」

「いやしたことないですよね? オレそんな話は一度も」

「違うのか?」

「違ぇーっつーの。ちゃんと試験受けて合格したんですよ! ほんとだかんな!」

「だったら試験官がカンニングを見落としただけだ」

「そんなことしてないっつの……わりとおまえマジでひどいな」

「で、本気なのか?」

「本気?」

「大学に、入るということ」

「ん、ああ」

 真人は目を逸らして、鼻をこする。

「まあ、挑戦だけどさ。なんとかなんだろ」

 なぜ、という言葉を言いそうになったが、来ヶ谷はそれを飲み込んだ。

 この男は、もしや……。

「まあ、実はかなり来ヶ谷先生の個人レッスンを楽しみにしているオレ様なわけであってだな――」

「断る」

「ちょっ、早くねえ!? もうちょい、あと三十秒くらいは考えてくれても!」

「だから、そんな頼み方ではダメだ。もっと、愛を込めて、土下座して、私に頼むがいい」

「このやろー!」

「わはは!」

 再び逃走劇が始まった。しかし、犬も食わない。

 

 つづく

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