二月十二日
ふと、気が付いたことがある。
鈴は、朝食を取っていたころ、葉留佳がこちらをじろじろと見つめていた。本当のところは、その隣にいる真人を見つめていたのだったが、当の鈴は自分に何かついているのかと思った。
不思議に思って尋ねたところ、
「いやね、鈴ちゃんのことではないんですけども……やはは。あの噂って、本当なのかなあって」
鈴は顔を赤くした。
まさか、あたしが真人のことを……好き(それにはまだ議論の余地が残されている)なのがバレた? はっ、まさか、あまりにも仲が良すぎて怪しまれたか?
(な、なんて言い訳しよう……)などと鈴は沸騰する頭の中で猛スピードで考えた。
「きょ、今日は小鳥がよく鳴いてるなあ! ……な〜んて」
「へ? ここは食堂だから、小鳥の鳴き声なんて全然聞こえないですヨ。まったく。鈴ちゃんったら」
「ご、ごめん! ところで――」
「――で、ちょ〜っと……耳を……貸して……もらえる? ごにょ、ごにょごにょ」
鈴に耳打ちをした。
「え?」
「と、いうわけなので……よろしく頼みますヨ。わたしとしても、真人くんのため、やれることはゼヒやりたい所存だからネ! やはは」
鈴は呆然とした。
真人のことがバレている!
……しかし、一時間目終了後に屋上に来い、とは何故?
鈴は葉留佳に言われたとおり来てみた。鈴は何だか怖かった。寒くなってからというもの、屋上にはめっきり人気がなくなってしまったからであり、小毬愛用のクッションや花瓶なども取り払われてしまって、いやに殺風景である。
「いや〜悪いですネ! わざわざご足労してもらっちゃって」
「別にいい」
鈴は心に決めた。
そういうんじゃないってことを……真剣に説明しよう。邪魔は欲しくないし、それに、明確に否定しておきたかった。
「あのですネ……あの真人くんに、春が訪れたって噂なんですヨ。ウシシシ」
なんて嫌な笑い方をするんだろう……きっとわざとだろうが。
「春?」
「春! それはもう、人生の転換期! いわゆるモテ期! 薔薇色モテ色愛の色! ……ところでモテ色って何?」
「知るか!」
相変わらず脈絡がない……。
「ところで、モテ期って人生に三度訪れるらしくって、はるちんにはまだ一回も来てないみたいなんですけど、これって熟女にならないと来ないっていうフラグかと思うとはるちん夜も眠れず――」
「で、真人がどうかしたのか?」
「あ、そうだよ! も〜聞いてよ鈴ちゃん!」
とっとと言え! と鈴は心で思った。
「なんとあの笹瀬川ちゃんが実は真人くんのこと狙ってるって、これもっぱらの噂なんだよな〜コリャ!」
鈴は、唖然とした。
「実は前々からA組の間で噂になってて……二人で街を歩いているとこ目撃したって子もいるし、昼間からデートに誘ってるところも聞いちゃったっていう話もあるんですヨ……ヨヨヨ、まさか真人くんが我がリトルバスターズの宿敵ことソフトボール部の主将と付き合っているなんてこれは何という悲劇であろうか! う〜、はるちん燃えてきたですヨ! 真人くんらをロミオとジュリエットにはすまい! 真人くんと佐々美ちゃんの熱愛のためならこのはるちん、一枚でも二枚でも脱いで挙げ句お見せできないところまで見せても覚悟決めますヨ! タオル、そん時はお願いしますヨ!」
鈴は返事を紡げなかった。
よろよろとして、立っていられなくなった。
そんな馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な――。
「ばかにゃ!」
「そ〜ですよ! まさに『ばかにゃ!』ってわけですヨ! 姉御に話しても『そんな馬鹿な』としか言わないし、はるちんだってそりゃ『まさかそんな馬鹿な』と思ったですヨ! 馬鹿は馬鹿だけに……プッ、うくく!」
「その話は本当か!」
葉留佳は顔を上気させて縦に振った。
「かなり信用できる筋」
「そうか……」
真人は、鈴にこのことを隠していたのだ。この前、あんなに楽しそうだったのに。あれは全部演技だったのだろうか。鈴は、真人のことをまだ信じていたかった。
そんなはずはなかった。
「もうみんな知ってるんだな?」
「ううん。まだ広めない方がいいと思って。それにはるちん、人の噂広めるの好きじゃないもん。信用できる人たちに話しただけ。姉御と、佳奈多と、鈴ちゃん」
「リトルバスターズのみんなにもか?」
「ううん……いちおう、まだ鈴ちゃん含め三人にしか話してないけど……でももう知ってるんじゃないかなぁ。A組じゃ結構噂になってますヨ」
こうしちゃおられない。そんな噂が広まったら真人は困るはず。
佐々美だって、嫌なはずだ。何かの間違いなのだ。自分で暴き出す!
「はるか、悪い! ちょっと行ってくる!」
「え、え〜? 鈴の助さん、どちらへ?」
「ろうか〜!」
答えになってない。
鈴は屋上の入り口から飛び降りると、階段を三段飛ばしで降りて行った。
休み時間はまだある。
もしかしたら、あの二人のどちらかに会えるかも。
「ささみの手下に居場所聞けないか?」
いや、だめだ。鈴は首を振った。
本人に会わないと意味がない。それに、日頃の恨みで鈴はひどく嫌われている。
鈴は二階の角を曲がった。
「あ!」
廊下の先に佐々美がいた。幸い、一人だ。
詳しく事情を聞こうと駆けていったところへ、とんでもないことが起きた。
「あら。ちょうど探していたんですのよ」
「おう、笹瀬川」
鈴はずっこけた。
真人が向こうの角からやって来た。
慌てて身を隠す。
「あら?」
「どした?」
「今……何か、ひしひしと敵意のようなものが……」
「気のせいだろ。敵意なんてよう。おまえに似合わんぜ」
「そ、そうかしら。えほん。からかわないでいただけます?」
な、なんかいい雰囲気なのではないか! 鈴は驚いた。真人と佐々美だから全く接点がないと思っていたところ、これである。仲は悪くないと見ていい。
「ま、気のせいでしたらいいんですけど」
「んで、探してたってのは何か用事か?」
「用事といいますか……ちょっといいかしら、井ノ原さん」
「ああ」
佐々美は声をひそめながら、こっちに歩いてきた。鈴は気配を殺して耳をそばだてた……。
「明日の創立記念日、空いているかしら? また、ご一緒に……」
「え、ほんとか? ひゅうっ! やったぜ! ああ、今のところ暇してたんだ! また行くのかぁ!」
「ちょ、ちょっと! 声が大きいですわよ! ええ、まったく。ということで、ちゃんと支度しておいてくださいね。迎えに上がりますから。私服で来ておいてくださいね。見つかったらいやですし……」
「わかったわかった。この前ちゃんと買ったんだ。バレやしねぇよ」
「ほんとかしら。まったく、いつものあなたの格好じゃ、ごちそうするにも気が引けますわよ。まさか高級料理店に連れて行くわけにもいかないし……」
「今度はバッチリなんだ!」
「あ、あら。そう。では予約しておきますから……」
「ひゃーっほう! 楽しみすぎるぜ!」
「だ、だから、声が大きいって!」
鈴は泣いていた。
まさか……自分にいったい何が足りないと言うのであろうか。
来ヶ谷の時はさすがに考えた。
あの胸だ……仕方あるまい。理樹のような考えなしはあんなのに飛び付くんだろう。ところがどうだ、自分はなんて控えめで美しい体をしているんだろう。
まあ……と、鈴は続けた。
まあまあ、来ヶ谷は顔はかわいいし、Sっ気がある。変態の理樹がなびくのも無理はなかろう。
だけど――鈴は、床に手をついた。
佐々美と自分だったらどれだけ違うと言うんだろう!
拳を打ち付けた。どれだけ通りかかる生徒が奇異の目で見ようとやった! 地団駄を踏んだ。よりによって。よりによってだ!
絶対に許さない――鈴は一足先に教室に戻って手紙を書いた。
真人の方は目も合わさなかった――。
二月十三日
鈴は朝早く起きた。
シャワーを浴びて――まだ真っ暗なうちから――自分の部屋の姿見に全身を映した。
髪に丹念に櫛を入れて、整える。
何を着ていくかもう入念に考えてある。
鈴はこの前と同じベージュのコートに、白いスカートを選んだ。またニーソでは飽きるだろうと思い、ハイソックスにした。
寒い分、上着の下に温かいピンクのセーターとヒートテックを着込んだ。白のシャツで首元を空かした。
ふんわりと髪の毛が弾力をもつように入念に整えた。
メイクも入念にやった。以前はなかなかうまくいかなかったのが、今日はなぜか素晴らしい集中力でミスなくかわいくキメることができた。
バッグも一番いいやつを選び、マフラーを首元に巻いて、目をぱちぱちと瞬かせた。
素晴らしい……鈴はにっこりと微笑んだ。
これなら鈴は佐々美に負けないだろう。鈴は自信をもって、くるりと姿見の前で回ってみせた。髪は今日もまとめてないので、煌びやかに、さっと空気に舞った。これなら佐々美は度肝を抜かすだろう。最初は誰だかわかるまい。
よし。鈴は部屋の扉を開けて、ぺたぺたと廊下を走っていった。
「棗さん? 何で棗さんが、こんなところに、いるんですの……?」
その声は段々低くなっていった。
鈴は呆然としていた。佐々美も佐々美で可愛かったからである!
「何って……見りゃ、わかるだろ」
「見・て・も、わかんないから聞いてるんですのよ! なによその格好! どこへお出かけに行くんですの?」
「じつは、友達と約束していて」
「へ〜え、だったらその友達のところへ行ったらいいじゃない」
「ここで待ち合わせしてるんだ」
「何もわたくしとこうして近くにいなくたっていいでしょうに!」
佐々美は真っ赤になって飛び上がらんばかりに怒った。
鈴は落ち着け、とガムを取り出した。
「いりませんわよ、こんなの!」
「あ」
ぱちんと取り落とされ、ガムは地に落ちた。
「おまえ、何すんじゃ! ガムの代金払えこら!」
「んまあ……図々しい! そうやって金をせびろうっていうんですのね! 棗鈴は! あぁ〜っ、イライラしてきた! よろしいですわ! 朝から相手にしたくないと下に出ていればいい気になって! 今ここで決着をつけてやりますわ!」
「望むところだこのさしみー!」
鈴は飛びかかろうとしたところで、自分が宙に浮いたのを感じた。
一体何事かと足をじたばたしたら、自分の足が真人に当たった。
「うわぁ!」
「おめぇ……何やってんだ?」
「井ノ原さん! あなたのこのおさるさんをどうにかしてください!」
「きさまっ! だれがおさるさんじゃ! このゴリラ!」
「んまあ! いいから降りなさい! 決着を今すぐつけてやりますわ! ええい――この、このっ!」
鈴と佐々美は足と拳の応酬を始めたが、すぐ真人によって仲裁された。
「いい加減にしろって! おまえら、やめろ!」
「棗鈴! ですって! さぁわたくしに謝りなさい!」
「い〜や〜じゃ〜!」
「おまえもいったい全体何やってんだ!」
真人は鈴を下ろして自分の背中の後ろへやった。鈴は佐々美から守られている感じがしたので、心の中で嬉しがった。得意げな顔をしてみせると、佐々美の顔がいっそう凶暴になった。
「く、くぅぅううっ! 宮沢様といい、井ノ原さんといい、いったい何なんでしょうね、この馬鹿は!」
「うっさいばーか」
「いいからやめろっつーの」
「あいた」
「ああん!」
お互いに拳骨が下された。お互い頂点を抑えて睨み合った。それを見つけた真人は頭上から二人を睨みつけると、二人はしぶしぶ大人しくなった。
「よし。仲直りしろよ? 二人とも」
「ったく……なんなんですの? レディーに手を上げるなんて……男のすることじゃないと思いますわ」
「今ここで鈴と取っ組み合い始めそうな勢いだったろうが……ま、許せよ」
「ふん」
佐々美はそっぽを向いてしまった。
真人は疲れたような溜息をついて、鈴のほうに振り返った。
「鈴」
「な、なんだ」
「痛かったか?」
「む……別に」
鈴は佐々美のことを意識して言い直した。
「あたしは全然普通じゃ」
「いくらでも言っていたらいいですわ……」
「そっか。で、おまえ何でこんなとこにいんだ?」
それはこっちが聞きたかった。鈴を前にしても真人に動揺はない。驚いていたようだったが、しごく落ち着いている――。
「何でって……おまえらは何でこんなところにいるんじゃ?」
「オレらか? オレらは……」
「棗鈴。質問に質問で返すなんて行儀がなっていませんのね? まったく躾の悪い女だこと」
「うっさいわ! おまえよりマシじゃ!」
「何ですって!」
「あ〜あ〜! うるさいうるさい!」
真人は二人を押さえた。
何だか、小さな子供二人を抱えたような気分だった。これは子守か?
「まぁ……なんだ。どうすんだ、鈴? おまえも一緒にくんのか?」
「ちょっと! 何勝手に!」
「じつはそのつもりで来たんだ」
「あ――あ――あなたっ! 嘘おっしゃい! さっき友達と集まる約束してるって――」
「おお! そうか! 別にいいんじゃね? なぁ?」
「私がダメだと言ったらダメですわ!」
佐々美は顔を真っ赤にして叫んだ。なんだか鈴は怒るよりも心配になってきた。
「ささこ。おまえ大丈夫か? 顔真っ赤だぞ」
「うっさい。誰のせいだと思ってんの――ぜぇ、ぜぇ――」
「たいへんだ。真人。どこか休めるところ運ぼう」
「がってんだ!」
「あ、ちょ、こら! 離しなさい! この――」
佐々美は腕と足を掴まれ、みこしのように運ばれていった――。
鈴は結局佐々美について行くことができた。
真人に色々言いたいことがあったが、すべてがわかってからにしようと思った。どうやら、本人は何もわかっていない様子なので、後で、じっくりと……。
「ではわたくしが予約しておいたレストランに行きましょう」
「おう」
「さっさと行こう」
「べ・つ・に、あなたは呼んでないんですけどね! 棗鈴!」
「かたいこと言うな」
「かたいとかやわらかいとかそういう問題じゃないんですのよ! あなたは自分で払いなさいよ! まったく!」
「まあ。別にいいだろう」
鈴はそこいらのファミリーレストランのようなものだと“たか”を括っていたのだが、
「え、ええー……」
「どうかしましたの?」
顔が青くなった。見たことも来たこともない、シックな西洋料理店だったのである。
店名は……なんだろう、見たこともない字だ。
「筆記体ですわよ。Ulysses――ユリシーズ――ですわ」
「ここは何屋だ?」
「ミコノス島の料理店ですけど」
「ミコ……?」
どこの島だろう、それは。鈴が戸惑っている間に、どんどん佐々美は入っていく。
理解が追い付かない。
冷汗が出るのを必死に食い止めていると、佐々美が店から出て来た。
「一人なら十分用意できるそうですけれど、あなた、どうするの?」
ちょっと待ってほしい。
佐々美はなぜ真人をこんなところへ連れて来る?
好き――だからか?
真人も真人で、何故鈴に言わないで黙ってこんなところへ来る?
何でごちそうしてもらっている?
真人は鈴の持ち物じゃない――自由に選択する権利がある――でも、今まで真人のそばにいたのは自分で――なぜ? なぜ? なぜ?
なぜこんなことに?
「鈴」
真人は鈴を見下ろした。
真人はただ、鈴がここまでついて来てくれ、喜んでいたが、佐々美が承知しない以上、どうしたもんかと思い悩んでいた。
そうして、こちらを熱い瞳で見つめ返してくる鈴に、深い苦悩を覚えて、またも真人は頭脳を使う難問へと挑戦して行った。
「う〜ん……」
「ほら、どうするんですの? お店の方たちが待っていてくれてるんですの。冗談で済むのは今のうちですわよ」
鈴にはこう聞こえた。真人はもう自分がいただきましたから、さっさと帰って寝ていなさい。もう真人はあなたの元へ戻らず、こうしてあなたの入れない場所へと入っていき――そうして、永遠にあなたを見下し続けるでしょう。
いやだ!
「鈴……」
鈴は真人の腕を掴んだ。
「何をやっているんですの? 井ノ原さんは私と一緒に行くんです。そういう約束だったんですもの。井ノ原さんは大丈夫、私がご馳走してあげますわ」
でもあなたは違います、と佐々美の目は続きを語った。
「ああ、もし帰るなら、このことは秘密ですわよ。じっくりわたくしはやりたい性質(たち)なんですの。まっ、結果はおいおいわかりますわ。ねぇ、井ノ原さん?」
「……」
真人は頭を抑えていた。
頭痛がするようだ。
「いいこと? 棗さん。もうついてこないで下さい。あなたはわたくしの“敵”なんですもの。ねぇ、棗さん? そうだったでしょう?」
鈴は目を上げた。
瞳の中に炎があった。
「一人入りますっ!!」
耳を聾(ろう)さんばかりの大声で佐々美を突き飛ばしながら入っていく鈴の姿が、一秒後にそこにはあった。
「あ――あ――あなたねぇ! 馬鹿でかい声出すんじゃないわよ!」
「ぺらぺら喋ってる分、お喋りが好きなのかと思ってな。いいぞ、あたしはあたしが食った分を払ってやる。でもおまえが食ってるところなんて見ないからな!」
鈴は丁寧に案内された、高級すぎる椅子へと着席し、一秒後には内装の優美さに呆けた口を開いて、目を見回していた。
「何であなたが先に座るんですの? しかもそこ、わたくしの席っ!」
「たまにはおまえも、庶民の生き方を学ぶべきだと思うぞ」
「何を知ったかぶっているんでしょう……この子猫は! いいですわ! たまには花を持たせてあげましょう! さぁ――井ノ原さん、わたくしの隣へどうぞ?」
「やめろーっ!」
席の取り合いがきっちり一分続いた――。
鈴はメニューに目を落とし……目が暗くなっていくのを感じた……。
「ここはたいして高級というわけでもないんですのよ――ただ、ちょっとばかし、あなたのような貧乏人には馴染みがない場所かもしれませんわねぇ」
「う、うっさいな。ガムでも食べろ」
だからいらないって言ってるでしょう! と佐々美はまたも声を荒げた。
しかし、こんなレストラン――見たことも聞いたこともない――と、鈴は心の中で繰り返した。
こ、これは――佐々美に借りを作るしかないかもしれん――と、諦め出した鈴だった。
真人の方を見ると、頭を押さえてうなっていた。明らかに全部こいつのせいだ、と鈴は思ったが、ここで言うのも気が引けた。
邪魔するだけ邪魔して、真人と佐々美が仲良くするのを避けさせよう。その後、一気に持っていってしまえばいい。
「とりあえず、水を――」
「無駄ですことよ、棗さん。わたくしは入るとき、もう一人分、ランチのコースを頼めないか、と店長に言いましたの。もうしっかり調理されていますわよ。残念でしたわねぇ!」
「こっ――この――なんてことすんじゃ! くそさしみが!」
「くそ、なんて、なんという言葉を喋るんですの、この子猫ったら。まったく、顔がかわいいだけで気は違ってるんですのね。顔はかわいいのは認めてやりますよ。でもね――」
「おまえに言われたかないわ! この性悪!」
「何ですって!」
おまけに短気だった。
「あなたねぇ――わたくしにいい気になったってしょうがないことよ。お金……払えないんでしょう? どうするの? 警察、先に呼んでおきますことならわたくしにも出来ましてよ? おーっほっほっほっほ! あいたたたたたた!」
髪を引っ張っていた……。
鈴は情けなくって気が変になりそうだった。涙は流してない。流してなどいるもんか。
「なにすんのよ! この暴力女!」
「うっさいだまれ! おまえよりマシじゃ!」
「やぁめろっつーの!」
真人は正気に返って、手を相手らの間に入れ、二人を突き放した。
何でこんなことになっているのか探りを入れる前に、ちょうど料理が運ばれてきた。
「おおっ! うまそうじゃねぇか! いっただきまーす!」
二人の不仲のことならもう忘れていた……。
このごちそうをずっと楽しみにしていたのだ。食事をすれば、お腹もふくれて、二人の喧嘩も止まるだろうと真人は暢気に考えていた。
男というものは馬鹿なものだ……。
「なんちゅーか……」
「美味しそうに食べますことねぇ」
「だってよう、このエビなんか最高だぞ? ひゅーう! うめぇ!」
佐々美は口をむずむずさせた。席を少し後ろに引いて、立ち上がると、
「わたくし、ちょっとご不浄に――」
「おっと、あたしも」
立ち上がった鈴の瞳は佐々美の目と交差した。
鋭く睨み合って、ゆっくりと、次なる戦場へ進んでいく――店内には馬鹿一人が残された――。
「あなたねえ」
と、またも苛ついた調子の佐々美の声が刺々しく響いた。
トイレは黒の大理石に明るい緋の照明を落とした場所だった。
「いったいどこまでついてくるんですの? トイレといい、レストランといい」
「ちょっとな」
「ちょっとな、では済まされないぐらいに、わたくしは迷惑を被っているのですけれど?」
「うっさいな。おまえこそ、なんであたしの真人にちょっかい出すんじゃ? つーか、おまえらに何の繋がりがあるんじゃ? 宮沢様! とか、妙な声いっつも出しとるだろ」
「……あなたに関係ありますこと?」
謙吾の名前を出され、佐々美の目が鋭くなった。
「やるか?」
「やりません。わたくしを馬鹿なお嬢さんと思っていなさるんですわね。こんなところで喧嘩でもしたら、それこそ家の名前に傷がつきますわ。あなたもわたくしを怒らせないでくれますこと?」
鈴は少し落ち着いた。ようやく佐々美と話ができるようになった。
「おまえは――」
真人のことが好きなのか?
それを尋ねる前に、佐々美が遮った。
「わたくしに質問させてください。あなた、ちょっとばかし、図々しすぎるんじゃないですこと?」
「は?」
佐々美は、怒っていることは怒っているのだった。それも、わりと本気で、である。
「わたくし、別に悪いことなど何一つしていない、ただお知り合いの方をお食事に誘っただけのことですことよ。それなのに何故、あなたは我が物顔でついてくるんですの? 休日を邪魔されて嬉しいとでもお思いになる? わたくしだったら全然思えませんことよ」
「……」
「その、ね、あなたのしゃしゃり出てくる癖、本当に嫌ですわ。いったい何なんですの。リトルバスターズって、本当にくだらない集団だとつくづく思いますわ。人に迷惑かけて、自分が被害者みたいな顔して、それで……笑顔で誤魔化して、だから……ムカつくんですわよ」
「あのな」
鈴は佐々美に言いたいことができた。
佐々美の言い分は確かに理解できた。
こっちも、多少、謝らなくちゃならないことでもあると思う。
でも、言っておかねばならない。宣戦布告である。
「ささみ、あたしな、真人のこと自分の所有物みたいなもんだと、思っとらんぞ」
「はあ? じゃあなんで、ついてくるんですのよ」
ここからだ。
本当に自分は、真人のことを、好き――なんだろうか。わからない。簡単には言い表せない。理樹に抱いていた気持ちとは違う――。
だけど、失うところを想像してみて初めてわかる。恐ろしい気持ち。繋がっていたからこそ見えなかった、本当の、関係。
自分と真人。
将来、一緒に人生を楽しむことはできないんだろうか。
身近な問題について、一緒に悩み、取り組み、打破することはできないんだろうか。
そう、ちょうど今のように――。
恋なんてだったらしなくていい。
愛情なんていらない。
今のままがいいっ!
今の、真人と自分でいたい!
取らないでほしい!
ただそれだけの願い――どうして未来は聞き入れてくれないのだろうか。
未来は、真人と自分に、何をさせるつもりなのか。まだ、わからない。
だけど、掴み取るんだ。信頼できる幸せな気持ちを。
誰にだってやるもんか。
ただ、言うだけなんだ――。
「その――真人のことが――好き――なんだ」
佐々美は言っていることが、すぐには理解できないみたいだった。
「はい?」
「だからっ、言っただろ! 真人のこと大好きなんじゃ! だから、あたしのもんだ! おまえなんかにゃ、女のプライドにかけて渡さんのだ! あたしが自由に真人といつまでも一緒にいるんじゃ! ずっと前から一緒だったんじゃ! 邪魔すんな――――っ!」
ぜい、ぜい。
言い、切った。鈴は大声を出して、呼吸がつらくなっていた。
鈴は顔に触った。熱くなっている。
だけど、胸の奥は妙にすっきりしている。
溜め込んでいたものが外に全部出てくれたような――そんな感じの爽快感があった。
「ちょ、ちょっと待ってくださる……?」
「待つかぼけ! いいか、ここはあたしが負けてやる。金もおまえに借りてなんとかしてもらう! ここだけは引き下がるけど、もう二度とあたしの友達に付きまとうな! 適当なこと言って、誘惑すんな! あたしとずっと一緒にいるんじゃ! これからそうする予定なんじゃ! 絶対にもう――ぜぃ、ぜぃ――やめろ――――っ!」
「ちょ、ちょっと待って棗さん!」
佐々美は手を鈴の口に押し当てた。
騒ぎを聞きつけて、女性の店員が心配そうにトイレのドアを開けるが、佐々美は冷汗を垂らしながら、何も心配することはありませんのよ、と大慌てで言った。心配ながらも引き下がる女性店員だったが、今のところは様子を見る、といった具合だった。気に入ってるお店だったのに。佐々美は肩を落とした。もう行きにくくなるだろう。それもこいつのただの“勘違い”のせいで。
「棗さん――いいですこと? 今から口の押さえを取りますからね――わたくしが今度は喋りますから、じっと聞いててくださる?」
鈴は頷いた。言い切ってしまえた後は、ふと心に行動力が湧いてきた。今なら、自分に何を求めなければならないのか、よくわかる。
「わたくしにはね、最初、言っていることがちっとも理解できませんでしたわ……なるほどねぇ、棗さん、あなたがねぇ」
ふと、様子がおかしなことになっているのに気が付いた。佐々美がにやにやとこっちを見ている。
喧嘩になることを想定していたのに、この様子は何だろう。
「わたくし、まったくそんなことに気が付かなかったとは愚の骨頂でしたわね。棗さん。見事な啖呵(たんか)でしたのね。わたくし見直しましたわ――」
「はあ……別に構わんが」
「わたくしたちは何か勘違いをしているようですわ。そこのところをきちんと明らかにいたしましょう」
「?」
佐々美が言ったことには――鈴は度肝を抜かれた。
自分の痴態が急にフラッシュバックのように脳裏に蘇ってきた。
「べ――べつに、真人のこと好きじゃない……?」
「だってわたくし、井ノ原さんみたいな方、タイプじゃないんですの」
少し申し訳なさそうに言った。まるで本人に言うみたいに。
「だ――だって――」
「じつは、ソフトボール部のマネージャーが欲しかっただけなんですの」
「ま――まね――」
マネージャー? なんで?
なんでまた。
「マネージャーというよりも荷物持ちですわね……わたくしたち、部員が少ないわりにたくさん荷物があるから……いつも大変なの。それに変な伝統があって、一年生にいつも全部の荷物持ちをやらせるんですのよ。わたくし……そんな伝統をなくしたかったんですの。だっておかしいですわ。自分の道具を扱いがなってない一年生に預けるなんて。みんなはみんな、自分の分の分担をすべきですわ。でもそんなのあの子たちに言ったって聞いてくれないし……」
佐々美が言っているのは、4月から始まる新学年でのことだった。
部員を増やしたい。そうして、もっと活気のある、強いソフトボール部にしたい。
自分が一年生の時にひどい目に遭わされた。そのときに何人もの一年生がやめていった。佐々美はそんな子たちが可哀想で可哀想で仕方なかった。
「だから、ソフトボール部にはマネージャーが必要なんですの。それも、体の管理がしっかり出来て、荷物持ちができる子がね……」
「だ、だって、おまえ謙吾が」
「宮沢様にこんなこと頼むことはできませんわっ!」
急に佐々美は顔を赤くして体をくねりだした。
「だって宮沢様のあの美しい手にわたくしたちの汚い道具を乗せることなんてできませんわ――それに、とってもお忙しいようですし――ああでも、何度あの方にマッサージをお願いしたいかと思ったことか知れませんわ。あの方に体重や筋肉を管理されてもわたくし全然構いませんわ! ああだめ――でもだめなんですの――現実をしっかり見なければね――あの方は剣道部のホープですし、わたくしとしましてもそれを誇りにしますところ――何度も悩んで悩んで悩み抜きましたのよ――マネージャーを誰にするかね――」
佐々美は少しうつむきがちになった。鈴はこのあたりで恥ずかしさに悶絶しているところである。
「それで――井ノ原さんに頼むことにしたんですの。……実を言うとね、わたくし、やっぱりやましい気持ちがあったかもしれません。ついでに言われたんですのよ。部活の子に――『これでリトルバスターズの戦力も落ちます』とね――わたくし、なるほどと思ったんですの。あなたたちを困らせてやろうと思ったかもしれません。あの井ノ原さんはムードメーカーですものね――しかし、わたくしは部のため――部の健全な運営のために、心を鬼にしてやるつもりだったんですの。決してあなた方を困らせようっていう気持ちだけでやったんじゃなくてよ。信じてくださる?」
「ああ……ああ……」
このときは鈴はただ恥ずかしさに悶絶(以下略
「そう。あなたが心配していることは何にもないから安心なさい。食事に連れてきたのも、ただこの後用具選びに付き合ってもらって、荷物持ちとして働いてもらうとの交換条件だったんですのよ。あの方は食事にも困っているようでしたから、喜んで来ますしね……そのうちわたくしに共感してもらえたら、マネージャーとしてオファーを出そうと思ってたんですのよ。それがこんなざまに……やっぱりわたくしが率先して荷物持ち頑張らないといけないようですわね」
「ささみ……」
鈴は、溜息をついて肩を落とした。
とんでもないことになった。そんなことがあるとは……。
「さて、まったく、わたくしとしたことが、あなたをそんな理由で怒らせているなんて見当もつきませんでしたわ。だってあなたたち、仲はいいけれど、恋人って感じじゃなかったから」
「そ、それはだな――」
「まあ、他人の恋路の邪魔をする者は馬に蹴られてうんぬんと言いますし、ここはわたくし、引き下がりますし、今までの非礼を全てお詫びいたしますわ」
「ささみ……」
「さて、ではわかったら、とっとと出て行ってくださる?」
「え?」
「ト・イ・レ!」
佐々美は鈴を弾き飛ばして、ドアを閉めた。
鈴はぽりぽりと頬をかいて、「ははっ」と笑った。
鈴がテーブルに戻ると、すでに真人は食事を終えていた。……ここが店じゃなかったらお仕置きしているところだ……。
「なんか、あったのか?」
佐々美が鈴に急に優しくなったのと、何も言わず当たり前のように鈴の分の代金まで支払ってくれたことに、真人は不思議そうに首をひねった。
「な、なんでもないわ!」鈴は顔を赤くするのを禁じえなかった。
「だ、だいたい――きさまが全部悪いんだぞ! おまえがあんなことを黙ってたから――」
「え、だって――さすがになぁ。いくら金がねぇからって、女に飯おごってもらってんのおおっぴらに言えねぇだろ」
「その代わり、佐々美の用事手伝ってあげてたんだろ」
「まぁな」
「やっぱムカつくわ!」
「何でだっ!」
蹴りでふっ飛ばされているところへ、佐々美が店から出て来た。疲れきった様子だったが、二人のやり取りを見ると、微笑ましそうに口元をゆるませた。
「まったく仲がいいですことね」
「う、うっさいわ!」
顔が赤くなる――。
「井ノ原さん。今日の荷物運びはいいですわ。わたくし、用事を思い出しましたの。ここで失礼ですけれど、お別れいたしますわ」
「え、おまえ――」
真人は戸惑った。
「いいのかよ」
「はい。今回のお食事は、わたくしもとても楽しめましたの。また行きたいですことね。そう、この三人で」
「誰が行くかっ!」
「おーっほっほっほ!」
にやにやとして、頬を染める鈴をからかう佐々美。佐々美はひらひらと蝶のように手を振りつつ、駅のほうへ帰っていった。
「まったく……ヒヤヒヤしたぞ」
「こっちのセリフだっつーの。ま、おまえらも腹がふくれて、仲直ったんだろ。オレと謙吾もよくそうだからよ」
「ふんっ!」
「あいて!」
蹴りを叩き込む。
「あー……てて、ははっ。まあ、タダ飯食えたんだからいっか……さぁて、どうするよ。この後暇になっちまったなぁ……どうする? 鈴」
鈴は、自分から誘いを口にして言えないことに内心腹が立っていた。
ああ……真人の方から口にしてもらえないだろうか。せっかく二人になることができたんだから、このまま……。
「よし。せっかくだし、どっか遊び行こうぜ!」
鈴の顔は赤くなった。そうして目がキラキラしてきた。口にも笑みが浮かび、声は跳ね上がるように元気になった。
真人は、「うんっ!」と喜んでジャンプする鈴を見て、ハラハラした。ハラハラしたのは、なぜか。それは真人だけが知っている……。