鐘が鳴った。
 鈴が戻って来ていない。
「おおい、理樹。鈴に会わなかったか?」
「え、鈴?」
 理樹も来ヶ谷と一緒に慌てて戻って来たのだったが、周りを見渡すと、首を傾げた。
「見てないけど……あっ、しまった。先生だ!」
 先生が入ってきて、出欠を取った。
 棗、と名前が呼ばれたが、返事はなかった。
「棗?」
 不審そうな先生の声。
「あー。棗は休みか?」
「えーっと……さっきまで居たように思いますけど」
「なんだ。保健室で休んでいるのか? 誰か知っている者は?」
 誰もそれに答えられなかった。鈴の居場所を知っている者は誰もいないのだ。
 誰も答えないのを見ると、先生はいらだたしげな顔をした。
「なんだ。誰も知らないのか。棗はかわいそうなやつだな。もしかしてサボりか? だったら皆が知らないのも無理はないからな」
 サボり、ということになってしまった。
 真人は心配だった。そしてそれは理樹もそうだった。お互いに顔を見合わせて、うなずき合った。
 真人と理樹は授業が終わった後、みんなを集めた。
「鈴がどこにいるか探そう」
「おい、本当におまえも鈴がどこにいるか知らんのか」
 少し怒った声で謙吾が真人に言った。
「ああ」
「とにかくさ、探してみようよ。鈴ちゃんのことだからさ、きっと子猫が怪我してるの見て、ほっとけなくなっちゃったんだよ。すぐ見つかるよ」
「はるちん保健室のほう行ってくる」
「では我々は校門の方まで歩いてみるか」
「理樹。鈴は?」
 そのころには恭介もやって来て、鈴の不在を訝しがっていた。
「探すぞ。理樹」
 理樹は恭介と一緒に行ってしまった。
 真人は鈴がどこにいるのか、じっと考えていた。考えていたが、皆目わからず、みんなと共に校舎を回ってみることにした。
 幸い、授業はもうないので、じっくり探せた。しかし捜索は9人で行われているにもかかわらず、鈴の発見の連絡は全然来なかった。
 どこに行ったんだろう。
 真人はぶらぶら中庭を歩いていた。
 鈴が授業中に校庭から外に出るとは考えられない。たとえ怪我の猫を見つけていたとしても、寮内にあるもので十分対処できるからだ。
 ひょっとしたら、鈴自身が怪我をしているかもしれない。真人はどんなに慌てても、謙吾のように自分を見失うことはなかった。体と心が分離したかのように、鈴のうずくまっているところを考えていながら、体は冷静だった。
 真人は鈴の携帯電話にかけてみた。
 コールはするが、まったく出て来ない。
 真人は電話を切り、走ってみた。風の抜ける音から、ふと一人の気配があるはずのないところにあるのに気が付いた。
 裏庭である。放課後には気味が悪くなるので、人があまり近付かない場所。その茂みのところに、なにか不自然なものがあるのが真人の目から見えた。
「おうい、何やってんだよ」
 真人は茂みの中にいる鈴に声を掛けた。
「何やってんだって聞いてんだよ。鈴。授業も出ねぇで」
 鈴は体育座りで膝に顔をつけてうずくまっていた。
 真人は手で茂みを裂いて、中から鈴の手を引っ張った。
 鈴は力なく真人に引っ張られて、立ち上がった。
「みんな心配してるっつーの。……鈴。あのさ、」
 鈴は真人の胸に寄りかかってきた。鈴はまるで寝ているみたいに何も言わなかった。
「……ったく、どしたんだよ。ほら、そんな死人みてぇにしてねぇで、オレにわけを言え」
「……言いたく、ない」
「まっ、すぐに言えとは言わねぇさ。話せるようになったらでいいんだよ。でも、しゃんとしろ」
 鈴は顔を上げた。真人は驚いた。
 ひどい顔をしていたからだ。目の光はくすんで、何も見えていないかのようだった。口は不幸さがにじみ出ており、頬は生気がなく白かった。
「風邪じゃねぇよな?」
 真っ先にしたのは体温のチェックだった。体温には問題ない。でも鈴は額に手を置かれるのを嫌がり、手を弾いた。
「さわんな。アホ」
「うっせぇな。そんな死人みてぇな顔してたら誰でもこうするってーの」
「なんじゃ。アホ」
「なんじゃじゃねーよ。アホ」
「アホじゃなかったら馬鹿だ! おまえ、何なんじゃ! あたしに優しくすんなっ!」
 鈴は涙を流しながら怒鳴った。
 真人はまじまじと鈴のことを見つめた。どうして泣いているのか、真人は真人なりに考えていた。
「何か、あったのか?」
「見ればわかるだろ」
「わかんねーよ。言ってくれなきゃ」
「言いたくないって言ってんのが聞こえんのか? おまえは」
「わかったよ。無理に言わなくていいって」
 鈴は余計に怒った。真人の胸に全力で何度も拳をぶつけた。
「この、くらえ! くらえっ!」
「効くか、馬鹿」
「くそっ、なんで効かないんじゃ! おまえ、弱いくせに!」
「てめーこそ弱ぇだろうが。すぐ泣きやがって」
 鈴は心底怒った。この男を一度泣かさないと気が済まなかった。
「泣いちゃえ! この、うすら馬鹿! くそ男! でくの坊! 泣くか!? これでもか! こんにゃろ! こんにゃろ!」
「いたかねーよ。てめぇのパンチなんか。いつもの半分も痛くねえ」
 鈴は手が痛くなるまで殴って、うなだれた。手が真っ赤になって、少し皮が剥けていた。
「いたっ」
「殴りすぎだ。バカ。おめぇのほうがダメージ食ってるだろうが。いいか、こっち来い」
 真人は裏庭のベンチに座った。ポケットからガーゼを取り出し、テーピングで傷を塞いだ。
「ったく、なんでオレがこんなことを……」
「痛いんじゃ。この鉄男」
「おまえな……」
 鈴は涙を流していた。うつむきながら。真人はぽりぽりと頬をかいて、思いついたことは、髪をなでてやることだった。髪をなでてやるのは中学以来だった。鈴が同級生と喧嘩したとき、恭介は鈴を叱り飛ばした。謝りに行けと頑固に言う恭介に、鈴は真人の前で愚痴っていた。けれど泣き出して、物も言えないくらい後悔し出したとき、真人は鈴の髪をなでてやった。恭介はこういうことは絶対にしなかった。
 鈴は真人の胸に頭をつけ、しばらくの間じっとしていた。
 真人はこんなところを誰かに見られなければいいが、と思いながら、それでもじっとして鈴のことを考えていた。
 ぐ〜。
 と、変な音がした。
「あっ」
 ふと鈴が顔を上げる。胃のあたりに手をやる。
「腹」
 真人がふと言った。鈴がどんどん顔を赤くしていく。
「減ってんの?」
「……」
 仕方ない、と真人は思った。
「どっか飯でも食いに行こうぜ」
「みんな……どうするの」
 鈴はお腹をさすりながら元気なく言った。
 真人は携帯を取りだして、
「適当に言っとくからいい。どーせ今は誰とも話したくねーだろ?」
「……」
 コクン、と頷いた。だからといって一人で食事させるのも味気ない。
「食堂でいいか?」
 首を横に振る。
「繁華街に行きたい」
「今から?」
「そう」
「え、オレも?」
「そう」
「えぇーっと……」
 鈴は立ち上がって、真人の腕を引っ張った。真人は慌てて財布の残金を確かめた。
 顔が青くなっていく。
 鈴は「さっさとしろ!」と真人に怒鳴りつけた。
 
 鈴は昼食をパン一つしか取ってないのだった。それで腹が減ってどうしようもなかった。
 夕暮れ時の繁華街は賑やかだった。並木道には犬を連れた散歩の人や主婦たち、部活帰りの中高生で溢れかえっていた。
 鈴と真人は「惣菜王国」にやって来た。
「あのさ……鈴」
「なんじゃ」
「聞きたくねーけど、おまえ金持ってんの?」
「10円しか持ってない」
「おまえ……」
 真人はそれを聞くとATMへ飛んでいった。すぐ秘蔵の貯金箱から金を一万下ろしてきて、鈴の注文に間に合った。
「おまえ、どこ行ってたんじゃ。急にいなくなんな」
「おまっ……それが、……おごって、やる……やつに……言うことかコラァ!」
 息が切れぎれで言葉にならなかった。
「いいか? テメー、これは貸しだかんな。基本的なことだが」
「え?」
 鈴は信じられないような顔をした。
「基本的なことだよ! もっかい喧嘩すっか、テメー!」
「わかったわかった。仕方ないな」
 真人は肩を落とした。どうしてこんなやつのために……。
 鈴は揚げ物をたくさん買って、ぱくぱくとベンチで食べた。真人も腹が空いていたので、カツを食べた。
「なんちゅーか……」
「あん?」
 鈴が何か言いたそうにしている。
「うまいな、コレ」
「だろ? おめぇあんまここに最近こなかったろ? メニューと味が変わったんだよ」
「うん。こまりちゃんたちとばっかり遊んでるからな」
 小毬たちとはこんなところにはやって来ない。真人や、理樹ならよく来るが。
「あのさ、」
「うん」
 またも、鈴は何か言いかけたが、
「もっと食べていい?」
「えぇ、どうぞ! 好きなだけ食えよ! この食いしん坊が!」
 食いしん坊って言うな。と、鈴は憤慨していたが、得意そうにもう一度並んで、真人と二つに分け合って、ベンチの上で食べた。
「あつっ」
「慌てて食うんじゃねーよ。子供かおまえ」
「うっさいな。もう」
 鈴は不機嫌な顔をした。
 特に会話もないまま、鈴がゆっくり食い終わると、ふと溜息を一つついて、真人のことをじっと見つめた。
 今度は何を食べたいのか、おそるおそる耳をかたむける真人だったが、鈴は
「あのさ、真人。おまえ好きな人いるか?」
「は?」
 何を聞かれてるのかさっぱりだった。
「いるのか、いないのか?」
「あぁ〜……なんだ、その」
「いるんだな? よし。質問に答えてもらいたい」
 いるという前提で話が進められた。
「もし……あっ、これはあたしじゃないぞ。あたしの特別な友達があたしに相談した話だ。おまえに聞くのはしゃくだが、聞いてやる。心して聞け」
 いったい何のことだろう……それとなんでこんなに鈴は偉そうなんだろう。
「まさか、筋肉が恋人ってことはない?」
 鈴がふと気付いたように取ってつけ加えた。
「んなワケねーだろ!」
「そっか。よかった。ちょっと安心したぞ」
「疲れんだよ……はやくしてくれよ」
「うん。おまえの好きな人が、もし……もしだぞ、あたしじゃないからな……あたしじゃない、もしおまえが、誰かのことが好きで、で、」
 鈴は一言一言吟味して、ゆっくりと話した。
「その女の子が……もし、誰か他の男の子のことが好きだとわかったら、おまえなら、どーする?」
 真人はまじまじと鈴のことを見た。
 からかっているようには見えない。質問はからかっているとしか思えないのだが、真人は質問に答えてやりたいが、難しいかな、と思った。
「どうって……おまえなぁ」
 鈴の真剣な表情は崩れない。
 鈴の信頼感がひしひしと伝わってくる。鈴は本気で聞いているのだ。真人は苦い顔をした。だんだん頭が痛くなってくる。
「いてぇ……頭が、ひどく痛む……」
「大丈夫か?」
 鈴が慌てた様子で真人に近付く。心配そうな顔が間近にあるのがわかると、真人はすぐに離れた。どうしたものか。
 真人は頭痛を避けながら、必死に考えた。あまり考えないほうがいい答えが出るはずなのだが、真人には考えねばならない理由があった。
「そうだな……悩むかな。オレだったら」
「悩む?」
「ああ……おまえ、それが、オレの答えだよ」
 悩み、それは、何の解答にもなってない。だけど、真人の解答に鈴は思いを巡らせた。ほんとうにそれでいいのだろうか。鈴は
「悩む……それで終わりなのか?」
「別にそうじゃねぇけどよ……でも、オレはこうと分かってることなんてねぇからさ、まずは悩む! ……そのあとは、悩んで、悩んで、悩みまくる! ……そんで、」
「そんで?」
「頭が痛くなったら、筋トレでもすっかな」
 鈴は噴きだした。噴きだして、笑ってしまった。
「オメー、なんで笑うんだよ!」
「あはは、おまえ、バカじゃないか?」
「うっせぇ! おまえ、オレの気持ちのどこがバカなんだよ! これでも一生懸命なんだかんな! 適当に答えなんか出せるかよ!」
 鈴の笑いは止まった。
「適当に……」
「ああ。おまえ、ほんと物分かり悪いな。告白すっとか、簡単に言えるけどさ、オレはそうとは限らねぇ、黙っていることだって立派なもんさ。オレにはそれがよくわかるぜ」
「黙って……」
 鈴は黙りこくった。真人のことを真剣な瞳で見つめている。
「でも、オレは勿体ねぇとも思う。あいつが誰のこと好きだって、自分から言わねぇのは、臆病なのかもしんねぇ。だけど! あいつのことが好きなら、黙って待っててやるのが本当かもしんねぇぜ。鈴」
「え?」
 鈴は驚愕した。何で自分に言われているのだろうか。
「理樹が、誰のことが好きなのか知らねぇけどな、オレはおまえらがくっつけばいいのにな。ってずっと思ってるよ。そう、恭介だって、謙吾だって、おまえと理樹ならいいって、昔から思ってんだよ!」
「ま、真人!」
 真人は笑った。
「バレてんだよ。もう全部。おまえ理樹のこと昔から好きだったろ? まったく、あんなんで騙すことのできんのは中学生までだぜ? おまえ、理樹のこと好きなんだろ? で、あいつにはもう好きな人がいると」
「も、もう、おまえが何を言っているかぜーんぜんわからない!」
「わかるはずだよ。オレだってわかるんだからな。馬鹿なオレでもさ……おまえにゃ勇気が足らんねぇ。そう言うやつもいるかもしんねぇ。でもさ、鈴」
「だ、だから!」
 鈴は顔を真っ赤にして真人の口を塞ごうとした。
 だが、かわされてしまった。
「オレは、」
 真人は本心からこう言った。
「オレは、おまえがどんな選択をしたって、鈴派になるぜ。“どんな選択をしたって”な。それがオレのやり方だからな」
「ま、真人……」
「オレは、鈴が、どんな選択をしたって、鈴派に乗るぜ。どんな選択をしたってな!」
 鈴は黙ってうつむいてしまった。
 真人は大声でこんなことを言ってしまったのを恥ずかしいと思いながら、辺りを見回していた。だが、本心を言ったつもりだった。
「あの……鈴」
「うん」
「悩めよ。簡単に出せる答えなんてねーんだ。そういう問題じゃねーんだ。一たす一は二っていう、そういうんじゃねーんだ。悩め。そんでもって、悩みが終わらなかったら、」
 真人はいつも自分が取っている方法を教えた。
「考えることをスパッとやめちまうことだ」
「やめる……?」
「そうさ。そうすりゃ、いい考えが浮かぶぜ。朝走ったっていい。とにかく体を動かすことだ。きっとそうすりゃあ、なんとかなるさ。鈴、絶対にな」
「真人」
 信頼する眼差しで答えていた。鈴は、「……ありがとう……」と、視線でこっそり言っていた。
「そうしてみる」
「おお、やってみろ」
「あと真人、そのこと誰にも言っちゃだめだからな」
 真人は、へ、と笑った。
「オレが言ったって誰も信じねーしな。すっかり狼野郎扱いだよ」
「狼少年だぞ、それを言うなら」
「狼少年でしたよ! あーそうですよ!」
「あはは」
 鈴が笑った。
 事実、鈴は気持ちが軽くなっていた。真人が来る前は自分で解決するには大きすぎるように思われていたこのことも、真人と話してみると、取るに足らない些事のように思えてくるのだった。もちろん、そんなことは現実ではないのだが。でも鈴は理樹と来ヶ谷がお互い想い合っていると知ったことなど、もうずっと以前のように感じられた。あれから時が経ち、今それを受け入れてられる自分がここにいる。それはまぎれもなく真人のおかげなのだ。真人に礼を言うのは恥ずかしいので、今度何かおごってやろうと鈴は考えていた。
 鈴は、立ち上がって、ジュースを買って飲み歩き、寮までゆっくり真人と話していった。
 

 5話

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