一月三十一日
鈴は、理樹のことを追跡することから始めた。
まずは食事から。誰か特定の女子を見つめていないか――特定の食べ物を好んで食べるようだったら要チェックだ。
最初鈴は理樹から色々聞こうと思っていたのだが、そんな勇気はないのは悔しいが明らかだった。
追跡する根気と能力だけは持っているので、鈴はメモ帳を片手に抜け目ない視線で理樹のことを見守っていた。
「恭介、なんだか知ってる? 鈴のこと」
小声で恭介に尋ねる。
つーか、最初からバレていた。
「俺にはさっぱりだな。どうせまたゲームでも始めてんだろ。ほっといてやれよ」
鈴はさらに女子陣にも目を向けていた。
誰がどんな特徴を持っているのかチェックしている。だんだん探偵みたくなってきて密かに楽しんでいるのは明らかだ。
「ど、どうしたの、鈴ちゃん」
「シッ。あたしに話しかけないでくれ。こまりちゃん」
「でも……」
「食べないのですかー? どんどん時間なくなっちゃいますよー」
鈴は慌てて食べようとしたが、
「お? 鈴、おまえ全然食べてねーな。そんじゃ、俺がいただきますよ――あーんっ! んぎゃー!」
「だ、れ、が、お、ま、えにやると言ったー!」
真人は顔面を殴られてふっ飛んで行った。
追跡は授業中も続けられた。
授業中、誰か特定の女子に目が行ってないか――誰かに行っていたら、そいつは要チェックである。
理樹はしきりにこちらを見てきた。
まさか、と思うが。
(あたし――――っ?)
鈴はまさに予定が外れたのにもかかわらず幸せいっぱいだったが、感情を計画にすり替えないだけの冷静さは持ち合わせていた。
(も、もうちょい、待ってみよう……)
しきりにこちらを見てくる。
よほど鈴の姿が気になるらしい。はっ、メイクはきちんとしてきただろうか。寝不足で目の下に隈ができているのはどうだろう。アイシャドー? いやまさか。
失敗だ! なんてことだ! と身悶えている鈴をよそに、授業は粛々と進められ、休み時間がやってきた。
どきどきしながら理樹の到来を待っている気持ち。つまりこれは、両思い……理樹と結ばれる日がついにやって来たか。
明日は結婚式か!?
「ねぇ鈴」
「うひゃい!? あ、り、りき! どうしたの?」
かわいげが出るように“しな”を作って言ったが、理樹の表情は愛の告白とは別のものである。
「授業中ずっと気になってたんだけどさ。僕の口にご飯つぶとかついてる?」
「う、うん! あたしもずっとそう思って――え?」
「あれそうかな? おっかしーな……授業中何度も確認したんだけど……ちょっとトイレに行ってくるね」
理樹は行ってしまった。
今のは何の冗談だったのだろうか。
はっ、追跡は続けねば。
「こそこそ」
「ねぇ鈴?」
「えっ!? な、なんだ? 理樹」
理樹の眼は疑わしげだ。
「いったいどこまでついてくるの?」
どこまでって。
鈴は目を上げた。辺りを見回すと、そこは男子トイレだった。
「うわぁ――!」
「まさかとは思うけど……鈴。僕のこと観察してない? 尾行してるっていうか……」
「な、ないぞ! そんなことはこれっぽっちもないぞ!」
「本当かなぁ……じゃあ何で男子トイレにいるわけ?」
鈴はすぐさまトイレの外へ出た。
他の男子は「うわぁ棗だ!」と叫んで顔を赤くしている。
「な、なんでって……そりゃあ、トイレに来るなら理由は一つしかないだろ」
理樹は目をこれでもかというくらい細くした。
「あのさ……確認したいんだけど」
「な、なんじゃ」
「女の子は女子トイレに……行くもんだよね」
鈴は憤慨した。
「あっ、ああ、当ったり前じゃ――――! ぼけ――!」
鈴は女子トイレに突撃して行った。
鈴は落ち込まなかった。体育の時間も追跡は続行された。
「鈴ちゃーん。女子は向こうだよ?」
「シッ。こまりちゃん。あたしはちょっと用事があるから向こうに行く。代返は頼んだぞ」
「えーっ!?」
驚いているこまりちゃんを置いて、鈴はすたすたと男子の方へメモを片手に歩いて行ってしまう。
「だ、だめだよ!? 鈴ちゃん! 戻ってきて!」
「はわっ!? 鈴さん、そっちは男子です! 女子はこっちです!」
「シッ――!」
振り向いて口に指を当てた。小毬とクドはしきりに戻るよう言ったが、先生が来て連れ戻されてしまった。
「あわわわわ。どーしよー!?」
「鈴さんじつは大胆なのですっ! いくら“ぷれーがーる”と言ったって、そりゃないのです!」
「神北さん、能美さん」
ちょっと、と耳打ちする美魚。
「私たちも抜け出すことならできます。鈴さんは……おそらくプレーなんたらではなく、ホームズ……いえ、探偵を行おうとしているだけだと思います」
「たんてー?」
「はい。メモを持ってこそこそしているのを今日一日ずっと私は見ていました。これは……何らかの事件の気配がします」
「事件!?」
そりゃ大変だ。先生に知らせに行こうとする小毬を高い影がぎゅっと掴んだ。
「コマリマックス。それは留保だ。私たちでまず事件性があるか確認するとしよう。先生も多忙の身だ。なんら確定的でない情報で疲れさせるわけにもいくまい……」
「あわわ。でもー!?」
「それに、鈴君のことがバレると色々とまずい。ここは、私たち全員で鈴君を連れ戻しに行くべきだろう。と、いうわけで私も行くぞ! バレーボールにはいくらか飽き飽きしていたのでね」
「と、いいつつも、明らかに楽しんでいる来ヶ谷さん」
「悪いかね」
と、悪びれもせず答える来ヶ谷。
「いいえ、あなたらしい」
小毬を離してやると、小毬は赤い顔でうんうん唸っていたが、結局二人と行くことにした。唐突に用事を思い出したクドは無理矢理連れて行かれた。
「シッ。コマリマックス。あまり押さないでくれたまえ」
男子は野球をやっている。理樹がピッチャーで、クラスメートの一人がバッターボックスに向かっていた。
「あ、ごめんゆいちゃん。ちょっと枝に体操着が引っかかっちゃって」
「抑えて。来ヶ谷さん。今は暴れてはいけません」
四人は狭い茂みの中に隠れているのだった。
「ええい。こんな状況でなかったら、いったいどこをどう引っかけたのか、子細に観察してやるというのに……」
「言っていることが変態です。来ヶ谷さん」
「なに、単なるスキンシップだよ。言っていることが普通では興ざめだ。違うか?」
「手が、なんだか、むずむずするところに……わっ、やめて、来ヶ谷さん、くすぐったいです!」
「ふはははははは!」
「手を動かすのも普通のやり方でお願いします!」
茂みがガサガサ音を立てまくるのではるか遠方に居た謙吾にも、四人が何かやっているのがわかった。
「あっ。しまった。謙吾くんにバレちゃったかも」
「なに。何をやっているんだコマリマックス! あいつの感知度は半端ないから気を付けろと言ったろうに!」
「ふえ〜ん! わたしだけのせいじゃない〜!」
「あ、でも、向こうも気付いたみたいですが、何も仕掛けて来ないみたいですね。よかったです」
「宮沢さんは日和見というか、我関せずの主義ですからね……助かりました」
ひどいことを言われているのを知りもせず、謙吾は四人を見て不思議そうに首を傾げただけで、サードのボールカバーに回った。
「あっ、かっこいい、謙吾くん……」
「コマリマックス。ああいう男が好みかね」
「え〜! そういうんじゃないよ〜!」
「シッ。お二人とも、少しお静かに。鈴さんを探さないと……どこへ行ったんでしょうか。あっ」
ぽんぽん、と三人の肩をたたく美魚。
指を指した先に、鈴の姿があった。
鈴の前に大男が立っている。
「なに話してるんだろうね……真人くんと」
「見つかっているではないか。一体どうしたというのだ、鈴君。これでは鈴君を連れ戻すことができないぞ」
「あっ、鈴さん戻ってきました」
鈴は一人でとぼとぼと帰ってきた。メモを片手に、しょげかえった顔で。
鈴はそのままベンチに腰かけると、ぼんやりと男子の方を見ながらメモを取り始めた。
「な、何やってるんだろうね……」
「ふーむ。男子の観察だろうか……」
「事件、ではなかったのでしょうか」
やや残念そうに言う美魚。
「そうとは決まったことではないぞ美魚君。鈴君があれだけ熱心に何かやっているのだ。何か重要な意味があるに違いない」
「鈴さんは、誰か好きな男の子がいるんじゃないでしょうか〜」
「好きな?」
一同は黙り込む。
「好きな……男の子か」
「それでメモでしょうか? なんとも鈴さんらしい」
「鈴ちゃん誰のことが好きなんだろうね」
一人だけ、思い当たる男の子がいた。
しかし、その男の子の顔が思い浮かぶとすぐ、全員は行動を起こしていた。
「まさか、あのまま鈴君を置いていくわけにもいくまい。すぐ連れ戻さねば」
「そ、そうだよね。で、誰が行くの?」
「わたしが」
「では、私が」
「私が行こう」
「う、う〜ん」
みんなで行くことになった。
みんなで茂みを出て鈴に近付いていくと、鈴はばつが悪そうに立ち上がった。
「みんな」
「鈴君。帰ろう。先生が心配するぞ」
「もうちょっと」
「だめ。先生に見つかっちゃったら大変なことになるよ。鈴ちゃん。ここはしょうがないよ。ね?」
鈴はしぶしぶ、小毬たちに足を向けた。
その時、男子の方で声がして、野球ボールが飛んできた。
鈴がそのボールを拾い上げると、走ってきた真人に向かって投げ渡した。
「おう、サンキュ。鈴」
「ん」
にかっと笑っていく真人に、鈴が少し微笑んでいたのをじっと四人は見つめていた。
「さっ。帰ろう」
来ヶ谷の見事な言い訳でその場に五人がいなかったことの責めは免れた。
鈴はバレーボールのボールも見ないでメモを読みふけり、難しい顔をしていたが、ボールが来たら奇跡的に打ち返していた。
鈴はバレーボールの時間が終わると、昼食をあっという間に片付け、一人で校舎外に出た。
中庭に座り、じっとメモを読み耽っている。
少し疲れたので、芝生の上に仰向けになって、茂みの落ちた大きな木を真下から眺めていた。そして、それを透けて見える青空を。
呼吸して、また呼吸して、の繰り返し。
鈴は立ち上がって、ぴんと頬をたたくと、走って行った。
五時間目の終了と同時に、鈴は理樹の後を追っていった。
そろそろ調べ尽くしただろうか。理樹の好きな物、好きなタイプ、好きなこと、さりげない仕草、数え切れないほど書き付けたが、結局たいした成果にはなっていないように思った。
もともと理樹のことはよく知っているのだ。だから、鈴が知らない理樹の一面などあるはずがない。あの馬鹿が調べてみろだなんて言ったから調べたが、もう退屈した。鈴は理樹に告白できたらしてしまいたかった。こんな遊びはもう疲れたのだ。理樹と一緒になって、あれこれ未来に希望を馳せる方がよかった。
ただ、鈴は真人がいなかったら何もしなかっただろう。ただ日常を少しばかり面白く過ごし、気付いたら理樹のことを諦めなければならなかったと思う。その点では感謝している。それに、鈴は真人とは離れるところをまったく想像できなかった。自分の行くところにはどこにでもあいつの姿があるように思ったし、事実そうでないことは世間の理屈で知ってはいたものの、まったく現実感を欠いた想像だった。
さて、鈴は理樹を追っていった。もうこれで特に特筆すべきことがらが出てこなかったらやめてしまおう。
理樹は何が好きなのか、ほとんどわかった。後は自分がそれに合わせていけばいい。
理樹は裏庭の方へと歩いて行った。
きょろきょろしている。さてはこの先に秘密があるな、と思った。鈴はまだ何かあるのかと思って仕方なくついて行ったが、後で、その後ついて行かなければよかったと散々鈴は思うようになる。
ついて行くと、人影があった。
鈴はそろり、そろり、と足音を立てずにうまく木々の下の茂みに隠れることができた。
鈴は風が吹いたおり、茂みに手を当て、うまく理樹たちを目に見えるようにすることができた。
鈴は、見なければよかった、と後悔した。
「あのさ、来ヶ谷さん」
「何かな」
来ヶ谷はコーヒーを片手にうっすらと微笑んだ。それは普段見せることのない微笑みだった。理樹に向けているのは来ヶ谷の笑顔。それをただ理解するまでに鈴は十分時間を消費しなければならなかった。もっとも本当の鈴の心はとっくにこの二人の関係を受け入れているのだったが。
「ひとつ、質問したいことがあるんだ」
「さあて」
来ヶ谷は足を組んだ。こぼれるような魅力は全て理樹に向けられている。
「どこまで聞いてやろうかな。答えてやるには対価がいる。ひとつ、なぜ君がこうしてここにいて、私とお茶に付き合ってくれているのか、教えてもらおうか」
「簡単な質問だね。でも答えるのは難しいよ」
「どうして難しいんだい? そいつを知りたいな」
「だって……」
理樹は顔を赤くした。
「僕は、……僕であるために、ここにいる。これが正しいかな」
「では質問を受けてやろう」
「まったく……笑いすぎ」
こぼれんばかりの女としての魅力は、優しさに変わっていた。それは満足を知った少女としての笑顔だった。
頬は赤くなって、目が星のように輝き、声は高鳴っていた。まるで“すず”が笑うように。
「君は可愛いなあ」
「来ヶ谷さんほどじゃないよ」
「なに。私のどこが可愛いというのだ?」
「いや……それを僕に言わせる? フツー」
「い、いや……なんだ。まったく……調子が狂うな、これは。理樹君、私を困らせるな。そ、その……ごほん、ごほん! こういうのには慣れていなくってね、ご教授をいただきたいのだが」
「そのままの来ヶ谷さんでいいよ。だってすっごく可愛いから」
来ヶ谷は赤くなって俯いてしまった。
理樹は来ヶ谷のコーヒーを飲んでいた。来ヶ谷はそれを奪い取って自分でまた飲んだ。
その自然な動作がまた愛らしかった。
「……で、君が聞きたいことというのは?」
「今度の日曜さ、空いてる? ……」
「……もちろん、それは……」
「……」