過去作品『ロックスターになろう!』 『たった一つのチョコレート』の続編となっております。

  意味のわからない話があったら、そちらを一読していただければ助かります。

 

 

「真人って、来ヶ谷さんと付き合ってるの?」

 真人は声にならない叫びを上げた。

「ねえ……むぐっ!」

 すかさず口を押さえ、あたりを見渡す。

 朝のHR前の時間。教室。

 誰かに聞かれている気配はない。

「いいか……頼む」

 理樹は、その一言に尋常じゃない意味の圧縮率を感じ、こくこくと頷いた。

「ぷはぁ」

 離される。

「真人、あのさ――」

 理樹は理解していなかった。

 その瞬間に真人に襟を掴まれて廊下に連れ出されたのがその証拠だ。

 

「あのな! 誰がそんなこと言いやがったんだ?」

「え? みんな噂してるよ?」

 校舎外の階段下。薄暗がりで、降りてくる連中はよほど勇気ある人間じゃなければ、ここでたむろしている人間に声をかけはしない。

「主に……どっちの様子が変だって?」

「え? どっちも」

「……」

 真人は土下座のポーズを取った。

「真人、本当なの?」

「理樹……相談に乗ってくれないか」

「え、いやだけど」

「即答!?」

「ああ、いやだっていうのは、『今』のことね。ほら――」

「あん?」

「もう、HRが始まる時間」

 

 一時間目終了後。

 真人と理樹はふたたび階段下へと集まった。

 怪しまれないように、お互い別々に教室を出て来た。

「それで……相談って?」

「どうしたらいいのかさっぱりわからん」

「あの……それじゃ、僕がどうしたらいいのかさっぱりわからないんだけど」

「おお、悪い悪い」

「本当だよ……」

「あいつとうまくやっていく自信がない」

「早速破局目前!?」

「違うって違うって」

 理樹は、もう真人が最後の岸に立たされているのかと勘違いしたのだが……そうではないようで安心した。

「それならどうしたの?」

「ああ……ちょいと耳を貸せ」

「こう?」

「うん。……あいつにキスされたんだが、それ以降の進展がない……」

「ええっ!?」

 理樹は顔を真っ赤にして、あたりを見回した。

「ちょっと待って」と言って、何度も深呼吸をする。

「……うん。どうぞ?」

「あ、いや。これで全部なんだが」

「それで全部かよ!」

「ああ」

 理樹は、『キス』のところしか頭に入ってなかった。

「そうか……その後の発展はないのか……」

「あいつがいったい何を望んでいるのかさっぱりわからん」

「真人はなんかアクション起こしたの?」

「え? いやなにも」

 理樹はすっころんだ。

「なにもしてないのかよ!」

「なにもしてねえ」

 真人はなぜか胸を張っていた。

「なにもしていないのか……いや、なるほど」

 あのバレンタインデーの日からもう三週間が経っていた。

 もうすぐ二学年も終了である。

 来学年になればクラス替えが行われるため、リトルバスターズのメンバーは離ればなれになる可能性が高い。

「真人って、意外と奥手だもんね」

「あの女も相当奥手だぞ」

「ああ……」

 来ヶ谷のことを想像した。

 ずっと理樹に対する想いを抱えていたということは……やっぱりそうなのかもしれない。

「でも、ちょっと安心したよ」

「え、なにがだよ」

「来ヶ谷さんも、徐々にまえを向いて、足を踏み出せて」

 真人は目を瞬かせた。

 そうして、ゆっくりと微笑む。

「ああ、そうだな。……実は、オレもあんまり心配していないんだ。今は、いろいろやってみる時期なんじゃねぇか、ってな。いろいろ抱え込むこともなくなったんだ。自分で世界見て、やることなすこと決めたらいいんじゃねぇか、ってな」

「それで真人のほうから何のアプローチもしてないの?」

「うん」

「……」

 理樹は頭を抱えて真人のことを見つめた。

 確かに、筋は通っている。筋は通っているのだが……この優しすぎる真人が、本当に恋する女に理解されるのかどうか、甚だ怪しいもんだと思った。

「真人、本当に来ヶ谷さんのこと好きなの?」

「なっ、なに言ってやがる!」

 真人は急に赤くなった。

「バ、バカ言うな……いちおう、好きだ」

「いちおうって? まるで鈴みたいなこと言うね」

「ほら、アレだよ! オレってよく学食でカツ食うだろ? あれと同じくらい――いや、それより好きだ!」

「あれと同じくらいって言った!? 言わなかった!? 今!」

「言ってねぇよ!」

 理樹は、来ヶ谷とカツが秤に乗せられて均衡になっているところを想像した……。

 断じてそんなことを伝えちゃならないぞ、と思った。

 真人の生命のためにも。

「そうかそうか。うん、真人の気持ちもよくわかったよ。でも、来ヶ谷さんの前でたとえを使っちゃだめだよ?」

「え、そうなのか?」

「絶対にだめ!」

「わかりやすいんだがなぁ……」

 あまりにもわかりやすすぎてこまる……と思った。

「じゃあ、やることは一つじゃないの?」

 とっととアプローチすればいい。理樹の件はもう終わったのだから。来ヶ谷には今の自分の好きな相手を選ぶ権利がある。

「いや……なんつーか……」

 真人は校舎の壁にもたれて座った。

 理樹も、それにならって隣に座る。

 頭上には、建物に切り取られた、小さな青空が見えた。

 そうだ、もう春なのだ。

 春の季節なのだ。

「来ヶ谷は今まで理樹のことが好きで好きで、あーだこーだオレと画策してなんとかやってきたんだ。オレも純粋に、あいつの笑った顔が見てぇと思って、その後のことなんか考えてなかった。うまくいったらうまくいったで、とっととオレなんかは消えちまおうと思っていたわけだ」

 もし理樹とうまくいってたら、今ごろ真人は独りぼっちだったわけである。

「うまくいかなかったから、じゃあオレなんかどうですか、と言い寄るのは、なんか、今までのオレに嘘をついていたような気になるんだよ……」

「真人」

「わかるかな、オレの言いてぇこと」

「……うん。わかるよ……」

 難しい問題だ。

 難しい問題だ、と理樹は言った。

「自分だって、あの世界のことはもう終わったのに、まだ引きずっていたりするからね……」

 理樹は、あの世界の出来事を若干ながら覚えていて、そこで起きたことがきっかけで、来ヶ谷とは付き合えないという答えを出したばかりだった。

 来ヶ谷だけじゃない、小毬や、クドや、葉留佳や、美魚、鈴とも、今後、友達以上の関係にはならないとはっきり思い定めたのだった。

 それはつまり、以前までの自分に、嘘をつきたくないからだった。

 全員に好きだという気持ちを告げてきた――おそらく。

 ならば、全員にここで「好き」だと告げない――つまり誰ともそういうことを言い合う関係にはならない――そうすることが、今までの自分との区切りになるのではないかと、理樹は考えた。

 もっといい答えもあったかもしれない。

 みんなが満足する答えは、もっと別のものだったのかもしれない。

 だけれど、理樹はまだ大人じゃなかった。

 こんな答えが精一杯で、これ以上割り切って考えるには、まだ経験が少なすぎた。

「理樹」

「真人。僕はね、みんなのことが大好きなんだよ。恭介や謙吾たちもそうだし、鈴もそうだ。鈴や他の女の子たちもみんな魅力的だから……僕たちの間で恋仲になる人たちが出たって、なんらおかしなことじゃなかった。そして、それは僕にとってもそうなんだ」

「ああ」

「でも、僕は、みんなと一緒に恋に落ちた記憶を全部保有しているんだ。もう、だいぶ思い出せなくなってきたけれど……でもそれは真実だったんだ。だから、もしここで、たとえば鈴のことが特別好きになったとして……幸せになれる自信がまったくないんだ」

「ああ、そうだろうな」

 真人は、割り切った考えを持って、あの世界の運営に携わっていた。

 謙吾のように優しくはなかった。

 だけど、いくら救うためだとはいえ、理樹をこんなにしてしまった自分たちを、今さらながらに悔いた。

 何かに嘘をつきながら生きたくない。

 借金を背負いながらやっていきたくはない。

 そう思う人間はどこにでもいるものだ。

 理樹も真人も、そういうところがあった。

「でも、真人は真人で、決めればいいと思う」

「おう」

 真人は空を見ながらつぶやいた。

 理樹のほうは、見なかった。

「確実に好きっていう気持ちは、もうどうしようもないと思うから」

「うん」

「そうなる前に僕は思い出せたから……今こうして、こういうふうに生きてる」

 理樹は立ち上がった。

 胸に手を当てて、微笑みながら真人を見つめた。

「真人も、『ここ』に正直に生きてみて。理屈なんかじゃあないんだ。本当に好きだったら……もっとシンプルでいいはずなんだ。真人はシンプルなほうが似合ってるよ。それじゃ」

 理樹は手を振って、先に教室に戻っていった。

 その後も、しばらく真人は空を見上げていた。

 

 来ヶ谷は溜息をついていた。

 教室の窓辺である。

 そこからは混じり気のない青空が見渡せる。

 だが、常に冷静沈着な彼女に似合わず、周りに意識を配ることも忘れ、よい眺めも、彼女の心をなぐさめるには、まだ足りなかった。

(真人君……いや、あの男は)

 クラス中から、あの来ヶ谷が溜息をついている……と視線を集めているのにも気付かず、来ヶ谷はある男のことを思っていた。

(なぜああもバカなのか……)

 バカがバカたりうるバカさ加減について、哲学的考察を重ねていた。

(バカと呼ばれ始めたからバカになったのか……いや、そうではなくて、バカだったからバカと呼ばれ始めたのか……いったいどちらが先だったのか……)

 来ヶ谷の机には、あるノートがあった。

 そこに「真人少年の現存性について」という主題で一本論考がぶたれており、中に「なにゆえに真人はバカであるか」「バカという性質は何なのか」というメモが走っていた。

(とにもかくにも、やつはバカであるということだ……)

 来ヶ谷は、まるで貴婦人が手紙をしたためるがごとく優雅な手つきで、「真人少年はバカであるがゆえに真人少年である」と文章を書き込んだ。

(いったい私は何をしているか……)

 一瞬我に返って、頭を押さえる。

 気付いたら、真人、真人、真人、の文字。自分はさっきまで哲学書を読んでいたはずだが、気が散って、ノートを取り出して、思いつくままに文字を書き込んでいたのだった。

 気付いたらこうである。

 そんなことを発見するたびに、来ヶ谷は溜息をついた。

(何度目だ……これは……)

 来ヶ谷は辞典のような分厚い本にひじをつき、頬杖にした。

(全部あの男のせいだ……)

 左手で「あの男」の似顔絵を描き、ボールペンの先で突っついた。

(なぜ何も言ってこない? 不自然にも自然体を装いやがって。バカのくせにバカのくせに……)

 ノートはズタズタだ。

 来ヶ谷は新しいページをめくり、今度はより正確に真人の似顔絵を描き、ボールペンの先でそれを突き刺すということを繰り返した。

(呪ってやる、呪ってやる! むごたらしく死ぬがいい! ええい、イライラする!)

「ええい、イライラするぞ!」

 不自然な沈黙に、来ヶ谷は我に返った。

 物音がしない。

 それは、みんなが自分のことを見ているからだ。

 ふと、自分の姿を確認する。

 立ち上がって、両拳を胸元に、叫んでいる。

「ぬ……す、すまん……」

 急いで着席する。

 恥ずかしくて帰寮してしまいたいほどだ。

 今、見渡したところ、井ノ原真人の姿はなかった。

 直枝理樹もだ。

 いったい何をやっているか。

 理樹君とばかり仲良くしやがって。ホ○なんじゃないのか? ふざけやがって。

 そんなことを悶々と考えているうち、教室には元の喧噪が戻ってきた。

 ふと周りを見渡すと、教室のドアから理樹が戻ってくるところだった。こちらに気が付いて、手を振ってくる。

 来ヶ谷はちょっと残念になりながらも、微笑んで、手を振り返した。

「ねーねー、姉御。姉御ぉー!」

「なんだ、葉留佳君」

 前方から三枝葉留佳がやってきた。

「ひょっとして生理?」

「そうじゃない。私は、生理ぐらいでイライラして一人で立ち上がって大声を上げてしまうほど短気だというのか、貴様は? え、こら」

「やぁ〜ん! ぐりぐりしないでぇ〜〜!」

 拳骨ぐりぐりの刑を課した。

「だってなんか姉御不機嫌そうだったからぁぁ〜〜〜。お腹減ってるのか、生理なのか、ずっと考えてたんだけど、結局わかんなくてぇぇぇぇ〜〜〜〜〜〜。あ〜、やめてやめてやめて頭が割れるぅぅぅ〜〜〜〜」

「でかい声でわめくな! ええい、この公衆ど迷惑女め! 他人の名誉毀損を起こす前に、ここでこうして大人しくしているがいい!」

 こうして、葉留佳は来ヶ谷の胸元にすっぽりおさまった。

 今はもうぐりぐりの刑から解放され、溜息をついている。

「あ、ち、ち、ち、ち〜……はるちん、さすがに目に星が飛びましたヨ。姉御ったら容赦ないんだから」

「……すまん葉留佳君。少々イライラしていたのでね。つい本気になってやってしまった」

「およ、あれが姉御の本気だったなら一安心ですヨ。はるちんならたいてい耐えられるもん♪ 日頃からたっくさん食らってるもんね!」

「あまり自慢できるものではないと思うのだが……」

 葉留佳ぐらい日頃からお仕置きされている女子高生も全国めずらしいだろう。

 来ヶ谷は、じっと教室のドアを見つめていた。

 ふとそこに、大きな影が現れる。

 真人少年だ。

 ふと、口の中で呟いて、胸の中でなにかが湧き上がる。

 それは憎たらしさなのか、それとも別のものか。

 視線が合って、にかっと少年っぽく笑顔を送られるが、次の瞬間には来ヶ谷は別の方を向いていた。

(あんなやつ……)

 はっきりしない真人の態度にやきもきしている自分。

 そんな自分が少し……いや、かなり情けなく思う。

 だが、

「姉御、どうしたの?」

「あ、いや……何でもないのだよ。葉留佳君。さあ、もうすぐ二時間目が始まる時間だ。遅刻しないようにそろそろ戻ったほうがいいぞ」

「あ、へぇーい。姉御ありがと。それじゃっ、本当にお腹すいてたらはるちんに言ってねー。いつでも菓子パンねだりに行こうねー!」

「ええい、恥ずかしい! 私を貴様みたいなやつと一緒にするな!」

 正しくは、菓子パンを「買いに」であって、「ねだりに」ではない。

 いったいどんな生活をしているのか、甚だ疑問だった。

「あ、じゃ、かすめ取りにでもいいよ♪ これはね、早弁しているやつに有利なんだー♪」

「とっとと行ってくれ! あと私は別に空腹じゃない!」

「てへへー♪ めんごめんご♪」

 ようやく行った……。

 と、同時に、チャイムが鳴った。

(さあて……どうするか)

 

 だが……。

 だが、だ。

 正直のところ、私と真人少年との関係はどう定義されるものなのだろう。来ヶ谷は授業をまったく聞かずに、ノートにボールペンを当てて、そんなことを考えていた。

 恋人? いいや、違う。恋人などではない。

 じゃあ、友人?

 これは多く当てはまる。

 友人の要素は強いだろう。

 しかし、これじゃただの成分分析だ。

 いったい、今の真人少年との関係はなんという日本語に翻訳されるべきなのか。

 来ヶ谷は思考に思考を重ねていた。

(はぁ……)

 気が付いたら、窓を見つめて、小さく溜息をつくのである。

 そんな憂え気な仕草に、男子生徒のどれだけの好奇な視線を集めているか、本人は知るよしもない。

(無駄な思索だ……)

 重要なのは、関係を定義づけることではなくて、自分がいったいこれからどうしたいかだ。

 自分がいったいどうしたいかが不鮮明だから、来ヶ谷は意味もない関係の研究とやらに身を費やして、時間を費やし、無駄骨を折り、求めていたものを得られず、誤謬に陥っている。

(多くの恋悩む者が陥る誤謬だ……)

 は、と目を見開いた。

(恋? 恋悩む? と、いったか、私は……)

 恋悩む。

 果たしてそうなのだろうか。

(そうか……私は、恋悩んでいるのかもしれないな……)

 あの男のことを考えると、まるで躁鬱病になったかのように、感情の浮き沈みが激しくなる。

 あの男がなにか話しかけてくれば、喜びの感情が大きくなるし、同時に、バレンタインのときあれだけのことをしたのに、普段の友達同士のようなやり取りをしてくるあいつに気付くと、どんよりと黒い感情が湧き上がってきたりする。

 一時間話しかけられないと、落ち込む。

 二時間話しかけなければ、信じられなくなる。

 三時間話しかけなければ、憎みだす。

 それも、二人っきりでなければだめだ。二人っきりでない会話は換算しない。そうして一日二人っきりになれなければ、ベッドで涙を流したりする。

(そうとわかれば、次だ……)

 誰かに聞かれているわけでもない。どんどん来ヶ谷は是認していく。

(私は真人少年に恋している。だとすれば、だ。どうしたらよいか)

 振り向かせればよい。簡単なことだ。

 だが、実際にやるのでは、そう簡単なことではないような気がしてきた。

 

(……無理っぽいな)

 はやくも諦めかけていた。

 そもそも、つい一ヶ月前まで、理樹君のことをあれだけ好きだ好きだと言っておきながら、いざ振られたらじゃあ次の男へ、となるならば、いくらなんでも節操がないではないか。

 来ヶ谷は顔を伏せた。

 だが好きだ。好きだ。大好きだ。

 時をかければいいのか?

 だめだ。そんなに待てない。今すぐじゃないと。そうぐずぐずしていたら逆に嫌われてしまうかもしれない。

 あいつに好きな人がもしできたらどうする?

 あいつが私にしたみたいに、心から応援することなど、できるのか?

「できるもんか……」

 八つ裂きにしてやらなければ気が済まない。

 いや、社会的法律があるからそこまではしないだろう。だが、何かしらの嫌がらせや脅しはするだろう。来ヶ谷はそんなこと、なんら悪いことだと思っていなかった。

 こっちには大義名分があるんだ。

 いや、そんなものはないか。

 ただの自分勝手なわがままにすぎない……。

(真人君……君は、すごいんだな……)

 来ヶ谷は、真人があのとき自分のことを好いていたから、ああしてくれたもんだということを前提にしているが、この前提が崩れる場合、とほうもない、一生消え去ることのなさそうな、巨大なる憎しみが持ち上がってくるのを予感した。

(いやだ)

 ただの友達として、ああしてくれたのか。

 それとも……愛してくれていたのか。

 その違いはかなり大きい。

(絶対にいやだからな……真人君。そうじゃなければ……絶対に許さないからな……)

 すがるような視線を真人の席に送るが、そこからでは真人のことは陰になっていて見えなかった。

 どのような予感も、来ヶ谷の、窓を向いての溜息になって、大空の彼方へ溶けていくように思われた。

 だが、胸の中から完全には消えないのだ。

 よいことも悪いことも。

 ただ、お目当ての人物からの一言を待っている。

 真人も同じ事で悩んでいることなど、来ヶ谷は知るよしもなかった。

 ところがどうしたことだろう。

 次の時間には真人から話しかけられた。

「おおーい!」

 教室内だっていうのに、ばかでかい声で呼んでいる真人。

 呼びつけるとは何事だ。

 すぐに飛んで行ってみたかったが、来ヶ谷はあえて聞こえない振りをした。

 内心うきうきとしているのは確かなのだが、顔には出さない。

 そうそう、感情で何事も片付けるわけにもいくまい。

「おーい、来ヶ谷」

 来ヶ谷は古典の参考書を開いて、流し読みしている。

 真人が近付いてきて、初めて気が付いたというふうに、顔を上げる。

「……なんだ、真人少年か」

「なんだとはなんだよ。……なに読んでんだ?」

「君にはわかるまい。源氏物語の注釈だよ」

「うげっ」

 真人は特に嫌そうな顔をした。

 来ヶ谷はべつに嫌味を言ったわけでもない。ただの事実だ。

「そりゃおまえは頭がいいから別にいいとは思うが、たまにはオレにもわかる熱血格闘漫画でも読んだらどうだよ」

 大まじめな顔をしている。

「貴様こそ、私の趣味に合うように、熱烈な恋愛漫画でも読んでみたらどうかね」

「……」

「……」

「想像してみろ」

「いや、いい」

 どっちにしろシュールすぎて気味が悪かった。

「大体、何の用だ」

「いや……用、というほどのことでもないんだが、」

 とっさに赤くなって、頭をかきだす。

 来ヶ谷は真人との会話を心待ちにしていたのにも関わらず、いらいらしだしてしまう。

「用もないのに私に話しかけるほど、君には話し相手が不足しているのか」

「いやっ! 別に、そうじゃねぇけど……」

「だったら何か話題を作ってくるがいい。私を楽しませることも出来ぬのに、ただ言い寄って来られても迷惑だ」

「う、うーん……」

 腕を組んで、唸りだしてしまう。

 来ヶ谷は視線を落として、じっさいには読んでいない注釈書を眺める。

 ちょっと厳しすぎたか。

 ふと呟く。

「あ、そうだ!」

 そうだ?

「おまえ、好きな物はなんだ?」

 好きな物?

「好きな物は……ハイデカーだ」

「ハイデカー?」

 首をひねる。

「どこの刑事だ、そりゃあ。……そうかおまえ、刑事ドラマが好きだったのか……」

「貴様のようなバカはそういうと思ったよ……」

 来ヶ谷は鞄から分厚い書物を取り出した。

「今、読んでいるんだがな」

「ほう。枕にできそうだな」

「……」

 枕にするなど貴様くらいなものだ、と言いたかったが、実際にさっき自分でやってしまっていたため、来ヶ谷はただ顔を赤くするだけでなにも言わなかった。

「ん、どうした?」

「何でもない! そら、タイトルを読んでみるがいい」

「んぅーむ……どれどれ……」

 心理学主義の判断論――論理学への批判的・積極的寄与

 ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論

「……」

「……」

「来ヶ谷よ」

「なんだ」

「おまえ、本当に日本人か?」

「クツ底を食らいたいようだな、貴様は……」

「いや、だって、こんな中国人でもねぇし読めねぇだろ!」

「中国語じゃない! れっきとした日本語版だ! おまえこそいったいどこの人間だ!」

「うそぉ? えぇ……どれどれ……」

 開いて、ページをぱらぱらとめくった真人は、三秒後に居眠りを始めた。

「起きろ!」

「……はっ! 今……オレはいったいどうしたんだ? ものすごい情報量がオレの筋肉の中を通って……だめだ。その先は思い出せねぇ……」

「まったく。冗談だよ」

 こんなもののコアなファンなわけないじゃないか。来ヶ谷はそう言った。

「実はね、本当は男同士の愛の営みの描かれた漫画のファンなんだ」

「……」

「……」

 真人は、くいっ! と後ろを指差した。

 そこには理樹と恭介が仲良さそうに接近しあって話し合っていた。

 コクコク、と無言でうなずく真人。

「……」

「……待ってくれ。実は冗談なんだ……」

 なんだ、このやるせなさは。

「ったく、ちょっと焦っちまったじゃねぇかよ」

「悪い悪い」

 来ヶ谷は、ちら、と真人の顔を、期待するような眼差しで見つめる。

 真人はただ笑っている。

 来ヶ谷は、真人との会話をいつの間にか楽しんでしまっている自分に気が付いて、わずかに頬を赤くした。

 なんだろう、この気持ち。

 いつだって、そうなのだ。

 なんだか落ち着くのだ。

 焦燥とか、怒りとか、悲しみとか、そういうものを何から何まで包んでくれる、この不思議な空気。

 その不思議な空気が吸えないと、来ヶ谷は自分がいつまで経っても本当の自分にはなれず、どこか殺伐とした、孤高な自分になってしまうと感じた。

 相手とのやり取りは、必ず一歩引いてから。

 ボロは出さず、絶対に相手をよく観察してから、いいように、いいように、たとえば自分の思い通りに、相手とのうまい距離を測る。

 だが真人とは常にそういう駆け引きが利かなかった。

 一瞬にして子供の自分に戻される。

 そんな気がするのだ。

 なのに、

「あ」

 鐘が鳴る。

「やべっ。もう終わっちまった」

「用件があるなら聞くぞ」

「あ、いや……えーっと……えーっと……そんじゃまた!」

「あ、おいこら!」

 真人はなにか伝えようとしていたのだろうか。頭を振って、行ってしまう。

(用とは何だ?)

 自分たちとの間に唯一足りないもの、それは切っ掛けだった。

 来ヶ谷は以前までの関係に思い悩み、しかるべき一歩を踏み出せずにいる。

 まさか真人までそうだとは考えていなかったが、来ヶ谷はこの「谷」に「橋」さえ渡ってしまえば、何か、完成されるものがあるんじゃないかと、そんな確かな予感を抱いていた。

(まさか……)

 胸を押さえる。

 心臓は鼓動を速くしている。

 頬に触る。

 かなり熱い。

(やめよう、やめよう!)

 下手に期待して裏切られるのはいやだ。

 だったら最初から期待しない方が安全だ。

(私のような朴念仁に、そうそう運のいいことなど回ってくるものか……)

 来ヶ谷は得意の自己嫌悪に陥り、机に突っ伏す。

 しばらくしてから顔を上げると、窓の外にはまじりけのない綺麗な大空が広がっていた。

「おぉーい! 来ヶ谷―!」

 来ヶ谷は、持っていたものを慌ててポケットにしまう。

 中庭。

 花壇にはつぼみをつけた花々がならんでいる。

 もう、そういえば春だ。

 春が近いのだ。

「こんなところで何してんだ?」

「なに、瞑想していたのだよ。あるいは、思索に耽っていたと言ってもいい」

「また難しいこと言ってんな……」

 来ヶ谷は、真人との恋を「妄想」し、そのための「計略」を練っているところだった。

 ポケットには、二枚の映画チケットがある。

 最近話題となっている恋愛ものの、純情コテコテのやつである。

 最終手段だ。これはなるべく使わずに済ませてしまいたい。

 来ヶ谷は普段映画など見ないのだが、なんにせよ、何か行動を起こさなくてはいけないわけで(自分から動くのがいかに嫌だろうと)、そのために色々と、妄想をしながら、シミュレーションしていたわけだ。

 来ヶ谷は苦悩した。

 いきなり弁当を作ってきてやるのもなんだかアピールが強すぎるし……。

 かといって、お菓子なども喜んでくれそうにない。

 プロテインをプレゼントした暁には自分までバカになったと評判になって、変態バカップル誕生である。

 それだけは避けたい。

 いかんともしがたい中で、来ヶ谷がなんとか無難な形で思いついたのが、映画だった。

 だが避けたい。

 自分からこれを出す、というのは避けたい。

 とっとと何か切り出せバカ、と思っていた矢先だった。

「あ、あのよ……」

「?」

 なんだか言わんとしている。

 巨体が赤くなっていると、なんだか今にも破裂しそうで、にわかに恐怖を感じる。

「今週末、暇か?」

「ふむ」

 来ヶ谷は背中で手を組み、そぞろ歩きをした。

「私は猛烈に忙しい」

 真人が猛烈にがっかりした表情になった。

「なんだ? なにがあんだ? おまえ、いつも暇そうにしてるじゃねぇか」

「貴様は今女子に言ってはならんことを言ったぞ……」

「え、あ、す、すまん! ……だがよ。おまえっていつも、机に肘ついて、こうやってぼうっとしているじゃねぇか」

「休みの日までそんなことしているものか! あとそれはぼうっとしているのではなくて思索しているだけだ!」

「しさくしさくってよぉ……いったい何を考えてんだ?」

 来ヶ谷はたじろぐ。

「ム……それは、重要な研究だ」

「重要な研究?」

「そうだ。研究だ」

「内容を聞いていいか?」

「貴様は私の親か? 研究は秘密にされるべきものだ。研究が重要であるべきものほどな」

「内緒、ってことかよ」

 みるからにがっかりしている。

 すこし、可哀想になった。

「……なんなら、教えてやらんでもない」

「ほんとか!?」

「だが……それは研究が成就した暁には、だ。それまでは口にする気はない」

「オッケー! いつでも待ってるぜ!」

 来ヶ谷は溜息をついた。

 いったいいつになることやら。

「休みの日は、主に、小毬君や葉留佳君たちと過ごしている」

「それ、忙しいのか?」

「私は休日でも多忙なのだ」

 真人は、腕を組んでなにやら考えているようだった。

「……肉体の鍛錬か?」

「……え、おい。私が小毬君や葉留佳君と肉体の訓練に一日励んでいて、そんな光景が美しいか? 貴様。目が腐っているのではないか?」

「そこまで言う!」

「肉体の訓練など貴様と謙吾少年くらいだろうが。私は休日の過ごし方の詳細をここで明らかにするつもりはない。どのみち多忙なのだ。残念だな」

 来ヶ谷は、引っかけてみた。

 ここで食らいついてこないようだったら、見下げ果てたものだ。

 自分のあり方を変える必要がある。

 もうちょっと、「真人」の研究を進めていく必要がある。

「……そいつは、しかたねぇな」

 え。

「邪魔して悪かった。また今度にすっからよ。じゃ、な」

 え、ええ。

「……ふむ。君はいったいどういうことを私に言わんとしていたのかね」

 にわかに汗が流れる。

 そこはもっと私に信じさせろ! この馬鹿者が! と来ヶ谷は心で叫ぶ。

「え? いやぁ……たまにはよ、学祭中一緒にいろいろやった仲だし、世話になった分も含めて、遊びに連れてこうと思ったんだけどよ。ちょっとお前の興味を惹くレベルにゃいたってねぇみてぇだ。もっかい練り直してくるわ」

「ま、待て! 言え! 言うがいい! 聞いてやらんこともない。それは一体なんだ?」

「お前が忙しいのを邪魔するほどのことでもなかったよ。もうちょい楽しいこと考えてくっかんな。それまで聞かなかったことにしてくれ。じゃあな!」

「待て、待ってくれ、真人君! 聞かせてくれぇぇ――――っ!」

 真人は、去っていった。

(やべえ、やべえ……)

 真人は走りながら頭を振っていた。

(一緒に、トレーニングジムに行かねぇか、なんて言わなくてよかったぜ……言ってたら確実にキレられてたな……なるほどな、女子は筋トレに興味がないのか……不思議な生き物だ……だが、そういうもんなんだろう)

 真人はごしごしと頭を撫でた。

(くそっ! 温水プールもあって、水着も見られること確実だったのに……あ、馬鹿野郎! オレは今なにを考えた! そんなことになったって嬉しいのはオレだけじゃないか! 消え去れ、煩悩! 色即是空、空即是色……)

 真人は自分の頭に拳骨を食らわせながら行ったので、教室にたどり着いたときにはフラフラで、理樹におそろしく心配された。

(またやってしまったか……)

 そうしてこの人が落ち込むのもお馴染みである。

(せっかくのチャンスだっただろうが! なぜに私はあいつの顔を見ると意地悪をしたくなるのだろう……好きではないのか? いや、断じて嫌いなどではない。むしろ、積極的な好意を抱いている……)

 どんどん落ち込んでいく。

(積極的と言ったか、貴様? どの口がそれを言う……消極的なことにかけて、私の右に出る者はおるまい……何だか自分が嫌になってきた。……多忙だと? 休日だと?)

 深い、深い、一歳も歳を取ってしまうような溜息を吐いた。

(葉留佳君たちにお茶に誘われているだけではないか……むろん、いつでも何でも理由をつけて断れる。もちろん残念がられるだろうが、私にとっての一大事。彼女らにも恋人ができたときに許してやるという代わりに、今回は勘弁してもらおうという算段だった……)

 ぐぬぬ、と握り拳を作る。

(この見栄っぱりめが……ドジで間抜け! それに小心者で阿呆ときている……最低だ。最低な女だ)

 泣き笑いが起こってくる。

(ああ、だめだ、なんだかもうわけがわからん……)

 すっかり泣いて、その日の午後の授業は全部サボタージュした。

 

 

 翌日。

 体調をみなに心配されたが、適当にあしらう。

 土曜日だったので午前中で授業が終わる。

 午後こそが行動するタイミングである。

 来ヶ谷はポケットから二枚のチケットを出して、机に並べた。

(最後のチャンスだろうな……)

 ここでやっぱり誘えないと、キスをしてから一ヶ月経過したことになる。結局あれは何でもなかったことになる。

 また新しく一から始めなければなるまい。

 そうしてそんな頃には来学年のクラス替えが待っている。

 今しかチャンスはない。

 この際、デートに誘ってしまおうか。

 ぶっちゃけてしまおうか。

 来ヶ谷は誘惑に駆られる。

 では、どうやって切り出そうか?

 多忙などと、あのとき言うべきじゃなかったと、来ヶ谷はとても後悔した。

(もう仕方ない! チケットの期限ももう迫ってるし、言い訳はなんとでもつく! 取りあえず渡してしまえ!)

 来ヶ谷は立ち上がった。

 見渡すが、真人はいない。

 いったいどこに行ったのだ?

 にしても、いったいどうやって渡そう……来ヶ谷は胸に手を当てながら、真人のことを探しに出かけた。

(う〜ん。こいつを、どうやって渡すかだよな……)

 真人は屋上で二枚のチケットを睨んで、うなっていた。

(問題は、だ。三枝だ。恭介だ。そんで謙吾の野郎だ)

 知られたくないランキングを頭の中でリストアップする。

 葉留佳は、校内に事実を広めるおそれのあるため。

 恭介は、友人を想うあまり、なにもかもぶち壊しにするおそれのあるため。

 謙吾は……言うまでもない、犬猿の仲だからだ。

(こいつらがいねぇタイミングを見計らって……まあ、なんとかうまくいくかな。理樹と小毬なら事情を知ってるし、うまく邪魔してくれっかな)

 理樹と小毬に、この映画のチケットを勧めてもらったのである。

 なんとまあこの映画を見て、カップル成立した男女が非常に多いのだとかなんとかうんぬんかんぬん。

 真人は映画を全くと言っていいほど見なかったが(だがジャッキー・チェンとブルース・リーのファンではある)、初デートは映画だというのはよく聞く話ではあるし、無難なラインではある。

 しかし、真人にとっては苦行である。恋愛ものといっては、眠たくなるもの必定だ。

 だがこれも試練だろう。肉体だけでなくたまには精神も養えというお天道様からのお達しだ。

 よし。

 真人は立ち上がった。

(なんて言いながら渡すかな……)

 真人はシミュレーションを始める。

 よう、ちょっと付き合ってくれよ!

(いや、爽やかすぎてオレのキャラに合うか……? これは恭介のキャラだろうなぁ……)

 愛を……語り合おう。

(これは謙吾だ!)

 いいから付いてこい!

(男らしいが、これだときっと誤解されるな)

 あなたと……行きたいんです。

(男らしくない!)

 映画に……行かねぇか。

(渋すぎるよなぁ……)

 あー、もうめんどくせぇ! と真人は頭を振った。

(適当に言って渡しちまえばいいんだ! ほれ、映画に行こう! これだけでいいんだ! あとはもうなるようになれだ!)

 真人は教室までたどり着いたが、そこには来ヶ谷の姿はなかった。

「あれ?」

 理樹たちは食事も済んで、それぞれ思い思いの時間を過ごしている。多くのメンバーは出かけているようだ。

「理樹? ちょっと、あいつがどこに行ったか知らねぇか?」

「来ヶ谷さんのこと? ……あれ? おかしいな。さっきまで席にいたはずなんだけど」

「ム……」

 どこに行った?

 一緒にタロット占いをしていたクドにも訪ねたが、行方は知れなかった。

「しかたねぇ、探しに行くか」

「いよいよですかっ」

 クドが目をキラキラとさせていく。

「いよいよ、じゃねーよ。おまえは何を期待してんだよ」

「それは、女の子の事情ですっ」

「そうたいしたことにはならねぇから、期待すんじゃねぇぞ」

「あれ、そうなのですか……」

「あと、オレが来ヶ谷のこと捜してたことは誰にも言うなよ! いいか、絶対だぞ!」

「やっぱりそうですっ!」

「だから違うっちゅーに!」

 真人は教室から逃れ出た。ここで言い争っていても、本人は戻ってくるわけでもない。

 それよりかあの恭介がやって来る可能性もある。葉留佳もだ。そうしたら色々とまずい。

「ちょっくら捜してくるが、いいか、来ヶ谷が来ても特に何も言う必要はねぇかんな! 適当に話しとけ!」

「はいです! ちゃんと井ノ原さんが捜してたって言っとくですっ!」

「だからちげぇ――――!」

「真人、行ってらっしゃい」

 理樹とクドはのんびり傍観する構えのようだ。真人は「ぜってぇ違うからな!」と喚き立てながら、走り出した。

(……えぇーっと、あいつが行きそうな場所は……)

 裏庭だ。

 来ヶ谷だけが知っている、秘密のスポットがある。あそこで本を開いたり、お茶を飲んだりするのが来ヶ谷は大好きだった。

 きっと今もそこにいることだろう。

 真人は自慢の脚力でぐんぐん駆けていった。

(いったいどこにいるのだ?)

 来ヶ谷はやるせない想いにむしゃくしゃしていた。

(あのバカ……この私が、こうまでして、こんなに勇気を出して、あんなことやらこんなことやらを考えながら、捜してやっているというのに、ほっぽっといて、どういうつもりだ? チケットをぶつけてやろうか? ……いや、石を? 出会い頭に石をぶつけてやろうか?)

 だがそうなるとデートうんぬんの話は無へと消えていくことは火を見るより明らかだった。

(ではもう少しスマートに、飛び膝蹴りでもしてやるか……ん?)

 黒い巨体が見えた。

 熊だ。

 いや、熊じゃない。

 お目当ての人物だった。真人が、向こうから走ってくる。

 これは運命が引き寄せたのではなかろうか。来ヶ谷は真人の姿を見るなりすっかり前までの怒りなどは忘れてしまった。ただただまた会えたことが嬉しく、こうして自分に対して向かってきてくれる姿がとても眩しかった。

 よし、今だ。

 渡してしまおう。

 出会い頭に渡すんだ。

 有無を言わさずに。言い訳など適当でいい。

 それで全て伝わるはずなのだ。

「真人君――」

「来ヶ谷――」

 だが、その行き先は、ある無情な手によって遮られた。

「あ、姉御―! こんなところに居たんだ? ねーねー姉御ぉー!」

「はっ、葉留佳君!?」

 なんて間の悪い! 脈絡すらも飛び越えて、一気に間の悪い女子に成長したかこの娘は! と心の中で驚嘆した。

「料理部が新しいデザート作ったんだってー。ねーねー見に行ってみようよ! 女子、必見ですヨ!」

「え、あ、ちょっと――」

「クー公とこまりちゃん、鈴ちゃんも一緒ですヨ! ほらほらみんなもう待ってるんですから姉御もはやく!」

「あ、いや、だから――私には――お、おい! 真人君!」

「ほえ? 真人君? どこにもいないよ?」

 葉留佳は振り返るが、真人の姿は忽然と消えていた。

 葉留佳には見えなかったのだが、真人は葉留佳が一瞬見えた隙に、獣のごとく素早い動きで茂みに隠れたのだった。

「あ、あれ? そんな馬鹿な。今さっき、確かに――」

「もー。あんな筋肉ダルマより今はお菓子ですヨ。おっかし〜おっかし〜。あーおかしいなー!」

「あ、いやだ! 離したまえ! 私はお菓子よりももっと重要な――」

 来ヶ谷が引きずられていくのを、真人は歯ぎしりしながら見守っていた。

(ちっくしょー……)

 姿が見えなくなるのを見計らって、茂みを出る。

(とっさに隠れちまったが……見つからないでよかったな)

 チケットを見つめながら、真人は悔しげに唇を噛む。

(今日中に渡せんのかな。これ)

 期限が近くに迫っていた。

 明日の日曜日に行けないと、必然的にキャンセルになってしまう。

 真人はあまり事情に詳しくなかったので、そういうチケットを取ってしまったのだ。

(とにかく追いかけねぇと……)

 そう思った矢先、遠くから聞き慣れた声が聞こえた。

「おおーい! 真人! 野球の練習やろうぜー!」

(ここにも間の悪い男がいたー!)

 恭介が満面の笑みで手を振っていた。

 来ヶ谷は、料理部が作ったフルーツパフェを食べていても一向に気が晴れなかった。

 あともうちょっとだったのに……。

 それに、見る限り、向こうもこちらを求めているふうであった。

 なぜに私はこんなところでデザートなどをもりもり食べているのであろうか?

「はい、姉御! あーん!」

「よすがいい! 葉留佳君!」

 葉留佳にどんどんスプーンで盛ってこられる。

 味が違うから、分けっこしようというのだ。

 普段だったら、よしよし可愛いやつ、私に君自身を食べさせておくれ……などと耳元に囁くのだったが、今はそんなふざけた冗談を言う気持ちにすらなれない。一緒に試食している鈴や小毬にも心配される有り様だった。

「くるがやは、やっぱりまだ風邪気味なんじゃないか?」

 事情を知らない鈴はただ心配そうにしている。

「そうだね〜。はるちゃん、ゆいちゃんをちょっと休ませてあげよ?」

「え〜。も〜、ぶ〜ぶ〜」

 ぶーたれた葉留佳はこんな日でもなければ可愛くて抱き締めてやりたいほどだったが、今はとにかくここからどうやって脱出するかに意識が全力で集中していた。

 仮病案は確かにいい。

「そうだな……。いや、」

 いや、だが待て。

 これから暇なこの連中は、来ヶ谷が気分が悪いなどと言い出すと、保健室まで連行して看病するなどと言いかねない。あげくの果てには明日まで監視付きの生活を強いられる可能性も出てくる。

 それくらいの行動をするポテンシャルは……こいつらには確かにある!

「いやっ! 大丈夫なのだコマリマックス! ただ……」

「ただ?」

 来ヶ谷はとっさに答えた。

「ただ、知人を待たせてしまっているのでな……」

「ほえ? それって真人君のこと?」

 とっさに答えたため、とてもまずい答えをしてしまった。

『えーっ!』

 と、葉留佳以外は驚愕する。

 小毬とクドは事情を知っているため、

「そ、そうなんだ! ふーん! それじゃあ、なるべく待たせてあげないで行ってあげて!」

「そ、そうです! (はぁぁぁ〜……来ヶ谷さんはまだ井ノ原さんと話をしていなかったのです! これはまずいです!) 今すぐ行ってあげたほうがいいと思うのです!」

 と、あたふたとしながら来ヶ谷を急かす有り様だった。

 それはおおいに来ヶ谷にとって助かったものだったが、

「あいつ、さっきバカ兄貴とキャッチボールしてたぞ。野球の練習してるんじゃないのか?」

 鈴がとっさにこう言う。

「あ、そういえば姉御。恭介くんからメールで、『野球の練習するぞ』って来てますぜ。自由参加でいいそうですけど、よかったらそこで真人君に用事を言ったら?」

「それがいいな。あいつにそこを動かんようにメールを打っておこう」

 そう言って鈴は携帯電話を取り出した。

 まずい。

 とてもまずいことになった。

 全員が見ている前で、真人をデートに誘うはめになる。

 全員が見ている前で、はい、どうぞ、来ヶ谷さん。いったいどんな用事が? と監視される運命に遭っては憤死するでも足りない屈辱を味わうだろう。

 野球の練習が終わった後では、必ず一人誰か、リトルバスターズの面々には付く……。真人だと大体恭介か理樹だ……。

 最悪だ。

 どこかで手を打たねばならんようだぞ……。と思いながら、来ヶ谷はたいして味もわからないデザートを食べ出した。

 

 真人は恭介とキャッチボールばかりやっている。

 雑談を交えながらの、ウォーミングアップだ。

 ただメンバーがまだ二人しかいないため、ウォーミングアップだけで終わりそうな気配だ。

「こいつはどうにもならねぇな」

 恭介が怒ったように言った。

「メールを送信したのに、まだ真人以外の誰一人とも現れないとは、こりゃどういうことだ? リトルバスターズの結束力とはこんなものだったのか?」

 案外こういうものだ、と真人は内心思っていた。

「ひゅうう……しびれるぜ。これで並み居る強豪を倒していくチームになっていこうってんだからな……」

 恭介は決然とした目をしている。

「俺はまず、こうした不良集団を啓蒙していくことから始めなければいけないらしいな」

「いや、っていうかお前が一番不良だろ。就活はどうした?」

「まずは、そうだな、理樹だな。一人一人一話ずつ用意されるべきだ。チームメートそれぞれの心の問題を解消してやらなきゃな」

「こいつ、話を聞いてない!」

「理樹の心の問題たぁ、なんだろな」

「おい、そんなものはどうでもいいから、オレをはやく解放しろ」

「やっぱあれかな、女の体を持ったのに、男として家族に認知されちまったところから心の闇が生まれたんじゃないかな」

「こいつ……やばい……マジでやばい……」

「心の抑圧を解放させよう。本来の自分を取り戻させるんだ。真人、協力してくれるな?」

「断る!」

「リトルバスターズのためだ! 野球のためだぞ! チーム・フォア・ワン、ワン・フォア・チーム!」

「目的の正体はおまえの私欲だろうがっ!」

「おいおいおい……想像してみてくれ。決して俺の独り善がりじゃないってことがわかるはずだ……おっと鼻血が」

「変態だー!」

「待てっ、真人!」

 真人は駆けだした。

 いい機会だ。もうあんな変態と二人っきりなんてまっぴらだ。これを口実に野球をばっくれよう。

 真人は追いかけてくる恭介に向かって言った。

「おい恭介! オレは他のメンバーを呼んでくる! 呼んできた後で、そいつをじっくり聞かせろ!」

「お? ああ、そうだな! 真人にしては、わかってるじゃないか!」

 わかりすぎて困るぐらいだ。真人はにわかにリトルバスターズ崩壊の危機を感じた。

 とにもかくにも、まんまと恭介の手から逃げおおせた真人は、グラウンドから出て、中庭に向かって走っていた。

 来ヶ谷がいるのは料理部――調理実習室に違いない。調理実習室に行くには、中庭から靴を脱いで実習棟に入ればいい。

「おっ……と、」

 中庭の芝生の中に見知った顔がいた。

「あ。おおーーい! 真人!」

「げげっ!」

 謙吾だ。

 バカヅラしたバカがバカなジャンパーを着て手を振っている。

 その隣にはちょこんと座り込む西園美魚がいる。

 こうしてみれば、絵になる二人だ。一方が黙ってさえいれば。

「そんなに突っ走って、どうした? 真人。うららかな日和じゃないか。こうしてここで弁当を食うのもうまいぞ」

「そうか……おまえ、今弁当食ってんのか」

「うむ。部活でな」

「偶然ご一緒しました」

 謙吾は部のミーティングがあったため、昼食が遅れたのだ。

 教室には誰もおらず、一人で気持ちよく弁当を食える場所を探していたら、西園と出会ったのだという。

「これから西園が茶をご馳走してくれるそうだ。おまえもどうだ、たまには」

「ご遠慮するぜ……」

「なんだ? そんな切羽詰まった顔をして。便秘か?」

「宮沢さん。いやらしいです」

「はっはっは! なにをいうか! 男とはいやらしいものだ! 今に始まったことではない!」

 この男のバカさ加減についていけないのか、美魚は横を向いて溜息をついている。

「オレはちと用事があるんで、それじゃ!」

「待て待て。おまえが今ごろそんなに突っ走っているってことは、捜し人だろう。どれ、いったい誰を捜しているんだ?」

「A子さんだよ!」

「まじめに答えろ」

「言えるわきゃねぇだろ! 察しろ!」

「A子さんでいったいどこまで察しろというのだ?」

「女性、ということではないでしょうか」

「ふむ。女性、というか。まあ、男にしろ女にしろ、走り回っても見つかると限ったものじゃない。ここは、俺の隣に座って、休んでいくがいい」

 まずいことになった。

 謙吾はこう言うと聞かない男だ。気分が悪い時は徹底的に無関心になる男だが、気分がいい時は徹底的にうざったくなるのがこの宮沢謙吾という男。大迷惑な男だ。

 真人が拒否すれば喧嘩になるだろう。

 適当に付き合って、その後で捜したほうが賢明だと真人は考えた。

「一分間だけだぜ……」

 真人はどっかりと座った。

 すると、謙吾が驚いた顔をしていた。

「んだよ」

「いや、貴様がそんなに物わかりがいいとはな。いつもだったら、わけのわからんことを言いだして、俺と喧嘩になるところを……」

「変な風の吹き回しだろ」

「それは自分で言う言葉ではないのだが……まあ、変わった風が吹いた、ということだろう。やはりいい天気というのはいいな! 近頃寒かったが、こうして温かくなった!」

 こいつの脳はいつでも春だった気がしたがな、と真人は思った。

「どうぞ。ほうじ茶です」

「ん、あ、ああ。わりぃ。いただくぜ」

「どうぞ」

 美魚から水筒のコップに香ばしいほうじ茶を注がれて、手渡される。

 それを一口飲むと、なんだか、心が落ち着いていく気がした。

 自分が今までいったいどれだけ焦っていたか、初めて気が付いて、真人はびっくりしたほどだ。

 冷静になるというのは、こういうことだったのか。

「うめぇな」

「おそまつさまです」

「これ、自分で作ってんのか?」

「実家にいる母からパックで送られてきたのです。私はお茶が好きなので。近頃は寒くてここに来ることもできませんでしたが、ようやくここでお茶と読書を楽しむことができるようになりました」

 眩しそうに目を細めて、美魚はかすかに笑う。

 謙吾もそんな様子を見て、穏やかな顔になった。

「西園のことも少しは察してやれ」

「ん?」

 こっそり謙吾は真人に言う。

「ようやく『自分の場所』に来ることができたんだ」

「んん……そうだな」

 真人は頭をかいた。

 頭の中ではたえず、来ヶ谷のことと、渡すべきチケットのことを考えていたが、美魚のことを邪魔したくないという気持ちも湧いてきた。今ここで荒々しく去っていったら、なにかをぶち壊してしまう、そんな気がした。

「よかったよな」

「ああ、そうだな」

 美魚はめずらしいくらいに眩しげな微笑みを浮かべているので、そんな顔を見られただけでも、真人と謙吾はここに座った意味はあるというものだった。

「西園は何読んでんだ?」

「E・ブロンテの『ワザリング・ハイツ』です」

「面白いか?」

「素晴らしいです」

「どんな感じで素晴らしいんだ?」

「こら真人。もう少し質問の仕方を考えろ」

「いいですよ宮沢さん。……そうですね。こう、なんといいますか、暗い、暗い、ねっとりとした愛といいますか、暴虐と残酷の果てにある、狂気と激烈な愛が渾然一体と溶け合っている様が……」

 美魚はうっとりと頬を染めて、微笑んだ。

「最高です♪」

 謙吾と真人は顔を見合わせる。

「貴様には少し難しそうだな?」

「あ? てめぇ喧嘩売ってんのか? オレは少し楽しそうだと思ったぜ」

 啖呵を切ったが、嘘だった。

「ほう。どこがどう面白そうだったのか、言ってみろ」

「……ほ、ほほう。言ってやってもいいけどよ、まずはお前の感想も聞きてぇな。さすがに頭の『いい』謙吾様なら、オレよりまともな感想を言えるんだろうな」

「ふん。俺はまだ読んでいないので、たいした感想も言えんな」

 どうだ、とほくそ笑む謙吾である。とっちめてやりたい気持ちを抑えた真人を褒めてやってほしい。

「そうだなぁ……暴虐と残酷、っていうところに、ちょっぴり惹かれたぜ」

「正気か、貴様?」

「ああ。どこぞの誰かさんにしてやりてぇことに、ぴったりだと思ってよう……」

「確かにぴったりだ」

「お前にな」

「貴様にな」

 ぱしんっ! という音がした。

 殴りかかった音ではなく……西園がその分厚い本を勢いよく閉じた音だ。

 無言の圧力に、バカ二人は気圧される。

「井ノ原さんは、どういったご本が好きですか?」

 打って変わって、太陽のような眩しい微笑みになったので、真人はあたふたしてしまう。

「え、えっと、バトルものとかかな」

「ほう。バトルものですか」

 ものすごい威圧感を感じる。

 美魚は溜息を一つつくと、威圧感は終わった気がした。

「井ノ原さんらしいですね」

「バトルものなど、文学のジャンルにあるものなのか?」

「数は少ないですが……なくもありません」

「ほんとか?」

 真人は打って変わって嬉しくなった。

 それならちょっとは読んでみてもよさそうだ。

「『三國志』……というものをご存知でしょうか」

「ああ。前に恭介と鈴がゲームでやっていたな」

「あのもの凄い複雑なゲームだな……俺は一応物語としては知っている」

「『三國志』は歴史物ですが、もとは正史三國志という歴史書から様々な民話・伝説を取り入れて作成された創作物語です。その内容も、国の興亡から、英雄の生き様、恋愛から権謀術数までと幅広いものがあります。やはりその中でも特に際だっているのが、英雄たちの戦いぶりです」

 美魚はまるでそこに本があるかのように、すらすらと諳んじて見せた。

「時は三国時代。後漢の朝廷は悪逆な宦官どもに支配され、急速に国力を弱めておりました……そのときに当時力を持っていた数々の群雄たちが国を思って立ち上がるのです」

 美魚は熱弁を振るう。

「めざましい働きをしたのが、まず曹操。次に南の虎・孫堅。そうして三國志の主人公格ともいえる、徳の将軍・劉備です」

 美魚がこれまで熱心に語るのもめずらしい。真人と謙吾は気圧される。

「劉備には一騎当千の猛将といわれる二人の兄弟がおりました……その名も、関羽! 張飛! 兄弟といえども本当の兄弟ではないのですが……関羽と張飛は、劉備の人柄に惚れ込んで、臣下となることを誓うのです」

 美魚の熱弁は止まらない。

「この三人の愛じょ……もとい、友情が素晴らしいのです♪」

 嬉しそうだ。

 謙吾が目配せしてきた。

 いやな予感がする。気をつけろ、とのことだ。

 わかっている。いつでも逃げられる準備だな。オーケー。

 視線で語り合う二人。こんなことができるのもこの二人くらいだろう。

「劉備は戦で曹操に大敗した際……拠点に残しておいた関羽を捕虜に取られます。関羽は劉備の妻たちの護衛の任に当たっていたので、逃げることができなかったのです。曹操は男らしくも、素直に関羽の勇猛と義侠心を褒めたたえます。捕虜としてではなく、客将として迎えることにするのです。客将として迎え入れられた関羽は、曹操から、自分の配下になれば、今の境遇よりもずっといい思いをさせてやると何度も誘われましたが、結局心を動かしませんでした。群雄の一人、袁紹との戦いの時も、向こうの主将の顔良を一息で斬り殺して、それを手みやげに曹操の下を辞し、劉備のところへ帰っています。この関羽と劉備の愛情は、切っても切れないものだったのです!」

 頬を赤く染めた西園に、肩を掴まれて動揺する二人。

「どう思われますか、お二人とも!」

「いや、どうと言われても!」

「素直にいいやつだなとしか思えんぞ!」

「そうでしょう、そうですよね……」

 美魚はうっとりとした表情のまま語り続ける。

「私はこう思います。リトルバスターズの皆さんにそっくりです。そっくりというのは、雰囲気のことです。たとえば関羽は宮沢さん……張飛は井ノ原さんです。これは美しさの点からいっても、関羽のほうが上だったと言われているからです。しかし、張飛には優しさがありました! 荒っぽいながらも、兄弟のことを『愛する』――」

 今の、愛する、に力を込めた。

「――『愛する』、素晴らしい人間だったのです!」

「へ、へぇぇ……」

「ほ、ほう……そうだったのか……」

「はい♪ そうして、劉備は直枝さんです。内政と軍略の天才と謳われた、諸葛亮孔明は間違いなく恭介さんで決まりです! はぁぁ……この四名で三國志の劇をやったらと想像したことは何度あったことでしょう! 必ずラブ――いえ、間違えました――男らしい、女性受けするラブストーリーができたに違いありません!」

「おや、おかしいな……今までのどこに女性受けするラブストーリーの要素があったのだろうか……」

「西園、隠し切れてないぞ!」

 かいま見えている何かがあった。

 それは恐ろしいオーラとなって、西園の、背中のほうから、しゅうしゅう湯気を立てて空気をすっかり息苦しいものにしているような気がした。

「なんだかいやな予感がするぞ……」

「いや、これは予感というものではない、悪寒だ!」

「んふふふふ……どうしましたか? お二方。あっ、大丈夫です」

「なにがだ?」

 二人は同時に叫んでいた。

「三國志の見所は劉備たちだけではありません……孫策亡き後の、幼い孫権を支える周瑜の優しさ、いえ、愛情の物語がまた惚れ惚れとさせるのです♪ ドキドキしちゃいます♪」

「へぇ……ドキドキ……」

「オレもドキドキしてきやがったぜ……」

「奇遇だな。真人。俺もそうだ」

「おわかりですかっ!」

「ひぃぃぃぃっ!」

 いきなり肩を掴まれる。美魚の目が非常に怖かった。

 文学とは、ここまで人を変えるものなのか。

「わかっていただけるなんて……私は今、感激しています!」

「へぇぇ……そう……あっ、ちょっと用事が」

「待ってください、井ノ原さん!」

「ぐえっ」

 ものすごい力で肩を引っ張られる。

 西園の細い腕のどこにこんなパワーが?

「あの……同志、って呼んでもいいですか……?」

「だが断る!」

 真人は無理矢理立ち上がった。

「どうしてですかっ! あ、井ノ原さんと宮沢さんがそういうのがお好きでしたら、もっとオススメするべきものがあります。井原西鶴といった江戸の人が書いた、『好色一代男』という――」

「逃げろ真人! 悪寒が計り知れんとこまで来た!」

「オレはグラウンドへ逃げる! 謙吾、おまえは西園を頼む!」

「――っておまえは一人で逃げる気かぁぁぁ――っ! 絶対に逃がさんぞ! お前を餌に俺一人で逃げてやる!」

「させるかこのヤロー! くたばりやがれっ!」

「ああ、待ってくださいっ! まだオススメしたいものがあるのです! 是非あれを読んでください! あれも、これも、全部オススメです!」

「西園、頼むから、そんな恍惚とした顔で追っかけてこないでくれっ!」

「ぬううっ……速い!?」

 美魚の脚力は今までにないほどだった。

 真人は、謙吾を囮にするため、校舎の角を曲がったところで振り返りざまに回し蹴りを叩き込んだ。

 謙吾はすかさず回避するが、無理な避け方になり、地面に吹っ飛ばされてしまう。

「ぐぬうっ、おのれ真人!」

「捕まえました! 宮沢さん!」

「ぎゃぁぁぁぁぁ――――っ! お願いだ真人っ! 助けてくれぇぇっ!」

 真人は首を横に振り、哀愁ただよう眼差しを送った。

「あばよ、謙吾……楽しかったぜ。おまえとの日々は……」

「真人ぉぉぉ――――!」

「頼むから成仏してくれえっ!」

 真人は振り返らなかった。

 決して振り返らなかった。

 謙吾の悲鳴が、何度も真人の心を引き留めたが、決して後ろは振り向かなかった。

 謙吾との日々を、真人は思い出していた。

 あんなこともしたっけ、こんなこともしたっけ……。

「おっと、メールだ」

 真人は携帯を取りだす。

「鈴からか。『くるがやが話したいことがあるそうだ。いまからそっちへ一緒に行く。グラウンドを離れるな』……か。いよっしゃ!」

 ついに来た!

 ようやく自分はあいつをデートに誘うことができるのだ!

 長かった……。いろいろあったが(謙吾のことは最大速で忘却中……)これにてめでたしめでたしだ!

 バカの真人はなんらその後の展開を予想することなく、グラウンドに駆けていった。

(ほんとにいたー!)

 来ヶ谷は驚愕した。

 後悔やら、どうしたらいいのかわからない不安な気持ちが交錯している。

(まさか……本当に真人君は、こんな大勢の目の前で、私をデートに誘う気なのか……?)

 来ヶ谷はなるべく真人の方を見ないようにした。

 頬の火照りがどうしようもないほどになっている。

 胸が苦しい。

 心臓が張りすぎて痛いくらいだ。

(そうなのか……みんなに知れ渡ってもいいというのだな……男らしいな、君は……それなら私も安心して身を任せることができそうだ)

 来ヶ谷は、ここで真人が正直に話してくれるのだったら、照れずに全て受け入れようと心に決めた。

 みんなの前というのが少々照れくさいが、それでも勇気を出して、自分との仲を恥じない男を、尊敬できるだろうと思えるのだった。

 

(し、しまったぁぁ――――っ!)

 真人は苦悩していた。

 鈴が来ヶ谷一人を連れてくるのかと思っていたら、葉留佳やクド、小毬、理樹まで連れてきた!

 そこに恭介が待っていたかのように笑って「おまえらよく来た!」などと言っている。

 そうか! 野球の練習があったのだ!

 鈴はそこに来ヶ谷を連れていこうとして、ついでに自分との話を来ヶ谷にさせればいいと思ったに違いない!

 とんだ予測違いだ。

 真人は胸に手を当てて考えた。

(落ち着け、オレ……落ち着け、オレ……)

 深呼吸を何度もして、改めて、周りを見渡す。

 公開処刑ともいえる観衆。

(無理だぁ――――っ!)

 真人は頭を抱えた。

「おい真人。なんだかくるがやがお前に伝えたいことがあるらしいぞ」

 ちょこんとちっちゃい(あくまで来ヶ谷と比べれば、だが)鈴が目の前にやって来る。

「おいくるがや! 真人、聞いてやるって言ってるぞ!」

「言ってねぇよボケ!」

「なんだ、違うのか?」

「いや、別にそういうわけじゃねぇけど……」

「はっきりしないな。おおーい、くるがや!」

 だから呼ぶなっての! 注目が集まるだろうが! 

 真人はとうとつに旧友に殺意が湧いたのを感じた。

「くるがやもなんか来ないな。おまえ、嫌われたんじゃないのか?」

「誰のせいだよ……」

「ん? なんか言ったか?」

「いいえ何でもありませんよー……」

 呟きは聞こえなかったようだ。

 事情をさっぱり理解していない恭介は、大きな声で

「じゃあさっそく練習を始めよう! まずはランニングからだ! 元気出して行こうぜ!」

「ちょっ、ちょーい! 恭介君! たんまたんま! 熱くなるのはわかるけど、どうやら姉御がまず真人君に言いたいことがあるそうです!」

「なに? そうか。それなら早く済ませてくれよな! 俺はもう嬉しくって嬉しくって飛び上がりたいくらいなんだからさ!」

 恭介は気持ち悪いぐらいのはしゃぎようだった。

 来ヶ谷に視線が集まるが、来ヶ谷はいつものはっきりした態度はどこへ行ったやら、頬を赤くして、小声で「こら葉留佳君!」と囁いたりしている。

「ん、どうした? さあ早く言ってしまえ! 俺の、この野球熱がバンド熱に移り変わらないうちに……」

「おまえうざいわ! 野球の漫画徹夜読みした後はいつもこうだな」

 来ヶ谷は、いつも泰然として、既に控えていた台詞を読み上げるように麗々と返答をするものだったが、この時だけは全く準備をしていなかったようで、声はどもりがちで、視線は常にさまよっていた。

「えっと、あの……」

「姉御、熱あるんじゃない? 保健室行きますか?」

「うほん! 大丈夫だ……ええい、みんなで見るな! 私を衆人環視してそんなに楽しいか! ほら、あっちを見ろ!」

「そんなこと言われても……」

「あっ、姉御が照れたー♪ あははー!」

「はっ、葉留佳君!」

 真っ赤な顔のまま葉留佳にグリグリ拳骨をする姿は圧巻だった。

「うううううぅぅぅぅ〜〜〜〜〜! あねご、しぬ!」

「ええい、貴様は黙っているがいい!」

「へぇーい……」

「おい来ヶ谷。いったい何だというんだ? 真人になにか言っときたいことがあるならさっさとしてくれ。時間はどんどん過ぎて行っちまうんだぞ」

 すこし怒った様子の恭介がそう言った。

 来ヶ谷は

「う……」

とたじろいで、咳払い一つ。

 真人はその間、じっと来ヶ谷のことを見つめていた。

 いったいどうやってこの場を切り抜けようか、そればかりを考えている。

 来ヶ谷のことをずっと見ていたのは、意識してではなかったのだが、まさにそれゆえに、来ヶ谷の顔を凝視することになってしまった。

 来ヶ谷は恭介に急かされて、そっと眼差しを真人に注ぐ。

 その直後、

「ひゃっ」

 という可愛らしい声がした。

 沈黙が降りる。

 真人は耳を疑った。

 いや、真人だけでなくその場にいる全員が耳を疑ったものだ。

「理樹か? 今、変な声を出したのは」

「ちょっと恭介! なんで僕の方を見るんだよ! 今はどう考えても――」

「あ、姉御がなにか言いたいことがあるそうです! 真人君宛てです!」

「いったいなんだっていうんだ?」

「マサト、バカ、クタバレ、コノクソヤロウ――だそうです!」

 沈黙が降りた。

 来ヶ谷が赤い、涙顔で葉留佳に向かってなにか囁いている。

「これが全て言いたいことだったそうです!」

「――だ、そうだ」

「おい……恭介、なぜオレを憐れみの視線で見つめる?」

「いや……憐れんでやろうと思ってな」

「そっか……ありがとよ」

 練習は開始された。

 来ヶ谷は木陰で葉留佳と見学になった。

 

 夕闇。

 あれからいつものリトルバスターズの日常のごとく、野球の練習が続けられた。

 途中から美魚と謙吾が参戦して、(その時は謙吾と一戦交えた)いつもの大にぎわいの練習が繰り広げられた。

 ただそのとき、来ヶ谷と葉留佳だけがいないのが気に掛かった。

 来ヶ谷は木陰で見学しており、その隣に葉留佳が付き添っていた。

 二人は熱心になにかを話しており、時折赤くなったり、笑い合ったりしている。

 真人はがっかりしながらも、取りあえず今は練習を楽しもうと、思いっきり走り込んだ。

 そうして、今だ。

 真人はトンボでグラウンドをならしながら、来ヶ谷がどこか、捜していた。

(いねぇ……か。まあ、しょうがねぇか)

 さっきあれだけの恥辱を味わったのだ。プライドの高いあいつは、今ごろ寮に先に帰って不貞寝でもしているに違いない。

 やはり、だめだったか。

 このまま来ヶ谷が好きなことを隠して三年になっていくのかな。

 自然消滅してしまうんだろうな。

 なんだか納得できないが、でもこれも巡り合わせというものだろう。来ヶ谷にいい彼氏ができるといいな……。

 まさしく真人はそんなことを考えていたのだった。

「おいこら真人! とっととそのトンボみたいなやつで地面をならせ!」

「鈴……悪い悪い。あとトンボで合ってるぜ」

 鈴は「生意気言うな!」とぷんすか怒りながら、真人の受け持ちの分までならしてしまった。

「あ〜疲れた……」

「お疲れさん。鈴」

「なあ真人」

「あん?」

「くるがやに、振られちゃったな」

「あん? ……いや、おまえ、知ってたのか?」

 鈴はこくりと頷いた。

 真人は、体育用具室の扉を閉めて、鈴と二人でグラウンドを歩いた。

 謙吾と葉留佳の声だろう。大きく笑い合う声が遠くから聞こえた。

「そっか……知ってたのか」

「なんで笑うんだ?」

「いや。……どうだかな。自分でもよくわかんねぇんだ。笑うしかねぇ、ってところかな」

 鈴は腕を組んで、しばらく考えていた。

「泣いても、いいんだぞ」

「泣きはしねぇさ」

「そうなのか?」

「泣くのはオレの性に合わねぇからな。あと落ち込むこともな! 笑ってまたやってくさ! しょうがねぇんだ! しょうがねぇときはオレは笑うんだ! あっはっはっはー! ってな……」

 鈴は、しばらくの間、じっと真人のことを見つめていたが、

「あたし、先帰ってる」

「ん? おお」

「真人はゆっくり帰ってこい」

「へ? なんでだよ?」

「いいから聞け! ゆっくり帰ってくるんだぞ、いいな!」

 そうして、ぴゅーっ、と駆けていってしまった。

 真人は頭をかきながら、なるほどな、と思う。

 苦笑した。

「まさか鈴に心配されるたぁな……」

 真人も一人になれば、顔も自然とうつむく。

 涙は出なかった。

 ただ途方もない虚脱感があるだけだ……。

 オレ、これからどうしよう。

 そんな呟きが出るほどに、真人は無気力を感じていた。

 このまま飯食って、寝て、そんでまた朝起きて、理樹たちと遊んで、そんで謙吾と遊んで、恭介と遊んで……学校を卒業して、適当なところに就職して、大人になって、酒を飲んで、適当に生きて、やがて死ぬ。

 真人はそこに、いったい何の価値があるのかと、考えた。

 そこに一つの存在がなかったら、人生は際限なく色褪せて見えてしまうものだと思った。

 それくらい落ち込んでいた。

「……ん?」

 だから、前が見えていなかった。

 どすん、と物音。

「うわっ」

 と飛び上がる何か。

「あれ……」

 顔を上げると、そこにはよく見知った顔が、驚きの表情で、こちらに振り返っていた。

「なんだ君か……」

「来ヶ谷……」

 真人は一瞬来ヶ谷と同時に溜息をついて、これで愚痴を言い合う仲ができたなと思って背中を起こした。

 その瞬間、現実に気が付いて真人は仰天する。

「くっ、くっ、く……来ヶ谷! おまえどうした、いきなり!」

「まっ、真人君じゃないか! 奇遇だな、いったいどうしたのだ、そんなに落ち込んで!」

 来ヶ谷はだんだん正気に返っていく。

「あ……貴様、私の背中にぶつかったな。でかい図体しおって。そんなに萎れていたら気味が悪いというものだ。きちんと前を向いていなかったのか」

「あ、しかたねぇだろ! いちおう、落ち込んでいたんだからな……」

「なに? そうか、君も……」

 と言いかけて、来ヶ谷は口を押さえた。

 んんっ、と咳払い。

 来ヶ谷は夕闇の中、熱っぽい眼差しを浮かべていた。

「真人君……今さらで申し訳ないのだが……受け取ってほしいものがある」

 真人は答えた。

「おっとそういえば……オレも渡しとくものがあったんだった」

 真人はもう、必要のないものに成り下がってしまった映画のチケットを、半ば捨て鉢にして、来ヶ谷に渡そうと思った。

 誰かとこれで映画に行ってほしい……ただそんな思いしかなかった。

 だが、来ヶ谷は逆だったのだ。

 来ヶ谷もポケットから何かチケットのようなものを出しながら、声を振り絞るようにして、目をきつく閉じながら、こう言った。

「これで……私と……その、デートに行ってくれまいか!」

「ほらよ。これで誰かとデートに行ってくれよな。オレにはもう……はい?」

 真人は首を傾げた。

 今、なんと言った? この女は。

 見ると、赤くなったまま、ふるふると震えている。

 真人はしげしげと来ヶ谷の手にあるものを眺めた。

「あ? おー……」

 映画のチケット。

 それも、自分が買ったのと同じやつ。二枚。

 こちらの手元にも二枚。

「あ……、え……?」

 来ヶ谷も結果がどうなったのか知りたく、目を開ける。

 そこには仰天の事実が。

 真人はさっぱり理解不能だったのだが、来ヶ谷は事情を理解したようだ。

「……あ、はは、……ははははは……」

「おい来ヶ谷。そのチケットは何だ? 誰と一緒に行ってくれって? え? ――あいてっ! なんだ、叩くなよ! あいてっ! いてててててて! やめろっ!」

「あはははははは! ははっ! もう、こいつめ! 心配させおって! なんだこのチケットは! ムッ……私と同じではないか! 阿呆! とっとと言え!」

「いてぇな! 叩くなよ! なんでお前がチケットを持ってるんだ? え、四枚? なんで四枚もあるんだ? いてててっ、いい加減にしろ!」

「あーっすっきりしたぞ!」

 来ヶ谷は朗らかに笑いながら、真人の腕を取った。

 え、ちょっと、と言うのも待たず、寄り添うようにして、微笑みかけた。

「二回、見ればよかろう?」

「え? あー……」

 そうしてようやく真人も理解し始めてきた。

 自分の腕が、彼女の腕と交差されているのを見て、なるほど、と思うようになった。

「明日……空いてるか?」

「無論、君のために空けよう」

「そっか。実はオレも暇なんだ」

「では明日……」

 来ヶ谷は頬を真人の腕にくっつけながら、ささやいた。

 真人はそれに反応して、真っ赤になる。

 なにか言い合って、笑い合う。

 来ヶ谷の頬にも赤味が増すが、それ以上に、彼女の表情には幸福感がただよっていた。

 そのまま二人は寮の明かりのほうへ消えていった。

 夕闇の中へ、また夜の喧噪の中へ、楽しく、お互いの体の熱を感じながら、気持ちを通じ合わせながら、そのままで――。

 

 おわり

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