ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。
 どかん、と一発。
 映っているのは、棗鈴のやすらかな寝顔である。
 その隣には、潰された目覚まし時計。
 頂点に若干ひびが入っている。
 朝、六時半を指している。
 実際に、棗鈴が六時半に起きたことは、ない。
 
「ん〜、みゅぅ〜……」
 ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。
 朝七時十五分。
 それまで約九回鳴りやまぬ目覚まし時計に同様に猫パンチを食らわせてきた棗鈴が、ここで初めて違った反応を見せる。
 もぞもぞと身じろぎし、目をうっすらと開ける。
 にゅっ、と布団の中から手が這い出し、まずゆっくりと時計の頂点を押さえる。
 そして、裏側のレバーに指が行き、
「これでいい……」
 目覚まし機能をオフにした。
「にゅふふ……」
 棗鈴、彼女は目覚まし時計と良好な関係を築けていない。
 
「おかしい……」
 熟睡から目を覚ました棗鈴がまずしたことは、時計の針を見つめて熟考することであった。
「どうして六時半にセットにしたのに、あたしは今八時なのだ?」
 摩訶不思議である。妖精がいるとしか思えない。
 どちらにしろはやく学校に行く準備をしなければならない。
 パジャマを脱ぎ捨て、下着を替え、制服に着替える。
 水で若干湿らした髪に櫛を当て、ゴムで結わえてポニーテールにする。
「顔ぐらい洗わないとな」
 思い立った鈴は、部屋を飛び出していく。
「だけどそれなら歯も磨きたいぞ!」
 また戻ってくる。
 歯ブラシセットを持ち出し、廊下にある洗面所へ。
 ちなみに、もう、廊下には誰もいない。
 みんな食堂でご飯を食べている時間なのだ。
 今部屋に残っているとしたら、鈴のようにいまだ睡魔と戦っている罪深い人間どもだ。
「急ごう、急ごう!」
 女の手によるものとは思えない荒っぽい洗い方で、ばしゃばしゃと水音を立てながら洗う鈴を、多少哀れに思う。
 小毬や来ヶ谷に多少教育されたのだったが、鈴は慌てるとよく前の癖に戻るのだった。実家にいたころは、恭介の真似ばかりしていたのだ。
 タオルでぽんぽんと叩きながら水を拭き取り、ちょっとだけ濡れた前髪も「みゅ〜……」と困った顔になりながら拭き取る。歯ブラシを取り出して、大好きないちごの味の歯磨き粉をぬりぬりと塗りたくり、ごしごしと、まるで激務に襲われているサラリーマンのように歯磨きするのだった。
 ふと朝の日課を終えて、時計を見ると、十五分経過している。
 部屋に戻って携帯を見れば、メールが数件来ていた。
『また寝坊かよ? おまえ、いつになっても癖治らねぇな(笑)』
 死ね。真人。
『鈴、寝てる?』
『鈴ちゃん、時間大丈夫?』
『遅刻するんだったら、ちゃんと先生に言うのだぞ』
 鈴はメールの返信を返すのも面倒くさく、荒っぽく鞄につっこみ、靴下をはいて、お気に入りの鈴をつけながら、慌ただしく部屋を出て行った。
 そうして鍵をかけにまた戻ってくるのだった。……
「あたしってやつは……! あほか! 気付け!」
 鍵を閉め、ぱたぱたと廊下を去っていく音がする。
 鈴の机には、こんな本が残されていた。
『実践しよう! 朝五時に起きれば何でもできる!』
 
 ……そうして棗鈴の一日は始まっていく。
 
 

 
「おぉーい。鈴。こっちだぞぉー!」
 鈴が食堂に駆け込んでくる。
 真人たちはいつもと違った場所にいた。鈴の席と思しきところにレノンがいる。
「おはよう!」
 自分の席に鞄を放り投げ、鈴は購買部へ。
 おそらくまだ人気のないパンが残っているはずだ。
「おばちゃん! パンあるか!?」
 残っていたのはライ麦パンだった。一個だけである。
「鈴ちゃん、食パンの耳ならたくさん余ってるよ?」
「それください!」
「ただでいいのよ。ほら、今日も一日頑張ってね!」
「ありがとう!」
 鈴は寝坊した際によくここに来るので、おばちゃんと顔見知りになっているのだった。
 早速食堂の指定の場所に戻ると、みんなはもう朝食を食べ終わり、食器を片付けているところだった。
「あれ? おめぇ、食パンかよ。しかも耳」
 早速馬鹿の真人が冷やかしてくる。鈴はじろりと睨み付けただけで何も言わなかった。
「ほら、レノン。食うか?」
「みゃあ」
 もりもりと食べている。そうすると鈴も自然と笑顔になる。ついでに買ってきた牛乳パックを飲み、鈴ももりもり食べてしまう。
「鈴。いい加減、一人で起きないと……」
 ちゃんと一人で起きるときもあるのだ。しかし、それは主に休日が中心だった。
「今日、変なことがあった」
「なに?」
「目覚ましが壊れてたんだ」
 理樹は、沈黙した。
 数秒黙り込んで、そうして目を泳がせる。
「へえ。壊れてた……そうなんだ。じゃあ仕方ないね」
「ほんとうに仕方がないことだ」
 納得しかけたところで、
「こら鈴。理樹、きちんと言ってやらなきゃだめだろ。おまえが目覚まし壊れてると思ったわけは何だ?」
「馬鹿兄貴めが。黙って食事くらい食わせろ」
「おまえ以外はもう全員上がってんだよ。いいから質問に答えろ」
「あたしを本当に遅刻にする気かっ!」
「ふん」
 恭介はゆったりとした調子でお茶を飲む。
「どうせおまえが時計を壊して、遅刻したってところだろ」
「ふん」
 鈴は自信たっぷりに言い返すのだ。
「そんなわけあるか。目覚まし時計が勝手に壊れたんだ」
「パン屑口についてるぞ」
「そんなささいなことはどーでもいいんじゃっ!」
 むんずとパン屑を掴んで、口に放り込む。
「あたしは確かに寝ていた。目覚ましが壊れたせいでな」
「なら後で検分しよう」
「やめろっ!」
「なぜ嫌がる」
「いや、」
 目を泳がせる。
「兄貴は、あたしのいろんなところ文句言うだろ」
「そりゃもちろん。兄貴だからな」
「部屋が少し汚い」
「掃除くらいしておけ」
「猫の毛とか飛んでいる」
「なんでおまえの部屋に猫の毛があるんだよ」
「宿題とかしてない」
「それはしろ」
「んん〜っ! なんでいちいち文句言うんじゃ! あと女子寮は男子禁制じゃ! おまえは入ることができないだろ!」
「おっとそうだったぜ」恭介はにやりと笑う。
「小毬」
 小毬が呼ばれて目を瞬かせる。
「俺の言うとおりにしてくれ。いいか、鈴の……」
「あーもう、なんなんじゃ! ごちそうさま! さ、行くぞ、理樹!」
「え、もう?」
「猫の世話だ」
「待て鈴」
 謙吾が時計を指差す。
「遅刻する」
 
 教室の席についた後、鈴は深く深く溜息をつく。
 猫の世話ができなかった。それはどう考えても自分のせいだった。
 きっと今ごろ腹を空かせているに違いない。
 鞄の中のキャットフードが、物言わぬまま鈴を責めているような気がした。
「ときに鈴君。今日はどうしたのかね」
「くるがや」
「慌ただしい朝食は、相手が女の子なら嫌いではないが、もしこれが真人少年だったとしたら、お姉さんは一つ制裁を加えていなきゃならなかっただろう」
「うみゅ……」
「どれ、肩を揉ませてみろ」
「あっ」
 鈴はびっくりして妙な声を上げる。
 来ヶ谷の手はひんやりとしていた。首元に触られ、血液の循環がよくなるように撫でられる。それから肩へ。ゆっくりと撫でられ、それから凝り目を揉まれる。
「凝っているな。鈴君。もうこりこりだ」
「う〜っ……」
「気持ちいいだろうか」
「ちょっとの間、そうしててくれ……」
「了解した」
 鈴が至福の表情で来ヶ谷のハンドシェイクにされるがままになっていると、理樹がやってきた。
 どうやら先生は教員会議ですこし遅れているらしい。すこしの間だけ自由になったわけだ。
「鈴、世界史の課題やった?」
「え、なんだそれ」
「いや……この前出てたでしょ。期限が今日までになっていたはずだから」
「あ」
 鈴は唐突に思い出した。
「いや、知らないぞ」
「今の『あ』って何?」
「気にするな。あたし、そんな課題があった記憶なんてないな」
「また無茶を……」
「くるがやは知っているか」
「うむ」
「ほら、くるがやも知らないと言っている」
「こいつ、どこまでも覚えてなかった体で通そうという気だぜ……」
「いつかは発覚するのに」
 とっさに見栄を張ってしまった鈴だった。もう取り返しがつかない。どこまでも知らない体でいくしかない。
「そっか。仕方ないね。みんなで仲良く怒られよっか……」
「あれ。理樹もなのか?」
 そんな折、先生が教室にやってきた。
 鈴への返事もほどほどに、理樹たちは自分の席へ戻っていく。
 来ヶ谷は去り際に、「また揉ませてくれ」と言って戻っていった。
 肩の凝りはすっかりよくなっていた。
 肩の凝りがひどくなったらまた来ヶ谷に頼もうと思った。
「おはよう。みんな。会議で遅れてしまって申し訳ない。ホームルームを始めるからな」
 点呼が取られ、一人一人が返事をしていく。
 それからしばらく今月の行事や注意事項などの連絡が続き、それが終わった後、始業間近に、先生が言った。
「一時間目はそのまま世界史だからな。もうこの場で課題を集めてしまうぞ。みんな、教壇に持ってきてくれ」
 各自、席を立って教壇に持っていく。
 鈴は苦い思いをした。
 できるだけ知らない振りを通そうと思った。
「棗。なぜそんなにびっくりした顔をしているんだ」
「あ。いえ」
 提出チェックを終えた教師が「やっぱりか」といった表情でこちらを見ている。
「なんでもありません」
「なんでもない顔には見えんがなあ」
「ただ驚いてただけで」
「ほう。なぜ驚いた?」
「あたしの知らない記憶があるから」
 沈黙した。
 重い重い沈黙が降りた。
「棗……なぜ課題を提出しない」
「そもそもここ最近の記憶がありません」
 もう先生は何も言わなかった。
「おや、直枝。めずらしいな。おまえが課題を忘れるなど」
「あ、いえ」
 理樹は目を伏せた。
「課題をなくしてしまって……」
 先生は呆れた顔をした。
「そうか。直枝でもそんなことがあるんだな。ま、でもどんな理由があろうが、未提出は未提出だ。それはいいな、直枝?」
「はい……」
「次、井ノ原」
「はいっ!」
 勢いよく立ち上がった。立ち上がる意味などないのに。
「忘れましたあっ!」
「潔くていいぞ。だがそんなに声を張り上げる必要はない」
「いえ、せめて言い訳をさせてくださいっ!」
「うむ。なんだ」
「ああ、それがですね、」
 真人は謙吾を指差しながら、
「昨日、理樹から課題のノートを写させてもらおうと借りたんですが、それをこいつが食っちまいまして」
 痛々しい沈黙が降りた。
「……貴様にこいつを食わせてやろうか?」
 竹刀を持って謙吾が立ち上がる。
「あ? なんだと、てめー、人のノート食っておいて、喧嘩売ろうってのかよ」
「そもそも貴様のノートではなかろう。俺が食ったというのも事実無根だ」
「なんだと? てめえ、嘘を言う気か?」
 鈴の真似をして嘘を通し続けるつもりだ。
「そこまでだ。井ノ原、宮沢」
 先生の怒気を含んだ声がかかる。
「井ノ原……棗、直枝」
 そうして慈悲のない裁決が下される。
「立ってろ」
 
 人気のない廊下へと追いやられた三人は、この時代錯誤の罰に対して不服申し立てをしようと議論していた。
「あたしはこんなところに立たされる意味がないと思う」
 図々しいとはこのことだった。
「同感だぜ。それにしても、『立ってろ』ってよぉ。のび太くんじゃねぇんだからよぉ」
「いや、のび太君以下のことをしたんだから、これくらいで済むのは幸運だと思うんだけど……」
「あたしは是非不服申し立てをしたい」
 その前にやるべきことがあった。宿題であった。
「さ、もうおしまいだよ。鈴。一時間だけでもこうしてよう。一人じゃなくてよかったね」
「理樹は甘い」
 鈴は腕組みをして床をかつかつと足踏みした。
 我慢できない性格なのだ。
「そもそも理樹はなんら悪いことしてないじゃないか。こいつが理樹の課題のノートをなくしたりするから悪いんだ」
「フン。なに言ってやがんだ、てめえは?」
 真人がすます。
「あれは謙吾が食っちまったんだぜ」
「あ、それ、まだ続いてるんだ……」
「そんなわけないだろ」
「じゃあビームで焼き払った」
「どこまで引っ張るんだよ、それ……」
「おまえもあたしに劣らず後先考えない性格だな」
「うっせぇよ! そうだよ、オレが筋トレ中になくしちまったんだよ! すいませんでしたぁー!」
 教室の扉が開いて、「うるさいぞ!」と怒鳴られる。
 他の教室からも迷惑そうに先生が顔を出している。
 理樹が真人の口を塞ぎ、鈴が頭にチョップをした。
「すいません、すいません」
「あさっぷ!」
「いてえ!」
「いい加減にしないか」
 世界史の担任はかなり寛大なほうで、リトルバスターズの迷惑極まりない素行にも腹をあまり立てない。ただその代わり注意はしっかりするので、人望はあった。教室内からもリトルバスターズの三人に対する不平不満が上がっている。
「へぇーい」
 ぴしゃり、と閉められる。
 ひそひそと小さな声で話す。
「もう……あんまり大きな声出さないでよ。二人とも。僕は別にいいんだから。でももう二度と真人にはノートを貸さないけどね」
「理樹よぉ……オレは今猛烈に後悔している」
 当たり前だ。
「いや、当たり前だけど。でも、どうして?」
「自分がなくしたノートを、謙吾が食っちまったことにしたことがさ……」
 論点がずれていた。
「いや、もっと手前のところで後悔してほしかったんだけど……」
「おまえもう理樹からノート借りるな」
「え? それはひどいぜ! お代官様!」
「自分の力でやれ。それができないなら大人しく忘れろ。あたしのようにな。それが潔さというものじゃないのか?」
 真人が、「はっ」とした顔になった。
「いや、そもそも最近の記憶がないと言い張るのは全然潔くないと思うけど……」
「なにい!」
 真人を指差す。
「そもそもあたしはこの馬鹿よりは潔いと自負しているぞ」
「客観的には一緒だよ」
「心外だ!」
 そのとき、教室の扉が開かれ、鈴の制服の襟首が掴まれた。
「うわっ」
 鈴が宙ぶらりんになる。
「なんなら、おまえら学校の外まで行くか?」
『申し訳ありません』
 
 生徒指導室に移された。
 狭い部屋だ。学校の資料などが棚に入れられてあるほかは、簡素な長机と、パイプ椅子しかなかった。
 手渡された課題は、この前出された課題の倍はあった。それを終えるまで出てくるなと言うのだ。理樹は頭痛がした。
「ひゃっほう! これで心おきなく遊べるぜ!」
「猫がいないのが問題だな」
 この二人を相手に課題を終わらせる前途が見えないからであった。
「あ、そうだ。猫の世話、大丈夫かな」
「心配だな」
 鈴も困った顔をした。
「兄貴は猫たちに無頓着だからな。誰か、他のやつがやってくれることを祈るしか……」
「なんとか頼むことはできないかな」
「どうやってだよ」
「たとえば、ここから誰かにメッセージを送ることができればいいんだと思う」
「メッセージぃ?」
「たとえば、この馬鹿を窓から出して、こまりちゃんたちに伝えに行ってもらうとかか?」
「おいそれ、オレが死んじまうだろうが! ここ三階だぞ!」
「三階くらい飛び降りてみせろ」
「無茶だっつーの! じゃあおまえやれよ!」
「馬鹿か。降りたら戻ってくることができないじゃないか」
「オレが降りても戻って来れねぇじゃねぇかぁぁ――っ!」
 ここにいないことがばれたら、罰は何倍にも増えるだろう。
「つまり、僕らはここにいて、それでいて、誰かに鈴の猫の世話を頼む方法を見つければいいんだ」
「携帯があるじゃねぇか」
「そうだ!」
 鈴はポケットを調べるが、「まずい!」と驚いた顔をした。
「あたし鞄の中だ」
 鞄は教室に置いてきたままである。
「僕は寮に置きっぱなしにしてるから……真人は?」
「オレ? オレのってどこだったっけかなぁ……」
「携帯の場所もわからんほど馬鹿なのか、おまえは」
「日頃持ち歩いてねぇだけですよっ! えーっと……どこだったかな……部屋にはねぇし、鞄の中にもねぇし、」
 真人は、「あ」と手のひらを叩く。
「授業中に鳴らして没収されたんだった」
「あほかっ!」
「じゃあ、全員持ってないわけだ……」
 こうなるといよいよ困難である。
 お腹を空かせている猫たちに、なにか食べ物を与えてやりたい。
「ここから抜け出す方法を考えるか?」
「どうやってだよ。こっそり出口から出るってのか?」
「その通りだ」
「おまえ、やんのかよ」
「あたしがやろう」
 この返答には少なからず真人も驚いたようだった。鈴が自分でいやな役目を引き受けることは滅多になかったからだった。
 少なからず、自らの責任を感じていた鈴は、ここで臆してなどいられなかった。
「だけど、定期的に先生は見回りに来るよ? 鈴は有名人だし……どうやってばれないように進めるかな」
「もうちょっと待とう。先生の見回りの時間と、先生の顔を覚えるんだ」
 こうなると鈴は恭介みたいになる。機知が働き出すのだ。
 それからしばらく鈴たち三人は普通に課題をやった。理樹はさらさらとペンが進むが、真人はいびきをかき、鈴はプリントの裏に落書きをしていた。
「どうだ、おまえら、きちんとやっているか」
 生徒指導の先生が入ってくる。真人はびっくりして起きたが、すぐさま努力して取り組んでいる様を見せると、先生は訝しそうにしながらも帰っていった。
 またすぐに別の先生が来た。同じように課題の取り組み方を見て、一言か二言小言を言って、去っていった。
 そうすると次の授業の時間になる。
ここからは一気に先生の訪問回数が減った。
 回数を計ってみたが、たった一回しか来なかった。
「よし。次だな」
 巡回パターンは掴んだ。次の時間が勝負だ。
 先生がやって来るのは授業が始まった二十分ぐらい経過したころ。
「その時間から脱出して、授業が終わるまでに戻ってくる。誰にも見つからないように」
「できんのかよ?」
 鈴はしばらく考え込んでいたが、
「おい、おまえら。あたしが時間通りに戻れなかったときのことは頼んだぞ」
「は?」
「それって、鈴がいるように見せかけろってこと?」
 鈴はうなずいた。
「どうにかして、あたしの脱出を気取らせないでくれ」
「んな無茶な」
「頼んだぞ!」
 やって来るのは全員二年生の受け持ちの先生だった。授業の準備の合間にやって来るのだろう。
 それは、逆に、警戒網がこの階にしかないことを示唆している。……
「よし、行こう」
 鐘が鳴った。外に物音がないことを確認してから、鈴はこっそりとドアを開ける。
 人の気配はない。
「これ、付けてく」
「なんだそりゃ」
「集音器。マイクだ。あたしのポッケからこっちの機械に電波が飛ばせるようになっている」
 鈴は片方のポケットから機械を取り出した。
「するとこっちの機械から音声が出る」
「へえ。うん、わかったよ。でもなんでこんなの持ち歩いてるの?」
 鈴は困った顔をした。
「極秘事項だ」
「あはは」
「つまり、オレらはここから状況を確認しろってことだな」
「そうだ」
 鈴はイヤホンをつける。
「もう行く」
「餌は?」
「予備があるから大丈夫だ」
 ポケットの中の袋を見せ、にこりと微笑んだ鈴は、部屋を出て行こうとした。
「あ、こら!」
 突如として響いてきた声。
「何をやっている!」
「あちょー!」
 格闘する物音。
「こら棗、貴様、教師に暴力を振るう気か!」
「すいません! これには深い事情が!」
「指導室から出るどんな事情があるというんだ! いいから来い! 罰を三倍に増やしてやる!」
 格闘の音がやんだ。
「は〜な〜せ〜っ!」
「おまえは女の子じゃないか。こんな小学生みたいなイタズラは、もうそろそろ卒業するんだな! ほれ、入ってろ!」
 がら、と扉が開けられ、鈴が放り込まれる。
 その時にポケットから通信機械がこぼれ落ち、それを見た教師が取り上げた。
「なんだこの妙な機械は? 没収!」
 ぴしゃん! と扉が閉められる。
「……」
 沈黙が漂った。
「何秒?」
 ふと理樹が聞いた。
「多分二秒くらいだろ。見つかるまで」
「い、たたたた……」
 鈴が涙目になりながら立ち上がった。
「あの教師、半端ない強さだった」
『いや、なんか間違ってるから』
 
 鈴はふたたび腕を組んだ。
「うーみゅ……この部屋は常に監視にさらされてるわけだな」
「この部屋から出ないで教師の数だけ数えてたオレらにはわからなかったってぇわけか」
「すると……問題だね」
 理樹もどうすればうまくいくのかわからなかった。
 時計はもう十時半になっている。猫はもうお腹をぺこぺこにしているだろう。
「さいわい、猫の餌だけはうまく見つからずに済んだな」
「そうだねえ」
 その時、ノックの音が聞こえた。
 先生たちはノックも何もなくいきなり入ってくるから、このノックは不思議だった。三人が返事もしないでじっと扉を見つめていると、もう一度ノックがされる。
「は、はい。どうぞ」
「失礼するわ」
 入ってきたのは、長い髪を可愛らしい髪留めで結わえた、鬼の風紀委員の腕章を装着した風紀委員長、二木佳奈多だった。
「ふ、二木さんっ!?」
「黙りなさい、直枝理樹。それに井ノ原真人、棗鈴。こちらを見ていないで速やかに課題を再開しなさい。あなたの課題は三倍もあるのでしょう? はやくやらないと今日中に帰れないわよ」
「なっ、なぜ、二木さんが?」
 二木は腕章を誇示するように半身を前に出した。
「なぜ? わからないのかしら? むしろ私が聞きたいものだわ? どうして私が連れてこられるような問題ばかり、あなた達は起こすのか……」
「理樹」
 ちょんちょん、と腕を真人に突っつかれる。
「こいつはどうやら事情を全部知っているようだぞ」
「その通りよ。あなた達がどれだけ学校と教師を馬鹿にした生徒かということも、全部承知済みだわ」
 彼女はその尊大な態度を崩さなかった。
 いや、いつも以上にそれは顕著なように見えた。
「誤解だよ、二木さん。僕らにはそんな意思はほとんど」
「だったら課題の終わるスピードにそれらが反映されていると思うけれどね。なに、井ノ原なんてまだ全然手もつけてないじゃない。これでもまだ馬鹿にしていないというの?」
「そ、そんな。真人は頭が悪いからで」
「理樹、言わないでくれぇっ!」
 真人が頭を抱えてのたうち回った。
「それに棗鈴はあろうことか脱走も試みたそうね。お説教に、と私が呼ばれたというわけよ。もっとも次の時間までの短い間だけど」
 彼女はつかつかと長机に歩み寄った。
 片手のひらを添えて、上から尊大に睨み付ける。
「速やかに行いなさい。でないと、罰がどんどん増えるわよ」
「確かに悪いのは僕らだけど」
 理樹は反論した。
「そんな横柄な態度でやる気にさせることは無理じゃないかな」
「あら。やる気なんて最初からあるものだと思っていたわ。なにしろこれは正当な罰。不当な規則違反に対する正当な処置よ。私の態度うんぬんの問題ではないと思うわ」
「僕は違うと思うな。だって必要のないことだもの。君の態度や言動やその他もろもろ全て」
「まったく嫌われたものね」
 二木は、理樹の言い方にすこし眉を動かしたが、すぐに平静を取り戻して肩をすくめた。
「私だって女の子なのよ。あなたと同齢の。私は、少なくともあなたの頑張りだけは評価している。あなたは課題がきちんと進んでいる。それに、最初の一件も、あなたにはたいした悪はなかったそうね。担任の先生からも直枝の罰だけはすこし軽くしてもらいたいとお願いされたわ」
「べつに、僕は、悪いことだとは思っていない」
「そうよ。あなただけの罰は軽いの。だからここでしっかり反省したならば、四時間目からあなたを教室に戻そうと思うわ」
「僕はそれを望まない」
 二木佳奈多はそこではっきりと眉を動かした。
「なぜ?」
「なぜも何も、僕はそんなことをする理由がない」
「あなたがそんなことをしない理由もないように思えるけれど」
「君にはわからないだろうね。でも僕にはあるんだよ」
「理解しがたいわ」
 二木はせせら笑いを顔に貼りつけながら、肩をすくめた。
「まあいいわ。まだ反省はしていないということね。課題を三倍に増やしておくから、喜んでやりなさい。あなたはそれを望む。そうでしょう?」
「……望むところだよ」
「素晴らしいわ」
 そうして彼女は鞄からどっさりと束ねたプリントの山を取り出した。
 それはおそらく、先生から渡された、二木佳奈多が任意で下していい罰のプリントだったのだろう。理樹の席にうずたかいプリントの山が積まれた。
「棗鈴とお揃いじゃない。しっかりやりなさい。これからの休み時間には私がここに来ることになるわ。まったく、これもあなたたちが招いた罰よ。心して受けなさい」
 二木は最後まで横柄で尊大な態度を崩さず、指導室の扉に手を掛けた。
「べ〜っ」
 ふと振り返ったとき、鈴からあっかんべーをされていた。
二木は一瞬だけ傷ついた顔をする。
だがすぐに立ち直ると、顔を振り、馬鹿にした素振りで二木は帰っていった。
「なんだよ、ありゃあ」
「横暴だな」
「うん……」
 理樹は目の前のプリントの山を見た。
「鈴とお揃いになっちゃったねえ……」
「なんか、悪かったな、理樹。あたしのせいで」
「全然。鈴のせいなんかじゃないよ。二木さんとうまくいかない僕のせいだったんだよ」
「オレは、あいつと仲良くできるところなんか想像がつかん」
「うん。まあね……」
 理樹は一枚プリントを採って、苦笑した。
「それよりも、猫たちのことはどうしようか」
「うん。それなんだが、」
 鈴は席から立ち上がって、唯一の窓のほうへ歩いていった。
 鍵を外して、開ける。
 涼しい風が入ってくる。
「最後の手段を使うことにした」
「待て、鈴! はやまるんじゃねぇ!」
「なに?」
 真人に取り押さえられた。
 両肩を押さえつけられ、問いつめられる。
「お前はいいのか、そんなんで? まだ希望はある。死ぬな、鈴! お前はたとえ馬鹿でも、これからたくさん楽しい未来が待ってるじゃねぇか!」
「……お前ほど馬鹿じゃないわ! ぼけ!」
 真人の腕をはがそうともがきながら、「は〜な〜せ〜!」とうめく。
「いやだ! 絶対離さねぇからな!」
「……真人」
「きしょくわるいわ! 離せ、ぼけ!」
「ぶはっ!」
 真人の顎につま先がヒットし、真人は倒れ込んだ。
 鈴は暑くなったのか上着の制服を脱ぎ、倒れ込んだ真人の頭にかけた。
「このように、」
 と、真人の頭を指差していう。
「制服を落とすんだ」
「え?」
「この生徒指導室の真下は、幸いにも生徒がよく通る道だ。なにしろ自販機があるからな」
「え、ほんと? 見せて!」
 理樹は倒れている真人などそっちのけで、窓から顔を出した。
 だいぶ高いところにいる。裏山が綺麗によく見えた。
 この真下に、確かに、理樹や鈴たちがよく利用している自販機に通じる道があった。
「そうか! ここに何かメッセージを送れば」
「あたしたちの目的は達成する」
 鈴は真人の頭から制服を取り、
「起きろ!」と揺さぶった。
 目を覚ました真人は、ぼんやりしていて、ちょっとの間の記憶をなくしていた。
「いや〜……なんか、切羽詰まったことが、あった気がしたんだよなぁ……」
「思い出さないでおこうよ……」
 鈴は真人を無視して、プリントの一枚を取って、裏に鉛筆でメッセージを書いた。
 
 あたし棗鈴
 今、悪者にとらわれています。
 これを見たあなた
 どうかこの餌を猫に届けてください。
 餌はポケットに入っています。
 自分で行くことはできません。
 猫はよく体育館近くの広場に集まります。
 
 鈴はそれを折りたたんで、指導室にあったセロハンテープで制服の背中につけた。剥がれ落ちないように、何枚もセロハンテープをつけた。
「これでよし」
「なるほど。それをあそこにうまく落とせばいいんだね」
 理樹は、でも、と心配そうな顔をした。
「鈴、寒くない? 僕の制服を投げようか?」
「理樹の制服じゃ意味がない。あたしの制服じゃないとな」
 確かに、男物と女物では信憑性に違いがあった。
「じゃあせめて、鈴に上着を貸すよ」
「いいっちゅーに」
「いや、いいって」
「うるさいわ!」
「……理樹、それだと寒くねぇか? オレの上着を貸そうか?」
「ご遠慮します」
「なんでだよっ!」
「きしょくわるいわ」
 真人は制服の上着を脱いで、憤慨した。
「なんだと! 理樹の体を温めてやろうとするオレの優しい気遣いが、気色悪いだと、てめぇ! 窓からいっぺん落ちてこい!」
「……おまえは、あたしを本気で怒らせた」
 以後、鈴による手痛い折檻が行われた。……
 
 結局鈴はブラウスのままでいた。
理樹の制服を着るまでもなかったし、真人のは論外だったからである。
「よし、落とすぞ!」
餌とメッセージがばらばらになっては元も子もない。
 慎重に、風を計っての作業となった。
「それっ」
 制服はうまく風に乗り、見事に、目立つ位置まで飛んでいってくれた。
「やった!」
 鈴は歓喜した。次は、いよいよ昼食の時間である。大勢の生徒がここを通るだろう。
 一番にここを通った生徒に、期待をすることになった。
「よかったね、鈴。うまくリトルバスターズのメンバーが通ってくれるといいけど」
「そうだな」
 それからしばらくして鐘が鳴った。
 午前中の授業が終わり、お昼休みが始まる。
 鈴たちも今ごろだったら、恭介や小毬たちと学食へ向かうところだった。
 自販機を利用するのは、学食通いの生徒ではなく、自主的にお弁当を作ってきている生徒が多い。学食には学食用に自販機が置いてあるからだ。
「あっ、来たぞ!」
 鈴が指差した方向に、はやくも生徒の一団がやって来ているのが見えた。
 女子生徒が中心らしい。
 というよりも、それは理樹や鈴にとっては、よく見知っている人物のように思えた。
「ざ、ざざみっ!?」
「しまった。一番まずい人に来てもらっちゃったような……」
「ざざみ、やめろ、ぼけっ! くんな!」
 鈴が大声で叫ぶが、当の真下にいる笹瀬川佐々美には空耳くらいにしか思えないだろう。
「……あら?」
 笹瀬川佐々美があたりを見回す。
「どうされましたか、佐々美様?」
「いえ、なんでもありませんわ。あの小にっくたらしい棗鈴の声が聞こえた気がしましたの。幻聴かしらね。ひょっとしたらあそこの草葉の陰にでもいるのじゃありませんの? おほほほほほ!」
「きっとそうに違いありません、なんたって棗鈴ですもの!」
「おほほほほほほ!」
 理樹は、鈴の頭に手をやった。
「鈴、押さえて」
「ううううう〜……」
 悔しさに顔を真っ赤にしている。
 あの馬鹿な女が、親切心を湧き起こすことなどあり得ない。鈴は今すぐ下に飛び降りていって、あいつの顔を引っ掻いて、制服を取り返しに行きたかった。
「佐々美様、ちょっとあれ、なんでしょう?」
「ん?」
 道端に落ちている制服に気が付いたようだ。
「取ってきなさい」
「はい!」
「自分で取りに行けよ……」
 真人が呟いていた。
「佐々美様、誰かの制服のようです!」
「持ってきなさい」
「はい!」
 理樹は、少しだけ佐々美に期待する気持ちもないわけではなかった。
 あの少女は、決して悪い子ではないような気がするのだ。
 佐々美は、制服を手に取った。
「女子の制服のようですわね。まったく誰の制服かしら。小汚らしい制服ですわ。……あら?」
 佐々美が何かを見つめている。
「なっ、棗鈴!?」
 一行にどよめきが走った。
 佐々美はあたりを見回している。
「棗鈴、あなた、どこかにいるんじゃないんですの!? これを見せて、わたくしをからかっているんでしょう! 出てきなさい! やっつけてやりますわ!」
「棗鈴ですか! 佐々美様!」
 理樹は「あ〜あ……」と頬を掻いていた。
「どうしてああすぐに戦闘モードになるのかな……」
「あいつはいつもすぐそうなる」
「別に、馬鹿にした文句とかは書いてないよね」
「うん。だけど、拾うのがあいつだとわかっていたら、あいつを馬鹿にするセリフも書いておけばよかったな」
「またそんな」
「しっ。おい、また何か始まったぜ」
 佐々美は取り巻きと制服のメッセージについて議論している。
「佐々美様、どうやら棗鈴は、自分の猫の世話を頼んでいるようです」
「佐々美様、わたしに行かせてください! わたし、猫の世話大好きです!」
「おだまりっ!」
 ぴしゃり、と一喝した。
「棗鈴の猫なんて、知ったことじゃありませんわ」
 ふん、とせせら笑いながら、彼女は制服を肩に引っかける。
「どうせ薄汚い泥猫に決まっていますわよ……さあ、行きましょう、あなたたち。飲み物を買って、ミーティングを始めますわよ」
「はいっ」
 その制服を肩に引っかけたまま、自販機の方へ歩いて行った。
 鈴が深い、深い溜息をついている。
 失敗だ。
「佐々美様、その制服、持って行かれるのですか?」
「ああ、これ?」
 佐々美はくすりと笑った。
「これで棗鈴を馬鹿にしてやるネタができたというものですわ! これは私が後で直々に返しに行ってやります。その時に大笑いしてやりますわ。おーっほっほっほっほ!」
「今、やってやる! 今おまえをやっつけてやるからな!」
「鈴、無理だって!」
 窓から飛び降りようとする鈴を、羽交い締めにする。
 鈴はそれでも悔しくてやりきれないのか、「佐々美のアホー!」と、指導室から大声で宣った。
「ちょ、鈴、馬鹿!」
 理樹は鈴を窓の傍から引っぺがした。
「棗鈴!?」と、下から捜す声がする。
「今の、棗鈴の声のようでしたわね……」
「佐々美様の悪口を言っておりましたわ」
「きぃぃぃぃ〜〜〜……許せない! あいつ、どっかに隠れているようですわね! 四方を捜しなさい!」
「はいっ!」
 今も隙あらば悪口を言おうとする鈴を押さえながら、理樹は、深い深い溜息をついた。
「あ〜あ」
 真人も溜息をつく。
 鈴も、失敗したことを悟り、だんだんと悲しそうな顔になるのだった。
 と、そのとき、またもやノックの音が聞こえた。
「失礼するわよ」
 二木佳奈多だった。
 彼女は、部屋を見るなり、また厳しい表情を顔に貼りつけた。
「これはどういうこと?」
「あっ、な、なんでもないんだ!」
 理樹が後ろから鈴を羽交い締めにしている状態だったので、二木はよからぬ想像をしたことだろう。おまけに、鈴は上着を着ていなかったのだ。
「まさかとは思うけど……」
「二木さん!」
「直枝理樹、あなたって、最低な男ね」
 がーん! と、理樹の頭の後ろで物音がした。
「棗さん、大丈夫だった? こんな男たちに囲まれて」
「べつに問題ない」
「そうかしら。まあ、なにか問題が起きたら、すぐにこの私に言いなさい。いかようにもできるんだから」
「少なくともオレは何もしてないはずだが」
「あなたなんていつでもしょっ引けるのよ。いい加減制服を着なさい」
 真人はすぐに自分の両腕をかき抱いた。
「さあ、お昼になったわね。依然としてあなた達の課題は終わっていない。外出は禁止するわ。先生がそう言ったのだから」
「飲まず食わずやれってか」
「まさか、そこまでは言わないわ」
 佳奈多は呆れたように溜息を吐く。
「仕方ないから学食に行って何か買ってきてあげる。総菜パンがいいかしら。おにぎりがいいかしら」
「オレ、カツサンド!」
「期待に添えるよう頑張ってみるわ」
 頭を押さえている。
「各自、買ってきてほしい個数とその分のお金を私に渡して。購買部で買ってきてあげるわ。リクエストがないなら私の独断で選ぶわよ」
「じゃあ僕、焼そばパンがいいな」
「あたしクリームパンだ」
「オレ、カツサンド四つ!」
「四つも?」
 佳奈多は呆れて頭に手を当てている。
「お金を渡して。何とかやってみるわ」
「僕たちが直接買いにいっちゃ行けないの?」
「あなた達を出すなという命令なのよ。当然だけど」
 いわれてみればそうだった。自由を許されている立場ではないのだから。
「ちぇっ。まあいいけどよ、カツサンド食えるなら」
「あなたのご希望どおり買ってこられるかわからないわよ。人気商品なんだから」
「いや、あんたの筋肉を駆使すれば、絶対に買ってこられるはずさ」
「はあ」
 佳奈多は無視して鈴たちからお金を集めた。
「ほら、井ノ原、出しなさい」
「あっ。やべっ。オレ五円しかねぇんだった」
 佳奈多がすべった。転ぶ。
「それじゃ一個も買えないじゃないの……!」
「待つんだ二木さん、一個も買えないとかそういうレベルじゃない。まず買えるものがないよ」
「こいつなめとるな」
「井ノ原、残念だけどあなた昼食抜きね」
「ま、待ってくれ! 理樹、頼む、ちょっと金貸してくれ!」
「ええ〜……いくら?」
 理樹は、しぶしぶとカツサンドを四つ買える分のお金を手渡した。
「もうっ。後で絶対返してよ」
「サンキュ!」
「忠告しておくけれどね、直枝理樹」
「うん」
「友達は選ぶことね」
「参考にするよ」
「うわぁぁぁぁ――――っ! 理樹、見捨てないでくれぇぇ――――っ!」
「うっさいわ! ぼけ!」
 金銭管理ができない真人が全部悪かった。
 
 佳奈多が部屋を出て行くと、鈴が机にぐったりと体をもたれさせていた。
 長い、長い溜息が出る。
「溜息をつくと幸せが逃げるよ、鈴」
「うん……」
「まあ、大丈夫だよ。小毬さんやクドたちが猫の世話をしてくれていることを願おう」
「うん」
「鈴、きっとやってくれてるぜ。オレたち、リトルバスターズなんだからよ」
「そうだな」
 励ましを受けて、鈴は立ち直り、頬杖を突きながらペンを握った。
「っつっても、これ終わるのいつになるのかな……」
「真人、全然進んでないね……」
「だってわかんねぇんだもん。オレの脳内の筋肉フルパワーを使ったって難しいぜ」
「わからないのを努力して埋めていこうとする意気は凄いよ。でも全部外れてそうだね……」
 真人は、世界史の語句や事件を、勉強しているから埋めていくというより、それらしいものを創造するという全く別の作業をやっていた。
 謎の人名や、明らかに言い逃れじみた答えが盛りだくさんである。
「理樹、頼む! 写させてくれ」
「え、いやだよ」
「ちょっと筋肉やるから」
「あのね僕、真人にもう絶対に答えを教えないって決めたんだ。そうした方が真人のためになるってわかったんだ」
「そんな……理樹様!」
「何言ったってだめだもん」
 ぷいっ、とそっぽを向いてしまう。
「くっ……ちきしょう……」
 真人は拗ねる。
「ちぇっ……いいよ、じゃあよ。オレの力だけでやりますよーっだ! ……で、なになに?」
「ちょっと、僕の方に寄りすぎじゃない? もっと離れてよ!」
「偶然だろ? ……で、なになに?」
「……で、なになに? の時になんでこっちを見るの?」
「偶然だろ?」
「明らかに不自然だよね!? って見ないでよ!」
 真人は涙目になった。
「理樹よぉ……オレは、つくづく自分がいやになるぜ」
 ようやく気が付いた? と理樹は言ってやりたかった。
「もう自然と理樹の解答を覗いちまう癖がついてるなんてよぉ……」
「テストの時とか、注意した方がよさそうだね」
「オレ、やるぜ。やったるぜ、理樹。負けてらんねえ。自分の力で終わらせるぜ!」
「よしっ、その意気だよ! 真人!」
「うぉぉぉぉぉぉぉ――――――っ!」
「おまえらうっさいわ!」
 鈴の蹴りが炸裂したところで、佳奈多がノックをして入ってきた。
 
 昼食である。
「だいぶ進んでいるようね。あなた達」
 ちら、と机の上を眺めた佳奈多が言った。
「食事よ。机の上を片付けなさい」
 出てきたのはサンドイッチばかりだった。
「……お? オレのカツサンドが見当たらないが?」
「売り切れよ」
「おっと、これは一体何かな? 赤い、ぷちぷちの、トマトと、瑞々しい色をしたレタスのように思えるが。お嬢ちゃん」
「サンドイッチよ。たいした違いはないでしょ」
「おおありだぁぁぁぁぁぁ――――っ!」
 真人が咆哮した。
「オレの苦手なもんばっか買ってきやがって、てめえ!」
「タマゴサンドは嫌いかしら?」
「お? いや、まあ、タマゴは嫌いじゃねぇけど……って、違ぇ!」
「好き嫌いが多いのね。面倒な男」
「ちょっと待て! オレは男だぞ! こんなオシャレな食いもん望んでると思ってんのか! 焼そばパンとかなかったのかよう!」
「あるわけないでしょ。だってもうすでに行列ができてたんだし」
「行列だったんだ」
 理樹はサンドイッチを手に取った。
「並んでもらって悪かったかな。ありがとう、二木さん」
「どういたしまして」
「じゃあ、コッペパンとかでもよかったじゃねぇかよ!」
「コッペパンは私好きじゃないわ」
「え、好き嫌い!?」
「野菜サンドも食べなさい、井ノ原」
「横暴だぁ――――っ!」
 
 食事は佳奈多も一緒に取ることになった。
 佳奈多は自分で毎日弁当を作ってきているらしく、弁当箱を開けて黙々と箸を進めていた。
「なぁ〜んか……やる気でねぇぜぇ……」
「はやいね。やる気なくなるの」
「カツが食いてぇよぉ……」
「よかったら私のミートボール、食べる?」
 ちょん、と包みごと箸で渡してくれた。
「満足な食事ができないと、取り組みにも影響が出るでしょう」
「あっ、ありがてぇ!」
 真人は一飲みにしてしまった。
「噛みしめなさい。食事のありがたさを。そうして自由な夕食を食べれるように頑張るのね」
「おっしゃあ! やる気湧いてきた!」
「真人のやる気って、ミートボール一個分なんだね……」
 だが理樹は佳奈多の優しさが意外だった。
最初のころはあんなにつっけんどんだったのに。
「二木さん、真人のこと気にしてくれてありがとう」
「どういたしまして。この男が食事に敏感だっていうことは知っていたわ。私のせいで課題が終わらなかったと言われても困るもの」
「次からはあんまり気にしなくていいぞ。二木。どうせこの馬鹿はそんなことすぐ忘れるからな」
「そうなの?」
 意外そうに佳奈多は尋ねる。
「こいつは肉を食えればそれで幸せなんだ」
「そうなのね……」
「おい鈴、なんだかオレが、すっごく最低な人間になったような目で見つめられているんだが?」
「気のせいだろ」
「おっと、そうだよな。よっしゃ! 課題進めるぜ!」
「お茶を用意するわ」
 佳奈多は持参してきた水筒に入っていた麦茶を、紙コップに入れて三人に配った。
「あ、なんか悪いねえ」
「一人で飲むのもね。ちょうど紙コップがあったから」
 理樹は、だいぶ佳奈多の評価を改めることになりそうだった。
 佳奈多は、本当は優しい人間なんじゃないか。そう思えるようになった。
「ゴミを片付けてくるわ。その間に少しでも課題を進めることね」
 いや、もしかしたら、ただ課題を進めさせ、反省を促させるということに、真剣に取り組んでいるだけであって、これは佳奈多の性格とはなんら関係のないものであったかもしれない。優しさとは、別なもの。
 理樹は、佳奈多を計りがたい人間だと思った。
「行っちゃったねえ……」
 ぼんやりと、理樹は呟いた。
「あたし、二木のこと嫌いじゃなくなったかもしれん」
「そうかもね。案外いい人かも」
「わざわざご飯買ってきてくれたしな」
 鈴にとっては、付き合いにくさはあんまりなかった。というより、真面目すぎるその性格が、リトルバスターズにはないものだったから、より新鮮さを感じていた。
「理樹。課題を頑張って終わらそう」
「うん。鈴」
「さっさとやって、猫たちに会いに行かないと」
「そうだね。後はもうそれしかないね」
「よっしゃあ! 行くぜ! やったろうぜ!」
 午後は、課題に集中する時間となった。
 
「少しは真面目にがんばっているようね」
 はじめて見せた、うっすらとした微笑みだった。
 佳奈多はお昼休みまで指導室に残っていたのだが、もう心配はないというように、次の授業の数分前には、教室に戻っていった。
「真面目にやればできないことではないんだから。もうこれに懲りて、悪さなどしないことね。それじゃあ」
「うん。ばいばい、二木さん」
「また来るわ」
 佳奈多は去っていった。
 それ以後は真剣に課題に取り組む時間だけが過ぎていった。

 

  やがて、六時間目終了のチャイムが鳴る。
 真人は、憔悴しきっていた。
 鈴もくたびれて肩を叩いた。
 理樹は最後まで頑張っていたが、とうとう課題を終わらせることはできなかった。
「うわぁぁ〜……! 終わらなかったなあ!」
「あたしら、残ってやるのかな」
「きっとそうじゃないかな。今日中に帰れるかどうか、って二木さんが言ってたし。もうさすがに、猫の件は心配いらないと思うけどね」
「うん。でもはやく遊んでやりたい。あたしの顔が見えないからきっと怒ってるはずだ」
「そうだね。……って、真人、大丈夫?」
 真人は息絶える寸前だった。
 蚊の鳴くような、ちりちりとした返事が聞こえる。
「真人、よく頑張ったね。すごいよ! 解答が僕ら二人とまったく違うところが、ある意味すごいよ! 素晴らしいよ!」
「り……き……」
「え?」
「オレ……もう、いいかな……休んでも、いいかな……ゴールしても……」
「待つんだ、真人! そのゴールはきっと危ない!」
「でもさ……オレの、死んだひいばあちゃんが、おいでおいでって、手招き……」
「鈴、なにか手はないかな!? 真人が息絶えようとしている!」
「うみゅ! 放っておけばいいと思うが……そうもいかないな。よし。じゃあ真人、みんなで筋肉ダンスだ! そ〜れ、きんにくきんにく〜!」
「き……ん……?」
「いいよ鈴! きんにくきんにく〜!」
「きんにくきんにく〜!」
「きんにくきんにく〜!」
「う……お、お……」
「きんにくきんにく〜!」
「う、お、おお……きんにくか。なつかしい響きだ……」
「ほら、真人も一緒に踊ろうよ!」
「あたし、もう疲れたんでやめていいか?」
「ええっ! だめだよ、あともう一息だよ! そ〜れきんにくきんにく! きんにくわっしょい!」
「ちっ、しょうがないな。きんにくきんにく〜!」
「……来た。なにかが……オレの体の中でなにかが、うごめいている!」
「それはきっときんにくだよ! 真人も一緒に踊ろうよ!」
「よっしゃあ……いいぜ、理樹。なんだか目が覚めてきたあ! 筋肉解放! いっくぜぇぇぇぇぇぇぇ――――――っ!」
「やっほー! きんにくきんにくー!」
「きんにくきんにくー! まだまだ行くぜぇー! 筋肉トルネードだぁ――っ!」
「なにをやっているの……?」
 佳奈多がドアを開けた状態で立っていた。
 空間が静止する。
 時が、止まっていた。
「もう一度聞きます。なにをやっているの?」
「えっと、その! これは!」
「筋肉ダンスだぜ!」
 真人の笑顔が全てを破壊していた。
「そう……」
 佳奈多はドン引きだった。
「とにかくどうでもいいけどね。棗さん、あなたまで……」
「とにかく全ての記憶を消して欲しい」
 懇願する鈴だった。
 佳奈多は無視して話を進めた。
「とにかく。課題は終わったかしら?」
「全然だよ。二木さん」
「ちょっとばかし多すぎたのかもしれないわね」佳奈多は溜息をついた。
「でも減らすことは許されていないわ。下校時間ぎりぎりまでこの部屋で行うように。それでも終わらなかった分は明日までの宿題となります」
「げえっ……」
 真人のライフゲージが一気に減った。
「そんなあ……」
「もう十分反省しきっているでしょうけど。念のため私も下校時間までここにいてやるわ。どうせ委員会は休みだしね。椅子を一つ借りるわよ」
 そうして佳奈多はパイプ椅子の一つに座って、文庫本を出して読書を始めるのだった。
「リトルバスターズのみんな……どうしてるかなあ」
 思えば、朝以来ずっと会っていないのだった。
「最初はこの三人なら、悪くねえとも思ったものだけどよ、やっぱ十人いねえと寂しいな……」
「そうだなあ。あたしも猫たちがいないと寂しいぞ」
「なら課題を進めなさい。どうせここから出ることは無理なんだから」
 そのために佳奈多がいるのだった。あんまり厳しい言葉を途中からかけてこなかったが、佳奈多は理樹たちの監視役。生活指導室に釘付けにさせるために派遣されたのだった。
「さっさと終わらせるしかないのかなあ……」
 ふと、そのとき、かすかな地響きのようなものを感じた。
「あれ?」
 地震? いや、そんなものではない。
 もっと局地的な――いやこれは、大勢の足音に聞こえる。
「リトルバスターズ、参上!」
 がらっ、と扉が開かれ、恭介や葉留佳たちが現れる。
「あっ、恭介!」
「ちょっと、何なのあなたたちは!」
 恭介は恭しくお辞儀した。
「囚われの身のお姫様たちを助けに来た、名もなき騎士です」
「ふざけてないで、すぐこれを解散しなさい!」
「そいつはできねえ相談だな二木。とうっ!」
 恭介は飛び上がって、佳奈多を圧倒する。尻餅をつく佳奈多。
続々とリトルバスターズメンバーが指導室に侵入し、理樹や鈴たちを抱きかかえる。
「助けに来たぜ。お姫様」
「さっ、私の腕に乗るがいい。鈴君」
「くるがや!」
「可哀想な鈴君だ。慰めのキスをしてあげよう」
「いらん!」
「お姫様……じゃない! おまえは何だ!」
「てめえが何なんだよぉー! 変なとこ触ってんじゃねえ! 馬鹿謙吾!」
「何だと貴様? 理樹ではなく貴様に当たってしまった俺の悲しみが、貴様にわかるというか!」
「うっせぇ! ここでやっか!?」
「いい加減にしろ、真人、謙吾」
 もうすでに理樹は抱え上げられていた。俗に言う、お姫様抱っこである。
 鈴は来ヶ谷に。そうして小毬たちは佳奈多を囲みにかかっている。
「ごめんね〜かなちゃん」
「今だけ我慢してほしいですっ」
「あなたたち……もう許さない! 絶対に許さない! みんな課題よぉ――っ!」
 けたたましい、風紀委員会の警笛が鳴らされた。
 一同に戦慄のようなものが走る。
 なにかがやって来る。それも猛烈な勢いで。そんな予感がした。
「やばい、ずらかるぞ! 真人、謙吾、みんな!」
「あれ? なんでオレだけ助ける側に立たされてんだ?」
「当たり前だ。誰が貴様のことを助けに来るというのだ?」
「うっせえ黙れ!」
「馬鹿ども、走れ!」
 来ヶ谷が叱咤する。続々と指導室を出て行くリトルバスターズ。
 残された佳奈多はしばらく目を回していたが、やがて気を取り直すと、部屋の外に出て、きっ、と廊下を睨み付けた。
「絶対に、絶対に、逃がさないわ……!」
 ポケットから無線機が取り出され、佳奈多は口早に、部下に指令を出した。
 
 風を感じていた。
 窓は夕焼けの朱を湛えている。どこからか風が入ってきているのだろうか。
「……あの、恭介?」
「ん? なんだ、理樹」
「どうしてこんな抱っこの仕方なの?」
「そいつはな、」
 恭介が額にわずかに汗をにじませながら、微笑む。
「俺のお姫様だからさ」
「いや、意味がわからないから」理樹はもがいた。
「下ろしてよ! 自分で歩けるよ!」
「いいや下ろさない」
「いやだよ、恥ずかしいよ!」
「来ヶ谷! ここで二手に分かれる! やつらを分散させるんだ!」
「わかった!」
 来ヶ谷たちは階下へ。
 恭介たちは階上へ。
 それぞれ来ヶ谷に、恭介に、半分ずつついていった。
 その背後から続々と風紀委員の面々がやって来る。
 下校してしまったメンバーもいるので、人数はいつもより少なく、どことなく面倒くさがっているように見えた。
「委員長。二手に別れました」
「こちらも相手に合わせます。私は上の階に向かいます。あなたは半分ほど率いて階下を回りなさい」
「了解です」
 男子の委員は、ちょい、と腕をしゃくって、半数ほどを連れていった。
 佳奈多は上の階を睨む。
 あのにっくきリトルバスターズのリーダーを思い浮かべながら。
「なにかトラップが仕掛けてある可能性があるわ。気をつけなさい! 中にはあの三枝葉留佳もいるのよ!」
 
 鈴はもがいていた。
「おろせっ!」
「いやだ。下ろさない」
「はずかしいわ!」
「何を言うのだ鈴君。すばらしい格好ではないか。おっとスカートがめくれないようにお姉さんが押さえててあげよう」
「いやじゃ――――っ!」
「なんと。スカートがめくれてパンツが顕わになってしまったほうがむしろいいと言うのかね、鈴君は。それは……ふっ、ふっ、お姉さん、興奮してきたよ」
「そういう意味じゃないわ! あと興奮すんな!」
「まあ鈴君は軽いからね。負担にはなってないから安心するがいい」
「あたしにとっては色々もう精神的な負担じゃっ!」
「あっ、やっぱり追ってきてるよ!」
 小毬が後ろを指した。男子の委員ばかりで構成されたメンバーが追ってきている。
「ふむ」
 来ヶ谷が目を細めた。
「佳奈多君は来ていないのだな。やはり妹の元へ行ったか。これはラッキーだったな」
「ラッキー?」
「あの者たちは本来委員会の予定がないのに招集された者たちだ。本気で追ってきはしまい。その間、思う存分私は鈴君をお姫様抱っこしていられるというものだ」
「そのネタはいつまで引っ張るんだ……?」
「は〜な〜せ〜!」
「でも、いつまでも追ってくるです! いったいどうするんですか、来ヶ谷さん!」
「なに、クド君。いざとなれば全員四方に散って、その間私があやつらを引きつければいい。私なら一人で撒ける自信がある」
「それは……すごいのですっ。でも私、あんまり走りに自信がなくって……」
「おや、すまない。それは失念していた。謙吾少年!」
「どうした」
「クドリャフカ君を負ぶってやってくれ」
「うむ。だが……西園はいいのか? 俺が見る限り、一番バテているように見えるが」
「も、もも、問題ありません……」
 美魚は顔を真っ赤にしていた。日頃運動しない分がここで出ているのだろう。
「おっと、そうか。じゃあ鈴君、私ともうおさらばしなくてはいけないよ……ああ待って、今一度、匂いを嗅がせてもらってから……んー、すぅぅぅ……」
「いいかげんにしろー!」
「はっはっは! 満足だ」
 鈴を来ヶ谷は降ろし、すぐさま美魚のことを抱きかかえた。
「おや、美魚君も軽い軽い。鈴君と同じくらい軽いな。これならいけそうだ」
「二手に別れるのか、来ヶ谷?」
 謙吾はもうクドをおんぶしていた。
「そうだなあ」
 来ヶ谷は涼しい顔で考える。
「いや、ここは全員で逃げるとしよう。大丈夫だ。簡単に撒ける。少々はやく走るが、問題ないか? コマリマックス」
「だいじょうぶだよ〜」
「そんなコマリマックスがおねーさんは大好きだ。じゃあ、行こう!」
 来ヶ谷たちは昇降口の方へ駆けていった。
 
「ちっ……しつこいぜ」
 恭介は後ろを振り返り、佳奈多を睨み付けた。
 さっきからずっと突っ走っているのに、まだ追ってこようとする気配がある。
 だがしかし向こうは士気が低いようだ。やはり今日が委員会が休みだったのが効いている。
「向こう……なんだかだらだらしてますネ。佳奈多のやつ、だいぶイライラしてますよ」
「わかるのか?」
「いや〜、長く姉妹やってればそれくらいは」
 恭介はもう四階と三階を逃げ回るのにうんざりしていた。
 鈴たちは逃げ切れただろうか。
 ならとっととこっちも階下へ逃げるべきかもしれない。
 でも、もう少し相手の統率が無くなるのを待つべきか。
「恭介、もうそろそろ下ろしてくんない?」
「断る」
「そんな、断言しなくても」
「オレが代わってやろうか? 恭介」
「断る!」
「そんな怒鳴らなくても!」
 ふと、そのとき、唐突に真人の体に網が被さった。
「うわっ」
「確保―!」
「げっ、しまった!」
 佳奈多たちが近寄っていた。気配があまりなかったから油断した。
 だが、もうだいぶ人数が減っている。四人しかいなかった。
「はぁ……はっ……あなたたち、いい加減にしなさい……」
「そういうわけにもいかないさ。だが真人は離してもらおう」
「もう無理よ。話し合いの余地なんてないわ」
「まあそりゃそうか。徹底的に悪いことをしているんだからな」
「あら……自覚があるのね。それならもうくたびれたから、全員網にかかってくれないかしら」
「そんな人を魚みたいに言うやつにゃ、ごめんだな! せめて網を色気に変えることだな!」
「きぃ〜っ! 絶対に許さないわ! あなたたち! みんな、三枝葉留佳、および直枝理樹、棗恭介を捕縛しなさい!」
「了解しました!」
 その四人の動きは凄まじかった。
 それぞれが別個に迫ってくるが、不思議とスキがなかったのだ。点ではなく、面で追いつめてくる感じだった。
(……やばい!)
 と一瞬で感じ取った恭介は、すぐ後ろへ飛び退いた。
「ひゃっ」
 葉留佳が逃げ遅れて網にかかってしまう。
「確保! 三枝葉留佳を確保しました! もう逃げられないわ、こいつ!」
「びぇええ〜ん! ゆ〜る〜し〜て〜!」
「黙りなさい! あなたも生徒指導室行きです! 覚悟なさい!」
「……なぁ〜んちゃって」
「え?」
「じゃじゃーん!」
 葉留佳は、制服の裾から太いハサミを取り出して、ジョキジョキと網を断ち切ってしまった。
「なんで!? あなたなんでそんなもの持ってるの!?」
「へっへ〜ん! 歩く四次元ポケットと呼んでくれたまえ!」
 相変わらず脈絡がなく、一人で話を進める葉留佳は、風紀委員の視線を集めるには十分だった。
「あっ!」
 佳奈多があたりを見回すが、もう恭介と理樹は消えていた。
「あなたねえ、葉留佳! もっ……もういいわ! いい、あなたたち! 棗恭介と直枝理樹が逃げたわ。一人は井ノ原真人を逃がさないために残します。残る二人で絶対に三枝葉留佳を捕まえなさい! 私は残った二人を追うわ!」
「はいっ! 委員長!」
「捕縛したら一人応援に寄越して!」
 佳奈多は舌打ちしながらあたりを見回し、思案した。
 階上か、階下か。
 それだとしたら階上だ。
 上には屋上しかないが、それで正解なのである。
 相手が恭介ならば――。
 
 鈴たちは簡単に風紀委員を撒いてしまえた。
 外に出て、しばらく走れば追ってこなくなった。やっぱり最初からやる気がなかったのだ。佳奈多もいないし、統率を取れる人間もいなかった。
 鈴たちはグラウンドへやって来ていた。
 徐々に沈みゆく夕陽が、大空を赤く染めている。
「ふう……久し振りに外へ出た気がしたぞ」
「君らは一日中缶詰めだったからな」
「もうくたくただ……。いや、もうくちゃくちゃだ」
「鈴さん、鈴さん!」
「ん? どうしたんだ、くど?」
「おほん!」
 クドは胸を張って、咳払い。
「ちゃあんと、鈴さんの心配はわかってます! 私たちがちゃんと猫さんたちのお世話をしておいたのです!」
 鈴はようやく、胸のつかえが取れたような気がした。
「そうか! そうか、よかった! さすがくどだ! あたしら親友だ!」
「べすと、ふれ〜んず! なのですっ!」
「やった! よかった!」
 手を取り合って、喜びのあまり踊り出す二人に、一行は微笑みを浮かべた。
 鈴は、早速猫たちに会いに行こうと思い、みんなにそう言った。
「きっとあたしのことものすごく怒ってるからな。お菓子は今のとこないが、遊んでやらないと」
「ふむ。ところで、鈴君。君は、制服をどうしたのだ?」
「あっ」
 鈴はふと佐々美のことを思い出した。
 ふつふつといやな気持ちが湧いてくる。
「知らん。どっかに無くした」
「おやおや。君はずっと指導室に缶詰めだったのではないかね」
「消えて無くなっちゃったんだ」
「そうか」
 来ヶ谷はそれを尋ねようとはしなかった。すべて受け入れるような優しい微笑みをたたえ、鈴の肩をそっと叩いた。
「行こうか。体育館裏の広場だったな」
 
 みんなと一緒に体育館裏の広場に行くと、猫たちが集まっていた。
「やっぱり、な」
 猫たちは鈴が現れても知らんぷりするなど、一日無視された仕返しをするのだった。
 鈴は一瞬だけ寂しそうな顔をするが、すぐに気を取り直し、近くに行ってしゃがみ込んで、猫に話し出すのだった。
「きょう、一日いなくてごめんな」
 ちょんちょん、と頭を叩くと、くすぐったそうにする。
 それから顎の下あたりをくすぐってやる。
「明日は早起きするようにするから。なんとかするから。そうしたら明日は今日の分までめいっぱい遊ぼうな」
 じょじょに鈴の下に猫たちが集まりだしてきた。
 鈴も微笑んだ。
「くど、猫のお菓子、今も持ってるか?」
「すみません鈴さん。私今は持ってないのです」
「じゃあこまりちゃんは?」
「ごめんね〜、鈴ちゃん。私も」
「うみゅ。そうか。謙吾、予備」
「あいにくだが手持ちがない」
「なんでお前が持ってないんじゃ」
「部活に行くのを強制的に連れて来られたんだ。部活に猫の餌など持っていけるものか」
「もういい。くるがや」
「あいにくだが」
 来ヶ谷も首を横に振った。
「じゃあみおか?」
「私も持っていません」
「え? なんだ? じゃあ全部猫のお菓子あげちゃったのか?」
 鈴が不思議に思ったところで、向こうから人の声が上がった。
「ようやく見つけましたわ」
「あっ」
 佐々美だった。
 鈴の怒りがじょじょに高まってくる。
「何のようじゃ」
「さんざん人に探し回らせておいて……結構な言い草ですのね? まったく、いったい今までどこをほっつき歩いていたんだか」
「え?」
 佐々美の言い方に首を傾げた。
「ほら」
 佐々美は体操服姿だったが、鞄を持っていた。そこから鈴の制服の上着が出てきた。
「あれ、これ、私のだ」
 鈴はびっくりした。
「まったく……こんなに長引くとは思っていませんでしたわ。最初はなんてセリフでこれを突き返してやろうかと思いましたけど……あなたどこにもいないんですもの。教室にもいない、グラウンドにもいない。中庭にもいない。絶対にわたくしの手で返して、馬鹿にしてやろうと思ってましたけど、とんだ時間の無駄でしたわ」
 佐々美は空になった鞄をしょい直すと、ふん、と鼻を鳴らした。
「これで貸し二つ、ですわね。わたくしを馬鹿にしたこと、きっちりと今日の夜にでも返してやりますからね。覚えておきなさい」
「待て、ざざこ」
「佐々美です!」
 怒って顔を赤くする。
「はっ……みっ、宮沢様! なぜこんなところに! わたくしったらすみませんこんな汚い格好で、ええ、あれ、なんで、部活はどうされたんですの?」
「これから行くことにしている」
「お、おーっほっほっほ! 奇遇ですわ、わたくしもこれから部活を始めるところですわ。ちょっとしたウォーミングアップがてらに棗鈴を探しに来たんですけれど、ちょうどよかったですわね! はい、棗さん。制服を返しに来てあげたわたくしに感謝してめいっぱいちょうだい!」
「誰がするか、ぼけっ!」
「むきーっ! なんですって!」
 佐々美は怒って飛びかかろうとしたのだが、
「おい、さー子」
「何ですの!? あと佐々美です!」
「おまえ、この制服の中に餌があったと思うんだが、知らないか?」
「餌? そんなもの見ませんでしたわ。まったく馬鹿馬鹿しい。餌なんてどこにもなかったじゃないですの。あっ、きちんと餌があればわたくしがお世話しようと思いましたわ。ええもちろん!」
「おまえ、もういいわ!」
「なんですって! この恩知らず! 宮沢様がいるからここでバトルはしませんけど、今日の夜、会ったら覚えてなさい!」
「いーっだっ!」
 佐々美とさんざん馬鹿にし合いをやって、鈴は別れた。
「よいしょ」
 制服をいつものように着て、溜息をつく。
「鈴君。彼女とはいったいどうやって会ったのだね? 制服も渡していたようだし」
「言いたくない」
 来ヶ谷は腕を組んで、うん、と頷いた。
「まあ、せっかく返しに来てくれたのだから、鈴よ、あとで礼を言っておくのだな」
「謙吾が言えばいい」
「? なぜ俺になるのだ?」
 謙吾が怪訝そうな顔をする。
「あたしが言っても喧嘩になるだけだからな」
「そうは言うが、俺が言ったとして、あまり感謝の気持ちは伝わらないと思うぞ」
「そうは思わんが」
「うぅむ……」
 謙吾は腕を組んでうなり始めた。
「とにかく、ありがとな。くど。こまりちゃんも一緒にやってくれたのか? ほんとうにありがとうな。みおも一緒だったか。みんなみんな、くちゃくちゃ感謝だ。あとで甘いものおごってあげるからな。はるかやくるがやも一緒だ」
 みんな、笑って手を振った。
 鈴も嬉しくなって、みんなで一緒に野球をしようと言おうと思ったが、恭介たちがまだ帰還してないのを思い出して、それならそれまで猫と遊ぼうと言った。
 それを、「あの……」というクドの声がさえぎった。
「ん?」
「あの、鈴さん。ちょっと申し上げたいことがあるのです」
「どうした? くど」
「あのね〜……鈴ちゃん」
「なんだ、こまりちゃん」
「実は……」
 美魚が話し始める。
「この子たちの世話は、全部、笹瀬川さんがやってくれていたのです」
「え」
 鈴は、ぽかん、とした。
「私たち、鈴さんがなかなか帰ってこないのを心配して、午前にちゃんと猫の世話をしに行ったです。でもそうしたら、全然林の奥から出てきてくれなかったです」
「それでね、途方に暮れてたのを、さーちゃんが助けてくれたの。さーちゃんはお昼休みの終わりぐらいに来てくれたの。それからずぅーっとさーちゃんが世話してくれたんだよ。さーちゃんが餌をあげようとすると、猫ちゃんたちは必ず出てきてくれるの」
 謙吾以外は全員知っている事実のようだった。
 鈴は、開いた口が塞がらない気がした。
「そ、そうだったのか……」
「でも、さーちゃん、絶対に私がやったって言わないでって言うから……」
「全部私たちがやったことになっていたのです! すみませんです!」
「鈴さん。卑怯なことをしてすみませんでした。言い出す機会ならいくらでもあったと思いますが。笹瀬川さんと鈴さんの剣幕がすごいので、言えませんでした」
「今からでも行こうよ、鈴ちゃん!」
「私たちも行くのですっ!」
「行ってこい、鈴」
 鈴はとたんに恥ずかしい気持ちに襲われた。
 頭をかきだす。
「むっ……むりだ」
「ええ、なんで〜」
「くちゃくちゃ言いにくい」
「ありがとう、って言えばいいんですよ! 私たちも一緒に行きます!」
「だって言えない! あんな喧嘩しちゃった後だから!」
 鈴は、なんで今までそのことを三人が黙っていたのか、わからなかった。
 最初に全部黙っていてくれと言った佐々美の言動も理解できなかった。
 だから、自分が謝りに行くのはどうしても避けたかった。
「んなもん無理じゃ! すぐごめんなさいというのは、喧嘩の美学に欠ける!」
「鈴さん……」
「鈴君」
 来ヶ谷が苦笑した。
 ぽん、と頭が撫でられる。
「そうも言ってられないぞ。確かに鈴君に責任はない。でもそれで、一言素直な気持ちで言えれば、笹瀬川女史との友情は揺るぎないものになるだろう。君は、もう一人の親友を得られるところに立っているわけだよ。まことにあの女史は素晴らしい人だ。本当に悪い人だったら、自分のしたことを喧伝するはずなのに、それをしない。素直ないい子ではないか。喧嘩っぱやくなるのも、君のことを嫌っているからではないよ。君とじゃれ合うのが大好きなんだ。行ってくるといい。私たちは、君たちがずっと喧嘩したままになっているのを望まない」
「う……」
 鈴はそうなると恥ずかしい気がした。
 自分も佐々美と似た気持ちだったからだ。
「うん……」
 鈴ははっきりと首を振った。
「行ってくる」
「私たちも行こう」
「いや、一人で行かせてくれ。なんちゅーか……その、」
 鈴はうつむいて顔を赤くした。
 どうもリトルバスターズの面々の前でこっぱずかしいセリフを言える自信がなかったからだ。
「女の事情ってやつだ」
「鈴君。それは」
「なんだか妙な響きに聞こえるのです〜……」
 来ヶ谷がおかしそうに笑っていた。
「さて、俺はそろそろ部活に行くとするか。これ以上遅刻してられん」
 謙吾が手を振った。
「ではな。鈴。また夕食で会おう」
 謙吾の表情は、すべて鈴を信頼するものだった。
 余計な言葉は、謙吾たちには必要ないものだった。
「うん」
 鈴はそれに頷き返すと、佐々美が去っていった方向へ、突っ走っていった。
 
「はあっ……はっ……はあ……」
 佳奈多は屋上の扉を開けた。
 屋上には、確かに恭介たちのいる気配がした。だが鍵がかかっていたため、一旦職員室まで取りに行ったのだ。
 自分ならばたいていどんな鍵でも貸してくれる。
 ただ四階分も上り下りしたので、息が上がっていた。
「ようやく見つけたわ……」
「げっ」
「ふ、二木さん!」
 恭介と理樹はあろうことかフェンスの前で校庭を眺めていた。
「ずいぶんと、面倒なことをしてくれたものね……一体どうやって屋上に入ったの?」
「参ったな……まさかここがばれちまうとは」
「あなたが考えそうなこと」
 佳奈多は、すぐに、恭介たちは階下にいないとわかったのだ。
 三階にいるよりは、一階にいたほうがいい。それは、どこからでもいざとなれば外に出ることができるからだ。
 だから、さっき葉留佳が攪乱したとき、とっさに恭介たちは階下へ行ったものだと思った。
 だけど違った。
 裏をかいて、ほとぼりが冷めるまで絶対安全な場所に隠れる、というのが恭介のやり口だったと思い出したのだ。
「ちぇっ。鍵だよ」
「鍵?」
「そうだ。その、床に近いところの窓の鍵を、ドライバーで外せるようになってるんだ。椅子を積んで、そこから昇ってきたわけさ」
「あそこね……」
 佳奈多は、もう絶対にあの道を使わせないようにしようと思った。鍵を取り替えてしまえばドライバー一本でどうこうはできない。
「ま、もうあなたたちの負けよ。降参なさい」
「あんた一人で俺たちを捕まえられるか?」
「女手一つ……ってわけね。馬鹿にしないで」
 佳奈多は、恭介の動きを凝視した。
 なにやら仕掛けてくるふうには見えない。だが、常人では思いもつかない奇策をかけてくるのがこの棗恭介という男だ。何があるのか、まだ油断できない。
「ふ」
 ふと、恭介は微笑みを浮かべた。
「まあそんな身構えるなよ。俺は、ここに追い込まれたってだけで完全に敗北だと思ってるんだから」
「そうでしょうね。あなたの敗北。この無駄骨に近い鬼ごっこも終わりだわ」
 恭介の鋭く輝く瞳に、敗北を認めた色はない。なにかを狙っている心だ。
「じゃあさっさと網にかかりなさい。簡単な罰で済むと思わないでちょうだい」
「ところで一ついいか?」
「何かしら」
「そこの、窓を使った秘密の通路」
 恭介が指差した。
「できれば、塞がないでもらいたい」
「私が?」
「塞ぐんだろ」
 佳奈多は肯定も否定もしなかった。
「ここを憩いの場にしているやつが俺の仲間にいる。それを取り上げてしまいたくはない」
「屋上は校則によって立ち入り禁止となっているわ。私がどう足掻いたって無駄よ」
「じゃあ賭けをしよう」
 この男の思考はいったい何なのか。話を聞いているのかいないのか。
「さっき俺は敗北だと言ったが、一度決まり切った敗北をこれから取り戻したいと思う」
「へえ。やっぱり観念していなかったってわけ。いいわ」
「俺がここから逃げられたら俺の勝ち。逃げられなかったらお前の勝ち。俺が勝ったら要求を呑んでくれ。お前が勝ったら何でもお前の言うことを聞こう」
「好きになさい」
 佳奈多は、おそらく友人の神北小毬がここを利用しているのだろうと考えた。ときどき、そんな噂を聞く。
「でもどうやって逃げるつもり?」
「それはだな、」
 恭介がフェンスに手を掛けた。
「こうするんだ」
「え? ちょっと!」
 佳奈多はとんでもないものを見た。
 恭介と理樹が、フェンスをよじ昇っているのだ。
「ちょっと、あなた何してるの!」
 向こうの敷地に飛び降りる。
 フェンス越しに、棗恭介の誇らしげな顔が見える。
 たいして理樹は不安そうに友人の顔を見上げる。
 命綱をつけている気配はない。
 まさか……、と佳奈多の頭が緊張する。
「ちょっと待ちなさい! あなた、自分が何をしているかわかっているの!」
「わかっている」
 そうして理樹の肩を抱いた。
「じゃあな」
 飛び降りた。
 佳奈多は悲鳴を上げた。
 慌ててフェンスにしがみつく。
 下を覗こうとするが、よく見えない。
 一体どうなったのか、どうしてフェンス越しではよく見えないのか、焦れったく思っていると、
「あれ?」
 妙な声が聞こえた。
「おっかしーな……鍵が開かない」
「ええー」
「理樹。そっちの窓はどうだ?」
「全部鍵がしまってるよ!」
「なにい! じゃあここから出られないじゃないか!」
「どうすんのさ! 恭介!」
「待て。はやまるな。ここに隠れていよう。最終手段がある」
「もう僕いやだよ。大人しく二木さんに捕まろうよ……」
「おまえは俺があいつの言いなりになるのをよしとするのか!」
 もう聞いていられなかった。なんでこんな馬鹿なことに気が付かなかったのか、と自分を責めたくなった。
 ロープだ。ロープを使ったんだ。
 それで下の階のベランダに飛び降りた。
 佳奈多はすっ飛んでいき、屋上の扉の鍵を閉めた。そのまま下の教室へ行って、真下にあると思われる教室に飛び込んでいった。
「あなたたちねえ……」
 教室に飛び込んでくる佳奈多の形相はまるで鬼神のように見えただろう。
 恭介は顔を真っ青にして隠れた。
「自分たちがいったいどういうことをしているのか、わかっているの!?」
 やっぱりロープが垂れ下がっていた。おそらくあれはフェンスにわかりづらく括りつけられていたのだろう。動揺のせいで見えなかったのだ。
「理樹、逃げるぞ!」
 またもや恭介はロープを使って逃げようとした。
 そこにもあったというのか。
「いったいあなた何本ロープ持ってんのよ!」
 絶対に逃がすもんか。
 佳奈多は教室を出て、下の階へ行った。
 二階へ到着して教室に入ると、またも恭介の姿があった。
「ちくしょう! 開かねえ!」
「どうすんのさ!」
「げっ! 二木!」
 窓のところで悪戦苦闘している。自分が鍵を開けない限り、出られはしないだろう。
「……ようやく詰め、ね。ロープも括りつけられてないようだし。ま、もっともこの後で全ベランダを点検しますけれどね」
 窓に近付いた。佳奈多は自分が恐ろしい形相をしているのだろうと思った。あの棗恭介がガラにもなく顔を真っ青にしているからだ。
「い、いやぁ……まだ、もうちょっとあればな〜、と……」
「いったい何があるっていうの。見せてごらんなさい」
「じゃあ見せてやるよ!」
 いきなり恭介は胸元からロープを取り出し、
(まだ持ってるの!)
 ベランダの欄干に括りつけ、そうして理樹を抱えながら飛び降りようとした。
(一階! 降りようとしている!)
 佳奈多はもう許せなかった。
 ここまでしぶとく逃げ回った敵は棗恭介以外にいない。
 なら自分も女の意地を見せよう。
 絶対に逃がさない。
……スカートの中が見えてしまう心配があるが、もうそんなことよりも、あの棗恭介という馬鹿を徹底的に負かせるほうが必要だった。
「待ちなさい! この大馬鹿!」
「げっ」
 佳奈多はロープをしっかりと掴み、それを使って校舎の壁をするすると降りていくのだった。
「そこまでするか! おい! 丸見えだぞ!」
「うっさい! 覚悟しなさい!」
「理樹! 逃げるぞっ!」
「うん!」
「待ちなさい!」
 
 鈴は走った。
 走って、走って、ようやく、グラウンドの手前で、佐々美に追い付くことができた。
「はあっ……はっ……はあ……」
「何ですの?」
 佐々美が怪訝そうに振り返る。
「ちょっと待ってくれ……」
「あんまり手間をかけないでいただけます? 時間が迫っているもので。で、何?」
「うん。その……」
 鈴はあれこれと走りながらセリフを考えたが、うまく思いつかなかった。
 ただ、佐々美のことが今までほど嫌いじゃない。それだけが頭にあって、それをそのまま伝えることができればそれでよかったのだ。
「ありがとな。その、あたしの猫の世話をしてくれて」
「あっ!」
 急に佐々美の顔が真っ赤になる。
「あ、あの、それはっ!」
「こまりちゃんたちに聞いたんだ」
「あ、あの子ってば……!」
「こまりちゃんたちを、怒らないでほしいんだ」
 拳を握りしめていたのを、佐々美は恥ずかしそうに解いた。
「べっ、べつにそんなことしませんわよ。ただ、絶対な敵であるあなたにそれを知られたくなかっただけで……」
「うん。べつに、これからそういうことをわざわざ言えとは言わん」
「はあ?」
 佐々美はぽかん、とした。
「だけど、ありがとう。これだけ言いたかったんだ。じゃあな」
「お、お待ちなさい!」
 立ち去ろうとする鈴を、佐々美は呼び止める。
「そ、の……」
「なんだ?」
「え、えっと……ちょ、ちょっと待ってなさい! 今から言うことを考えますから!」
 佐々美様―? と仲間が呼んでいる声が聞こえる。
 佐々美は振り返って、「今行きます!」とだけ答えた。
「あ、あの……」
「はっきりせんか」
 鈴もなんだかこっぱずかしくなってきた。
「……べ、べつにねえ、あの猫たちが、か、かわいそうだったからですわ。ただそれだけですのよ。悪くって?」
「ううん」
「べつに、あんたのためにやったことじゃありません! これは覚えてらっしゃい!」
「いいんだ。それで」
 鈴は笑った。
 笑われたことに対して佐々美は、「な、なんですの。変な棗鈴ね!」とそっぽをむいてしまった。
「とにかく、ありがとう」
「あなた、もうそれいいですっ! 調子狂うってもんですわ!」
「佐々美様―? どうしましたー?」
「わたくし抜きで始めていなさい! すぐ戻ります!」
 佐々美は困惑したような、それでもちょっぴり嬉しそうな表情で、そっと、手を差し出した。
「なんじゃそれは?」
「べ、べつに、これといった意味はありませんわ。手を合わせるの、しないの?」
「うみゅ」
 きゅっ、と手を握りしめた。
 佐々美の気持ちのようなものが、ちょっぴり伝わった気がした。
「さあ」
 佐々美は手をほどく。
「それじゃあ、わたくし、部活がありますので。ごきげんよう」
「おう。頑張ってこい」
「ふん」
 鈴はぽつん、と一人残った。
 なんだかまだ言い足りなくて、鈴は、去っていく佐々美に、大声で言った。
「ありがとなー! ささみー!」
 佐々美は振り返って、真っ赤な顔で、なにか言っていた。
 なんだかほっとした。
 すごく簡単なことだった。
 とても慌ただしい一日だった気がするが、これにて一件落着、佐々美ともちょっぴり仲良くなれたし、気持ちも晴れ晴れ。
 ……と、思っていた。
 
「待ぁ〜ちぃ〜なぁ〜さぁ〜い〜!」
「もう勘弁してくれえっ!」
 ふと振り返ると、情けない兄貴が、鬼の形相をした二木佳奈多に追っかけ回されていた。
「あとはあなただけなのよ? 棗恭介っ!」
「もう降参するから、追ってこないでくれ!」
「だったらあなたから止まりなさい? 何にもしないから。絶対に殴ったりしないから。ねえ? だったら止まれるでしょう?」
「無理だぁぁぁ――――っ!」
「賢明な判断かもね? 私はあなたをこのまま捕まえたいわ。捕まえて、この私じきじきに! 適正な罰を下します! ちょっと待ちなさいほら! もうちょっと、もうちょっとで……!」
「鈴! 助けてくれっ!」
 なぜか鈴のほうへ向かってくるのだった。
「棗鈴? あなたもいたのね! リトルバスターズは全員課題よ! この私の労力分の三倍の課題を用意しますからね! 覚悟なさい!」
 鈴は駆けだした。すぐ全力疾走になった。
「馬鹿兄貴! おまえが先に捕まれ!」
「いやだっ! 鈴が先に行ってくれ! あいつは俺を半殺しにしようとしている! 鈴が先に行けば、同じ女だ。手荒な真似はしないはずだ!」
「棗鈴! あなたが先に来ても同じ事よ! 直枝理樹と同じ運命を歩むがいいわ!」
「いったい理樹に何したんじゃっ!」
 鈴は走りながら慟哭した。
「もういやじゃぁぁ――――っ!」
 黄昏に慟哭が響き渡った。
 
 ピーンポーンパーンポーン。
 校内放送が流れる。
「2年E組の神北小毬さん、棗鈴さん、来ヶ谷唯湖さん、能美クドリャフカさん、西園美魚さん、宮沢謙吾君。および2年A組の三枝葉留佳さん。3年C組の棗恭介君。至急職員室まで来るように。くり返します。至急職員室まで来るように。……以上」
 リトルバスターズの逃亡劇はここで幕を閉じた。


 おまけ

「結局こうなっちゃったね……」
 前よりも広い部屋に移され、目の前に山のように積み上げられた課題を見つめ、溜息を一つついた。
「まあ、みんなでやれるんだから、前よりいいじゃないか」
「よくない! よくないぞ恭介! 少なくとも俺はこんなに課題を出される謂われはないぞ!」
「絶対お姉ちゃんの私怨だよこれ……ヨヨヨ」
「そこ! 私語は慎みなさい!」
 部屋の中央には仁王立ちした二木佳奈多が立っていた。誰も逃がすまいと目を四方に光らせている。
「まあまあ佳奈多君。こっちでお茶でも一杯どうだ」
「そこっ! なんでお茶を持ち込んでいるの! 飲まず食わずでやりなさい!」
「きびしいのです〜……」
「かなちゃ〜ん、お菓子とか、どう?」
「必要ありません!」
「何でそんなにぷりぷりしてんだ? 何か前より機嫌悪くねえ?」
「疲労のせいかと」
「まったく誰のせいよっ!」
 この中で一番損をしたのは誰かと言われれば……この中央の人間である。

「もういやじゃぁぁ――――――っ!」
 鈴の慟哭、再び。

 

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