(2)

 勉強はやはり佳奈多が一番できた。彼女が一番努力しているんだから当然だ。その次が理樹。理樹は理解速度があり、すいすい勉強が進んでいった。

 真人に至っては、もう言葉に言い尽くせないほど、成績が酷かった。

「直枝……?」

「な、何かな?」

 何だかものすごく冷たい声で呼ばれるので、心を鷲掴みされた感覚を覚える。

「この男、裏口入学じゃないでしょうね?」

「そ、そんなことはないよ!」

「じゃあ一体なんでこういう解答が出るの! 一九四五年、終戦した日本とアメリカとの戦争を何というか……答えは、『自民党一揆』」

 理樹は苦い顔で笑うしかなかった。

「あ、はは、ははは……」

「私は日本国民として、この男を日本国民だとは認めたくないわ」

「ちょっとど忘れしちまっただけだろうがよぉ! かてぇこと言うなって。三枝のねーちゃん」

 彼女は苛々しながら額を押さえた。

「ねぇ、現実的な提案をさせてもらいたいんだけど、」

「うん。何かな?」

「この男を置いて、二人だけで勉強しない? 張り合いがなさすぎて、こっちが怪我するわ。どう?」

「うーん……」

 とは言っても、やはり真人のことが気になる理樹は、イエスとは言えない。

「真人は僕が教えることにするよ。別にみんなが同じところを勉強する必要はないじゃない。真人には授業で出た問題プリントをやってもらって、採点は僕がするよ。解説も僕がするから」

「はあ」

 佳奈多は溜息をついた。

「やれやれね。リトルバスターズって本当に大変。こうやって無理にでもお荷物を引っ張っていかなきゃならないんだから」

「んだとテメーッ!」

「まあ、抑えて。抑えて」

 理樹は激昂する真人の体を押さえる。佳奈多はフン、と鼻を鳴らしながら、窓から洩れる涼風に髪を靡かせている。

「二木さん……ちょっと今の言い方は酷いよ」

「ふん。だから何? 私はこんなグループいつでもやめていいわ。あ〜……涼しい。葉留佳と旅行にでも行きたくなっちゃった。まったく早くノルマを終わらせたいんだけど?」

 ぎろり、と見下した眼で真人を眺める。

 高慢な彼女に呆れて物も言えなくなっている真人を尻目に、理樹は言った。

「二木さんは、あまり友達と一緒に勉強したりしないの?」

「ないわね。私には誰も必要ないし、一人でやった方がはかどるから」佳奈多はつまらなさそうに言った。「ところで、」

「ん?」

「さっさと始めないの? その勉強」

「あっ! う、うん! 今すぐやろう!」

「ふん」

 どうかしら、と言わんばかりに挑発的な笑みで見つめる佳奈多に、真人は握り拳を作った。

 悔しい……。あの女に邪魔者扱いされることがこんなにも悔しかったとは。

 理樹が一生懸命フォローしてくれるのもなんだか申し訳ない。そして情けない。

 真人は絶対に後で復讐してやると決めてペンを握った。

 

 お昼になった。

 勉強会は一時休憩とし、理樹と真人は食堂の券売機へと向かった。

 食堂も一部のメニューではあるが、営業しているのだ。十人程度の男女の寮生が怠そうな顔で食事をしに来る。

 真人が券売機にお金を入れながらぼやく。

「ふぅーっ……ったく、理樹も人が良すぎるぜ。あんな女に優しくするたぁよう」

「うん。……でもまあ、何だか憎めないじゃない」

 理樹は微笑んだ。

 彼女が少々高圧的なのは、人一倍自分に対して厳しいからだった。

 理樹は佳奈多のことをどうしても嫌いになれなかった。

「へえー……そんなもんかな。オレなんかすでに怒りゲージがMAXなんだけどよぉ」

「喧嘩は駄目だよ」

「恭介がいねぇしな」

 真人は恭介がいないと誰とも喧嘩しない。

「そういう問題じゃなくって……」

「わぁーってるよ。しねぇよ、女相手に喧嘩なんて。鈴以外」

 鈴には何故かいつも負けている。

「なぁーにすっかなぁ……」

「真人、はやくしてよ」

「ちょっと待て。頭が動かねぇ……。筋肉率を今計算しようとしたんだが、今疲れすぎてて動かねぇんだ……うーん、カツにするか、メンチにするか……」

「どっちだって一緒じゃないかなぁ……」

 真人は笑って、

「決めた。メンチにするぜ」

「まったくもう」

 理樹はざるそばにした。暑くてたまらないからだった。

 佳奈多はそのときどうしていたかというと、先に一人で席について、上品にサンドイッチを食べていた。

 理樹たちが食事を持って戻ると、ちょうど彼女は食休みで、ぼうっと窓の外を見ているころだった。

「お待たせ」

 理樹が言うと、振り向くが、返事はしない。想像以上にはかどらなかった午前中の恨みをまだ根に持っているようだ。

「暑苦しい食事」

 と、真人のメンチカツ定食を見て苦言を呈す。

 真人はにやりとして、

「筋肉つけんだよ」と言う。

「一番頭使ってない人間が、ずいぶんと豪勢ね」

「けっ。筋肉使ったんだから補給すんのは当たり前だろ?」

「はあ」

 佳奈多は呆れて首を振っている。

「ちょっと待って。会話が繋がっているようで繋がってないから」

「え、なんでだよ? 頭の筋肉使ったろ?」

「脳みその筋肉を何かによって補充するのは構わないけどね、午後の勉強、覚悟しときなさいよ。寝たら引っぱたくから」

「ふ……。避けてやらぁ」

「どうやって……」

 何だかんだ言いつつも、結局仲はそう悪くなさそうな二人だと理樹は思った。

 佳奈多はサンドイッチを頬張り、それを午後の紅茶で流し込んで、ぱっちりと目を開いた。

「よし」

 自分に気合いを入れるようにして、勉強道具を再び取り出す。

「おいおい! オレらが飯食ってる前でも勉強すんのかよ!」

「悪い? あなたたちのせいで勉強がはかどらなかったのよ。空いた時間に勉強するのは当然でしょ」

「だけどよぉ……」

「落ち着かないというか、そわそわするというか……」

 理樹は佳奈多が自分たちの食器の前で勉強するのでソースや味噌汁などが跳ねないように気を付けなければならなかった。

「なによ? なんか文句あるの?」

「ありません」

 二人の馬鹿たちはそろって口をつぐんだ。

 

 ご飯を食べ終わって、午後の一時。

 みっちり勉強をやって、それから待っていたのは解放のひとときだった。

「やったぁー!」

「いやっほぉぉ――――いっ! 終わり! 終わりっ!」

 二人は手をたたき合って喜ぶ。

 その間で二木佳奈多が頬杖をつきながら溜息を吐いた。

 何やってるのかしら、と呟く。

「どんだけ勉強嫌いなのよあなた達……。言っておくけどね、受験生が――」

「わかってるよ。二木さん」

 理樹は、やわらかく微笑みを浮かべた。

「勉強は確かに大事だ。でも僕らには解放を喜ぶ権利がある!」

「わかってないわよ」

 かちんときた。

「いい? 受験生が午後の時間を全部ふいにするなんて聞いたことがないんだから。私が落ちてあなた達も落ちたら、あなた達のせいだから」

 理樹は勉強の必要性を感じてはいたが、彼女の高速な授業に頭も体もくたくたになっていたので、勉強の終わりのこの瞬間は喜びもひとしおである。

「やった、やった!」

「ってちょっと、話聞いてるのあなた達……」

「うっせぇな! 聞いてるよそんぐれぇ! で、何して遊ぶ? ん? 筋肉か? それとも、筋肉か?」

「真人、それって二択じゃないよ!」

「おっとすまねぇ!」

「ううん!」

「はぁ……」

 どこかネジが外れたようにはしゃいでいる二人を見て、佳奈多はちょっと引いた。

 ともあれ、二人は約束を守って時間まで寝ないで頑張ったのだから、今日ぐらいは遊びを認めてやってもいいんじゃないかという気もしてきた。

(はっ……。いけないいけない)

 佳奈多は首を振る。

 こっちはこの二人のおかげで迷惑してるのだ。

 そりゃ、勉強を教えてやろうと言ったのはこっちだ。

 けれどそれは、直枝理樹の思考力を期待してのことだ。

 彼は一時学年首位だったから、彼が勉学に目覚めれば、自分にやがてそれなりの利益をもたらすだろうという打算的狙いを持ってのことだった。

 しかしそれが裏目に出たかのように、佳奈多は結局この馬鹿の面倒を見る羽目になった。

 直枝理樹、彼は結局馬鹿だった。

(私が充実感を感じてどうするの……。見たところ何かしでかそうとしているようだけど、冷静に、ちゃっちゃと対応して、さっさと切り上げなきゃ)

 彼女は時計を確認する。

 時刻、一時。

「……」

 目の前には腕を組み合わせて踊っている二人が。

 佳奈多は、少し目眩がした。

「い、いいわ。私も『少しだけなら』一緒に遊んであげる。リトルバスターズ、ですものね……ええ……」

「おっ、わかってるね! 二木さん!」

「おまえなら立派なリトルバスターザーになれるぜ!」

「はぁ……」

 リトルバスターザーとは何か。

 もしかしてリトルバスターズのメンバーと言いたいのだろうか。

 彼の英語力は底抜けだった。もちろん、枯渇しているという意味で底抜けだった。

「言っておくけど、今日だけですからね。この後棗恭介とか、棗鈴なんかがしゃしゃり出てきて、延々とお遊びに引っ張り回されるのは勘弁よ。私にだってプライドはある。ろくでもない真似なんか、本当はできないんだから」

 立場上。

「うん。うん。わかってるよ」

 理樹は満面の笑顔で言った。

 わかっているのだろうか? 彼女はふと不安になる。

「いやぁ、今日はいい天気だよねぇ」

 良すぎて暑いくらいなんだけど? と思った。

「今日みたいな日には外で目一杯汗流したい気もするけど、二木さん女の子だしねぇ」

 おい。何だって。

「じゃあまあ、譲歩案として、ちょっと軽めの筋肉遊びにしとかねぇ?」

「そうだね。譲歩案として。譲歩案として……」

 彼女は遠い目をして、すっと椅子を引いて立ち上がろうとした。

 直後、がっし、と手を掴まれる。

「いやだっ! 離しなさい!」

「えぇー……どこへ行くのさぁ……」

「ほれほれ。暑ぅ〜い、夏の饗宴が待ってるぜぇ……逃げようったって、そうはいかねぇ……。こっちはさんざん脳が煮えたぎってんだ! このまま発散しなきゃぶっ飛んじまうんだよ! 色々な意味で!」

「あなたの焼き豚のようになった脳みその筋肉なんて知らないわよ! いいから離しなさい! 離せ! 私運動苦手なのよ! 得意じゃないの!」

 理樹が薄笑いを浮かべてぺろりと舌なめずりした。瞳は混乱のためにぐるぐる巻きになっている。

「いいからさぁ〜……着替えておいでよっ! 体操着とジャージにね! これから体育館の使用許可をもらってくるから!」

「えっ、えぇーっ!」

 彼女は放り出され、後ろでさんざ笑いさざめく二人の声を聞きながら、きっと睨み付けて、鞄を持って走り出した。

 何をされるかわからない!

 このまま逃げるという手段もあるが、あの変なところで異常に執念深いリトルバスターズの馬鹿共を敵に回したら女子寮の部屋にまでストーキングされかねない。恐ろしくなった佳奈多は、力一杯虚勢を張りながら、食堂を飛び出して女子寮に行った。

 自室に戻って、後ろ手でドアを閉めて、息を切らす。

「はぁ……はぁ……」

 彼女は頭を抱えて、膝をついた。

「ど、どうしたら……」

 着替えるしかない。

 じきに携帯の着信が鳴って呼び出される。……

「着替えたわよ。……正気? 念のため聞いとくけど」

「遊びってのはいろいろあるけどねぇ、」理樹は言った。

「真人が、二木さんとは是非スポーツで遊びたいって言ってるもんだから」

 あの男! 覚えていろ!

「ん? どうかした?」

「い、いいえ……」

 私が運動苦手だって知っているくせに……。佳奈多はそう思ったが、目の前にいない相手に毒は吐けない。

 でも、相手のあの男は運動が得意そうだ……。

 なるべく、威厳を失わないようにしなければ。佳奈多はそれだけ気を付けていようと思った。

「ところで、本気なの? 体育館を借りるなんて。部活動の人たちは?」

「彼らはもう上がってるはずだよ。後は先生に確認して、スポーツで軽く汗を流したいんです。って言えば、借りられる」

「本当かしら……」

 でも、ものすごい室温なんじゃないかしら。

 佳奈多のそんな予感は、当たった。

 

「暑いわよっ!」

「しゃあねぇだろ。体育館は蒸すんだから」

「にしても限度ってものがあるでしょう! ほら、はやく開けなさいよ!」

 佳奈多は顔を真っ赤にして、窓を開けるよう理樹に指示する。

「はいはい。わかったよ」

「でもよ、おまえの服装も暑くねぇ? なんで長袖なんか着てんだ?」

「そっ……それは……」

 佳奈多は腕を抱いた。

 傷の跡。

 中学生時代の、当時興味を持っていた男子に言われた一言が胸の奥でうずく。

 ひりひりと、刺さるように。

「ちょっと怪我しちゃったから。……風に当たるとまずいの」

「あれ? 怪我か? だったら風に当てた方がはやく治るんじゃねぇか?」

 真人が近寄ってくる。

「どれ、見せてみろよ? 化膿しちまうぞ危ねぇぞぉ。おまえ、そういうのはな、ちゃんと風に当てた方が乾燥して早くかさぶたになんだよ。知らねぇのかよ」

 真人が知った風に話しながら手を近付けた時だ。

「いやっ!」

 佳奈多が高い声を上げて、腕を抱きながら後ずさった。

 この真剣な拒絶には、馬鹿の真人も、ぽかんとした。

「二木さん、どうしたの?」

 声を聞きつけて尋常じゃないと思ったのか理樹がやってくる。

「り、理樹……オレ、何もしてねぇぞ? ……」

「まさか。真人が何かしたんじゃないの?」

「ええー! オレのこと疑ってんのかよ。ほら、こいつがこうやって腕まくらねぇから、オレがまくってやろうとしたんだよ」

 理樹は佳奈多と真人を見て、

「……あんまり余計なことしないほうがいいんじゃ?」

 佳奈多がいつになくしおらしくしているので、理樹はちょっと佳奈多の肩を持ちたくなった。

「ねぇ、大丈夫? 二木さん」

「だ、大丈夫よ……。この馬鹿が、私の変なところ触ろうとしたから、ちょっと声上げただけ」

「真人〜……」

「ええっ、なんでだよ!」

 佳奈多は眉を下げて真人をじっと見つめた。

 憤慨して理樹に文句を垂れている彼に、佳奈多は「ごめんなさい……」と声に出さないで口の中で謝った。

 

「それにしても暑いよな。こうなってくっと筋肉が盛り上がってくるぜ」

「やめて。余計暑苦しいから」

「筋肉から離れなさいよ……」

「悪い。そいつはできねぇ相談だ」

 学ランを脱いで、ティーシャツ一枚になった真人は、余計体の筋肉が強調されて、一回り大きくなったように見えた。

「ほっ、ほっ、ほっ」

 一人で勝手に筋トレを始める真人に、再び佳奈多が悲鳴を上げる。

「やっ、やめなさい! ほら直枝! こいつに運動をやめさせなさい! 暑すぎるわ! 暑い! ねぇクーラーないのここ? 暑すぎるわよ!」

「残念だけど無いんだよねぇ……。でも市の体育館は人でいっぱいだし……ほら、窓全部開けてきたから、きっともう少し時間が経てば気持ちいい風が入ってくるよ。ねぇねぇ真人、二木さんがちょっと引いてるから、筋トレはまた今度にしとこうよ」

「ふっ、ふっ、ふっ……馬鹿かおまえ! こうやって体をほぐしとかねぇと、いざってときに怪我するだろうが!」

「いや、それはどっちかっていうと、ストレッチじゃないかなぁ……真人のしていることは筋肉を硬直させていることだよね」

「おっとそうだった。でもよ、筋トレしながら筋肉も柔らかくなったら、そりゃ画期的な発明じゃねぇか?」

 立ち上がって、にかっと笑う真人に、佳奈多も理樹も「こいつはアホか?」といった顔をした。

「うん、ほんとそうだよね……原理を逆転させてるからね……そんなことができたらさすがに画期的な発明だよ……」

「画期的、というだけで実用性は無いわね」

 そもそも一体こいつの頭がどういう原理で動いているのか、詳しく知りたいと思った佳奈多だった。

「よしっ! んじゃストレッチすっか!」

「ねぇ直枝、これから何の遊びをするの?」

「え? そうだねぇ」

「ドッジボール!」

「却下だよ」

 理樹が半眼で真人の案を否定した。

「真人の魂胆見え見えだから。男として恥ずかしくないの?」

「男女平等だって言ってんだろ! オレは毎回よぉ!」

「それ、かなり悪い発言だから。……それなのに、毎回来ヶ谷さんにはコテンパンにやられてるよね」

「あいつはただ身体能力があり得ないだけだっ!」

 どんなふうにやられてるんだろう……。佳奈多は、真人の盛大なやられっぷりを想像した。

「ほら、まあ、ここは穏便に楽しく汗を流そうよ。僕、こんなメンバーで遊ぶのは初めてでなんだか楽しみだな」

 爽やかに微笑んでいる。佳奈多は、理樹の線の細やかな笑顔に、ちょっと胸がどきりとした。

「しゃーねぇっ。穏やかに、スポーツで、誰かさんをコテンパンにしてやっか」

「あ?」

 凄む佳奈多。

 この男だけには異性の魅力を感じない。いや、感じてはならない。

「おっと。失礼」

 手でジェスチャーして、真人は床に寝っ転がってストレッチを開始する。

「二木さんも、ほら」

「ちっ……」

「舌打ちしちゃだめだよ」

 佳奈多は理樹の隣に座ってストレッチを始める。

 ストレッチの知識なんか全くなかった佳奈多は、真人と理樹の入念なストレッチに驚いた。

「次はこう。足をぎゅっと伸ばして。ちゃんとこうやって筋肉を伸ばしとかないと、あとで怪我するから」

「そ、そんな激しいスポーツをするの……?」

「保険だよ。保険」

 実際リトルバスターズの遊びは怪我が若干伴う。主に真人、謙吾たちあたりが。

 それでも鈴や理樹だって足首をひねったり、筋肉を痛めたりすることもある。

「い、いつもこんなことをしているのね……」

「いつもじゃないよ。今日は特別」

「そういえば、今日は他のリトルバスターズのメンバーがいないわね。棗恭介がいないのはわかるけど、他のみんなはどうして?」

「えっ」

 理樹は目を丸くして、真人に、

「真人、他のみんなってどうしてるっけ?」

「あぁ?」

 遠くで一人入念にストレッチしていた真人が顔を上げた。

「えーっと……オレも全員の行動を把握しているわけじゃねぇからなぁ」

「意外ね」

 佳奈多は正直に思ったままのことを口にしていた。

「あなたたちって、いっつも一緒にいると思っていたけれど」

「いやまあ、夏休みだからね」

「おおかたは帰省してんだよ」

 それは佳奈多も理解できた。現に葉留佳は実家に帰ってきており、新しい「あの家」で、親子水入らずの生活をしている。

「謙吾は部活の合宿だしな」

「そうね。期待のホープだし」

 宮沢謙吾は学校外でも超有名人だ。全国大会の最終準備に向けて、避暑地で合宿を行っている。

「鈴は自宅に籠もってゲームと漫画三昧だろ。来ヶ谷は何してんのか知らねぇし、クー公もそういや知らねぇや」

「意外とあなた、孤立してるのね……」

「なんだとぉ! オレがハブられてるだとぉ!」

 目を丸くして驚いている。

 自覚ないのか。

「真人がアルバイトばっかり行ってるから、知らないだけだよ。みんなちゃんと受験勉強頑張ってるよ。西園さんも、クドも、葉留佳さんも、来ヶ谷さんも、もちろん鈴も、ちゃんと塾にも通ってるし、模試も定期的に受けてるんだから」

「ところで、なんであなたはみんなと足並みを揃えてないのかしら?」

「ん? まぁ……」

 彼は足を組んで腰のストレッチを行いながら、曖昧な笑顔を浮かべた。

「女の子たちは女の子たちで一致団結しているし、僕らは僕らで、結構自由にやってるからかな……」

「理由になってないでしょう。神北さんみたいにちょっとは真面目にやったらどうなの? 彼女、学年主席でしょ」

 実際神北小毬の三年生になってからの猛追はすごかった。

 リトルバスターズとしての活動もなおざりにすることがなく、それでいて成績はぐんぐん向上している。

「小毬さんはすごい人だよ。僕らなんかとは違うな」

「あなたは帰省しないの?」

 そうすると理樹は表情を曇らせた。

 いや、と答える。

「意外と人の少ない男子寮もいいもんだよ。恭介と鈴が置いてってる漫画も読み放題だし、近くにコンビニも映画館もあるし、ラーメン屋だって……」

「お家の人とか心配しないの?」

 だんだん説教っぽくなってくるのを佳奈多は自覚していた。

 自分の現状が、納得できないから、それを他人にぶつけることで、埋め合わせようとしているのだ。そこまでは自覚できていなかったが、でも、そんな自分にちょっとした違和感をなら、感じていた。

「ま、まぁ……」

 理樹は頬を掻きながら話題を逸らした。

「ところでゲームは何にする?」

「オレは何でもいいぜ? 腕立て伏せ百回勝負でも、腹筋百回勝負でも、匍匐前進レースでもよっ!」

「うわぁ、それ、全然ストレッチ関係ないよねぇ……」

「やめて。言葉を聞いただけでも暑苦しくなるわ。あなた」

 佳奈多は聞いてはならない質問だと思ったので、理樹の話題の振りに乗ってあげることにした。その時に交わした彼の視線が、なんだかすまなさそうにしているのに少しどきんとさせられながら。

「えー。じゃあ、シャドーボクシングにする?」

「意味不明よ。もはや……」

「そもそも全部、ここが体育館であることは関係ないよね。全然……」

 ようやく涼しく乾燥した風が入ってくるようになったと思ったのに、この男の暑苦しい言葉で汗が出てきて、佳奈多はいらいらした。

 頭を押さえて左右に振る。

「いいわ。あなた、降板」

 降板。

「がぁ――――んっ……」

「真人。自分の好きなスポーツばっかり選択しようとした報いだよ……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! オレは別に、みんなが気持ちよく楽しめるスポーツを頭ん中で厳選してだな……」

「それじゃ僕が選んだっていいでしょ? そうだなあ、二木さん、どんなスポーツが好き?」

「え?」

 佳奈多はちょっと彼の声にどきりとした。

 い、いけないいけない。と首を横に振る。

 どうしていちいち彼の挙動に反応してしまうのだろう。

「そ、そうね。得意なのはないわ。べ、べつに……不得意のもないけれど」

 佳奈多はサバを読んだ。得意なものはない。全部不得意だ。

「そっか。じゃ、今日は三人だし、複雑な遊びにしなくってもいいよね。普通に体育倉庫にあるもの使って遊ぼうよ」

「え? いつもだと、もっと複雑な遊びにするの……?」

「そうだなあ、大体恭介が考えてくれたものを参考にしてるけど。あとはよく、来ヶ谷さんがうまいルールを組み合わせてくれたりするね」

 おおかた来ヶ谷の欲望を満たすための破廉恥なルールであったりするのだが。

 リトルバスターズの遊びは、たいていはメンバーの個人的欲望を出発点にしていることが多いからだ。

 だが、ここにいるのは比較的周りに合わせやすい理樹と、謙吾がいなければずっと大人しい真人がいるだけだった。

「とりあえず倉庫の中を見てみようよ。結構面白いものがあるかもしれないよ」

 理樹は微笑んだ。

 

「ぜいっ……ぜいっ……」

 佳奈多は息が切れ切れだった。

 ポニーテールに結った髪が、首筋にかいた汗で、べったりと張り付いて気持ち悪い。首筋に嫌な感触が出てくるたび、髪を払うのが癖になってきていた。

「おーらおーら! つまんねぇな、二木! もうばててんのかよ!」

 バスケットボールをバウンドさせながら、真人が勝ち誇った顔で佳奈多を見下ろす。

「冗、談、じゃない……。あなたみたいな筋肉ダルマに負けるわけないでしょう……」

「んだと!」

 再び真人はドリブルを開始する。

 何故、こんなにもスポーツが上手いのだろうか。佳奈多は、圧倒的な技術を誇る真人にたじたじになっていた。

「ほっ!」

 短くバウンドして、細かくフェイントを切る真人のペネトレイト。

 佳奈多は真人に触れてもいないのに、足元を崩して、尻餅をついてしまった。

「いたっ!」

「隙あり!」

 余裕満点のダッシュで、真人はゴールに一直線。

 滑らかなフォームから繰り出されるレイアップは、まるで芸術品のようにゴールに吸い付いていき……、

「あれ?」

 外した。

 ピィ――。

 理樹の笛の音が響き渡る。

「真人。トラベリング」

「えぇー。嘘ぉー!」

「女の子口調になってもだめだから。あとそれでなくてもシュート外してるし、どうしてあんなにドリブル上手くて距離感が全くないのさ……」

「難しいんだよちきしょう! このっ、このっ! 入れ!」

 自分で撃ったシュートをリバウンドして、もう一回撃って、もう一回自分で取って、そればかり繰り返している真人に、理樹は憐憫の視線を送っていた。

「オラァァ――――ッ! よっしゃぁぁぁぁ――――――――ッ! 入ったぁぁぁぁ――――っ!」

 ピッ。

「真人。二点ゲット。四対十六」

 真人は理樹と佳奈多の混合チームに負けていた。

「よっしゃあ!」

「なに喜んでるのさ……。八十パーセント温情だから……。トラベリング見逃してやったんだから感謝してよ」

「難しいんだよ! それよりもてめぇ、もうゴール入ると思うなよ。オレの鉄壁ディフェンスが牙を剥くぜ!」

「牙を剥いてディフェンスしたらファウルだよ……」

 理樹はしかし、真人よりもずっと上手かった。

 いや、身体能力は真人のほうがずっと上だが、真人の扱い方に長けていた。

「あっ。フルールのアキちゃんが服を脱いでる」

「何ぃッ!」

 フルールとは現在人気急上昇中のアイドルグループだ。

「隙あり」

「あッ!」

 その隙に理樹はすいすいとディフェンスをかわして、レイアップをする。

 真人ほど華麗ではないし、スピードもないが、理樹の場合は本当によく点が入った。

「はい。四対十八―」

「てめぇ! 卑怯だろうが! 何回もオレを騙しやがって。もう許さねぇぞ!」

「勝負だから何でもありでしょ。その心理戦も勝負の醍醐味なんだから」

 理樹は佳奈多のほうを向いて、微笑んだ。

「佳奈多さん」

 今ではもう「二木さん」から「佳奈多さん」に呼び方が変わっていた。

 それだけ、理樹からしたら、彼女との壁が崩れたと思っていた。彼女が意外と負けず嫌いなのもわかったし、運動神経もそう悪くない、葉留佳みたいに年中体を動かしてないから、苦手意識を持っているだけ、というのもわかった。

 それから、スポーツをやっている最中に、葉留佳そっくりに笑うのも。

 不敵な微笑みは、ぎりぎりの勝負をしているときの葉留佳とそっくりだった。

「って、大丈夫?」

 理樹は佳奈多にパスしてから、彼女の様子がおかしいことに気が付いた。

 顔が赤く、目がとろんとしていてはっきりしない。体がすこし震えていて、パスを受け取った手も、なんだか覚束なかった。

「疲れた? じゃちょっと休もうか?」

「え、ええ……」

 その、妙に色っぽい肢体に、理樹は少し胸をどきどきさせながら、彼女を風のよく当たる体育館の入り口のところへ案内してやった。

「好きなだけ休んでて」

 理樹は真人との勝負を再開する。

 佳奈多は通気の良い体育館の入り口に腰を下ろして、そんな二人のやり取りを見ていた。

「けっ……ようやく本気で戦うことができるな。勝負だっ、理樹!」

「いいよ真人! もう八割方決まっている勝負だけどね!」

 1on1でこれだけ盛り上がれるとは。

 佳奈多は男の子というものを不思議に思った。

 周囲の視線に苦しんだこともあった。

 噂に悩まされたこともあった。

 叔父や親戚たちの汚い権力争いも見てきた。

 どうして、あんなに楽しそうに戦い合うのだろうか。

「オラ! オレ様の超スペクタクル破壊ドリブルを見やがれ!」

「チャージング取られたって仕方ないから、ゆっくりやってね」

「え? そう?」

「隙あり!」

「渡すかよ!」

 理樹とのボールの取り合いが白熱化している。

「ボールを掴んだね……もうドリブルできないよ。そこからシュートを打つしかない。この勝負……もらったね!」

「けっ! 入れりゃぁいいんだろうが、入れりゃぁ!」

 真人は「フェイドアウェイ」というバックジャンプをしながらのシュートをしようとした。

 本来は身体のバランスと正確性が要求されるジャンプシュートだが……

「嘘だっ!」

 真人のスリーポイントシュートが、決まってしまった。

「いえーいっ! くかかかかっ! どぅだ理樹! オレ様の超スピンフル雷撃シュートを見たか!」

「いちいち長い技名でむかつくなぁもう!」

 二人はなぜあんなにもひたむきに、意味のないことに頑張れるのだろうか。

 結果が残るわけではない。

 それが金になるわけでもない。

 何も残らない。

 そんな無意味なこと。

 ただの馬鹿でしかない、と思える。

 体ももうくたくただ。

「くっくっく……理樹。なんか賭けねぇか? 負けたほうが何か罰ゲームをする」

「いいよ。つまり、勝つのは僕ということだね」

「ええっと、話が繋がってないんですけど……」

「今のスコアだと七対十八。二十一点取ったほうが勝ちだから、もう僕はあと三点決めるだけでいい」

「そんなご無体な! 0対0から始めさせてくださいっ!?

「いいよ。その代わり、真人が負けたら一週間筋トレなしね」

「うおおおおぉぉぉぉぉ――――――っ!」

 彼らの得るものは何なのか。

 佳奈多にとっては無意味なものなのか。

 それはわかり得ない。

「じゃあてめえ、てめぇが負けたら秘蔵の女装写真全世界にWEB配信してやる!」

「やめろぉぉぉぉぉ――――――っ!」

 わかり得ない、が。

 わかり得ないものを求めるところに、学生としての、彼らの意義が混ざっているのかもしれなかった。

 佳奈多は立ち上がった。

「直枝」

「あ、佳奈多さん。今の、聞こえてなかったよねっ!」

「さあね。お互いリスクの高い遊びだってことはよく理解できたけど」

「高い支払いだっ!」

 理樹は指差す。

「僕は真人に真剣勝負を挑む! でも、バスケットボールはやめてバトミントンにしないかい? そろそろ飽きてきたしねっ!」

 にやり、と微笑み。

「いいや、フットサルだ」

 真人も負けてない。

「悪あがきはよそうよ。え、なに、フットサル? 何それ? 楽しいの?」

「てめぇこそ自分の得意競技にもっていこうとしてねぇか? 何なら懸垂(けんすい)勝負でもいいんだぞこらぁ」

「いやだね。絶対。そのまま果てしない真人だけのワンマンショーにもってかれる可能性が高いから」

「じゃあ何にすんだよぉ! カツカレー早食いか?」

 もはや意味不明だ。

「ここは、第三者の佳奈多さんに決めてもらおうよ。佳奈多さんが決めてくれたスポーツで勝敗を決する。負けたほうは勝った方の言うことを一つ聞く」

「いいだろう。けっ……てめぇの艶姿が全世界配信されるときを覚悟しやがれ……」

「そうしたら僕は真人を殺して自殺する」

 だめだろう。それは。

「そうね……じゃあ、こういうのはどう?」

 佳奈多が選んだスポーツとは――、

 

 真人は、キャッチャーマスクを被って、ぼすっ、とミットに拳を叩き入れた。

「いよっしゃ! 来い!」

「行くわよ――」

 佳奈多がマウンドで振りかぶる。

 持っているのはグローブと野球ボール。

 振りかぶったまま、流れるような綺麗なフォームで、振り抜いた。

「くっ!」

 理樹がバットを空ぶった。

 悔しそうな顔をありありと顕わす。

「くっそお! なんて――、」

 真人は立ち上がってボールを拾いに行った。

「なんて、遅い球なんだ!」

「ほらよ。ツーストライク、ファイブボールだ」

 真人が投げ返す。

 佳奈多は鈴以上のノーコンだった。

 ノーコンのレベルを顕わすとしたら、鈴が1ノーコンで佳奈多が3ノーコンぐらいだ。

「佳奈多さんがこんなにノーコンだったなんて……」

「ノーコンノーコンうるさいわね。人のことそんなに悪く言うなんて……あなたの神経は何でできてるの?」

「普通の素材でできてるよ……」

「理樹の神経は筋肉以外の物質でできてるに違いないぜ」

 当たり前だ。

「野球ボールを触ったのは中学生以来だから……」

「えっと……結構最近じゃない、それ?」

 どうやらブランク期間で佳奈多のノーコン度合いを説明はできないらしい。

「失礼ね。いつも体育の時は職務をしてたんだから仕方ないじゃない」

「にしちゃぁ、グローブの扱い方はできてるよな」

「うーん……投げ方が、なんか変なんだよなぁ……」

 理樹は顎を撫でながら不満そうに言う。

「ともかく、続けるわよ。あともう一回ストライク取ったら、アウトなのね」

「どうでもいいけどさ、さっきから一回もボールを前に飛ばせていないんだけど、これはゲームとして果たして面白いのかな」

「どうかしら。私はあのやたらに疲れるバスケットよりは楽でいいけど」

「言っておくけどこれは真剣勝負なんだよ! 佳奈多さん!」

 理樹の眼が血走っている。どうやらマジなようだ。

「利き腕逆なんじゃねぇ?」

「え?」

 理樹がきょとんとする。

 佳奈多は振りかぶろうとしていた腕を止めた。

「どういうこと?」

「二木、もう一回こっちに投げてみろよ」

 こく。

 佳奈多は大仰に振りかぶって、そのまま綺麗なフォームで真人に投げた。

 ひょろひょろと蚊の止まりそうな球が、真人まで届かず、途中で地面に落下してころころと転がる。

「やっぱりな」

「何がやっぱりなのさ。佳奈多さん、どう見ても利き腕は右だよ。実力としか思えないんだけど…………え、何? どうして僕をそんな怖い眼で見るのかな?」

「自分の胸に聞くがいいわ!」

 ボールを寄越しなさい! と佳奈多が真人に向かってわめく。

「んー、ちょっと待ってろ」

 真人が体育倉庫に行ってしまう。

 しばらくすると、一つの黄色いグローブを持ってきて、佳奈多に渡してやる。

「こっち使ってみろ」

「ん……何かしら。これ、手がうまく入んないんだけど?」

「当たり前だ。そいつは左利き用なんだからな」

「あっ!」

 佳奈多と理樹が同時に声を上げた。

 そうだ。葉留佳も昔、こんなことがあった気がする。

「佳奈多さん、もしかして、左利き?」

「そうよ。元は左利きだったわ。色々あって、右も多少は使えるようになったけれど」

「フォームがちっとばかし不自然だったな。綺麗すぎるっつーか。意識的にそういうふうにしてるみてぇだったぜ。ほら、こいつでちょっとは勝負になるだろ」

 理樹と真人は野球で勝負することにしたのだった。

 佳奈多が投げる球を、どちらが遠くまで飛ばすことができるか、が勝負である。

 もちろん打席は一回まで。ただ、今まで一度も前に飛ばせるような球が来ていないので、結果的にサドンデス勝負になっている。

「投球練習だ、二木!」

 こくん。

 佳奈多はうなずいた。

 今までよりも自然なフォームで――それは決して絵に描いたように綺麗ではなかったが――ボールが勢いに乗って手から放たれた。

 ボールはそのまま空気を引き裂くように真人のミットに吸い込まれていった。

「……」

 理樹が呆然と固まったまま見送っている。

「ヒュウ♪」

 真人が笑いながらボールを返す。

「やっと本調子になってきたみてぇだな」

「フン」

 佳奈多は澄まし顔でボールを受け取った。

「礼は言わないわ」

 少し顔を赤くしながら。

「私はあなたとも勝負するつもりだから、敵に塩を送ったと考えるべきね……」

「いや、もともと勝負にすらなりそうもなかったんだが……」

「黙りなさい!」

 理樹は目を点にしながら、言った。

「な、なにこれ……」

 はっ、として、首を横に振った。

「ええい! 来て! 佳奈多さん! その球は僕がもらった!」

 こくり。

 佳奈多は頷いて、再び振りかぶる。

 空は徐々に黄色くなって、陽射しが穏やかに傾いてきていた――

 つづく

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