また夜が入れ替わり、日が上った。

 それは約三日間降り続いた雨が、ようやく途切れた日であった。

 朝日の瑞々しくもどこか悲しい輝きが、軒先に残った水滴を冷たく照らす。

 オレはその清々しい風を肺に吸い込んだ。

 はぁぁ……。

 悪くねぇ気分だぜ。

 オレは雨のせいでずっと敢行できなかったランニングを、今日やってしまおうと思った。

 理樹を起こさないようにすっと静かに部屋のドアを開け、こっそりと出、静かに扉をまた閉めた。

 とんとん、と靴のつま先を叩いて、オレは廊下を小走りする。

 ひっそりと静かな廊下が続く。

 そのまま玄関口まで突っ走ると、そこにはまだ上がりたての黄金色の曙光がガラス扉から漏れ出ていた。

 空気中に飛散した瑞々しい水気がまるでダイヤモンドのように輝いて、曙光を手に舞っている。

 オレはガラス扉を開けた。

 寒々しい大気の中、オレは準備体操を入念に行なって、走り出した。

 オレのランニングは約一時間行なわれる。まず校内のグラウンドに出て、そこの外周を二回回る。そこから武道館のほうへ足を向け、その近くの外来の生徒たちが停める自転車などが置かれている駐輪場の隣を抜けて、裏山の近くへと走る。そこを通り過ぎて、今度は体育館を通り過ぎる。この辺はひょっとすると、もうすでにストレルカやヴェルカたちが起き出していて、一緒に走ったりするための合流地点だ。ストレルカとヴェルカに会えると、オレはやつらを連れて、中庭のほうへ走っていく。そこですこしの間休憩だ。

 ベンチに座っている間は、よくやつらの遊びの相手をしてやる。ストレルカのほうは体が大きいくせによく落ち着いているので、こちらのペースで遊びやすい。それよりも困ったのはヴェルカのほうだ。やたらと遊んでほしいとつっかかってくるので、こっちとしてはまったく休憩といえるような休憩は得られなくなってしまう。

 オレはそうした場合そうそうに休憩を切り上げて、ランニングに戻る。この日もやっぱり二匹の犬に会えた。

 オレの姿を見つけるなり、「最近見なかったね。雨が降っていたからかしら」とでもいわんばかりに、嬉しそうな目でこちらに駆け寄ってくる。ヴェルカは「はやく行きましょう。はやく行きましょう」と伝えたいがごとく、前足を跳びはねさせて、オレをせかす。オレは「よっ」と片手を上げて挨拶をして、まず会って最初の第一番、全力疾走レースを開始する。二匹も全力で追いついてくる。二匹のほうがオレよりやや速い。その中でもヴェルカは一番速い。ストレルカが手を抜いているだけかもしれないが。

 ヴェルカはひと足先に中庭について、尻尾を振っている。

 オレはそれからベンチにたどり着いて、ヴェルカとストレルカと一緒に遊んでやった。

 中庭にはオレたちのほかに誰もいなかった。

 この早朝の空気をオレはよく好んでいた。

 清浄な資源に満たされている。

 人間は必然的にこういった自然の恩寵を必要とする。

 こんな頭脳のない馬鹿なオレでさえ。

 そういう真実はよくわかっている。

「ふぅ。もう疲れたぜ。おい」

 オレは二匹の手を離して、どっかとベンチに座り込んでしまう。

 そうして背もたれにもたれ掛かっていると、ストレルカがちょこんとオレの足下に座った。

 ヴェルカはまだオレのズボンの脛を引っ掻いている。「行こうよ、行こうよ」とでも言っているのだろうか。だめだ。

「もうちょっと休ませろ」

 そういっても聞かない。ヴェルカはズボンを爪のない肉球でこすり続ける。オレはしょうがなく腰を上げた。

「ふぅ……。しょうがねぇ」

 ヴェルカの目が輝いた。ストレルカも理智の目を冴えさせながら、腰を上げる。

 オレはまた走り出した。

 ここからはまたグラウンドに戻ることになる。

 そしてそこで三周して、オレはまたさっきの武道場へ回るコースを取る。武道場の前の砂利道を踏みしだきながらオレは駐輪場へ行く。裏山の林を見つめながら、今度は女子寮のほうへの道を取る。体育館の裏側を通って、だ。

 女子寮の手前の長い一直線の道路を走って、オレは息を切らす。

 はぁ、はぁ、と息が切れる。

 このあたりになってくると次第に体力がきつくなってくる。

 オレはそのまま男子寮の玄関前まで戻ってきて、体力と時間が残っていたら、もう一度グラウンドに行く。もう限界だと思ったら、そのまま男子寮の玄関をくぐる。オレは、この日はそのままもう一度グラウンドへと行ってみた。

 ストレルカとヴェルカは喜んでついてきた。オレたちは思う存分朝の運動を堪能すると、男子寮の玄関前で、別れた。

 それからは、前にも語ったように、朝の支度である。

 理樹が起き出してくるころになると、オレはよく恭介と会う。

 この日も出会った。

「よう」

 恭介は片手を上げて挨拶をした。

「おー」

「おはよう。恭介」

「ああ、おはよう。理樹。真人」

 オレたちは顔を合わせる。

「今日は? 就活に行くの? 恭介」

「いや……。ふふん」

 恭介はにやにやと妙な笑みを見せた。

「なに笑ってやがるんだ? 気味わりぃ」

「うるせーな。今日は就活には行かないよ。それよりもおまえらに、今日は人形劇の前日だってことを伝えに来たんだ。それに加えて今日は土曜日だ」

「そうだねえ」

「めいっぱい練習ができるじゃないか!」

 恭介は子どもっぽい笑顔で、両手を広げた。

 いつもいつもこいつの無邪気っぷりには感嘆する。おかげで気心知れた女子にはまったくモテないという話だ。それもなんとなく頷ける気がした。

「そうだねぇ。人形劇はもう明日だもんね」

「それはそうだが、オレはこいつがまたなにか妙な遊びでも思いつきやしないか、不安だぜ」

「ふっふっふっ……」

 恭介はにやにやと奇妙な笑みを浮かべている。いったいなんなのだろう。

「喜べ。おまえらにはあとで重大な発表がある」

「え。発表?」

「なんだ。ついにおまえに彼女でもできたか」

「えっ、彼女!?」

「残念だが、それは違う」

 恭介はややノリが外れた顔で、残念そうに答えた。

「そりゃ残念だな。本当に」

「ああ……残念だ」

「あれっ! なんだか残念な空気になってるよ、恭介!」

「うっ! い、いや、いやいや! 決して残念なことではない! おれに彼女ができようとできまいと、この重大発表にはなんら揺るぎがない!」

「そんなに重大発表なのかよ」

「なんだか重大そうだねぇ」

 オレと理樹は、なんだかズレたところでそれぞれ得心していた。

「とりあえず、今は一緒に食堂へ行こうぜ。あとで教えるからよ」

「いってぇどんなことだよ?」

「残念だが、ヒントは出ない」

 恭介はすました顔で笑った。

「恭介は調子に乗ってヒントを出しすぎるから、すぐばれちゃうしね」

「ああ」

 オレは、ああ、そうだったっけか。と思った。

「なんだとぉ……」

「こっちがもう答がわかっちゃった場合も、恭介にがっかりさせるのは悪いから、ずっと黙ってたりすることもしばしばあったんだよね……」

「なんだとっ! そいつは、おれはまったく知らなかったぞ!」

 理樹は苦笑した。

「だから、今はまだなにも恭介は言わないほうがいいという話」

「ぬぅぅ……ここは、理樹の言うとおりにしておくぜ。おっ、着いたぜ」

 オレと理樹と恭介は、朝の食堂へ入っていった。

 食堂には鈴と小毬が座っていた。

 こちらの姿を発見して、すこし椅子から腰を浮かして、手を振る。

 小毬は笑ってくれた。

 とてもいい笑顔だった。

「おはよ〜」

「おう。早いな。小毬。鈴」

 恭介は先頭で爽やかに挨拶する。

 爽やかな挨拶だけは、こいつの重要な得意分野だ。

「おまえらも早いな。理樹、きょーすけ。それに真人も」

「鈴もね」

 理樹と鈴はお互いそんなふうに褒め合って、隣の席に着する。

 オレは、すこし躊躇したが、小毬のやつがいつものオレの席を隣にちょん、と空けておいてくれたため、そこに腰かけた。

 隣の小毬に挨拶する。

「よっ。おはよーさん」

「おはよ〜♪ 真人くん」

 小毬は笑い返してくれる。

 ああ……。

 オレはすこし感動した。

「なんだ? 目をうるうるさせおって、気色悪いやつじゃ」

「んだと? てめぇもオレの気持ちを知ったらきっと号泣もんだぜ。だが、ヒントはやらねぇ」

「誰がいるか、そんなもん」

「んだとぉ!」

「まぁまぁ」

「止めろ二人とも」

 理樹がまず仲裁に入って、その上で恭介が冷静な一言でぴしゃりとオレたちを叱る。

 しかし今日だけがその輝きが鈍い。

「喧嘩はよせ。ほら、オレの朝の黒糖ジュースを分けてやろう!」

「いやじゃそんなもん」

 鈴は甚だいやがった。

「おっ。悪ぃな」

 オレは、恭介から黒糖ジュースを受け取った。

「ふふふ。どんどん飲め。はっはっは! 今日は、おれ一段と機嫌がいいから、なにやっても許しちゃうぞー!」

「……」

「?」

 理樹と小毬が不可解そうな視線を向けていた。

 鈴は、

「……きしょ」

 きしょがっていた。

 いったいどうしたことだろう。

 恭介は、今日に限っていつも以上に浮かれポンチ度が高い。

 上限メーターをぶっちぎっているほどだった。誕生日か? いや、そんなはずはない。

 鈴の誕生日? それも違う。

 ただナチュラルハイになってるだけか? 市内の病院の看護婦さんとエッチなことしてる夢でも見たか? だとしたら人格を疑うぜ恭介……。

「結局なんなんじゃ、おまえは」

 鈴はすこぶる嫌そうに首を引きつつ問いかける。

 恭介はそんな問いかけにも答えずにただ笑ってばかりいる。

「恭介さん、どうしたのかなぁ?」

「さぁ? ぼくらにもわからないんだよね……」

 理樹はそんな変種的恭介をどう扱っていいか量りかねているようであった。

 オレは頬杖を着きながらいった。

「どーせ、恭介がおかしいのはいつものことだろ? オレにとっちゃ筋肉さんの蠢動が一ミリ狂いが生じているのと同じくらい微々たる差だぜ」

「え、そうなの、すごいね……」

 なぜか理樹がやたらとびっくりしていた。

 そんな会話を重ねていると謙吾が慌てて食堂に飛び込んできた。

「みんなっ! すまない! 遅れたっ!」

「おそいぞ謙吾っ」

 ご飯を待ちかねていた鈴が、かなり不機嫌そうに謙吾を非難する。

 理樹はそれを見て苦笑している。理樹は恋人がもしこんなんでもきっと好きなのだろう。

 謙吾は手に妙なものを持っていた。

 浮き浮きと無駄に朗らかな表情で、その手に持っているものを掲げる。

「すまんすまん。ちょっと深夜までこれの製作に時間を使っていてな。さぁ、見てくれ! リトルバスターズジャンパー、2nd完成だ!」

 ばばーん! と効果音が似合うような仕方だった。

 謙吾の両腕には、いささか謙吾自身が着ているものよりはデザインが一新された、すこしサイズの小さい新しいリトルバスターズジャンパーが下げられてあった。

「お、おおー……」

 理樹だけが唯一拍手する。

 恭介は、おもむろに席から立ち上がって、謙吾のほうへゆっくりと歩いていった。

「む? な、なんだ?」

「……」

 恭介は、がっし、と謙吾の肩を掴み、

「よくやったぁ! 謙吾ぉ!」

 満面の笑みで抱擁するのであった。

 小毬と鈴が顔を真っ赤にした。

「ええーっ!」

「おう! おれはやったぞ! はははっ! なんだ、そんなにも喜んでくれるとはな! さすが恭介、よくわかってるやつだなぁ!」

「おれがそんな友人の破壊的主張行動に、賛同しないわけがなかろう!」

「はははは! いったいなにを言っているのかわからんが、ありがとう! おれは今、猛烈に感動している! やはりこれを作った甲斐があった! わははは!」

「……で、それを誰に着せるんだ?」

「へ?」

 ふと恭介が冷静な声に戻る。

 抱擁を解いて、真顔で謙吾に尋ねる。

「だから、二着あるわけだろ? 一つはお前が着ている。見ると、サイズも違うようだな。で、誰に着せるんだ?」

「もちろん恭介に――」

 ノリでそんな気色悪いことを言い出した謙吾を、恭介は一蹴する。

「いやだ」

「な、なぜ!」

「おれにはおれのスタイルがある――」

 恭介は目を細めて、なぜか顔の周りを花びらが舞っているかのような華やかな、憂えを湛えた顔で、滔々と自分の無能なスタイルについて語り出した。

「おれはおれのために、おれにしか着ることのできない衣服を纏う――すなわち、『誇り』さ」

「お、おおぉ……」

「そんなもんあったのか?」

 鈴の間の抜けたつっこみがどういうわけか冴える。

 恭介はそれを無視して続けた。

「だから、そのおまえの暑苦しいジャンパーはいやだ」

「どうしておれのジャンパーを見るときだけそんなに冷たいんだ?」

「おれの眼球がどのような様相を呈しているにしろそれはいやだ。だれか他のやつに着せろよ。――そうだ。それは謙吾の命の次に大切なものだな」

「もちろんっ! おれは、友情と命の次にこれが大切だ!」

 あつっ。暑苦しいぜおい……。

 小毬などは呆然としていた。

「じゃあ、それを着せるやつは、謙吾にとって最も大切な人となるわけだ」

「うっ――」

 謙吾の顔が固まった。

「そんなら、おれなんかに渡さないほうがいいんじゃないか? もっとも、それはおれなんかのために作ってくれたんじゃないよなぁ? くくく、いったいどんな『女子』を想定して作ったんだ?」

「くっ――恭介、貴様っ!」

 先ほどの熱い抱擁の段とは打って変わって、謙吾の顔に憎々しげな様子が浮かぶ。

 オレと理樹と鈴は放っておいて勝手にメシを食っていた。

「ほらほら。白状しちまえよ。おまえの好きな彼女はだれだ?」

「ぬぅぅ……これをまさかおなごに着せるなどと!」

「でもそれ、サイズ的におれも真人も理樹も着れねぇよな? どうすんだ? おい。三枝か? 来ヶ谷か? まさか能美や西園なんていうオチは――」

「うおぉぉぉぉ――――っ!」

 謙吾が苦悩の表情を見せる。

 わずか○、○五秒の逡巡の末、導き出された想定外の行動は、オレの友人のところへと向けられた。

「理樹っ! オレの魂をっ、無理にでも着てくれぇぇぇぇぇぇ――――っ!」

「え、ええーっ!」

 理樹は驚愕して、ちょっと迷惑そうな顔をした。

「そ、そんな、こんな朝っぱらから告白されても……」

「よかったな、理樹」

「もう。鈴も、そんな茶化さないでよ」

「茶化しとらん」

「茶化してるじゃん」

「茶化しとらんわ!」

 なぜか彼女と喧嘩に発展している。

 その背後には、忘れ去られた白髪の馬鹿が吹雪に埋もれたように硬直していた。

 ぽん、とその肩に恭介の手が置かれる。

「よし。これから恋人を捜そう、謙吾!」

「……恭介」

「季節は秋! そして冬が間近に迫っている! 冬は寒いぜぇ、謙吾! おまえの体に宿る炎がいかに熱くとも、寂しき孤独なクリスマスイブの恋愛特集満載のテレビチャンネルを凝視しているときの寒さは、おまえの猛火を凍り漬けにするほどだ! 今からお嫁さんを探せぇ!」

「……いやだっ! おれは、このジャンパー2ndを神棚に奉納する!」

 オレたちは、謙吾と恭介がいまだ馬鹿なことを言い合っているのをよそに、もぐもぐとご飯をたいらげ、楽しい話題に花を咲かせた。

 恭介と謙吾にも、好きな女の子ができるといいが。

 もしそうなったら、理樹みてぇにいくらでも協力してやれるのだが。

 いつになることやら。

 そんなことを思いながら、オレは、鈴と理樹の痴話喧嘩を見て面白がったり、小毬と世間話に花を咲かせたりして、楽しんだ。

 そのうち授業十分前の鐘が鳴った。

 

 妙にハイテンションな恭介と謙吾であったが、その日は妙におかしなことが様々起こった。

 三枝が自分の姉を連れてきて、「リトルバスターズに入れたいんです!」と紹介したり、恭介がそれをたった一秒で承諾したり、その姉貴が冷徹な顔で「いやよ」と返答したり、しかしその後も三枝がその場に引き留めて、人形劇の背景作りを一緒にやらせたり。

 あるいはクー公が体育の時間のマラソン競技でトップ走者になっていたり。あいつの筋肉はもう本物だ。オレは「いつでも富士山やエベレスト、チョモランマに行け」と許可を下した。クー公は「さすがにそこまでは。あとエベレストとチョモランマは一緒です」と言っていた。

 あるいは西園が突然後輩の女子たちの追っかけを受けていたり。西園は、なにか見知らぬ夏のイベントでなんと本を作成していたようだ。それが我が校の一年生のある層に支持されたのだという。西園はめずらしく顔を真っ赤にしてそんなファンの集いを押しやっていた。オレたちは面白くそんなあいつの様子を見ていた。

 来ヶ谷はなんと謙吾のリトルバスターズジャンパー2ndを受け取っていた。なかなか英雄的事業だと思ったが、中には――というのは、噂好きの三枝葉留佳などだが――よからぬ想像をする者もいた。しかし来ヶ谷は意にも介さず、それを温かそうに着用したり、あるいは机で眠るときの枕にしたり、芝生でお弁当を食べるときのシートにしていたりした。謙吾は、「あいつにやったのは正しかったのだろうか」と迷いの表情を見せていた。

 しかし案外来ヶ谷はそんな謙吾の贈り物を大事にしていたようである。そこにどんな妙な感情があったとはいえ。少なくとも色んなことに使用されているのだから、わざわざ作って神棚に奉納しておくだけよりはマシだと思う。

 鈴と理樹はやや距離を近くしたようである。といっても、あいつら二人は昔から幼馴染みとしてオレたちと一緒に付き合っていたのだから、その言い方には多少一般と異なった趣がある。要するに、「友だち」という付き合いから「男女」という関係に少しずつ昇格していくような形だ。昇格という言い方も、オレにとっては妙な感じに聞こえた。どことなく歪んだ形にも成っていると思う。しかしそれで両人が満足であるならば、オレたちがとやかく言うことではない。やがてどんな結果を招いたとしても。

 恭介は一日中浮かれポンチだった。つねにニコニコしていた。授業が終わって休み時間になれば、かなり危ないやり方で――具体的に説明すると、ロープを足に括りつけて、逆さ吊るしのような形で――窓から飛び込んできた。恭介は周りの正常な感性を持つ女子たちから悲鳴と罵倒を十分もらいつつも、やはりまだニコニコしていた。いったいなんなのだろう。オレは結局尋ねても教えてもらえなかった。

 万事このように進められていった。日常的感覚を有しているのは、オレと小毬に限られているように感じた。

 オレはオレで常日頃のように授業が終わると理樹たちとメシを食い、そこから午後の筋トレをし、理樹たちとちょっと遊び、劇の個人練習をやった。

 今日だけは完全に自由な時間となったらしい。本番の前のわずかな休息。嵐の前の静けさ。恭介はそんな細かい演出にさえ、長けていた。

 理樹は鈴と二人で一緒に練習をすることにしたらしい。謙吾の馬鹿は一人ただハイテンションで可愛いウサギの役の練習をしようとしていたが、オレはそんな寒い謙吾の肢体を遠目に見て、ひっそりと校舎の中に戻っていくのだった。

 学校にはもうほとんど人がいなかった。わずか、文化部の熱心な連中が、静かに活動している、ただそれだけの物音しかしなかった。今日、外はこんなにもよい天気なのだから、やはり外に出たくなるのだろう。オレは屋上を目指した。

 あれから全然寄りついていなかった、屋上。

 オレは窓に触れるときに少々緊張した。

 小毬からずっと昔にもらったドライバー。……いつもらったのか、はっきりしない。

 小毬が屋上に出入りしているということに気づいたのは、ついこの間だったはずなのに。オレは、小毬にこのドライバーをもらったのは、それよりもずっと昔であったように思う。

 いつだったのだろう。

 もらった瞬間のことは覚えているんだが、その状況の前後関係がはっきりしない。これは妙なミステリーだ。オレは、いつもらったかはわからないのに、もらったときの状況を覚えている。そしてついこの間まで、その事実を思い出さずにいた。

 きっと虚構世界にいたときだろう。

 そのときも、小毬は屋上にいたのだろうか。

 そういえば。

 小毬は、そのとき理樹と恋人だったが、いったいどういうやり方で恋人になったのだろう。

 さっぱり聞いたことがなかった。

 今さら聞けることでもないが。

「おーい」

 とんとん、と窓をノックしても、返事がない。

 すこし待っても、やはり返事がない。

 しかたなくオレは、持っている小さいドライバーを、ゆっくりと窓の鍵のところに当て、分解した。

 鍵の分解は簡単だった。つねに緩くなっていて、簡単に取り外しできる。

 オレは窓を開けた。

「よっ」

 そこから飛び降りる。床に着地する。

 誰もいなかった。

 涼しい日光が直接当たる。

「ちぇー」

 なーんだ。

 オレは嘆息した。

 小毬のやつ、いないのか。

 たが、あいつがいないならいないで、どこかほっとしたオレがいた。

 ここでなら思う存分、謙吾や恭介のハイテンション馬鹿に邪魔されないで練習することができる。

 小毬の秘密の場所を、オレもすこし使わせてもらおう。

 

 ――気がついてみると、体が妙にだるかった。

 そして冷たかった。

 重い。

 オレはゆっくりと、体を起こす。

 そして気がついた。

 周りが妙な色をしている。

 オレンジ。色。

 そうしてだんだん、オレは、すこしの間眠ってしまって、もう時刻は夕刻であるということに気がついた。

 手の上に、妙にくたびれた格好のクマッチャビンのぬいぐるみがある。

 オレは周りを見渡した。

 やはり、だれもいない。

 オレはすこし、がっかりとした。

 というより、いつのまに眠ってしまったんだろう。あまりにも静かな場所だから、自然と瞼が下がってきてしまったのだろうか。

 やばい。思い出せん。

 ともかくも、ここにもう一人でいてもしょうがないから、帰ろう。

そう思ったときだった。

 視線の先に、なにか動くものがいた。

 起き抜けのはっきりしない瞼を擦って、オレはそちらに目を凝らしてみる。

 するとそれは、だんだん明瞭になってきて、人の形に思えてきた。

 それは、小毬だった。

 小毬は正面の配水タンクの脇と、フェンスの間に細く立っていて、こちらを横目で見つめていた。

 オレと目があって、しばらくすると、ゆっくり駆け寄ってきた。

「こんにちは〜。真人くん」

「うお、おう。こんちは。小毬」

 オレは突然小毬が登場した(登場したというか、もしかしたら最初からこの屋上にいたのだろうか)ことにびっくりし、ここが屋上という非日常的空間であるにもかかわらず、まるで道ですれ違ったかのようなのんびりとした言い方で挨拶されたことに、さらにどぎまぎしてしまった。

 小毬はオレの素っ頓狂な顔をまじまじと見つめて、ふんわりと柔らかく微笑む。

 また、夕闇の屋上だ。

と思った。

「真人くん、ずっと寝てたね〜」

「んだよ……来てたんなら起こしてくれたっていいだろ。……つーか、いや、なんか、ここ勝手に入っちまって悪かったな。謝るよ。スマン」

「いいんだよ〜」

 小毬はほんわか・いつもの笑顔。

「真人くんすっごく静かに、気持ちよさそうに寝てたもん。ここに晴れた日に来ると、誰でもそうなっちゃいますよ〜。たまにお肌によくないけど」

「っつーか、小毬は今なにやってたんだ?」

 ん? と、小毬はそのくりくりした目を動かす。

「それはね〜、ここから下を眺めてたんだよ〜」

 小毬は体を斜めに開けて、フェンスのほうを指差す。

 オレは立ち上がって、小毬と一緒にフェンスのほうに近づいていった。

「おー」

 それは、なかなかの景色であった。

 オレンジ色から、パープル色になっていって、やがて、街々の窓から黄色い光が洩れ出す。しまいには空はコーヒー色となるだろう。太陽はまるで人々に別れを惜しむかのように、目一杯光をはなっている。赤い光を。惜しげもなく。すこし寂しい様子を湛えて。

 オレは腕を組んだ。

「そういや、小毬に初めてここに連れてきてもらったときも……」

「こんな感じだったね〜」

 あのときは下でリトルバスターズが練習していたがな。

「でも、真人くん、本当は昔ここに来たことあったよね」

「そういや、あったかな」

 オレは頷いた。でなければ、あの小さな幻のドライバーを所持していられるはずがないからだ。

「ずっと前だね。どうして忘れちゃったんだろ〜」

「おまえ、あんときの記憶がねぇのか?」

「もうほとんど〜」

「そうか」

 そうすると、理樹と恋人でキスし合ったことも記憶にないのだろうか。猫の血を見て過去の記憶に怯えたことも。ここが呪われた場所に投影されたことも。

「なんだか懐かしい感じがしたんだよな。やっぱよ」

「えへへ。そうなんだ」

 小毬はほんわかと微笑んだ。

「小毬はどうしてこの場所に来るようになったんだ?」

「え? うーん。……どうしてだったかなぁ。昔、この学校に入ってからすこし経ったとき、この学校で屋上はないのかな、ってふと思ったことがあったんだよね。たぶん、そこから始まったんだと思う」

「そうなのか」

 オレは、空の彼方を飛んでいくカラスを見た。

 カァ、カァ、とカラスが鳴いている。

 風はなかった。

 ただぽかぽかとした光と、夜の涼しい気配が重なり合っていた。

 綺麗に織り込まれた空気の中に、オレたちはいた。

「なんか、最近、慌ただしかったな〜……」

「うん」

「どうしてあんなに周りってうるせぇのかな……」

「わかんない」

 小毬はオレの言葉にしっかりと返事をした。

「ここに来ると、なんだか、しっくり来るんだよな。ああ、世界っつーか、オレたちってよ、こんなに小さい世界に住んでいて、考えることもこれだけでいい、なにも他に要らねぇ、ってさ」

「うん」

 小毬は静かにうなずいた。

「でも、それは真人くんが自分に嘘ついていることかもしれないよ」

「わかってる」

 オレはいった。

「そいつはオレの幻想だ。この世じゃ絶対に起こらないことだからな」

「う〜ん」

 小毬はかしゃん、とフェンスに背中をもたれさせた。

「でも、だからこそ私はこの場所が好きだよ」

「オレもそうだ」

 小毬とオレは顔を合わせた。

 にっ、と笑う。

 向こうもやや寂しい笑みで笑ってくれた。

「気が合いますね〜」

「気が合うな」

「真人くんがそんな人だなんて、思わなかった」

「ほんとかよ。オレも小毬がそんなやつだなんて思わなかったけどよ」

「ええ〜。なにそれ〜」

 小毬はくすくすと笑っていた。

 しかし、もう、小毬はいつもの小毬ではなかった。たえず寂しそうな笑みを浮かべていた。オレはその笑みを見て、本当に綺麗だ、と思った。

 ほんわか笑みではない、どこか幽玄とした、奥行きのある笑顔。

 オレはちょっと高揚した。

「あのさ、小毬」

「ふえ?」

「もし全部終わったら、どうするかってこと、答え出たか?」

 小毬は目をぱちぱち、とした。思い出すのに時間がかかったのだろう。数秒すると、大きく深くうなずいて、こちらを淡い笑みで見る。

「それはもちろんですよ」

「どんなだ?」

「それは、お楽しみ〜」

 オレは、餌のお預けをくらった犬のようになった。

「なんだよ。教えてくれねぇのかよ」

「えへへ。秘密だもん。真人くんには絶対秘密」

「くっそぅ……。なんでオレというやつが特定されているのか甚だ疑問なんだが」

 しかしオレはこう文句を言ったものの、たいして不満は感じていなかった。それよりも小毬にやや特別な見方をされていることにちょっとした喜びを感じた。

 男というのは馬鹿なものだ。

「教えてもいいけど〜、条件があるよ」

「んだよ。言ってみろよ」

「一人で旅をするのを止める、こと」

 オレはやや衝撃を感じた。小毬から小さなビンタをくらったような感覚だった。

「はぇ? なんでそうなるんだ?」

「だって〜」

 小毬はちょっと生意気な弟を説教するような趣を見せる。

「一人で旅をするって、傷ついた人間がすることだよ。真人くんはなにか傷ついたことがあるの?」

「ねぇよ」

「じゃあ、することないのです」

 きっぱりと言われてしまった。しかし、それで「はい、そうですか」と簡単に納得できる軽薄な根性もオレは持っていなかった。

「ちょい待ち。オレが自由に旅したいってことと、それとは、また別なんじゃねぇ?」

「それは別だけど。……でも、そうなると真人くんは旅することなんてあんまり望まないことになると思うよ」

「な、なんだそりゃぁ……」

 オレは嘆息してしまった。

 小毬はちょっと真面目な顔から、オレに同情するような表情に変えて、オレを見た。

「でも本当は、自分でわからないところに傷があるものだよね……」

「……」

 オレは腕を組んだ。ちょっと難しいことだと思った。

 しかし、オレは元来、自分が一つの倫理によってだけ生きているとは一度も思ったことがなく、たいてい、オレは筋肉とか、友情とか、誇りとか、家族への愛とか、上昇志向とか、平穏への憧れなどといったもろもろの理想によって生かされている。生きる意味が人間にとってそうそう見つからないのは、そのためだと、オレは子どものころから言葉ではなく直覚で理解していた。

「言いてぇことはわかったけどよ、それで、オレが旅を止めるメリットっつーのは、ここでおまえの理想を聞けること意外になんかあんのか?」

「それはありますよ〜」

 小毬は、なにか重要なことをこれから話すとも言うように、意気込んで言った。

「一つの場所に留まるのは、悪いことではないのです。旅をするのは、たまにでいいの。みんなと離れちゃうから。そうするのはきっと良くないこと、ですよ〜。旅にはみんなを一緒に連れていけばいいんだよ。ね?」

 オレは黙っていた。黙っていながら、それもそうか、と思いつつあった。しかし、

「……」

いまだ旅の――それもやや危険な、真正な「旅」というやつの――憧れは消えずにあった。オレはその間でわずかに葛藤した。

 しかしそんな葛藤も、すぐに消えてしまった。

「そういうことももっともだけどよ、今決断する必要はねぇんじゃねぇ?」

「も〜」

 小毬は、なんだかムッとした。

 頬をふくらませる。

「それじゃ教えない〜」

「わかった。わかったよ。ちっ……」

 オレは頭を抱えて、舌打ちを小さくした。小毬は満足そうな顔になる。

 オレは顔が赤くなった。

 まるで恋人の女へのセリフみたいだと思った。

「わかったよ。オレはここにいる。取りあえず、どっか行くときは、誰かを連れてく。取りあえずは、お前も」

 オレは小毬を見た。小毬は満足そうに微笑んだ。

「じゃ〜、私の夢の発表ですけど〜」

 小毬はなぜかちょっと照れた。言うのをいったん躊躇して、また言い直す。

「や、やっぱり、秘密〜」

「おいおい……」

 オレは頭を抱えた。

「なんだ、そりゃぁ」

「だって恥ずかしいんだもん。先のことなんて、まだわからないし」

「うん。ま、そりゃそうだよな。――ってそんなことで騙されるオレだと思ったかコラァ!」

「ひゃあ〜!」

 小毬は悲鳴を上げて逃げ出す。まていっ、とオレは追っかけた。

 渚ではなくフェンスぎりぎり崖っぷちの追いかけっこ。とくに楽しくはなかった。

 やがて捕まえる。

 オレが、小毬の小さな肩を捕まえる。

「こんにゃろー!」

「はわわ〜!」

 動物小毬・確保。

「ったく……どうだ。コラ。まぁ……言いたくねぇんなら言いけどよ、ここであんま危ねぇことすんな――」

「私ね」

 小毬は、立ち止まって、こちらに背を向けたままいった。

「絵本を描くんだよ」

「絵本?」

 唐突に、オレの中に一つのキーイメージが湧いてきた。絵本。そうだ。確かに小毬は絵本を描いていた。

「卒業して、そのままアマチュアのライターになってもいいし、専門に入って基礎知識をみっちりやってもいいと思うの。だから、まだ、未定です。えへへ」

 小毬は静かに呼吸していた。

 どちらの道でもきっと生きられる、と確信している小毬は、高校生にしては、きっと輝いていた。こんな理想を持てるやつはなかなかいないだろう、とオレは思った。

 小毬は横を向いて、夕陽が落ちていくほうを見つめた。

「ここの出来事をね、絵本に残せると思うの」

「……」

「い〜っぱい、い〜っぱい、覚えておくんだ。たくさん楽しんで。みんなと遊んだこと。仲良しになったみんなのこと。折紙たくさん作ったこと。お菓子ここで食べたこと。ここでぼうっとしたことも。人形劇をやったことも。理樹くんや、鈴ちゃん、真人くんたちとここで一緒にいたことも」

 オレは感心した。

 心底、すげぇやつだと思った。

 小毬の未来は、きっとどんなふうになっても、安泰だろうと思った。

 そうしてオレは、すこし恥じ入った。

 恋というものは、果たして両人にとって進歩であろうか。退歩であろうか。

 そんなことを、オレの事情の場合、あまり考えてこなかったのだ。

 そのことを、もう少し、ゆっくり考えてみたいと思った。

 傷つける恋愛は、したくないから。

「あー、」

 オレはまず、言葉に窮した。

 なんて彼女に声をかけようか。

 すげぇな。か。

 かなわねぇよ。か。

 ちげぇ。

 どれもちげぇ。

 なんか言えるはずだ。もっとマシなこと。

 そんな陳腐な言葉じゃない。

 もっとオレが一番心で感じたこと。

 オリジナルなこと。

 言えるはずだ。

 言おう!

「あー……あのさ、小毬」

「なに?」

「あのさ……オレ、旅、やめるよ」

 小毬がこちらに振り返って、首を曲げてこちらの顔を見た。

「今ふと思ったんだけどよ、日本中色んなところ旅するより、その日暮らしのエキセントリックなサバイバルするより、どっか近くで、おまえの頑張りを見てたほうが、楽しそうだな。って思ってよ」

 そうすると、小毬の顔にちょっとした驚きが浮かんだ。

 小毬は口を開けたまま黙っていた。

 オレは笑って、続けていった。

「明日は劇の本番だな。オレ、取りあえず頑張るからよ。よく見てろよ」

「うん。……」

「がんばっからよ」

「うん〜」

「小毬のことも、心じゃ応援してっからよ」

「……くす」

 小毬は、ここで初めて、また見たこともないような笑顔を見せた。

 それは今まで見た中でとびきりいい笑顔であった。

「敵同士、だけどね〜」

「けっ。負けねぇぞ」

「あはは」

 小毬は笑った。二人のときには声を出して笑うのがめずらしい小毬が、声を出して笑った。

「ガキどもの人気は、すべてオレのもんだ」

「あはははは。させないよ〜!」

 オレと小毬は、夕の空がだんだんパープル色になっていく中、こつん、と拳をぶつけ合った。

 

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