結果からいうと、小毬からはメールが返ってきた。

 朝起きるとメールが届いていた。

『メール見たよ〜(^_^)v そんな、全然気にしないでいいよ〜。真人君、はるちゃんにぬいぐるみ貸してくれたとき、はるちゃんはとっても感動しましたと言っていました。優しいのは真人君のとってもいいところだよ〜。また一緒に屋上でお菓子食べましょう(^_^)v

 オレは、なんだか嬉しいのと、喜ばしいのと、ちょっと悲しいのが、胸の奥から綺麗に織り込まれてやってくるのを感じた。

 悲しさはすこしたつと消えてしまった。あとは喜ばしさも嬉しさもじょじょに和らぎ、胸には、ただ浮き浮きとした高揚感だけが明確に残った。しかし頭では「よかった。よかった」という言葉が回っていた。

 理樹も返事が来ていたらしい。

 いわく、『はるかはうるさかったが、あたしも楽しかった』とのこと。

 起き抜けの理樹と、ほんの少し照れくさげに笑い合って、オレたちはいつものように食堂へ朝食を食べにいった。

 そこで再会した鈴と小毬の両者は、まったく、なにも変わっていないように見えた。

 しかしオレたちは、そのあいつらが、ほんの少しだけでも、前とはまた別の目で、オレたちのことを見てくれていると、想像するのは、たったこれだけの事実――「メールが返ってきた」ということ――だけで十分だったのであり、これからの楽しげな未来への期待に、やや胸を躍らせた。

 小毬はあれから尋常に過ごした。

 以前と同様に、勉強したり、みんなと遊んだり、劇の練習をしたり、お菓子を食べたり、談笑したり、なにか楽しそうな企てを立てていたりと、そのような次第で。

 なにか変化があったわけでもなかった。

 小毬はとても普通に過ごしていた。

 オレも普通だった。

 意識して距離を縮めようと思うことは、あるにはあったが、オレの場合はひどく消極的だった。気が向いたときにしか、小毬のことを意識しなかった。しかし気になることに変わりはなく、好きだという気持ちもきっと真実であった。

 オレは、興が乗ったときに、ついに一人で小毬の秘密の場所へと行ってみた。

 四階の廊下の奥に、屋上への入り口がある。

 普段入り口は鍵をかけられて閉ざされてしまっているが、隣の、机が並べられたところから、机に足をかけて、小窓に手が届くので、そこからドライバーで鍵を分解して、空けることができる。

 オレはドライバーを持っていなかったため(そもそも、呼ばれてもいないのにまさかドライバーを用いて推参するというのは、誰かに見られた場合のことを考えると甚だ嫌であった)、窓に向かって、コン、コン、とノックをした。

 小毬、いるだろうか。

 なんの物音もしない。

「お〜い」

 オレは、あいつのことを呼んでみた。

「オレだ。オレだ。空けてくれ」

 数秒すると、「は〜い」と、気の抜けた声が聞こえてきて、小毬の影がにじり寄ってくる。

 がらっ、と窓が開いて、小毬のくりくりした目と、可愛らしい小顔が現われる。

「あっ、真人君」

「よお。来ちまった」

 オレは、はにかみ笑いをした。

 小毬は、「えへへ」と微笑んだ。

「どうぞ〜」

「おう。邪魔するぜ。よっと」

 オレは、狭い小窓をくぐり抜けて、屋上に到達した。

 段差を飛び降りて、屋上の床に着地する。

 気持ちのいい天気であった。

 パンくずのようにちぎられた白雲が空の各所にその座を占め、風に吹かれるに任せて、軽やかに流れていく。

 青色は新鮮な水をいっぱいに垂らして作ったかのように、瑞々しかった。

 風はオレたちの前髪を撫でつけるように、やや下向に吹いていた。しかしからりとした風で、涼しいので気持ちがよかった。

「ん〜っ!」

 オレは背筋を伸ばして、大空に面を向けた。

 小毬はオレの姿を見ていた。

「ようこそ〜」

「おう。悪ぃな。いやー、やっぱいい場所だよな。ここは。気分がスカッとすんぜ」

「えへへ」

 小毬は、後ろに両手をやって、見上げるようにオレのことを見た。

「見つかったんだね。スカッ、とすること」

「へ?」

「ここに来ることが、真人君の、スカッ、とすることになったんだね」

 オレは小毬にそういわれて、少々呆然としてしまった。

 小毬にこの場所の共有者として認められたことで、オレはこの上ないほどに幸福に思ったのだ。

「そ、そうなんのかなー」

 オレはとっさにとぼけてみせた。

「それはね、」

 小毬は、とっても神聖な、神のお告げを声に出す人のように、綺麗な笑顔でいった。

「と〜っても、いいことなんだよ。とっても、よくわかるよ。こんなふうに、なぁんにもない場所に来ると、気分がスカッとするよね」

「あんだよ。小毬にとってもそうだったのかよ」

「じつは、そうでした〜。えへへ、思い出したんだもん」

 小毬は照れくさそうに微笑んだ。

 それから、入り口近くの段差にいつものように腰かけて、鞄からすこしのお菓子を取りだした。

「今日は、誰も招待してなかったから、これだけなの。ゴメンね」

 飴玉だった。

 オレはたったこれだけでも、至福に感じた。

 たった一つの飴玉だからこそよいのだ。

 理由も明確ではないが、オレはそう思った。

「なんだかいつも悪ぃな」

「そんなことないんだよ〜。たくさん食べてね〜」

「ん、甘ぇ」

 オレは包みを開けて、飴玉を口の中に入れて転がした。

 ミルクの味だった。

 甘ったるい薫りが、鼻孔を優しく刺激した。

 まどろみの風がたちどころに現われた。

「真人君、ここに一人で来るの初めてだね」

「ん。そうだな」

 オレは、べつに当惑することなく、それに答えた。

 小毬はとくに理由を訊かなかった。

 だからオレも、言う必要はあるまい、と思った。

「小毬は、今日は誰も連れてくる気がなかったんだな」

 だからオレも、そう訊いた。

 小毬はこちらを見て、なにも言わず、ただすこし苦しそうに笑うだけだった。

「……真人君は、理樹君と仲良くやってる?」

「あん? もちろんやってるぜ。そっちはどうだ。鈴とは仲良くしてんのか?」

「もちろんしてるよ〜。鈴ちゃんは一番の友だちだもん」

「だよな」

 オレは、にかっ、と笑った。

 その後しばらく沈黙があった。

「理樹のことが、気になんのか?」

 オレは、そう何気なく聞いた。

「ん。ん〜、とくに〜……」

 小毬は目をすこし逸らして、なにもない虚空を見つめながら、そういった。

「うん。ちょっと気になっただけだよ」

「そうか」

 オレは、小毬が昔、理樹と恋人同士だった事実を知っているわけだが、なにも口に出さなかった。

「最近、どうだ?」

 オレは何気なくそんなことを訊いた。

「ん〜……。とくに、あんまり変わらないよ〜」

「そうだなぁ」

「平和な日々が続いてますよ」

「続いてんなぁ」

 オレは両手を頭の後ろへやって、面を空へと上げた。

 空を見つめていた。

 ただなにもなく、静かに見つめ返してくるだけの空が好きだった。

「いつか、終わったら、どうする?」

 オレはにわかに、そんなことを口の上にのぼらせていた。

 小毬はただこちらを不思議そうな目で見つめていた。

 しかしそれは馬鹿にする目ではなかったし、また気後れする目でもなかった。

 誠実な目であった。

「終わったらって、また、なにか事故みたいなのに遭うってこと?」

「いいや。そうじゃねぇ。もし、卒業にでもなって、みんな別の道へばらばらに行っちまったとしたら、おまえはどうするつもりなんだ?」

「う〜ん」

 と、小毬は腕を組んだ。

 オレは言葉を重ねた。

「オレたち、別れなきゃなんねぇけどさ、どのみち、自由になるわけだろ。学校にも縛られねぇし、この場所にも縛られねぇ。こう言っちゃなんだが、リトルバスターズっつー『場所』にもな。……」

「う〜ん」

 小毬は、オレがそういっても、まだ考えていた。

 しかし小毬はすぐにこう言い返した。

「リトルバスターズは、私を縛るところじゃないけど、」

 小毬はまだ続けた。

「でも、前より身軽になるっていうのはほんとだね」

「そうだろ」

 オレは短くそう言い返した。

 小毬は空の雲の揺れ動きを見つめて、いった。

「なにするのかなぁ……未来の私」

「オレはとにかく、色んなところに行ってみる気だがな」

「ふえ? 色んなところ?」

 オレは、手振りを付け加えていった。

「色んなところに行くんだよ。まず日本を制覇する。日本っつー国の、ありとあらゆるところに行ってみて、色んなものを見てぇ。それから、世界だ。色んな国に行ってみてぇ」

「ふぇ〜。すごいね〜……」

「だろ?」

 オレは、小毬のほうをじっと見た。

「っつーけど、ただの希望だよ。どうなっか、オレにもわかんねぇ」

「一人で行くの?」

「当たり前だよ。……誰かオレについていきたいやつがいりゃぁ、連れてってやるけどよ、いねーだろ。どーせ」

「理樹君は?」

「理樹はきっと自分の道を行くよ」

 オレはまた、遠い空の雲の揺れ動きを見つめた。

 小毬はちっこくなって、足を抱えた。

「真人君」

 小毬は、ちょっと同情するような、また感心するかのような、また、あるいは呆れたような、そんな声でオレの名前を呼んだ。

 すこしの沈黙があった。

「真人君は、卒業したら、どこかに行っちゃうの?」

「おう」

 オレはそう答えた。

 それはオレの希望だった。そう答えるより他の答を知らなかった。

「そっか〜……」

 小毬は顔を下に向けて、なんだか落ち込んだふうに、考え事をしているようだった。

 一緒に来ないか?

 そう言うことができたら、オレの未来は、どんなに変わることだろう?

 なにかが生まれて、なにかが消えていく。

 それは生まれる前に死ぬ。

 生きてはいけないものだからだ。

 オレはなにが正解かわからん。

 ただ道を歩く。

 自分の望む道を歩く。

 ついてこれない者は、置いていく。

 置いていくっきゃ、ねぇのだ。

 人として生きるためには。

 けれど、それは、どちらが正しいとか、正しくないとか、そういうことではないのだ。

 ただ、静か。

 静かに離れていくべきものだった。

 それが明らかになるだけだ。

 そしてそれを、拒むつもりは、もしオレが一生分の恋をここでしたとしても、やはりないのだ。

 小毬にもそんなところがあるはずだった。

「小毬のほうは、どうなんだよ?」

「ん、」

 小毬は、目をぱちくりとした。

「卒業したら、どうすんだ?」

「私、なんにも考えてないよ〜」

 小毬は苦笑した。

「ほんとかよ。まっ、オレもべつに、たいしたものじゃねぇけど」

「なにかになりたいとか、夢の職業とか、ないの?」

「職業はないが、オレは自由な男になりたい」

 オレは続けていった。

「どこへ行くのも、自由だ。なにをするのも。人に恋するのも。筋肉鍛えんのも。勝手におっ死ぬのも。親孝行するのも。なんでもだ。自分の頭で考えてぇんだ。誰かに強制されたくねーんだ。誰を護ろうとか、誰の重荷を背負ってやろうとか、どんな道を歩こうとか、なにが好きで、なにが好きじゃねーって、人に正直に言えることとか、そういう気持ち、これからはすげぇ大切にしてぇんだ。わかるかな。オレの言いてぇこと」

「……うん」

 小毬は、静かに、あの儚げな微笑みで、応えてくれた。

「よくわかるよ〜」

「そうかよ」

 オレは小毬のほうを向いて、本当に好きだ、と思った。

「ありがとよ」

 そういって微笑んだ。

 小毬はそうすると、ちょっと楽しそうな顔つきをした。

 浮き浮きとするような、熱っぽい顔だった。

 しかし小毬は、なにも、楽しいようなこと、浮き浮きとするようなことは、いわなかった。

「私は、どんな人になるのかなぁ……」

 小毬はオレの真似をして、頭の後ろに両手をやった。

 足を伸ばした。

「十年後、どうなってんだろな。おまえ」

「結婚してるのかなぁ」

「きっとしてるんじゃねぇか。小毬、けっこー男からモテそうなタイプだもんな」

「え〜っ? そんな、まっさかぁ〜」

 小毬は驚いていた。目をぱちくりとあけて、こちらを、開いた口で見やっていた。

「そんなことはないよ〜」

「まぁ、オレの小毬のイメージだけどよ」

 オレは遠くを見た。

 すこし恥ずかしくなってしまったのだ。

「う〜ん」

 小毬はちょっと悩んだ。

「真人君、好きな女の子でもいるの?」

「……」

 オレは、固まってしまった。

 噴き出しそうになるのを、恥ずかしいので、我慢しようとすると、ようよう体が硬直してしまい、顔が赤くなるだけで、このようになるのだ。

「い、いきなり、なんだよ……」

「ううん。真人君は何歳くらいで結婚するのかな〜って、」

「……ん、んなの、わからねぇよ……」

 オレは、どぎまぎしながらも、正直なことを言ったつもりだった。

「一生結婚しねぇかもしんね……」

「えーっ」

「いや、べつに、人が嫌いとかそういうわけじゃねぇんだよ。でも……」

 好きなやつは目の前にいる。

 二人きり。

 ここで告白することだってできるのだ。

 でも自分は、なにか、目に見えざる、自分自身の中から出てくる特殊な本性によって、妨げられた。

「未来のことなんて、わかんねぇだろ」

「う〜ん」

 小毬は、人差し指を口元に当てて、また考え込んでいた。

「ただの、たとえだよ。もしかしたら一生独身でいるかもしんねー。け、結婚なんて……オレにゃ、一種の奇跡のように思われるわけだよ。オレが誰かを好きになって、そいつも、オレのことを好きになってくれるわけだろ? そんなことが現実にあんのかねー……ねぇだろ。なかなか」

「……」

 小毬はオレのことをじっと見ていた。

「真人君って、結婚したあと絶対浮気しないタイプ?」

「は? な、なんだよいきなり……」

「えへへ〜」

 小毬はちょっと照れたように頭をかいた。

「なんとなく、そう思ったんだ。真人君って、絶対、もし結婚したら、その女の人にものすごく尽くしそう、って」

「そんなことあんのかねー……」

 オレは、照れるより以前に、なんだか想像すらできない心地だった。

 結婚して、気に入らなかったら、ソッコーでそいつのところから去りそうだがなぁ……。

 小毬はまだなにか言おうとした。

 しかし、そうしようとした直後、キーンコーン、カーンコーン、と鐘が鳴ってしまった。

「あっ……」

 小毬は、さっと顔を蒼くして、携帯の時計を見た。

 午後一時五分。

 授業が始まる時間だった。

 小毬は、ぱっ、と、前の表情を崩して、いつもの小毬に戻ってしまった。

「うわ〜っ! まずいよ、まずいよ〜! また怒られるよぉぉ〜!」

「うおっ!」

 突然の変貌にオレは驚いてしまって、体を硬直させた。

 小毬は慌ててお菓子類を鞄の中に詰めると、それを肩にかけて、立ち上がった。

「いそがなきゃ〜!」

 しかし、オレの伸ばしていた足が目に入っていなかったのか、そこに躓いて、

「わぁっ!」

 びたーん! と、膝から地面に転んでしまった。

「おっ、おい、大丈夫か!」

「うぇ〜ん」

 小毬は泣いている。

 たいしたことはない。ただ擦りむいただけだ。

 オレは駆け寄って、小毬の手を取って立たせようとした。

「おら、急ぐぞ」

「う、うん〜」

 小毬は、オレの手をぎゅっと握って、立ち上がろうとするが、

「う、う〜……」

「どうした?」

「足、くじいた、かも……」

「なにぃ……」

 立ち上がるのに難儀していた。

 オレは小毬の足下を見た。

 右。左。どっちだ。

 ん〜。左がくせぇな。

 オレは長年の経験で、問題のくじいた足は、そちらの左だろうと、当たりをつけた。

「わり。ちっとめくるぜ」

 靴を脱がして、ソックスをめくる。

 怪しいところをじかに触ってみる。

「っ……」

「ここか?」

「う、うん〜」

 小毬は、涙を浮かべて、うなずいた。

「歩けるか?」

「う、うん……なんとか。でも、時間が〜」

「馬鹿」

 オレはすこし大きな声を上げた。

 小毬はびくっ、とする。

「今さら遅刻の心配したってしょうがねぇだろ。オレが歩けるか、って聞いたのは、オレの肩に掴まって、一階の保健室まで歩けるか、ってことだよ。おら、今からそこ行くぞ」

「え、ええっ。でも、そうすると授業は〜?」

 オレは、振り返って言った。

「遅刻する」

 小毬の反論も、一切聞かぬ構えであった。

 

 小毬を保健室に連れて行くと、まず先生からのお叱りがあって、あと、連れてきたのが男のオレということもあって、変な勘ぐりをされた。

 しかしオレが身の潔白を弁明すると、小毬もそれに合わせてくれたので、――それに、小毬もオレも、騒動を起こすリトルバスターズの団員としても、不届きな狼藉を働く人間ではないと教員側からの認知もあったのか、――最後には信用してくれた。

 小毬はよく足首をマッサージされ、そこから湿布を貼り、さらにテーピングを巻いてもらった。

「さて、これでもうオーケーだ」

 保健の男の先生にそう言われると、小毬はソックスを履いて、もう一度立ち上がった。

「けれど今日一日は無茶な行動はしちゃいかん。走るのもやめたほうがいい。風呂にはいるときは、こちらの足を入れないように」

「は、はい〜……」

「では、まだ授業中だから、静かに教室に戻るように」

 オレは保健室の入り口でそんな先生と小毬のやり取りを見ていた。

 さて、授業にはだいぶ遅れちまったな。

「真人君。待っててくれなくてもよかったのに」

「いいんだよ」

 オレは、くだらねぇこと言うな、とでも言うように、顔をしかめた。

「怪我人おいて、一人でのうのうと教室戻れる人間じゃねぇし……もう一度遅刻しちまったんだから……。どうせ戻っても居眠りするだけの授業だしよ、……どっちにしろ、べつにオレのことなんか気にする必要ねーんだよ」

 オレはそっぽを向いた。

 小毬はなにも言わなかった。

 ただ、安心するのと、呆れられた空気がややそこには流れていた。

「じゃ、戻りましょ〜」

「怪我したのに元気だなぁ。おめぇは」

 オレは呆れた。

「えへへ〜」

 小毬はなにか自慢するように、微笑んでいた。

 誰も通っていない廊下は静かだった。

 教室の前を通るたびに、授業をしている先生の気難しげな声が聞こえてくる。オレたちは見つからないように、こっそりと歩いた。

 小毬は左足をかばいながら歩いた。しかし、手を貸してくれとオレに言うことはなかった。だからオレも手を貸さなかった。

 ただ、そのたどたどしい足取りを、オレはすぐ後ろでじっと見守っていた。

 やがて、オレたちが自分たちの教室につくと、小毬はまず中の様子をうかがってから、「どうしよう。おっかない数学の先生だった〜」と、小声で、泣き顔でオレにそういって、手に「人」の字を書いて飲んでから、意を決して、こそこそと教室のドアを開けた。

 がらり、と音。

 小毬がまず扉をくぐる。

 全員の視線がこちらに向く。

 その後オレも扉をくぐる。

 みんなは丸い瞳でこちらの二人を見ていた。

「す、すみません。遅れました〜」

「おくれました」

 小毬はやや気後れするように、オレはぞんざいに、まず言うことを言った。

 すると、教室の隅々に、こそこそとオレたちのことを噂するようなひそひそ声が上がり、それから教師が、厳格な声で、「理由は?」と尋ねた。

「あ、あの〜……」

「なんだ。まさか隠れて不純な行為をしていたのではあるまいな」

「こいつの足が怪我しちまったので、保健室に連れて行っていました」

 あらぬ疑いがまさか数学の教師からもかけられそうだったので、とっさにオレは大きな声でそう弁明した。

「なにぃ……それは本当か」

 数学の先生は、品定めするように、オレと小毬の顔を見た。

 コソコソと、教室内に、「怪我だってー……」とか、「うそー……神北さんと井ノ原の馬鹿が……」「マジかよ。おれの小毬ちゃん!」などの、声が上がる。「あっ、でも、ほんとに怪我してるっぽいよ」小毬の左足を見た、近くの女子がそういった。

 オレは答えた。

「本当だよ。保健室の先生に聞きゃぁ、ぜんぶわかる」

「もうよい」

 先生は溜息をついた。

「座りなさい。時間がもったいない。井ノ原、神北、おまえら二人には悪いが、今までの説明をもう一遍している暇はない。授業でわからないことがあったら、あとで先生のところに来なさい」

 数学の先生は意外にも、それ以上咎め立てすることなく、また、こちらの心配もしてくれたので、オレはすこしく驚いてしまった。

 きっとあちらの先生にも、オレたちの本性というものが(騒動は起こすが決して悪さはしないという)、よく伝わっていたせいなのだと思う。

 しかし、その後教室にじっとりと残った、いやな空気には、オレは閉口であった。

 オレと小毬の仲を邪推している連中がいる。

 小毬とオレの仲を邪推すること。

 オレは、小毬のことが好きであるから……そうされることにはあまり抵抗はないはずなのに、このときのオレは、甚だ気分が悪かった。

 席につき、黒板に目を向けたときも、教室中からのいやな視線を知覚して、オレは肩をそびやかすようにして、頬杖をつき、周りに威嚇する向きを示した。

 案の定、他の一般クラスメートからは、直接に質問されることがなかった。

 ひっそりとオレたちの様子を見守っているだけだった。

 質問されたのは、理樹や、鈴、謙吾たちからである。

「真人。小毬さんとなにがあったの?」

「まさか、貴様が怪我を負わせたのではあるまいな」

 謙吾から疑いの視線が向けられる。

 オレは頭をかいた。

「んー……。そうだな。いや、オレのせいっつーか……あれはオレのせいなのか? まぁ、どっちにしろ、オレの足が原因だったのは確かだ」

「まったく」

 謙吾は呆れていたが、それ以上オレに説教は垂れなかった。

「ほんとにこまりちゃんに、なにか悪いことしてないのか」

「悪いことって、なんだよ」

「うにゅぅ……」

 鈴はなんだか言いにくそうだった。

「え、え、えっちなことじゃ……」

 なんでそんなことを聞くのに恥ずかしがっているのか、高校生のくせして、やはりそこが疑問であった。

 いつも大いばりであるのに。

「するかよ。てめぇの発達的な妄想と違ってな」

「っ! だ、だれがもーそーするか!」

「やめろ、二人とも」

 謙吾がオレと鈴の仲裁に入る。

「とにかく、小毬さんとなにか問題でも起こしたのでなければ、いいんだけど……」

 理樹は困ったような視線で、教室を見回した。

 ねっとりと疑うような視線が、教室のどこからも向けられている。

 小毬の席のほうには、クー公や来ヶ谷、葉留佳や西園などといった面々が集まっていた。

「まったく、暇人どもだ」

 謙吾はそういって目を閉じ、頭を振ると、自分の席へと帰っていってしまった。

「みんな真人と小毬さんの仲を噂してるよ」

 理樹はそうオレを囃すようにいったが、オレはなんとも、喜ばなかったし、むしろうっとうしいものだと感じた。

 迷惑以外の何物でもなかった。

「こいつは、あたしらのほうからも、なにも言わないほうがよさそーだな」

「そうだね、鈴。へんに弁護なんかしたりすると、逆効果かも……」

「こまりちゃん……。こまりちゃんに会ってくる」

 鈴は小毬のほうへ駆け出していった。

 理樹はオレの背中に手をやって、元の席のほうへ連れて行った。

 勘ぐるような視線は続いていたが、理樹は気が紛れるようにと、ほかの話題を振ってくれたので、オレたちはわりと気分よくその日一日を過ごすことができた。

 しかし、なんだかオレは、その事件を境に、小毬との距離が、前よりも開いてしまったのをうっすらと感じた。

 

 次へ……

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