オレたちが二度目の修学旅行に行ってからは、その反動からか、オレたちの空気はだいぶ緩んでしまっている。

 そういえば野球の練習もあまりしていない。

 それぞれ思い思いの時を過ごし、この秋の深まりをそぞろに見守っている。

 オレは、なんだか、鈴や理樹、謙吾たち、五人だけのリトルバスターズのときに戻ったみてーだな、と思っていた。

「ほっ、ほっ、ほっ」

 オレはとかく、することといえば筋トレである。

 筋トレといっても馬鹿にはできまい。

 この十七歳という重要な成長段階において、もっとも健全な成長を遂げるために必要なのは、やはりなんといっても「筋肉」だし、こうして体を動かしているときは、妙に余計なことを考えなくて済むから、オレとしては大切な時間である。

 さらに言えば、謙吾のやつが部活でぐんぐん力をつけていっている間、オレがこうして自主トレでバトル力をつけないと、すぐに引き離されちまうということも大きな理由の一つだ。

 謙吾が身近にいる以上、オレが筋トレをやめることはない。

 便秘であいつが剣を振れなくなったとき以外は。

「ふぅーっ」

 オレは朝のランニングを終えて、息をつく。

 学校の時計塔を見れば、現在の時刻は六時五十五分。

 なかなかのランニングタイム。オレの筋肉時計に狂いはなかったか。

 陽はもう完全に上がりきって、出かけていったころより、空はずっと蒼く、健やかに輝いている。

 オレはお気に入りの赤ティーシャツの襟元をぱたぱたと扇ぎながら、理樹のまだ寝ている寮の自室へと帰っていった。

 理樹が起き出してくる前に、汗を拭いたタオルを洗濯かごに突っこみ、冷やしておいたスポーツドリンクを飲む。

 それから汗で湿った服を脱ぎ、シャワー室に向かう。

 このシャワー室は朝五時から使えるようになっている。一年の夏ぐらいまでは、夕方から夜までの使用に限られていたのだが、朝練上がりの連中から長い間の苦情と解放を求める運動があったのと、新しい生徒会長に変わったのとで、朝から晩まで使える便利な共同施設へと変わった。

 オレはそれ以前ですらも、寮の管理人のおっちゃんと仲良くさせてもらっていたので、早朝のランニングの後では、こっそり温かいお湯を出してもらったりはしていたのだが。

 しかしおおっぴらにシャワー室を使えることはいいことである。

 こっそり、泥棒みてぇにシャワーを浴びるなんて、性じゃねぇからな。

「ふぅ〜っ!」

 温かいシャワーを浴びて、体に残っていた汗を残らず洗い落とす。

 髪も奥の皮膚までしっかりと洗い、完全にさっぱりとすると、前髪をかき上げて、オールバックにして、束ねたところを手で絞って水滴を落とす。

 それからぱらぱらと首を振って水滴を払い、タオルを引っ被って、髪を拭きながら全裸でシャワー室を歩く。

 シャワー室の使用者はオレ一人だ。

 いつもこの時間は、オレ一人だ。

 脱衣所で体をよく拭き、濡れた髪をドライヤーで乾かし、しばしの間、自分の栄えある筋肉美に見とれながら、ちょっと一二度マッスルポーズを取って、ニヤリとすると、オレはいつもの服を着て、ハチマキを締め、自室へ戻っていった。

 七時二十五分。

 このくらいになると、理樹がそろそろ起き出してくるころである。

 それまでオレはなにをしているかというと、実に様々だ。

 洗濯かごがうずたかい山岳を築いてしまっているときなどは、そのまま洗濯屋(コインランドリーのことだが、オレたちは洗濯屋と呼んでいる)のところに直行するし、そんな洗濯物などを干しているとだいたい暇な時間はなくなってしまう。なにもすることがなかった場合は、すこし仮眠を取る。寝るといっても横になる程度だが、それでも眠くならなかった場合、そんなときは、軽く筋トレなどをするか、ストレッチをする。仮眠を取る際にも直前にストレッチはするが、朝のランニングではそこまで筋肉を酷使しないため、あくまで、ざっとだ。

 しかし、ストレッチは、オレの場合、やり始めてしまうと止まらなくなってしまうため、このような微妙な時間帯に始めたりすると、途中で理樹が起き出してきたり、恭介の阿呆がハイテンションで朝食の誘いに来たりなどで、中断させられることが多いため、この時間にストレッチを敢行するかは少々の迷いがある。そのため、実にオレは様々なことをしている。

 今日の理樹は少々遅い起床であった。

「う、う〜……ん、」

 もそもそと萌葱色の布団が動いて、その中から青色のパジャマを着た理樹が目を擦りながら出てくる。

 その間オレは、暇だったので、外の物干し竿で懸垂をしていた。

「あ、おはよう。真人」

 眠そうな声で、むにゃむにゃとオレに挨拶をする。

 オレは飛び降りて、腕をぐるぐると回し、筋肉を揉みながら、挨拶した。

「おう。おせーな、理樹」

「なんだか変な夢見た」

 理樹は半分開いた目で、時計を見ながらつぶやいている。

「へぇぇ。変な夢。どんなだ?」

「葉留佳さんが水泳だとかいって、滝壺に飛び込んで、人魚になって帰ってくる夢」

「……」

 なんだかものすごく三枝らしい行動であるが、やはり理樹の夢である。

「なんか楽しそうな夢じゃねぇか」

「うん。確かにね。でもぼくはそのとき、葉留佳さんのお付きのザリガニエビだったから」

 やっぱり夢といえば、夢である。

 理樹はあの修学旅行の事故以来から、ちゃんと夢を見るようになった。

 ナルコレプシーが改善されたのだ。

 まだ本来の治癒とは言いにくいようだが、確実に症状はよくなったらしい。

 オレにゃ、ちっと難しいことはわからないが、理樹が人並み同様に夢を見れるようになったことには、友人として、喜びを感じる。

 その後オレは、理樹と一緒に洗面所に歯を磨きに行く。本当は、歯はすでに磨いてあるんだが、理樹が磨いている間、オレは手持ちぶさただし、理樹に気を遣わせてしまうので、一緒にこの時間にもう一度磨くようにしている。理樹はそれから顔を水で洗う。オレはこのときは、さすがに隣で筋トレや柔軟体操、シャドーボクシングなどをしている。

 このときもなぜか、洗面所にはオレと理樹の二人である。

 時折部屋のドアが開いて、他の生徒の顔が見えたときも、そいつはすぐ首を引っ込めてしまう。

 リトルバスターズに遠慮するきらいがあるのは、この学校の生徒の欠点だ。

 友人になるのも一苦労だ。

 まっ、オレは、理樹や恭介らと一緒にいられるだけでいいんだがな。

「うん。よし」

 理樹は顔を洗うと、いつものキリッ、とした顔になる。 

 いつもの、というのもやや語弊があるかもしれない。

 理樹は、顔を洗いタオルで水滴をとった後、眼をキリッ、とさせて、かっこつけるのが癖である。

 そうして鏡を離れた後、通常ののんびりとした顔に戻るのである。本人はキリッとしているつもりだが。

 そうすると一度制服に着替えるため、オレたちは自室に戻る。

 そのとき、たいてい、七割がたの確立で、恭介に出会う。

 恭介はだいたいこの時間にオレたちを叩き起こしに来る。

 叩き起こしに、というのは本人だけの弁で、実際はいつも、ただ早朝暇だから、限られた少ない時間を使って遊びをしようという、ただそういった迷惑極まりない沙汰になるだけである。

「よう。真人、理樹」

「あっ、おはよう。恭介」

「おはようさん」

 今日もいつものごとくオレたちの部屋の前でスタンバっている恭介。

 こいつは朝起きて何もすることがないのだろうか。甚だ疑問を感じる。

「今日もやっぱり、就活に行くの?」

「ああ。そうだな」

 恭介はわりと穏やかな声で答える。

 恭介はあれから、やはり就職活動を続けている。

 いつになったらこの男は仕事をもらえるのか。オレと謙吾の賭けでは、だいたい卒業ギリギリ、といったところである。謙吾は卒業直前、オレは卒業後である。

「今日は、ちょっと東京のほうまで行ってくるよ」

「恭介、東京好きだねぇ」

「あったりめぇだろ? オレはいつか、東京に住んでビッグな男になるんだからな」

「ビッグな男ねぇ……」

 オレはなんだかついていけない心地がする。

「もう十分ビッグだと思うけどな。ぼくは」

 理樹は恭介に憧れている。しかし理樹も苦笑気味だ。

「まずは東京方面から進めていくつもりだ。まずは浅草あたりの職人あたりから……」

「初っぱなから身を固めていく方針かよ」

「恭介のいうビッグって、なんなのかよくわかんないな」

 恭介は突っこみを聞くことなく、滔々と自分の計略を語る。

「東京が外れたら、次は神奈川だ。その次は群馬。炭鉱でもなんでもいけるだろ」

「群馬に炭鉱なんかあるのかよ」

「間違ってたら、群馬の人怒るよ、きっと」

「そうして群馬が外れたら栃木、だめだったら大阪に行く」

「就職活動するのに学校から数百キロ離れたところに行くやつなんて初めて見るぜ……」

 オレは呆れていた。

 恭介はどこまで行く気なのだろうか。オレたちの知るよしではない。

 しかしその行動的なところはやはり尊敬できるものがあり、オレたちは恭介の行動をからかいこそすれ、非難したことなど一度もなかった。

「それじゃ、いってくるよ。今日は一日留守にするからな」

「他のみんなには挨拶してかないの?」

「暇がないんだよ。暇が」

 恭介は目を閉じて、すました顔でそんなことを言って、去っていった。

「ご飯も食べないで行くつもりかな」

 理樹は恭介の消えた方向を見て、呟く。

「どうせ学食のおばちゃんに無理言って、おにぎりでも作ってもらってるんだろうぜ。やけに気合い入ってるじゃねぇか。あれから」

「うん。そうだね」

 オレと理樹は鍵を開けて部屋に入っていく。

 あれから、というのは、修学旅行の事故があってから、という意味である。

 

 オレたちリトルバスターズとしての一日は、このあたりから始まる。

 オレと理樹が支度をして食堂に向かうと、まず大体、鈴が席に座っている。鈴がいなかったら、恭介。どちらもいなかったら、オレたちが最初だ。謙吾はだいたい遅れてくる。部活上がりだからだ。

 その日は、やはり鈴がいた。

 鈴だけでなくて、小毬までいる。

「おはよ〜」

 伸びきった小毬の挨拶が早朝から炸裂する。

「よっ。おはよ、おまえら」

「おはよう。鈴、小毬さん」

「ん」

 ちりん、と鈴の音が鳴る。

 オレたちは食堂の席につく。

 まずすることといえば雑談である。

「今日、恭介いないって」

「ふえ? ど〜して?」

「なんだ。馬鹿兄貴はいないのか」

「東京へ行くんだとよ」

 オレはいった。鈴は目を開けて聞いていた。

「とうきょ〜か」

「就職活動か〜」

「そうだね。さっきそこで会ったんだけど、小毬さんたちは見なかった?」

「うん〜」

「会わなかったぞ。……ったく、あの馬鹿兄貴、あたしや小毬ちゃんに挨拶なしで出かけるとは」

「忙しいんだからしかたないよ〜」

 ほんわか微笑む小毬に、やや不機嫌気味の鈴。

 お兄ちゃんっこの鈴には、挨拶もなしに旅立たれたのが、すこし悔しいらしい。

「謙吾が来たら、ご飯取りに行こうか」

「やあ。すまない。待たせたな」

 理樹がそう言った直後、謙吾が若干慌ただしく食堂に入ってくる。

 オレたちは様々に挨拶をした。

 さて、それからは朝食の時間である。

 あのうるさい馬鹿恭介がいないと、わりと、朝のこの時間は静かである。

 とくに最近はそうだ。

 謙吾と喧嘩することもあまりない。

「あっ、謙吾。ハエが飛んでるぜ」

「なに」

 そのすきに、鮭の切り身をぶんどるオレ。

「ハエが飛んでるからって、オレにどうしろと……って、あぁぁぁ――――っ!」

「だから、箸で掴んでみせろと。もぐぐ……」

 と、このようなことぐらいである。

「……今のボケを説明するとね、」

 理樹が語り出す。

「おそらく真人は、この前謙吾がハエを割り箸でつかみ取れることを自慢していたから、それで注意を逸らしてその隙におかずを奪い取った体なんだろうけど、そもそもそれだけじゃ気づかないし、鮭の切り身を全取りしている時点で明らかすぎるから」

「……ほぇ〜」

「どっちにしろ馬鹿だ」

 なんとなくのんびりした喧嘩である。

「はっはっはっは。だめじゃないか、こいつめ〜」

「いやいやいや。おまえこそ」

 オレたちがこのように表面上で微笑み会っている最中も、テーブル下では、怒濤のような足技の戦闘が繰り広げられている。

「うっさいぞ! おまえら」

 鈴の注意が飛んで、止めになる。

「くっそー……おれもなんか取ってやる! うりゃっ、桜大根いただき!」

「なんかすっごくしょうもないもの取ったよ……」

「むしろ、どんどん取ってくださいとも言うべきだな」

「なにをぅ! 桜大根はすごく体にいいんだぞ! 桜大根はおれの友だちだ! もぐもぐ……」

「どっちにしろ馬鹿だな。おまえら」

 鈴のささやかな突っこみが光る食卓である。

「鈴ちゃ〜ん。今日のカップゼリー、何味?」

「ん。メロン」

「じゃあ、私のイチゴゼリーと交換しない?」

「あっ、イチゴゼリーはレアだ! 是非たのむ!」

「えへへっ。いいよ〜」

 小毬と鈴が隣でデザートを交換している。

 オレはそれを横目で見ている。

「なぁ謙吾」

「なんだ?」

「オレたちもなんか交換しね?」

「なにを交換するというのだ?」

「卵焼きとこっちの残った鮭の骨くず」

「いるかそんなもん……」

 謙吾は相変わらず冷たいやつであった。

「まったく仲良いんだから、みんな……」

 いつもお互い仲のいい恭介がいないため、すこし寂しげな理樹の呟きであった。

 恭介がいないと、やはり日頃のオレたちは平和である。

 否、平和すぎた。

 修学旅行のあの事件が終わったあとだから、いささか反動でボケ気味になってきているのかもしれない。オレたちの周りには弛緩した空気が流れていた。

 オレは教室で筋トレに励み、鈴は猫の世話をし、理樹は勉強し、謙吾はジャンパーセカンドの作成に当たっている。来ヶ谷はなにやら難しい『道徳形而上学原論』とかいう分厚い本を読んでいるし、西園は青いブックカバーのついた本を読んでいる。クー公は画用紙に宇宙ロケットの絵を描いて喜んでいるし、三枝は事件以降姉貴と仲良くなってしまったため、こちらの教室に来る回数が減った。

 小毬は――……と、いうと、教室にいない。

 どこへ行っているのやら。

 オレには直接関係のないことだったが、すこし気になった。

 それというのも、おそらくこの弛緩した空気のせいだ。

 だれも新しいことを始めたがらない。

 それは小毬自身も、まぁ、この教室にいたとしても同様だったろう。

 しかし小毬というやつも、いささか友人にくっつきたがりなところを持ったやつで、そんな小毬がいると、最低限女子たちの集まりというのができるから、教室もちょっとは賑やかになる。

 詮ずるところ、女子の中の中心人物といえば、鈴と小毬なのだ。

 鈴は精神的支柱だが、いつも最初に事を始めるのは、小毬だ。

 小毬や恭介がいないと教室中、どこも暇そうだ。

 そうしてそんな仲良したがりな小毬が、たった一人で、みんなを置いて、どこへ行っているのだろうと、すこし気になった。

 しかしここで行動するほど、オレは世話焼きな人間でもなかった。

 べつにあとで適当に聞いてみりゃいいだろ。

 その程度の考えだった。

 

 小毬はその後授業の鐘が鳴ってから駆け込んできた。

「ひぇ〜ん」

 と、べつに誰かが怒っているわけでもないのに、最初から泣き顔である。

「えと、あの、すみません。チューリップが、チューリップがぁ〜……」

「チューリップがどうしたんだね」

 物理の先生はやや呆れた様子である。

「あの、その、チューリップが転んでまして……」

「……」

 小毬よ。チューリップが転んでいたとはいったいどういう状況だ。

「びぇ〜!」

 小毬はますます泣き顔に。

「いいえ。違うんです。チューリップが咲いていたと言いたかったんです。いえあの、それも違くって、ほんとうはおばあちゃんが転んでいたと言いたくて、あの、その……」

「どちらにしろ校内におばあちゃんはいない。見苦しい嘘はやめたまえ」

「うえ〜んっ」

 小毬は顔を赤くして涙声である。

「ほんとは……ぽかぽかとした午後の陽気に当てられて、睡眠を取りすぎていました〜……」

「……」

 そんなふうにあっさり白状されすぎても困る。

 先生およびオレたちクラスにいる人間は、誰も小毬を叱ることなく、憐れみの視線で、「まあ、席につきたまえ」と語った。

「気を取り直して授業を再開するぞ。百四十三ページ……」

 オレは小毬が帰ってくるのを確認すると、隣の理樹と言葉もなく笑い合って、睡眠のカーテンを引いた。

 しかしほんのちょっとだけ考えごとをしていた。

 小毬のやつ、最近一人の遅刻、多いな。

 ただ、そんなことだ。

 オレの意識は、その直後、すぅーっ……と、闇の底へと埋もれていった。

 

 オレが何気なくそのことを尋ねたのは、そんな小毬の失態がさらに数度続いた後である。

 オレは、説教する振りをして、こう尋ねた。

「だいたいだなぁ、おまえ、いっつも一人でどこに行ってんだよ」

「ぼくら、念のため昼休みのときに、中庭とか、体育館裏とか、探せるところは全部探したからね……」

「う、う〜ん……」

 小毬は微苦笑を浮かべるばかりである。

「電話すればよかったんじゃないのか?」

 こう突っこむのは鈴である。

「馬鹿野郎。なんか大事なことをしている最中だったかもしれねぇじゃねぇかよ」

「大事なことって、なにー!」

 小毬に肩を掴まれる。

 意外と力が強いので、ちょっとびっくりする。

「いや。おまえ。オレに言わせんなよ。理樹、パス」

「え、えええっ! そ、それは……う〜ん、それはだね……」

「理樹君も考えなくていいからぁー!」

「寝ていたんじゃないのか」

「ばっか違ぇよ。小毬はきっと、こっそりオレらに内緒で、」

「男かっ!」

「ち〜が〜う〜!」

「えっ? 筋トレだろ?」

「筋トレでもな〜い〜!」

 小毬からは非難ごうごうである。

 あと、なぜかオレばかり肩を掴まれる。どうしよう。

 ゆさゆさと揺らされる。

「えっと、小毬さん、他の友だちのところに行ってたんじゃないの?」

「ちがうよぉ〜」

 小毬はやや泣き顔である。

「ちょっとうとうとして眠くなっちゃっただけです。ものをたくさん食べるし、静かだし……」

「ものを?」

「なんだそりゃ。食堂で寝てんのか」

「それだったらぼくらが気づかないはずないよ」

「だいたい、お昼ご飯はいっつもあたしらの誰かと取ってるぞ」

「そうですとも」

 小毬はなぜか、えっへんと胸を張る。

「じゃあ、どこにいんだよ」

「それが謎だねぇ〜……」

「わたしの秘密の場所なのです」

「うーみゅ……」

「あとでよければ、みんなにも教えてあげるよ〜」

 小毬はそう言って微笑み、オレらの前から去っていってしまった。

 なんだか狐に巻かれた気分である。

 あれっ、狐につつまれた、だったかな。

 どっちだっていいや。

「取りあえず、まぁ元気なら、いいんだけど……」

「あとでこっそり教えてもらうか」

「ふざけんな。あたしが先じゃ」

「どっちだっていいだろ。そんなもん」

「いやじゃ!」

 この後ちょっと鈴と喧嘩になる。理樹が止めてくれたので、鈴とは仲直りし、それから三枝、謙吾、来ヶ谷を加えて、ちょっとした野球練習をした。クー公と西園は、勉強と用事がそれぞれあるとのことで、グラウンドには来なかった。

 オレはそれから、こっそり、本当にこっそり、なぜかとんでもなく真剣な眼つきをした小毬から、秘密の場所の在りかを教えてもらった。

 というか、それは、屋上だった。

 確かにここなら、そもそも立ち入り禁止区域であるので、人が寄りつくはずもなかった。

「なんだかずりぃなぁ」

「あははは」

 理樹は苦笑気味である。

「こまりちゃんは、ずっとここにいたのか?」

「うん。わたしの秘密の場所〜」

 小毬は鞄からたくさんのお菓子を出した。

 なんだこいつの鞄は。まるで魔法の四次元ポケットだ。

 さまざまなお菓子の種類が出てくる。

「鈴ちゃんはゼリーがい〜い? は〜い。コーラ味〜」

「なんと。コーラ味はいまだ未踏の味だ! ぜひいただこう!」

「理樹君は、ワッフル?」

「うん。ワッフルちょうだい。って、あれ、いいの? もらっちゃって」

「いいんだよ〜。今日はみんなのためにたくさん持ってきたんだもん。いっぱい食べて〜」

「おう。オレにもなんかくれよ」

「真人君はなにがい〜い?」

「ん、そだな……」

 と、思ったところで、気づく。

 菓子なんて、ほとんど食ったことねぇ……。

 甘いもんがほしいと思うことなんてあんまねぇし、ほとんどプロテインが菓子同然みてぇな感じだからなぁ。オレにとっちゃ。

「なんかプロテイン系のワッフルとかはねぇのかよ?」

「きしょい!」

「さすがにプロテイン系のワッフルはないよ〜」

「じゃあプロテインアイス」

「プロテインから離れろ!」

「プロテインアイスって、確かどこかの商品であった気がするかも〜」

「なにぃ!」

「ええー!」

 理樹と鈴がびっくりしている。オレは、「おおっ!」と思った。

「マジか。小毬」

「うん。今度探しておくね〜。なんか、スポーツ系のお店で、あるとか、ないとか〜」

「やべぇ、そしたらすげぇ助かるぜ! オレ、小毬ぐれぇの菓子好きになるかも!」

「おまえはプロテインが好きなだけだろ、ぼけ!」

「なんだよ。そんなにプロテインが好きなのはだめなのか? あぁん? おめぇ、こら、プロテイン漬けにしてマッチョムキムキにしてやんぞ、この野郎」

「しねぇぇ――――っ!」

 鈴の右足がオレの鼻柱に直撃したのは覚えているが、それ以降の記憶はない――。

 眼を覚ましたころには、小毬に顔を覗き込まれていた。

 オレは飛び起きる。

「……は? え?」

「起きた〜?」

 ニコニコとしている。

 小毬はオレの倒れていた壁の隣に腰かけて、たった一人でいた。

 あたりは夕暮れに染まっている。

 思い出した。ここは、屋上だ。

 放課後小毬に「秘密の場所」とやらを教えられて、オレは確か、理樹と鈴の三人で、小毬に連れられて、ここにやってきた。

 それがどうして、オレが途中で寝ちまったんだ?

 まずい。どうやっても思い出せん……。

「怪我はたいしたことないみたい〜」

「あ? オレ、怪我してんのか?」

「ぜんぜんたいしたことないよ」

 小毬はニコニコと微笑んでいる。オレは、それで「なら、たいしたことないんだろう」と簡単に結論づけてしまった。

 身を起こして、小毬の隣に座る。

 オレは、はっとした。

「やべぇ、筋トレしねぇと」

「ふえ?」

 オレはすかさず俯せになって、地面に腕を立てた。

「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」

「はわわわ〜、真人くん、どうしたの?」

「気にしねぇで、ふっ、くれっ。ふっ、ふっ……オレ、昨日は腕立て、ふっ、ふっ……やんなかったから、ふっ……今日はちゃんとやらねぇと。ふっ、ふっ、ふっ……ああ大丈夫。このままでも話せっから」

「ふ、ふ〜ん」

 小毬は物珍しそうな眼で、じっとこっちを見ている。

 なんだか眠そうである。

 オレばっかり寝ちまったんだろうか。

 そう思うと、なんだか申し訳ない気がしてきた。

「そういや、小毬。理樹はどうした?」

「理樹君と鈴ちゃんは、野球しに行ったよ」

 そういって小毬は立ち上がり、フェンスのところまで歩いていって、「ほら」と下を指差した。

 オレは腕立てをやめて、「ほっ」と立ち上がり、そちらのほうに歩いていった。

「お〜、やってるやってる」

「恭介さんがいなくっても、理樹君と鈴ちゃんがいれば、みんな始めるから」

「おまえはいかなくっていいのか?」

「私は、」

 と、小毬はそう言いかけたが、適当な理由が見つからなかったのだろうか、「えへへ」と曖昧に笑って、誤魔化すのであった。

「たまには、こういうのもありです」

「へぇぇ」

 小毬はフェンスに背中を預ける形で、また地面に座った。

「秋だからかな。なんだかちょっと寂しい気分」

「お。ちっとはわかるぜ。それ」

 オレも隣に座った。

 小毬はずるずると背中を滑らせて、ついには、地面に寝っ転がってしまう。

 まるで男みたく、頭の下に両手を置いて、空を見つめている。

 オレもそれに習った。

「なんだかいつもより元気がなくなっちゃったみたいなの」

「なんとなくな。筋肉さんもクールダウン気味だぜ」

「真人くんもそうなの?」

「おうよ。夏はほんと大変だったからなぁ。その分の反動じゃね」

「病院での遊び、いろいろやったもんね〜」

 小毬はくすくすと笑う。

 オレも、病院内での謙吾との遊び、理樹や鈴、小毬との遊び、中でも、恭介とのテーブルゲームやナースコールのいたずらなどをしたのを思い出して、からからと笑った。

「今はいいんじゃね。こういうのでもよ」

「そうかなぁ」

 小毬はそんなふうに言って、明確な答えを出すのを避けた。

「私はよくわからないなぁ」

「だんだん寒くなってきたな」

 空に近いところにいるからか。

 風に巻き上げられて、まるで天に吸い込まれていくよう。

 オレは用心して、「ここ」に留まっておられるよう、身を引き締めた。

 小毬はもぞもぞと体を動かして、若干寒そうに、腕を抱いた。

「さみぃか」

「うん。ちょっと」

「ほれ。着ろ」

 オレは自身が着ていた学ランを脱いで、小毬に貸してやる。

 小毬はただでは受け取らなかった。

「えっ。いいよ、いいよ〜」

「さみぃだろ。オレのめちゃめちゃ熱い筋肉温がいまだに残ってるぜ。って、ありゃ、気持ち悪ぃ言い方になっちまったかな。えーと、オレの体温が、まだほかほかと……」

「どっちにしろ変だよ〜。えへへ」

 小毬は、オレの学ランは着なかったが、上に布団のようにかけてくれることだけは許してくれた。

「べつに臭くはねぇからな」

「普通の男の人のにおいがするよ」

「えっ、まじか」

「うん。普通の男の人」

「なんだかな……。嫌なら取ってくれたっていいぜ」

「ううん。だいじょうぶだよ〜。私なら」

 小毬は、ぐっ、と親指を出して、微笑んでくれる。

 そうするとオレもすこし安心した。

「それよりも、真人君は寒くないの?」

「オレはどうってことねぇ。これくらいならな。リトルバスターズ団員の中で一番筋肉があるからな。常にぽかぽかなんだよ」

「あはは。私、筋肉ないから〜」

「筋肉は大事だぜ? 健康を維持するのだって、筋肉がねぇと始まらねぇ。声をよくするのだって筋肉だし、姿勢を正しく保つのだって、やっぱり筋肉だ。エネルギーをきちんと食いものから補給して、効率よく使うのもやっぱり筋肉が必要なんだ。小毬、もしよかったら女向けの筋トレメニューを、オレが作ってやってもいいぜ。どうだ?」

「う〜ん」

 小毬はほんのすこし思案するが、

「私には向いてないよ〜」

 やっぱり微苦笑で断るのであった。

「わかってるんだけどね〜」

「んだよ。わかってるのに、しねぇのか」

「わかってても、体があまりそっちのほうに向かないんだよ〜。お菓子ばっかり。お菓子と、あと、ボランティアとかさまざま」

「おっ。そういやぁ、小毬、ボランティアとかなんか、そんな妙な活動してるよな」

「妙じゃないよ〜」

 小毬は苦笑ぎみである。

「私の趣味というか、楽しみというか、そういうものです」

「そりゃまた、妙な趣味だなぁ」

「人のために、なにかするのが好きなの」

「人のために、かぁ。オレにゃぁあんま向いてなさそうだなぁ」

「くす」

 小毬は笑った。

「真人君だって、向いてないものはあるんだよ」

「おっ。そうか。マジか」

「マジだよ〜」

「なんだ、そうか。なるほどなぁ。小毬、おまえなかなかやるじゃねぇか。人それぞれって、こういうことなのかもな」

「かもしれないよ〜」

 オレと小毬は、なんだか楽しくなって、それから色々会話をした。

 時が経つのを忘れてしまった。

 フェンスの下のグラウンドのほうから、理樹のバッドの小気味いい打球音や、謙吾の「セカンド!」という叫び声や、「あいヨ!」という三枝の掛け声などが聞こえる。

 オレはふと、どうして小毬がここにいて、一人でオレの隣についていてくれたのか、不思議になった。

「なぁ小毬」

「ん?」

「小毬は向こう、行かなくてよかったのか?」

 小毬は答えない。オレの言葉の続きを待っている。

「あー、いや。どうせ寝ているオレのことなんか、ほっといて鈴や理樹たちと一緒に遊びに行っちまえばよかったのによ。どうせオレ、そういうのなんとも思わねぇし」

 オレがそういうと、小毬はなにも言わずに、小さく、二度、頷いて、それからちょっと静かな面持ちになった。

「真人くんね。そういうことを言っちゃだめですよ」

「あ?」

「ちなみに鈴ちゃんはね、私が、う〜んと、怒っといたから。いくら気の知れた仲のいい友だちだって、無闇に足で蹴ったりなんかしちゃ、だめなんですよ、って。そうしたら鈴ちゃん、謝ってたから。倒れている真人くんに向って。でもあまり、そうやって鈴ちゃんばかりに気を遣わせるのも悪いから、先に野球しに行ってて、って私が言って、先に行かせたんだよ」

「……」

 オレは小毬のうすい色素の瞳を見ていた。

 なんだか意外であった。

「そりゃあ、まぁ、なんつーか、」

「だから真人君も、鈴ちゃんのことは嫌いにならないであげてね」

「そりゃ嫌いになんかならねーよ。べつに、あいつとはいつものことだからよ」

「よかった〜」

 小毬は、にぱっ、と笑ってくれる。

 オレはまだ、驚いた気持ちであった。

「真人君を一人にするなんてことができるわけないよ」

「おっ」

 オレは目を見開いた。

 なかなか嬉しいことを言ってくれるもんである。

「へぇぇ……」

「だから、真人君も、そういうことはもう言っちゃだめですよ。いい? わかった?」

「へいへい。わかったよ」

 オレはすましたふうに笑ってみせた。

 小毬……いいやつだなぁ。

「悪かったよ。もう言わねぇから」

「それでいいんだよ〜」

 そうすると、小毬は「よっ」と体を起こして、もそもそとオレの学ランを腕に被せると、横目でフェンスの向こうを見て、はるか下のリトルバスターズの練習の掛け声を聞いていた。

「楽しそうだな」

「そうだね〜」

「混ざらねぇのか?」

 小毬は短く首を横に振った。

「ちょっと今日はお休み〜」

「たまには、っつーことか」

「そう。たまにはね〜」

「なんか最近そういうこと多くねぇか」

「……」

 小毬は、今度はオレのほうを向いた。

 なんだか様々な感情を目の奥に湛えた、そんな目であった。

「よくわかんないなぁ」

 小毬は一人でうんうんと考えたあげく、そんな短い言葉を吐くのだった。

「でもね、これだけは本当」

「お?」

 しかし、次の笑顔だけは本物であった。

「私、こんな時間も結構いいと思ってるんだよ」

 その言葉だけは本物であった。

 小毬が、この短い会話の中で、どれだけ嘘をついたか、どれだけ本当でもなく嘘でもないことを言ったか、それは結局オレの思考能力外にあるわけだが、これだけはわかる。

 小毬はこの場所が好きなのだ。

 そうして、ここでは、少ない人数で会うのが好きなのだ。

 小毬は、いつもの小毬と、また別な顔をここでは持っているのだ。

 それはささいな違いかもしれない。

 みんなと一緒にいるときの小毬は嘘などとは夢にも言わない。

 ただ、ここにいる小毬も本物である。

 オレの胸の心臓の上あたりに、そんな言葉が川のように流れ込んできていた。

 そうしてオレは、おそらく女というものは、どんな者であれこういった二面性を兼ねそなえているのだろうと、うっすらと考えた。

 ますます小毬のことが好きになった、夕べであった。

 

 

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