それから数日ほど経った、ある日。
鈴ちゃんのもとに、次なる課題が舞い込んできました。
「『2―A1番の恋患いを癒せ』……」
鈴ちゃんは紙を訝しげな目で見ながら、呟きました。
次回も難関そうです。
早速鈴ちゃんは、この暗号(?)の解読を試みてみました。
「恋、恋か……」
鈴ちゃんは猫たちの毛を撫でながら、遠い目でつぶやきます。
恋など今までしたことがありません。
漫画などで得た知識ぐらいしかありません。その漫画は面白可笑しく、まるで漫才のように「恋」を取り扱っていました。
男の子と女の子の間に行なわれる、馬鹿で洒落の効いた、特別な友情のようなものだと思っていました。
「とりあえず、動こう」
鈴ちゃんは立ち上がって、2―Aの教室を目指します。
この「2―A1番」とは、取りあえず2―Aの教室の、なにかを指しているということがわかったからです。
「う〜ん」
自分の知らない教室の前まで来て、クラス表札を眺めるとともに、鈴ちゃんは若干怖い気持ちになりました。
知らない人と接するのは、まだ苦手です。
でも頑張ります。仲のいい人に出会えるかもしれません。
「たのもー」
がらっ、と教室の扉を開きます。
中は、いたって普通な、自分たちの教室と変わらない風景でした。
そこに、ちょっと見知った顔を見つけたのです。
「あら、棗さん」
ストレルカとヴェルカをいつも連れている、二木佳奈多さんでした。
「あっ、『いぬさん』」
「私を犬と呼ばないで」
なぜか怒られます。佳奈多さんは席から立ち上がると、つかつかと、まるで威圧するかのようにこちらに歩いてきました。
「いっつもストレルカたちを連れているから」
「いつもではないし、それにストレルカたちを連れているのは職務のためです。あなたと違って、私は本来動物好きではないのよ」
顔を覆って溜息をつかれます。
「でもあたしだって、街のペットショップでは、『こねこさん』と呼ばれているぞ」
「それはあなたが常連だからでしょう……私には、二木佳奈多、風紀委員会委員長という名前と肩書きまであるの。犬を連れているからって、『いぬさん』などと呼ばないで。誤解されたらどうするの」
「誤解って、なんの誤解だ」
「なんでもないわよ!」
かーっ、と怒られます。
鈴ちゃんは、ちょっとびくびくしながらも、知り合いに会えて、内心ほっとしました。
「ところで、これを見てくれ」
「ん? なに。忙しいんだけど……」
佳奈多さんに早速問題の課題を見せます。
佳奈多さんは受け取って、目を細めます。
「『2―A1番』……って、なにかしら。私たちのクラスね」
「そこの1番ってやつに、用がある」
「1番って言ったら、彼かしら。正直、あまり話したことはないのだけれど」
そう言って佳奈多さんは、一番前の席に座っている男の子を指差します。
「棗さん。これはいったいどういう意味かしら? 彼が……恋患い? 不純異性交遊の危険があるということ?」
「……むずかしくって、よーわからん」
鈴ちゃんは顔をしかめて応対しました。
「……これは、私も一緒に行ったほうがよさそうね」
忙しいと言っていたわりに、すんなりと同行してくれます。鈴ちゃんはおずおずと教室の中に入って、彼の席に近づいていきました。
「相川くん。ちょっとこの子があなたに用事あるそうだけど、いいかしら?」
「えっ」
相川くんは一人で溜息をついていたところを、驚いて、後ろに振り返り、ぎょっとします。
うわ、可愛い……と心で思ったのが、目でわかります。
「ふ、二木さんも……い、いったいどうしたんですか?」
「私は直接的には用事がないわ。ただ、危なそうだから、こうして端で見ているだけ」
「?」
佳奈多さんは対象を泳がせて、不純異性交遊の疑いが強くなったときに、捕まえようと判断したようです。一歩下がって、後ろで腕を組みます。
「おまえが2―A1番か?」
「1番って……えっと、はい。出席番号的には、僕が1番ですけど」
「永遠に一番で通りそうな名前だな、おまえ」
「ほっといてくださいよ……」
いきなりなんなの、と顔をしかめます。鈴ちゃんはとてもマイペースに、話を進めていきます。
「おまえ、恋患いだろ?」
「へえっ!?」
とたんに、相川くんの顔が真っ赤になります。ですが後ろにいる佳奈多さんのほうが、衝撃が走ったようでした。
「あなたやっぱり! 不純異性交遊――」
「な、なな、なんで知ってるんですか!」
佳奈多さんが詰め寄るのと、相川くんが白状するのは、ほぼ同時でした。
鈴ちゃんは間を取り持ち、やや冷静に言葉を紡ぎます。
「ある情報筋からだ」
「棗さん。やっぱり彼は、恋患いね……。捕まえたほうがいいかしら」
「ぼ、僕を捕まえるだって!?」
鈴ちゃんは暴走気味の佳奈多さんを後ろへ追いやります。
「気にしなくていい。あたしは、おまえの恋患いを癒しに来たんだ」
「えっ。それって……叶えてくれるってことですか?」
「もちろんだ」
今度の課題は、恋の取り持ちで決まり――そう、鈴ちゃんが思った直後でした。
背後に控えていた厄介人物が、それを許しません。
「待ちなさい! 私を誰だと思っているの! 風紀委員長、二木佳奈多よ! 高校生での不純異性交遊は認められません!」
「なにー」
鈴ちゃんがびっくりしていたところへ、ちょうどよく、教室の扉から、三枝葉留佳ちゃんが帰ってきます。
「あー、帰ってきちゃったなぁ……教室。って、あれぇ!? 鈴ちゃん!?」
「あれ、はるかか?」
鈴ちゃんと葉留佳ちゃんのどっきり対面、その場はすこしの間静止しました。
「な・ん・で、あんたと鈴ちゃんが一緒にいるの!」
「あなたと関係はないでしょう」
佳奈多さんと葉留佳ちゃんがいがみ合います。あれから一度解散し、放課後にもう一度集まった矢先でした。
「あんたなんか風紀委員会に行っちゃえばいいんだ! 仕事あるんでしょ! 行ってよ、はやく!」
「べつに委員長がいなくては、動けない鈍重たちの集まりではないのよ。それよりむしろ、この件は私一人で動いたほうが、うまくいくと判断したわ。――あなたこそ、リトルバスターズらしく、校庭に出て、無駄な遊戯でも重ねたらどう? 問題行為が起こらなくて、こっちとしては楽なのよ」
「むっきぃ〜! なんだとー!」
鈴ちゃんが空き教室に来る前から、二人はこんな調子でした。
鈴ちゃんは二人の仲の悪さをほっといて、ただただ、うるさいなぁ、と思いながら、相川くんの恋の発展について考えていました。
「恋かー」
あんなことを言ってしまった手前、自分に一度も恋の経験がないということが、ちょっぴり気が引ける形になっていました。
鈴ちゃんはこの際だから、二人に、恋について尋ねてみようと思いました。
「なあ、はるか。かなた」
「何かしら」
「なに? ……って、あんたは鈴ちゃんに返事しないでよ!」
「ぴーぴーうるさいわね。で、なに? 棗さん」
葉留佳ちゃんを押しやって、佳奈多さんは鈴ちゃんに歩み寄ります。
「恋ってなんだか、知ってるか?」
「不純異性交遊よ」
「ふじゅん……? なんだ?」
鈴ちゃんにはよく意味がわかりかねることでした。
「恋って聞けばすぐ不純異性交遊って……ばっかじゃないの? これだから頭が固い風紀委員長は」
「……学校内での恋愛など、それ以外の何物でもないわ。処罰の対象よ」
馬鹿にしたような葉留佳ちゃんの物言いに、佳奈多さんが怒ったような、低い声で返します。
また喧嘩に発展しそうだったところを、鈴ちゃんが言葉で遮ります。
「はるかはどうだ?」
「え? う、う〜ん……甘くて、切ない……? 甘酸っぱい、いや、辛い……」
「甘いのか辛いのか酸っぱいのか、はっきりしてくれ」
「恋は食べ物じゃないわよ」
「うっさいなぁ! じゃああんたはしたことあんの!? へーん……どうせあんたみたいな鉄面皮は、恋の『こ』の字も知らないんでしょうけどー」
「だから不純異性交遊だと言っているでしょう」
このままでは話が進みそうにもありませんでした。
とにかく、この二人も恋についてはあまりよく知らない、ということだけがわかるのでした。
そんな場面に、相川くんがおずおずと入ってきます。
「やあ。ごめん、遅くなっちゃって」
「おー」
「遅いわよ」
「待ってましたよ〜ん♪」
三者三様の挨拶を返されて、相川くんは、若干落ち着かない様子でした。
「……そ、それで、僕の恋を叶えてくれるって……ほんと?」
「収まりが着くぐらいにはね」
「もちろん叶えてしんぜますヨっ! そりゃもう爆発するぐらいに!」
「まかせとけ」
これまた三者三様の返答に、相川くんは疲れたような眼差しを浮かべるのでした。
「それで僕は、どうすればいいのかな……?」
「う〜ん」
鈴ちゃんは腕を組みます。
「まずは、現状を教えてくれ」
「うん……わかったよ。その人のことを考えると……夜も眠れなくって、胸がどきどきと痛いくらいになって……勉強にも手が付かないし、ずっとその人のことを考えていて、辛いくらいなんだ」
「よくわからんなぁ……」
途切れ途切れの言葉に、鈴ちゃんはいまいち要領を得ない顔をします。
「これが本物の恋だねー」
葉留佳ちゃんは訳知り顔で、うんうんと頷きます。
「勉強に手がつかないのは、確かに問題ね」
佳奈多さんも、なにやら別のところで、しきりに納得したりしています。
「どうすればいいかな?」
相川くんが訴えるような眼差しで三人に聞いてきます。三人は顔を見合わせました。
「どうするべきかしら」
「あんたはあっち行っててよ。あたしと鈴ちゃんだけで頑張ろう」
「どうでもいいが、恋してるのに、あたしらにどうしよう、とは、答えようがないと思わないか?」
なんだか会議はぐちゃぐちゃでした。
まず委員長の経験がある佳奈多さんが話をまとめます。
「確かに、棗さんの言うとおりね。恋患いなど、勉強やスポーツに打ち込むなどして、さっさと個人で解消してもらうほかないわ。それが学生というものよ」
「ばかじゃないの、どこまで頭が委員長なの、あんた。ねぇねぇ鈴ちゃん、やっぱり、はるちんは、ちゃんと相談に乗ってあげるべきだと思うんですヨ。一人で悩んでる限りきっと解決しないだろうし。姉御も呼ぶ?」
「いや、いい」
鈴ちゃんは手を横に振ります。あんまり大人数で詰めかけると、相川くんに迷惑だと思ったのです。
「あなた、さっきから私を邪魔者扱い……。邪魔者はあなたのほうだと、わかっているの? 三枝葉留佳!」
「あーあー、うるさいうるさい。ここの場合での邪魔者はあんたのほうでしょ。くされ委員長」
「くされ委員長とはなによ! 侮辱発言で引っ捕らえるわよ!」
「やめろ、あほっ!」
鈴ちゃんは、ぽかり、ぽかり、と二人の頭を叩きます。相川くんが教室の隅の方で怖そうにしています。
「な、なんで、はるちんまで……」
「喧嘩しちゃ、めっ! だ」
「……」
佳奈多さんは、すこし反省するように、乱れた髪を直します。
「たしかに、大人げなかったわね」
「え、佳奈多……」
「今は問題解決のほうが先よ。こんな脳天気娘にかまっていられないわ」
「やっぱり信じたはるちんが馬鹿だったー!」
むきーっ、とまた怒り出す葉留佳ちゃんをよそに、鈴ちゃんは一人で作戦を練ります。
「恋っていうのは、やっぱり恋する相手がいないと始まらないわけだな?」
「……ん、そうね」
きーっ、と怒っている葉留佳ちゃんを押しやって、佳奈多さんがちょっと感心したように答えます。
「なら、その相手がわからなければ、どうしようもない」
「棗さん、意外と頭が論理的なのね。この子とは違って」
「なんだとー!」
「いい加減、落ち着きなさいよ。あなた。いつまでその調子なの」
佳奈多さんが葉留佳ちゃんをあやしているところへ、相川くんと鈴ちゃんの対談が始まります。
「というわけだ。おまえの好きな人を教えてくれ。相川くん」
「えーっ! い、言わなくっちゃ、やっぱりだめなの……?」
「もちろんだとも」
「う、うーん……」
相川くんはちょっとの間悩む素振りを見せ、それから、意を決したように言いました。
「さ、笹瀬川さんです……!」
「へっ……」
そのとき、鈴ちゃんの体の中に、ずばぁーんっ! と、電流が走っていきました。
「な、なんだと!」
「笹瀬川って、あのC組の子ね? 女子ソフト部の」
「鈴ちゃんととっても仲いい子ですヨ」
「いつも問題起こす迷惑女よ」
佳奈多さんが鬱陶しそうな目で語ります。
鈴ちゃんは耳が痛くなり、がくぶると体が震えました。
「おっ……おい、おまえ! 本気か!? 本気でざざ子のことが好きなのか!?」
「そんなっ! そこまで驚かないでくださいよ!」
「……う、うぅむ……」
鈴ちゃんは慌てる自分を落ち着けるように、腕を組んで、深呼吸をします。
目を閉じます。
瞑想です。慌てたときは、これに限ります。
「……一つ、聞きたい」
「なんですか?」
「ささ子のどんなところが好きだ? あと、好きになった過程とか、なるべく詳しく聞きたい」
「……一つじゃないじゃないですか」
「うっさい!」
「もう、わかりましたよ」
相川くんは顔を赤くしつつ、自分の好きな人のことを語るときに特有な、一種の恍惚感に包まれながら、滔々と語りました。
「面倒見のいいところとか……あっ、でも、顔はすごく綺麗ですね。髪も綺麗だし……あとなんだか、すごく品が良さそうです。スポーツ万能だし、後輩の女の子たちからもすっごく評判よくて、尊敬します」
「……あれは、評判が良いというのか?」
「私に聞かないでよ」
「はるちんもちょっとよくわからないぞー」
相川くんは次々と捲し立てます。
「笹瀬川さんのことは前々から知ってたんですけど、この前、廊下で落としものをしたときに、ある後輩の人が、それを僕のところまで追っかけて届けに来てくれて……それで、僕が遠くの廊下を見たときに、笹瀬川さんが、こっちを見て、気安げに微笑んでいてくれたのが……もう、目に焼き付いちゃって……それから、僕の頭から離れません」
「普通、自分で届けに来ないのを怒りに行かないかしら」
「ささみのやりそーなことだ」
「悪気はないと思うけどなぁ」
「な、なんか、好きになっちゃったんです!」
佳奈多さんが冷ややかなつっこみを入れたところ、それを覆すように、相川くんが熱の入った反論をしました。
「振り返って微笑んでくれたときが……もう、すっごく可愛くって、もう……僕も、あの人のお付きになりたいような感じです」
「おまえ、あの取り巻きの一人にならなれると思うぞ」
「いやっ! や、やっぱりそれは嫌です! ほんとーに、僕は、普通に付き合いたいんです!」
「うーん」
佳奈多さんは遠巻きにする表情で、腕を組みます。
「なかなか真剣な想い、というわけね。よくわかったわ。あ、あと、あなた」
「……な、なんですか?」
「敬語は取りなさい。あなた委員会の者でないでしょう? だったら私に敬語を使う必要はないわ」
「……別にあんたに敬語使ってるわけじゃないと思うけどなぁ」
葉留佳ちゃんがぶつぶつと、面白くなさそうな調子で呟きます。
「なにか言った?」
「うん。言ったけど?」
「この、――」
「それで」
ずいっ、と、喧嘩しそうになる二人を押しやるように、鈴ちゃんが前に出ます。後の二人は、おおうっ、と後ろへ下がり、毒気が抜かれます。
「よーするにあいつと付き合うようになれればいいんだな?」
「はい。……いえ、う、うん」
「それなら話は簡単だ。やることは決まった」
「どうするの?」
相川くんが率直に尋ねます。鈴ちゃんは息巻いて、拳をぎゅっと固く握って、高く掲げます。
「まずはささみの情報収集だ!」
「……と、いうわけで教えてくれ」
「ぜんっ、ぜん、というわけ、になっていませんわよ!」
佐々美ちゃんはグラウンドで吠えました。
「大体なによ、校内ミスランキングって、あなたたち馬鹿じゃありませんの!?」
「いたって真面目よ」
佳奈多さんが、クールそうに、髪をかきわけます。
紫がかった美しい黒髪が、さぁっ……と、風になびきます。
「一部の男子学生たちから、ぜひ校内ミスコンテストを、と要望がたくさん来ているの。風紀委員会で散々協議した結果、隠れて不純異性交遊する者が出なくなる、という理由で、受理、実施されることになったわ」
「あなたたち馬鹿じゃないの!?」
佐々美ちゃんはそのことを繰り返しました。
実質馬鹿でしょう。
「んー、でもさー」
そこで葉留佳ちゃんが言います。
「佐々美ちゃん、これって佐々美ちゃんがミスコンの候補者に選ばれたってことなんだよ?」
「は? ……えっ?」
佐々美ちゃんは目を丸くします。
「はるちんたちにはお呼びがかからなかったのに、佐々美ちゃんには来たって……男の子から人気があるってことなんじゃないかなぁ〜? は〜、うらやましぃな〜……」
「ま、まぁ……」
乗せるのが上手な二人と、乗せられやすい人の対談なためか、話がとんとん拍子で進んでいきます。
佐々美ちゃんは頬を赤らめて、まんざらでもなさそうな顔つきをしました。
「い、いやですわ……。最近の殿方ったら」
「というわけで、さしみのプロフィールを教えてくれ」
「ん〜……でも、見ず知らずの方々に教えるというのも……」
「問題ないわ」
佳奈多さんが再びふぁさっ! と髪を風に流します。
「このイベントを取り仕切っているのは風紀委員会よ。問題となりそうな個人情報は公開しないか、虚偽の情報によって隠蔽するわ。ただ、管理のための問題。できるだけ正確な情報がほしいから、私たちに教えてくれるかしら」
「ん、ん〜……」
佐々美ちゃんは腕を組んで悩みます。
「……しかたありませんわ」
「やった!」
葉留佳ちゃんが万歳のポーズ。
鈴ちゃんがポケットからメモとペンを取りだし、佐々美ちゃんに近寄ります。
「で、最初の質問なんだが、」
「はい。なんでも聞いていいですわよ」
「理想の男はどんなだ?」
「って、最初っからそんな質問!?」
佐々美ちゃんは顔を赤くして、後ずさりします。
「な、なんか変な質問じゃありませんこと!?」
自分の肩を抱きます。
「あ、間違えた」
鈴ちゃんはとっさにとぼけます。
「じゃあ、すりーさいずはどれくらいだ?」
「なんでそんなことに答えなくちゃいけないんですのよ!?」
「なんだ。嫌がってばっかりじゃないか」
鈴ちゃんは眉をひそめながら、ちぃっ、と佳奈多さんのほうに視線を送ります。
いろいろと、間違えた情報を持っているものです。最近の風紀委員長は。
「すりーさいずはミスコンの定番だと、誰かが言っていたぞ」
「そんなもの、高校生のイベントで紹介しないでくださる!?」
佐々美ちゃんはより後ずさりします。
鈴ちゃんが追いかけます。
「じゃあ、いい。好きな食べ物はなんだ? あと、休日はなにしてる?」
「あ、うーんと……それなら、」
佐々美ちゃんは気を取り直して、鈴ちゃんの質問に答えていきます。
そんな流れで、ずるずると、最後には、理想の男性像を聞き出すことに成功したのでした。
っていうか、謙吾くんでした。
「やばいぞ、おまえら」
鈴ちゃんは葉留佳ちゃんと佳奈多さんに振り返って言いました。
「好きな人がもういるじゃないか。うちの謙吾だった」
「諦めるしかもう手がなさそうね。いいじゃない。問題にならなくって済んだんだから」
「えーっ! それじゃだめだよ! 恋してる人が、恋されてる人に負けるなんて、絶対おかしいって!」
葉留佳ちゃんは独自の恋愛観を持っているようでした。
「もうこうなったら、謙吾くんに直接聞いてみようよ! 興味あるかないか、それがわかるだけでも作戦の立て方が変わってくるよ!」
「……理論上、次はそうなるようね」
佳奈多さんはどこか疲れた顔をしながら言いました。
「ほらっ、鈴ちゃん、行こー!?」
葉留佳ちゃんが一番やる気になって、どたどたと駆けていきます。
鈴ちゃんは「あたしが本当は主役なのに……」と、内心で思いながら、それについていきました。
「いきなりなんだ……おまえら」
剣道場まで乗り込み、鈴ちゃん・葉留佳ちゃん・佳奈多さんの三人は突撃インタビューします。
「そもそも二木。おまえ、よくぞ剣道場にのこのこと顔を出せたな。部活に来い。そんなことしている暇があったら」
「仕事なのよ。これも」
佳奈多さんは堂々としながらも、若干目を逸らしつつ言いました。
「かなたって剣道部だったのか」
「昔の話よ」
「今でも剣道部員だろうが」
謙吾くんは呆れていました。
そんな二人の意外な関係に、葉留佳ちゃんは、驚いた顔をしていました。
「で、ささみの理想の男性像は謙吾ということになっているんだが、本人としてはどうなんだ?」
「おれは部活中だ」
「ちょっと口を動かすだけだろう。休み時間なんだからとっとと答えろ」
「ぬぅ……」
鈴ちゃんの言い方は、これ以上デリカシーのないものでしたが、謙吾くんはしぶしぶ答えました。
「おれには、恋をしている暇などない……」
「ほっほー」
これには、葉留佳ちゃんが特に際だった反応を見せました。
「面白い返答ですなぁ」
「部活で忙しい。笹瀬川には、悪いが、興味はないと伝えろ」
「ま、ま」
葉留佳ちゃんが、両手を押して、ストップ、のジェスチャーをします。
「今はこのままにしときましょうよ」
「なぜだ」
「なぜだって、謙吾くん……ひどいこと言うじゃないですか。女の子の気持ちに立ったことある? 興味はない、なんて、思うだけにしても、わざわざ伝える意味なんてないですヨ」
「ふむ」
謙吾くんは、葉留佳ちゃんの物言いになにか思うことがあったのか、意固地になることはありませんでした。
「笹瀬川はおれの返事を求めていないんだな?」
「そうですヨ」
「わかった。ノーコメント、ということにしておいてくれ。今しばらくは好きにしているといい」
佳奈多さんは、そんな葉留佳ちゃんとのやり取りを、驚いた眼差しで見つめていました。
「だが」
ですが、謙吾くんはここで注釈を付け加えます。
「それでいつか辛い目に遭うのは、笹瀬川なのではないか?」
「まっ、それは別の話ってことで」
ぽん、と謙吾くんの肩を叩いて、葉留佳ちゃんは剣道場の入り口に歩いていきます。
「じゃ、またな。謙吾」
鈴ちゃんはその後を追います。佳奈多さんも、そそくさと。
葉留佳ちゃんは靴を履きながら、訳知り顔で、はーっ……と溜息をつきます。
「謙吾くんも意外に子どもっぽいなぁ」
「あいつらはガキだ」
「ちっちっち」
「?」
鈴ちゃんは真人くんと謙吾くんがいっつもつまらないことで喧嘩していることを念頭に置いてそう言ったのですが、葉留佳ちゃんは甘いね、というかのように、指を左右に振りました。
「そうじゃないんですヨ。まだまだ……鈴ちゃんや理樹くん、恭介くんも含め、昔のリトルバスターズのみんなは子どもばっかですヨ。でもそれが悪いわけじゃないんです。ただ……」
葉留佳ちゃんは言いあぐねて、ぐっ、と拳を握ります。
「なんつーかこう……たまに、馬鹿やろー! って殴ってやりたくなるときがあるんです」
「暴力行為は止めなさい。葉留佳」
「あんたに言われなくたって」
しゅっ、しゅっ、とシャドーボクシングをしながら、葉留佳ちゃんは横目で返事します。
「でも別にこれは、佐々美ちゃんとの問題だから、はるちんが言えることは少ないんですよねぇ……」
「?? はるかの言っていることはさっぱりだ」
「はるちんの言いたいことは一つですヨっ!」
ぴょん、と前にジャンプして、振り返り際に、葉留佳ちゃんは拳を高らかに挙げて、言いました。
「相川くんを応援するぞ! ってことですヨ!」
「おう。それならあたしもだ」
わーい、と和気藹々としている鈴ちゃんと葉留佳ちゃんを遠巻きに見つめて、佳奈多さんは物思いに沈みました。
「葉留佳……」
どうしたらいいのかしら、と、ぽそり、佳奈多さんは小さく口にしました。
翌日の昼休み、鈴ちゃんたちは相川くんを空き教室に呼び出しました。
「あんた、いつまで来てんの?」
葉留佳ちゃんはここでも嫌そうな視線で佳奈多さんを見ます。
「私の勝手でしょう。それに、気づいてる? あなたが途中から加わってきたということに。はん……ろくでなしの、いらない人間だっていうのにね」
「あんたの言うことなんか聞かないよ! 出ていけばいいでしょう、さっさと! そんなにあたしといるのが嫌なら!」
「それはあなたに一番言えることでしょう? まったく……話が逆じゃない。私といるのが嫌なら、あなたから出ていけば――」
「止めろ」
鈴ちゃんが静かな声で言いました。
「あたしのために喧嘩しないでくれ」
「別にあなたのために喧嘩しているわけじゃないんだけど……」
「はるちんは、鈴ちゃんと一緒にいたいんですヨ!」
「あたしは嬉しい。でも、あたしの心は深海のように寛大だから、べつに二人いてもいいと思うぞ」
「……私は、もうちょっと付き合いたいのよ」
「むー」
佳奈多さんの言い分に、やはり葉留佳ちゃんは、納得いかなさそうに睨むのでした。
そこに相川くんが入ってきました。
「やあ! どう? なにか進展あった?」
「おう。あったぞ」
鈴ちゃんが、とてとてとて、と相川くんのほうに駆けていきます。
「まず、ささみの好きな相手は謙吾だった」
「えぇーっ!?」
ダメージ100、相川くんは瀕死になり、地面に手をつきました。
「そ、そんなぁ……好きな人がいるなんて、しかも、あ、あの、宮沢君……?」
相川くんは地面に伏せて頭を抱えます。
「勝ち目ないよぉー……!」
「だが、大丈夫だぞ」
そんな彼の肩を、鈴ちゃんがぽんぽんと叩きます。
「謙吾にその気はないと言っていた。あいつの恋は叶わない。今ならチャンスじゃないか」
「でも……」
相川くんは、奇妙な優しさを持っている人でした。
「笹瀬川さんが、謙吾くんのことを好きなら……僕は、もういいっていうか……」
「あまぁーいっ!」
そこを、葉留佳ちゃんが叱咤します。
「恋する者を阻めるものなんてないんですヨ!? それに、相川くん、きみ男でしょ!? 自分の道を塞ぐ邪魔者なんて、すべて小指でなぎ倒していくぐらいのつもりじゃないと!」
「三枝葉留佳。無茶な理論で私たちを煙に巻かないでちょうだい」
「あんたは黙っててよ!」
「いや、」
鈴ちゃんは腕を組んで、感心します。
「葉留佳の言うことは難しいが、当たっていると思う。相川くん、べつに、謙吾は佐々美のことをなんとも思ってないんだから、自信をなくす必要はないじゃないか」
「でも、笹瀬川さんが僕のことを思ってくれるかどうか……」
「問題はそこだ」
鈴ちゃんが、ばっさりと指摘します。
「ささみが謙吾のことなんかをずっと想っているから、問題なんだ。どうだ、あたし頭いいだろう。よーするに、だ」
鈴ちゃんはつかつかと黒板に歩み寄り、チョークで、カッ、カッ、カッ、と図式を書いていきます。
下手な絵でした。
「これが謙吾だ。これがささみ」
「べつに似顔絵を描かなくってもいいんじゃないかしら……?」
「どーして佐々美ちゃん、口から火を吹いてるの?」
「気にしなくていい」
気になります。
「佐々美は謙吾に恋している。でも、その恋は叶う見込みがない」
佐々美ちゃんから、謙吾くんに線を引き、そのまん中に×を書きます。
「次に、こっちにいるのが相川くんだ」
「のっぺらぼうは止めなさいよ」
「じゃあ、顔を書く」
へのへのもへじを書きます。
「僕のことをちゃんと書いてよ……」
鈴ちゃんは無視します。
「相川くんは佐々美に恋しているわけだな?」
「う、うん……」
「でもこっちの恋は、まだ叶う見込みがある」
「どうして?」
「どうしてもなにも、」
そこで鈴ちゃんは、チョークを起き、ぽんぽんと手に付いた粉を払います。
「どうしてそこまで自信がないんだ? あいつの考えなんて、結局馬鹿なんだから、恋心ぐらいすぐ移り変わる」
「そうかしら……」
「えほん」
鈴ちゃんは咳払いをし、またチョークで黒板に線を書き入れます。
「ようするにだ、ささみの恋心を相川くんに向ければいいんじゃ」
「どうやって?」
「そこはささみの思考を理解する必要がある」
鈴ちゃんはチョークをあるところで止め、カッ、カッ、カッ、と音を立てました。
「素晴らしいわね。棗さん。すごい論理的思考法だわ」
「わかりやすー」
「ふふん」
鈴ちゃんは得意げです。
「もっと褒めてくれ」
「そこで話が切られるとわかりにくいから、はやく話を進めてくれる」
「……」
鈴ちゃんは黙って線を書き入れます。
「つまり、こう、こうやって、ささみの心を相川くんのほうに向ける。そこには、ささみがどうして謙吾が好きになったのかを、知る必要がある」
「彼の魅力……か」
「佳奈多、あんたなんかにわかるの?」
葉留佳ちゃんが気安げに問います。
「そうね……。まず、顔がいいわね。とても精悍で、女の子にもてやすい顔をしてるんじゃないかしら」
「うわ、意外」
葉留佳ちゃんが、やっぱり嫌そうに顔をしかめます。
あ、でもでも、と、葉留佳ちゃんが顔の向きを変えてそれに続きます。
「謙吾くんは男らしいよね。背も高いし、肩幅もがっちりしているし。あとは考え方が男らしくってスッキリしているところかな」
「ふーん」
鈴ちゃんはやや意外な思いで二人の会話を聞いていました。そんなこと、謙吾くんと付き合っていて、まったく考えたことがありませんでした。
「え、えぇと……」
相川くんが自分の容姿と比べて、まず落ち込みます。
そこの肩に、ぽん、とまた鈴ちゃんの手が置かれます。
「大丈夫だ。恋は顔でするものではない」
「棗さん……」
「と、漫画に書いてあったぞ」
「……」
しょぼーん、と、また項垂れてしまいます。
「一瞬で理論が薄っぺらくなったじゃない」
「なんだと! じゃあ、これ以外に相川くんを慰める方法があったというのか!」
ついに鈴ちゃんがキレます。
「と、取りあえず、鈴ちゃん落ち着きましょうよー……」
「漫画は偉大だ」
「いやほら、相川くんが……」
胸を張っているところ、そのすぐ傍で、相川くんがそのすぐ傍で、さらに落ち込んでいます。
「まぁ、正直な話」
佳奈多さんがここで、わりと現実的な話をします。
「宮沢は顔がいいけれど、顔で恋をしている女子って、わりと、本気でない恋の場合が多いと思うのよ。私の、個人的感想だけれど」
「なんかはるちんも同意」
葉留佳ちゃんも、うなずきます。
「ミーハー、ですよネ」
「あなたと同意見であるということに納得いかないけれど、きっとそうね。三枝葉留佳」
「べーっ、だ!」
葉留佳ちゃんが、あっかんべーをします。
鈴ちゃんはそれを遠巻きに見つめて、嘆息しました。
「なんか話がこじれてきたが、」
相川くんに向き直ります。
「あたしが言いたかったことを、かなたとはるかが言ってくれたような気がする」
「棗さん……」
「恋なんてよくわからんが、なんだか、あたしもわかりかけてきたような気がする。相川くん、十分狙えるぞ。あのささこのこと」
「でも、どうしたら……」
「ふーん」
鈴ちゃんはまた腕を組み、すこしだけ考えると、ぴかっ、と頭上に電球を光らせました。
「あたし、いいことを思いついたぞ!」
鈴ちゃんは自信たっぷりに指を一本立てました。
「それで、私のところに来たというわけですか」
ここで初登場の、西園美魚ちゃんです。いつも眠そうな顔をしています。
「はるかが、西園さんは、詩を作るのが上手だと言っていた」
「適当なことを言いますね」
西園さんはここにはいない、葉留佳ちゃんのことを冷ややかに批判しながら、手に持った文庫本を取りだして続けました。
「あと、私のことは美魚、と呼んでください。新しくリトルバスターズの仲間になったのですから」
「そうか、みお」
「ええ」
美魚ちゃんは、パラパラ、と文庫本のページをめくります。
「鈴さんが、他人のことを名字で呼んでいるのは、妙な気がします」
「それは確かにそうだな」
「ですから、私のことも。……その件はもういいですね。これを見てください」
「なんだ?」
「若山牧水の詩です」
「わかやま?」
美魚ちゃんは鈴ちゃんに文庫本のページを見せました。
「……さっぱり意味がわからんな」
「そうですか」
美魚ちゃんは鈴ちゃんに本を返してもらいながら、やっぱり眠そうな目で、こう語るのでした。
「このように」
指で、つっ――……、と、ある詩をなぞりながら、美魚ちゃんは続けます。
「私は読書家ではありますが、詩人ではありませんし、小説家でもありません」
「なにか違いがあるのか?」
「大ありです。……ですが、説明するのは面倒なので、また次回にしましょう。とにかく私には詩を作る能力がありません」
「簡単な歌詞でいいぞ」
鈴ちゃんは言います。
「ささみへの想いが伝わる歌詞ならそれでいい」
鈴ちゃんは、佐々美ちゃんへの対抗手段として、相川くんの、歌詞を作って、歌にして告白する大作戦を考えついたのでした。
顔や強さで勝てないなら、芸術性や個性で勝とう、という、至極まともな作戦だったのでした。
「想いを伝える、ですか」
「どうだ?」
鈴ちゃんはわくわく。
「それでしたら、万葉集などにごまんとあります。引用もいいでしょう。……ですが彼の場合は、ヒップホップに歌詞を載せるんでしたね」
「ああ」
鈴ちゃんは、ヒップホップというものが、実はどういうものか理解してませんでしたが、そう言った美魚ちゃんの顔は沈んでいました。
「ヒップホップに、万葉集は似合いません……」
「そうなのか?」
「もっと現代的な歌詞がいいでしょう。やっぱり、自作になりますか」
「なんとかできるか?」
「……やってみましょう」
美魚ちゃんは、今日の放課後までに仕上げる、と言って、鈴ちゃんを帰らせました。
そして、事実。
その歌詞は放課後にはきちんと出来上がったのです。
心の準備として一日置いて、翌日の昼休みが決行となりました――。
「い、行ってくるよ」
「いいか? 締めは、『ささやかな祈りを 笹瀬川』だぞ」
「ささだけにね」
佳奈多さんが投げやりな突っこみをします。
「き、緊張してきた……」
「がんばれーっ! 相川くん! 私ら女子二名とおまけのお邪魔虫一名は、君の恋を応援しているぞーっ! ――って、いたいいたい! なにすんの! 私のお下げを引っ張らないでよ! ばか!」
「……掴みやすい位置にあったもんだから、ついよ」
ぎゃーぎゃーと二人が騒ぎながら、見送るのを、相川くんは落ち込まされたように肩をだらんと下げ、でも、やっぱりすこし緊張が解けたみたいに笑って、見つめるのでした。
手を振って、いよいよ、戦場へ向かいます。
反対側からはささみちゃんが一人で歩いてきていました。
鈴ちゃんが、話がある、とささみちゃんを空き教室に呼んだのです。その途中でした。
「それからというものの、僕はいつもそんな調子だったっ!」
相川くんはやや大きな声で、相手に聞こえるように、歌詞を口ずさんでいきます。
「輝く夜の星 聖なる星座 僕は思った かけがえのない 明るい誇りを それはきみ!」
だんだん近づいていきます。
「そして僕からきみへ――」
ふっ――と、二人が交差します。
ここからが本番です。
「――ささやかな祈りを 笹瀬川」
「え?」
佐々美ちゃんがきょとんとして振り返ります。
ここで相川くんは、先ほど打ち合わせしたとおりに、照れながらも、男らしく、振り返って、歌の余韻にひたるように 手をかざします。
ゆっくりと、会釈します。
そこから先は、小声でのやり取りになり、鈴ちゃんたちには聞こえてこなくなりました。
ただ――、佐々美ちゃんは、別に怖がってなく、普通に、彼の話を聞いているように思われました。
「成功したな」
壁に隠れながら、こっそりと見守っていた、中段の鈴ちゃんが言います。
「でも全然聞こえないですヨ」
上段に頭を置いた、葉留佳ちゃんが不平を洩らします。
「相川くん……。セリフは関係ないわよ。うまくいって、ちょっとでも彼女の記憶に残れば、それでいいのよ」
下段の佳奈多さんがそう言って、頭を引っ込めました。
相川くんはしばらくすると、吹き飛ばんばかりに喜んで、全速力でこちらに駆けてきました。
「やったー!」
「おう」
鈴ちゃんとハイタッチしました。
やった、とは言ったものの、相川くんはべつに佐々美ちゃんと付き合えるようになったわけではありませんでした。
多少怖がられたものの、純粋に、友だちになりたいと打ち明けたところ、秘密に、メールだけを送ってきなさい、と言われ、メールアドレスを教えてもらったとのことでした。
それでも相川くんは満足だったのです。
自分の力でつかみ取った道だったのです。
「よかったな」
鈴ちゃんも満足げです。もうこのあたりでは、ほとんど、課題の件など忘れかけていました。鈴ちゃんもなんとなく彼のことが好きになっていました。
「よかったよぉー」
「言っとくけど、交友はあくまで品行方正にね。この際は、おおめに見てあげるわ。きちんと学生としての分別をわきまえるように」
「よかったね、相川くん!」
葉留佳ちゃんも相川くん以上に嬉しがるようになって、彼の手を掴んで、ぶんぶん縦に振っています。
本当によかったことでした。
「本当にありがとう! 君たち!」
「仲良くやりなさい」
佳奈多さんも、散々口やかましく、相川くんに忠告していましたが、もうこの段では、温かく見守る顔になってきていました。
相川くんは「ぼく、頑張るよ!」と朗らかに笑って、先に教室へ帰っていきました。
空き教室には鈴ちゃん、佳奈多さん、葉留佳ちゃんが残されます。
「ねぇ、」
そこで、葉留佳ちゃんが、やや気後れするように佳奈多さんに話しかけました。
「どうして、捕まえなかったの? 不純異性交遊じゃ、なかったの?」
「おかしな話ね。三枝葉留佳」
佳奈多さんは嘲笑するように振り返ります。
「あなたは恋といえばすぐ不純異性交遊、って、私をなじったじゃない。それをしないと、また私に疑いの目を向けるなんて、下衆と同然ね」
「疑ってないよ」
「え?」
「疑ってないよ、私……」
佳奈多さんは目をぱちぱちと瞬かせます。葉留佳ちゃんは気後れした顔でした。
「そう」
「ねぇ、どうして」
「……そう、ね」
佳奈多さんは儚い眼差しになって、遠くを見つめます。
「私にもわからないわ。――あなたは、棗さんと一緒にいたかったから、ついてきたんでしょう」
「うん。友だちだもん」
「……私も」
名目が欲しかっただけなのよ、と、佳奈多さんは聞き取りにくいぐらい小さく、呟きました。
それから葉留佳ちゃんのほうをじっと見ました。
「それから、風紀というのはね、」
すこし真面目な顔になって、また遠い眼差しで、遠いどこかを見つめます。
「本当は押さえつけてばかりでもいけないの」
「え?」
葉留佳ちゃんは目を丸くしました。いったい彼女はどうしたのかと、ひどく驚く顔でした。
「理想はね、そうではないのよ。理想は……。風紀というものは、人を押さえつけるものではない。『自由』を与えるものなのよ。人に」
「佳奈多……」
「もっとも、それを許してくれはしないけどね。この学校も、私の後ろにいる人も……」
悲しげな顔になったのち、肩を抱くようにして、佳奈多さんは目を逸らしました。
「つまらない話だったわね。もう行きます」
部屋を出て行こうとします。
「あなたたちも、彼の頑張りを見習って、各自望みを達成できるように努力なさい。そしてそれから、風紀をきちんと守るようにね。それじゃあ」
「ま、待ってよ!」
葉留佳ちゃんは追いかけます。
葉留佳ちゃんに、そのとき浮かんだ表情は、今まで見る、初めてのものでした。
「待ってよ、お姉ちゃん!」
佳奈多さんはびっくりしたように振り返ります。
それから――、
「ふん」
険が取れて、気安くなったような微笑みを浮かべます。
「さっさと教室に戻るわよ。だいぶ時間を食ってしまったわ」
「あ、またね、鈴ちゃん!」
葉留佳ちゃんは佳奈多さんと一緒に部屋を出て行くときに、鈴ちゃんの存在に気づいて、振り返り、さよならしました。
鈴ちゃんはそれを、手を振り返して、返事しました。
「またな」
誰もいなくなった部屋で、そう呟き、鈴ちゃんは腕を組みました。
「みんな良くなった」
また呟きます。
「いいな、こういうの」
しかし、今の鈴ちゃんにはどうしても腑に落ちないことがあったのでした。
「あれが、恋か……? いや、まさか……」
鈴ちゃんは腕を組みながら、つかつかと、部屋の出口に向かって歩いていきます。
「だが、あたしは知らなかったなぁ」
なるほどなあ、と、しみじみ、呟きます。
「女の子同士で恋をしたら、お姉ちゃん、と呼ぶものなのか……」
また、間違った知識をつけた鈴ちゃんでした。