第6話

 それから僕らは、浜月町の、普通の暮らしに戻っていった。

 まだ蒸し暑い。

 恭介たちはお盆に、また叉夜さんの実家に行ったそうだ。今度は鈴や義郎君も連れて。

 来ヶ谷さんは、先に、一人で済ませたと言っていた。

 僕も恭介たちとは別に、一人で、秘密に、叉夜さんの墓所に行ってみた。

 そこは寂れておらず、奇妙な風景で、見事に街と一体化していて、賑やかとも、静かともつかない、中間ぐらいの喧噪に包まれていた。

 それが僕には、僕の中の叉夜さんのイメージと、よく似ているように思われた。

 叉夜さんとの会話は、すぐ終わった。

 僕はそれから、妻と娘が待っている実家へと戻った。

 ……浮気されてないか、とびくびくしながら。

 案の定平気だった。ご近所のママさん友だちが、がっちりガードしているらしい。若干お姫様気分でいる妻に、僕は笑ったのだった。

 しっかり娘と遊び(忘れられないように)、それから、お盆が終わって、僕も浜月町へ戻ると、またそれからは、元のような気だるい夏の、恭介や来ヶ谷さんたちの妙な生活が始まった。

 青々としたもみの木の葉影が、地面にくっきりと映って風が流れるごとにさわさわ、さわさわと揺れる。

 夏の日はじりじりと暑くて、地面がやたらと白くなる。空は蒼くて、目に痛いくらいだ。

 通勤や帰宅途中に、よく僕は来ヶ谷さんと出会う。

 偶然らしいんだけど、偶然だったとしたら、これほど楽しい偶然はないと思う。

 見る度に何度も思うけど、来ヶ谷さんの警官服姿は、本当に新鮮だった。

「逮捕してやろうか?」

と、まるで親切で言ってくるみたいに、妖しい目線でそんなことを述べてくる日には、僕も適わない、逃げる。そして思う。来ヶ谷さんは警官の理想を目指したのか、それか、ただ警官プレイをしたかったのか、どちらなのだろうと……。

 来ヶ谷さんは、わりと平気で、「そんなのどちらも」と答えそうだから怖い……。

 そんな日々の後、僕らは、潤君やその友だちを連れて、夏の最後の、街のお祭りへと行ったのだった……。

 懐かしい感覚だった。僕も、昔、恭介や鈴のおじいちゃんに連れられて、よく、こうやって田舎のお祭りに来てたっけ……。型抜きや、金魚すくい、綿飴、たこ焼きなどに夢中になったものだ。

 恭介や潤君たちとちょっと離れて、若干涼しくなった趣のある、夏の薄暮の中を、僕が当てもなく歩いていると、二三軒先の屋台で、来ヶ谷さんと出会う。

 警官服姿だった。街の人の安全を守るために、パトロールしているのだろう。

 後輩らしき人と一緒にいた。……なぜか手には、あんみつ、フランクフルト、水ヨーヨー……。

「あんたなにしに来てるんだよ!」

「おや、理樹君」

 来ヶ谷さんがこちらに振り返って、楽しそうに微笑む。後輩の警官さんは、若干ばつが悪そうにしながら、チョコバナナの串を捨て去って、勤務に戻っていった。

 来ヶ谷さんは僕のほうを見ながら、にこにこ……いや、にやにやとしている。いつもの来ヶ谷さんだ。

「奇遇だね」

「……遊びに来てるんなら、その制服、脱げばいいでしょ」

「やだな理樹君。私に下着姿になれと言うのかい」

「だれもそんなこと言ってないから!」

 僕が赤くなる。卑猥な冗談はこの人の挨拶みたいなものだ。来ヶ谷さんはけらけらと笑う。

「君は一人なんだね。恭介氏はどうした」

「恭介に会いたいなら、あっちだよ」

 恭介は潤君や、お友達のお父さんと、じゃんけん大会に夢中になっている。じゃんけん大会の優勝商品は、最新型のプラズマテレビだから、みんな必死だ。

 けど、きっと恭介のものになるだろう。

 そして部屋のどこにも置き場所がなくて困り果て、誰かに安い値段で売るんだ。恭介の性格だったら絶対そうだ。

「そうかそうか。楽しそうだな」

 恭介の熱気あふれる姿が見えたのか、来ヶ谷さんは目を細めて、まるで頑是無い子どもを見るような目で、微笑む。

 僕はちょっと気になったので、来ヶ谷さんにとある質問をしてみた。

「ねぇ、来ヶ谷さん」

「なんだ?」

「来ヶ谷さんは、誰かと結婚とかしないの?」

 ぷるんっ、と、来ヶ谷さんは可愛く目を丸くした。

……けど、予想以上には驚かなかった。

 僕はあの一ヶ月前の、泥酔した来ヶ谷さんの弁を思い出してみたのだけれど、どうなんだろう?

「君に心配されるとはな」

「いや。来ヶ谷さん、綺麗だし、そんな浮いた話もまったくないのは、おかしいなーって、思ってさ……」

「なんだ。君がもらってくれるのか?」

「だから僕は無理だって言ったでしょ!」

「ははは。照れるな。そして怒るな」

 手をひらひらと振って、来ヶ谷さんは、笑いながら、あーむ、とフランクフルトの先っちょを食べる。

 ……やたらエロく食べるなぁ。それが自然なのだから怖い。

「恭介氏にも、そういう話はするのかい?」

「……僕は、来ヶ谷さんが、恭介と結婚してやればいいと思うんだけど、」

「なんと」

 来ヶ谷さんはさらに大きく目を見開く。それから、はっはっは、と愉快そうに笑った。

 まるで男みたいな笑い方だった。豪快で、高校生のころの、若々しい、繊細な響きは薄れて――。

「君はお節介焼きだなぁ。相変わらず」

「でも、どうなの。実際」

 僕は続けて尋ねる。

「潤君もやっぱり、お母さんがいないと可哀想だよ」

「うん。でも、子どものために結婚するというのは、やはり間違っているよ」

 来ヶ谷さんは答えをはぐらかす。

 けれど、それから、来ヶ谷さんは黙って、後ろを振り返り、遠くの月と、遠くの通りを見つめて、ぽつりと言った。

「結婚するよ」

「えっ!?」

 とんでもないことを言った! 

 でも、すぐ、来ヶ谷さんは……、

「ある人から、プロポーズを受けているんだ」

 ……恭介じゃない、別の男の人の話をしているのだとわかった。

「同じ署の、ある後輩でな。やたらと勤務時間外に、私にくっついてくるやつだった。さっきもいたろう。ほれ、あそこ」

「……」

 僕は来ヶ谷さんに指差されたほうを見てみる。すると、やっぱり、さっき来ヶ谷さんと一緒にいた、背のちょっと低い、男の警官さんがいた。

 たくましそう、というよりは、繊細で優しそうな雰囲気をしている。

「君らには内緒だったが、ずっと彼と付き合ってたんだ」

「……」

「驚いて声も出ないようだね」

「……でないよ、そりゃぁ。ぎゅう、とぐらいしか」

「ぎゅう、か。はっはっは」

 来ヶ谷さんは、ぽんぽん、と僕の背中を叩いて、笑う。

「……ずっとな、」

 それから、ちょっと儚げな声となって――、彼ではない、どこか全体の景色を見つめるような目で、

「よくわからなかったんだ。結婚というものが」

 僕は黙る。黙ってその言葉を聞く。

「ずっと前に彼からプロポーズをされて、私は、どうしたらいいかわからなくて、ずーっと逃げていた。でもな、」

 来ヶ谷さんは安らかそうに腕を組み、逆方向の、じゃんけん大会に熱中している恭介たち、そこにいる潤君、友だちのお父さんたちを見て、そして、僕の顔を見る。

「なんとなく変わったんだ、私も。なにかが変わった。それがなんなのか……私にはわからないが、前見ていたものが、今見るとまったく形が変わっているぐらい、それは大きな変化だったのだ。わかるかい?」

「……難しくって、わからないよ」

「そうか」

 来ヶ谷さんは微笑ましそうに、楽しそう。

「とにかく、私は、彼のプロポーズを受けることにしたんだよ。二ヶ月ぶりの返答になってしまったかな」

「……って、それじゃあ、」

「君が来る直前だったんだ」

 来ヶ谷さんは、また逆のほうに振り返って、今度は真面目に、警官然として、パトロールに当たっている、温かそうな、けれどどこか、華奢で、女の子っぽい、未来の来ヶ谷さんの旦那さんのことを見つめる。

「プロポーズ、し直すよ。こちらから」

「……へぇ」

「待たせた分の、お詫びだな」

 でも来ヶ谷さんは、それからすこし考えると、自分で、自分の言ったことがおかしいみたいに、くすっと笑った。

「これから夫婦となるのに、お詫びもなにもないか」

「ははは」

「でもこっちから、結婚してください、って言うつもりだ。私はそうしなきゃいけない。この夏が終わったら、そうする」

 そうして、僕は――。

 そんな来ヶ谷さんを見て、あることに気づいたのだった。

 浜月町。

その裏に隠されたエピソードに。

 彼と、来ヶ谷さんの、知られることのない、温かな、そしてとても健やかな、若草色のような、恋の発展のエピソードがあったということに。

 それはちょっと寂しげな音も合わせていたけれど、でもそれと同時に、とても誇らしくて、可愛げな、来ヶ谷さんらしい音も響かせていたのだった。

「恭介氏は残念だったな」

「ははは」

 僕は気持ちよく笑う。

「でも、いいんじゃない。それが本当なのかも」

 来ヶ谷さんは、嬉しそうに、僕の肩をぽん、と叩く。

「君もよくわかるようになってきたな」

 恭介はじゃんけん大会で優勝したようだった。さすが恭介だ。勝負になるとすごく強い。

 ひゃぁ――――――ほうっ! と、喜んで、ホップステップジャーンプ、と、ステージで跳ねているのが見える。潤君は一緒にステージに上がって、そんな親父の浮かれポンチな様を、どこか冷ややかな眼で見つめている。

 そこには叉夜さんの影があった。

 それが本当なのだ。

 本当なのは、崩しちゃいけないのだ。

 恭介はきっと、恭介らしい本当のやり方で、これから独り身の道を突き進んだり、あるいは、誰か、ちょうどいい女性と適当に恋仲になって、再婚したりするだろう。

 でもそれは、来ヶ谷さんではない。

 恭介と潤君の、自由なのだ。

 そこに妥協はあってならないのだ。

 自由な道を突き進めば、きっと叉夜さんは笑ってくれるだろう。

 僕に向けたような、妥協した、ぎこちない笑みではなくて。

 恭介だけに向けていたはずの、本当の、可愛く、真実にあふれた、少女のような美しい微笑みで。

 夏の風が過ぎ去って、秋の気配がしてきた。

 また、真新しい浜月町の日々が、始まっていく――。

 

 

 エピローグ

 

 叉夜はおれに言った。

「私は、突然、思うことがあるのよ」

「なんだよ」

 おれは答えた。

休日の、午後の麗らかな喫茶店の窓辺。いつものように鬱そうな、川にかかる松の枝葉のような、あいつの長い睫毛が光に映える。

「私ってば最低だわ……って」

「それは何遍も聞いた」

「暗いでしょう? 私って」

「おれが知っている中でもぶっちぎりに、おまえは暗い。それは知っている」

「くす」

 叉夜はそこで初めて笑う。艶やかな、薄い微笑み。

「それを聞いて安心したわ。私、偽らなくって済むもの。もう自分を」

「おれはおまえが好きだよ」

「そう」

 おれが吐いた愛の言葉にも、叉夜はてんで反応せず、ちょっぴり悲しそうに窓の外を見つめている。こんな反応をするのもよくわかっていた。

「でも、私にはそう言われる資格なんてないのよ。本当にいや……もう、こんな自分が。死んじゃいたいくらい」

「言ってみろよ。その理由をよ」

 おれは叉夜に何遍そんなことを言われようとも、言い返せる自信を持っていた。

 おれは、明るい叉夜が好きなんじゃない。まともな、優しい叉夜が好きなんじゃない。

 感情的な叉夜が好きなんじゃない。理屈屋な叉夜が好きなんじゃない。

 こんな、危うい叉夜が好きなんだ。

 叉夜といったらこれだ。だから、どんなものにも答えられる。

「恭介は思ったりしない? ふとしたときに。たとえば……電車の地下鉄のホームで、一番端っこに、ほら、電車が出てくる穴って、まるで洞穴みたくなってるでしょう? 見渡してみると、なにも無いの。そこに電車が来るときに飛び込んでみたくならない?」

「なることもあるが、やらない」

「そうよね。死んじゃうもの。……助かっても、むちゃくちゃに駅員さんに怒られるわね。でも、一度はそうなってみたい、って思う私がいるのよ」

「おまえはマゾなのか?」

「マゾかもしれない。でも、そんな一括りの一語で、私を表現してもらいたくないわ。侮辱よ、そう言う人」

「すまん」

「あら、嘘よ。恭介は別」

 叉夜はとたんに申し訳なさそうな顔になって、でも、それを隠すようにして、くす、と宛然に微笑んでみせる。おれと目を合わせると、若干熱にとろかされたようになって、淡い眼差しとなる。

「これって真面目なのよ。たとえば、今死に瀕しているお年寄りの耳元で、突然、卑猥なことを言って笑い転げたい気持ちになるの。真面目なのよ。老人ホームのいたるところに爆弾を仕掛けて、それを私は遠くで眺めていて、爆発して、降ってくる肉塊や脳みそなどを万歳して受け止めるの。……そんなことをふと考えている自分がいるのよ」

「たしか、太宰治に、そんなことを書いた作品があったっけなぁ」

「あら、よく知っているわね。前者のほうが太宰治の言葉よ。『風の便り』に記されているわ。私、彼が大好き。本当に、本当のことしか書いてないもの。嘘っぽい青春物語とか、もうたくさん。安い人情物とか、なくなっちゃえばいいのに。現代人はどこか頭がおかしいのだわ」

「現代人からしたら、おまえのほうがずっと頭おかしいように思えるんだろうなぁ」

「そうなのよ」

 そうすると、叉夜はちょっと落ち込んでしまう。でもそんなところが、可愛かったりする。

 真剣なのだ。

「こっちは真面目なのよ。そう思うときもあるの。でも、もちろんやらないわ。そんな恐ろしいこと。実行するなんて、ただの気違いだけよ。私はしないわ」

「安心した。……ってのは、嘘になるかな」

「あら。どうして」

「おまえはそんなこと絶対にしない。そう思いはするが、そう思うことで自分を責めるだけで、なにもしない。それがよくわかってるからだ」

「はっ」

 叉夜はそこできょとんとして、また例の熱に浮かされた顔になると、そそくさと席をこちらに移動して、おれの隣に座り、頬に、ちゅっ、とキスをした。

「だから、大好き。恭介」

 おれは黙っていた。顔が赤くなる。こんな人がたくさんいるところで、いきなり何をするんだと、問いつめてやりたかったが、馬鹿っぽくて、周りの目が気になるので、やらなかった。

「恥ずかしいから、戻るわね」

 叉夜は、もう一度おれに軽くキスをすると、やっぱりそうするのは恥ずかしかったらしく、そそくさと対面側の席に戻った。

 そこで顔を赤くして、恥ずかしそうに顔を覆ってしまう。

「ああ、恥ずかしいわ。恥ずかしい。どうしてこんなことをしてしまったのかしら」

「なにをするんだ、とは怒り出せないおれがいる……」

「あら。嬉しいの、恭介? だったらいくらでもしてあげるのに。でも恥ずかしいわ。恥ずかしい……みんな見ている気がするわ。どうして、私ってこうなのかしら。恥ずかしいのに、好きな気持ちは隠せない……」

「どーせ誰も見てなんかいねーよ」

「あら、そう? なら……」

「だが恥ずかしいから止めろ。ちょっと、さすがに……」

「……そうね」

 一度浮かしかけた腰を、すっと席に戻し、叉夜は恥ずかしそうに顔を覆いながら、ちゅー、ちゅー、とストローでジュースをちょっとずつ飲む。

 おれも熱くなった顔を外に向けて、どこか、だらだらとした、気のいい浜月町のなんでもない風景を、なんともなしに眺めていた……。

「ねぇ、恭介、」

 そして、また出し抜けに、叉夜がおれに言う。

「私って、最低?」

「最低だ。だが愛している」

「うん」

「最低だが、どっか、見えないところに最高なものがあるんだ。おれは、おまえが、おれ以外のすべての男に嫌われればいいって思っている。おまえの魅力はおれだけにわかれば十分なんだ。……おれだって、最低かもな」

 自嘲する。

 そうすると叉夜は、そっ、と、おれの手のひらに、自分の手のひらを重ねてくる。

 そこには、真新しい結婚指輪。おれの左手と、叉夜の左手に、銀色の、初々しい指輪が、ささやかに光る。

 太陽の光を受けて、鈍く。きらきらと。

 でもおれはそんな手を、愛おしいと思う。

「私だって、私のいいところが、あなただけにしか伝わらなければ、って思うわ。それってすっごく素敵なことだと思わない?」

「ああ」

「あなたって、ほんとに最低……」

 くすり、と、叉夜があでやかに微笑む。

「世の、私以外の女から、そう思われればいいのに」

「そいつはひどいな。だが面白ぇ」

「そうでしょう?」

 叉夜とおれは、くすくすと笑い合う。きっと世の中のカップルで、こんなことを平気で語り合えるのは、おれたちだけだ。

 間違っている。

 でも、そうは思いながらも。

 おれたちは、自分たちの、どこが間違っているのか、わからないのだ。

「ねぇ、恭介」

 愛おしい妻の手が、おれの手と絡み合い、指を間に挟む。

「ずっと……一緒にいようね?」

 そんな叉夜の微笑みは、まるで薔薇が咲くようだった。

 

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