第5話

 海に行こうぜ、と恭介が言った。

 それは唐突だった。その唐突すぎるのは、まるで、幼いころの恭介に戻ったようであった。

 叉夜さんを失う前の、いつまでも元気な――。

 僕と来ヶ谷さんは、そのことに同意した。

 偶然また、僕たち三人と潤君で、ご飯を取っていたときのことだ。

「いいが」

 来ヶ谷さんは、酒を飲んでいないので、いつものクールボイスのままである。

 恭介を睨めて言う。

「ちょっと時間がほしいな」

「時間?」

 来ヶ谷さんは固い笑みで、ふっ、と息をつく。

「そうすぐには休めないよ。これでも重要職なのでね」

「街をパトロールしているだけだろうが」

「それが重要職だと言うものだよ。私がいない間に街に変質者でも現われたらどうする」

「他の人が捕まえればいいんじゃないかなぁ……」

 僕は一応つっこんだけれど、べつに、来ヶ谷さんの言いたいことがわからないわけではなかった。

「仕事だから、そうそう休みは合わなさそうだね」

「そういうことだ」

「ちぇっ……」

 僕らがそう言うと、恭介は舌打ちをついてしまう。だがすぐに向き直り、来ヶ谷さんに問いかけた。

「おまえら、休みが合うのにどれくらいの期間が必要だ」

「うーん」

 まぁ、二週間でもあれば、多分いつでも用意できると……、

「一ヶ月だ」

 と、来ヶ谷さんが、まるで僕の思考を押し出すように、きっぱりと言った。

 恭介が驚いて目を丸くする。

「はぁ? 警官ってのは、そんなに忙しいものなのかよ?」

 来ヶ谷さんは、着ている白のブラウスを若干まくり、机に両肘をついて、重要な話をするように口の前で組んで、言った。

「無論だ」

 それは有無を言わせぬ迫力があった。

「無論かなぁ……」

「なんだ、理樹君。君はいつからこのおねーさんに軽々しく口答えできるようになったんだ。ほんと、悪いやつだ」

 ちょっと口答えしただけでこのありさまである。僕はさすがに黙ってしまった。

 辟易だ。

「ちょっと待ってくれよ。一ヶ月じゃベストシーズンが終わっちまうぞ。こう……海! って時期が、あるじゃねぇか、なぁ? 理樹」

「うーん……」

 潤君はこれくらいの人数になると、黙っているのが通常なのか、黙々とご飯を食べている。

「とにかく一ヶ月だ」

「こ、こいつ……なかなか引き下がらねぇじゃねぇか」

 それを言うなら恭介も、だろう。

「潤も、海に行くのに後一ヶ月も待たされたら、いやだろ?」

「ん? んー……」

 潤君は子ども用の小さいフォークを止めて、考える。

「一ヶ月って、ずっと先ってことか?」

「そうだ」

「やだな」

 潤君が恭介の側に回った。

 ぴく、と来ヶ谷さんの眉が動く。

「ほれ、潤もいやだって言ってるぞ」

「おー、やだー」

「ぬぅ……」

 なんか剣呑な雰囲気……。

 来ヶ谷さんが押され気味になっているこの状況を利用して、僕は話をまとめてしまうことにした。

「ほ、ほら、来ヶ谷さんも、恭介も。潤君も、さ」

 ぎこちない笑みで、僕は三人の間に割ってはいる。

「ここは、各人が譲り合うって形にしといて、間を取って、三週間、ってことにしないかな」

 それで、本当に話がまとまるのか、と不安はあったが。

 まとまったのだった。

 来ヶ谷さんは「努力してみよう」と勿体ぶるように言って、潤君は三週間という具体的な数字がわからないのか、「まーいーか」と言い、恭介はその間に目一杯暑い思いをするぜ、ということで(意味わからないけど)手を打ったのだった。

 海。

 暑くて長い夏の、代名詞的存在である。

 まさか、来ヶ谷さん、恭介、僕、という奇妙なメンバーで海に行くことになるとは思わなかったが……。

 僕の頭には、あの日の、若々しく、嬉しくて、飛び上がる思いだった、リトルバスターズを取り戻せたあの日、踊るようにして行った二度目の修学旅行が思い浮かばれた。

 幸せだったっけ……。

 そして、それが今。

 僕、来ヶ谷さん、恭介というめずらしい取り合わせで、もう一度海へ行くことになる。

 それは、とても奇妙なことだった。

 とにかく、あと三週間。

 僕は、どきどきと身が躍る思いながらも、なんの変哲もなく、七月の、ぎらぎらとした刺すような陽射しの毎日が、淡々と繰り返されていくような気がした。

 浜月町での生活も慣れてきて、仕事仲間との交流もじょじょに深まり、それと反比例して、妻や娘への寂しさが募っていく、そんな、七月のとある休日。

 僕は、めずらしく予定が無い日だったので(恭介たちはこの機会を利用して叉夜さんの実家に行った)、ぶらぶらと普段通らない道を散歩していると、思いがけぬ人に出会ったのだった。

「あ、……」

 白い薄手のTシャツに、ショートパンツといった、スポーティな格好。

 まさかこの人の、こんな格好を見られるとは思わなかった……こんな朝早くから、なぜか周りの目を気にするように、汗をかき、ランニングをしていた彼女。

 来ヶ谷さんだった……。

「……」

 はぁ、はぁ、と息切れの声だけが、僕らの間に流れる……。

 なにをしているんだろう、と、僕は思ったわけだが。

 その直後、それをそのまま口に出すのは危ういということに気づくのだった……。

「や、やあ」

 そんなわけで僕は当たり障りのない挨拶をしてみせる。

「……」

 無音。

 正直、ここから立ち去りたい気分だった。

 否、今すぐこの事実を無かったことにしたい。今この時間この場所、この状況にいる僕を、史実から消し去ってほしい! とシェンロンにお願いしたい気分だったのだ。

 来ヶ谷さんは青い顔になったり、一気に顔を赤くしたり、様々である。

「貴様……」

「え?」

「な、なんでこの道にいる!」

 僕はあたふたする。

「だ、だって!」

「だってもなにもない! 貴様……いや、君は、この朝の時間、平日であれば出勤、休日であれば棗家へお邪魔してあの小憎たらしい棗ジュニアと変態遊戯をしているはずだろうが!」

「僕はそんなことしないよ!?」

 泣きたい気分だった。来ヶ谷さんはたまに、機会に乗じてとても酷いことを言うことがある。

 別に、自分の家にいても暇だから、潤君と一緒にゲームしたりサッカーしたりして遊んでるだけだ!

「それにここは、ランニングにもあまり使われない、秘密の、私専用のコースのはず! 貴様……なぜっ! ……はっ、まさか、いや、君も……」

 君も、なんだ!?

「……そうか……」

 すると来ヶ谷さんは突然、生暖かい眼差しとなって、僕の肩を優しく叩く。

 なんだろう、この雰囲気……。

 変な予感がする。

「君も大変なんだな。そうか。まったく恭介氏という男は、大人の我々の事情というやつを、まったく解しない。ガキみたいなやつだ」

「……」

 それには同意するけど。

「だが、なんだその格好は? いつもの私服の、なんの変哲も、おまけにファッションセンスのかけらも見あたらない、普通のパパ服だろうが。体にたまった余分な脂肪分と戦うということを、なめているのか貴様?」

「え、えーっと……」

 わりとひどいことを言う。

 だけど……わかった。

 どうして来ヶ谷さんが、あんなに必死に「一ヶ月」という長いスパンを設けたがっていたのかということを。

「今日は散歩だよ」

「なに?」

 僕はちょっと強い語勢で、繰り返す。

「恭介と潤君は、叉夜さんの実家に行っていて、今いないんだよ」

「……」

「だから、なにもすることなくて、ぶらぶらと普段行かない道を歩いてただけだよ」

 散歩だ。することもないんだから、別にそれくらいしてもいいだろう。夏の午前中は空気がいいのだから。

 それを言うと、来ヶ谷さんはふっ――……と、倒れそうになった。

「来ヶ谷さん!」

 僕は来ヶ谷さんを支える。来ヶ谷さんは目を細めて、額に手を当て、失神しそうであった。

 ええー……。

 別に、いいんだけどなぁ……。ちゃんと事情を説明してくれれば。

「……水着。」

 びくっ、と来ヶ谷さんが震える。

「不安なんだね?」

「……くっ、」

 来ヶ谷さんは顔を赤くして、目を逸らしてしまう。

 その顔はとても悔しげで、深刻そうだった。

 僕は唐突に、来ヶ谷さんのことが可哀想になる。

 わかる。わかるよ、その気持ち。

 でもね、来ヶ谷さん。そうやって一人で抱え込んじゃうと、物事って、必ず良い方向には働かないものなんだ。

 言ってくれれば、僕は……。

「大丈夫だよ、来ヶ谷さん」

「……?」

「僕も協力する。実は僕も、もうずっと体になんか気遣ってないんだ。肉体も危ういラインを描いている……。そんな状態で、戦地に赴こうとしていたのが、間違いだったんだよね……」

「……理樹君」

 同意者を得たからか、うるうると、来ヶ谷さんが涙を堪えている。

 泣かれても、困るけど……。

「こんな、誰も走らないようなコースで走っていちゃだめだ。寂しいでしょ? ダイエットの基本は、自分のストレスと向かい合うことだよ。彼らを見ないふりしちゃだめだ。友だちとして、うまく向かい合わなきゃ」

「りきくぅん……」

 来ヶ谷さんはとうとう、むせび泣くような泣き声を上げて、目尻に涙を溜める。

 でも、もうこんな三流コントじみた濡れ場は必要ない。

 僕らに待っているのは、熱くて苦しい鍛錬の場だけなのだから!

「さぁ、行こう! 来ヶ谷さん! もう僕らに残された時間は少ないよ!」

「うん!」

 僕と来ヶ谷さんは、そういうわけで、ダイエットをするようになったのだった。

 っていうか、ええー。

 この一週間、僕らがなにをしていたのか教えよう。

 夜は必ず勤務後に会い、スポーツジム通いだ。

 恥ずかしがっていちゃだめだ。照れる心というものは、行動によってもたらされるべき当然の果実を、雲に隠して取れなくしてしまう。

 ランニングマシーンでのランニング、ゴムボール体操、ヨガ、ダンス、僕は機械を使った筋トレ、来ヶ谷さんはプール運動、あとは長くなるから省く。

 とにかく色々なことをやった。

 恭介と潤君が、自分たちがまったく恵まれた体をしているからといって、のほほんと(僕らの苦労も知らずに)焼き肉など贅沢なる嗜好品を食らっているときも、僕と来ヶ谷さんは葱や椎茸、人参などで我慢した。酒も飲まなかった。

 そしてついにやってきた決戦の日。

 来ヶ谷さんは自信満々だった。

「はっはっはっは」

 今まで一度も聞くことのなかった、あの高笑いも、ここではすんなりと出た。

「待ちくたびれたぞ、恭介氏。私はこの日を待った。もうちょっと早めの日取りでも、私は良かったんだけどねぇ」

「えっ、ほんとかよ」

 なにも知らない恭介は、ただただ素直に、びっくりしている。

「意地悪なこと言いやがるぜ」

「なんでかな。ただの裏返しだよ。私はもう、はやく行きたくて、はやく行きたくて、しょうがなかったのだ」

「おまえがそこまで乗り気でいてくれるとは思わなかったよ」

 単純な恭介は、素直に嬉しそうである。

 僕と来ヶ谷さんは目を合わせて、しのび笑うのだった。

「もう僕なんかすでに海パンつけて来てるよ」

「先走りすぎだ、理樹君」

「ごめん」

 でも僕はすまして笑うのだった。

「おれも海パンつけてきてる」

 お揃い、という証のように、潤君はズボンの中を見せて笑うのだった。

 しまいたまえ、潤君。

「可愛いじゃないか、潤少年」

 前は小憎たらしい、とか言っていたのに、来ヶ谷さんは潤君を可愛がるように腕に抱き、恭介所有のバンの後部座席に、上がり込む。

 恭介は運転席、僕は助手席だ。

「シートベルトは閉めたか? ちゃんと」

「うん」

「思い出すな」

 来ヶ谷さんは若干視線を遠くして、目を丸くしている潤君のお腹を抱きながら、前を見つめるのだった。

「ああ。だいぶ人も減っちまったけどな」

「減ってないよ」

 来ヶ谷さんはそう反論する。

「一人、増えたじゃないか」

 そうして、潤君の頭を優しく叩く。

 潤君は顔を上げて、来ヶ谷さんの瞳を見つめる。

「そうか」

 恭介は含み笑い。

 車のフロントガラスの前には、からっと晴れた大空と、下町らしい、暢気な家庭の生垣なんかが見えている。

 そしてこれから向かう、青い、青い、大海原も。

「それじゃあ、出発だ!」

 恭介がギアを動かして、アクセルを踏んだ。

 

「貴様、私が非番でよかったな」

「……」

 メモ帳に、恭介がやった、様々な違反運転の罪状が記され、それが恭介の面前に叩きつけられた。

「もし私がここで警官の服装をしていたら、即刻、貴様の運転免許を取り上げていたところだ」

「それくらい減点されたんだね……」

「貴様、追い越し禁止線の存在を知らないのか?」

 恭介は、黄色いラインを無視してばんばん前方車を追い抜いていた。

 ……いわゆる、ちょい悪パパだったのだ。

だが、いくらちょい悪でも、警官に捕まえられたら、ださいオヤジにしかならない。

「一方通行標識のある道路を、わざわざ逆方向から入っていくとはな。さすがにそれは、止めるしかなかった」

「……近道だと思ったんだ」

 恭介の車は今、恭介の車は、大通りの路肩に止められている。そこから来ヶ谷さんが無理やりバックして車を運んできたのだ。

「親父はなんでねーちゃんに怒られてるんだ?」

「先走りすぎたんだよ……」

 僕はニヒルに笑って答える。ここは後部座席だ。今は助手席に来ヶ谷さんが座って、延々と恭介に説教を垂れている。

「スピード違反が計六回だ。一般道で八十キロ出す気違いがいるか」

「車通ってないから、いいと思って……」

「人が突然そこに飛び出してきたらどうする? その際、相手の不注意のせいにできるなどとは夢にも思うなよ。相手の治療費、違反罰金、車の修理費、慰謝料、それだけで貴様、明日から潤君を食わせていけなくなるぞ」

「すみませんでした……」

 恭介は自分の不甲斐なさを恥じるように、ハンドルに突っ伏してしまう。プーッ! とクラクションが鳴って、来ヶ谷さんの光速の鉄拳が恭介の頭に直撃する。それを僕と潤君の二人が、後部座席から見ている。

 僕は、運転は来ヶ谷さんが以降代わるべきだ、と言おうとしたが、そこは敢えて、来ヶ谷さんは、よしとせず、恭介に残りの最後まで、やらせるのだった。

 理由は聞かない。ただ、「ほら、頑張れ」という言い方には、潤君の視線を気にした、来ヶ谷さんなりの、優しさと温かな気配りがあったような気がした。なんだかんだ言いつつも、やっぱり最後には事故を出すまいという、恭介の天性のポテンシャルを、どこか心で、信頼していたのかもしれない。

 それは僕にもわからない。

 ただ、結果としては、わりと安全に、海水浴場までたどり着くことができた。

 来ヶ谷さんが助手席で逐一恭介の運転を見張っているから、だったのかもしれないけれど。

 恭介が相当真剣にバンを運転しているところが、なんだかおかしかった。

 そうして、やって来たのは。

「おーっ!」

 あのときの海水浴場だった。

 狭苦しい下町の住宅街から、一気に青空と、青い永遠の水たまりが、開けるのだ。

 白い雲はうたた寝するようにゆらゆらと広がり、蒼と白のコントラストが、若干目に痛いほどだ。

 ぎらぎらと照りつける強い陽射しが、地面を焼いて、熱気を立ちのぼらせている。

 目指す彼方には、蜃気楼だ。

 そんな平凡な通りを、のろのろと、一台のバンは走っていた。

 なんだか懐かしい心持ちだった。

 十年前なのに、僕はよく覚えている。

 この道を通ったのを。

 ここに、楡の木がある。隣の民家の垣根からはみ出した、ぎざぎざの葉っぱ。

 影が色濃く地面に残って、さわさわと、葉と一緒に影が風に揺れている。

 そこをバンは通っていく。

 生ぬるい空気と、バンの図太いエンジン音とが、妙に心地いい。

 僕は後部座席で潤君とお喋りしながら、そんな景色を見ていた。

 八月の、こみ上げるような夏だ。

 でも、そんな中にも。

 僕は叉夜さんの気配を感じていた。

 でも、今はもう。

 彼女の影に妙な薄気味悪さとか、おどろおどろしさは感じられずに、僕もだんだんと。

 彼女を好きになっていた。

 この一家と、来ヶ谷さんの背後にまとう影を。

 ぼくも少しずつ、帯び始めたのだ。

「いやっほぉ――――――うっ!」

 恭介はバンを駐車場に置くと同時に、潤君を置いて海に突っ走っていってしまった。

 待てー! と、潤君も後から追いかける。

「まったく」

 来ヶ谷さんも溜息まじりではあるが、どこか楽しそう。

「あんなだから、息子に尊敬されないんだ」

「恭介‥…」

 僕は、ちょっと、恭介のことをうらやましく思った。

 ひそかに。

 父親としてはだめかもしれない。

 でも、恭介は、父親として良いとか、だめだとか、まったく考えていないと思う。

 子はそれでも元気に育つ。

 それが信条なのだ。

 放任主義ともまた違う、どこか諦観じみた考え。

 でもそこから生み出されるのは斜に構えた態度ではなく、思いっきりの、少年っぽさだ。

 それは、考えなしの、安っぽい元気さなどではなくて。

 悲しみの上に成り立った、どこか寂しい味のする、酸の効いた、大人っぽい元気さだったのだ。

 僕も来ヶ谷さんも、彼らの後に続いて、石造りの階段を降りていった。

 叉夜さんも昔、こうやって恭介の後をゆっくり追ったのだろうか。

「じゃあ、私はあちらで着替えてくることにしよう」

 来ヶ谷さんは海の家の更衣室を指差す。

「楽しみにしているよ」

「エロい発言に聞こえるよ」

「ふっ、失敬」

 僕と来ヶ谷さんは、目で語り合った。今こそ、一週間の成果を見せるとき。苦労の末の、晴れ舞台だよ、と。

 陽はぎらつき、肌が熱い。僕は来ヶ谷さんと別れて、その、思いっきり潮気をふくんだ空気を、肺に入れた。

 そして吐き出す。

 彼方には、人混みの間に立って、服を着たまま足で波を蹴りまくっている、棗親子の姿を見つけることができた。

 僕は――、いや、僕も、彼らと混じって、取りあえずは、波と風に、戯れようと思った。

 走り出す。

 

「くっくっく……」

 現われた来ヶ谷さんの瑞々しい肢体は、とても、二十七歳だとは思えないほど、引き締まっていて、美しかった。

 黒の水着のセパレート。来ヶ谷さんは黒が好きらしい。

 っていうか、来ヶ谷さんは……。

 本当は、ダイエットなんか必要なかったんじゃないか。

 そう、思わざるを得ないほど、見事に完成された肉体を持っていた。

 でもそんな当の本人が、あんなに一生懸命頑張った末に、こうして、自信満々と胸を張っているのだから、面白い。

「見事だ、来ヶ谷さん」

 肌は雪のように白く、顔は小さくて、髪は流水のように真っ直ぐ。それが邪魔にならないように、後ろで一つに結わえられている。

そんな来ヶ谷さんが、ビーチサンダルで砂の絨毯を噛みしめながら、さく、さく、とこちらにゆったり歩み寄ってくる。

「君も相変わらず、美しい肢体だよ。さり気なくついた各所の筋肉が、美魚君などの気に入るだろう」

「困るな」

 困るといいながら、僕は淡い笑みである。

「君は妻帯者だからなぁ」

「うん。でも、一応、男としての矜持はあるからね」

 熱い砂浜の上に、シートを敷いてパラソルを立てたところに、僕と来ヶ谷さんは腰かける。シートの上には来ヶ谷さんが作ってきてくれたお弁当、水筒、浮き輪、日焼け止めクリームなどが置いてあった。

 それぞれのバッグも。

「で、恭介氏は、というと……」

 そんな魅力あふれる肢体を恭介に見せてやりたかったのか、来ヶ谷さんはすこし楽しみといったふうにあたりを見渡すと、恭介は、予想通り……、

「フォ――――――――ウッ!」

「やー、おー!」

 海辺で、潤君と戯れていた。

 すこしもこちらを見ていない。ゴムボールなどがぽんぽん宙に飛び交い、青空とクロスし、波に持たれ、ゆらゆらと波に乗っている。

 来ヶ谷さんの額に、血管が浮かぶ音がした。

 そんなものが聞こえたような気がしたのだ。

「あの男はぁ……!」

「ははは」

 僕は苦笑した。

「ま、こんなもんだよ」

「ふん――、つまらん」

「あははは」

 僕は苦笑することしかできなかった。

 でも、これでいい気がした。

 きっと体の特徴なんてこんなもんだ。僕らの努力も、実際には、あまり役に立ちはしない。

 でも、無駄になったわけではないし。

 自分たちが思いっきり、恥も劣等感もなく、気楽に遊べるようになったという点では、おおいに僕らの努力は、賞賛されるべきなのだ。

 僕は立ち上がって、ビーチサンダルを脱ぐと、振り返り、来ヶ谷さんに手を差し出した。

「行こうよ、僕らも遊ぼう?」

「いい」

 と、来ヶ谷さんはシートにタオルを長く敷くと、サングラスをかけ、そこに寝っ転がってしまった。

「なんかつまらん。興ざめだ」

「ははは。恭介はどうせあんなもんだよ」

 むしろ恭介が、来ヶ谷さんの美しい肢体に、すこぶる感動していたら、ちょっと当惑しただろう。

「わかっている。わかっているから、怒りはしない。ただ、私はやる気がなくなったから、しばらく気分が回復するまで、ここでこうしているつもりだ」

「なにをしているのさ」

「なに。寝そべりながら、ショウペンハウエルの『自殺について』でも読んでいるさ」

「ええー……」

 と、来ヶ谷さんはバッグから出した文庫本を開いて、寝そべりながら読み始める(マジでショウペンハウエルの『自殺について』だ)。

 来ヶ谷さんは、つまるところ、拗ねていた。

 まぁ、ねぇ……。

 恭介も、ちょっぴりお世辞でもいいから、こっちを振り向いて、「綺麗だぜ」とか「まだ若いな」とか、さり気なくでも言ってやればいいのに。

 やっぱり恭介は、叉夜さん一筋なんだろうか。

 どうでもいいか……。

 僕は、来ヶ谷さんを一人でここに置いていくことに若干気が引けたけど、ここに残るとより一層彼女を怒らせそうなので、悪いと思ったけれど、すたすたと歩いて、青々とした半円の中、恭介や潤君の元へと、駆けていったのだった。

 

 来ヶ谷さんはしばらくすると、寂しくなったのか、やって来た。

 若干ばつが悪そうに、おずおずと。

 そんなとき、恭介は、やっと来ヶ谷さんの美しさについて言及するのだった。

「おっ」

 まんざらでもなさそうな顔つき――。

「似合うじゃねぇか」

「ふん」

 来ヶ谷さんは、無感情にそんな恭介の言葉を鼻であしらうと、背中に隠し持っていた「ある物」を取り出し、恭介に向けた――。

 発射する。

「いてぇっ!?」

 それは水鉄砲だった。……だが、超強力な。

 今、とんでもない勢いで水玉が噴出されたのが、見えた。軽くエアガン並だった。

「な、なんだ!?」

「ただの水鉄砲だ。ただし、私が個人的に改造した、超強力な、な……」

「って、今の、水鉄砲だったのかよ!? ――って、いてぇ!? いててて! やめっ――、おい!? こら、待て――」

「食らえ、食らえ!」

 来ヶ谷さんは次々と海水を注入して、恭介に水玉をぶつける。正確無比な射撃能力だった。的確に恭介の動きを封じるように撃ち続けている――。

「ふははははは」

 来ヶ谷さんも楽しくなってきたのか、両手で、まるで拳銃のように銃身を持って、片目をつぶり、発射し続ける。

 恭介は水玉の圧力に圧され、ついに、ざぶーん! と波の中に倒れ込んでしまった。

「はーっはっはっは!」

 来ヶ谷さんは高笑い。

「私の勝ちだな」

「ぶぉっ――はっ!」

 恭介が海面から出てくる。

「なにをするんだ!」

「ねーちゃん、それおれにも貸して――」

「君の力ではまだ早い。これには相当の腕の力がいる。怪我してしまうぞ」

「子どもにそんなもの持たせるな!」

「おお、恭介、いいつっこみ……」

 僕は微妙な実況をしてみせる。

「仕返しだ! 食らえ!」

 恭介が怒って水をかけようとする。だが、それは、並の男がやるような、恋人に「ははは、くらえー」と笑いながらする、洒落たちゃっちぃものではなくて、本気の、無駄に派手なエフェクトが入った、蹴り上げだった。

 来ヶ谷さんはそれを高速で回避する(海中なのに、なんでだ!?)。そして再び銃身に水を注入し、射撃を再開する。

 再び的にされる恭介。潤君はざぶざぶと二人の余波を食らい、慌てていた。

 でもそれでも、楽しそうであった。

「おのれ! こうなったら――」

 恭介は潜水を始め、下から来ヶ谷さんのほうへ近づこうとした。わりと変態じみた行為だけど――、おそらく、足を掴んで転倒させる気に違いない。

 来ヶ谷さんはそれを読んでいたのか、恭介の影を追いつつ、ゆっくりと水辺まで歩いていく。

 ……自然と姿が顕わになる恭介。

「いててててて!」

「恭介……」

 恭介はまるでマシンガンで蜂の巣にされる兵士のようだった……。

 やられっぱなしになる恭介。

 だがここで、本当にやられたままで終わる恭介じゃない。

「おい潤! おまえ、浮き輪の、あのでっけぇイルカ貸せ!」

「どうするんだ?」

「――盾だっ! あいつの砲撃を防ぐ盾にする!」

 それから恭介は、砲弾を食らいながら潤君のところまで駆けていき、

「わりぃ、潤。ちっと借りるぜ」

 潤君の乗っていた大きいイルカの浮き袋をゲットする。

 それを盾にして、来ヶ谷さんに突進していった。

「うぉぉぉぉぉ――!」

「っ……」

 来ヶ谷さんは、ピシュンピシュンと水鉄砲を撃つが、すべてイルカの膜に弾かれ、消散してしまう。

 恭介の突撃をひらりと横にかわすと、恭介はさらに突進していくかと思ったが、予想に反して、恭介はそのままシートのある方へと駆けていった。

 イルカを盾にしたまま。

 そうして、そこで恭介の取った方策とは――、

「くぅらえー! オレのマグナム第十三号! あいつに突撃せよ!」

 なんと、ホバークラフトのリモコンおもちゃだった!

 っていうか、恭介、海にこんなもん持ってきてたのか!?

 人々が縦横無尽に闊歩する中、ホバークラフトは、砂浜を駆って、来ヶ谷さんに突進する。

「ぬ」

 来ヶ谷さんは危なそうに砂浜を蹴るが、まだそのリモコンカー(?)は来ヶ谷さんを追い続ける。あんなの、当たってもたいしたダメージにならなさそうだけど……。

 でもそこが、恭介の狙いだったのだ――。

「もらいっ!」

「む!」

 来ヶ谷さんがリモコンカーに注意を引かれている隙をついて、恭介が来ヶ谷さんに飛びかかった。狙いは右の手に持った水鉄砲。来ヶ谷さんはとっさのことですぐ反応できない。

 さらに恭介には勢いがあった。素早い動きで、すれ違いざまに、恭介は銃を来ヶ谷さんから奪い取る。

「はっは! どんなもんだ!」

「ふん……」

 来ヶ谷さんは面白くなさそうに、目を細めて砂に転げ回った恭介の体を見やる。

 まだなにか奥の手があると見えるようだが――、

「さっきの復讐をしてやるぜ! 見てろ!」

 恭介は早速海辺のほうへと駆けていって、海水を銃身に注入しようとする。来ヶ谷さんはそれを走って追っていた。

 銃を取り返すためだと思ったのだが――。

 違った。

「ぶおぉ!」

 水を入れようとかがみ込んでいる恭介の背中に、飛びかかって、海に沈めたのだ。

 そこから先は――、ただの、子どもの遊びを見ているようだった。

 一緒に海の中に入って、遊ぶ二人。

 しばらくは揉みくちゃに戦い合ってたけど、とても楽しそうだった。

 僕は残念ながら混ざったりはできなかったけれど。

 恭介と来ヶ谷さんという、歴としたリトルバスターズの超人たちは、今もなおここに生きていて。

 僕らの想像を超えたところで、楽しく、そして、やっぱりどこか彼ららしく、違ったふうに、人生を楽しんでいる。

 それはどんな有名な地位にいようと、変わらないのだと。

 いや、変わらないからこそ、彼らは、このような場所を選んだのだと、思う。

 より荷が少ないところを、終局の地としてではなく、これからまだ連綿と続いていく、長い人生の、一つの留まり宿として。

 でもそこでだって、普通に苦闘はあって。

 必ずしも、前向きになれはしないところかもしれないけど。

 僕はようやくこの段になって、恭介と、来ヶ谷さんという二人が、みんなと離れて、この浜月町というなんの変哲もないところに、住むようになった理由が、わかったのだった。

 きっと、何か。

 自分のうちに宿り、そこから発生しようとしてくる何かを、若者らしい活発的なやり方でなく、大人の対応というやつで、温かく、時には気だるげに、見守るためだったのだ。

 そこには恭介や来ヶ谷さんだけでなく、叉夜さんもいた。

 叉夜さんはきっと「こう」言ったはずだ。そんな二人に出会ったときは――。

「あなたたちが大好き」

と。

 僕はなんとなく、あの二人や、潤君と付き合っていくうちに、そういうことが、だんだんわかるようになってきたのだった。

 あの二人を繋いでいるのは叉夜さんではない。もっと別のなにか。けれど、そこの間に必ず叉夜さんはいて、あの二人を弱々しげに見つめている。

 仲間に入りたいんじゃない。そんな二人を、自分には無いものを持っている、幸福で尊敬すべき人間として。

 そして、もしかしたら自分もそれを持っていやしないかと、ほのかに願う、現実的な、信頼すべきところとして――。

 そう信じていいのかもしれない、と、ひそやかな眼差しの光の先の。

 ああ、そうだったのだ。

 叉夜さんは、誰か、僕の知っている誰かに似ていると思っていた。

 僕の妻に似ていたのだ――。

 

 気だるげな黄昏が焼け落ち、一日は終わり、僕らは帰途に就く。

 潤君と恭介は遊び疲れて眠そうだったので、運転は僕が代わった。

 その際に、助手席に座っていた来ヶ谷さんは、僕に教えてくれる。

「楽しかったな」

「うん」

 本当の叉夜さんの姿を。

 恭介と潤君は後部座席でぐーぐー寝ている。

「海にはな、昔、葉留佳君や佳奈多君とも行ったことがあるのだよ」

「へぇ」

 驚くべきことでもない。女子は男子と違って、女子だけの集まりというものを多く作っていたそうだから。まぁ、そういう僕らだって、真人や恭介と一緒に遠出してたりしてたけど。

「あの二人、今は海外だよね」

「うむ。フランスだ。パリやどこらだったか。クド君も一緒に行っている」

「大変そうだなぁ……」

「はっはっは」

 来ヶ谷さんは意外そうに笑う。

「大変そう、なんだね。楽しそう、ではなくて」

「僕は、日本が一番住みやすい国だと思ってる」

「私も同感。だが、あちらの国でしか学べない興味深いことも多くあるだろう」

「滞在費は誰が出してるの?」

「三枝姉妹のお父さん『たち』らしいよ。でも、もう仕送りは受け取っておらず、向こうは向こうで稼いでいるみたいだけどね」

「へぇ」

「佳奈多君は法学を修めて法曹官、葉留佳君はデザイナーとして企業に雇われている。クド君は先生だ。物理の」

「向こうの人に教えるなんてすごいね」

「私は、あの背丈で人にものを教えるというところに驚きを感じるんだ」

 僕はハンドルを握りながら、苦笑した。

 生ぬるい、健やかな夕焼けが、空に伸びている。黄昏のデコレーションの先に、半月が顔をほのかに出す。

「もうずっと会えてないなぁ」

「手紙ならたまに来ているよ。私のところに」

「へぇ」

「見るかい?」

「止めとく」

 僕はハンドルを切りながら、来ヶ谷さんのほうを見ず、答える。

「どうして」

「見たってしょうがないよ。それは来ヶ谷さんに出された手紙でしょ? 僕のほうに出された手紙じゃないから」

「妙なことを言うんだね」

「うっかり、知られたくないことでも知っちゃったら、やでしょ?」

 来ヶ谷さんはくすりと笑う。そんなふうな気配がする。僕はそちらを見ていない。

「私が、そんなことはまったく書かれてない、と保証しても?」

「……敢えて、読まないよ」

 僕は明るい夕べの中を通り過ぎていく、レトロな商店街の風景を眺めた。古ぼけた感はあっても、どこか新しい印象で、荒らかな魅力を持って僕の心に入り込んできた。

「僕は、僕に出されてきた手紙しか読まない。それに、彼女たちと話をしたくなったら、こっちから手紙を出せばいい。それが筋でしょ?」

「君は……」

 それから来ヶ谷さんは、反論する手だてを考えるように、腕を組む。

 けれど、僕に対して怒っているわけではない。

 この夕べの中のやり取りを、楽しんでいるようだ。

「なら、私が君に対して、伝えるべき情報を選んで、それで好きに話すならいいだろう? 君の理論でいくなら」

「もちろん、構わないよ」

 僕は軽く応対する。べつに意固地なわけじゃない。

 でも来ヶ谷さんは、すぐにはその内容を話さなかった。

「葉留佳君たちは、」

 僕への質問から話を紡ぎ始めたのだ。

「向こうでどうしていると思う?」

「んっ、楽しくやっているんじゃないかな」

 信号が赤になり、僕の車は立ち止まる。徐々に空に青みが増し、半月の存在感が強くなる。

「楽しくやっているのはもちろんだとも。向こうで楽しくならないなら、こっちにすぐ帰ってくるさ」

「そういうことなわけ?」

「もちろんそれがすべての理由ではない。彼女らは日本を嫌っているわけではない。ただ、『そういうふう』に生きているのだ」

「いいんじゃないかな。らしくって。話してよ、続き」

 暮らしというのは、得てして、僕らが子どものころ思い浮かべたようには、ならないものだ。

 でもそれが悪いわけじゃない。

 良いことなんだ。

「佳奈多君は、特に――、」

 来ヶ谷さんは、まるで何年か昔を思い出すように、遠い眼差しで、うすく笑った。

「ヨーロッパに出発するすこし前までは、この浜月町に住んでいたんだ」

「えっ!」

 僕はとても驚いた。驚きすぎて、すこしの間呆然となる。

 その間に信号が青になって、来ヶ谷さんに、「前」と指を差される。

 あわてて発進する。

 半ば放心したままに――、僕は、来ヶ谷さんの横顔を見つめた。

「驚いたのかい?」

「いや……意外だな、って」

「この浜月町は、意外と多くの知り合いが住んでいたのだよ。もっとも佳奈多君は、ほんのすこしの間だったけど」

 来ヶ谷さんはうっすらと微笑む。なにかを言いたそうな眼差しで。

「君と同じじゃないか」

「……」

 僕は冷たい夕べの中を突き進んでいく。じょじょにバンの中も暗い闇に溶けていって、安閑と、潤君と恭介の寝顔の上に降り注ぐ。

「……どうして?」

「恭介氏のことが好きだったのだよ」

「……」

 僕は、ちょっと、恭介に聞かれてやしないかと、後ろを窺ってみた。

「大丈夫。聞かれてないよ。もっとも彼女も、もう今の時点じゃ、そんなこと秘密にしたがらないだろうけど」

「失恋だったんだね……」

「ああ。そのころには、もう叉夜君がいたからな」

 叉夜さんは、恭介が二十のときに付き合い始めて、二十一のときに結婚した。佳奈多さんが浜月町にいたのは、きっとその間ということになるか。

「まぁ、でも、そのせいで海外に逃げていったなどとは、彼女も思われたくないだろう」

「でも、どうなの、実際」

「本人に聞きたまえ。拳の一発でももらって、心底軽蔑される覚悟をして、な」

「止めておくよ……」

「真相は闇の中、が、ちょうどいい」

 来ヶ谷さんは哲学めいたことを言って、やや笑う。

「佳奈多君も、可哀想な経験だったのだよ」

「可哀想?」

「高校生のころから、心で追っていたようだから」

「あぁ……」

 僕は、よく、高校生のころ、恭介と佳奈多さんが二人で話していたことを思い出す。たいていは牽制し合ってたり、リトルバスターズと風紀委員会の駆け引きや、出し抜き合いだったようだけど、そういうことを考慮に入れれば、確かに、あのときの佳奈多さんは、恭介のことを僕らとは違った目で見ていたような気がする。

 信頼していたような……。

 でも、遅すぎたのだろう。色々なことが。

 それは佳奈多さんの責任に帰してもいいものだ。だからきっと、もう「秘密にしたがらない」のだろう。自分の頭の中で整理がつけられているから。

 それが手紙の中の内容だったのだろうか。

「佳奈多君は、初めて叉夜君に会って、一目で嫌いになり合った、希有な例だった」

「え?」

「ほら、彼女らは、よく仮面をつけて人と接したりするだろう? いくら恋敵といっても、表面上は仲良く穏便な関係にしたかったはずだ。それなのに、会って数分後に、もう喚き合い、怒鳴り合いの大喧嘩となった」

「えぇ……」

 僕はげっそりした。あの、佳奈多さんと、叉夜さんが大喧嘩……。

 それは、恋敵が目の前にいたからじゃないのかな……。

 でも女の人の喧嘩って、もっとこう、見えないところでやる、じめじめしたものだと思っていた。そんな、男っぽく、表面に簡単に出さないものだと。

「佳奈多君は叉夜君と大喧嘩して、別れた後、私に言った。『なんなのあの腐った女は』とな。叉夜君もめずらしく興奮した様子で、私に電話で言ってきた。『あんな神経がめちゃくちゃな女、初めて見たわ』って」

「うわぁ……」

 来ヶ谷さんは楽しそうに話していた。街の中にライトがぽつぽつと灯りはじめ、黄昏の街が、じょじょに夜の街となっていく。

「来ヶ谷さんは、それで、どっちの味方だったの?」

「私はどちらとも味方だったよ。彼女らはどちらも愛らしい」

「中立だった、ってわけ?」

「それもまた違う」

 来ヶ谷さんはうっすらと微笑む。

「中立と、どちらも愛する、というのは違う。前者はどっちつかずの日和見、しかし後者は立場がはっきりしている。揺るぎがない。私は二人とも大好きだった」

「……どういうことなの」

「二人とも、性格が似通っていたということだよ」

 来ヶ谷さんはじつに楽しそうに昔話を語るのだった。

「電話越しで愚痴を言ってくるたび、私はまるで恋の相談をされているみたいだった。『最低女』だとか、『気違い』だとか、『見ているとイライラする』とか、『頭悪い』とか、様々なことを聞いたけれど、私は、叉夜君も佳奈多君も、どちらも、そういうときは、とっても生き生きしていたと思うのだ」

「……」

 僕は黙って、月夜の、路傍に立ったライトが連なって流れるのを見た。ハンドルを操作する。車体がゆるやかに流れていく。

 川のように。

「どちらも我はおそろしく強いが、気はとっても小さかったのだ。……自分の鏡に映っている姿を見るように、彼女らは正反対だった。でもそっくりだった。そのまま陰陽の形として見立てられた。佳奈多君が陽、叉夜君が陰、陰影は移り変わるときもあるが」

「叉夜さんが陰、っていうのはわかる気がするな」

 来ヶ谷さんは笑っていた。笑っていたけれど、なにもその先は言わなかった。

「とくに佳奈多君のあのセリフは傑作だったな」

「どんなの?」

「『ああいう女は絶対ろくな死に方しない。必ず棗恭介を不幸にする。ほんと、ろくでもない。不健康な女、っていうのは、きっとああいう人のことを言う』と」

「ひどいねぇ……」

 でも佳奈多さんらしい。

「なかなか的を射ていた表現だと思う。叉夜君はそういう女だ」

「ええー」

「でも、叉夜君も、まったく佳奈多君に対して、同じことを言っていたのだから面白い」

 そうして――……、僕はわかった。

 どうして来ヶ谷さんが、どちらの女性とも親友になったかということを。

 どちらも真剣だったのだ。

 それが最大の共通点だった。

「そうして、叉夜君が病気で死んだとき、恭介氏の次に悲しんだのは、私と、佳奈多君だったな――」

「……」

 来ヶ谷さんは、こめかみに指を当てながら、言った。

「叉夜君はとても心が綺麗だったのだよ。もっとも、死んで、もう触れられなくなったから、そう思うのかもしれないけど――。でも私は断言する。彼女だから、恭介氏の妻になれたのだ。佳奈多君は優しさと意気地のなさのせいで、叉夜君に持ってかれたが――、叉夜君には、私たちのような人間にはない、一種の、心の綺麗さがあったのだ――」

「わかるよ」

 僕は、ようやく、彼女に対してそう思えるようになった気がした。

 叉夜さん。

 薄気味悪いなどと思って悪かった。

 そう思ったのは、きっと――、僕の中の何かが、間違っていたせいなのだと思う――。

「彼女と私は、恭介氏と付き合う前から、知り合いであり親友であったが――そのときから、彼女は多くの悩みに苦しめられていた。でも、心は綺麗だった。そういった悩みの多くは、彼女を綺麗にすることに役立った。そうして彼女は、汚れないままで、死という終着にたどり着けた。……たどり着いてしまった、と言い直すべきか」

「来ヶ谷さんの好きなほうでいいよ」

「どうも、私の流す涙は、悲しさと寂しさだけではないようだ」

 来ヶ谷さんはそう言いつつも、涙を流そうとしない。

もう、遠い昔の出来事になってしまったせいだろう。

こうして、整理して、楽しい昔話にもしながら、一種気だるく、遠い眼差しで話せるように。

「うらやましさや、喜びもあったのだと思う。彼女はあのまま永遠になったのだ。永劫だ。……死は、決していいものではない。厭うべくものとして避けるべきものだ。だが……なってしまったら、なってしまったで、他の人間には多くの場合、美しく映るべきものなのだ。よっぽど薄汚い死に方をしない限り、そうだ。でも私は……死後も彼女を馬鹿にするやつを見ると、本気で殴って、殺してやりたくなるぐらい、彼女のことを美しかったと思っているのだ。決して、死というものを、良いと思っているわけではなく……」

「わかるよ」

 僕はハンドルを握る手に力を込めた。

「わかる」

 僕は運転を続ける。

 そして叉夜さんのことを思う。

 叉夜さんは一度も僕に対して笑わなかった。でもそれは、僕が特別だという理由ではない。

 普通だったから、なのだ。

 普通の人として接しよう、と思ったからなのだ。軽蔑の意味を込めてではなく、普通の、一般の相手としての。

 だからあんな薄気味悪い笑みになったのだ。

 叉夜さんは、きっと、来ヶ谷さんや、佳奈多さんに対しても、いっぺんも笑わなかったに違いない。

 でもそれは、ひどく影を帯びた、鬱的な、とても女として綺麗な表情だったに違いない。

 そしてわだかまることなく、そのまま、周りの人に見せていた。

 だから恭介は好きになったと言っている。そんな彼女の、そんなところが。

「もう止めようか」

 来ヶ谷さんは、そう話を切って、前方を見すえた。

 夜の街が続いている。けれど、だんだん、僕らの知っている浜月町の景色が見えてくる。

 恭介の家はもうすぐだ。

 そこで来ヶ谷さんが後ろの座席を見やる。振り返って。

 潤君はまだ寝ていたが、恭介は、ちょうど、起き出してきたころだった。

「恭介氏」

「……もう、すぐ着くのか」

「私たちの話は聞いていたかね?」

「あん?」

 恭介はまどろむような声を出して、ミラーの中で僕と来ヶ谷さんを見比べる。

「なんだ……?」

「なんでもない。楽しい話をしていたのだよ」

「ははは」

 僕は苦笑いだった。楽しい話といえばそうだけど、叉夜さんが聞いていたら怒り出しそうな言い方だ。

「うっすらと夢見心地だったな」

「そうか」

 恭介がまだ寝ぼけたような声で言うと、来ヶ谷さんはふっと、笑うのだった。

 でも、恭介は。

「二木は、」

 ぽつりと、こんなことを言う。

「フランス語が似合いそうだな」

 

 第6話

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