第4話

 

 数日経ってから。

 僕は、午前の早い時間に棗家にお邪魔していた。

「暑いねぇ……」

 思わず、子どもの前であるにもかかわらず、そんな溜息をついてしまう。潤君は扇風機の前にかじりついて、「あ“ぁ〜」と、誰もよくやるあのふざけた遊びをしていた。

 今日は休みの日だ。お昼から鈴と会うことになっている。恭介は午前中に、やり残した分の仕事を会社で済ませねばならず、ちょっと出勤している。その間の御守を僕は任されたわけだ。

 まぁ、どうせ家にいたってやることなんてなにもなかったけれど。潤君の相手も結構楽しそうだった。

「ねぇ、潤君」

「ん?」

 潤君が、こっちに振り向く。扇風機の前にいるくせに、額には汗が浮かんでいる。狭い部屋だから、すぐ蒸し暑くなるのだ。

「今日は何人くらいの友だちとプールに行くの?」

「ん〜……」

 幼稚園生に数の質問は難しかっただろうか、と僕はちょっと焦って、もう少し質問を簡単にしてみる。

「だれと、だれ?」

「えっと、」と、潤君は指を使い出す。

「かつひさくんに、こうじくんに、まさしに、あきこちゃん、かなちゃん、さきちゃん……」

「っていうと、何人?」

「ん」

 潤君は五の指と、一の指を僕に突き出して、ちょっと考えてから、言った。

「六だ」

「自分を入れて七だね」

「そうだった」

 潤君は純粋に感心したように、うなずく。僕は部屋の中を見回した。

 ひどく簡素な部屋だった。僕の家のただれたボロ壁よりはずっとマシだけど、ただ本当に狭く、ここには生活するだけのスペースしかない。余暇がないのだ。テレビも、ごく小さい。

「潤君はいつも、友だちたちとどんなことして遊んでるの?」

「ん〜」

 潤君は質問をたくさんされて、困惑ながらも、ちょっと得意げである。

「けーどろとか、鬼ごっことか、鉄棒とか、砂場に穴ほったり、水流して遊んだり、あとは、木で家を造ったりとか」

「家?」

「うん」

 潤君は、とんかちで釘を打つモーションをした。

「こうやって、かんかん、って」

「ああ」

 図工の一環だろう、と僕は思った。最近の幼稚園生は色々なことをやってるんだなぁ……僕らは、昔、どんなことをして遊んでたっけか。

「あとはおれ、サッカーが得意だぞ」

「え、ほんと?」

「うん。見てて」

 潤君は寝室から小さいゴムボールを取りだしてきて、部屋の中で跳ねさせてみる。危ない、と思いながらも、本人がいたってやる気なので、僕は口をとうとうはさめなかった。

 潤君はボールを軽く空中に浮かせ、つま先でちょんちょん、と蹴り、リフティングをしてみせる。

「すごい!」

「よっ、」

 一回、二回、三回、四回、五……といったところで、ボールが落ちてしまった。

「ちぇっ」

「すごいなー、潤君」

 僕は、運動なんか大の苦手で、リフティングなんか人生で一生できるものではないと思ってたけれど……。

 さすが恭介の息子だ。運動神経は抜群なんだろう。

「将来は、サッカー選手?」

「ん〜」

 潤君は、腕を組んで考えてみせる。

「よくわからん」

 鈴そっくりの言い方だった。

「でもおれは、家を造っているほうがずっと好きだ」

「へぇぇ」

「こうやって、な。これくらいの家を、みんなで造るんだ。出来上がったときは、みんなで押し合って、入る」

 潤君は手で、これくらい、という大きさを示してみせる。

 なるほど、ちっちゃかった。子ども三人がようやく入れるくらいだ。

「みんなで順番に入るんだが、おれはもっと別のを作っていたい。でも先生がだめっていうんだ」

「とんかちとか、釘が危ないんだよ。怪我したら大変だよ」

「大変だ」

 潤君は訳知り顔でうなずいている。

「おれは大人になったら、大工さんになりたい」

「ははは」

 僕は、そういえば、と自分の子どものころのことを思い出した。

 あのころの男の子は、みんな将来の夢が、大工さん、だったような気がする。とにかく物を作るという楽しさに目覚める時期だったのだ。それを努力して作って、完成したものをまじまじと見る瞬間が、途方もなく輝かしい時間だったのを、僕は、頭の片隅に、霧にまみれた原風景で、覚えている。

「僕も小さいころは大工さんになりたかったっけなぁ」

「お兄ちゃんも?」

「うん。大工さん、かっこいいもんね。あとは、なんだろうな。先生と結婚するとかかな」

「ははは」

 潤君はおかしそうに笑った。

「兄ちゃん、ださくない」

「ださくないよ。本気だったんだよ」

「でもそんなこと言い出すやつなんていないよ」

「言い出すやつはいなくっても、心の奥ではみんなちょっとは思っているもんなんだよ。潤君はそう思わない」

「思わないよ」

 ははは、とボールを転がしつつ、潤君は笑っている。むぅ……僕ばっかり恥ずかしくなってしまったぞ。どうしよう。と思いつつ、僕は時計を眺めた。

 潤君がプールに行くのは十時からだと言っていた。そのときに、友だちのお父さんとお母さんが、子どもたちを連れて、こちらに迎えに来てくれるのだという。

「でも、ちょっとは思うでしょ?」

 僕はちょっと必死である。

「思わねーって。馬鹿にされるよ」

「あぁ」

 そういえば、と、僕はふと寂しい気持ちになる。

 あのころは、すぐ誰かに馬鹿にされるとか、馬鹿にするとかで、ものすっごく気を遣ってたっけなぁ。女子と仲良くするやつは、「結婚式はいつですか?」とかで、すぐ馬鹿にされたっけ。子どもって、あまり考えることがないから、すぐそういうことに気を引かれがちになる。狭い社会の中で生きているから、そういうことにはとてもデリケートなのだ。

 恥ずかしいお兄さんの汚名は返上できまい、と、僕は項垂れたのだった。

 そのとき、アパートのベルがリンリンとならされた。

「いぇーい!」

 と、玄関の先で子どもたちのはしゃぐ声がする。ベルはけたたましく鳴り続ける。いたずらされているようだ。

 それからすぐ、大人の、こらっ、馬鹿! と叱る声が聞こえてくる。僕は苦笑して、立ち上がって、潤君と一緒に出迎えに行った。

 ドアを開けると、子どもがぞろぞろいた。

「わぁー!」

 子どもたちは大はしゃぎである。

「あっ、すみません。棗君のお父さんでいらっしゃいますか。わたし、いつもお世話になっている河野雅史の父です。今日はよろしくお願いします」

 僕よりだいぶ年上な、壮齢の男の人に深々と頭を下げられる。僕はびっくりして、手を振り、やっぱり僕も、深く頭を下げた。

「いえ、あの。僕は、棗潤君のお父さんの、友人なんですけども……」

「ありゃ、そうなんですか?」

「いえ、あの。えっと……こちらこそよろしくお願い致します。棗君のお父さんからは、そう伺っております」

 なぜかよくわからない、馬鹿丁寧な口調になってしまう。僕はどぎまぎしていた。

 他人の家の子どもを扱うということと、変に事情が入り組んでいることで、妙に緊張してしまう。いらない緊張だ。それから、僕は、自分の愛する娘の顔を思い浮かべる。

 あいつも、もうちょっと成長したら、こんな子どもたちのようになるのかな……。

「そうでしたか。棗さんはお仕事ですかな?」

「はい。今は会社で……」

「わかりました。あとでお電話しときましょう。大丈夫、任せてください。今日はきっちり安全に、思いっきり遊ばせますから」

「おい、じゅん。はやく行こうぜ」

 体の小さい、すばしっこそうな男の子が、潤君の手を引っ張って、下に停めてあるワゴン車のほうに駆けていく。それから女の子たちが、わーっ、と続く。遅れて残りの男の子たちも続く。

 それでは、すいません、とその男の人は頭を下げて、後を追っていってしまった。

 僕も、なんだか、よくわからないまま、すみません、と謝って、その行く先を目で追った。

 賑やかな声が華やぐように、夏の日の午前中の、涼しく、白やんだ空気の中を、温かく染めた。

 僕は階段の中ほどまで降りていき、ワゴン車が出発するのを、手を振って、見送った。

 ……なんだか寂しい、と思った。

 夏の日は静かになる。ワゴン車が去っていってしまってから、僕はとうとつに静けさに包まれた。

 徐々にぎらつき、青みが増していく空は美しく、もわりとする風に揺らぐ、道草の緑は、目に優しい。

 じ〜、じ〜、み〜ん、み〜ん、とセミが鳴っている。

 アパートの近くの通りを、トラックが、蜃気楼のにわかに起きる中、それほど大きくもない音を立てて、過ぎ去っていく。

 恭介、はやく帰ってこないだろうか。

 鈴にも、会いたいな。

 僕はそう思いながら、自分の愛娘のことを思い出しつつ、かん、かん、と階段を上っていく。

 

 恭介はそれから間もなく、帰ってきた。仕事着を脱いで、あの高校のころと似たような、ポロシャツ一枚の動きやすそうな格好になって、あのころと同じ、街の喧噪の中に、僕を連れて行く。

 笑いながら。

「あんま、こっちのほうへは来ないだろ」

「いや、来るよ」

 ちょっとは賑やかになる、駅前の本通りのほうへやって来る。ちなみに、恭介の家から意外と近く、歩いて五分程度しかかからなかった。

「職場がこっちだもん」

「なに、あっちの工場じゃないのか」

「工場はあっちに一つ持ってるけれど、僕が務めているのは工場じゃないから。それは別の部門の人」

「へーえ」

 恭介はちょっと妙なくらい、感心している。僕らはレンガ造りの本通りを歩いた。

 ちょっとオシャレな、ブティック街が左手に目に付く。

「このへんで来ヶ谷さんに会ったんだよ」

「ああ」

 僕は、昨日、あのとき、出会い頭に来ヶ谷さんに手錠をかけられたところを指差す。

 とんでもない事件だった。

「あいつは車に乗ってパトロールとかしてるからな。色んなところにいる」

「恭介も会ったことある? 仕事中に」

「実はない」

「ええっ」

「おれも仕事は忙しいんだよ。あいつの警官姿は一回くらいしか見たことがない」

 恭介は暑そうに額の汗をぬぐう。恭介は二十八になってもまだいい男だ。建設会社に勤めているのが勿体ないくらいに。濡れた髪が艶やかだ。

「似合ってた?」

「なんつーか、意外だな、って思った」

「そうだよね」

「なんつーか……もっとこう、来ヶ谷は、ばりばりの法学部とかに進んで、スーツ着て弁護士や検察官などになっていると思っていた」

「だよねぇ」

「異議あり! とか言ってな。こう」

 ずばぁーんっ、と恭介はかっこよく指を差してみせる。……指差している方を見ると、十代くらいの女の子がいた。その子は恭介のかっこよさと、指差されていることに驚きながら、顔を赤くし、でも、やっぱり変だと思ったのか、妙にぎこちなくしながらその場を去っていく。

「……恭介。漫画じゃないんだから」

「なに。そうは言わないのか?」

 恭介は驚きである。

「言わないんじゃないかなぁ……」

 僕のイメージだと、裁判というものは、もっと静かなものだったような気がする。あんな、白熱したバトルは起こらなかったような。

「なんだ。つまんねぇな」

「裁判に面白さは要らないから……」

「来ヶ谷だったら、スーツがとにかく似合うと思ったんだがな」

「うん。まぁ、それは僕も同感」

 一流企業で働いているイメージがあった。ただ、警察官が似合わないというわけではない。

 僕らはそれから駅前のほうに向かって歩いていく。さすがに、このあたりになってくると、人通りも多い。駅の近くだからだ。都会のほうでもよく目にするチェーン店などが並ぶ、アーケード街も見える。

 僕らは駅前の、ロータリーの前に立った。

「ここで鈴と待ち合わせてるんだ」

「鈴は東京の武蔵野に住んでるんだよね。行ったことある?」

「ねーよ。そんなに暇じゃねぇって言ったろ」

「今日は特別?」

「特別な日はこれから、増えていくだろう」

 恭介は、じりじりと照りつける赤い太陽から逃れるように、近くのパン屋の廂の影に入った。

「だが、パパ嫌い、って言われねぇように、それだけに気をつけねぇとな」

「偉いんだねぇ、恭介は」

「偉くねーよ。最低限のことやってるだけだよ」

 恭介は暑そうに襟をぱたぱたさせながら、中に入っちまおうぜ、と指で差して、パン屋の自動ドアをくぐる。

「はぁ……、生き返るな」

「涼しいねぇ」

「歳取ってくると、だんだん暑いのにもこたえるぜ」

「弱気な発言だぜ」

「今のは撤回するぜ……」

 恭介は適当にパンを物色しつつ、そんなことを言う。僕は笑った。

「おれはまだまだ、ファイヤーパパで、やる気まんまんの、パワフルパパだ」

 意味わからない。

「暑苦しいねぇ」

「おまえも頑張れよ」

 恭介は微笑んで、僕の肩を軽く叩いて言う。

「これからパパになってくんだろ」

「もう一応パパだよ」

「いや。長ぇのはここからだ。子どもっていうのはとにかく母親のほうに依存しがちだからな。これからどれだけ存在感を保っていけるか……熾烈な闘いだぜ」

「それ、単身赴任の男に言うことじゃないでしょ……」

「だから頑張れと言ってるんだよ」

 恭介はからからと笑った。僕も、つられて「もう」と苦笑しそうになったけど、そこで、ふと、潤君のことを思い出して、笑みが止まった。

 母親のほうに依存したがる、か……。

 潤君。

 今、彼は、どうしてあんなに明るいんだろう。

 恭介は今、どういう気持ちなんだろう。

 叉夜さん。

 あなたは潤君の目に、どう映っていたのか。

 潤君が三歳になるまで、生きていたはずだ。

 ちょうど僕の娘と同じくらいだ。

 そこで母親を失った子どもって、それからどういうふうに育っていくんだろう……。

「おい、なんか食おうぜ。腹減ってしょうがない」

「もう」

 もっとも、その当人の父親がこの調子じゃ、叉夜さんもあの世で苦笑いしているに違いない。

 恭介だって悲しくないわけじゃないのだ。

 でも、楽しく振る舞おうとしているわけでもない。それもまた違う。

 叉夜さんが死んでから、恭介はずっと変わった。気だるげで、なんにも諦めたようでいて、いつも奥ゆかしく、落ち着きのある男となった。

 高校生のころ常時発動していた、あの無邪気な爆発男っぷりは、今は、だいぶ鳴りをひそめた。

「カレーパンだな。そんな気分だ、おれは」

「こんな暑い日なのにカレーパンなの」

 恭介はトレイとトングを持ち出して、カレーパンを一つ、ちょいっ、と取る。僕はその隣で馬鹿な男を見る気分だった。

「理樹」

 そうすると、恭介がわりと真剣そうな顔で振り返る。

「空気の流れに遅れるな。いいか、今おれが、『カレーパンを食いたい』って思ったら、それはすなわち、カレーパンを食え、っていう合図なんだよ。運命の女神の」

「そんなこと真剣に説教されても」

「おまえは、おれの言うことを信用していないな? だが、どっちにしろいい。構わねぇ。おれはカレーパンを食え、という運命の女神の言うことに従うぜ」

「どうでもいいよ……」

「理樹、なんか一つおごってやる。好きなの取っていいぜ」

「じゃあ、あんパン取って」

「ほいよ」

 恭介は簡単に焼き上がったあんパンを一つ取ってくれる。それから自分も悩んで、その隣のクリームパンを取った。

「カレーパンと、クリームパンって、すごい取り合わせじゃない?」

 なんか、口の中がどろどろととろとろでぐちゃぐちゃになりそうだ。

「いいんだよ。おれは、このクリームパンを一目見て、『食いてぇ』って思ったんだから、素直に食うんだよ」

「もうわかったよ……」

 恭介の無茶理論に付き合わされるのがいやで、僕はそっぽを向いた。

 すると、外に、鈴がもうやってきて、外のロータリーの柵にお尻を乗せて、暑そうに目を細めているのが見えた。

 僕がしばらく声も出せないで固まっていると、鈴も同じように暑がったのか、こっちのパン屋のほうに近づいてくる。だんだんと。

 僕が恭介のシャツを引っ張って気づかせようと試み、どこにも逃げ場がないと悟ったそのとき(なんでか知らないけど逃げなきゃやばいと思った)、鈴は自動ドアをがーっ、とくぐって、パン屋に入ってきた。

 ふー、と疲れたような溜息をつくのと、恭介がパンをレジに運んでいくのは、同時だった。

 僕と鈴は見つめ合ったまま、固まった。

 

「くそ兄貴」

「いいだろ。べつに」

 恭介は餃子屋の座敷に上がって、クリームパンを差し出した。

 ちょっと悪いと思っていたようだ。

「暑かったんだから。涼しいところに避難しようと思うのは、人間として自然な反応だろ」

「これくらいで懐柔されると思ったら大間違いだぞ」

 鈴はそう言って、クリームパンを奪い取って囓る。餃子屋でクリームパンって、すごい光景だな……。

「おまえも途中でこっちに来ただろ」

「それはおまえらの顔が見えたからじゃ」

「嘘つけ」

「あたしを嘘つき呼ばわりするのか」

「まぁまぁ」

 僕が二人の喧嘩を止めようとすると、鈴とふと目が合い、なんだかおかしくて、二人して、あはははっ、と笑い出してしまった。

 なんだか懐かしいやり取り、と思ったのだ。

「こういうの、久し振りだな」

「うん。何年ぶりだろうねぇ」

 僕らは、確かに、誰かの結婚式や、飲み会で、数度顔を合わせたことはあるけれど、こうして、僕、恭介、鈴の三人で、ゆっくり席を囲む機会なんていうのはほとんどなかったのだ。

 それこそ、何年ぶり、という言葉が、そっくりそのまま頷けるみたいに。

「高校卒業してから、だから……十年ぶりか?」

「嘘言えよ。一度同窓会で集まっただろ」

「あんときは真人やはるかがうるさくて、こうじゃなかった」

 鈴は迷惑そうに顔をしかめる。でも、あのときはあのときで、鈴も楽しそうだった。

「確かにこの三人で集まるってのはめずらしいかもなぁ」

「謙吾はどうしてる?」

 僕が鈴に尋ねると、鈴はちょっと考え込むようにした。

 僕や恭介という妻帯者より、独り身だった鈴のほうがはるかに暇があったので(どっちにしろこれから忙しくなるだろうが)、しょっちゅうリトルバスターズのメンバーと会っていたのだ。

「あいつ、まだあの街に住んでるぞ」

「うん。それは知ってるけど」

 恭介は水を飲む。そしてカレーパンを食べる。店員が変な目で見ているのには、気づいてるんだろうか……。

「剣道、まだやってた」

「大会にも出てるんでしょ?」

「なに。理樹、知ってたのか?」

 鈴が目を丸くする。

「それくらい知ってるよ」

 僕は笑う。そのとき、店員さんが注文を取りに来た。恭介がメニューをちらりと見て、餃子三つ、あとウーロン茶、おまえらは? と目で聞いてきたので、僕は恭介と同じウーロン茶、鈴はオレンジジュースを頼んだ。

 酒は飲めないと思ったのだ。

「オレンジジュースっておまえなぁ」

 鈴は二十八歳である。ギャップがすごい。

「だまれ。くそ兄貴」

「くそ兄貴に発展してるな、最近」

「前は馬鹿兄貴で統一されてたのにねぇ」

「どうでもいいだろ」

 鈴は長い髪を翻して、窓の外を見つめる。なんとなく行儀が悪い。

鈴のアクセサリーはまだつけているらしく、ちりん、と、澄んだ音を立てた。

 鈴の髪はほどかれている。もうポニーテールにはしていない。大人っぽく、すべて下ろしている。

「謙吾は、」

 と、鈴は窓の外を見ながら続ける。

「剣道の選手にはならないと言っていた」

 ぽつり、とそんなことを呟く。

 けれど、驚くべきことではなくて。

 恭介も僕も、わりかし、素直に納得できたのだった。

「あんまり試合には熱心じゃない、って雑誌に書いてあったな」

「うん」

 僕はうなずく。

 鈴はまだ外の風景を見ながら、溜息をついた。頬杖をついて。

「雑誌のやつらはおかしい」

 そして、謙吾のことを擁護するのだった。

「一回有名になると、わーっ、って寄ってたかって、まるで本人の意思なんか知らない。それで、本人に有名になる気がないとわかると、なんだこいつ、おれたちが来てやってるのに生意気な、って、馬鹿にするんだ」

「ははは」

「謙吾はもう疲れてるんじゃ」

 鈴は、雑誌の記者たちに怒っているようである。

 確かに、僕らの歳ぐらいになってくると、有名、無名の差というのは、記者たちが取り上げるか、取り上げないかの差でしかないことがわかる。すべてそう、とは言わないけれど、記者という職業には、他人を有名にする力がある。

 有名な「馬鹿者」という烙印を押す力も。

「謙吾に剣道を続ける気はもうないのか?」

「いや、あると思う」

 恭介の質問に、鈴は水を飲みながら答えた。

「でも、それで金を稼ぐ気はないみたいだ。先生やってる。あたしらの地元で」

「ふーん」

 僕らも、前に、謙吾が僕らの地元の中学校の先生になったという話は聞いていた。それも、体育科ではなくて、社会科だ。

 どうしても、僕らの地元を離れたくなかったらしい。そしてそのために、謙吾は地位も名誉も、すべて投げ捨てた。

 それは僕らにはとうてい真似することのできない、英断だった。

「剣道はちょびちょびやってるらしいけど、あくまでちょびちょびだ。謙吾は誰よりも強いけど、誰よりも剣道に淡泊だ。あたしは、それがちょうどいいと思う」

 確かに、健全なやり方だろう。なんとなく謙吾らしい。

「あいつも幸せそうだな」

 恭介がどこか遠いところを見つめるような声で、つぶやく。

 僕も頷いた。

 鈴はお腹が減っているようだった。まだかなー、と靴の先をつんつんやる。僕の靴に当たっている。お行儀が悪い。

「おまえ、謙吾に一人で会いに行ったのか?」

「んーん」

 鈴はテーブルの上で手を組んで、ちょっと色っぽくするように、好きな人を思い出すように、くすりと自慢げに口を緩めた。

「よしろーと」

「へぇ」

 よしろーくんは、鈴の旦那さんである。でも、謙吾や僕らとももちろん仲がよくて、鈴とセットでよく会ったりする。たいていは居酒屋だけど。でも、僕らリトルバスターズのノリにも負けないぐらい、個性的で、一緒に遊んだとしたらとっても楽しそうな人だった。

「謙吾は同じ職場の女の人に恋をしているらしい」

「なにぃ」

 鈴の左手の、銀色の指輪が光る。

「そうだ。そんなことを、あいつはよしろーと話し合っていた」

「鈴はそれを聞いてたの?」

「んーん」

 と、言ったところで、餃子が運ばれてくる。餃子三つ、と、ウーロン茶二杯、オレンジジュース。鈴が思い出したように、ご飯を一つ、あたしにください、と店員さんに言った。店員さんは伝票にメモして、去っていく。

「おまえ、一人でご飯なんか頼むなよ」

 恭介は鈴が頼んでいるのを見て、ちょっとうらやましくなったようである。

「あたしのはやらんぞ」

「ちっ……」

 恭介はメニューを睨む。値段と相談して、あとで店員さんが来たときに頼むようである。

「それでその続きだけど、」

 鈴が餃子の先っちょをもぐもぐとしながら、話を続ける。

「あたしはつまらないから、謙吾の家で飼ってる猫と遊んでた」

「う〜ん」

「やってることは十年経っても変わらねぇな」

「うっさいな」

 ジューシーな挽き肉を口に入れて、鈴が「……う〜」とうっとり目を細める。僕も恭介も、それで、まったく毒気を抜かれてしまった。十年経っても鈴は元の鈴で、子どもっぽく、可愛かった。

「で、そのよしちゃんとはうまくやってるのか」

「む」

 鈴は口をもぐもぐと動かしながら、目を尖らせる。

「よしちゃんって言うな、ぼけ」

 恭介は昨今の、「よしちゃん事件」のことを言っているのである。

 あれから、鈴がいったいどういうふうに義郎君のことを影で呼んでいるのか、一向に話題にされない。不明確である。

 ただ、恭介はからかうためにそう呼ぶ。

「別にいいだろ。ふん。ったく、おまえは二十八にもなって……」

「だまれ……そして腐れ」

「潤と悪口のレベルが一緒ってどういうことだ」

「あははは……」

「あいつのことは、ちゃんとよしろーと呼べっ!」

 鈴の顔が赤くなる。

 僕は笑ってしまった。

「義郎君と、ハネムーンへはどこに行ったの?」

「大阪」

「大阪?」

 僕は固まって、聞き返した。

「こまりちゃんに会いに行った」

「なんだ」

 僕は苦笑した。なんて鈴らしいハネムーンなのか。

 確かに鈴は、海外とか、沖縄だとかいうリゾート地には、似合いそうもなかった。それよりも、なかなか会えない旧友が住んでいる土地がいいのだ。

「おまえ、それハネムーンじゃねぇだろ」

「なんだっていい。ハネムーンがすごいところじゃないと、死ぬという法律があるのか?」

「いよいよガキの悪口だ……」

「うっさい。死ね」

 鈴は恭介の分の餃子までもつまみ出す。それにオレンジジュースを飲む。やっていることが子どもだった。

「小毬さんは元気だった?」

「変わってなかった」

 鈴は平然と言う。

まぁ……僕も、住んでいるところが近かったから、わりと会ったりしてたんだけど。

「子どもを育てるのは、旦那の力が大きいから気ぃつけよ〜、と言っていた」

「あはは」

 小毬さんの言いそうなことだ。

 小毬さんは僕らの間で、もっとも早く結婚していた。たしか、もう潤君ぐらいのお子さんがいたような気がする。

「待て」

 と、そこで驚いたように声を上げたのが恭介。

「鈴。小毬は、大阪に住んでいるんだよな」

「そうだけど」

 鈴が腕を組んで応対する。

「なにか問題か?」

「あいつの大阪弁、おれ、一回も聞いたことないぞ……」

「あー」

 たいてい、リトルバスターズみんなで会うときは、関東になるから、小毬さんがこっちに来るときには、多くの場合大阪弁が抜けちゃうのだ。向こうでも、僕と話すときは、よく昔の言葉の語調にちょっと戻ったりする。あちらの地元の人と話すときぐらいにしか本物の大阪弁が聞けなかった。

「あたしもそれまで一度も聞いたことなかったから、びっくりした」

「どうなんだ……実際のところ」

 なぜか恭介は興味津々だ。

「うーん」

 鈴は適当な言葉を探すように頭をひねったが、

「……可愛かった」

 意味深い言葉を残すのだった。……まぁ、僕はどんなものか知っているわけだけど。

 小毬さんの大阪弁は、やたらと語尾が伸びていて、ほんわかした気分になるものだった。一緒にいるととても大らかな人になれそうだった。

「うぉぉ……すげぇ聞きてぇ」

「ええー!」

「なんか、今、おれの頭の中で想像の火花がばちばちっ! となったぞ」

「おまえみたいな気持ち悪いやつに、こまりちゃんを会わせるか」

「なんだと。貴様、おれは貴様の兄貴だぞ。おまえについていって、小毬に会いに行ったら、そこで自然に会えちゃうんだぞ」

 ……恭介の言っていることはわけがわからなかった。

「普通に会いにいけばいいじゃん……」

「まあ、こまりちゃんが会ってくれるかわからんがな」

「え、なんでだよ……」

 鈴のさらなる意味不明なつっこみに、恭介は唖然としていた……。

そこに鈴の頼んだご飯が運ばれてくる。恭介が引き止めて、さらに二つ(僕の分も)ご飯を注文すると、店員さんは若干面倒くさそうにしながら、それを受理して去っていった。

「潤を連れて行くよ」

「それでもおまえは抜きだ」

「なんでだよ!」

「あははは……」

 恭介はまるで、あの高校生時代に戻ったかのように、元気に怒る。鈴とのやり取りを見ていると、まるでこれまでの十年間が無かったかのように、錯覚することがある。

 でも、そんなことはなくて。

 僕らの間には、きっちりと、「十年」という長い月日が在ったのだった。

 その間には色んなことがあった。

「ねーちゃんに会っていってもいいか」

 ねーちゃんとは、叉夜さんのことだ。

「おう。いいぜ。これ食い終わったら行くか」

「うん」

 鈴はすこしだけ寂しげで、気だるげな表情をする。

 僕は鈴と叉夜さんの繋がりを、僕と叉夜さんのつながり以上に、深くは知らない。ただ、数年前に催された飲み会などで、一緒に、ちょっと親しげに、話しているところを見かけたぐらいだった。

 あれ、そういえば――。

 僕って、ほんと、叉夜さんとの繋がりって、みんなに比べて薄いのだ……。

 驚くべきくらいに。

「なにか話しておきたいことでもあるのか」

「うん。ある」

 鈴は腕を組んで、すこしの間目を閉じた。

 お店の、もうもうとした煙と、居酒屋のような、酸の効いた香りのいい風に、密かに混じる、線香の気配。

 それは叉夜さんの気配だった。

 鈴は目を開ける。

「いろいろ話す」

「そっか」

「……」

 僕は、僕自身を顧みてみて、自分には、鈴と比べて、叉夜さんに言いたいことなんて、なに一つ無かったことに、驚いた。

 伝えたいことがなにもない。

 それは驚くべきことだった。

「西園には会ってるか?」

 そこで恭介が、唐突に、西園さんの話題に転じる。

 僕は居たたまれない気持ちがほどけて、とてもほっとした。こっそり溜息をつく。

 鈴は首を縦に振って、その長い髪を邪魔そうにどけて、肘をテーブルの上に載せた。

「みおとは一番会ってるぞ」

「住んでる場所が近いんだったな」

「こっちは東京でも田舎のほうだけど、向こうは都心だ」

「本郷……だったよねぇ」

 僕は地名でしか知らなかったけど、本郷といえば、明治文学にもよく名前が出てくる、東大のある有名地だ。

 西園さんは、地価が高いわりに、わざわざ古くさいアパートを選んで、明治文学(夏目漱石など)と馴染みの深い、その地を選んだ。そのせいでとっても貧乏生活だと言っている。

「あいつは鈴以外との人付き合いがあるのか、すこし疑問だぞ……」

「実際まったく会わないそうだ」

 西園さんは、あれから大学に進んで、文学を学び、評論家、兼作家になった。

 今でも本屋さんに行けば、一つぐらい「西園美魚」という名前の入った推理小説や評論を見つけることができる。名はそれほどまで高くないけれど、根強いファンがいる作家さんだ。

 かく言う僕も、西園さんが出した本は全部読ませてもらっている。

 でもどちらかというと、僕は、評論や小説よりも、彼女のエッセイのほうが好きだ。

「あたしと会うときだけが、人間としての優しさを取り戻せる唯一の時間だ、と言っている」

「……」

「作家、ってのは、大変な仕事なんだなぁ」

 僕は、そんなことを鈴にやすやすと告げている西園さんの顔が、ありありと想像できた。笑いたいけれど、笑えない……。

 でも、彼女も、それで、きっと幸せなことだろう。誰よりも充実した時間を送っていると思える。

真人と張り合うぐらいファンキーな生き方だ。

 誰かと結婚しても、きっと彼女は、死ぬまでその調子だろう。もっとも、誰かとつき合っている、という話は聞かないけれど……。

「あたしもよく本を読むんだぞ」

 そう言って鈴は、手元のバッグから、一冊の文庫本を取りだした。

『青空に似て』――。西園さんの、一番有名な、どこかの大きな文学賞を取った作品だ。

 この小説はミステリ色もあまり強くなく、どこか悲しい味のする、心が爽やかな気持ちになる、しんみりと美しい小説だ。本屋さんでもランキングなどでよく取り上げられてたのを覚えている。

 そんなとき、僕は、あの一女子高生だった彼女が、そして自分の親しい友だちである彼女が、よくぞこんな有名な地位まで上り詰めたものだ、と、しみじみとして、すこし寂しくなったものだ。

「おまえ、そりゃ、全然読めてねぇだろう」

 鈴の持っている本はボロボロなのだが、しおりはわりと前のページのほうに挟んである。

 鈴がそんな恭介に反論する。

「なにを言うか。一日三ページは読んどるわ」

「ええ……」

 三ページってある意味すごい。鈴は大いばりであった。

「この、しょーせつというやつは、読んでいると、すぐ頭が痛くなってしょうがない。でも、三ページ読むと、『読んだーっ!』って気になるから、不思議だ」

 鈴が本を高々と挙げて、精一杯自慢する。

 恭介は呆れたような顔つきだった。

「我が妹らしいな……」

「どうだ、兄貴。あたしはもう読書家なんだぞ。みおと会うときは、活発に意見交換するほどだぞ」

「……西園さんとは、どんなことを話すの?」

「ん」

 鈴はぱちくりと目を開けて、こちらを見る。

「んー、今までどのあたりまで読んだだとか、このへんの話がいまいち難しくってよくわからんだとか、絵を入れてくれとか、そういうことだ」

「……西園の表情がありありと思い浮かぶな」

「きっと……そうだねぇ」

 僕は、西園さんが、片時も笑みを崩さず、にこにこと笑みを貼りつけたまま、じっと鈴の話を聞いている様が思い浮かばれた。

 言っていることが子どもなのだ。

 でも、鈴はそれで楽しく本を読んでいるだろうし、そんな率直な意見が聞ける西園さんも、きっと心では嬉しいだろうと思うのだ。

「みんな、元気にやっているようだな」

 恭介はコップのウーロン茶を飲み干して、テーブルに置いたときに、そう言って微笑んだ。

 それから僕らは、しばらく似たような、取り留めのない話をして、食事もやがて切れたときに、ふうと溜息をついて、食堂を出たのだった。

「行こうぜ」

 夏のぎらつく陽射しの中に、青々とした、叉夜さんの影が、ひっそりと吸い付くように、僕らの間に入ったような気がした。

 その感覚は、美しくも、儚げで、切ない香りがした。

 

 僕らはそれから、叉夜さんの墓所に行って、そこで一緒にお参りをして、駅で別れた。

 陽射しが気だるく、赤々と、斜めに帯びる中、僕は恭介と一緒に、恭介の家へと帰る。

 潤君はまだ帰ってきていなかった。プールで遊び終わった後も、どこか友だちの家で、遊んでいるのかもしれない。

 恭介が午前中にやって来たお父さんの携帯に直接電話すると、やっぱりその雅史君のおうちで遊んでいるとのことだった。

 恭介とその人は、妙に親しそうに、また、どこか妙に丁寧な壁を作って、電話越しに話すのだった。

「ふー」

 恭介の部屋は、西日が差し込むように、設計されている。

 朝日の場合はそれほど強くないけど、夕方になると、ずいぶん明るい、橙色の陽が差す。

 電気をつけないでいると、一種の、神々しい場所のように見える。

「疲れたな」

「うん」

 恭介は床に座って、僕はソファーに座る。

 それからふと目があって、くすくすと笑い合った。

「妙だな」

「え」

「あんなに鈴と、他のリトルバスターズのことを話したのに、今おれたちは、ここにこうしている。それが……うまく言えないんだが……おそらくもっと行方が気になっただろう、おまえが、こうやって普通におれの近くにいることが、なんだか、不思議に思えたんだ」

「ああ」

 恭介の言っていることは、よくわかる。僕も今、自分自身のことを振り返ってみて、同じ気持ちに捕らわれるのだ。

 僕も、恭介に一番会いたかったのだ。一番行方の気になる人が、恭介だったのだ。

 今も昔も、そう。

 僕の、常に一番近くにいる人が、恭介だった。

 それはとても不思議なことなのだ。

 妙な一体感というか……一番行方が気になる人なのに、こうやって一緒にいる。だからまるで、自分と一体化しているように思える。それは、その人のことがよく知りたいということも、忘れてしまえるような……。

「奥さんとはうまくやっているのか」

「うまくといえば、そうだよ」

「そうか」

 恭介は軽く微笑む。それから膝を立てて、僕とは別のほうを見て、遠い眼差しとなる。

 僕のほうも恭介に尋ねてみたかった。

「恭介は、」

 だが、すこしだけ言うのが憚られた。

 どう言おうか……迷っていたのだ。

「叉夜さんと……一緒で……幸せだった?」

 恭介がこっちを見る。僕はどう反応するか、と、じっと構えて、待っている。

 恭介は一旦無表情になって、それから、また、儚げな微笑みを作る。

「変なことを聞くんだな。今さらじゃないか」

「ごめん」

「謝るなよ。そうか……ずっと聞けなかったんだな。おまえも、」

 恭介はそう言うと、体を後ろに反らして、奥の寝室の、仏壇のほうに目をやった。

「幸せだ、という言葉じゃぁ、表現しきれねぇだろう」

 僕もそちらの仏壇のほうを見て、あまり知らぬ、美しい、叉夜さんの顔を思い浮かべてみて、恭介の言葉を反芻する。

「おれは叉夜に言ったんだ。死ぬ直前に」

「え?」

 唐突に恭介が、禁忌のことを話し出した。

「おれのことを嫌いだと言ってくれ。おまえなんかずっと大嫌いで、これでせいせいしてる、って……」

 僕は言葉をはさめなかった。

「そうしたらあいつ、笑いやがった。全部、おれの気持ちも、見透かした上で、こう言ったんだ」

 叉夜さんが恭介の口を使って、代弁するようだった。

「『ごめんなさい』って」

 じりじり……と、夕陽が赤くなり、線香が滲んだ。

「以来、おれは、あいつのことを忘れられねぇでいる」

「……」

 それから恭介は、体を反らすのを止めて、こっちに振り返り、伏し目がちになる。

「じゃなきゃ、今ここでおれを殺してくれ、って言おうとしたんだ……。叉夜が死ぬ前に、叉夜の手で死ねるなら……おれはそれでよかった。でもあいつは、」

 恭介は、その言葉の先を、結局、なにも言わなかった。

 西日がじんわりと、恭介の茶色い髪の先を赤く染め上げ、部屋も染め、どこかに叉夜さんの影が在るような、そんな気がする神聖な風景だったけれど、唐突に潤君が帰ってきて、慌ただしく玄関を開けたことで、そんな空間も、元気な喧噪となって、彼方に流れ去ってしまった。

 潤君は性格が恭介似のようだ。僕が感じた、叉夜さんの奇怪じみた、冷徹な美しさは、いっぺんも見受けられない。そして、母が死んだことに対する寂しさや、歪みも、まったく、覚束ない。

 とっても楽しかった、と言っていた。

 それはきっと恭介の教育の賜物だろう。潤君はすくすく育っている。

 そうして僕は、帰った。

 若干名残惜しかったけれど、今日だけはもう、叉夜さんの前にいられない気がしたし、潤君と恭介の貴重な休日を、もう、邪魔したくなかったのだ。

 

 第5話

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