第3話
「どんだけ飲むんだよ」
「うるさい」
かっ、と、来ヶ谷さんは赤い顔、すわった眼差しで、コップをテーブルに叩きつけた。
潤君はびっくりしている。僕の後ろに隠れに来る。僕は背中で隠す。
「明日仕事だろ? 大丈夫かよ」
「私は酒に強いんだ」
「どこがだよ」
恭介は半ば閉口だった。僕も正直閉口していた。いや……っていうか、びっくりしていた。
来ヶ谷さん、酒、弱いんだったっけ……。
実はまだビール三杯目である。僕と恭介は昨日も飲んだから、一杯程度でちびちびやっているけど。
「大体だなぁ〜」
来ヶ谷さんは間延びしきった語調で、恭介に絡む。恭介はちょっと引いていた。
「恭介氏は、なめてるのかぁ〜」
「なにがだよ……」
もうあまり相手にしないことに決めたようである。恭介はするめいかをつまむ。潤君はこの怖いお姉さんにはもう興味をなくしたようで、僕の背中で児童本を読んでいる。
「恭介氏は未亡人だろぉ」
「そうだよ」
「ひき君は単身赴任じゃないかー」
「ひき君って誰だよ」
「きっと僕のことだよ……」
僕が注釈を入れると、恭介が納得する前に、来ヶ谷さんが「そう!」とわりと大きい声で言う。さすがに怖くなったのか、潤君が寝室のほうに行く。
「えらいえらい」
僕は頭を撫でられる。ええーっと……完全に酔ってますね。来ヶ谷さん。
酔っぱらいだよ!
「そんな男どもの巣窟に、どうしてわたしが来てるんだぁ〜」
「勝手に来たんだろ」
恭介は来ヶ谷さんとはもう腐れ縁のようらしく、若干僕より冷たい。
「……わたし、なにかされるかもしれないじゃないか」
「なんだよ」
「えっちなこと」
「しねーよ」
「……」
来ヶ谷さん、本当は、こんなこと思ってたんだねぇ……思考がすべて暴露されていく……。若干、聞いてもいいのだろうか、と心配になってくる。
「どうして。わたし、ぴちぴちの二十台だろう〜」
「二十七だろ」
「女の歳をばらすなー!」
よろよろと猫みたいなチョップが下される。恭介は黙ってそれを受けていた。そして視線で僕に語ってくる。
……どうしたらいい、と。
どうしようもないよ。
そう目線で返すと、それと同時に、来ヶ谷さんは陽気に笑い出す。
「あはははははは」
……可愛いなぁ、来ヶ谷さんは。まるで猫みたいだ。この時だけは。
「普通、そう考えるだろ〜」
「おまえが自意識過剰なだけなんだよ」
「うーん……」
確かに、考えてみれば、来ヶ谷さんはとても美人で、眉目秀麗な、モデルみたいな人である。とても二十七には見えない。五歳くらいは若く、美しく見える。
今いる場所が、確かに恭介の家で、妻から離れている男どもに囲まれている状況なのだから、危ないと言えば危ないのである。ただ、僕も恭介も、そんなことはこれっぽっちも考えてなかったわけだ。
昔の友だちに冗談でもそんなことするはずない。そもそも僕は、妻しか見ていない。
でも、恭介は?
と、僕の思考は、そこで一瞬止まってしまったのだった。
「そうか」
と、にへら、と可愛く、そして色っぽく笑う来ヶ谷さん。
「きっと君の言うことが正しい!」
「……」
来ヶ谷さんは自分を自意識過剰だと認めたようである。
恭介は黙ってビールを飲んでいた。
「料理は上手いけどな」
さり気なく料理の腕を褒める恭介。
ふぅん……こんなに二人は家が近いんだから、来ヶ谷さんにご飯を作りに来てもらったりとか、するのかな……。
よからぬ想像をする僕……。
「そうだろー」
えへん、と左腕に手をかけて笑う来ヶ谷さん。……可愛かった。
「お嫁に行くために鍛えてるからなー」
暴露される来ヶ谷さんの乙女事情。……聞いてよかったのだろうか。あとで金とか取られないのかな……
でも、そうか。
来ヶ谷さん……さっきあんなに食材買い込んでたのって、つまり……。
「おまえなんかでも、嫁にもらうこととか考えてるんだな」
「むぅ」
ふくれる来ヶ谷さん。
「恭介氏のくせに生意気だぞぉーう」
「……」
来ヶ谷さんが、てい、てい、と恭介の肩にパンチしている。
首をゆっくり振り、対応に困っている恭介。
僕は苦笑いだった。
「わたしだってちょっとは望んでもいいだろー。もらってくれー、恭介くん」
「いやだ」
「恭ちゃん」
「ざけんな」
「理樹くん」
「はいはい?」
一瞬思考が飛んでいた。僕は頭を切り換え、来ヶ谷さんのほうに顔を向ける。
「あたしをお嫁にもらってくれー」
「ええっ! だめだよ!」
「ぐわー」
やられたー、と、まるでアクション映画に出てくる怪人のように、仰け反って壁にもたれ掛かる来ヶ谷さん。
うわぁ……本当に酔っぱらいだぁ……。
「わたしと不倫はしてくれないのかぁ……」
「ごめんね来ヶ谷さん。僕は、奥さん一筋だから」
「うん。いい。いいよ理樹君」
とろん、と、色っぽく、すわった眼差しで、来ヶ谷さんは僕をじっと見つめる
「しょーがないんじゃぁ……」
「ついに、じゃ、と語尾につけだしたぞ」
「わたしは何だってつけられるのだー。天才だからなー。わっはっはっはっは!」
「……面白いなぁ」
恭介もちょっと酔ってきたようで、そんな来ヶ谷さんの醜態を、面白そうに眺めていた。
「なんだー、恭介しー、気が合うなー」
「おう。はっはっは」
恭介も赤い顔で明るく笑う。
「結婚しちゃおうかー」
「しねーよ」
「ばかやろー!」
それから来ヶ谷さんは、恭介の薬指から地味な結婚指輪を奪い取り、自分の指につけようとする。
「うぅむ……」
だが、酔っているからか、手元が曖昧で、なかなかつけられない。
しまいには、それを持って、ぎゅっと握って隠してしまった。
「おいおい。それ、返せよ」
「やだー」
「ちっ。理樹、こんな馬鹿ほっといてこっちで話してようぜ」
「う、うん……」
「だれが馬鹿だー。あたしは二十七だー」
酔っぱらいだ。酔っぱらいだ……。
黒いワンピースのような服を、びろ〜んと着て、来ヶ谷さんは壁に寄りかかって、すやすやと眠りだしてしまう。
うわぁ、こんな無防備な来ヶ谷さん、初めて見た……。
いつもは酒に酔っても、必ず冷静なところを保って、こんな醜態は見せることなんかないのに……今日は、なにかあったんだろうか。警察官としてあるまじき姿だと思うのだが、どうか。
「寝ちまったなぁ」
「あ、あははは……」
「ったく、こいつ、こうなると絶対起きたとき、なにも覚えてないぞ」
「それでいいんじゃないかなぁ……」
僕は、さっきの、結婚してぇ〜、という言葉は、うやむやになったほうが、いいと思ったのだ……。
ぶろろろろろー……と、アパートの近くをバイクが通り過ぎていく。その音はだんだん遠ざかっていく。時計を見ると、九時過ぎだった。
まだちょっと解散するには早いかなぁ……でも、潤君は一人で寝る準備をしているみたいだった。パジャマに着替えている。
悪いかな。
僕は悩んだが……なんとなく、だらだらと、その酒席を続行してしまった。
「来ヶ谷さん、そういえば、まだ結婚してないんだよね」
「そうだなぁ。なんとなく、こいつらしいけどな」
「え?」
「来ヶ谷って、性格暗いだろ」
「えっ、そうかなぁ……」
こんな醜態を見ると、どうもそうとは思えないが……。
「社交的じゃねぇんだよなぁ。出会いがねぇんだろ。美人なのに、もったいねぇ」
「じゃあ恭介がもらってやったら?」
「ばか言わないでくれ」
恭介はちょっと真面目な顔になって言う。
「叉夜のことを忘れてやるんじゃねぇ。さっきから、おまえら」
「叉夜さんかぁ……」
僕は叉夜さんの顔を思い浮かべる。叉夜さんも、来ヶ谷さんに負けないぐらい、とびっきりの美人だった。ただ来ヶ谷さんを和風系とするなら、叉夜さんは洋風系の美人だった。
目がくっきりとした、薔薇の花のような人だった。
「こいつだって、叉夜のことはわかってるはずなんだ」
「え?」
「叉夜とこいつは、大の親友だった」
「あっ……」
それで僕は、一つのことに思い当たった。
そうか……。
来ヶ谷さんは、恭介と同じ町に住んでいたなら、三年前まで、叉夜さんと顔見知りでないはずはなかったんだ。恭介と顔を会わせるごとに、近くに叉夜さんがいたから、必然、会話を重ねる回数も多くなる……。
そうか。
僕はその言葉を、無意味に頭で繰り返した。
浜月町。
そこに眠る、隠されたエピソードを、僕は今、かいま見た気がした。
「それに、」
と、恭介は来ヶ谷さんの寝顔を見ながら語る。
そのとき潤君が、パジャマに着替え終わったようなので、寝ると言って寝室の戸の脇に立った。恭介は「ごめんな」と、一緒に寝られない不当を謝って(酒くさくなってるので尚更だ)、手で詫びたが、潤君は、べー、と怒って舌を出して戸を閉めたので、恭介は苦笑しながら、その続きを語るのだった。
悪いと言う僕を手で制して。
「本当は、結婚とか、なんだとか、普段は絶対口に出さないやつなんだ。そんなこと超越してるっていうかな。毛の先も気にしてないって感じだ。でも、それでも、やっぱ悩むんだなぁ、こいつも。こういうときにしか本心が聞けないぜ」
僕は、赤くなって、壁にもたれ掛かりながら眠っている来ヶ谷さんの顔を見ると、寂しい気持ちになる。
来ヶ谷さん……。
来ヶ谷さんは、本当は、本気で恭介に恋してるんじゃないか……。
ただ言葉に表すのが不器用なだけで、相手に伝えられない、けれどひっそりと、そんなことを思ってるんじゃないか……。
僕は不謹慎だけど、そんなことを思った。
でも、叉夜さんと来ヶ谷さんが大の仲良しだったということが、ちょっと気に掛かった。
どんな仲だったんだろう。僕はまったく知らなかった。
「そうだ、理樹」
そこで恭介が、さも今思い出したかのように言う。
「今度、鈴が来るぜ」
「え、ほんと?」
僕は唐突に別のことに頭が切り換えられたので、ちょっと思考が止まってしまった。
「ああ。旦那さんが週末も仕事だから、つまらんって話してたから、ちょっと来いよって言ってやった。……はっはっは、なんだかな。潤にあんなこと話しちまった手前、そうそう呼べねぇが、近所の飯屋で会うことぐれぇ、いいだろ」
「僕も来てる、って鈴に言ってあるの?」
「ああ。あいつ、すっげぇ楽しみにしてたぜ。なかなか会えてねぇだろ。おまえらも」
「そうだねぇ……」
僕は、結婚式のときに見た、鈴のウェディングドレス姿を思い出す。鈴……似合ってたっけなぁ。でもあのときは、僕ら以外の鈴の知り合いも結構多くいて、あまり腰を据えて話す機会もなかった。僕はなんだかつまらなくなって、そうそうに引き上げてしまったのだ。
娘の世話もあったしなぁ。
「それでな、今度の週末、浜月駅前の、餃子屋で会うことになってる。知ってんだろ?」
「ああ。あの居酒屋みたいなところね」
「半分居酒屋だ。まぁ……それまでは、ちょっともうこういう飲み会みたいなのは勘弁な。潤が拗ねちまうから」
「いいよ。いいよ」
僕は笑って繰り返した。今日は人数も多くて(さらに酔っぱらいが一人出て)、満足に話にも加われなかったろう。ちゃんと親子の時間も作ってあげることが大事だ。
「その日は大丈夫なの?」
「昼間にしてあるから大丈夫だ。潤は、友だちと一緒にプールに行く約束をしている」
「そっか。なら大丈夫だねぇ」
僕はこの暑い日のことを思う。そうか、そろそろプールという季節なんだ。
潤君……友だちと仲良くできてるようで、よかったなぁ。
そうか、夏かぁ。
そろそろ帰ろうかな。僕は、この酔っぱらいを引きずっていかなきゃならないことに、ちょっと、げっそりとした。
「泊めていくのはまずいよねぇ」
「止めとけ。おれも手伝ってやる」
「いいよ」
恭介が手を伸ばそうとしていたところを、僕は遮って、来ヶ谷さんの肩を掴む。
恭介は潤君の相手をしてやるべきだ。でないと、ぐれるぞ。きっと。ここでさらに夜間外出するなんて……絶対子どもの教育によくない。ちゃんと家にいるべきだ。僕はそのことを目で語ったつもりだった。
恭介はなにか言いたそうにしていたが、ぐっ、とそれを飲み込むように、腕を下げて、
「それなら」
と、玄関まで誘導してくれた。さらに玄関を大きく開いて、靴まで揃えてくれる。
僕は来ヶ谷さんのバッグを、本人の肩にかけてやって、体を支える。うっ……立たせるときに、思いっきりおっぱいが背中に当たった。でも、気にするもんか。これくらいの衝撃には、耐えられるくらいの歳になった。僕も。
玄関を開いてくれた恭介と、僕はさよならする。
「じゃ、またね。恭介」
「おう。気をつけて帰れよ、理樹」
「あ、そうだ」
僕はあることを忘れていたのを思い出す。
「恭介。来ヶ谷さんがここの町に住んでいたのを、黙っていたでしょう」
「えっ」
ここで虚を衝かれる恭介。僕はちょっと、逆に不思議な感じだった。
恭介は、そんな自分自身にも、改めて驚いたように、しばらくその言葉を頭の中で反芻するようだったが、しばらくして、頷いた。
「そういう結果になったかな」
「煮え切らないねぇ」
「そう言うなよ。ほんと、無意識だったんだ」
「まさか、来ヶ谷さんのことを忘れてたんじゃないでしょうね」
「馬鹿言うな。そんなことはない」
恭介は薄く笑ってみせる。僕は、それ以上の問いかけを、止めることにした。
恭介に自由な手で別れの挨拶をして、僕はアパートの階段を降りていく。かん、かん、と、一段ずつ。ゆっくりと。
来ヶ谷さんが起き出してきた。
目を薄く開いて、ぼんやりとあたりを見渡す。
「……ここは」
そこは夜の寂れた一つのアパートだった。その中の階段。階段途中。あと二、三段で地面に降りられる。
星々はそこはかとなく光り、謙虚でいて、悲しい色をしている。白。思いがけない色だ。黄色ではない。
風は生ぬるく、今の季節がやっぱり夏だと感じさせる。でも夜だからか、ちょっと涼しい。剥き出しになった僕の足や腕に、ほどよい冷気が、通される。来ヶ谷さんは肩を顕わにしていて、僕は目のやりどころに困った。
「もう帰るよ、来ヶ谷さん」
「理樹君……」
来ヶ谷さんはまだ酔っているようでもあり、もう酔いが覚めているようでさえあった。そんな冷静な声であった。物理的にアルコールが切れるわけがないんだけど。
だがそれから、僕の支える腕が、ちょっぴり軽くなった。
「理樹君」
来ヶ谷さんはまたもや僕の名を呼んだ。それから、悲しみの、透き通るような声で、
「叉夜君は、元気だろうか」
と、言った。
僕は先ほどの、来ヶ谷さんと叉夜さんが大の親友だったという恭介の言葉を思い出す。
僕の中の叉夜さんのイメージは、綺麗だけど、狂気じみている、というものでしかないんだけど……。
来ヶ谷さんは、とても名残惜しそうな声だった。
「どうして死んじゃったんだろうな……」
「……」
僕は答えられなかった。ただ、僕の頭には、僕の妻の顔が、愛しい彼女の顔が、思い浮かんでいた。
「天国で元気にやっていたって、生きているこっちには寂しいんだ……」
「……」
「叉夜君……」
来ヶ谷さんは、すこし泣いたようだった。
涙がひらりと流れて、来ヶ谷さんがすばやくそれを拭う。そんな感触が、僕の肩に起こる。僕はそちらを見なかったけれど。
「ははは」
来ヶ谷さんは力なく笑う。
「酒を飲むと思い出すんだ」
「来ヶ谷さん?」
「叉夜君のこと。よく。彼女は……どういうふうに笑うだろうかとか。どういうふうに怒るかとか。どういうふうに恭介氏に愛されていたのかとか。つまびらかに。悲しい趣を捉えて……」
僕はもう一度聞き返した。来ヶ谷さん? と。
「思い出すんだ……」
僕は来ヶ谷さんを引きずって歩いた。すぐ近くの、僕らよりすこし新しいアパート。外装が綺麗だ。
「彼女はとてもいいやつだった……。そして、だけど、やっぱり思うのだ……。彼女ほど女らしく、美しく、冷たく、燃えるように生きた女はいないと。天国からやって来た神さまの子どものように、心が綺麗な子だった……」
僕は、意外を感じていた。
来ヶ谷さんがここまで人を褒めるのはめずらしい。ましてや、あんな、恭介の話の中に出てくる狂気じみたものとは無縁の、天使だ、なんて。
僕の記憶の中にある叉夜さんは、とにかく綺麗な人だった。けれど、それだけではなくて、なにか、妙な、薄気味悪さを抱えた人であるような気がしたんだ……。恭介に失礼だから極力そう思わないようにしていたけれど。笑っているんだけど、笑っていないような……目を線にして笑っているんだけど、じつは、うっすら目を開いてこっちをじっと見つめているような……そんな、捕らえどころのない、気味の悪さを彼女に感じたのだった。
じっとこちらを観察している……腹の中が知れない。僕が感じたのは、そんなイメージだった。
僕は来ヶ谷さんを下ろす。
「ここまででいい」
もう玄関の前だ。意外にも来ヶ谷さんは、一人で立つと、しっくりとバランスを保って、玄関のドアを開けた。一階の一番右側みたいだ。
ちょっとだけ見えた部屋の内装は、なるほど、やっぱり、女の子の独り暮らしらしかった。清潔で、どことなくオシャレな雰囲気がある。若草色のイメージで統一されていた。来ヶ谷さんはその部屋をバックに、微笑んで、僕を見下ろす。
「ありがとう」
なにに対してのありがとうなのか、僕は判断できないでいた。
「まだ、君は浜月町にいるのかい?」
「うん」
偶然にも、恭介と同じ質問をしてきた。
「ずっといるよ」
「そうか」
来ヶ谷さんはまるで少女のように、笑った。
「なにもない町だが、いい町だ。実はどこの町にもないものが、この町にはある。私はそれを気に入った」
「へえ」
「なにもないから、どこへでも行ける」
そうして言ってすこしドアを閉めて、来ヶ谷さんは手を振る。
「おやすみ、理樹君」
「うん。おやすみ、来ヶ谷さん」
「くす」
来ヶ谷さんは、おかしそうに笑う。
「まさか、君とこんな会話をするとは思ってもいなかったよ」
そうして僕は手を振った。なにも言わなかったのだ。
ドアが完全に閉まる。
僕は、急に冷たい風が吹くな、と思いながら、振り返って、その冷たい風が吹く夜道を、妙に居心地悪くなりながら、家に向かって歩いていったのだった。