僕が実家から、浜月町というところにやって来て、荷物をすべてアパートの中に押し込んだのは、もう日も暮れきったころだった。もっとも、持ってきたものなんて、替えの衣類と、簡単な家具しかなかったけれど。テレビなどの重い家具は運送屋に頼んだ。

 単身赴任。小説とかドラマとかで一応話には聞いていたけれど、まさか自分がその単身赴任になるとは思わなかった……いや、いつか来る、きっと来る、と覚悟はしていたけれど、実際にこうして、愛する妻と離れて、愛するわが子とも離ればなれになって、一人で薄暗い部屋の玄関に立ってみると、言い様のない寂しさが募ってくるのだった。

 出世、なんだろうか。

事実はそうだろうけど、僕は全然嬉しくない。

 ダンボールだらけの部屋に無理やり安っぽい布団を置いて、どすん、とそこに身を投げる。

 天井は暗かった。

 まるで大学生みたいだ……。

 同僚の男は、家庭のうるささから逃れられて、一人で隠遁生活できるんだからいいじゃねぇか、と妙なことを言っていたけれど、そんなものは、人それぞれだと思う。僕は愛する家族がいるんだ。そうやって言ってきたやつは、麻雀と競馬、主にパチンコなどが好きだった。いやなやつだ。

 僕なんかまだ結婚してから三年目なのに……。

娘の世話も妻に任せっきりだし、実家からは遠く離れているし、なに一つ良いことなんてない。ここで僕はどれだけ過ごさなきゃいけないんだろう。

 愚痴を言うのは、止めだ。もう止めよう。

 もうこうなれば、やけだ。働きマンになってやる。仕事に没頭しよう。ここはどうせただ寝るためだけの場所だ。酒も飲むまい。野球中継を見ながらビール、つまみ、なんて、そんな自分の姿を想像してみただけでもぞっとする。せっかく家族と離ればなれになっているわけだから、持って帰るものは、全部持って帰ってやろう。

 すなわち、名誉、金、地位、すべてだ。

 明日は新しい職場での仕事だ。必要なものはもう買いそろえている。今日はもう寝てしまおう……。

 浜月町。つまらない町だ、と思った。都会にあるものはことごとく無い、ってわけじゃあないけど、ひどく簡単な町だ。普通の、郊外の町。スーパーなど、生活に必要なものは大体揃っているけれど、特別見るものもない。あるとしたら、河川敷から見上げる対岸の工場群くらいだ。ちょっと圧巻だった。なんとなく、僕らの故郷と似ている雰囲気があった。

 故郷。故郷か……。

 そういえば、謙吾。

まだ一人で僕らの故郷に住み続けている、って聞いているけれど、どうしているのかな……元気だろうか。結婚しないのかな。ははは。もうずっと向こうに帰ってないや。寂しがってるかな。

 僕は、謙吾の、満点の笑顔でピースしている卒業写真を思い出しながら、眠りの挟間に落ちていった……。

 

 最近はずっと寝ていなかったから、睡眠は朝までぶっ続けに取れた。適度な倦怠感を肩や背中に感じながら、僕は腕を伸ばす。

 歯を磨いて、調子よく顔を洗う。炊飯器の用意をしている暇がなかったから、今日はコンビニの弁当だ。朝ちょっくら行って買ってきた。ははは……なんて、味気ない朝ご飯。僕の奥さんの作ってくれる朝ご飯はあんなに美味しかったのに……ははは、泣けてくる。大学生の時代に戻ったみたいだ。

 最悪だ。

 早速塞ぎがちになりながら、僕はテレビだけはちゃんと設置して、ニュースだけは見る。その間にスーツに着替え、他の身だしなみを整える。ニュースは昨夜に起こった、飲酒運転事故の速報をやっていた。また「人が死んだ事件」だ。僕はこんなニュースを見たくはなかった。どうせいつも起こっていることだし、知る必要もない。こんなのを見ていると人の生き死にの感覚が麻痺してくる。人が死のうがどうってことない、と思ってしまう。そんなふうになるくらいなら、最初から知らないほうがいい。

どうも現代人は、情報を扱っているように見えて、情報の奴隷となってしまっているように思える。僕が見たいのは、政治情勢や、簡単な経済情勢、外交情報などの、社会人として最低限、必要な知識だった。こういう時事問題に強くなってないと、会社の運営や、商談においてうまくやっていけない。信用問題だからだ。ほんと、くだらなくなってくる。知識のひけらかし合いになんてつまらない。僕はそういうのが、大嫌いだった。でも、仕事となるとすっ、と自然にそれを受けていく機械のような自分もいる。嫌いなわりに、ストレスもあまり感じていない。でも嫌なものは嫌だった。いったい誰が、こんな厄介事を、社会にこしらえたのだろう、と思ってこの前手に取った『アンナ・カレーニナ』の文庫版を読んでみると、ロシアの紳士たちはみんな僕らよりも、もっとすごい知識のひけらかし合いをやっていた。こんな時代からもうすでに、僕らのようなつまらない小競り合いはあったわけだ。

 僕は横目でニュースを見つつ、明日から、新聞も取ろう、と思った。

 すべての身支度を整えたあとは、若干残った時間を使って、昨夜の残りの片づけをすべてやってしまった。

 それから最後に今日の星座占いを見て、自分の星座が二番目にいい位置にいるのを嬉々として確認すると、僕は靴を履いて玄関を出た。

 二番目とは、なかなかいい。

 朝の涼しい空気が、肌に気持ちよく流れていく。

 今日はなにか良いことがあるかもしれない。そう思いつつ、僕は慣れない通勤道路を、靴を鳴らしながら歩いていく。すると、前から、今日とびっきりの、幸運が歩いてきた。

 むしろ、今日の運はそれですべて使い切ったかもしれない、と思えたぐらいのとびきりハッピーな珍事だった。

 僕は最初、その存在に気づくことができなかった――。

 左手前のほうの、僕の家と同じくらい、ぼろっちいアパートの玄関から、慌ただしげに出てくる親子の二人組。

「急ぐぞ、(じゅん)! おまえのトイレが長いせいで、時間がなくなっちまった!」

 どこかで聞いたことのある声だった。

そう思って、僕はそちらに目をやった。

「おれのせいじゃない」

「うっせぇ! トイレットペーパーが全然ないってことぐらい初めに言えばよかったんだ! 取り替えてやるのに! くそっ、もう、おれの背中に乗ってけ! ここはパパのスリリング超特急で、幼稚園まで運んでってやるぜ!」

「みゅ」

 その大声のやり取りだけで、僕は大体その人物の正体を特定することができていた。ただ、あとはその顔を確認してみたかった。

 もしや、と思ったのだ。

今考えると、ほとんど決めつけに近い感情だった。星座占いで僕は二位だったから、その情報と、こちらの思惑を、無意識に繋げてしまった。

まさか、それが当たるなんて思わなかったのだ――。僕は、半分期待しつつも、もう半分の頭で、それを笑っていた。

 アパートの前の砂利道を降りて、歩道に出てくるその親子。

 彼らと、僕は、車がほとんど通っていない閑静な通りで、正面に相対した。

「へ……」

 やっぱり、と最初に思った。そしてその直後、間違いなかった! と強い嬉しさがこみ上げてくる。ふつふつと、湧き出る泉のように。

「へ?」

 向こうも僕の姿を凝視して、固まっている。後ろに背負われた潤君は、あまり僕のことを覚えてなかったのか、眠たげな眼差しのままこちらを不思議そうに見つめている。

「きょ、恭介ぇ!」

 僕はそう叫んで、駆け出した。向こうが当惑し、足を止めたままでいる間に、僕は恭介の前にまでたどり着いてしまう。

 そのころには、

「理樹?」

 向こうも、僕が正真正銘、直枝理樹だと悟ってくれた。

「おまっ――、はぁ!? どうしてこんなところにいるんだよ! おーいっ!?」

 そんなセリフとは相反して、恭介は嬉しくって子どもが飛び上がるみたいに、僕に抱きついてきた。片腕だったけど、思いっきり背中をばんばん叩かれて、痛いくらいだった。

 まず、潤君が下ろされる。潤君は幼稚園の制服のまま、僕を不思議そうに見上げている。

「言ってなかったっけ!? 僕、今度ここに単身赴任に来ることになってたんだよ!」

「聞いた! 確かに聞いたけど、まさかこの(はま)(つき)(ちょう)だとは思ってもなかったぞ!」

「僕もまさか恭介がここにいるとは思ってなかったよ!」

「なんだよ、この野郎!」

「この野郎って言わないでよ! このやろー!」

 僕らはどつきあいながら、子どもっぽく、笑い合っていた。

 僕らは再び出会うと、それまで過ごしてきた長い間に、身につけてきた、大人っぽさなんてのは、すべて消えてしまう。一瞬で子どもだったころの僕らに戻る。それは不思議な体験だった。僕も、先ほどから、大人っぽい口調を出そうと苦心しているのだけれど、どうもそれができなくて、無意識に、昔のような口調になってしまう。それから僕は、ああ、これでいいんだ、と納得した。嬉しさとともに。

 恭介とは、「こう」でなければ成り立たないのだ。

「潤、覚えてるか!? こいつ、おれの友だちで直枝理樹だよ」

「……」

 潤君は、眠そうな顔で僕をじっと見上げていたが、ややあってから、短く首を横に振った。

「知らない」

「そうか」

「でも、顔は覚えてる」

「おっ、よかったじゃねぇか、理樹! はははっ! 顔だけは覚えてるってさ! よかったなー!」

「あ、あはははは……」

 僕は苦笑いだった。僕は、ちゃんと潤君のこと覚えていたのになぁ……。

 棗、潤君。

驚くべきことに、あの恭介の一人息子だ。顔が、とても恭介と似ている。でも目元と口元だけは、奥さん似だ。

 潤君とは以前の、鈴の披露宴のときに、一緒に会ったはずなんだけどなぁ……まぁ、あのときは大人の人がいっぱいいたから、僕も一緒にその大人の人たちの仲間にされちゃったんだろう……無理もないか。潤君はあのときすごく怖がっていたし、一種の悪い夢のように思われていたんだろう。

 僕はしゃがみ込んで、潤君と目線を合わせてから、話しかけてみる。

「僕、直枝理樹っていうんだ。恭介お父さんとは、昔からの友だちなんだ」

「……」

 潤君は困惑しているみたいだった。でも、僕がそう言うと、こくん、と小さく頷いてくれる。

 くぅ〜〜……かっ、可愛い! 僕は熱い息を吐いてしまった。

小さいころの恭介と本当に似ている。でも、いや……やっぱり鈴と似ているのだろうか? おどおどとした態度なんかは鈴そっくりだ。

 ははは、くだらないか。僕は苦笑いしつつ、立ち上がった。

「恭介、元気そうだね」

「まーな」

 僕らの今の二言は、ちょっとした他の意味があった。

それでそのために、恭介のその返事も、若干憂いを帯びた……。

けれど、どうやら、今はあまりゆっくり話している暇もないようだ。僕は紺のスーツ、向こうは灰色の作業着。どちらの仕事服だった。それに恭介は今、慌ただしげに家から出てきたところだし……。

「わり、理樹」

 恭介は手をかざして、ごめん、のジェスチャーをする。

「うん。僕もこれから仕事だから……」僕は苦笑した。

「理樹、どこに住んでんだ?」

「ええっと、すぐそこのアパート」

 僕が指差すと、恭介は一発で気づいたようで、あぁ、と簡単に言ってみた。

 さすが、ここの住人。

「仕事終わったら携帯に連絡入れるぜ。今日はおれんとこ来いよな」

「うん。わかった」

 僕は上機嫌で頷いてみせた。まさか、こんなハッピーな事件が起こるとは思いも寄らなかった。なんともない、ただの特徴のない町の名でしかなかった浜月町が、僕にとって急速に、大切で、名残惜しい町の名前となる。

 僕は、幼稚園に送っていく恭介と別れて、若干足早に、新しい仕事場へと向かった。

 

 夜、仕事が終わり、着替えて、棗宅に上がったころには、潤君はだいぶ、饒舌になっていた。

「だから、ガトレンジャーはすごいんだ」

「へぇ」

 棗恭介、棗潤、と二つの表札が掛けられてある部屋の奥で、もうもうと料理の湯気が上がる中、潤君は舌っ足らずな口調で、滔々と自分の言いたいことを捲し立てた。

「キーレンジャーの十倍くらいすごい。もっとも、あいつのドリルアタックギャラクティカも、おれはすごいと思うけど」

「うん。すごいすごい」

 すごい、という言葉を覚え立てで、いっぱい使ってみたい、というみたいに、潤君はたくさん好んで使う。僕と潤君の間には、数々の「すごい」が、取り交わされた。

 と、そのとき、潤君がぎょっとして、恭介に向かって言う。

「あ、おれの皿にそんなにピーマン入れんな、馬鹿親父!」

「馬鹿親父とはなんだ。そんなおまえにはとびっきりたっぷりピーマンの大軍を送ってやる。食らえ」

「わっ、馬鹿! あー!」

 ずいぶんよく喋るなぁ……、と思ったものだ。幼稚園生なのに。ここまで日本語が達者になるものだろうか。

と、僕は、自分たちの幼少のころと比べてみて、改めて、そのときの記憶がほとんどないことに驚いて、苦笑いするのだった。

「こいつ、めずらしく客が来てるもんだから、必死なんだよ」

 そう言うと、潤君は、昔の鈴そっくりの表情で、こんなことを平然と言った。

「うっさいわ、ぼけ」

「おまえ……親に対する口の聞き方ってもんがなってねぇな。ピーマン全部食えよ。ふん、理樹、いつもこいつは、おれと二人っきりのときには、パパ、パパ、一緒にお風呂入ろ、入らなきゃやだよ……って、可愛く言ってくるもんだ」

「言うかぼけ!」

 恭介は無視する。

「そのとき、おれはこう答えるわけだ。ばーか……おまえが可愛い娘だったらいざ知らず、息子ごときの貴様と、誰が一緒に風呂入るか……とな」

「恭介、最低……」

「冗談。冗談だよ」

 恭介がいぶし銀(そうか?)の笑みを浮かべているところへ、潤君がこんなことを言う。

「本当は親父から、一緒に風呂入ろうって言ってくる」

 僕は恭介のほうを見た。恭介は本当に最低だった。いや、いい親父をしていると思った。

「ぶっちゃけるんじゃない、潤。お客様の前だぞ」

「う、」

「恭介のほうこそぶっちゃけすぎだよ……」

「そーだ、そーだ」

 鈴そっくりの言い方に、僕は笑ってしまった。腕を組んで平然っぽく言うところも、まるで少女だったころの鈴を見ているようだ。

 恭介の遺伝子でも、妹とは似るんだなぁ……と、僕は新しい発見を見た思いだった。

 いや、もしかしたら、恭介にも実はそういう一面があったのかも……。

「ごたくはいいからさっさと食え。おれ特製、チンジャオロースーだ」

「おー、チンジャオー」

「おおー」

 僕と潤君は腕を上げてみせる。それから、気安く、あははは、と笑い合った。

 だんだん気に入られているようだ。僕は安心した。

 恭介は、ちなみに、中華料理がもっとも得意である。

「理樹。ビールでいいか?」

「うん」

「おれもびーるがいい。くれ」

「ばかこけ。貴様、吐くぞ」

「吐いても飲む」

 強情さはやっぱり棗家の血を引いている。お客様が来て、すこしでも格好いいところを見せようと、躍起になっているところも恭介そっくり。

 確かに、今のこんな状況で、こんなに潤君が明るいのは、ちょっと異常というか、不思議だった。もっと冷たい目を送れば、若干ぎこちなくさえ見えた。

「……げぇ〜」

 ぴちゃ、と、猫みたいに舌をつけて、すごく苦そうに潤君は顔をしかめる。

 恭介はそら見ろ、と笑った。

「子どもの舌にはまだ早ぇ」

「……人間の飲むものじゃあ、ない〜」

「そうやって言っていられるのも今のうちだ。じきにおまえにも味がわかるさ」

「……そういうもんかー」

 真面目に考えている。僕と恭介は噴き出してしまった。

 子どもの無邪気さって、ときに大人の心をこんなにも癒したりするものだ。

「やっぱ、コーラにして」

「おう、今日は特別な」

「特別?」

 僕が単純に聞くと、恭介はのっそりと立ち上がって冷蔵庫のほうに行きながら、言う。

「毎日は体にわりぃだろ」

「とーちゃんは牛乳ばっかり飲ませる」

「牛乳は体にいい。がんがん飲め」

 コーラのボトルを持ってきた恭介が、潤君の頭をなでながら笑う。潤君は不満そう。

 そこで僕は、ふと、チンジャオロースーの美味しい薫りにまざる、一種の、薄い、線香のような匂いを感じ取った。

 でも僕はなにも言わないでいた。

「かんぱーい!」

 僕は恭介とコップを打ち付ける。潤君も混ざりたそうだったので、ちっちゃく、「かんぱーい」とする。まだ言葉の意味がわからないようで、「あーい」と、潤君は口をもごもごさせて言っていた。

 恭介はコップをあおりながら、言う。

「なるほどな。理樹は単身赴任でここに来たのか」

「うん」

「他のやつは、どうしてんだろうなぁ……」

「会ってないの?」

「ああ。会ってない。あんまりそこまで暇がない」

 恭介は地元の建築会社で働いている。僕はダンボール製造の社員だ。

 僕らは、あの高校時代のころの結びつきの強さが嘘のように、今はかなり淡泊な関係になっている。と言っても、それは、みんながそれぞれ自立したからで、それぞれの場所でそれぞれの人間関係を築く必要があったからで、決して疎遠になったわけではない。みんな忙しいのだ。

 住む場所が違っている、という理由もある。現に僕は名古屋、恭介はこの浜月町で暮らしていた。

「真人はこの前、カンボジアの何とかの町にいると言ってきた」

「うわ。なにそれ。なにしに行っているの?」

「知らん。筋肉の修行をしすぎて頭が仏教になったんじゃないか」

 恭介は酒を飲みながら適当なことを言っている。潤君は、大人たちの会話が暇だと見えて、テレビを見ている。

「僕に昔、電話してくれたときは、ボストンにいるって言ってたよ」

 今度はアメリカである。

「あいつ、もうすでに世界何周かしてそうだよなぁ……」

 僕らは、僕らの親友、井ノ原真人の顔を思い浮かべる。真人は今、海外にいる。海外のどのあたりにいるのかは、知らない。各地をとんとんと巡り歩いているみたいだ。目的はなんだか、筋肉の修行だとか、見聞を広めるためだとか、ジェシーを救うためだとか、ころころ変わっている。っていうか、ジェシーって誰だろう。

 なんとなく僕は、昔の恭介と似ているな、と思った。恭介は昔、日本国内を、就活と称して旅していた。その地その地で、地元の人と仲良くなったり、しばらくの間世話してもらったりしていた。漁師の経験をしたこともあるらしい。

「めったに日本には帰ってきてねぇな」

「帰ってきても一目会っただけで、すぐどっか行っちゃうよねぇ」

「ああ。だけどあいつは、あれで幸せなようだ。なんとなくあいつらしいよな。豪快っつーか、豪胆っつーか……嫁さんもらう気はねぇのかな」

「ないんじゃないかなぁ。今のところは」

「危ない地域には絶対行くな、とは言っておいたんだがな」

「死んで帰ってきたんじゃ洒落にならないよ」

「うん。そうだ」

 真人の話には、なんとなく不安が残る雰囲気で終わった。楽しくやっているならそれでいいけれど、なんとなく僕も、恭介も、真人のことは心配だった……未だに紛争が起きている地域はあるし、真人が死ぬなんて、そりゃ、考えられないけれど、銃弾とか、爆弾とか、常識が通用しない場所だと、もしものことがある。カンボジアなら……きっと、めったなことは起きないだろうけど。

 意外と地元の人と仲良くしてそうだ。真人、ファンキーだもんなぁ。

「どうせ、まぁ、そのうちひょっこり帰ってくるだろ」

「まったく変わってなさそうだよねぇ……真人」

「そうだな」

 僕と恭介は、「へっ?」と目を丸くしている真人の顔を思い浮かべて、笑い合う。

「鈴とは?」

「会ってない」

「あれ、どーして」

「いつまでも妹の世話にはなってらんねぇし、あいつは今、大変な時期だからな」

「ああ」

 僕は、鈴のことを思い出した。

「新婚さんだもんねぇ」

「ああ」

 僕は、今はめっきり大人っぽくなった、鈴の顔を思い出して笑った。

鈴は、ついこの間、晴れて結婚式を挙げた。相手はリトルバスターズのメンバーではない、別の男の人。

 僕も何度か会ったことあるけれど、とっても面白い人だった。変わっているというか、子どもっぽいというか、いつも周囲に心配をかけている人で、放っておけない気分になる人だった。でも周りに心配かければ、そのかけた分だけ、神妙に構えているから面白い。僕らはすぐ友だちになった。

 鈴は彼のことを、よしろー、と気安く呼び捨てにしているが、この前その義郎くんの証言で、二人っきりのときは、よしちゃぁ……ん、と甘ったるく呼ぶということが発覚された。鈴が暴れ出してその場がしっちゃかめっちゃかになったせいで、真相はうやむやになったが。鈴の、大人びた風貌でさすがにそれは面白すぎた。

 鈴の顔は真っ赤である。

「結婚ってのは、意外と大変なんだよな」

「そうだねぇ」

 僕は同意するしかなかった。

「もう、こっちは、あいつの手助けなしにやってくつもりでいる」

 恭介は決意に満ちた眼差しでそう言った。

 自分の知り合いが話題にのぼっているとわかったのか、潤君が振り返ってこちらに言う。

「ねいちゃんままは、」

 ねいちゃんまま、というのは、鈴のことだ。

「もうこっちに来ないの?」

「いや、来る」

 寂しそうな顔になったので、恭介は微笑んで、潤君の頭を撫でてやる。さすがにこういうときだけは、お父さんらしい。

「だが今度はきっと、あいつの子どもを連れてくる」

「子ども?」

「ああ。人は結婚すると子どもを産むんだ」

「お母さん?」

「そうだ」

 恭介は、たいていの場合の知識は、憚ることなく息子に教える。それが恭介の教育方針なんだそうだ。幼稚園、小学校、とだんだん大きな社会に出て行く中で、恥をかかないようにとのことだ。

 僕もそれを見習って、ちょっと自分の娘の教育にも取り入れようかと思っている。子どもっていうのはとっても純粋なのだ。親がこう、と言えば、こう、と覚える。ノーと言えば、ノー、といったふうに。だから、子どもがある程度大きくなるまでの間は、親は、こんな質問をされたときに、いっそう慎重に答えなければならない。

「でも、大丈夫だ」

 そして親には、必ず子どもを安心させる、という義務がある。

「もう料理を作りに来たり、一緒に寝てくれたりすることはないと思うが……その分だけ、きっとあいつは、今度からは、ただ思いっきり遊ぶためだけにここに来る」

「ほんとか?」

 その、ちょっぴりませた聞き返し方は、きっと鈴の影響に違いない。

「本当だ。だが、それまでには、ちょっぴり時間がかかるだろうから、我慢な」

「むー」

 潤君は不満顔。

「大丈夫だ。それまでは、この理樹が相手してくれるからな」

「理樹おじさん?」

 ぴくっ。

 ……と、来てはだめなんだろうか。おじさん、じゃなくって、お兄さんでしょ? と、わざわざ額に血管を浮かび上がらせながら訂正をこんな子どもに求めるのも、なんだか自分で自分がおじさんであるということを認識しているようで、憚られる……。大人げないし。あーあーあー……。

「理樹のことをおじさんと呼ぶな。お兄さん、だろ」

 そして、恭介の超いらないフォロー……。

 ありがとう、恭介。本当に素晴らしくデリカシーゼロの配慮だね、涙が出るよ。

「なんで?」

「それはだなぁ……」

「ちょっと恭介! 理由を説明してまでそう呼んでもらおうとは思わないよ!」

「なに、理樹、いいのか?」

「どっちやねん」

 潤君が、テレビで覚え立ての、妙な関西語を喋る。

「いや、もう、取りあえず、好きなように呼んでくれていいよ……」

「理樹……」

 憐れみの眼差しで答える恭介の視線が痛い。痛い。痛い!

「うーん」

 と、潤君はしばらく悩んでいたが、

「じゃあ、お兄ちゃん」

 と、きっぱり答えてくれたときは、なんだか嬉しかったけれども、同時に心がぶち折れそうになった。な、なんだろう……このやるせなさ……ぐだぐだ感……。

「偉いぞ、潤」

 と、この人が満面の笑みでガッツポーズをするのは、どういう意図があってのことか……。

「ご褒美にピーマンをすこし取り除いてやろう」

「どうせなら全部持ってけー」

「おまえ、ピーマンをなめるのもいい加減にしろよ。今日は最後までずっと見ているからな。おまえがちゃんと全部ピーマンを食べ終えられたら、ごちそうさまにしてやる」

「むー」

 幼い潤君は、言い返す言葉がないと見えて、悲しげにうつむいてしまう。そうして溜息をついて、へっ、とでも言わんばかりに頬杖をついてそっぽを向くのだから、爆笑ものだった。

 でも、なんだろう。

 ちょっと、芝居がかってるかな。今日の潤君。

 子どもらしくない。

 どうせそんなことを本人に尋ねたって、意味を解してくれないだろうけど。

 なんとなく、そう思うのだ。

 

「いい親にはなれねぇ……今までもずっとそうだったし、これからも、きっとそうだ」

 白々しく照っている蛍光灯。それを背後に受けて、恭介は、目先の暗闇を見すえながら、ビールを口につけつつ、言った。

 ベランダに出ていた。恭介の部屋はアパートの二階。僕らはそこにいる。

潤君の子どもっぽい寝息が、後ろのほうからくーくーと聞こえてくる。僕らは、アパートのベランダから見える、だだっ広い駐車場を眺めながら、気だるげに話をしていた。

 遠くから犬の遠吠えが聞こえる。

「そんなことはないでしょ。恭介」

「理樹」

 恭介は僕のほうに顔をずらして、じっ……と、なにかを訴えるように、僕の顔を見た。そんな場合の恭介の伝えたい意味はわかった。

 言わせてくれ。是非を問いたいんじゃない。吐き出したいだけだ。……そういう意味だった。

「……本当だったらな、」

 恭介は続きを語り始める。

「さっさと別の相手見つけて、結婚しちまうのがいいんだ。それが潤のためだ」

「でも、そうそういい相手もいないでしょ」

「いい相手、か……」

 恭介は感傷的に目を細めた。

「どうかな」

 恭介は言葉を濁したのだった。

「恭介はまだもてるんでしょ?」

「おれにそうそう女の知り合いなんかいねーよ」

「嘘」

 恭介はこっちを見て笑うだけで、その続きを答えなかった。

「居たとしても、そいつと結婚するかな……」

「……だから、悪い親、ってこと?」

「酔ってるのかな」

 恭介は苦笑いを浮かべた。

 結局は、恭介の一人問答だ。どうするもこうするも、恭介の選択次第、僕なんかには言い様もないのだ。たけど、恭介は、僕以外に、吐き出す人もいないから……。潤君にまさかこんなこと言えるわけないから……

 ずっと溜め込んでいたのだ。

 父子家庭というのは、ここまで壮絶なものだと、僕は思い知る気分だった。

「おれはいい親になれねぇ」

 恭介はまた最初の言葉を繰り返した。

「これからも、きっとなれねぇ……でも、子どもっていうのは、親がどれだけろくでなしであろうと、父親だったら、一人で勝手にすくすく成長するもんだ」

「そうかな?」

 僕は判断できかねることだった。

「そうさ」

 恭介は笑う。

「じきにわかる」

 僕はそれから、またあれこれと考えを巡らせた。恭介の言っている意味はどういうことだろう。

 よくわからないまま、恭介の横顔を見ているうちに、僕は、高潔そうな国会議員さんの息子で、放蕩してばかりで若い女の子との情事を繰り返し、最後には麻薬を吸って逮捕された芸能人の男の顔を思い出した。

「おれはこのまま歩いてくよ」

 恭介はぎゅっ、ぎゅっ、と体のあちこちを伸ばしながら言った。

「奥さんの顔を立てるの?」

「うーん。どうかなぁ」

 恭介は軽い微笑み。

「あいつは、おれにそんなことされたって、きっとあんま喜ばねーと思うな……」

 彼女の唯一の人だった、恭介だけにわかることなんだろうか。

 でも、恭介の顔はずいぶんと寂しげだった。

「そうかなぁ。旦那さんに裏切られて、喜ぶ奥さんはいないと思うけど……」

()()は別だ」

 ここで叉夜、という名前が出た。

「おれもあいつも、世間一般の夫婦とは別のところを、相手同士に求め合った。いや……もしかしたら、それこそが本当の『夫婦』ってやつじゃなかったのか、と、おれは密かに思っているわけだが……とにかく、死んじまった後じゃ、聞けねーしな。そんなこと」

「再婚してもいいか、ってこと?」

「うん」

 恭介は部屋のほうを振り返って、奥の、叉夜さんの仏壇のほうに目をやる。

「だがまあ、もし生きている中で、おれが他のやつにでも熱を上げたら、おれはそこで、()()に殺されてただろうがな」

「まさかあ……」

()()ならあり得る」

 僕はちょっと、ぞっとするくらいの思いだった。

 上月(こうづき)()()さん。恭介と一緒になってからは、棗叉夜さん。

 とびっきりの、冗談なんじゃないかと思うぐらい、顔の整った、綺麗な、またお淑やかなお嬢様だったけれど、恭介の中に住まう彼女の像は、どこか狂気じみている。

 でも恭介は、そんな彼女の、そんなところが、好きになったとよく言っている。

「あいつは案外、死後まで自分のことを気にされると、媚びへつらいみたいで嫌がるかもしれねぇ」

「……」

僕はなにも言えなかった。

「だが、一番あいつが怒るのは、あいつがいないところで、こうやってあいつが『いい』と言うか、『だめ』と言うか、話し合うことなんだがな……」

「だめじゃん」

 こういう状況が、もはやだめだ。

「うん」

 と、恭介はビールに口をつける。

「でも……おれは、あいつの手下じゃないし、媚びへつらいの男でもない。旦那だ。あいつの機嫌なんかどうだっていい」

「豪快だねぇ……」

「こうやって言うと、叉夜はとても喜ぶぜ。『愛してるわ、恭介』だなんて言って、キスの嵐だ」

 くくく、と顔を赤くしているところで、僕は隣でちょっといやな顔だった。

 のろけ話を聞きたいわけじゃないんだけど……とも怒り出せない。怒るポイントがいまいち掴めない。のろけ話なの、これ? いったいなにを話したいんだよ。

 僕がそう尋ねる前に、恭介は勝手に自己完結して、そらを見上げる。

「だー、けど……」

 恭介は、まるで、自分の中から抜け出ていった体の一部を、探して歩くかのようだった。

「死んじまっちゃ、もう、どうしようもねぇ……」

「恭介、もう止めなよ」

 僕は酒を飲む手を止めようとする。恭介は「うん……」と言いつつも、赤い顔で、ビールの缶をあおる手を止めようとしない。

「あとこれだけ」

「もうっ」

「ははは」

 恭介が笑い出した。

「おれはさ……潤さえ、立派に育ってくれりゃ、それでいいや……」

「恭介……」

「あとはもう、好きなように生きる」

 缶を持って、部屋の中に戻る。

 真っ白な部屋は、宴の後だった。隣の寝室では、騒ぎ疲れた潤君が、暗闇の中で、布団にくるまって寝ている。僕は恭介と宴会の後かたづけをした。

「理樹はまだ、しばらくここにいるんだろ」

 キッチンで生ゴミを捨てながら、恭介が半分だけこちらに笑みを見せて、聞いてくる。

 僕は燃えないゴミをまとめつつ、答えた。

「うん。しばらく、っていうか、一年以上はいると思う」

「そうか」

 恭介は闇の中で嬉しそうだった。しばらく、なにも起こらなかった日常に、急に彩りが増した、そんなことを喜んでいる顔だった。

「ここらにいりゃ、他のやつらともじきに会えるかもな」

「他のリトルバスターズのメンバー?」

「そうだ」

 恭介はジャー、と水を出して皿を洗い始めた。僕は立って、ちょっと呆然とする。

 窓から洩れる月明かりが、神秘的に恭介の背中を白く照らす。

「みんなも、近くに住んでるの?」

「いいや、」

 と言いかけて、恭介はまた、含み笑いをする。

「……そう、いったわけでもないんだが……すぐ、誰かが聞きつけてやって来るだろう。普段はこんなところ、あまり来ないもんだが、理樹とおれがこんな近くに固まっていると誰かが聞けば、すぐ飛んでくるさ」

「誰かなぁ……」

 真人は海外だし、鈴は新婚生活……もしかしたら謙吾あたりだろうか?

 僕はどちらかというと、恭介が近所に住んでいるというだけで、とても大きな楽しみだったので、あまり他のことには関心が持てなかった。いや、別に、誰かと会えるというのに越したことはないんだけれど……。

 ただしばらくは、恭介と、潤君と、僕の三人で、静かに暮らしてみたいと思ったのだ……。

 

 第2話

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