自分さえ一人いれば、鈴は大丈夫だろうと思っていた。

 たが、現実はそこまで甘くない。

 はっきりと言葉にこそ出してこないが、鈴は、向こうで相当乱暴な扱いを受けているらしい。本当につらいことは素直に言えない鈴の性格と、あとは文才の無さで、明確な情報はほとんどなにも伝わってこないが、鈴が相当衰弱しているらしいということだけはとてもよく伝わってきた。

 どだい無理な話だ。あの超絶人見知り人間の棗鈴に対して、知らない学校を救えだなんて。

 ずっと守られているやつだった。

 自分たちに大事にされながら囲いの中で生きる、ただの子猫だったんだ。

 それが鈴の元々あるべき姿だった。

 もう正気の沙汰ではない。

 限界だ。

 自分をあいつの代わりに併設校へ連れていってほしい。鈴の代わりに自分が救う。

 そう言い出すことはなんの意味もないことだと知っておきながら、真人は足が恭介のほうへ向くのを止められなかった。

 恭介は、そんな真人の願いを一笑に付した。

「ばかじゃねーのか、おまえは?」

 恭介がここまではっきりと友を罵倒することは稀だった。

「代わりにおまえを連れてけだと? なにを寝言いってやがるんだ? それじゃなんの意味もないじゃないか」

「意味がねぇとか、意味があるとか、そういう話じゃねぇんだよ」

「はっ」と、恭介は鼻で笑う。

「おれには、よくわからない話っぽいな」

 目を閉じて、もう拒絶、という意を示した。

 真人はそれよりさらにしつこく食い下がったが、やはりダメだった。

 まず笑われ、叱り飛ばされ、心配され、そして最後には憐れまれた。

 恭介はもう鈴しか見えていない。すべてそのために、割り切ってしまっている。

 そのような人間に通じる言葉などもうなにもない。真人は寮の部屋に戻って、憮然としたまま、鈴とメールを交換できる時間まで待った。

 実際に声を伝えてやりたかったが、電話の使用はあちらのルームメイトに禁止されているらしい。理由は、うるさい、だとか。

着信音が鳴っただけでも折檻されるのだ。馬鹿な話だ、と思った。

 鈴からやっとメールが送られてくる。受信箱を開こうとして、携帯のフリップを開けたとき、真人は思った。

 また明るい話で笑わせよう。

 今日は謙吾との間にあった、タバコ猫にまつわる話だ。

 もちろん実際にはなんにもない。すべて真人の創作だ。

 苦手な領域で、あまりにも不自然な出来だから、鈴にはとっくに見破られているかもしれないが、それでもよかった。ただ一時の気を紛らわす笑いの種になれば。

 そう思って、画面を開いたときだった――。

 ――まさと。

 その次に改行された一行を見て、真人は声を失った。

 ――もうがんばれない(TT)

 頭の中が真っ白になり、考えていた滑稽話などすべて吹き飛んでしまった。

 こんなことは、今まで一度も考えられなかった。

また、考えようともしなかった。

 顔が、泣き顔に変わるなんて。

 ――たすけて(TT)

 あまりにも率直な救援要請。

 それが真人に、今まで真人が抱いていたものよりも、事態はずっと早く進行していたということを悟らせた。

 鈴は独りで耐えていたのだ。あり得る話だ。真人と同じことを考える鈴なら。

 涙をこらえ、笑みを浮かべながら創作文を打つ鈴。

 その間に、学校では、なにをされたのだろう。

 殴られたのか。蹴られたのか。からかわれたのか。水をかけられたのか。独りにされたのか。

 こういうときほど、見えないものへの想像力というものは幅を利かすもので、今の真人の脳内にもありありと荒唐無稽な、惨憺たる光景が浮かんできた。

 ただの間違いで、意味のない妄想だったとしても、もうそれは真人にとってどうでもよかった。

 助けを求められた。ならば自分のすることはなんだ。

 そんなこと決まっている。

 真人の頭は急激に単純化されていった。

 そしてそれを、真人は図らずも嬉しく思った。

――わかった。助けに行く。

――うん(TT)

――今すぐ。助けに行く。

――うん(TT)

やるしかない。

真人は立ち上がる。

まずは出発の準備だ。向こうから帰ってきてくれるまで待っている理由はない。会えるならなるべく早い方がいい。

ジーンズを履き、学ランに着替え、ハチマキを締めて、簡単な水と食料をバッグに入れた。

部屋を出て、走り出す。

真っ先にあいつのいる部屋へ。

言いたいことは山ほどあった。

真人は、恭介への、立ち向かいの仕方というのを今やっと心得た気がした。

今まで自分はあいつと同じ立場に立っていなかった。

恭介の言うとおり、自分ははるか雲の下にいて、甘ったれのはな垂れ小僧の言うようなことばかり吐いていた。

理屈をこねくり回してぎゃーぎゃー攻撃するだけで、なにも為そうとはしなかった。そのことが今、はっきりと理解された。

物を動かす力というのは、ここにある。

今真人の胸の中にある、理屈などを飛び越えた、意志の力なのだ。

「おらぁ!」

 思いっきり恭介の部屋の扉を叩く。

「出てこいよっ! 出てこい! 恭介!」

 ルームメイトの人はいなかった。恭介が消したのだ。のそのそと這い出るように現われた恭介の背後には、大声に怯える彼の友人の姿はない。

 恭介は、顔色が悪かった。

「こいつは、穏やかじゃねぇな」

 息も切れ切れ、まるで一大決闘の後のようだったが、目つきだけは先刻のまま、鷹のように鋭く、斬りつけるように真人を見すえていた。

 恭介もようやく、相手が自分と同じ壇上に上ってきたということを悟ったのかもしれない。

 人間が本能的に恐れるのは、理屈に強い人間じゃない。恭介のような、理屈をどれだけ浴びせても知らんぷりをしていられる人間だ。

 真人も同じような人間になったのだ。

「一応訊いておくが、おれになんの用だ?」

「決まってんだろ。今すぐ併設校を『終わらせろ』。鈴を解放してもらう」

「はっ」と、恭介は驚いたように笑う。

「それじゃ、まるでおれが鈴を誘拐したみたいじゃないか」

 冗談っぽく、からからと笑う。

 だが目までは笑わなかった。決して気の抜けた笑みを見せることがない。一瞬たりとも真人の動きから目を逸らさない。

 やばいな、と恭介が小声で呟いた。

「それはできない、真人」

「なんでだよ」

と真人は言った後、にっ、と笑みを作った。

「とは、言わねぇぜ?」

「は?」

恭介が動揺を見せた瞬間だった。

「てめぇがどう答えようが、もうこっちはどうでもいいんだよ。てめぇの話なんか聞きたかねぇ。オレは、オレのやりてぇことをしにここに来た」

 真人は恭介の胸ぐらを掴んで、面前に引き寄せた。

「てめぇとは親友だから、後腐れねぇように本気で殴る。手加減なんかしねぇよ。今すぐ鈴を帰しやがれ。兄妹だからというのはなしだぜ? こっちはあいつの男だ。今すぐ鈴をオレのところに返せ。オレを向こうに代わりに送れっていう話はもういい。中途半端だったな、あれは。もう併設校を『終わらせてくれる』だけでいいよ。さっさと『終わらせろ』。でねぇとこれからてめぇの顔を、女にまったくもてねぇ顔にしてやるぜ?」

 恭介はすこしそれに怯んだようだったが、その後でまた眼力を取り戻し、再び斬りつけるような眼差しで真人を睨んだ。

「ふざけんな。鈴は、まだ一人で頑張っているんだぞ?」

 その一言が真人の怒りを爆発させた。

「てめぇが言うのかよぉっ!?」

 右腕を後ろに大きく振りかぶり、恭介の顔に叩き込もうとした。――そのところで、右から猛然と突進してくる「何か」があった。

 その「何か」は、棒きれのようなもので、思いっきり真人の腕を叩きつけ、その勢いで体当たりをし、真人の体を横に大きく吹っ飛ばした。

 真人は倒れたが、すぐに起き上がる。

「てめぇっ――」

 目の前にいたのは、信じられない人物だった。

「謙吾!?」

 恭介のすぐ傍に謙吾が立っていた。わずかに切らしていた息を、ぐっと呑み込み、冷然とした面持ちで真人を見下ろす。

「止めろ、おまえら」

 今ここに来て、自分たちの今のやり取りを聞いていたわけではないくせに、平然とそんなことを言ってのける謙吾に、真人は堪忍袋の緒が切れた。

「おいてめぇ! なんなんだよ!? なにしてんのか本気でわかってんのか!?」

「貴様こそ、なにをしているのかわかっているのか?」

「恭介のことをぶん殴んだよ! そのどあほ野郎に――鈴の痛みを半分でもわからせてやらねぇと気がすまねぇ!」

「ふん」と、謙吾は薄目で軽蔑するよう。

 竹刀の切っ先を真人に向け、こう続けた。

「そうはさせんな」

「は?」

「おまえに、そんなことはさせん、と言ったのだ」

「あ? くそ野郎が……てめぇ、後悔すんなよ……」

 真人は標的を謙吾に変え、ファイティングポーズを取った。

 いつもは遊び半分のバトルだったが、このときだけは相手の骨を二、三本ぶち折る気でいくつもりだった。

 鈴がかかっている。もうあんな酷いところに置いたままにしてはおけない。それは分かりきっているはずなのに、何故、ここで謙吾が止めようとするのか、どうにも腑に落ちないあたりが、真人の闘志の光をわずかに鈍らせた。

「てめぇ、本気なのかよ……」

「本気だとも。貴様が、今ここであくまで恭介のことを殴ろうというのなら、おれは貴様に剣を振るうのもやぶさかではない」

「やぶさかだろうが殿様だろうがどっちだっていいんだよ! しゃらくせぇっ! 邪魔すっとてめぇまでぶっ飛ばすぞぉ!」

 真人は床を蹴って、謙吾の間合いに大きく入っていった。防御を顧みない特攻型だ。だが、謙吾から攻撃を一打でも二打でももらったとしても、真人は突っこむ以外に戦法が思いつかなかった。それほど真人は逆上していて、打撃の感触に飢えていたのだ。

 謙吾はそんな猪馬鹿を正面から迎え撃つような戦法は取らず、紙一重に真人の大振りを横に交わした。

 ちっ、と忌々しげに謙吾は舌打ちをつく。

 そこで竹刀をうねらせようとしたところを、後ろの恭介が大声で遮った。

「止めろっ!」

 体がぴたりと硬直し、その分真人の追撃を避けるのが一瞬遅れてしまう。避けきれないと分かった謙吾は、敢えて前に体を傾け、竹刀を打ち込み、真人の攻撃の勢いを削いだ。

 腕と胸にわずかなダメージをもらい、両者相飛び退く。

「いい……わかったよ」と、恭介は悲痛な表情で言った。

「鈴はもう帰す。全部おれが悪かった。だからもう喧嘩すんな。明日にはきっと帰すから……」

 恭介の瞳は揺れていた。後悔と驚愕と、迷いと疲れにまみれて、泥だらけになっていた。

 そんな恭介の眼差しを見ると、まるで孤高のいただきに上っていた狼が、地に堕ちて、泥鼠になったようで、真人は一種の寂しさを感じた。

「なにがなんだか、もうわからねぇよ……いいよ、鈴は帰す。明日にはきっと帰す。このことは……次回に回そう。もうおまえら、帰ってくれよ……」

 そう言って、恭介は寂しそうな表情のまま、部屋の中に戻っていった。恭介の孤独は憐れんでやれない。そうだと言って、自分にはどうすることもできないのだから。

 謙吾は落ち着いた顔に戻って、ぴっ、と竹刀を一振りすると、逆手に持ち替えて、腕を下ろした。

 真人がまだ寂しさとともに、やり場のない怒りを抱えていると、謙吾は、ぽん、と肩を叩いた。

「真人」

「なんだよ」

 真人はまだ怒っていた。なにかに対して――なにに対して自分がこんなに腹立たしいのか、わからなかった。

「恭介のことは、許してやれ」

「なんでだよ」

 真人はすぐに疑問を発した。そうだ。まだ自分は恭介に怒っているのだ。言うことを聞いたからってなんだ。それで鈴の苦しみの何分の一かは戻ってくるというのか。

 むしろさっきのやり取りだけで引き下がってしまった恭介の情けなさが、また一段と真人の心に火をつけていた。

「それは、簡単だ」

 謙吾は、真人のほうを見ずに、壁のほうを見て続けた。

「おれたちは、仲間だ」

「……」

「いつからおれたちは、敵同士になった……」

 重い言葉だと、真人にはよくわかった。

「そんなの、オレが訊きてぇよ……」

 最初に敵になったのは恭介だ。自分からじゃない、と真人は心の中で確信した。

「おれは、そうではないと思う」

「あ?」

「おれたちはまだ敵同士なんかになっていない。最初から仲間で、今でも大の親友だ……」

「……」

 真人は、自分の中にいまだにくすぶっている怒りが、いったい誰に向けられているのか、ほんのすこしわかった。

「真人、どうして仲間に拳を振るうんだ……」

「……」

 それが、謙吾の真人を止めた原因だった。

「それじゃ、なにも――……いや、止そう」

 謙吾は真人の肩から手を離す。

 こちらを見ないまま、去っていく。

「じゃあな」

 真人は一人取り残された。

 ぽりぽりと頭をかく。

怒りはもう消えていた。

 一人きりの廊下。誰も通ることがない。

 世界が終わるのはもうすぐ。鈴と一緒にいられるのももうすぐ。

 世界が終われば、自分たちは炎に焼かれて灰となる。

 それなのに、自分たちはどうして争うんだろう。

 鈴は生きていく。理樹と一緒に、これから先も生きていく。

 自分たちはいったいなんなんだろう、と、真人は、手に持ったバッグを見つめて、涙をひらりと流した。

 携帯には、「オレが学校に談判して、明日帰れるようにしたよ」と、大嘘を書いた。

 

 

 ◆

 

 

 鈴は見事耐えきった。

 土曜日の朝、悄然とした顔で鈴は車から降りてくる。

 去っていく車。出迎えにはだれも来ていない。

 もうこの世界には、そんな役者さえいないのだ。

 鈴は荷物を引きずり、よたよたと歩き出す。

 真人はそんな鈴を、走り寄って正面から抱きしめた。

「鈴」

「……まさ、と」

 ぎゅっとTシャツの胸を掴んで、額をそこに押しつけ、片手でぽかぽかとお腹を殴る。

「ばか……ばかっ。来てくれるって、言ったろ」

「わり……」

 本当に悪い。悪かった……、そう、鈴に謝ろうとしたときだった。

 鈴がふと顔を上げる。その鈴の顔は、ばーかっ、と、気前のいい微笑みなのかもしれなかった。

 断定でなく、それが真人の推量であるのは、顔がぼやけてしまって見えなくなってしまったせい。

 あたりの景色も一緒に薄れていく。

霧が漂い始めたように、白い霞みに埋められていく。鈴の体が消える。感触がなくなる。

木も見えなくなる。体育館も、グラウンドも、土も、花も、空も、雲も、鳥も――。

 恭介の声がどこからか降ってきた。

「終わりだ」

その声の調子を聞いただけで、真人は事態を悟った。

「理樹は三枝の問題をクリアーした。すこし冷や冷やしたが、これでミッションクリアーだな」

 真人は口を開けてぼうっとした。

「リセットする。――もうこれで五人目だな。あとはもう、おれたちしかこの世界に残っていない。維持を続けるのはそれだけまたきつくなってくるだろうが、あともう一踏ん張りだ、頼んだぜ、真人、謙吾」

「おい……」

 真人は、精一杯声を振り絞った。

「おい……くそったれが。てめぇ、恭介!?」

「ん?」

 恭介が平然と返事をする。

それは、なんて素っ気なく、元気で、無邪気でいて、嬉しそうな――。

「なんだ? どうしたんだ、真人」

 真人は、自分が、とんでもない馬鹿野郎だったと悟った。

 心底馬鹿だった。

 独り相撲だった。恭介の手のひらで遊ばされていた。

 あの恭介は偽物だった。

 あれは恭介が作りだした幻影で、こちらが本物の恭介だ。

 泣いて、へこんで、迷って、後悔して、くたびれていた恭介は、すべてこいつが作った――。

「てめぇ……演技だったのか!?」

「くっ」

 恭介がかすかに笑う。遅ぇよ、と嘲笑しているかのようだった。胸にぽっかりと穴が空き、真人は口を閉じられない。ひゅー、ひゅー、とそこから力が抜けていく。

「人聞きの悪いこと言わないでくれるか。そんなの、おまえから見た都合だろ。おれはなにも演技なんかしちゃいないぜ。ただ、理樹が本当にいいタイミングで三枝の問題をクリアーできるかどうか――まぁ、そろそろおまえの話も終わらせたいと思っていたのは事実だが――一発で全部が綺麗に終わるかどうか、その吟味をしていたんだよ――」

「なにが綺麗だ! くそったれが!」

 どっちみち同じことだ。

あの、迷いの瞳は、鈴のためを思っていたんじゃない。すべて真人たちを出し抜き、自分だけの都合で、もっとも面倒じゃない世界の終わりを作り上げるためだったんだ。恭介が「今すぐ」ではなく、「明日」と、鈴の解放日を特定した時点で、なにかおかしいと気づくべきだった。ただ真人は、恭介の寂しそうな顔に気圧されて、そこまで強く言えなかったのだ。

 まぬけだった。情にほだされて、まんまと罠にかかった。

 謙吾の言っていたことだって本当だ。間違いじゃない。ただ恭介はその上をさらに言っていた。

 失望しているのか、または後悔しているのか、謙吾の声はない。ただ恭介の明朗な声だけがしんしんと響く。

「おまえはよくやったよ、真人」

「そんな言葉は聞きたくねぇよ!」

 無い腕をぶんぶんと振り回す。

はっははははははは、と恭介が笑う。

 鈴を戻せ。戻してくれ。戻してほしい。自分の腕の中に。ただそれだけを訴えたくて、真人は見えない手を振り続けた。胸に空いた穴が力をどんどん吸い取っていく。

 なにもかもが無意味に思えてくる。なんだか疲れてしまった――。

「おれは、おまえに感謝しているんだよ。とてもいい練習台になったぜ? これで鈴の物語が考えやすくなった。最高だ、よくやったよ」

「くそ……」

 鈴。

 泣きたくなる元気も、もはやなかった。

「……おーい? もしもーし?」

 そんな中で、誰かの陽気そうな声が真人の耳に届く。

「やっほー、はるちんだよー♪」

 三枝葉留佳。

 世界は――、ひとたびこのように完結すると、必ず残ったメンバーたちとの間に、お別れ会が実施される。卒業していくメンバーとは、実質的に最後の別れとなるからだ。

来ヶ谷を除いてこれで四度目だ。たしか、この前はクドだった。

 葉留佳とはあまり仲がよくなかったし、いつもうるさくて苛つかされていたからあまり寂しくもない。感慨や感傷に浸るのも飽きて、真人は呆けていた。

「理樹君とももうお別れかぁ……本当に寂しいけど、もうしょうがないね。満足するほかないでしょ。それよりも、はるちんってば、ずっとこういうミッションをやってたってこと忘れてましたヨー! やはは、ごめんごめん!」

 相変わらず馬鹿だ、本当はそんなことよりも、寂しくって、悲しくって、泣きたいくせに、どうしてそんなに笑えるんだろう、と真人は葉留佳のことが憎たらしくなると同時に、眩しさも感じ、わずかに感化されて、心がすこし軽くなった。

 そういえば、葉留佳とはよくこんなやり取りをしていたっけ。色々いたずらされて追いかけ回したっけな、と思い出す。そうすると意識がどんどん過去に遡っていく。傷がなかったころの、あの、楽しかったころ――。

「はるちんがいなくなって理樹くん、大丈夫かなぁ? もう鈴ちゃんしか女の子いないじゃん。……はっ、そうか、もしかして、はるちんってターゲットにされるのものすごく遅すぎっ!? ストライクゾーン遠しっ!? がーん……もてない女だぁ。よよよ……」

 知るか。どうでもいい。泣きたければ泣けばいいんだ。相変わらず脈絡の無い。泣き方の下手なやつ。

 だけど、そういえば葉留佳は昔からこういうやつだったような気がする。泣きたくても、素直にそれを誰かに見せたことなんてなかった。いつも笑いを混ぜて、冗談と、真実の間を行ったり来たりしてた。その途中で自爆して、本心なんかすべてあやふやにしてしまう。結局なんなんだ、っていう感想になって、周りからはいつも勘違いされて生きてきた。

 それでも気づくメンバーは気づいていた。葉留佳はそういう人間たちからいつも心配されていた。

 真人は、そんな葉留佳のことを嫌いきれてはいなかったと思う。近くにいるとうるさくてかなわなかったが、綺麗で純粋なやつだった。だからそんな思い出も優しく思い返せる。傷ついた心に、優しく溶ける軟膏のように。

 心地よい。

 だんだんと、元の真人に戻ってくる。

 開いた穴が埋まったわけじゃない。後悔の念が消えたわけでもない。ただ、日常に帰れるくらいには、足腰もしっかりしてきた――。

「でも、みんなと最後までいれたんだから、嬉しいですヨ、やっぱ! ありがとう! 理樹くんと離ればなれになっちゃっても嘆かないよんっ! お姉ちゃんとも仲直りできたしね! ……あ……や、やはは。それでもお姉ちゃんを置いてっちゃうのは、やっぱりちょっと残念というか、申し訳ないけど……」

 真人は心で、葉留佳と姉の関係を想像する。そしてそれを引き合わせてやった理樹。

 話でしか聞いてないが、大変だっただろう。

 そんな葉留佳に、真人はわずかな親近感を覚えた。

 今なら親しく語れるかもしれない。だが語りかけるほどの元気はまだない。そう思っていたところへ――、

「恭介くん、ちょっと、真人くんと話させてほしいんだけど、いいかなっ?」

 葉留佳が妙なことを言ってきた。恭介が「ああ、いいぜ」と言う。

 葉留佳は「やった♪」と笑って、ぴょんっ、と自分の近くに飛び込んできた。

「ねー。真人くん」

「なんだよ」

「あっ、返事してくれた♪」

 なぜだか嬉しいらしい。

まったく意味のわからない女だ、と真人はぼやく。次第に心の中が日常へと引戻されていく。

 傷は動かない。

 でも心地が良い。どうして傷ついた後で、こんなに良い気分になれるのだろう。

 目を閉じると、奥のほうにとある光景が浮かんでくる。

 ある昼時、放課後、早朝――いつでもいいが、自分は葉留佳と隣り合って席に座っている。二人きりの教室だ。自分はいつもの席、葉留佳は理樹の席を拝借して――。

「どうして、そんなに嬉しがってんだ?」

 真人は頬杖を突いて、いかにもつまらなさそうに葉留佳に目を向けた。

「うん、そりゃあさ。だって、真人くんって話し方とか声、いつも通りになってたし」

「へ? そうか?」

 真人はすぐ目を丸くする。葉留佳は嬉しそうにくすくすと笑った。

「あはは、それですよそれー。いつもの真人くんじゃん。も、だってさ、さっきまでの真人くん、ちょー怖かったもん。ドスきかせた声で、『三枝ぁ……金持ってねぇか? どうせもう死ぬんだろ? だったら全部オレに金貸してくれ……』と言われるかと思ってましたもん……よよよ……」

「勝手に人のこと最低男にするんじゃねぇよ……それで泣かれても反応に困るしよ……」

「やははっ、ごめんごめん♪ めんごめんご!」

 オヤジかよ、ばーか、と真人はあからさまに嫌そうに葉留佳から目を離す。窓の外の、雪の降る景色を見つめる。

 理樹との別れは、ことのほか気にしていないらしい。恋人だったのに、これが、ちゃんと心に決めてゴールを迎えたやつと、そうでないやつとの違いか、だったらうらやましい、それにしても陽気な女だな、と真人は思う。

 その陽気さに当てられると、こちらもすこしは陽気になる。

「真人くんって結構女の子に優しいじゃん……理樹くんみたい」

「ん?」

 理樹と似ていると言われて、嬉しがらない真人ではない。

「おう、そうだろ。オレと理樹は、まっ、本当の兄弟みてぇに仲いいからな。女に優しいのは……そうだな、きっとどっちも女にもてねぇ組だからだよ」

「やははっ、なっるほどー♪」

 葉留佳は面白そうに笑う。真人もそうするとなぜだか気分も晴れてくる。

 笑う門には福来たり、じゃないが、最後の別れだから、という理由も大きく違う。

 誰相手にだってこんな気持ちになったりはしない。

 きっと、葉留佳は自分と同じだと思ったからだ。

「ねぇねぇ、真人くん?」

「おう、なんだ?」

「鈴ちゃんのことなんだけどさ――」と、葉留佳はすこし緊張したように言う。

「ほんとは、前々からずっと好きだったでしょ?」

「――」

 どうして、わかったんだ、と真人は一瞬驚いて、それから顔を綻ばせた。

「まあな」

 観念してしまうことにした。

そうすると心がずっと軽くなる。

「やっぱりー♪」

 なにかが嬉しいらしい。葉留佳はきらきらと目を光らせて、詰め寄ってきた。真人もにかっ、と屈託なく笑う。

 なんだかとても似た者同士な自分たち。お疲れさま会のような空気は、気分が良かった。まだなにも終わったわけじゃないのに。

「初恋だったっけなぁ」

「おおおっ!」

「小学生んときの話だけどよ」

 真人は照れくさそうに鼻をかいた。

 鈴のことが好きだった。小さいころからの好きな相手だった。ただ、あれを恋と呼ぶべきかどうかは不明だ。べつに明らかな恋愛意識を持っていたわけじゃないし、好きになったのも唯一親交のある女子だったという理由が大きかった。

 自分はどちらかというと、恋を友情の延長上にあるようなものだと考えていた。もちろん女限定。理由もなく、ただそういうものだと思っていたのだ。

 もちろん、そんな曖昧な感情が長続きするわけもなく、あっけなくその恋は潰えてしまった。いつのまにか無くなってた。それから真人は、鈴と普通の「友達」になった。

「で、今になってそれがようやく成就したってこと?」

葉留佳は聞いてくる。

「さぁな」と真人は言って、窓の外を見た。

「いや……そうじゃねぇか」

 向き直る。

「きっと……全然違ぇよ。今の気持ちと昔の気持ちは。うまく言えねぇけど、初恋って、男限定かもしんねぇけど、夢みてぇなもんなんだ。全然現実的じゃねぇ。相手のことなんか考えられねぇし、自分の気持ちを持ってるだけだ。それを言い出す勇気もねぇし、意味もねぇと思う。抱えているだけで満足だったんだ」

「ふーん」

 葉留佳はよく理解できないようだった。でも興味ありげによく聞いている。

 こういう話にはなにか酒的なものがほしい。酒は飲めないからジュースか、つまみでも。

 でも手持ちはないが、とにかくほしい。

「どうして、そんなこと聞くんだ?」

「うん」

 うずうずと、ずっと言いたそうにしていた葉留佳は喜んだように返答をする。なんだか自分ばっかりしゃべってしまって悪かったな、と真人は心の中で思う。

「鈴ちゃんがいなくなっちゃって、真人くんはやっぱり、寂しい?」

 変なことだ。

「やはは……言いたくなかったら、べつにいいんすけど――」

「逆だろ」

「へ?」

「オレが寂しいんじゃねぇ……鈴のほうが寂しいんだろ」

「どゆこと?」

 葉留佳が眉をひそめる。

真人は時計を見た。

黒板の上にかかっている壁時計だ。綺麗に六時を指している。

「オレらがいなくなるからさ――理樹たちが、オレらの前からいなくなるわけじゃねぇ。だから、それはまったく逆なんだ」

「……」

 葉留佳はそっと目を伏せた。

 どうしようもない現実。

 なにか希望のある話を葉留佳は聞きたかったのだろう。だがそれは、落ち込んでいる自分には無理だ。こういう気分なんだ。申し訳なかったが――。

「……後悔してるの?」

 葉留佳は一部始終を知っていたのかもしれない。

「後悔してるよ」

「どうして? なにに?」

「知らねぇ。なんだかわかんねぇ……」

 真人は両手を頭の後ろで組んだ。

「なにそれ」

 葉留佳は呆れたように頬杖をついてそっぽを向いてしまう。

「なにかが悪かったかもしれねぇ。でもそれはもう取り戻せねぇし、今さらとやかく言えることでもねぇ。でも、だからって……オレはなにも後悔しなくて済んだってわけじゃねぇんだ……」

「真人くん」

 葉留佳がこちらを振り向いた。

「なんだよ」

「今から、恭介くんに文句言ってこようか?」

「いいよ。止めろ。そんなこと言ったってどうにもならねぇよ……」

「でもさ、」

「もうやり直すことができねぇんだ。やり直したって、ますますこっちが惨めになるだけだ……無理なもんは無理だ。そうやって割り切ることが、オレにとっての恭介への反抗なんだ……」

「変なのだなぁ」

 葉留佳はまたも呆れたように溜息をつく。女にはわからないだろう。変なのだっていい。鈴とのことは、そんな簡単に取り戻せるほど安いものじゃない。

 誇りだ。自分は恭介のやり方を憎んだ。だからこそ、恭介になにかをさらにお願いして特別処置をしてもらうなんてこと、絶対にダメなんだ。

「でも、鈴ちゃんは真人くんと付き合って絶対後悔なんかしてないと思うですヨ」

「そりゃもちろん、オレもだよ」

「だったらいいじゃん」

 葉留佳はちょっと怒ったように言った。

 真人は目を丸くする。

「へ? いや、でもよ……」

「鈴ちゃんは後悔してないよ。それに真人くんもそこは後悔してないんでしょ? だったら、あとはなにに後悔するっていうの?」

「え……っと、なんだろな?」

 考えてみたらなにもなかった。それがわかると、心がぶわっと溶けて、晴れやかになっていく。

 固まっていたものが溶けて、爽やかな風のように変わって消えていく。

 悲しいことがあった。

 つらいことがあった。

 でもそれが癒えてくれたわけじゃない。

 けど、なんだろう、この気持ち。

 良いものとして、受け入れてもいいような気がする――。

「もうそれでいいじゃん」

「あ、そうだな……」

「とにかくもう、なんだかんだ言ったってしょうがないですヨ。私たちは死んじゃうしさ、理樹くんは意外とプレイボーイだったしさ……」

「あっ、そうだよな」真人はやっと葉留佳の気持ちを察する。

「あいつ、結構色んなやつと付き合ってんだよな……」

「は〜あ……」

 ほろり、と葉留佳は涙する。結構本気の涙だった。真人はすこし動揺する。

「あれっ、やっちまった」と、葉留佳は鼻をぐずぐずする。

 やっぱり女の子にはとてもつらいことなんだ。自分だって鈴が理樹と付き合うとなると、泣きたくなるかもしれない。

 でもそれはどこかで必要なことで、自然なことだと思う。

 受け入れることで、なにかに繋がる強さもある。

 新たな馬鹿もやれるようになる。

「理樹くん……鈴ちゃんときっとエッチなことするよね……」

「知らねぇけど、仲良くなればするかもなぁ」

「さっさと死んじゃったほうがマシかぁ……」

 答えられるわけなどない。しん、と教室が寂しくなる。

「まっ、オレはもうちっと生きるけどよ」

 葉留佳はごしごしと目元をふいた。

「ふ、ふーん……」

 そう言うと、葉留佳は、よっ、と立ち上がる。

 がたがた、と椅子を戻して、ぱんぱんと制服の埃を払う。

 目元にたまった涙を拭った。

「そろそろ行くね」

「おう」

「怖いけどさ……もうしょうがないし。ここにいても、恭介くんたちに迷惑かけるだけだもん」

「三枝」

 真人はふと葉留佳の名前を呼んだ。葉留佳は、なに、と目を丸くする。

「その……ありがとな」

 真人は少々照れくさそうに言った。葉留佳はきょとんとした後、ふっと微笑んだ。

「オレ、なんとかもう一回やってみるよ。生きるのもつれぇけどさ、まだなにかやり残したことがあるんだ……」

「そっか」

「おう。それが、『後悔』なのかもしんねぇ。その後悔を、次の一回で埋めてみるよ」

「うん」

 葉留佳はとことこと教室の外に向かって歩いていく。扉を開けて、立ち去り際にこちらを再び振り返る。

「はるちんが元気づけに来て正解だったね」

「あ?」

「真人くん……前よりずっとかっこいい顔になってる」

「……」

 真人は目を丸くしてしまった。

「それなら、理樹くんのことも任せられる」

「けっ……」

 真人は微笑んで、窓の外を見た。

 白い光が、まるで曙のように、斜めに入り込んでいる。

 眩しくって、また葉留佳のほうに顔を戻した。

「任せろ。なんとかあと一回やってみせる。恭介のことはむかつくが、尊敬してやる。謙吾のことも面倒くせぇが構ってやる。鈴と理樹は……オレが守る」

 葉留佳はそれに微笑みだけで答えて、廊下のほうへ出ていった。

 最後にぴょこんとお下げと顔だけ出して、別れを告げた。

「じゃあね!」

「おう」

 真人は手を振って、見送った。

 世界が明けていく。

 白い輝きにすべて包まれていく。

 その奥で、水たまりに白い波紋が三つ。

 力強く、三つの波紋が立った。

 真人と恭介と謙吾。

 理樹と鈴を見守る最後の世界が、静かに始まった――。

 

 おわり

 

 

 メニューへ

inserted by FC2 system