そういうことだったのか――、と自分の見通しの誤りに気づけたのは、校舎の入り口に立っているのが恭介でないと気づけたときだった。

 もっと背が低く、撫で肩で、女性らしい姿をしていた。

「……鈴」

 ちりん、と、玲瓏な鈴の音が夜の闇を駆ける。

 もう長く、その名前を呼んでいないような気がした。

鈴は黙ったまま、闇の中から真人の顔を見つめている。

「あ、あのよ……」

 謝ろうと思った。

だが、いったいなにを? と反問しても、その問いの答えはすぐに出てこない。

 情けない。だが、自分はなにか鈴に悪いことをしたような気がしてならない。間違ったことを言ってはないが、なにか、どうしようもなく悪いことをした――。

 なにを言うべきかはっきり見つからないまま、真人がまごついていると、鈴はこちらに背を向けて、すたすたと一人で校舎へと入っていってしまった。

 人が一生懸命悩んでいるところを、と真人は頭に来てその後を追いかける。

 だが追いついて再び声をかけようとする直前に、真人は鈴の背中にぶつかってしまった。

「あ?」

 なんだか懐かしい感じがする。

 前にも似たような経験があったかもしれない。

鈴は目の前の闇を直視して、硬直している――。

「おい、おまえ――」

 触れ合っているところが、ぶるぶると小刻みに震えている。

 寒いからではない。

「怖ぇのか?」

 と言うと、やはり図星だったのか、はたまた甘えだったのか、鈴は真人のほうにそっと手を伸ばしてきた。

 真人は言われるまでもなくその手を掴む。

 そうすると鈴は、ふっと微笑んでくれたような気がした。

「まさと」

「お?」

 こっそりと、まるで内緒話でもするように鈴は呟き、真人は返事をした。

 その素直な答え方が嬉しかったのか、はたまた、鈴にはなにか特別な意味があったのか、ほのかに嬉しそうな声になって、続けた。

「ありがと」

「?」

 真人にはなんのことだかわからなかったが、鈴は、それからはもう元の恋人のように戻って、真人の身に寄りかかってきた。

 真人はふわふわと夢心地なまま、静かな時が流れる、校舎の中を進んでいった。

 ここからはすこし、真人の思考を離れよう。

 鈴は――おそらく、今のやり取りで、真人の愛情がなんら少しも変化してなかったことに気がついたのだ。

今まで自分は勘違いをしていた。消え失せてしまった、なくなってしまったと思っていた愛情が、ひょんなところから顔を出す。それを見ると元通りだった。そんなときに人間は嬉しがらないことはない。

 校舎に入ったとき、なんの気後れもなく追ってきてくれたこと。

 そして手を差し出したら、すぐ受け取ってくれたこと。

 こんな簡単なことでも自分は喜べる、と鈴は素直に感動した。

 恭介から言われたことも様々あった。そのどれもが難しいことで、鈴にはよくわからなかったが、今は、不思議と真人に対して怒れる気持ちも失せていた。むしろ謝っておきたかった。一時の感情に心を任せると、現実では不思議なことが起きる。なぜ、ああ言ってしまったのか、怒りを飛ばしてしまったのか、冷静に考えれば、おかしなことになる。こうして重なる手の温もりが彼の優しさを示してくれる。確かな言動や、愛に満ちた台詞、お金や贈り物などいらない、本当の愛情は、こうして見えないところからやって来る。鈴にはそれがなんとなく理解できた。

 もう疑いはない。

 信じることができる――この温かさは。

 それは、事の真実がどうであろうと、すべてを許せる気遣いへと変貌していくのだ。

「ほんとに誰もいねぇな……物音一つしねぇぜ」

 鈴はなにも言わなかった。こうして手を繋いでいるだけで満足だったのだ。

「おい、どうするよ、鈴? どっか行きてぇとこあるか?」

 そう語りかける真人の声は、優しげだった。

 ひょっとすると自分の言ったことを後悔しているのかもしれない。そう考えると、あとに残ったわずかな真人への恨みも、綺麗に晴れる。

 むしろ可愛くさえ思えてくる。鈴は微笑んで、真人の耳をくすぐったくするように細い声で伝えた。

「どこでもいいぞ?」

「どこでもいいって言ったってなぁ……こんな真っ暗じゃ、おまえの顔も見えねぇし」

「じゃあ、屋上に行かせて」

「屋上?」

「うん」と、鈴がうなずいた。

「そこなら、よくこっちの顔も見えるし、誰も来ないだろ?」

 真人がここで大いに赤面したのは、暗闇に隠されていようとなかろうと、鈴には伝わった。

 自分だって赤面しているのだ。こうして身をすり寄せるのは相手が好きだからで、甘い声で呟くのもそう。誰にだってやってあげるわけじゃない。

 自分が恥ずかしがっていれば相手だってそうなはず。自分より単純なあの馬鹿ならなおさらそう。それは馬鹿にしているわけではなく、信頼の証だ。通じ合っていることこそ何よりも嬉しいと思う。

 真人は歩き出した。

 ここからは真人の思考に戻る。真人には言いたいことや、尋ねたいことがたくさんあった。

どうして怒っていないのか、鈴は併設校へ行くことになったのか、恭介とはいったいなにを話したのか、わからない謎がたくさんあった。

 でもそれも、口に出すのは憚られる――今のこの状態は一定の調和の基に成り立っているような気がした、静寂な夜の空気が、どこか触れてはならない神聖さを帯びているような気がしたのだ。

 まるで天国にいるようで、ふわふわと空中を散歩するように、真人は自然な調子で階段を上っていった。

 自分たちは屋上へ行く。

 なにをするためでもない。なんの目的があってのことか、それもどうでもいい。

理由なんて、目に見えなくたってわかる。心で繋がっているところ。その場所に見えない理由が隠されている。

 鍵の開いていた屋上の窓を開き、積んであった椅子の山に足を引っかけ、外へ出る。

 星は二人を心地よく迎えてくれた。

 涼しい風が頬を撫でていく。二人はそのままコンクリート床に腰を下ろし、壁に体重を預けながら、また前のように寄り添った。

「……着いた」

 鈴は感慨深げに溜息をつく。

ここは月明かりが照っていて鈴の顔がよく見える。銀色に、神聖に輝いている。

 真人と鈴は、お互いに相手の顔をじろじろと眺めた。

そして、どちらからともなく、ぷっ、と笑い出す。

あははは、と笑い、笑って笑い通した。

拳や肘で軽く肩を突っつき合ったりして、相手の罪を帳消しにする。

そうした後で、長い溜息を吐いて、またどちらからともなく気の抜けたように笑った。

「あほだな、オレら」

「うん」

 星はきらきらと輝く。そこで初めて、星空が満天に広がっていることに気が付いた。

「真人」

「あん?」

 こんな自然な調子で、言われたのは初めてだったのかもしれない。

「好きだ」

「おう」

 真人も、照れもせず隠しもせず、安心感をもって鈴に応えることができた。

「オレも好きだぜ、鈴」

 本当に鈴のことを、ありのままで好きになれたのは、このときが初めてだったのかもしれない。

 突き放すのではなく、また鈴の未来を思わないのでもなく、ありのままで。

自分のままで好きになれた。この世界が始まったときの自分のまま、鈴のことを好きになれた。

それは、紆余曲折を経た後の、正真正銘の終点だった。

二人はそれから、星を見るために屋上の中心へ行って、ごろんと寝そべった。

「おおー……」

 鈴が溜息をついている。

言葉を失った。

 まるで天に身を投げ出されたような感覚。星空以外に視界に入るものはない。

こうしていると、まるで世界にひとりぼっちになってしまったような感覚になる。

 だが、隣に目をやれば可愛い恋人の姿。

 繋いだ手からは、温かい愛の気持ちが伝わってくる。

「真人」

 と、気遣わしげなのは鈴の声。

「どうして、こっちのほうばっかり見てるんじゃ?」

「おまえだってそうだろ」

 面白そうに笑う真人。

「そんなオレの顔ばっか見てて楽しいか?」

「うん。飽きない」と、しれっと鈴。

「星はすぐ飽きる」

「ぶっちゃけたなぁ……」

 だけど真人も、そこには同感だった。「まぁなぁ」と仕方く呟くと、ぷっ、と鈴がまた噴き出す。それからまた笑い合った。

 こんなロマンティックな景色は、謙吾とその恋人の逢瀬のほうがよっぽど似合うかもしれない。自分たちはお互いに相手の顔を見つめているほうがずっとお似合いだ。

「あのよ、鈴」

 今なら素直に、吐けるような気がした。

「悪かった」

「え?」

 とたんに目を丸くする。鈴はすこし握る手を緩くした。

「おまえに無茶なこと言っちまったよな……ほんとにすまねぇ。やっぱ無茶だったよな、ありゃあ。なんだかんだ言って、オレは結局オレの頭でしか考えてなかった。それでおまえを泣かせちまった……泣くのももっともだよな。ほんとにごめんな」と素直に謝ると、鈴の顔はみるみる感激するようになって、ぎゅっと手を強く握り返す。

 どうして自分は一人だと思ってしまったのだろう。鈴と一緒に考えればよかった。

想ってくれる恋人がこんなに近くにいるのに、自分はそれを見なかった。馬鹿が一人で考えたって、馬鹿な考えしか浮かんでこない。それは自然の摂理だ。

相手のことを本当に大事にしたいなら、まず相手のことをよく知って、もっと素直に考えなければならなかったのだ。

「あ、あたしもっ」

 鈴は涙をためて言った。

「ごめん、真人……」

「あ?」

 鈴はちょっと焦ったように吐き出す。

 ずっと、言い出したくても言えなかったこと、なのかもしれない。

「あの、前の課題の紙、出してたの、本当は真人じゃないんだろ?」

 課題の紙というのは、あの先日の鈴との仲を壊した手紙のことだろう。真人は思い出して、半分冗談に顔をしかめると、「ほんとにひどいぜ、ありゃあおまえ」と笑った。

「ごめん」と鈴は涙をぬぐって、馬鹿馬鹿しそうに笑う。

「やっぱり真人じゃなかったんだ。よく考えたら、すぐわかったんだ」

「ほぉ。どうしてわかった?」

 感心して尋ねると、鈴はもっともそうな顔になって、頬をぼんやり赤くしたまま続けた。

「だって、おまえみたいな馬鹿があんなことを考えつけるはずない」

「……」

 真人は、寝ころんだところでさらにずっこけるという離れ業をやってみせた。

「言うに事欠いてそれかっ!?」

「だって、そーじゃないか?」

「そりゃまあ、そうだけどよ……当たってるよ……」

 というより、判断の仕方がひどい。もっと、「あたしは真人のこと好きだから信じてたよ?」とか、「そんな人の悪いことするわけない」とか嬉しいことをべらべら言って欲しかった。まぁ、期待するだけ無駄というもの。

「だから、」と、続ける鈴。「あれは……本当は真人じゃなかったんだ。ほかのやつだった。あたしはそれがわかったときから……ずっと、それを謝りたいと思っていた……」

 そこでまた泣きそうな顔になる。真人は目を外して、夜空を見上げた。

大方、恥ずかしくって言い出せなかったんだろう。それに、今さら言ったところで真人の決意は変わらない。「行け」とさらに続けて言われることはわかり切っている。それならわざわざ自分の勘違いを伝える必要はない。けれど仲直りをしたい――。鈴も鈴で同じことを悩んでいたのだ。

真人はそれを知ると安心して、くっくっくと笑みをもらした。

「な、なんだ」

若干恥ずかしそうな顔をする。真人はいやいやいや、と手を振って、感慨深くなった。

「やっぱ鈴は鈴だなぁ……って思ってよ。ほんとに好きだぜ、鈴」

「んにゃっ!?」

 真っ赤になる。

「今なら『鈴、最高ぉ!』ダンスをみんなの前で踊ってやってもいいぜ?」

 真人は筋肉ダンスの振り付けをしてみる。すると鈴の顔が赤くなるのをさらに通り越して、一気に青ざめた。

「止めろ! 変なカップルだと思われるだろ!?」

「ほぉ……もう『カップル』って言葉には動揺しねぇんだな?」

「うるさいっ! 知るかぼけ!」

 半泣きでぽこすかと殴られる。真人は笑って手を前に出し、それを防ぐ。猫娘のパンチなどたかがしれている。そうすると鈴はいよいよムキになる。油断していたところを、鼻の下にもろに食らってついにKOされた。

 たちまち鈴は心配顔になる。

「あっ、ごめん! まさと、大丈夫か!?」

「い、いってててて……けっ、大丈夫さあ」

 と、顔では強がりつつも、ちょっと涙目となってしまった。鼻の下は急所だ。いてぇ、いてぇ、と笑いながら、真人は打たれたところを押さえる。

「へっ……いててっ」

「ふん。おまえが変なこと言うからだ」

 安心していいとわかった鈴は、心おきなくぷりぷり怒る。真人はそんな鈴にも可愛いと思い、にやにやしていると、今度はほっぺをつねられた。

 今度は弱めに。

 それでつっこみとボケのやり取りもお終いということらしい。真人と鈴は、もう一度夜空を見上げた。

「なぁ、鈴さ?」

「なんじゃ」

「じゃあよ……ほんとに、行っちまうんだな?」

 一瞬の沈黙。それから鈴は、事も無げに答えた。

「まあな」

「もう取りやめにはできねぇんだな?」

「……うん」

 できないんだろう。制度上、取りやめができたとしても、恭介が許すはずない。制度を曲げてまで阻止することだろう。もうあいつは誰にも止められない。

 鈴は、併設校行きに賛成していたはずの真人が、今さらこんなことを言うのはおかしいと思ったのか、不思議な顔をする。だがだんだんとその理由にも気づけたらしく、寂しそうな眼差しとなった。

「……もう遅いんじゃ、真人」

 ほんのささやかな仕返しで、そんなことを呟いてみたりもする。

 真人は怒らずに、溜息をついて笑い返した。

「構いやしねぇさ。もしそうであっても、おまえがどうしても行きたくねぇってんなら、オレが攫っていってやるぜ?」

「えっ」

 すると鈴は目を丸くして、その言葉の意味を考えたのか、嬉しそうな顔になった。

「ほんと? ほんとにそんなことできるのか?」

「ああ、オレならな」

 筋肉にかかれば問題ない。

もちろん、この世界のマスターである恭介から逃げられるはずがないが、時間だけでいいならだいぶ稼げるだろう。

 この世界がリセットされるくらいまでなら大丈夫。

 そのときまで自分は鈴を守り通す自信がある。それだけの力がある。なりふり構わなくってもいいのなら。

「どうするよ?」

 真人のこの問いは半分冗談だった。本気でその気だったなら、今ごろこんなところでぐずぐずせずに、恭介をしばらく動けなくさせて(怪我を負わせる)、さっさとこの学校を出なければならなかったからだ。

 ただ、鈴が本気で望むなら――。

「……まさと」

 鈴は、とても幸せそうな顔で真人のことを見つめ、ゆっくりと首を横に振った。

「やっぱいい」

「ちぇっ」

 予想していた答えだったが、やっぱり実際に言われるとすこしだけ傷つく。胸に小さな穴が空いたみたいだ。笑みでそれを隠そうとしても、後からじわじわと痛みがやって来る。首を振って、夜空を見上げた。

「あーあ、振られちまったか」

「ばか、違う」

 手をぎゅっと握ってくる。わかっている。そうしてくれればこそ、傷も塞がる。

 安心できる。

 自分はこうはしなかった。あのとき、自分に冷たく「行け、行け」と告げられた鈴の気持ちはこんなものじゃなかった。本当に最低だった。今さらながらに後悔される。

「あたし、今ならやれると思うんだ」

 鈴は夜空を見上げ、唐突に自分の気持ちを吐露する。

「知ってる人がだれもいない学校に行くのは怖い。ものすごく怖い。今も怖い。だけど、」

 そこで、真人のほうを愛おしげに見つめる。

 なんて優しく、温かい輝きに満ちた眼差しだろう。

「真人があたしのことを好きだって言ってくれれば、どんなことも頑張れる」

 そうだったのだ。

 鈴はそれを望んでいた。

 相互に矛盾する気持ちがある。けれど、そのどちらをも守り、達成する道は残されていた。

 気持ちが通じ合ってさえいれば、なにも怖くはないのだ。そこから出発して心おきなく人助けに励めるのだ。

 真人が鈴のことを好きだってちゃんと示してやるだけでいい。真心を込めて。それなら鈴は、なおさらその言葉に甘えることなく、前を向いて頑張ってみようという気になれる。

「いつか、頑張って、ここに帰って来れたとき」と鈴は真人のほうを見て続ける。

「みんなから祝福されたい。こまりちゃんから、はるかから、頑張ったね、って言われたい。おまけに兄貴や謙吾、理樹たちからも褒められたい。そしてそのとき……あたしの一番そばにいなきゃいけないのは、おまえだ」

 それが鈴の心から望んでいた世界だったのだろう。人助けはする。真人の気持ちも失わない。みんなも失わない。大切なものをたくさん持ち帰って、行くときよりもずっと大きな心でみんなに迎えてもらう。

 ここでもし真人と一緒に逃げてしまったら、その未来は一生得られない。

 あくまで理想を信じて突き進むという鈴に、真人は棒きれを引っかけて転ばそうとする悪党ではない。

「わかったよ」

 いくぶんやさぐれ気味に呟いてみるが、その顔は笑顔。満足げだ。その言葉さえあれば、なにもかもうまく行っていたのだ。

 真人だって信じられる。自分と気持ちさえ繋がっていれば、鈴はきっと頑張って帰ってくる。どんなに辛い目に遭ったって、寂しい思いをしたって、それには負けない。必ず最後までやり遂げる。

 そうであるなら、真人だって同じ決意をしよう。

 いつか鈴の望む未来を手に入れるために、今は敢えてそうすることにしよう。

 そう決心したときだった。

「真人……」

 甘ったるい声で、鈴がこちらに寝返りを打ってくる。

 ほとんど抱き合う形だ。真人は、動悸がしてきた。

「きょーすけは……今日だけは真人にやさしくしろって言った……」

 密着した身体から甘い芳香がただよう。鈴がいつもより百倍、千倍可愛く感じる。

 顔を近づけてきた。

 真人はそれを、とても自然に受け取っていた。

「たぶん、あの紙を送ってきてたのは……」

 鈴はその先は言わず、真人と口をくっつける。

 短いキス。

 一、二秒で顔を離して、鈴はもぞもぞと体を動かし、真人の体に乗っかる状態となる。

 そしてそのまま、また艶やかに微笑んだ。

「なにを、伝えたかったんだろ……?」

 真人はすこし考えてから、言った。

「そうだなぁ」

 頭に思い浮かんでくるのは、まず恭介の顔。

 それだけじゃない、謙吾、そして小毬、まだまだ、来ヶ谷、葉留佳、クド、美魚の面々。

 そして最後に、理樹と、鈴。

 みんなが望んでいたことは――。

「きっと、オレと同じさ」

 今度は真人のほうからキスをした。

短いキス。想いを通じ合わせて、唇を離す。

「みんな、鈴のことが好きだって……ただそれだけだったんだ」

 ずっと見ていよう。

この身体が消えてなくなっても、ずっと。

二人が好きだから。

ときには辛い目に遭わせたとしても、それは二人のため。

間違ったやり方も、正しいやり方も両方ある。

 けれど、心の奥底にあるのものは変わらない。

鈴たちが好きだ。

ただそれだけだったのだ。

しっかりと生きていってほしい。自分たちのいない世界で。

自分たちのぶんまで幸せになってほしい。

けど欲を言えば――。

またいつかは思いだしてほしい。

つらくて、さびしくて、耐えられなくなったときに、また自分たちが助けてあげられるように。

霊となって、心の中で生きるから。

長い長い、愛のキス。

月明かりは弱く、そして優しく、ときには煌びやかに、そしてときにはささやかに。

満天の星空、愛し合う恋人たちの姿を、照らしていた。

 

 

 ◆

 

 

 校門にみんなが集まっている。

 鈴は緊張して、体を強張らせたまま立っていた。

 格好がまるでお姫様だ。美貌と相まって似合わないわけではなかったが、鈴の性格を考えてみるとやっぱり変だった。

 理樹と葉留佳が一番近くにいって、鈴に応援の言葉を告げていた。

「頑張ってね、鈴!」

「……お、おおう」

 緊張しすぎて、まるで真人のような返事になっている。応援している理樹たちがぽかんとした。

「気張ってこいよ、鈴!」

 と、恭介。

「つらくなったら、あまり無理はするな。おれたちになんでも言え。つねにメールは開いておくからな。待っている」

 謙吾も、鈴に安心の言葉を贈った。

 その他のリトルバスターズのメンバーも、それぞれ「頑張ってね」とか「メール送ってきてね」とか、色々言っている。教師たちからもそれぞれ似たような言葉が述べられた。

 頑張るのは当然のこととして、鈴の立場からしたら、そんな言葉は重荷にしかならないはずだ。ここは、鈴のことをよく知っている人間ならではの言葉を贈りたかった。

「ここ出てったら、すぐにメール送るぜ」

 携帯を手に持って、それを振りながら言うと、鈴の緊張もいくぶんか和らいだようだった。

 上出来だ、と自分でも思う。

「真人」

とそっと小声で呟いて、鈴は周囲の視線を気にするように顔をきょろきょろさせる。

 もう一度最後に抱きつきたいと思ったのかもしれない。ただ気恥ずかしさが邪魔をする。真人も同じことを考えていたので、目を見合わせると恥ずかしげに笑った。

 頭を撫でてやる。その代わりに。

「オレを忘れねぇように筋肉の画像毎日送らせてもらうぜ」

「いらんわ! ぼけ!」

 胸に猫パンチをお見舞いされる。鈴は吠えた。

「それよりも、猫の写真をたくさん送ってほしい」

「おう、わかったよ。成長日記とかつけていいか?」

 それには鈴は答えず、ただおかしそうに笑っていた。

 これからは真人が猫の世話役となるのかもしれない。こっちも大忙しだ。

 もう時間になった。

 あとほんのすこしだけ話したいと思っていたのだが、もう終わりらしい。鈴の後ろに止まっていた高級車から、教師らしい壮年の男が出てきて手で合図する。するとこちら側の教師たちがいっせいに鈴を急かし始めた。

 鈴は、みんなへの挨拶もそこそこに、慌てて荷物を手に持って車に乗り込んでいく。見送る人たちはいっせいに身を前へと乗り出した。

「またねー! 鈴ちゃーん!」と、小毬。

「おれたちの代表として恥じない顔をするんだぞー! あとちゃんとジャンパー広めろよ!」

「ちゃんと救って来るんだぞー、りーん!」

 恭介と謙吾も。

「はるちんたちも応援してるよー! ほら、理樹くんもなにか言って!」

「え、えーっと……」

理樹はまごついている。

「頑張れ、鈴!」

 なにそれ、と葉留佳に笑われる。理樹は顔を真っ赤にしてしまった。

 鈴は車の窓から顔をちょっぴりと出して、親指をぐっと突き出すと、まるでこれから飛び去るパイロットのように笑った。グッドラック、と口だけ動かして言う。馬鹿馬鹿しさがみんなに安心感を与えた。真人も大手を振って見送る。

 するすると、車が動き出す。そしてそのまま静かな音を奏で、走り去って行ってしまった。

だんだんと細く、小さくなっていき、あっという間に見えなくなってしまった。無聊な空気が流れる。

「行っちゃったねー……」

「うーん」

 小毬と葉留佳がぼんやりとしている。真人も手を下げて溜息をついた。

 微妙な雰囲気になってしまったところを、恭介が手を叩いて鼓舞した。

「ほらほら、いつまでも落ち込むのは止めようぜ。おれたちにも授業がある。戻ろう」

 教師よりも先にそんなことを言い出すあたりが、恭介らしかった。

 ぞろぞろと、足もまばらに校舎へ戻っていく。その最後尾に、真人はいた。

 携帯を取りだし、かちかちとボタンを操作、メール画面を呼び出してメールを打つ。

 ――今どんな感じだ?

 約束通り、メールのやり取りである。早速返事が戻ってくる。

 ――ひどくつまらん。なんにもかいわがない。

 さっきの男はなにも喋ってくれないらしい。

恭介が用意した人形だからそこまで丁寧には作られていない。もしかしすると、それも鈴への試練かもしれなかったが、それなら仕方ない、自分が相手になってやるほかないようだ。

 ――なんだかお姫様みてぇだったな。さっき。

 ――うごきにくいだけだ。

 不機嫌そうに言ってくる。でも鈴としてはまんざらでもなかったようで、さらにこうも送ってきた。

 ――このかっこうはきねんになるな。あとでまさとにあげよう。

 ――なんでだよ。

 べつに自分に女装する趣味はない。

 ――こういうのすきだろ?

 ――好きじゃねーよ! おまえが着てくれんならいいけどよ。

 すこし経って、こんなメールが返ってきた。

 ――たまにならいい。

 なんか乗せられたようだったが、真人はそれでも面白そうだったので、そのままにしておいた。

 ――これから猫の写真送ってやっからよ。待ってろ。

 ――まて。そっちはもう授業が始まるんじゃないか?

 ――そうだった。

 そういえばさっき始業のベルが鳴っていた気がする。ちっ、と舌打ちをつき、真人はメールの会話を終わらせた。

 ――あとで送るぜ。そっちであんまり泣くんじゃねぇぞ。

 携帯のフリップを閉じ、校舎へと走り出す。その途中で、こんなメールが返ってきた。

 ――ねこのしゃしんを撮ったら、まさとのしゃしんも送ってくれ。

 泣くんじゃないぞ、の返事は無視で、返ってきたのがこんなメール。

 いったいなにに使うのか謎だったが、真人はあとで理樹に撮ってもらうと約束して、また走り出した。

 ――なるべく汚いしゃしんはとるなよ。

 真人はずっこけた。

 

 

 ◆

 

 

 早速夕べになると、愚痴の書かれたメールが送られてきた。

 ――がっこうについたら携帯とられた(∵)

それで昼間はほとんど返信が来なかったのか、と真人はようやく納得した。取られた、というのは生徒からではなくて、先生からだろう。恭介が考えそうなことだ。

今ごろ鈴の携帯は、受信ボックスが大変なことになっているはず。

 ――ひるまは携帯いじっちゃだめっていわれたんだ。なんでじゃー。

 それもまた厳しい校則だ。

 ――しねっ、ぼけが(∵)

 まるで自分に言われているようで腹が立つ。大変お怒りだ。

 ――じゃあ、オレらとメールできんのも夜だけってことかよ?

 ――うん(∵)

 少しさびしそうだ。

 鈴はその後、主にクラスメートやルームメイトたちの話題に移っていった。真人は適当に話を聞きながら、鈴が話しやすくなるように努めた。

 ――るーむめいとのひとが、ぜんぜんしゃべってくれない(∵)

 ――ちゃんと話しかけてんのか?

 ――まだ一度も。

 ――おい、おまえ。そこは頑張れよな。

 ただ鈴が尻込みしているだけかと思ったのだが、

 ――だって、さいしょに話しかけんなっていわれた。

 そうではなかったらしい。真人は言葉を失った。

 なんて環境だ。

 ――そういやぁ、先生はどうだ?

 暗くなりそうだったので、話題を転じる。

 ――せんせいは、なんであなたみたいなひとが来たのっていった。

 なんて言い草だ。腹が立ってくる。

 ――しるかー、ぼけー(∵)

 もっともだ。自分だって、「しるか、ぼけー」と言ってやりたかった。

 ――負けんじゃねぇぜ、鈴。そんなやつらなんかによ。

 ――(∵)

 なにを意味しているんだろう。

鈴は無言で真顔を向けてくる。

 ――らしくねぇぜ。そんなやつらに嫌われたって平気な顔してりゃいいんだよ。鈴の味方はこっちにいっぱいいるんだから。

 ――(∵)

 なんなんだよ、と思った。すると鈴は続けてメールを送ってくる。

 ――まさと(∵)

 ――んだよ。

 ――あたしのことすきか?

 唐突な問いだったが、答えるのは簡単だった。

真人はもう何度贈ったかわからない言葉を、また鈴に贈った。

 ――あたりめぇだろ? 好きだぜ、鈴。

 ――あたしもすきだ。

 送り終えてから、真人はやたらと恥ずかしくなった。まるで単身赴任中で会えない新婚夫婦みたいだ。愛してるよ、わたしもよ。想いが募るな、ええ、そうね。

 わーっ。

 ――よし、まだだいじょうぶだ(∵)

 こっちが大丈夫じゃないわ(∵) とつっこみながら、真人は身悶える。その()の意味がなんなのか、それを考えるだけで、鈴にもてあそばれたという濃厚な敗北感が漂ってくる。

 それから鈴は、小毬たちとも話したいと言って、そうそうにやり取りを切り上げていった。

 真人は隣の理樹が妙な視線でこっちを見ていることに気づき、顔をかちこちに堅くすると、平静を装いつつ、部屋の電気を消した。

 わめく理樹を無視して、布団をかぶる。

 

 

 ◆

 

 

 それから二、三日たった後だった。

 鈴からのメールが変化した。

 ――こまりちゃんの携帯がへんだ。

 ――なにがだよ?

 ――きのうからぜんぜんつながらない。

 ――まじ?

 突然だ。どうせ電池が切れてるだけじゃねぇか? と訊いてみても、昨日からずっとそうなんてへんだ、と言ってくる。

言い分はもっともだ。

 理由を訊いてくれとのことだったので、真人は了解して、実際にその翌日に小毬に尋ねてみた。

「う〜ん……」

 小毬は落ち込んだ顔だった。

「わたしもなんだ〜……」

「へ?」

 真人は目を丸くする。

「おかしいの。鈴ちゃんにメールを送っても、ぜんぶこっちに返ってきちゃうの……」

「……」

 真人は心が凍り付いた。どもりつつ、「まじか? ちゃんと、何度もやったか?」と確認をとる。小毬は「うん」と頷いて、さらにはこんな話もした。

「なんか、他のみんなもそうみたい……電話しても全然繋がらないし、まるで携帯が消えちゃったみたいに、『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』って」

 真人は冷や汗をかいてきた。

 おかけになった電話番号は、なんて、現に真人は昨日鈴と楽しくメールをしたのだ。鈴は消えてなんかいない。ちゃんと生きた携帯を持って、現実に存在するのだ。

 さまざまな疑念が脳を浸食していく中で、小毬は涙を浮かべて、言った。

「友だちって、なんなんだろうね……」

 真人までも貰い泣きしてしまいそうだった。

「わかんねぇ……」

「友だちって、なんにもできないのかな……」

 うつむいて、しゅん、と鼻をすする。

「なんにも、できないのかなぁ〜……」

 小毬は哀しげな声で、その言葉を繰り返した。泣いてる声だった。

真人はもうなにも答えられなかった。

 こんな目に遭わしているのはだれだ。

 決まっている。鈴の兄貴、恭介だ。

 なんの権利がある。

 併設校の手先を使い、鈴を攻撃、さらには真人以外の携帯を通信不可能にするという手の回しよう。

 あいつはいったいなんだ。

 もう一度ぶん殴るか――と考えて、真人は、やはり、首を横に振った。

 止そう。

 恭介を殴るのは正しくない。それは、勝負しても勝てないからという理由じゃない。恭介の闘いを真人も知ったからだ。

 殴ってもなにも変わらない、恭介の意志がさらに強まるだけだ。

 鈴の闘いを否定するのと、同じことでもあるんだ。

 止めるべきだった。

 真人は寮に帰り、また夜に鈴の相手をした。

 ――小毬のやつ、携帯が壊れちまったんだとよ。

 ――ほんとか(∵)

 驚いている。まんまと引っかかっているのが、とても滑稽で、悲しかった。

 ――なんたることだ(∵) でも、こまりちゃんはそそっかしいからな。

 ――そうだな。

 気の利いた冗談も言えない。ただ惰性で鈴の話を聞いてやるだけ。

 ――まさとはこわしたりしないか(∵)

 会話の後のその問いに、鈴の万感の想いが籠もっているのを見て取れて、真人ははっとした。疲れが取れて、みるみる元気になってくる。

 ――オレは、壊さねぇから安心しろよ。

 ――ふあんだ(∵)

 ――なんでだよ!

 恋人から信頼されてない彼氏というのもそういない。世に稀なるろくでなし男である。

 ――だって、筋トレするだろ?

 ――筋トレのなにが悪いんだよ?

 ――ぽきっといく。

 ――いかねーよ!

 ――いかないのか?

 なんで残念そうなんだ。

 そもそも真人は、筋トレ中に携帯など身につけていない。

 ――大丈夫だよ。危ねぇってわかってっから、ちゃんといつも外してるよ。

 ――(∵)

 またこの顔だ。

 ――おまえと繋がってる唯一の宝物なんだから、大切にするのは当たり前だろ。

 ――(∵)

 だんだん、鈴がこの(∵)を使いたがるシチュエーションがわかってきた。

 ――まさと(∵)

 ――おう?

 ――きしょくわるいけど、うれしい(∵)

 これを想いの告白と取るべきか、素直に罵倒と取るべきか。

 ――せいぜい、あたしだとおもって大事にしろよ。

 ただ、言われずともそうするつもりだった。

 もう本当に、鈴がこっちと繋がっている唯一のものなんだから。

 

 

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