そんな折だ。真人たちの耳に交換留学生の話が入ってきたのは。

 聞くところによると、鈴が併設校行きの交換留学生として学校から選ばれたらしい。

 今度は理樹も一緒にいた。理樹の部屋で話を聞く。

「どういうことなんだよ?」

 話を切り出した恭介に、真人が聞き返した。

「真人、新聞は見ているか?」

「ぜんぜん」

「だろうな」

 恭介が沈んだ顔をする。ただそれは真人の馬鹿っぷりに呆れたわけではない。もっと重要で、深刻な意味を表しているものだった。

 それはすなわち、できることなら話したくない――。

「とある併設校に通っていた学生のグループが、修学旅行の旅先で、バスごと崖から転落したらしい」

「……」

「そいつらは校内でもずいぶん有名な生徒として通っていたらしくってな……その生徒たちが全員遺体で見つかったせいで、残された学校の生徒は全員大変なショックを受けたようだ」

「……それで?」

 理樹はそこでおそるおそる聞き返す。思うに、そこまでは新聞の情報で知っていたのだろう。

 恭介は難しい顔をした。

「校内の雰囲気は重く、暗い。塞ぎがちの生徒で溢れかえって、授業もままならないらしい」

「ふむ」

 と、謙吾はすました顔。

「それで鈴が交換留学生に……というわけか」

「そういうことだ」

 謙吾はもともと事情を知っている。だから今のは、暗に恭介のことを責めたのだろう。

 なんのことだかわからない理樹が聞き返す。

「どうしてそれで、鈴が交換留学生に行くことになるの」

「ああ。どうやらこの前の議員さんに鈴は見込まれたらしくってな」と切り出す。

「あっちの学校へ行ってもらって、そこでみんなを元気づけてほしいってことらしい。少なくとも二週間はあっちへ行くことになるぜ」

 恭介の言葉は、この場にいる誰にも反論させない落ち着いた迫力があった。

 理樹はもうそれだけで納得してしまう。鈴の意志ならしかたないと、そういった眼差しで鈴と真人のことを見る。

 真人はなにがなんだかよくわからなかった。

 逃げおおせたと思った追っ手が、いつの間にか背後に迫ってきていて、油断していたところを引っ掻かれたような気分だった。

 恭介は前々からこのことを計画していた。それは間違いない。思うにこれが「詰め」の作業なのだ。

 真人は今までの夢がすべて覚めてしまったかのような感覚になった。現実だと思っていたものは夢で――、ここが現実で――。

「真人」

 理樹はそんな真人が哀れになったのか、そう弱々しい声を上げると、目を伏せた。

真人は表情を読みとられまいとして顔を堅くする。

「鈴は……鈴は行っちゃうの!?」

「まだ決めてない」

 鈴はけろりと言った。こっちを見てなかった。

「そんなぁ……」

「もしそうだとしたら、ずいぶん寂しくなるな」

 謙吾は澄まし顔でそんなことを言うが、中身はまったく正反対なのが見えきっていた。

 揺れ動いているのは謙吾も同じだ。楽しいはずの日常と、本来の義務との間で。

 恭介への反逆心も、隠そうとして懸命になっているのが悪くて、逆に変になっている。

 自分はもっとおかしな顔をしているのかもしれなかった。

「鈴、先生になんて言われた?」

 そしてここからが、恭介の作戦だ。

 自分からではなく、鈴にその言葉を言わせる。それで謙吾や真人の反論を回避したのだ。

「なんか、難しくってよくわからんかったが……」

 鈴はこちらをちらりと見た。その表情からでは、なにを考えているのか読みとりにくい。

「取りあえず、行ってくれるか? って聞かれたような気がする」

「それで、おまえはなんて答えたんだ?」

「行きたくない、って答えた」

 真人はここで初めて、心に安心を送り込めた。

 自分の心が柔らかくなって、鈴の表情がしだいに読みとれるようになる。あれは真人に微笑みかける顔だ。安心させようとする顔だ。

自分も笑った。

 なんだか、よくわからない苦しみだった。過ぎてしまえばなんてことはない。鈴の微笑みはこんなに温かい。

「だって、真人とはなれちゃうのはいやだ」

「鈴……」

「みんなともはなれたくない」

「鈴」

 理樹がほっとした表情を浮かべようとしたそのときだ。

 恭介がよく通る声でそれを遮った。

「それで、鈴」強い声だった。

「その後は先生に、なんて言われたんだ?」

 後? 

と、真人だけでなく、理樹さえも表情の動きを止めた。

 恭介は、知っている――まだその先にも会話があったことを。

 それは、考えてみれば当然だ。その会話をしていたのは恭介だったのだから。

「うん」そして当然、それにうなずく鈴。「もっとよく考えてみなさいって言われた」

「ああ、それで?」

 声が鋭い。

「だから、もっとよく考えてみることにした」

「……」

 真人も理樹も、固まった。

 恭介のやり方は卑怯だった。鈴には自由が与えられているようで、なんの自由もない。操られて、縛られている。

 謙吾もそれと同じことを思ったはず。無言の怒りを目に含んで恭介を睨みつける。

「真人、おまえはどう思うんだ?」

 そしてここからが、恭介のもっとも卑怯なところであったのかもしれない。

 質問を投げかけて、反論を防ぐのだ。ここで真人がわめいたら、恭介だけでなく鈴の意志まで邪魔することになる。

「ど、どうってよ……」

 真人は狼狽した。

 自分は、鈴さえ隣にいてくれればそれでいいと思っていた。

 その後の生き残った学生たちを思えば、確かに気の毒だとは思うが、もし自分が議員さんに見込まれて、その学校へ行くことになったとしても、鈴が一緒じゃなかったら自分は行くのをためらった。

 鈴と離れたくない。

 けれど、自分と鈴は違う。

 仮に鈴が自分と同じ気持ちだったとしても、それで引き止めてもいいものか、判断ができかねていた。

「答えは出せないのか?」

 恭介がまるで責めるように言った。それに真人はむっとして、とっさに答える。

「ふざけんな……オレを誰だと思ってんだ? 鈴を行かせるわけねぇだろ」

 そう答えると、鈴はぱあっ、と感激するような表情を作った。

「真人……」目をきらきらとさせる。

「うん。じゃあ、あたしも行かない」

「そうか……」

 恭介が悲しむ顔をした。あの顔は知っている。自分の考えが誰にも受け入れてもらえなかったときに見せる、孤独の表情だ。

 だが恭介はすぐにそれを裏に隠し、毅然とした顔で立ち上がった。

「わかったよ。だがおれも先生みたいなことを言うようで悪いが、もうちっとよく考えてみろよ。向こうのやつらは……おまえたちの助けを待っているんだ」

 そうして恭介は謙吾と部屋を去っていった。

理樹も、今日だけは鈴と二人っきりになりなよ、と言って、謙吾の部屋に泊まりに行った。

 二人っきりとなった静かな部屋で、真人と鈴は、ベッドの縁に寄り添った。

「まさと」

 自分が怖い顔をしていたからだろうか、鈴が安心させるような声で呟く。

真人は溜息をついて笑った。

「なんだよ、どうした?」

「なんか、不思議だな」

「あん?」

 真人はきょとんとする。鈴は小声で囁くように続けた。

 鈴の声が、ひっそりとした部屋に反響する。

「あたしたち、なんか二人っきりにされたな」

「そりゃおめぇ、付き合ってるからじゃねぇのか?」

「ばか、言うな!」

 赤い顔で、きゅーっと手を抓られる。爪は立てられなかったが、痛かった。

「まったく、なんてことを言い出すんじゃおまえは……」

「いや、事実だろ……」

「事実は事実だけど、」

 真っ赤な顔で、首を横に振る。それから口を若干開けて、もごもごとなにか言った。

「なんか……真人とそうなるなんて、よく考えると変な気分で、はずい……」

「まぁな……」

 鈴の言いたいことはなんとなくわかった。今まで、あんなに仲の悪かった自分たちが今は奇跡的に恋人でいる。過去の自分たちに話したら仰天するだろう。

 自分たちの間だけでそれが成り立っている場合はよかったが、周りからさも当然のように恋人として認識されていると、また違った恥ずかしさがある。

 自分は鈴が好きだし、鈴も自分のことを好いてくれている。

 それは現実だ。

 なにものにも消されない、確かな現実だ。

「真人……」

 鈴が声色を変える。ここからは真剣な話だろう。

「あたし、ほんとに行かなくっていいのか?」

「? なんだよ急に?」

 真人は、どきっとした。

 聞かれたくないことを、思わぬところから鈴に突かれたような気がした。

「おまえは行きたくねぇんだろ? だったらいいじゃねぇか」

「うみゅ……」

 すこし怒ったような言い方になってしまって、真人は後悔した。そこはそう言うべきではなかった。焦りが見え隠れしてくる。

「でも、恭介はさっき、」

 鈴は、どうしてそんなことを言うんだろう。

「待っている人たちがいる――って、言った」

 ずっと気づかないようにしてたこと。

 それがだんだんと影から出てきた。

「それは多分――寒い日に、段ボールに入れられてみゃーみゃー鳴いている捨て猫と、よく似ているんだ……」

 止めろ、と真人は心の奥で言った。

 自分たちが好き合っているだけじゃ現実は足りないのか。ささやかな幸せでいい。なにも大きなことなど望んでなどいない。どうしてそれを周りは邪魔する?

 心が変わっていく。昔の自分の使命というものを思い出していく――。

「あたしはこれでも、そんな子猫たちを、一度も見捨てたことがないんだ」

 ああ、そうだ。

 自分も一緒なのだ。

 自分も今、鈴と同じところに立っている。

 その子猫を上から見下ろして、すぐに助けられる手があるのに、寒いからと言って懐手をしている。

 そんな人間と同じなんだ。

 でも――。

「そんなに難しいことじゃないかもしれん。恭介は二週間って言ってたけど、あたしが頑張ればもっと早く終わるかもしれない。それなら、あたしは……」

 鈴は、そこで言葉を切って、ちらりと真人の顔を見つめた。ほんのりと顔を赤く染めて、指をつんつんさせる。

「でも、真人がどうしてもって言うなら……」

 このとき、鈴が本当はなにを想っていたのか、それは定まらない。

 真人と離れる意志を告げても、本心では、それに負けない真人の愛情を、真摯に求めていたのかもしれない。

 それはどんな善意よりも甘い。

 想いが通じることこそ、恋人は最上の価値と見なすだろう。

 それこそ、これから自分のすべてを真人に捧げてもいいと思えるような――。

「行くべきだ」

 だが、言った。

 短くそう言った。

 鈴の顔がやにわに凍り付く。

 やっぱり、鈴は、言葉とは違うものを、本心では大きく求めていたのかもしれない。

「そ、そうか……? でも、もうちょっとはよく考えてみてくれてもいいじゃないか?」

「へっ、」と、真人は笑う。

「まるで恭介みてぇなこと言うんだな」

 真人としては穏やかに言ったつもりだった。

だが、実際には冷ややかだった。

「考えることは苦手なんだよ。おまえも知ってんだろ?」

 これでもたくさん考えた。その果てに、この答えに行き着いたのだ、ということを言いたかった。

 今までの自分は忘れていた。もう鈴とは長くいられないということ。

 旅行の夢なんて、はるか彼方だ。

 もうわかってしまったのだ。

 本当の自分の役目。これから生きて死ぬまでの短い間に、自分は鈴になにができるか。

 これから生きていく人間のために、死ぬ人間としてなにができるのか。

 寒いからといってポケットに手を突っこんだままにはできないこと。

 それを教えてくれた鈴に、表面では感謝する気持ちがいっぱいで、裏では、少し憎んでいたのかもしれない。

「行けよ」

真人は冷たく言った。

「行ったほうがいいよ。待ってる人たちがいんだろ? たった二週間ぐれぇなら、オレも心配ねぇ。理樹たちとそれなりに楽しくやってっからよ。おまえはおまえで頑張ってきな。もしかしたら、向こうで新しい友だちができるかもしれねぇぜ?」

「……」

 鈴は、明らかに落ち込んだ顔を作った。

「……怒ってるのか?」

「怒ってはねぇだろ」

「うん……」

 鈴の不安そうな顔。だが、その瞳の奥には、ほんの少しの不信と敵対が芽生えつつあった。

 真人の冷たい言い方にかちんときたらしい。

「もしかして、あたしが生意気なこと言ったから、嫌いになっちゃったのか……?」

「なに言ってんだよ。嫌いになんかなってねぇよ」

「本当か」

 鈴はすこし安堵する。だが、一度生まれた疑念は消えることなどない。

 真人も、もう少し丁寧に言ってやればいいのだ。ずっと忘れていた使命を思い出して、すこし有頂天になっているのだ。でも鈴にその気持ちが伝わるはずがない。

「大丈夫だ。オレは鈴のことはずっと好きだぜ」

 白々しい。鈴は心の奥でそう思ったに違いない。

 でもそうやって頭を撫でられれば、自分もやはり真人のことが好きだということに気づく。ただその相克する二つの気持ちに上手に折目がつけられない。

「わかった」

 俯いたままでそう言って、まだ迷うようにしながらも、真人からすこし距離を取る。

「もうちょっと考えてみる」

「おう、そうしろよ」

 この程度にまで来ると、真人はすこし黙ったほうがいい。

「でも、先生には取りあえず行くって伝える」

「あ?」

 その堅い声での言葉は、暗に真人への当てつけだったのかもしれない。

 事実真人はそう感じた。よくない気持ちだと思いながらも、声には出さず、胸に溜め込んだ。

 鈴はまだ安易な願いを抱えていたのかもしれない。

すなわち、最後には止めてほしい。あたしが行くって言っても、抱きとめて「行くな」って言ってほしいと――。

「真人のほうでもよく考えろ。あとですぐ『やっぱ行かない』って言えば、きっと大丈夫だ」

「……わかったよ」

「ほんとに行っちゃうからな……」

 その小声の叫びこそ、鈴の本当の心だったろう。だが真人には届かなかった。ぽりぽりと頭を掻いて、横目で見つめた。

「明日、伝えっからよ」

 鈴はそれにはなにも返さず、首だけで頷いた。

 ぱたぱたと鈴が部屋から出て行くと、真人はベッドにごろんと寝っ転がって、自分の今までの振る舞いに思いを馳せた。

 よくなかった。

 ただ自分の恋心に放縦していただけだ。それが本当の恋だとは到底言えないだろう。

 けれど、それだったら、自分は他になにができたのかと、また反問してしまう。

 でも本当に好きなら、やることはもっとあったのではないか――。

 もうすぐ自分は死ぬ。

 死んだ後、当然だが、自分と鈴との思い出は、この世界から出られない。

 死んだらなにもかも消える。鈴の記憶とともに、自分の魂とともに。

 だったら自分はなにを残せるのか、死ぬまでの間に。

 真人はもうずうっと前に――それをちゃんと知っていたはずだった。

 最高の思い出。

 楽しかったという思い出を、鈴たちに作ってやりたい。

 ただそれだけだった。

 そのために自分は、日常を守る番人となった。

 記憶からは消えてしまうだろうけれど。

 せめて、楽しかったという経験だけは残るように。

 きっと辛いとき、鈴たちの心の中に、自分たちが生きるように。

 今からでも間に合うだろうか? と真人は考えて、目を閉じた。

 

 

 ◆

 

 

 朝の食堂に鈴は来なかった。

 答えを聞くのが怖かったからかもしれない。真人のことを怒っていたのもあっただろう。きっとどちらも正解だろうと思って、真人は席についた。

 理樹と謙吾は後から遅れてやって来た。しかし恭介は来なかった。なにやっているのだか知らないが、真人は恭介にあまり会いたくなく、今会ったらなにを言い出すかもわからなかったので、会えないのは幸いだと思った。

 いつも通りに馬鹿な話などを混ぜながら、食事を終えて、学校に向かう。

 鈴に伝えるための答えは決まっていた。会ったらすぐにそれを伝えようかと思ったが、なかなか会えない。教室では騒がしすぎて伝えにくいし、廊下に出ても、いつの間に消えるやら、すぐ見失ってしまう。どこへ行けばいいのかもわからずに、方々探し回るはめとなってしまった。

 ようやく昼休みになったころ、渡り廊下の端に佇んでいる鈴を発見した。背中を見つめながら、ゆっくりと近づいていく。

「おい、鈴」

「っ」

 鈴は声を聞くとこちらに振り返って、慌てて手に持っていたものをポケットにしまう。

 真人は溜息をついて、やっと見つけたぜ、と文句を吐いた。

「ったく、勝手にいなくなりやがって……あちこち探しまくったぞ」

「……」

 だが真人は、返事が返ってこない鈴のことを不思議に思い、その顔を覗き込むと、その表情の冷たさに固まってしまった。

 前の鈴だった。付き合うころよりずっと前の、この場所で世界の初めに出会ったときの鈴と似ている顔だった。

 いや、もっと不信を含んでいるかもしれない。

 愛情の薄れてしまった、軽蔑の眼差し。

「なにやってたんだよ? レノンと二人で遊んでたのか?」

「……」

 レノンが足下でみゃーみゃー鳴いている。だが鈴がかまってくれないとわかると、てくてくと遠くへ歩いて行ってしまう。

 鈴はなにも言わない。

真人は訝しがった。

「なんだ?」

「真人……」

「あん?」

 そのしたたかな両目が、まるで挑戦するように真人に向けられた。

 愛情が消え失せるところと、また復活するところの境目に、今自分は立っているのだと真人は直感で思った。

 だが、それだったらいったいどうしろと言うんだ、と真人は反問した。

「なんだよ? なんかオレに言いてぇことでもあんのか、鈴?」

「これ出したの、おまえだな?」

 ポケットからくしゃくしゃになった紙を取りだし、鈴は突きだした。

 手にとって読んでみると、そこにはこう書かれてあった。

「――っ!?」

 併設校を救え。

 ――、併設校を救え。

 真人は目を凝らしながら、その短い一句を何度も読んだ。

 併設校を救え。

 間違いない。

これは恭介の仕業だ。鈴と真人の相談だけでは不安だから、念を入れたのだ。

 真人が驚いているのをべつの意味に捉えたのか、鈴は明らかに低い声となって続けた。

「なんでじゃ……真人? どうしてこんなことするんじゃ?」

「おいおまえ、オレがこんなもん出すわけが――」

「じゃあ今真人はどう思ってるんだ?」

 そこで核心を突く言葉。

 鈴は、表情こそは敵意を表しているが、心の底では怯えきっているのかもしれない。

 理屈では、人助けをするほうが正しいに決まっている。鈴だってそれは認めている。

 けれどその理屈が、感情のためだとしたら?

 どんな正しい理屈よりも、それを飛び越える愛情のほうが、鈴にはよっぽど価値が高かったら?

 人間は、ときに無上の愛を求めるときがある。正しさをなげうってでも、自分のところに来てくれる人を望む。そしてそれは試してしまいたくなる。ふとしたときに。

 今が不安だから。

 鈴はきっと、ここで引き止められたがっている。

 それこそが本当に正しいものだと信じたがっている。

 でも、彼氏である真人が、そんな暗い道を指し示せるわけがない。

 鈴のことを思うなら――、

「行けよ。……やっぱ、行くべきだよおまえは」

「……」

 こう言うしかなかった。鈴の目がとたんに鋭くなった。

 唇を噛み、しだいに肩を震わせ、赤くなった頬の上に、涙をうっすらと溜める。

「や、やっぱり……」

 なにがやっぱりなのか、すぐに想像できた。 

「これ……おまえの仕業だったんだな? ずっとおまえが出してたんだな?」

「あのなぁ……」

 真人は頭を抱えた。勘違い癖は昔から鈴にあったが、今回ばかりは笑えない。かといって、その正体は恭介ですなどと、言えるはずもない。

「なんでじゃ!? ずっとあたしをからかってたのか!? そばにいて――手伝ってくれる振りして、結局あたしのこと馬鹿にしてたのか!? おまえ、あほじゃないか!? いったいなにがしたかったんだ!」

 馬鹿だ。とんだ濡れ衣だ。

「それでも……あたしのことが好きだったなら許せる……でも、どうして一番最後にこんなことしたんじゃ!?」

 ばしんっ、と真人の手から力強く紙が叩き落とされる。真人はなにも言えなかった。

「あたしのこと好きじゃなかったのか!? どうして自分の口から言わないで、こんな卑怯なことするんじゃ!? おまえ、なんなんじゃ!?」

「鈴……」

 ぽろぽろ、ぽろぽろ――。

 鈴の両眼から涙が流れる。言い訳の言葉も、その涙を見ていると、口の中で消えてしまう。

 真人は顔を伏せて、泣きたくなった。どうしてこんなひどいことが起きる? 自分たちがいったいなにをした? なにか悪いことでもしたのだろうか?

「鈴、あのよ……」

「おまえなんか――だいっきらいだ!」

 伸ばそうとした真人の手を振り払うと、鈴は涙を振り散らして、駆けていってしまう。

「今から『行く』って言ってくる!」

「っ……」

 真人はなにも答えられなかった。

 まだ鈴は先生に「行く」と言ってなかった――それはつまり、真人のことをずっと信頼していた。正しさよりも愛のほうが勝ると信じていた。

 形がどうあれ、鈴のことを結局裏切る形となってしまった真人。

 真人は空を仰ぐ。貼りつけた絵みたいな、汚い青空が、そこには存在していた。

 深呼吸をして、思いっきり足を地面に叩きつけた。

 ものすごい音がする。なんだ、なんだ? と窓から顔を出す生徒がいる。だが真人はそちらのほうへ目をやらなかった。

「恭介……」

 やつに会わなければならない。

 どこにいようと、探し出す。

 用事があろうがなかろうが、この世界が終わることになろううがなんだろうが、自分の前に引っ張り出す。

 真人は恭介の教室へと歩いていった。

 

 

 ◆

 

 

 恭介は途中で待っていた。

まるであたかも、すべての事情を知っていたかのように。

「よう」

 それが自分の口から出たものだったか、恭介の口から出たものだったのか、うまく判断つかないぐらいに、真人は憤っていた。

 深呼吸をして、怒りを内に溜め込みつつ、恭介に睨みを飛ばす。

「てめぇに用がある」

「わかった。ついて来いよ」と、恭介は背を向けた。

「ここじゃ、なにかと人目がつく。おれの部屋に行こうぜ。そこならゆっくり話せる」

 恭介は歩き出した。

 真人は黙ってついていくことにした。

 この世界の重要なことを話すときは、いつも恭介の部屋でする決まりになっていた。誰かが決めた決まりでもないが、習慣上そうなっていた。

 あそこなら邪魔が入らない。一番恭介の力が強いところだからだ。

 寮の部屋の前までやって来る。

 カーテンは閉められ、真っ暗だった。蛍光灯のスイッチを入れると、部屋がぼんやりと明るくなる。

「で、なんの用かな?」

 振り返った恭介が、余裕を見せるように微笑している。

 真人はそれが気にくわなかった。

「決まってんだろうが」真人はずかずかと恭介に近づき、胸ぐらを掴む。「今までの諸々のことだ」

「諸々とは、なんのことだ?」

「とぼけんじゃねぇよ」

 一気に手前に引き寄せる。くっ、と恭介は唸った。

「てめぇがオレと鈴を最初に合わせたこと――そこに始まって、今日のあのくだらねぇ悪ふざけのことまで、てめぇの仕業だろうが。ずっとそれにはなにか言いてぇ、って思ってたんだ」

「けっ」

 恭介は胸ぐらを掴まれてもさほど動揺することなく、むしろそんなありきたりなことには疲れた、飽きた、と言わんばかりに口を歪めて、顎を突き出した。

「恋人と喧嘩したのをオレに八つ当たりか?」

 真人の頭の奥で、なにかがぶち切れた気がして、真人は恭介の頬を思いっきり殴っていた。反動で横に吹っ飛んで、机の角に耳をぶつける恭介。

 じわじわと胸の奥から怒りがこみ上げてくる。図星だったのが、さらにそれに拍車をかけた。

「てめぇは、いってぇなにがしたかったんだよ?」

「……」

 恭介は立ち上がろうとしたが、力が足りなく、椅子の縁に肘をかけるのが精一杯で、「や……やっぱ強ぇな……」と呟いた。

 だが、真人のことを見上げるその顔は、まだ微笑だった。

「おれは……なんでもするさ」

「あ?」

「鈴と理樹のためなら、なんでもな……」

 真人はその言葉を聞いて、また頭の線が切れた気がして、思いっきり左から殴った。

 すこし前までの、鈴との恋愛に耽っているだけだった自分のことが思い出されたからだ。

 恭介が憎たらしかった。

 鈍い音がして、恭介が反対側に倒れる。

「いて……」

「くだらねぇ。だが、認めてやるよ……恭介」

 拳がじんじんと痛む。それにつれて胸の呼吸も苦しくなる。

「てめぇは、ほんとにすげぇよ……すげぇぜ。まるで機械みてぇだ……オレなんかとは比べもんになんねぇよ」

「くっ……」恭介は、自嘲する。

「どうせこんなざまさ。二発もらっただけでもう、死にそうだからな……」

「……」

 恭介は冗談を言っているわけではない。真人が本気を出したら誰も相手になどできない。謙吾でさえ、竹刀一本がなければ殴られ放題だ。

 真人はしゃがみ込んで、恭介の顎を掴んだ。その目に視線を合わせ、再び睨みを利かせる。

「てめぇは許せねぇ。それは――」

 真人は言葉を切って、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「最初から、壊すためにオレと鈴を引き合わせやがったことだ。結局てめぇの都合だけで粉々にしやがった。おまえは、オレらの気持ちをくだらねぇもんと扱った。そして踏みにじった。けっ……どうせ、理樹にも似たようなことやってんだろ? 前々から気に食わねぇって思ってたんだよ……」

 顎が砕けんとばかりに力一杯に掴み込んで、真人は低い声で続けた。

「いや、おまえの理想は立派だよ。立派だ。正直すげぇと思ってる。尊敬するぜ? だがな、てめぇは何様だ?」

 恭介は答えない。浅く短く呼吸して、真人の眼を静かに睨み付けている。

「神様か、てめぇは? あ、おい、オレらなんてただのゴミみてぇなもんだと思ってんのか? てめぇは理想を達成するためだったら実の妹さえ利用するのか? あいつがどんな気持ちで泣いてんのか知ってんのか? 人をコケにするのがてめぇの正義なのか、あぁ!?」

「……うるせぇ、黙れ」

 恭介はそこで初めて微笑を消し、低く鋭く呟いた。

「ぎゃーぎゃーと騒ぐんじゃねぇ……頭に響く」

「あぁ!?」

「はっ、真人……」次に浮かんできたのは嘲笑だった。

「そんなことを言っているようじゃ……おまえはまだまだガキだな」

 恭介の赤い瞳が、爛々と光る。鈴と比べればずっと鋭く、深く、壮大でしたたかな色だ。

 強い。

 その圧倒的な視線が、真人の両眼を鋭くえぐる。

「おまえみたいなガキの言葉じゃ、おれの心には届かないよ。その程度じゃおれは止められない。だから……おまえがおれをどんだけ傷つけたって無駄だ」

「な、なにぃ――」

 真人は動揺して、目の前の奇妙な生物に怯えだした。気持ちが悪くなって、顔を離し、体を突き飛ばして、さっと後ろに飛び退いた。

「な、なんなんだよおまえ!? 頭、おかしいんじゃねぇのか!?」

「おかしいのはとっくに承知さ……」

 恭介は嘲笑する。だが軽蔑するような眼差しは止まない。じっと真人の顔に注がれている。

「今さら、自分のことを弁護する気にもなれねぇ……。言いてぇことがあるなら、好き放題言えばいいさ……だが、それはおまえの口が疲れるだけだぜ?」

 震えている腕でよろよろと立ち上がる恭介は、もはや痛みや悩みなど、すべて超越しきっているようだった。

 だがそこには、真人と同じことを悩み、悩みに暮れて、その悩みを克服したゆえの強さがあった。なにかしらの答えがあった。それが今の恭介を突き動かしているのだ。

 真人は逃げ出したくなった。圧倒的な存在を目にしたような気がしたのだ。だが踏みとどまり、冷や汗を流しながら目の前の奇妙な生物を見つめる。

 恭介は机に寄りかかりながら、やっと直立し、切った唇の傷などを気にしつつ、携帯を取りだした。

 誰だかわからない宛先に電話をかけ、告げた。

「わり……怪我がひどくって、動けねぇ……場所はおれの部屋だ。迎えに来てくんねぇかな?」

 小さな返事の声が聞こえ、電話が途切れる。

 携帯をポケットにしまうと、恭介はようやく元の微笑みに戻った。

「心配すんな、真人」

 真人は恭介の急な変貌についていけなくなった。

「鈴のことはなんとかする。言い訳するつもりはないが、このままでは絶対に終わらせない。ちゃんと元通りにしてやる。責任は持ってやるから、おまえは安心して帰れ。なにか事が進んだら連絡するよ」

 真人はなにも答えず、部屋から去ることにした。

 不思議ともう、恭介のことを殴る気はしなかった。胸くそ悪いのは変わりなかったが、今の恭介には不思議と尊敬する気持ちを感じた。

 殴っても、自分の拳が痛くなるだけだということは、この馬鹿な頭でも理解できたらしい。

 そして、恭介への敗北も。

 真人は恭介に敗北した。それははっきりとわかった。今だって、敗北した、敗北した、と頭の中で言葉が繰り返されている。

 それからの夜は、携帯を見ても鈴からの連絡は一件もない、寂しい日が続いた。

 真人は鈴のことを想い、慕う気持ちを強くしながらも、片方ではだんだんと考えないように心がけ、また実際そのようになっていった……。

 

 

 ◆

 

 そんな哀れな努力の積み重ねも、ひとたび心が異なるほうに変化すれば、瓦が泡に化けてしまったように霧散する。

 鈴が併設校行きになる予定の日の前日、真人は例の件で、恭介からメールを受け取った。

 ――なんとかしたぜ。夜、学校に一人で来いよ。入り口の鍵は開けてある。

 やっと来たか、と嬉しがって、真人はベッドから飛び降りる。なら早めに飯を食っておこうと食堂へ出かけようとしたが、そのとき、真人はいや待てよ、と足を止めた。

 こんな怪しい場所に呼んでなにを話すんだろう――男二人で夜の校舎――それは、まさか、いや、禁断の、いやいやいや、あるわけねぇだろそんなこと、と首を横に振り、それでもやっぱり鳥肌を立たせずにはいられなかった。

 まさか、妹よりその兄が先だったなんて一生の恥だ。一生が終わるのはもうすぐだが、それでもやりきれない。あの世でも馬鹿にされるかも。なにか不審なことでもされそうになったら、すぐぶん殴って逃げよう、と覚悟を決め、重い気持ちで食堂へ向かった。

 鈴とは喧嘩別れしてからもう六日が経とうとしている。もう、付き合っていたはずの日々が遠く感じる。

その間、鈴とは会話らしい会話一つできなかった。

 向こうから避けようとすることもあれば、こちらから避けることもあり。お互いが無意識に相手を気遣い合い、相手を疎ましがっていた。それぞれの親友である理樹と小毬でさえ、若干疎遠になったほどだ。

 なにか語りかける理由がほしかった。真人は、それさえあれば、あとはなんとかなると想像していた。

 意識せずとも、心のうちに溜め込んできた数々の想いや願いが、ふわりと表に浮かんでくる。

 会いたい。

 やっぱりどうしても会いたい。

 鈴に会いたい。

 また元のように仲直りがしたい。

 遠くへ行ってしまうのは、もう仕方がない。

けれど、別れるならきちんと恋人として別れたい。喧嘩したままで離ればなれになってしまったら、もうそのときこそ自分たちは終わってしまう。

 真人は、恭介の話とやらに期待をしつつ、一人でまずい飯をがつがつと食った。

 

 

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