みんなから散々と、「祝福」という名の雑言やからかいを受けた後、真人は鈴と一緒にいられる時間がなくなってしまったことを残念がっていた。だが、あの授業中での目線のやり取りはまだ続けられていた。

 教師が黒板に書いていく問題が難しいと、鈴がうーん、と腕を組む。鈴は真人よりも(当然だが)頭がいい。勉強がよくできる。だから目線で「この問題わかるか?」と尋ねられても、自分は首を横に振ることしかできない。鈴が「ちぇっ」と指を鳴らすのもお決まりだ。

 そうして一日の授業が終わると、HRの時間になる。開口一番、飛び出したのは予想通りの話だ。

「突然だが、今度我々の学校に理事長と、とある県議会議員の人がやって来るぞ」それを聞いた鈴はぴんっ、と背筋を張った。

 真人としてはちんぷんかんぷんな話だったが、要するに馬鹿な頭でもまとめてみると、二人のお偉いさんがこの学校にやって来て、なんだか見学していくという。で、その見学する対象というのが、このクラスであるというらしい。

「それで、その間、お二人を案内する役目をこのクラスの中から選抜したいんだが……どうだ? 誰かやってみたいやつはいないかー? 自主的にでいいぞ? ん?」

 先生がそう言っても、上がる手などなかった。

 みんな面倒くさいのだ。そんなことをしている暇があったら、家に帰ってオタゲーやジャニーズのおっかけをしているほうがはるかに有意義だ、と言わんばかりである。

 真人は鈴のほうに目をくれた。鈴も同様に真人のほう見て、口をむずむずさせている。なにか言いたげだ。

 きっとこれのことだろう。先だっての課題の件は。だったらやることは決まっているじゃないか。

 なのに鈴はわざわざ「これかーΣ()」などとメールを送ってきている。言わなくてもわかるっちゅーねん。

「誰かいないのかー? しょうがないなぁ……それじゃあ、残念だが先生が勝手に決めてしまうぞ? そうだなぁ……じゃあこういうのは学級委員に……」

 早くしないと危ない。鈴があわわわわわ、と手をぱたぱたさせる。そんなことしたって先生の意志決定が一分一秒も遅くなるものか。時間の無駄だ。

 さっさと、手、挙げろ、と真人はジェスチャーを飛ばす。そうすると鈴は観念した様子になって、もぞもぞと手を肩の高さまで上げた。

「ん?」

先生が不思議そうな顔になって鈴を見る。

「棗、それはなんだ? 手を挙げているのか、それともかいた汗を乾かしているのか、どっちだ?」

「っ!」

 鈴は衝撃の表情である。

「ん、んな汚いことするか、ぼけっ! おまえ頭悪いのか!? 見れば、手挙げてるんだってわかるだろ!」

 そもそもおまえがわかりやすくしないのが悪い。

「おお、そうかそうか」と先生は苦笑した。「だが、その言い方は先生に対してはよくないぞ、棗。謝りなさい」

 だが先生がそう言うと、クラスの女子たちは一斉に鈴を擁護した。「先生もオヤジみたいなギャグ飛ばさないでくださいー」「先生のほうから先に謝るべきです」と非難ごうごうである。これには先生も観念して両手を挙げた。

「わかったわかった」

 と、苦笑い。

「先生も悪かったよ。じゃあ先生から謝ろう。すまんな棗。だから棗も、先生に対しては謝りなさい」

「……ごめんなさい」

「うむ、よろしい」

 先生はさっきからにこにこしている。もともと性格の良い人のようだ。

 そんな二人のやり取りが終わると、先生は黒板に「女子:棗」と書き付けた。

 真人はその黒板の内容にピンと来た。「女子」と銘打ったからには、もう一人の枠は男子であるはずだ。もともと男子女子の枠があったのだ。

 なかなか冴えてるぜ、と勝手に自分自身を褒める。安直馬鹿な真人はへへっ、と鼻を擦り、自信顔、天狗鼻で立ち上がる。

 突如として謎の非行に走った一般高校生に、クラス中の視線が集まる。

「……井ノ原? なんだ、おまえ?」

「皆まで言うな」

「は?」

 先生が「は?」と言っている。

「オレがやってやるよ。もう一人の役員枠はオレだ。オレ様が出りゃぁ、そのおっさんらも安心だろ」

「……」

 クラスの温度計が氷点下を切った。べつに寒いギャグを放ったわけではない。それに相当する衝撃が起こっただけである。

「けっ、」とつまらなさそうに悪態をつくのは真人。

「なんだよおまえら、全員オフ時の有名人に会ったみてぇな顔しやがって。このオレがそんなことに気づいたのが、そんなにビックリか?」

 そのくらいで自信満々になれるのは全世界で真人ぐらいなものである。

 この狂気極まりない非行の沙汰に、一人のクラスメートが果敢にも名乗りを上げた。

「先生!」

 甲高い談判の声を挙げる。

「あの原始的直情馬鹿である井ノ原真人に、このミッションは荷が重すぎると思います!」

「なんだとぉ!?」

 原始的直情馬鹿が叫ぶ。

「むしろ危険ですよ!?」

「学校の汚名になります!」

 学校の汚名がここにいた。

学校の汚名があたりを見渡すと、女子二人が不安そうな顔で叫んでいた。いつも清楚な印象で通っている二人だ。学校の汚名は人知れずショックを受ける。

 反論せずに黙っているのはリトルバスターズのメンバーくらいなものだ。鈴も不安そうな顔でこっちを見ている。ただその顔は、「頑張れ、真人!」と応援している顔ではなく、後悔している顔である。「なんであたしはこうなることに気づかなかったんだ? 当たり前じゃないか!」といった後悔の顔である。真人はとうとうすべての自惚れを消し去るはめとなった。

 情けない。

 クラス中に信用がないだけでなく、自分の彼女からもそうだとは。ここまで哀れな彼氏がこの世にいるだろうか。

 たとえ全世界に一人ぐらいはいたとしても、それは自分なわけがない。

 真人はこの事態を打開する方法を考えた。ただ、馬鹿な頭では全員をぶん殴って黙らせるぐらいにしか方法が思いつかなかった。

 だが、そんなとき――、

「ちょっと待ってみようよ、みんな!」

 理樹が突然立ち上がった。全員の視線がそちらに向く。

 理樹は、普段クラス内でも印象が薄い方だ。発言権もなく、立場も低い。なのに今は真人をかばうために果敢にも立ち上がる――。

「誰もやる気がないくせに、そうやって立候補した人を攻撃するのは卑怯じゃないかな! そういうんなら、まずみんなから立候補すればいいよ!」

 そんな意見に反論する者は一人もいなかった。もっともなことだからだ。

 ただ、非難されて喜ぶ人間はおらず、誰もが「なんだこいつ」「生意気―」といった視線で理樹のことを睨んでいた。

「真人は確かに馬鹿だけど、ぼくにとっては一番信頼できるやつなんだ! それが大人二人を案内するだけのミッションもこなせないなんて、ぼくはおかしいと思う! ぼくは安心して真人を推薦するよっ!」

 だんだん理樹の意見に同調していく雰囲気が作られていく中、先生がにこにこしながら語る。

「直枝は、井ノ原を推薦するんだな。なるほど……それじゃあ、他に立候補するやつはいないのか? それなら、井ノ原が男子の役員ということになってしまうが、いいのか?」

 誰も名乗りを上げなかった。

 当然だ。誰もそんな面倒くさい仕事をやるのは嫌なのだ。ただ、もともと生活が暇だから、そういうところにも自分の意見を表明したくなる。所詮学生というものはそういうものだ。

 先生の優しそうな目が向けられる。

「それじゃあ井ノ原、やってみるか?」

 真人は先生の目を見た。

 先生の両眼は深かった。決して真人をえこひいきしているわけではない。ただ全面的に信頼するのではなく、期待されたからにはきちんと責任を果たせるのか、と問いかける視線だ。

 真人は胸をどん、と叩いて、笑った。

「オレに任せりゃ大丈夫さ!」

 ひゅう、とどこからかはやし立てる口笛が聞こえる。

 ぱちぱちぱちぱち、とクラスの半分くらいが拍手をした。それに続いて後の半分も、ゆるい拍手を送る。

 思うに、反対派の連中もそれで観念したらしい。学校側が認めたならば反論を入れる余地はもうないからだ。そもそもこの件は連中にとってどうでもいいことなのだ。

 理樹は嬉しそうな表情で真人を見つめていた。

「へっ、やったぜ!」

 と、わざわざ声に出して鈴にガッツポーズを送るもんだから、向けられた鈴は顔を押さえて真っ赤である。やたら滅法恥ずかしい。

 黒板に「男子:井ノ原」と付け足される。

 HRの連絡内容はほぼそれが主だったらしく、あとは簡単な連絡事項と、明日はきちんと身だしなみを整えるように、という注意が出され、放課となった。

 教室が慌ただしくなる中、理樹が真人にそっと小声で話しかける。

「ねぇ真人」

「あん?」

「……鈴と一緒にやりたかったから、立候補したんでしょ?」

「当たりめぇさ。――って、なぁにぃ――っ!?」

 不意に本心をばらしてしまい、真人は真っ赤になった。

理樹はくすくすと笑う。

 そういえばまだ理樹に礼を言ってなかった。真人は(話題を変えるために)大げさに礼を言った。

「い、いやぁ! なんつーか、さっきはありがとな、理樹! おまえのおかげで助かったぜ!」

 理樹はふっと溜息をついて、温かい微笑みを浮かべる。

 だがその後で、すこし寂しそうな表情になった。

「……ぼくね、真人」

 声の調子で、ちょっと真剣な話だということがわかった。真人も急に気恥ずかしさが取れてくる。

「べつに、弱気なところを見せるわけじゃないんだけど、」

「?」

 真人は目を丸くした。外界の喧噪がどんどん遠ざかっていく。

 理樹と二人だけで話しているような気分になってくる。

「葉留佳さんのこと、さ」理樹は目を閉じた。

「今、大変なときなんだよ……だから、ちょっとぼくも元気をもらいたかったんだよね」

 真人は理樹の笑みをじっと見ていた。どこか不思議な顔。今の試練にさらされて、楽しそうではあるが、でもときに辛すぎて、振り返ってしまいたくなる、まだなんの気兼ねもなかった、ただの「リトルバスターズの仲間」であったころを。

 理樹の表情はそんなものだった。

「真人と鈴のこと、ぼく応援してる。さっきはみんなと一緒に騒いじゃってごめん。べつにからかいたかったわけじゃないんだ。ただ、友だちだから――嬉しかっただけだよ」

 とぎれとぎれに、理樹の本音が見える。だがそれを理樹は、聞いてもらいたかったわけでも、見せびらかしたかったわけでもないだろう。

「きっとお似合いだと思う。ぼくも、そんな楽しそうな真人たちを見ていると、元気が湧いてくる。だから……困ってる二人をどうしても見てられなくって」

 真人は理樹の長いセリフを、瞬きせずに聞いていた。

 もう言いたいことがないとわかると、にかっと笑い、理樹の肩をばん! と力強く叩く。

 理樹が目を回す。

「へっ、理樹! ありがとな!」

「あうっ、あうっ」

 目がくるくるとしている。

 真人は嬉しかったのだ。

 話してくれたことも、さっきはかばってくれたことも。えこひいきだと言って、実際はなにも信頼なんかしてないんじゃないか、と言う人間もいるかもしれない。けれどこれこそ、真の友情というやつで、理屈もプライドもなく支え合えることこそが、なにかの力になる、それを真人はよく知っているのだ。

 真人は理樹の頭に手を置いて、ぱんぱん、と軽く叩いた。

「筋肉注入っ!」

 理樹はなにがなんだかよくわからない表情をしていた。

「なんなの……?」

「これでもう、元気出たろ!」

「え?」

「筋肉ありゃあ、なんだってイケるからな」

「ええー」

 ここでもまた馬鹿の筋肉理論である。筋肉理論というのはすごく便利なもので、こういうときに理屈として使えるのである。みんなも困ったら使え。

「オレらだって同じさ。理樹がしょぼくれた顔してっと、どうも元気がでねぇ! それでいいじゃねぇかよ! なっ!」

「……」

「ありがとよ、理樹」

 理樹は深く真人の言葉を考えるようにうつむいて、それから少し経って、「うん、そうだね」と微笑んだ。

「真人」

「なんだ?」

「真人って、やっぱ馬鹿」

「ありゃっ」

 てっきりすごく男前だよ、と言われるかと思っていたのに、また自惚れが強すぎたらしい。ずっこけていると、理樹は笑いながら手を差し出した。

「ありがと、真人」

「……おう」

 こつん、と拳を軽く合わせて、真人と理樹は笑い合ったのだった。

 ◆

 恭介は話を聞き終えると、呆れた顔をした。

「校内案内って、おまえなぁ……」

 ぽりぽりと頭を掻く。

「無謀がすぎるぞ」

「時間の無駄だ」

「なんだと、てめぇ!?」

 真人は、ひどい暴言を吐く二人に対して怒った。

謙吾は最初からなにも文句を言うつもりなどなかったようだが、恭介がやって来ると一緒になって不満をぶちまけた。そもそも怒っているところが違うようだったが――、

「おまえら……そんなことに時間を割くなど、野球の道をなめてるのかぁ!?」

 ただの野球馬鹿だった。

 恭介はもっと真剣だ。

「ったく、鈴だけでも教育が大変だっていうのに、なんでおまえまでいるんだよ?」

 おまえというのは、真人のことだ。恭介は世界のマスターとしてもそう言っているのかもしれなかった。

言われてみれば確かにそのとおりかもしれなかったが、でもべつにいいだろ、悪く言われる理由はない、と真人は思うしかなかった。

 鈴と一緒にやるのは当たり前だ。理樹が隣にいてくれればまたこのように庇ってくれたかもしれないが、今はいない。放課になり次第葉留佳のところに行ってしまったからだ。

「ったく、しかたねぇな」

 恭介は溜息をつく。

 そこで二人を見捨てる恭介ではなかったらしい。やっぱり良いやつかもしれない。

しぶしぶと面倒そうでありながらも、真人もついでに教育に与れる身となった。

 というか教育ってなにをするんだろう。

「そもそも質問するが、おまえらは事の重大性をわかっているのか?」

「なんだ?」

「知らねーな?」

 真人と鈴が同時にきょとんとする。クエスチョンマークがいくつも間を飛び交う。

 これには恭介もかなり微妙な表情を作った。先が思い遣られるぜ、と頭を抱える。

「後輩思いじゃないな、おまえらは」

 妙なことを言っている。

 どうしてそこで後輩が出てくるのか、案内するのは後輩ではなくお偉いさん方である。

 そう思っていたところ 恭介はさらに説明をつけ加えた。

 今回のお偉いさんたちの訪問は、我が校の敷地拡張の件が絡んでいるらしい。

 グラウンドや体育館が結構手狭だろう、と言われると、真人もようやく理解できた。

考えてみれば、彼らが訪れるからにはそれ相応の理由があるはずだ。それは敷地問題の実態を調査しに来たのだ。

 その問題の実情が把握できないと話にならない。そしてついでに、そこで我が校の品位まで問うてくるというわけだ。失礼な学校だったら敷地拡張の件はなかったことにされてしまうかもしれない。

 だから後輩思いじゃないと言うのだ。

 真人はすこし怖じ気づいたが、鈴や理樹のことを考えると、ここで弱音を吐くわけにはいかなかった。

「へっ、それくれぇのリスクは上等だぜ」

「真人……」

 鈴がすこし感激したように見つめてくる。

「こら、二人で見つめ合ってラブってんじゃねぇ。話はもっと深刻なんだ」

「だれが見つめ合うかっ!」

 鈴の顔が真っ赤になる。恭介は一方泰然としている。

「仲が良いのは結構だが、それだけでこのミッションが成功するとは思えん」

「いや、恭介」と、謙吾はすまし顔。「愛は……すべてを変えるぞ?」

「……」

 ぽかん、と恭介は顔を固まらせた。

 馬鹿だ。ロマンティックなセリフを吐くのもたいがいにしろ、とつっこみたかった。鈴は顔をさらに赤くして手で隠してしまう。真人もどこかに逃げ出したかった。

「どうでもいいが、」と恭介。

「いくら愛があってもお偉いさん方には通用しないだろう。向こうは真面目な話題で来ているんだからな」

 謙吾はそれにはなんとも答えなかった。ふん、と肩をすくませ、すましている。

 恭介は真人と鈴のことをじろじろと見た。

「そもそも、基本的なことだが、おまえらは敬語を話せたのか?」

「しゃべれるらい」

 鈴が何か言った。

「なんだ?」

「しゃべれるららい」

 どこの方言だろう。

「喋れないんだったら素直に喋れないと言えよ」

「喋れるかっ!」

 とうとう諦めたらしい。

「真人は?」

「オレ? オレだったら筋肉語がぺらぺらだぜ?」

「ああ、いらねーから。そういうのは」

「……」

 がくっ、と肩を落とす。恭介は呆れた顔で手をひらひら振る。

「ったく、どいつもこいつも馬鹿ばっかだな」

「誰がばかじゃ!」

 ぷんすかしている。恭介は無視する。

「しょうがない。おい謙吾、おまえがこのバカップルに手本を見せてやってくれ」

「了解した」

「誰がバカップルじゃっ! もっ、もごもごっ……」

 謙吾に口を押さえられ、鈴はなんにも言えなくなる。すました顔で振り向いて、「ではなにを言えばいいんだ?」と尋ねる。

 そうだなぁ――、と恭介。

「じゃあ、まず手始めに、実際に会ったときの自己紹介から始めようか。オレが一人二役でお偉いさん方をやるから、謙吾は案内役の生徒をやってくれ」

「了解した」

 謙吾が手本を見せてくれることになり、真人と鈴は並んで立った。

 恭介と謙吾がすこし距離を取る。

 恭介がお偉いさんの役でスタートした。

「やあ。君たちが学校を案内してくれる生徒かい?」

「はい」と、まず一礼する謙吾。

「私は、2―Eの宮沢謙吾といいます。今日はよろしくお願いします」

「うん、あまり畏まらなくていいぞ。それじゃあ、よろしく頼むな」

 恭介はご機嫌そうに笑って、ぎゅっと謙吾と握手した。

満足そうに振り返る。

「どうだ。これが完璧な挨拶というものだ……丁寧さの中にも、どこか学生らしさがあって素晴らしいな。これならお偉いさん方にもウケるだろう」

「うん。あたしも今のはなかなかよかったと思う」

 ブー!

「っ!?」

 どこからともなくブザーの音が聞こえてきた。

 見ると、恭介が携帯を持って鈴に向けていた。

「ばか。誰がおまえに批評を求めた? おまえは教わる側だろう。ちゃんとその自覚はあるのか?」

「う……」

「もう一回やるぞ。次はちゃんと答えろよ」

 なぜかさっきと同じ状況が再現され、恭介が謙吾を褒めところから始まる。

「完璧な挨拶だ……丁寧さの中にも(以下略」

「……みならいます」

「うん。グッドだ」

 恭介がにっこりと笑顔になり、ぴんぽーん、と安っぽい電子音が鳴る。

 まさにクイズ番組だ。鈴が疲れた顔になって溜息をついた。

「さて、それじゃ次は真人だな」

「へっ、オレを見くびってもらっちゃ困るぜ?」

「ほーう。じゃあ、その余裕の在りかとやらを見せてもらおうじゃないか」

 恭介は不敵に笑い、二人の前に立って、最初にやったお偉いさんの登場シーンから始めた。

今度こそ本番だ。

「やあ。君たちが学校を案内してくれる生徒かい?」

「そのとおりです、ムッシュー。オレはかの有名な、2―Eの井ノ原真人……生まれつきの筋肉ファイターです」

「ふざけんな」

 ブー! とブザーが鳴った。

「なんだよっ!?」

「おまえは何者だ。どう見ても変態だろうが。そもそもおれはムッシューという名ではないし、おまえの素性など詳しく聞いてない。あと全然有名でもないだろ」

「オレの個性を出そうと頑張ったんだよ! ほら、マッスルポーズもつけただろ!」

 ムキッ、と美しい筋肉を盛り上がらせる。

「それがいらねぇって言ってんだよ。芸人のオーディションじゃあるまいし……こっちは挨拶しか求めてねぇんだから、なにかショーをやる必要はないんだよ」

 恭介は呆れた顔で批評をし終えた。真人はもうなにも言い返せない。

 なにもそこまで言わなくても……と落ち込んでいたところへ、謙吾からのさらなる指摘が下される。

「そもそも、『オレ』という単語は敬語ではないぞ、真人?」

「なんだとぉ!?」

 新事実。

「そうだな。それはあまり目上の人に使う言葉じゃない。代表的な敬語と言えば、『私』か『ぼく』あたりだろう」

「オレにそんなお坊っちゃんみてぇな言葉使えってか!?」

 鈴は、隣でそれを聞いていて、その言葉を使っている真人を想像したのか、肩をぶるぶると震わせ、泣きそうな顔になった。

「き、きしょい!?」

「なぁにぃ――――――っ!?」

「や、やばっ、やばすぎるっ!?」

 真人は絶望した。まだ付き合って間もないのに、すでに「きしょい」カテゴリー――。

 最悪だ。世でもっとも不幸な彼氏とは、この自分に違いない。

 このままミッションを続けるとどうなるんだろう。困ってきた真人に、謙吾がちょうどよく最適案を抽出してくれた。

「ふむ。それならば、真人は『自分』という一人称を使ってみてはどうだろうか?」

「お……?」

 突如として舞い降りた、天からのお助け。

 真面目くさった顔した謙吾が、ここではまるで天使の笑顔のように見えた。

「これも立派な敬語だ。問題ないだろう、恭介?」

「ああ。問題ないよ」と、恭介もすこし嬉しそうな顔。

「真人にぴったりだろう。なんとなく運動やってるやつっぽいしな」

「おおー! 心の友よぉ〜〜!?」

 抱きつこうとした真人は、まるでハエでも叩き落とされるように、謙吾に拳で払われる。

「暑苦しい。寄るな」

「真人……」

 ここでも鈴は、自分の彼氏を助けることはできなかったようである。どちらかというとフォローしたくても罵倒する言葉しか思い浮かばなかった自分と闘っているようである。

「はいはい、いつまでも寝てないでさっさと練習だ」

 恭介はぱんぱんと手を叩いて真人を起き上がらせた。

 今日の恭介は一段と厳しかった。

 その後、簡単な質問や受け答えなどのトークマニュアルや、身のこなし方などを一通り教わった。

「会釈をするときは首だけ動かすのは止めろ。相手に失礼だ」

 謙吾も同時に厳しい。

「会釈は背中も同時に動かすのがいいんだ。――待て、そんなに仰々しくやる必要はない。せめて三十度か三十五度まで曲げればそれでいい」

 実家が剣道場だからか、礼儀作法には人一倍うるさい謙吾だった。ただそれで大きく助かっている恭介だけは楽しそうな顔だ。

 真人と鈴は、かなり日常の態度を改めさせられることとなった。

 ようやくのことで休憩をもらえたときは、もう気力も体力も尽き果てんとしているところだった。

『あぁ〜……』

 鈴までもがおおよそ女子らしくない溜息をつき、真人と同時に椅子に腰かける。

 恭介と謙吾も立ったままだが一息ついた。

「ふう、これでだいぶマシになったろ」

「そうだな。だが恭介、まだ悪い箇所がいくつかある。それにまだ全体の予行演習ができてない。ぶっつけ本番じゃ色々とまずいだろう。これから実際に校内の各地を回ってみるつもりだが……時間的にどうだ?」

「ん? そうだな……」と一瞬思案する様子を見せるが、その後で「いや、」と首を振った。

 謙吾は、恭介の表情が突如として一変したのを見て取った。

「今日は止めとこう」

 真人と鈴は顔を素早く上げて、感激した表情を作った。きらきらきら……と瞳が光る。

これ以上は勘弁して欲しかった。もう「ございます」とか「いらっしゃる」などという新日本言語を吐くのは苦痛だった。

辺りを見回すともう夕暮れ。斜交いに夕焼けの光が差し込み、恭介たちの顔を照らす。

 恭介は教室を出ていこうとしていた。扉のところで立ち止まって、こちらを振り返る。

「ちょっと急用ができちまった。悪ぃな」

 それだけ言って、恭介は誰の返事も待たずにすたすたと出て行ってしまった。

 静かになる教室。

よく見るともう教室は無人だった。

 寂しい空気が流れる。

「馬鹿兄貴はどこに行ったんだ?」

「む」

 謙吾は目を丸くして、なにも知らない振りをしてみせたが、真人にはそれが精一杯の努力で保たれているということがなんとなくわかった。

 きっと恭介は理樹のところへ行ったんだろう。なにか危機が迫っていたのかもしれない。

あるいはただの軌道修正か、試練の難易度の再設定か、それかもしくはただの励ましか――。

 どっちにしろ、謙吾がここで鈴に言えることはない。

「確か――、」と言葉を探すようにして呟く。

「就職活動についての用事があると、今朝、言っていたな。それを今ごろになって思い出したんじゃないか」

「あー」

 と、鈴はわかったふうな顔つき。

「大変だな」

 なにもわかってないくせに、わかった振りをする鈴の見栄っ張り癖のおかげで助かった。真人はなるべくそのことは気にしないようにして、両手を頭の後ろに組み、温かい窓ガラスに寄りかかった。

 本番は明日。そして今真人は、鈴のことが好きだ。

 確かなのはそれだけだ。

 今考えるのはそれだけでいい。それ以上のことはなにも考えられない。

 それだけでいいんだと、真人は考えるようにした。

「とにかく、恭介はああ言ったが、予行演習が一度もなされてないと色々問題だ。これから下校時間までみっちりやるぞ」

『げ――っ!』

 真人と鈴の長い悲鳴が、誰もいない校舎に反響した。

 

 

 ◆

 

 

 実際の校内案内は、まるで夢を見ているように足早に過ぎていった。

 何度か妙なことをやらかした気がしたが、県議会委員のおじさんがとても優しかったので、見咎め無しに続けられた。

 真人は実際、楽しんでやれたと思う。

 恋人とこうして同じ苦しみや充実感を共有できるのは、何物にも勝る幸せだった。

 もうどこにも行かなくていい。

 鈴と離れなくていい。

 そう思えるととても安心だった。

 校内案内も終わり、最後に議員さんたちを見送りに出る。

 夕焼けが薄い炎となって斜めに伸びる中、迎えの車がやって来て、理事長がまず乗車した。議員さんだけが校門に残り、鈴の手をがっしりと掴む。

「こう言っては失礼ですが、」

 と、議員さんはニコニコした顔で言った。

「あなたたちは、とても不器用だったと思います。でも、一生懸命だった」

 柔和な瞳が、穏やかに光る。

 鈴と真人は、お互いの顔を見合わせて、きょとんとした。

「それは、君たちのクラスも同じだった。作法などなにもなくても、活気だけは人一倍ある」

 夕陽が沈んでいく。議員さんは改めて二人を見た。

「君たちを駆り立てるもの……それは一体なんだね?」

 鈴は即答した。

「みんながいるからだ」

 ――、と真人は胸が打たれたような気になる。

 その言葉に一番心を動かされたのは、議員さんではなく、真人だったかもしれない。

「そうかね」

 議員さんの顔が満足そうにほころぶ。

「君は?」

 今度は真人のほうにも問いかけてきた。

 真人は一瞬呆然としたが、すこしだけ考えて、議員さんと目を合わせ、明るく答えた。

「自分も同じっすよ」

 鈴がこちらをじっと見ていた。真人もそちらと目を合わせる。

 この視線の繋がっているところは生きている。

 死んでなどいない。だったら自分はそれを頼みとできる。

「そうか」

 議員さんは嬉しそうな顔で二人の手を一つに合わせた。

「その気持ちを忘れず、これからも頑張っていきなさいね」

 その言葉は、どんなに優しく、またどんなに温かく、真人の心を励ましていったことだろうか。

 真人は、自分がまだ生きているということを実感した。

 鈴と一緒にまだ、この場で生きているのだと実感できた。

 車が夕暮れの彼方に走っていってしまった後も、真人と鈴は校門の前でじっと佇んでいた。

 鈴は、真人の様子がおかしいことに気づいてくれたのか、あるいはただ同様に感じ入っていただけだったのか、なんにも言わず、手をしっかりと握ってくれていた。

 どれだけ時が経っただろうか。夕陽の沈み具合を見ると、そんなに長くはぼーっとしてたわけじゃなかったみたいだ。

「帰るか」

 真人はそう言って、鈴の手を引いて戻っていった。

 

 

 ◆

 

 

 それからはまた、鈴とは恋人らしい生活に戻った。

 と言っても、恋人らしい生活なんて、真人と鈴にはよくわからなかった。よくわからないなりに、楽しもうとしたし、大切に育てようとした。

 それは不格好な積み木重ねと似たようなもので、姿形は洗練されてなどいなくとも、力一杯積み上げたその塔は、真人たちには不思議と安心感や充実感をもたらした。

 一方、理樹と葉留佳は学校をよく休むようになった。

恭介も同時にいなくなることが多い。一日に一回は必ず自分たちの元に表われるが、その表情にはだんだんと余裕がなくなってきているのがわかる。それを鈴は心配していたが、やがてそのこともだんだん話題に上らなくなってきた。

 もう真人は、この世界が、自分たちの決死の力で形作られて、自分たちは生死の境を彷徨っていることなど半ば忘れていた。

 この場所、この時以外に、真人にとっての現実はなく、隣り合っている可愛い恋人の姿だけが、真人にとってのすべてだった。

「ふわぁ〜……ねみぃなぁ〜」

「うみゅぅ……」

 さわさわとした風の流れが涼しく感じられる。もう夏が始まっている。

 中庭の芝生は陽光を吸い取って温かながらも、爽やか。

 風はちょうどよいあんばいに吹き、首を冷やしていく。

 天気はこの上なくよかったが、こうして幹に寄りかかって木洩れ日だけを見つめているのもなかなか乙だ。ゆらゆらと揺らめく光の明滅を見ていると、心が自然と落ち着き、果てはだんだんと眠くなってくる。

 自分の肩に寄りかかっている鈴など、ほとんど寝てしまっている。まるで猫のようだ。可愛くって頭をつんつん、と叩くと、

「みゅっ」

 と呻いて、すぐ起きる。

 目をぱちくりと開け、こちらを不機嫌そうに睨む。

「なにすんじゃ」

「いや……ついな、可愛かったからよ」

「起こすんじゃないっ、ぼけが」

 と小声で怒鳴りつつも、鈴は離れていくことをしない。可愛い、と言われたことについてもさほど動揺しない。

 鈴はこうして誰かの身に体をすり寄せるのが好きらしい。真人の腕だと、とくに安心するようだ。ほっぺをそこにくっつけて、くーくー寝ている。それを見ているとだんだんと自分も眠くなってくる。

 通りかかる人間はあまりいない。それがすこし寂しくもあったが、こうして鈴と二人っきりでいるのも、安心できてとても楽しかった。

「なぁ、鈴」もう一回鈴を起こす。

 今度は自然な起こし方だったので、鈴も怒らなかった。

「なんじゃ?」

「今度テストあんだろ?」

「うん」

「自信あるか?」

「んー」

 気のない返事である。

どうせ鈴は頭がいいから勉強しなくてもそこそこいい点が取れるんだろう。まさか彼女相手に嫉妬などするわけないが、ちょっと、一度くらいは鈴よりいい点を取ってみたいと思われたことはある。

「適当にやってみる」

 鈴はこの会話に退屈そうだった。テストの話題で興奮する彼女というのもちょっと変だが、まぁ鈴としては正常な反応かもしれないと真人は一人合点する。

「でもよ、オレもやっぱりそろそろ成績を上げてぇと思うわけだよ」

「ふーん……」

 あまり興味なさそうに相づちを打つと、「まあ、頑張れ」と気のない応援をした。

 最初から下級戦士の真人ごときの結果など、期待してなかったらしい。だが、それはただの布石だ。

「でもよ、明確な目的がありゃあ、人間ってなんでも頑張れっと思うんだよなぁ……」

 真人の言い方はとても見え透いていた。鈴はこっちを見ると、なんだか嫌そうな顔をした。

「おまえ……」

「ん?」

「なんか、あたしにしてほしいのか……」

 こう尋ねてくる。真人は思わず、釣れた、とほくそ笑んだ。

「いや? そうじゃねぇけどよ、」と嬉しそうな顔。「なんか、こうしてオレら普通に付き合ってるわけだし、テストだって一緒に楽しみてぇと思うじゃねぇか?」

「なにがのぞみだ」

 単刀直入に訊いてくる。鈴は胡散臭そうな目で真人を睨む。

「そもそも、あたし的には、テストは一緒におまえと楽しめるイベントに入ってないんだが」

「ぐっ……」

 付き合っていた当初はもっと純粋な可愛さがあったのだが、最近の鈴は少しずつ元の鈴に戻りつつある。それが安心ももたらしたが、同時になんかしらの敗北感も漂わせていた。

 鈴は改めて「なにがのぞみだ」と訊いてくる。

 真人は気を取り直した。

「いやぁ……ちっとオレの成績が前より上がったら、なんかご褒美でももらえねぇっかなぁ〜っと……」

 前置きが長くなってしまったが、これが真人の浅はかな計画の全貌だった。

 鈴はもうその時点で、なにか特定のものを想像したのか、顔を真っ赤にした。

 想像力が先行しすぎるとこのような現象が起こる。

 もじもじとして、若干ためらっていたが、最後の最後には意を決したのか、ふう、と長く深呼吸すると、なにかを覚悟したような眼差しになって真人を見つめた。

「見え透いてるぞ……ばかのくせに」

「あ?」

「あっ、あたしが、」と、若干どもりがち。

「あたしになにかしてほしいことがあったら、ちゃ、ちゃんとその口で言えばいいだろ……」

「え、いや、ちょっと鈴――」

「いつだってしてやるっ!」

 真人の弁解の言葉は、声にはならなかった。

 顔を真っ赤にした鈴に、口を塞がれたのだ。

 柔らかい唇だった。

 あの日、登り切れなかった階段を、鈴はいとも簡単に飛び越えてみせた。

 それだけでも衝撃的だったのに、鈴の唇が思いのほか柔らかくて、甘くて、真人は夢心地にさせられた。

 鈴の一生懸命のキス。目を精一杯閉じて、恥ずかしさにこらえている。

 真人は惚けてしまって、鈴を優しく支えてやることなどできなかった。

 なにかしてやらねぇと、と思ったときには、もう鈴は唇を離していた。

 赤くなった顔で、そっぽを向く。

「あ、あたしがしたかったなんて、思うなよ」

 真人は鈴のその言葉を聞くと、やっとほんの少しの考える力を取り戻せて、高鳴っている心臓の音を感じながら、ようやく頭の歯車を少しずつ動かしていく。

 要するに、鈴は真人のお願いを先読みして口づけをしてやった、ということにしたいのだ。

 ああ、それならそれで構わない。それなら、実際とそう変わらないから。

 考えられたのはそれくらいだ。あとは脳が麻痺してしまって動かず、「どうした」とか「なにがあった」とかの意味のない信号を繰り返していた。

 ただ鈴の照れたような顔を見つめる。

 真人はどうにかして、鈴に仕返しをしてやりたいと思った。ご褒美が五年分くらい先取りされてしまったのは、嬉しかったというか、やられてしまったというか、どっちにしろそんな生意気な子猫には、なにか仕返しでもしてやらないと彼氏としての面子が立たないと思ったのだ。

 そんな馬鹿な頭が無理をすると、こんな見当違いな言葉を吐く恐れがある。

「……もう、ご褒美もらっちまったから、ダメだ、頑張れねぇ……」

「なにぃー!」

 鈴としては予想外の反応だったのだろう。

真人は自分でもなにを言っているのかよくわからないのに、鈴が不思議とおたおたしているのを見ると、ゆっくりと冷静な気分を取り戻せたのだった。

 今度は鈴が焦る番だ。

「ど、どうしたらいいんじゃ!」

「ふう……、え? いや、どうしたらって……なにも考えてねぇのか?」

「考えるかぁ――――っ!」

 鈴が顔を真っ赤っかにして叫ぶ。すごい。耳や首まで真っ赤だ。

真人はそんな鈴が可愛く思えてしかたなかったため、仕返しは許してやることにした。

「じゃあ、そうだなぁ……」

「うう……」

 目を潤ませている。

「それじゃ、もしおまえも前より成績上がったら、なにかオレからご褒美やるよ。どんなご褒美がいいんだ?」

「え?」

 鈴が若干顔を引いて、うーん、と考え始める。ようやく動揺も少しずつ収まってきたみたいだ。真人はその間に再び深呼吸をして動悸を静める。

 そもそも、真人は本来こういったふうに話を展開していく予定だったのだ。それであわよくば、ご褒美が鈴のキス――ということになればいいな、でも無理だろうな、なんて愚考をめぐらしたわけだが、大概の気持ちとしては、かったるいテスト勉強なんかも鈴との遊びにしてしまえば、すこしは楽しくなるだろ、という健全な気持ちからだった。

 それが鈴のとっさの誤断で、先ほどのハプニングが起きてしまったわけだが、嬉しくなかったと言えば嘘になる。

「よし、わかった!」

 そう考えていると、鈴は早速考えをまとめたようだった。

「あたし、どっか旅行に行きたい!」

「は……?」

 のぼせ上がった頭が一気に冷却されていく。甘い夢のムードが一気に現実味を帯びる。

「真人と一緒に旅行行きたいな。どっか連れてけ!」

「な、なんだとぉ――――っ!?」

「ん?」

 真人はびっくり仰天した。鈴も意外な反応だったためか、驚いて目を丸くしている。旅行などと言い出すんだから当然だ。

「りょ、旅行ぉ!?」

「なんだ。だめか?」

「いや、だめっつーか……おまえ、」

 鈴が残念そうな顔をする。その顔をされると弱い。

 今、真人の頭にはあの修学旅行の惨事が思い出されていたのだが、そんなことを鈴が知っているはずもない。

多少トラウマになっているが、この虚構世界でも、べつに旅行に行けないわけではない。昔自分たちが行ったことのある旅行地のイメージを保持すれば、あとは世界が勝手にその土地を作ってくれる。あとはそこに行けばいい。

鈴さえいいのなら、旅行に行けるのだが――、

「旅行ねぇ……こりゃまたずいぶん金のかかるご褒美が来たな。近所の繁華街とかじゃダメか?」

「ふざけんな! あたしは年中行っとるわ!」

「じゃあ、近くの遊園地とか?」

「あたしをあんな子供の喜ぶところに連れて行く気か?」

 ふんっ、と無い胸を張る鈴。どうやらちょっと背伸びしたい年頃らしい。

「う〜……どうすっかなぁ」

「嫌なのか?」

「いや、そうじゃねぇけど」

 そんな哀しげな目を向けられると弱い。

「じゃあ……ちなみに鈴さんはどこへ旅行に行きたいんですか?」

 なぜか敬語へと変わってしまう。真人の頭の裏のほうで、なけなしの金がちゃりんちゃりんと賽銭箱に投げられていく。

「そうだなぁ……どっか遠いところに行きたいな。北海道とか」

「……」

「沖縄とか」

 もはや、一、二万どころの話ではなかった。

「行くのに結構時間のかかるところがいい。旅をするのが一番楽しいんだ。あとメシは美味くなきゃだめだぞ」

「それ、必然的に金が高くつかねぇ!?」

「そうだけど」

 自分で言っといてけろりとしている。

こいつは――なにも考えてやしないのだ。惚れた者がどんなわがままを相手に吐かれても、素直に従うしかないことなど――。

「……バイトでしばらく金貯めるんで、二ヶ月くらいは待ってもらっていいすか……」

「うん。いいぞ」

 これぞ惚れた者の弱み。

 そんな嬉しそうな顔をされると、せめて言ってやろうと思っていた嫌味も、すべて消えてしまう。

 金を貯めよう。鈴と二人っきりでの旅行。

 もしかしたら、それは永遠に叶わない夢かもしれない。

 でもそれでもいい。真人は本気でバイトをしようと思った。

 こここそが現実なのだ。

 現実で、やがて訪れるであろう輝かしい未来を、本気で信じてなにが悪い。

「じゃあ、わかったよ。おまえは旅行だな」

「うん」

「じゃあ、オレのご褒美はっと……」

「う」

 先ほど鈴に言われたとおり、真人は自分でお願い事を考えることにした。鈴はどんな仕返しが来るだろうと、身を縮ませている。あんなことを言っておきながら、可愛いやつだ。

 さて、真人は色々と金のかかるお願いを考えてみたが、やっぱり最後に行き着いたのは――男のお願いと言ったらこれしかない、という平凡なものだった。

「もう一回、ちゅーをしてくれ!」

「えーっ!?」

 この鈴の悲鳴は、存外に女の子らしかった。

「だめか?」

「いっ、いいが……」

 顔を赤らめて、目を伏せて、斜めにこちらをちらちらと見つめてくる鈴。

「い、いつでもしてやるって、言ったろ……」

「え」

 この熱い言葉には、真人も胸を貫かれた。

 身体の動きが止まり、頬がまた燃えるように熱くなる。今度はもっと自然に、鈴との距離が縮まっていく。

 真人は、こんなときに、まるで鈴の魔法にかかったみたいに思えるのだ。

 人を虜にする。 

 すこしずつ顔が近づいていく。

 目を閉じた。

 今度は、もっと自然にキスができた。

 キスに、相手への想いを込めた、長いキス。

 さきほどのキスは、体中に電流が走っていったが、今度のキスは、もっと甘く、優しく、ふんわりと心を包む。

 真人と鈴は、唇を離した後も、もう一度キスをした。

 

 

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