五月二十四日。
 真人は、鈴に会いに行くことにした。
 あれでミッションが達成と見なされたのか不安があったし、こうしてきちんと手伝うことを約束した今だったら、こちらから積極的に協力してやるべきだと思ったからだ。
 次の課題も来ているならば、そっちの内容も気になる。
 真人が渡り廊下のところに近づいていくと、ちょうど今、鈴がレノンの尻尾から課題を受け取ったところだった。
「よう鈴。それが、次の課題か?」
「あ、真人」
 鈴もこっちに気づき、こくんとうなずいた。
「今見つけたところだ。やっぱり、この人はあたしのことをどっかで見てるんだな」
「へっ、どうでもいいよ、んなことは。どれ、ちょいと見せてみろよ?」
「うん」
 鈴は、真人に紙をまっすぐ差し出す。真人は受け取った。
 鈴はもうすでにこの内容に一度目を通しているはずだが――。
「相変わらず、よくわからんことが書かれてあった……」
「んー?」
 内容に目を凝らしてみると、そこには――、
「『2―E3番に対しつっこめ』……?」
 と、書かれてあった。
「こりゃあ……」
 この意味は、いや、まさか。
「意味がわかるか?」
「ちょっと待ってくれ……この、2―E3番ってのは……」
 これは例によれば、クラスと出席番号のことを示しているはずだ。
 となれば――。
「これは、オレのことじゃねぇか!?」
「なにぃ!?」
 わけがわからなくなった。
 2―E3番といえば、確かに自分のことだ。
 どうして自分が課題の標的になってるんだ、と真人は頭が混乱してくる。
 そして――この『つっこめ』という課題の意味。
 自分になにが起こるのだ――。
「どうして、おまえがおまえにつっこむんだ!?」
「知らねぇよ! だいたい、なんだよこいつ……オレにつっこんで誰が得するってんだ!?」
「ん?」
 鈴はそこでふと不思議そうな顔になり、唇に指を当てて、んー? と首を傾げた。
「誰かが得しなきゃいけないのか?」
「いいか、今までのことをよく思い出せ……今までの課題は全部、人助けに関することだっただろうが。イモムシ、学食、相川の恋患い……そしてなぜか今度は、オレに対するつっこみだ……わけがわからねぇ」
「あー」
 鈴はやっと納得がいったように、こくこくと首を縦に動かした。
「つまり、おまえの存在が迷惑ってことだな」
「そっちの納得!?」
 意外とひどいやつだ。
「おまえ、いつもみんなに迷惑かけてるじゃないか」
「うぐ……」
 そう言われると返せない。
 謙吾とのバトルの件で机を壊したり、あるいは椅子を壊したり――あと授業中のいびきのうるささとか、寝言とか――どれも、よくみんなに文句を言われていることだ。
 だが、それでもこれはすこし言い過ぎというものだろう。
「けど、それくれぇでオレの退治が人助けになるなんて、あまりにもひどすぎるじゃねぇか!?」
 こっちだって一人の人間なのだ。もっと優しく扱ってほしい。
「うーみゅ……」
 鈴も、さすがに真人のことが哀れになってきたらしく、
「まあ、確かにそれじゃただの弱い者いじめだな」
「弱い者いじめって言うなよ!? お願いだから普通の退治って呼んでください!」
「みゅ」
 ほんのすこし同情してくれたようだった。真人は逆に嬉しくなかったが。
「っていうか、おまえは本当にそうするつもりなのか? この『つっこめ』というのは、もっと違うことをするんじゃないのか?」
「あっ……」
 そう言われてみれば。
 確かに鈴の言うとおりかもしれない。つっこむのと退治するのではかなり違う。
 でも、これが人助けになってることは間違いないことで――。
「うーみゅ。まあ、どっちにしろだな……」
 鈴は、腕を組んで真人のことを見上げた。
「さっさとボケろ」
「無茶いうな!?」
「むー……じゃあ、ボケてください?」
「言い方変えたって同じだよ!?」
「むー……」
 鈴は薄目になって真人のことを睨む。
「文句が多い男は嫌われるぞ」
「誰にだよ……」
「え?」
 真人が聞き返すと、鈴はぽかんとした。
「誰にだろう?」
「オレが知るかよ……」
 ころん、と首を傾げていた。
「うーみゅ」
 鈴は傾けていた首をさっと戻して、真人のことを見た。
「まあ、おまえのことを嫌ってるやつなんかいっぱいいるからな」
「もう責めないでください!? お願いします!」
「うっさい。面倒くさい」
「……」
 どうしてここまでひどい扱いなんだろう。どこかに訴えたくなってきた。
「さっさとボケろ。はやくボケてくれないと困る。おまえがボケるまでここで待ってるからな」
「げっ……マジかよ……」
 なぜだか知らないが妙なミッションがスタートしてしまう。
 意味不明なのは相変わらずだ。真人は冷や汗をかく。
「……」
「おい。なにかしゃべれ」
「んなこと言われてもよぉ……難しいぜ。いったいなにしゃべればいいんだよ」
「まあ、存在自体がボケだから、すぐなにか面白いのが出てくるだろうがな」
「……」
 真人は、わずかな殺意を覚えざるを得なかった。
「あのよ……おまえのその偉そうな態度に対してつっこみたいんだが……それは許されているのか?」
「ふん。あたしにはつっこまれる要素などないから、無駄だぞ」
「めちゃくちゃあるじゃねーかよ……」
 まだこの期に及んで自分は真人と違うとでも思ってるのだろうか。自分だって半分くらいはボケでできてるくせに、と真人はつっこみたかった。
「ないったらない!」
「ちっ……」
 真人は舌打ちをして、地面を見つめた。
 ここはなにか、鈴に一つでもボケを言っとかないと解放されないらしい。
 馬鹿馬鹿しかったが、ここはなにか場を紛らわすために探してみるか――と真人は頭をひねった。
「あ〜……」
 そして、思いついたのがコレ。
「これはこれは、とても可愛いお嬢さん……まるで野に咲く一輪の薔薇のようだ。よかったら、ぼくと一緒にデートでもしませんか……?」
「は?」
 できるだけ感情を消して、棒読みで言ってみた。
 鈴が呆然と固まって、真人のことを見つめる。
「……なんだ、それは?」
「え……ボケだが……」
 真人がそう言ったとたん、蔑みの眼差しが浮かんでくる。
「ふざけんな……はるかよりもずっとひどい。おまえなんか−100点だ」
「ぐはぁ――――っ!?」
 最悪だ。葉留佳と比べられたのはかなりショックだったし、それだけでなくー100点にもされようとは。
 真人は頭を抱える。
「最低な誘い方だ。やる気あんのか。セリフがまったく棒読みだったじゃないか」
「そういうつっこみなのかよ!?」
「まったく。次は、もっと感情を込めて言え。そうすればつっこみのしがいもある」
「げっ……」
 なんだかそう言われてしまうと、とたんに恥ずかしくなってくる。
 まるで鈴に告白する練習をしているみたいじゃないか。
 べつにそういう気はないのに。鈴の視線は逃してくれそうもない。
 もっとマシなやつにしておけばよかった――。
「あ〜……これはなんて可愛いお嬢さん」
「……」
 ちなみに、これは鈴のことを可愛いお嬢さんと言っているところがボケだ。
「ぼくはもうあなたのものです。どうかこれから、ぼくのことを『犬』とお呼びください」
「変態だな」
「うぁぁぁ――――――っ!?」
「じゃあ、次」
「……ま、まだ続けるのかよぉ」
「当然だ」
 真人的にはもう止めてもらいたいところだ。こっちの精神がもたない上に、なんだかむちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。
「あたしは、おまえにつっこみをするためにここにいるんだぞ。さっさとボケろ」
「なんのミッションなんだよこりゃぁ……」
「そんなの、あたしが聞きたいところだ」
 真人はぐちぐち文句を垂れながらも、それならば――と、頭を切り換えることにした。
 もうこうなりゃやけだ。当たって砕け散ろう。
 本気でやれば、なにか新たな道を見出せるかもしれない。
 真人は気合いを入れ、本気の本気で、もっとも自然な演技を心がけることにした。
「よぉ、鈴」
「……」
「オレ……おまえが好きだ。今度、どっかデートでも行かねぇか?」
「っ――!?」
 鈴が目を見開いて、頬に真っ赤な色が浮かべる。
「……っ」
「そうだ、筋肉パークへとか、いけてるんじゃ――」
「うにゃ――――――!?」
「ぶっ!?」
 最後のセリフを言い終える前に、ハイキックで首を刈り取られる。
 竜巻に吹っ飛ばされるように、地面にダイブする真人。
 鈴は顔を赤らめながら、ぜぇ、ぜぇ、と息を切らした。
「な、なに恥ずかしいこと言わせんじゃ……」
「おまえが、やらせたんだろ……」
「ちょっと待て。あたしが悪いのか? いやいやいや、待て」
 鈴は首を振って、顔の熱を冷まそうとした。
「あたしらは、今いったいなにをやってたんだ……?」
「知るか……」
「待って。ほんとに待って。考えよう。よーく考えよう……」
 呻きながら立ち上がり、ふらふらになりながらも鈴と目を合わせる真人。
 鈴は腕を組み、挙動不審にぱたぱたと動き回っている。
「そ、そうだ……あたしは、真人のボケにつっこむ練習をしてて……」
 そこでどうしてこんなことになったのか。
 どこに答えはあるのか。
 鈴は、はて、と首を傾げる。
「あたしがボケろって真人に言って、それでこいつがボケて……」
 そこでやっと、鈴の頭にぴかっ、と電球がついた。
「そうだ! こいつが、途中で変なことを言い出したから、あたしは……」
 すると、じわじわとまた頬の熱が高まっていく。
 鈴の目がカッと見開かれ、野獣のような眼差しが、真人のほうに向けられた。
 殺意とともに。
「しーねぇ――――――――っ!」
「ぐほぉっ!?」
 再び三本ゲージの竜巻旋風脚で空の彼方に吹っ飛ばされる真人だった。

  
 ◆

 
 ひそひそ、と周囲の囁き声が洩れる。
 真人は、あえてそっちのほうに目を向けることはせず、前を必死に見つめていた。
「真人。いったいなんなのあれ……」
 理樹が呆れた声を上げる。
「待て、見るんじゃねぇ……オレは、なんにも知らねぇんだ。頼むから無視してくれ……」
「また鈴とあのミッションやってるの?」
 理樹の溜息がはぁ、と洩れる。
 その間も鈴は、教室のドアの影に隠れて、じ〜っと真人の様子を窺っていた。
 その不思議すぎる光景に、教室全体が騒ぎ立っている。
「……かもな」
「かもなって……真人はなにも知らないの?」
「ほんとは一応のところ知ってんだ。でも、オレが関与しちまうと成立しねぇミッションっつーか……」
「なにそれ?」
 理樹はさっぱり理解できないみたいに目を細くしていた。
 真人は席から立ち上がって答える。
「オレが自然に生活してりゃ、後はいいってよ。それが課題を出してきたやつの意向らしい」
「真人、その人に会ったの!?」
 理樹が一緒に立ち上がって後ろについてきながら、問いかける。
「いや、会ってはねぇけど……」
 そうすると鈴も後ろから、こそこそと忍者のようについてくる。もちろん完全に見えている。
「それがきっと、課題を出してきたやつの意向だって、オレと鈴が結論出したんだ」
「そう……。それで、鈴はあんな茶番劇を……」
 理樹が後ろに視線を送ると、鈴ははっとして、壁に隠れてしまう。
「おい、見んじゃねぇ! こっちの探りがバレんだろうが!」
「むぎゅっ」
 理樹を取り押さえて前を向かせると、鈴はおずおずとこっちを覗き、そろ〜っと壁から出てきた。
 馬鹿馬鹿しいが、こっちは、あくまで知らない振りで通さないとだめらしい。
 真人は、しばらくして理樹を放してやった。
「真人……」
「あん?」
「なんか、ものすっごくめんどくさいミッションだということはわかったよ」
「おう、そうか。ありがとよ」
「なんで礼を言われるのかわからないけど……」
 理樹は溜息をつきながら、真人の隣に並ぶ。
 つかつかと廊下を歩いていく。
 その間も、鈴はこそこそと後ろからついてくる。
「まあ、べつに気にしねぇでいいんだよ。気にしちまうと、向こうもやりにくいだろうし」
「気にしないって言ったってねぇ……」
 理樹が悟られないように密かに視線を送ると、鈴はさささっ、さささっ、と伊賀の忍者みたく通行人の陰に隠れて移動してきていた。
 通行人はかなり迷惑そうだ。
 自分の好きなほうに動き出そうとすると、「動くなっ!」と言って、鈴が肩を掴んでいる。
 なんて迷惑な忍者だ。
「だから、今回、オレは鈴のこと手伝えねぇからよ」
 さささっ、さささっと動いてくる。
「鈴のことは、おまえら三人だけでフォローしてやってくれ。頼んだぜ」
「ええー……」
 理樹のいやそうな声を無視し、真人はすたすたと前に歩いていく。
 すると、ふと床に落ちていた、あるものを発見する。
「おっ、プロテインチョコじゃねぇか! もったいねぇ……」
 銀紙に半分包まれている状態のプロテインチョコが、床に落っこちている。
 なんてもったいないのだろう。
 真人はそう思いながら、それを拾い上げて、ふーっ、ふーっ、と埃を吹き飛ばした。
「そういやぁ、昔、三秒ルールってのがあったよな」
 昔の子供のころの習慣を思い出して、はて、と首を傾げる。
「あれ? それって、たしかなんの三秒だったっけ……? 食べてからだったかな? それとも、製造されてからだったかな?」
 製造されて三秒は誰も食べられないんじゃないかな、という理樹のつっこみも聞かず、真人は一人思案し、やがてかっ、と目を見開いた。
「そうだ! 落っこちてたのを見たときから三秒以内だ! ってことは、まだオレはオーケーなはず! それじゃ、いっただきまぁ――すっ!」
 チョコが真人の口に運ばれる瞬間、背後から、謎の影が忍び寄った。
「って、もうすでに三秒経ってるだろ――っ!」
「ぷぉっ!?」
 後頭部に空中回し蹴りがヒットし、真人を前にぶっ飛ばした。
「ええ!? そっち!?」
 理樹の二重つっこみが聞き入れられる前に、真人は廊下の床に熱いキッスをした。

 
 ◆
 

 気を取り直して真人は、理樹と自販機のジュースを買いに行く。
 だが、買おうとしたときに、真人はボタンをいくら押してもジュースが出てこないことに気づいた。
「ありゃ?」
 ばんばん、と横の体を叩いても、出てこない。
 取り出し口を覗いても、ない。
「どうしたの、真人?」
 ジュースを買い終えた理樹が、温かい缶を両手でキャッチボールしながら、訊いてくる。
「いや、どうしたのかな……買ったのに出てこねぇんだよ」
「ええ?」
 理樹が目を丸くする。
 ちなみに真人の後ろには、ぞろぞろと行列ができしまっていた。買うときにすっごく迷っていたのだ。
「金が無駄になっちまったかなぁ……」
 そう言いながら財布を取り出してみると、真人はやっとそこでその原因に気が付いた。
「あっ!」
「え?」
「そういや、金入れてなかった」
 ずるっ、と全員がずっこけたそのときに、あらぬ方向からまるでチーターのように突進してきた謎の影。
「おまえはおじいさんか!」
 いい感じに真人の側頭部にジャンピングキックが入り、真人は横にきりもみ舞いで飛んでいく。
「ええー!?」
 すちゃっ、と鈴が地面に着地すると同時に、真人は地面に転がった。
 それを見送り、鈴はまるで任務を果たし終えたエージェントのように、颯爽と去っていく。
 理樹は、取りあえず鈴を捕まえに行った。


 ◆
 

「鈴、だめだよ。いきなり乱暴しちゃ」
 理樹が半分怒った顔で説教を始める。
「べつに乱暴はしてないぞ。つっこみだ」
「……つっこみ?」
 ひょっとして、真人がさっき言ってたことだろうか。
 反論する鈴はまったく反省の色がなかった。
「つっこみって、なんのことだ?」
「あ、恭介。なんか……また二人で新しいミッションやってるらしいよ……」
「ふーん?」
 同時に教室にやって来ていた恭介が、ちゅーちゅーとコーヒー牛乳をストローで飲みながら思案する。
「なんだ? 今度は真人と漫才コンビでも組むのか?」
「……まあ、そんなところみたい」
「売れなさそうだなあ。そもそも、鈴のつっこみが凶暴すぎる」
「なにぃ……」
 恭介が真面目な顔つきになって理樹の味方をしたため、鈴は気まずそうな顔になって、黙ってしまった。
 真人をひそかに信頼していたのもあるのだろう。助けを請うような眼差しで真人を見つめるが、真人はさっき蹴りで曲がってしまった首を、ぎしぎしと手で直しているところだった。
「見ろ。おまえのつっこみの犠牲者だ」
「う……」
 鈴はさらに気まずそうに黙ってしまう。
 恭介は溜息をついた。
「なにやってんだ、鈴。お兄ちゃんは、妹がつっこみ傷害罪で捕まるのは見たくないぞ」
「そんなの誰も普通に見たくないよ……」
「……ど、どうしろっちゅーねん」
「取りあえずおまえのつっこみを指導させろ。危なくって見ていられん」
 びっ、と恭介は指を指して、鈴に宣言した
「他人への暴力とつっこみは違う。おまえも……そろそろそれを学ばなきゃいけないときだ」
「……」
「え、なに、その新たな試練、みたいなノリ」
 理樹のつっこみは無視され、恭介の説教が続いた。
「おまえのつっこみが、ちゃんと他人につっこみだとわかってもらわなければ、それはただの暴力にすぎない」
「……あたしとしては、つっこみのつもりだったんだが」
「それはおまえにとっての都合だろう? 他人から見たら、ただの暴力にしか見えなかったかもしれない。なあ、理樹?」
「ぼくに同意を求められても困るけど……」
 理樹がちょっと迷った後、「まあ……」と頷くと、さらに弱った顔をする鈴。
 まさか理樹にまで非難されるとは思ってもみなかったのだろう。
「だ、そうだ。さぁ観念しろ鈴。おまえのつっこみをこれから指導するぞ」
「わ、わかった……」
 恭介が宣言したのと同時に、ごきっ、と真人の首はようやく元の状態に戻った。

 
 ◆
 
 
「レッスンワン。つっこみをするときは、きちんと訂正の言葉を口にすること」
 真人は、恭介たちの妙な視線を感じながらも、とりあえず普通に生活してみることにした。
 鈴の囁き声が聞こえてくる。
「あたし、ちゃんと言ってたぞ」
「いや……鈴のさっきのつっこみはどっちかっていうと、さらに鈴にもつっこめる要素があった気がするんだけど……」
「なにぃ」
「なるほどな。つっこみながらのボケというわけか。高等テクとも言えるが、初心者がやる技じゃないな。失敗しがちだろう」
「いやいや……そういう問題かな」
 真人は、恭介たちの話し声がどうも気になるので、もういっそ聞こえなくなるところまで行ってやろうとした。
 教室から廊下に出ると、さささっ、と三人が後ろからついてくる。
「もっと、わかりやすい訂正の言葉を口にするんだ、鈴」
「んなこと言ったって、できるか!」
「だったらそこは、理樹につっこみの指導を受ければいい」
「うーみゅ……それなら、」
「え、ぼくがするの?」
 真人はそのまま気にすることなく、すたすたと廊下を歩いて行った。
 すると途中で、思いがけなくジャンパーの謙吾と出会う。
「レッスンツー。つっこみはソフトに、だ」
「そふとって?」
「柔らかく、ってことだよ」
 真人は、ようやくまともな人間に出会えた気がして、おーい、と笑って手を振った。
 すると、向こうもこっちの様子に気が付く。
「理樹のように、あくまで優しいつっこみをしてやるんだ。ちょん、って体にタッチするだけでもいい。そうすると、ボケた側は、あ〜、今のウケたんだ、よかった〜、って気になるだろ」
「なんだかきしょく悪いな……そいつ、変態じゃないか?」
「そこは重要なポイントじゃないよ、鈴」
 真人は、謙吾と一緒に世間話を始める。
 もう鈴たちの声は耳に届いていなかった。
「っていうか、鈴はたまに本気で怒ってるのか、それとも、ただつっこんでるだけなのかわからないときがあるんだよ……」
「なにぃ!」
 新たな事実。鈴はちょっとショックを受けた。
「ほら、理樹もこう言ってることだ。暴力的な女は、男にもてないぜ?」
「もてなくてもいいわ!」
 ジャンパーを着ている謙吾は、どこか以前より話しやすくなっていい。会話もくだらなかったが、結構弾んだ。
「とにかくだ」
 恭介は、ぴっ、と指を一本立てて、鈴に突き出す。
「おまえのつっこみは、いちいち全力すぎるんだ。相手のボケの度合いに応じて、つっこむ威力も調整しろ。そうしないと、相方の体力がもたないし、観客も引くだろう」
「うみゅう……」
 鈴は弱った顔を見せる。
 真人はそのまま、それに気づかず謙吾と一緒にメシを食いに行くことにして、前に歩き出した。
「ほら、動き出したぞ……ボケが出てきたらすかさずつっこめ」
「らじゃ」
「大丈夫かなぁ」
 真人は、天井に腕を伸ばしながら、からからと笑い出した。
「ほらほら、天井タッチ」
「ほぉ……おれもやるか」
 真人が天井に手をくっつけると、謙吾も面白がって一緒にくっつけてみた。
 どちらも、もう背伸びしなくても、十分手が届くようになってしまっている
「子供のころは、よくこうやってお前と二人で、どっちがどれだけ天井に手をくっつけられるか競争したっけなぁ……」
「そうだなあ」
「それがもう、今じゃこうやって手を伸ばすだけで簡単に届くようになっちまった……」
 真人はふと、感慨深げな溜息をつく。
「いつかは、頭のてっぺんで天井をごりごり擦りながら歩くようになるのかなぁ……」
 謙吾は白い眼を浮かべて真人を見た。
「いや、なにもそこまででかくは――」
「そこまででかくなるか!」
「がふっ!?」
 謙吾が言い切る前に、鈴のつっこみが炸裂した。
 具体的に言うと、後頭部に飛び膝蹴りを受けて、前に吹っ飛んだ。
 驚いて固まっている謙吾の背後に立った恭介が、冷静な評価を下した。
「う〜ん……訂正の言葉は、それで間違っちゃないが、」
 ぽりぽり、と頭をかきながら。
「そこまで強いつっこみをする必要はないだろう? もっと手加減してやれ」
「うーみゅ……そうだったか。難しいな……」
「いや、真人をあんなに吹っ飛ばしておいて冷静な会話をしている二人にもつっこめるからね……?」
 謙吾が一人、真人の怪我に心配して奔走していた。

 
 ◆
 

 昼食時。
 鈴たち三人は、真人が料理を受け取りに行っている間にも、作戦会議をしていた。
「真人はここでも鋭いボケを放ってくるぞ。油断するな」
「らじゃ」
「ひとつ言っておくが、おまえのさっきつっこみは、最初から見ていたやつならつっこみかもしれないと判断できただろうが、それでもやっぱり多くの人間には暴力としか映らなかっただろうな」
「なにぃ……」
 理樹は、溜息をついて鈴を見た。
「鈴も、そろそろ凶暴な女の子っていうイメージを払拭するときだねぇ」
「む……」
 鈴は不満顔だ。
「あたしは、あいつしか蹴ってない」
「いや、そもそも女の子が蹴りをするっていう時点でかなり凶暴だよ……」
「しっ! 来たぞ!」
 恭介が理樹の口を押さえると、向こうからカレーうどんをトレイに載せた真人が、意気揚々とやってくる。
 さささっ、と居住まいを正す鈴たち。
 真人は、もうこの時点ではミッションのことなどほとんど忘れかけていた。腹がとにかく減っていたのだ。
「よっしゃあ、いっただきまぁ――すっ♪」
 ばりばりばりばり、とカレーうどんの汁を四方に飛び散らしながら食う。
「あぁーっ!? お、おれの……リトルバスターズジャンパーがぁ……」
 なんと、謙吾のジャンパーにカレーの汁が飛び散っていた。
 それを見ていた鈴の両目が、すかさずキラン、と光る。
「みんなに迷惑だろ――っ!」
「ぶぉっ!?」
 最大級の飛び蹴りを食らわせた鈴は、真人をそのまま後ろに吹っ飛ばし、すちゃっ、と元の席に着地した。
 まるで曲芸のようだったが、誰もそれに拍手を送る余裕などない。
 真人の後ろに吹っ飛ぶ勢いがすごすぎて、何人かのほかの生徒たちが巻き添えを食っていたのだ。
「あぁっ!? ほかの人たちまで!?」
「ひゅう……すげぇな。だが、今のは真人が完全に悪かった……。しかし、この場合、」
 恭介は、鈴に呆れた視線を送る。
「む……」
「鈴、ちゃんとあいつらに謝って来い」
 恭介が指で指示を出し、鈴の顔がそちらに向いた。
 とくに目立った被害は出てなかったが――巻き添えを食った生徒たちは、皆驚いた顔でこっちを見ていた。
 まるで恐怖の対象を眺めるように。
 鈴は目を細めると、こくんと頷いて、真人を連れて彼らに謝りに行った。
「このばかが、すみませんでした」
「……」
 なぜか真人が悪いことにされていたが、鈴は素直に頭を下げた。
 そして真人の顔は、カレーまみれになっていた。
 カレー怪人だった。
「ほら、おまえも謝れ」
「……すみません」
 真人も謝ると、ほかの生徒たちは、こくこくと頷きながら、さっさと行ってくれと言わんばかりに手を振った。
 帰ることにする。迷惑をかけたのだから仕方ない。
 恭介がその様子を元の席で眺めつつ、ぽつりと呟いた。
「しょうがねぇ……一応頑張ってることだし、今日は大目に見といてやっか」
「?」
 小さなメモ用紙にさささ、となにかを記す恭介に、理樹は不思議そうな目を向けていた。
 
 
 ◆
 
 
 翌日、五月二十五日。朝。
 食堂で朝食をとっていると、恭介がさらっと一言。
「そういや、野球の対戦相手が決まったから」
 なんの脈絡もない一言に、全員が一瞬で凍り付いた。
 恭介は、二つ折りにされたルーズリーフを中央に投げ込み、みんなの視線をそこに集める。
 真人は、そのルーズリーフを手に取って開いてみた。
「……こりゃあ」
 理樹がその隣から覗き込んでくる。
「なにこれ……メンバー表?」
「そう。次の対戦チーム」
 恭介がにやり、と笑う。
 理樹が訝しがりながら、真人からそのルーズリーフを受け取り、じっくり読んでみた。
「ええっと、陸上部……柔道部……卓球部……? なにこれ?」
「ああ、それ、全員部のキャプテンだよ」
「ええっ!?」
 さらっと答える恭介に、理樹は驚いて目を見開く。
 次に謙吾が、理樹の手にあるルーズリーフを取って読んでみると、まるでものすごいものを見つけたみたいに喜んで笑った。
「おお、見ろ! なんと四番にうちの主将がいるっ!」
「ひっ……」
 それらの言葉を聞いた鈴は、まるで怖いものを見つけた猫みたいに固まった。
 なぜこんなことに。
 恭介は、得意そうに笑ってそれに答えた。
「次の対戦相手がこいつらだから、よろしくな、おまえら」
「ちょ、ちょっと恭介……」
「なんだ?」
 理樹が信じられないような目で恭介のことを見る。
「勝てるわけないじゃない? なにこれ……全員運動部のキャプテンって、どうしてこんなことするの?」
「そりゃあ、次の対戦相手だからだよ」
「いやいやいや、そうじゃなくって……」
 やきもきする。恭介は、まるでなにもわかってない子供みたいにけろりとしている。
「大丈夫さ。まだ戦う前じゃないか。安心しろよ、理樹」
「でもさぁ……」
 真人たちにとっては、ちなみにこの試合はもう今回で六度目になる。
 謙吾が参戦してくれるようになってから、一回も勝ててないが。
 あのとき――謙吾が突然豹変して、自分たちに味方してくれたとき――なんとか辛くも勝利できたのだ。
 リトルバスターズが、まだ十人揃っていたときだ。
 あの日は、こうしてみんながいなくなる日が来るなんてどこか信じ切れなかった。
 それが今は、もうこんなに減ってしまった。
「ぼくたち素人集団が、運動部のエキスパートに勝てるわけないじゃない!?」
「そうでもないだろう。部のキャプテンは、必ずしも実力だけで選出されるわけじゃない。ほら、人望とか」
 謙吾がその言葉を引き継ぐ。
「そうだなあ。確かにそう言われてみれば、野球部の主将は八番になっているな。これは、人望で決まったケースだろう」
「う、ううぅ……」
 覚悟を決めるときだ、理樹。
 真人はそう心の中で呼びかけつつ、ふと、鈴のほうにも視線を送ってみる。
 怯えて泣いていることかと思ったら、顔だけでは精一杯強がっていた。
 腕は、震えていたが。
「おい、恭介」
 一応、訊いておいてやる。
「なんだ?」
「どうして、対戦チームがキャプテンばっかなんだ?」
「ふ。ついにそれを訊くか……」
 すると恭介は、待ってましたと言わんばかりに顔を綻ばせて、
「勝てば、スカッとするじゃないか」
 ――誰の口をも、閉ざさせるのだった。
 恭介はいつだって、こんなふうに無理やりみんなを引っ張っていった。
 それは今も変わることがない。
 反論できるやつなんか、いやしない。いや、そう考えたとしても、反論しようとまでは思わない。
 恭介はいつだって正しいからだ。
 自分だって、今も最も信頼している。
 今恭介は、自分が一番つらい目にいるくせに、その反応をほとんど表に出さない。
 すごいやつだ。本当に。
 死にそうな境目になったとしても、あくまで自然なままでいる。
 そんな恭介が、どこか寂しく見えた。
「そりゃまあ、そうだけどね……」
 そんな恭介の発言に圧倒され、理樹もしぶしぶと頷いた。
 理樹と鈴の二人は、まだ不安そうに表情を曇らしていたが、鈴のほうは特別そのようだった。
 恭介は、ほんのすこし心配そうな目を浮かべた。
「なあ、鈴」
 勇気づけるように笑いかけ、問いかける。
「やれるか?」
 鈴は、口を閉ざしていたが、
「……時間をくれ」
 最後には、はっきりと返事をするのだった。
 
 
 ◆
 
 
 真人は、どうしてここにやって来たのか、自分でもよくわからなかった。
「なぁ、鈴」
 いや、理由を見つけようと思えば見つかるのだ。
 ただ、そのどれもが本当の理由とは言えない。
 どちらかといえば、言い訳に近い。
 それでも真人は、どうしてか、この場所に来なければならないと思ったのだ。
「びびることねぇって」
「びびるわっ!」
 やっぱり鈴は怖がってるらしい。ここに来てやって正解だと思った。
 鈴はやっぱりあのいつもの場所――渡り廊下に、ぺったんと座り込んでいた。
 まるで幼い少女のように。
 真人はその近くまでやって来て、腕を組んだ。
「おまえはピッチャーで、ただ球を投げるだけじゃねぇか。なにをびびることがあんだ?」
「だって……」
 鈴はぼんやりと、上目遣いになって真人を見上げた。
「おまえみたいなのが、向こうにはわんさかといるんだろ?」
「そりゃ、まあいるだろうなぁ……」
「絶対やじゃ」
「……」
 遠回しにまたけなされているようにも聞こえたが、真人はなにも言わなかった。
 文句を言ってばかりの男は嫌われる、って鈴が言ってたから。
「独りでピッチャーやってて不安かよ?」
「不安じゃ」
「二人でピッチャーやるわけにはいかねぇしなぁ……」
 鈴は、いじいじ、と猫の肉球をいじっている。
 べつに、何度も試合には負けてるわけだから、適当にやりゃあいい、なんて言えるわけもない。
 どうしようかと考えているうちに、真人はふと、理樹の存在を思い出した。
「そうだ。理樹もキャッチャーやってんだから、投げるときはいつも理樹のこと考えてろ。そうすりゃ安心だろ」
「……?」
 鈴は、不可解そうに見上げてくる。
 真人は溜息をつきながら答えた。
「理樹はおまえのパートナーだろ? あいつだって、お前のことをずっと見てるに違いねぇ。だから、独りなんかじゃねぇよ」
「……ふん」
 ところが鈴には、それはあまり面白い話じゃなかったらしい。真人を無視して下を向いてしまう。
 人がせっかく元気づけようとしてやってんのに、なんなんだろう、と思った。ちょっと頭に来る。
 だが、その苛立ちの相手が鈴だとわかると、真人のその怒りは、不思議と煙のように霧散してしまうのだった。
 ここ数日真人が感じている、不思議な現象だった。
「……オレらだって、後ろにいるよ」
「え?」
 だからだろうか。
 こんな、感傷的なことを口にするようになったのは。
 真人は、ぼそぼそと小声で続けた。
「見えねぇかもしんねぇけど、みんなお前の後ろについてる」
 しゃがんで、目線を合わせる。
「真人……」
「理樹だけしか見えねぇかもしんねぇけど……ちゃんといる」
 鈴は、じっと真人の瞳を見つめた。
 真人は、すこし胸の奥を揺らしながら、構わず続けた。
「だから、寂しくなったときは後ろのほうを見ろ。オレらがいるから」
「……」
 いつまでだって、いてやろう。
「本当にたまにでいいよ。後ろを見てくれ。そんで思い出してくれ。そうすりゃオレらに会える」
「……」
「そしたら、あとは気を抜いて投げりゃいいだろ? もし打たれちまっても、オレらが取ってやるからよ」
「打たれたらって……」
 鈴はそのことを想像したのか、頬をぷーっと膨らませ、わずかに顔を赤くさせた。
「あたしはそんなにノーコンじゃない」
「はっ、ノーコンじゃねぇよ、おまえは」
「え?」
 わずかに元気が出てきたのを見て、真人は気が抜けたように笑った。
「でも、相手がおまえよりずっとすげぇときだってあるだろ?」
「うん。……たまには、あるかもしれない」
「だろう? そんときゃあ、オレらを頼ればいい」
 真人はぐっ、と胸に親指を向けて言った。
「取ってやる。このオレが」
 鈴の眼が、ふわりと揺らめいた。
 なにか言いたげに、むずむずと口を迷わせている。
「……おまえ」
 真人は、ボールを投げ返す動作をした。
「最後にはおまえにボールを返すよ。そしたら、また頑張れよ」
 真人は、そうして屈託なく笑った。
 すると鈴も、すこし気が抜けたように、笑い返した。
「なんだそれ」
 めったに見られることのない、目を線にした鈴の微笑みだった。
 ――この会話を通して、真人にははっきりとわかったことがある。
 この感情。
 この胸にある気持ち。
 それがなんなのか、真人は見当がついたと思う。
 そして、それを遠くのほうにやろうとした。
 虚しいものだから。
 悲しいものだから。
 終わりのときまで、内緒にしておくべきだ。
 影のまま、向こうにまで持っていくことにしよう。
「理樹にもちゃんと、その笑った顔を見せてやるんだぞ?」
「?」
 鈴は不思議そうに、目を丸くする。
「それが、あたしの野球となんの関係があるんだ?」
「いや、あるだろおまえ」
 ついいつもの調子に戻って、応答してしまう。
「チームワークで勝つんだからよ、野球は。一番重要なポジションにいるやつには、きちんと愛想よくしとけって」
「なんか気持ち悪いな……」
 鈴が眉をひそめて嫌そうにする。
「そんなにスマイル振りまきまくってたら、頭が悪い子に思われるだろ」
「相手のバッターにか?」
「そうだ」
「うーん……」
 真人は想像してみて、軽く噴き出しそうになった。
「なんで笑うんじゃ!」
「いやっ……わりぃ、なんか考えてみると、そんな作戦もいいかもなって……」
「あたしが迷惑だろ!」
 真人は大笑いしてしまった。変な棗鈴だ。仏の棗と呼ばれるかもしれない。
 ちょっと不気味なのがチャーミングだ。
「いや、むしろっ……、おまえ、福笑いみてぇに変な顔とかしまくったらどう――」
「にゃお――――っ!」
 どーんっ! と大きな音がして、猫が四方八方に逃げていく。
 顔をへこませながらも、とにかく鈴が元気になってくれて、一安心な真人だった。
 
 
 ◆
 

 昼休みになって、また恭介たちと食堂で集まると、鈴はみんなに言った。
「そんなのいらん」
「……へ?」
 恭介はたった今、鈴がどうしても不安で仕方なくなったときは、おれたちにタイムを寄こせと言ったばかりであった。
「あたしはそこまで臆病者じゃない。みんながいるんだろ? だから大丈夫だ」
「鈴……」
 恭介は、一瞬信じられないような顔つきになって、鈴を見つめていたが、やがては感傷的な顔になって、ゆっくりとうなずいた。
「……そうか」
 どこか気がかりだったものが取れた、恭介の微笑みだった。
「そりゃいいな、鈴」
「冗談で言ってるんじゃないぞ、馬鹿兄貴」
「わかってるさ。おまえを信頼するよ、鈴」
 久しぶりに、心の底から本気で喜んでいる恭介だった。


 ◆
 
 
 その夜は、五月二十五日恒例の、肝試し大会が開催された。
 そして恭介は、その中でもひときわ浮かれポンチとなっていた。
「さあ! おまえら早くチームを組め! ひゃっほーぅ! 男と女合わせて三人、そのうち男子一人、女子二人の混合チームだぜ! だいぶ説明的になっちまったが、今なら男子告白ドッキリ大会もあるぞ!?」
「いやいやいや……なにがなんだかわからないよ、恭介」
 みんなで渡り廊下に集まったところだったのだが、恭介のハイテンションぶりは異常だった。もはや理樹や真人だけでなく、リトルバスターズ全員が恭介から五メートルの距離を取っていた。
「へっ、なに言ってやがんだ理樹! チームリーダーは男どもの三人、そして、残りの女子たちは全員指名制にするから、そのときに男子の好きな子が誰なのかばれちまうだろう!」
「いや、そこまでハイテンションで言われてもやらないし、普通にくじ引きで決めようよ……」
「否! 断じて否っ! ノリが悪いぜ理樹! さっさと決めねーと、おれが一人で好きな子独占しちまうぞぉ!? ひゃっほぉ――――い!」
 なぜそこでひゃっほぉ――――い! なのか、理樹を含めた全員が理解しかねる問題だった。
「ふむ……ということは、ここで取り残された者は、恭介氏にとっていらない子ということになるのだろうか」
「はえ〜〜!? い、いらない子!?」
「いや、だから来ヶ谷さん、小毬さん……ここは安全にくじ引きで行こうよ」
「私たちをいらないなどと……最低ですね、恭介さん。いえでも……ぽっ」
「なんで西園さんは照れてるの!?」
「なんだかよくわからんが、むかつくやつだ、ばかきょーすけ」
 理樹が止めに入ろうとするも、きゃっきゃわいわいと興奮まっただ中の女子たちの空気は止められない。
 そんな中で恭介は、自分でこの騒ぎを余計大きくしていることにも気づかず、浮かれポンチ度をさらに上げ続けていた。
「おらおら、行くぜぇ!? どっきりひんや〜り、身も心もアソコまでも凍り付いちゃう、絶対零度、ガリガリアイスの最凶肝試し大会 in リトルバスターズッ! 開催だぁ――!」
「……もう、どこからどうつっこめばいいのかわからないよ……」
「同感だ」
 理樹と謙吾は二人して気持ち悪いものを見るような目で恭介のことを見つめていた。
「そもそも、恭介氏のノリは、果たして肝試し向きなのだろうか」
「どっちかっていうと、すっげぇ男たちの熱き祭り、って感じですよネー」
「ぽっ」
「そこで照れなくていいから……西園さん」
 恭介についての感想にはほぼ同意な真人だったが、最後の西園の感想だけはよくわからなかった。ここで恭介につられないで本当に正解だったと思う。
「おら、さっさとしやがれ理樹! おれの体のパッショーンが冷めないうちにっ!」
「どうしてそこだけ英語で、しかも発音がネイティブぽかったのか知らないけど……わかったよ」
 もうこうなってしまったら恭介を止める手段はない。
 いや、そもそも、止めたくないというか、触れたくないと言うべきか。
「やっぱり、ここはくじ引きはなしで?」
「当たり前だろッ!」
「いや、そこでいちいち大胆なポーズ決めなくていいから。もう……しょうがないなぁ」
 理樹は最初こそかなり嫌そうにしていたが、やがて女子たちの顔を見渡すと、すこし緊張したような、どぎまぎとした顔になった。
 しばらくの間躊躇したり、自分の中の羞恥と戦ったりしつつ、理樹はようやく対象を絞り、葉留佳に向かって手を差し出した。
「それじゃあ……葉留佳さん。いい?」
「あいヨ!」
 理樹に手を引かれて、その近くにぴょんっ、とジャンプする葉留佳。
 そうして肩を合わせていると、なんとなく葉留佳も居心地が良さそうだった。
 赤くなった顔で目を逸らそうとする理樹にわずかに微笑み、葉留佳はすこし遠くに鈴の姿を見つけると、ばちんとウィンクを飛ばした。
 それにどう返せばいいのかわからず、口を開けて突っ立っている鈴が、印象的だった。
「それじゃあ……次の人は……う〜ん、じゃあこういうのに強そうな、来ヶ谷さんで」
「了解だ」
「ありゃっ?」
 葉留佳は、まるで当てが外れてしまったみたいにがくんとよろめいた。記憶の像は、あまり難しいことは考えないので、すぐに理樹の手を取る。
 すると葉留佳は理樹から離れて、とぼとぼと鈴のところへやって来た。
「……残念でしたねー、鈴ちゃん」
「うむ」
 葉留佳のその態度は、敗者へ向けての優越感とか、そういった暗い感情とは無縁のものだった。
 純粋に残念そうな顔で、鈴に話しかけていた。
「でも、しょーがないことだ。それよりはるか、あの理樹にこう言っといてくれ」
「おうおう、なんて言っときます?」
「……」
 鈴は、深呼吸をして、葉留佳を見、そしてその先にいる理樹のほうまで見渡して言った。
「あたしを選ばなかったことを、後悔する日がきっと来る……」
「おおー!? こわっ!」
 葉留佳は、しぇー! と面白そうに飛び上がり、鉄器のように冷たい鈴の一言に応えたように、胸をぎゅっと押さえた。
「それじゃ、よろしくな」
「あいヨっ! ばっちし伝えときます!」
 ふざけた敬礼の仕方でそれに答え、葉留佳はどこでご機嫌そうな足取りで理樹のところへ駆けていく。
 そんな二人の会話の様子を真人は遠くで見ていて、ふと、不思議な感情にとらわれた。
 そのことで、鈴に尋ねてみる。
「おい鈴、おまえ……」
「ん?」
 どうした? といったように振り返る。
「いつの間に三枝のやつと、あんなに仲良くなったんだ?」
「んむ」
 鈴は腕を組んで、すこし得意そうに笑った。
「今日だ」
「へっ?」
「はるかは、すごくいいやつだった」
 とても誇らしそうに――まるで自分のことを自慢するように話す鈴に、真人は一瞬固まってしまった。
「今日って……今日の午後か?」
「そうだ」
「へぇ……」
 なにかあったらしい。
 真人がつぶやきを発すると、鈴は、向こうにいる理樹と葉留佳の様子を遠くから眺めて、不思議とすっきりしたような表情になって続けた。
「本当は、ここに集まって来るときに、はるかと一緒に肝試しの話をしてたんだ。そこで、もし二人で一緒に歩けたらいいなって言ってたんだ。恭介が決めた意味わかんルールのせいで組めなかったが」
「っつーと……なんだ、」
 真人は、内心とても驚きつつ、答えた。
「おまえらは、今日すげぇ仲良くなって、さっき一緒に組めなかったことを残念がってるってことなのか?」
「そうだ」
 でも鈴は、わずかに首を横に振った。
「でも、それはちょっと違うかもしれない。……確かに残念だったけど、考えればこっちも悪くない」
「?」
 不思議な言葉を話す鈴に、真人は目を丸くしてしまう。
 鈴は、向こうにいる理樹たちの姿を眺めながら、ふと視線を窺うように横目で真人を見て、真人と目が合うと、恥じらうようにさっとまた目を前に向けてしまう。
 唇を、横一文字にする。
「……あたしも、なんか変だ」
「??」
 真人は、わけがわからなかった。
 しかし、鈴とはもうなるべく深いところで関わるまいと決めていたので、なにも追求しようとしなかった。
 鈴とは、友だち同士でいようと決めたのだ。
 深くは考えてない。ただ、直感でそうするべきだと思ったのだ。
 そこから先の、縁深い関係になるべきではないと、真人は心で強く思っていた。
 けれど、そういった心の自制をもたらしたものは、いったいなんだったのか。
 その心の裏側に存在する、鈴との深い関係に、いかにも神聖なもののような、あるいは夢幻的な魅力というものがあることを、否定できなかったせいじゃないだろうか。
 面白くない話だった。
 真人にとっては、自分の心の弱さを映す鏡でもあったから。
「ほら! 次は真人の番だぜ!」
「へ?」
 気づいてみると、もうなんと理樹たちは消えていた。先に出発してしまったのだ。
 実行役の恭介に、なにか袋のようなものを渡される。
「なんだ、こりゃ?」
「ふっ……それはな、理樹のやつがどうしてもって言うんで、作成してやったくじだ。その中に鈴や能美たちの名前を書いた四枚の紙が入っている。そこから自分の分のご指名権を取れ」
「ご指名権ってなぁ、おまえ……んなもんどうせ、」
 恭介が、自由に中のものを操作できるんだろう。そういうスキルが恭介には使えるのだ。
 真人は、若干期待しつつ、また不安になりながら、ごそごそと二枚の紙を取り出した。
 そこには、やはり――、
「鈴と、小毬だな」
「……」
 決まり切った事項のように、鈴の名前があった。
 真人は溜息をつく。
「へっ」
 と、さり気なく恭介に腹をつつかれるが、真人は「んだよ」としか返せなかった。
 こんなときだけは、恭介の思惑もうっとうしく思えた。ただの悪ふざけだろうが、余計なお世話だ。
 鈴を見ると、どこかほっとしたような、あるいはどこか困ってしまったような目で、きょろきょろとあたりを見回していた。
「鈴ちゃ〜ん♪ 一緒の組だね〜♪」
「う、うん。そーだな。こまりちゃん」
 小毬が自分たちと一緒にいてくれることだけが、鈴にとって唯一の救いのようだった。
 こちらと目が合うと、鈴はまるで、それまでの自分を恥じるように強い眼差しになり、ふんっ、と顎を不遜に突き上げ、偉そうに腕を組むのだった。
「まさか、おまえと一緒になるとはな」
「どうしてオレがそんなに軽蔑した視線をもらうことになるのか知んねーが……おまえ、怖いからってこっちに引っ付いてきたりするんじゃねーぞ?」
「だれがっ!」
 また赤い顔に戻ってしまう。
 真人はそんな鈴を見て、一つのことを考えていた。
 鈴とは、友だちとして付き合うことにすればいい。そうすれば気も楽になる。
 友だちとしてなら、いつもどおり馬鹿も言えるし、妙な冗談も平気で言える。
「へんっ、泣きべそかいてもしんねーぞ? 昔みてぇに、恭介におぶってもらおうとか考えてたってオレには無駄だかんな」
「……おまえは、あたしに言ってはならんことを言った!」
「えー? 鈴ちゃんって、昔、恭介さんにがおぶってもらったことあるの……?」
「あっ、あるわけないだろっ!」
「いや、あるぜ?」
 端で聞いていた恭介が、にやにやと笑って答えを教えている。鈴は耳まで真っ赤に染まり、わくわくと興味深そうに聞き入ろうとする小毬を、手でぐいぐいと引っ張っていった。
 ついでに真人も学ランを引っ張られ、ずるずると引きずられていく。
 謙吾の呆れた顔だけが、まだ戻ることのできる現実を示しているようであった。

 
 ◆
 
 
 真っ暗闇の学校は、どこか神秘的な空気に満たされてるようだった。
 静寂が埃のように溜まった廊下の隅には、外から洩れてくる星の光が神聖に照り返していた。
「なんか、すげぇ出そうだな……」
「こ、こわいよぉ〜……」
 小毬はなんともう泣きべそをかいていた。予想通りすぎて笑ってしまう。
 鈴ではない別の女子に腕にくっつかれても、真人はわりと平気だった。男らしく笑いかけ、どん、と胸を叩いて言う。
「大丈夫さ、安心しろ小毬。このオレの筋肉があるだろ? 泣くんじゃねぇ!」
「……ふえ?」
「たとえどんな幽霊や化物が出てきたって、このオレの筋肉で全員撃退してやるぜ!」
「お、おお〜……頼もしい! かっこいい!」
「だろう?」
 にやりと笑う。こうやって無垢に頼ってくる様子は、まるで小さいころの理樹を見ているようだった。
「はっはー! オレの筋肉に任せときゃぁ、万事安全さ!」
 決めゼリフも華麗に決めて、真人はとても得意になった。
 早速この様子を鈴に見せてやりたいと思って、振り返ってみると、なぜか鈴はずっと後ろのほうに立ったままで、真人は唖然とした。
「? お〜い、鈴? なんで一人でそんなとこにいんだよー? 早く来いよー?」
「……」
 鈴はどうしてか、動こうとしない。
 不思議に思って近づいていくと、鈴は余計顔を強張らせてこっちを見た。
「んだよ、おい?」
 手を取ってみると、鈴はすこしびくっとしたが、それでも動こうとはしなかった。
「なんだよおまえ? ほら、早くしねぇと後ろの謙吾たちが来ちまうだろうが。あいつにはぜってぇ負けたくねぇんだよ。ほら、いくぜっ……、……っ!?」
 無理やり連れて行こうとしても、鈴は動かなかった。真人だけ無理に前に進もうとしたので、逆にバランスが崩れてずっこけてしまう。
 筋肉担当の自分が、情けない。
 気恥ずかしさを紛らわせつつ、立ち上がって鈴の顔を睨んでみると、真人はようやくその顔の異変に気が付いた。
「あれ? ……おまえ、まさか、」
「……いっ!」
 鈴の顔は、確かな現実を物語っていた。
「こ、怖くなったのか……? もう?」
「――っ!」
 まるで鈴は、その言葉がスイッチだったかのように、ぶわっと目に涙を溜めた
 引きつった顔で、半分泣きそうになりながらも真人を睨み付け、首をわずかに横に動かした。
 震えている。
「ん、んなわけあるか……」
「じゃあなんで、動かねぇんだよ」
「こっ、これは……静止術だ! どこまで人の手を借りず静止していられるか、挑戦してたんだ!」
「ほー、こんなとこでかよ?」
「あっ、当たり前だ!」
 そろそろいいかげんにして、止めたほうがいいと思うんだが。
「静止術の達人は、こっ、こうして何時間も一人で突っ立っていられるという……一人も友だちいなくなるまで挑戦するのがプロフェッショナルだ! 邪魔するな!」
 真人は溜息をついて答えた。
「じゃあ、置いてっちまうが、いいのか?」
「ひっ!」
 真人が歩いていこうとすると、なぜかひしっ、と学ランの裾を掴まれる。
「……んだよ」
「お、置いてくな、ばかっ!」
 自分が矛盾したことを言っているのは気づいているのだろうか。
「あっ、あたしが悪かったのなら謝る! ごめん! だから置いてかないでっ!」
「……」
「しぬっ!」
 死にはしないだろうが。
「ちぇっ……」
 そんな涙あふれる顔で言われたら、真人も許してやらざるを得なかった。
 というよりも、鈴が可愛すぎて――とふと思ってしまい、真人は慌てて首を横に振った。
「しょ、しょうがねぇなぁ……オレの学ランの先っぽ掴むだけなら許してやる。行くぜ」
「わかった! さぁ行こう!」
 そして、びよ〜ん、と学ランの裾が伸びる。
「いや……鈴」
「なんだ?」
「行くぜって言ってんだろ? なんで動かねぇんだよおまえ!」
「ま、真人が歩いたらあたしも歩く……」
「だから今歩いてんじゃねーか!? おい!? ってこら!? そんなに強く引っ張るんじゃねぇ!? 伸びるだろうが!」
「ああっ!?」
 無理やり強く引っ張って、鈴の地蔵様を転がしてやる。
「ばかまさと! しねっ!」
 いわれのない悪態を吐かれるが、真人は無視して前に進んでいった。
 小毬も自分の腕に引っ付きながら、進んでいく。
 まず、真人たちは、あらかじめ恭介にメールで知らされていた、第一チェックポイントにたどり着いた。
 そこは、理科室だった。
「なんていうか……早速定番のポイントだね〜」
「だな」
 なにかが出てきそうな雰囲気だが、意外にも真人はあまり怖がってなかった。むしろお化けそのものより、そこに誰かが潜んでいないかのほうが、真人にとって重要だった。
 ばしんっ、と拳を叩く。
「けっ」
 真人が、幽霊を怖がることは基本的にない。だって幽霊には筋肉がないんだもの。
 筋肉を持ったセントバーナード犬のほうがよっぽど怖い。
「さぁ〜って、と」
 意気揚々と理科室の扉を開いて、堂々と中に入っていく。
 鈴と小毬の二人も、真人の学ランや腕を掴みながら、おずおずと続いていく。 
 ここのお札は確か、ロッカーの中に隠されてある、骸骨の後頭部にくっつけてあるはずだった。真人はすぐにそのロッカーを目指すことにした。
 だが、いかんせん周りが暗すぎた。この暗幕では探すのにすこし時間がかかるかもしれなかった
 そうして、手探りで徐々に進んで行くにつれ、ようやく真人はそれらしい物体を見つけることができた。
「これ、ロッカーだな?」
 横側のアルミ板をばんばんと叩きながら、真人がそれをロッカーだと確かめた瞬間、ばーんっ、と盛大な音が理科室内に響き、骸骨が中から飛び出してきた。
 そしてそれは奇しくも、真人の後ろにくっ付いていた二人の頭上に落ちた。
「にゃ――――――――――っ!?」
「わ、はわわわわわぁぁぁぁ――――!?」
「ぐへぇっ!?」
 真人はあまり驚かなかったのだが、次の瞬間にはひどく驚かされる羽目となった。
 なんと、見えない力で後ろに引っ張られているからだ。
 鈴が、真人の学ランを掴んだまま後ろに駆け出したのだ。
 ちょうど首を思いっきり絞められる形で、真人は後ろにどどどどどど、と引きずられていった。
 脱出しようとしてもがくも、机の上にあった丸椅子をはじき飛ばすだけで、鈴の暴走超特急から逃れることは敵わなかった。
 そのまま理科室の外まで引きずられ、ぼろぼろのまま床に倒される。
「まっ、真人!? やばい! あたしらしぬかもっ!」
「死ぬのはオレだコラっ!? 殺す気かてめぇ!? ――って、おい!?」
 なんと、鈴にものすごく、くっつかれている!
 甘いシャンプーの香りが、ふんわりと鼻孔をくすぐる。真人は心臓が飛び出そうになった。
「ちょっ、ちょっと待てぇ!? く、くっつくんじゃねぇ!? 頼むから! 離れてくれ!」
「にゃっ!?」
 必死に鈴の肩を押しやって、ぎゅ〜っと遠ざける。
 どうにもパニックになってるせいで、自分でなにをしているのかわかってないようだ。その分、蹴りが飛んでこないだけ幸運だったが。
「ちきしょぉ……あちこちぶつけちまった。しかも、オレの制服がすげぇことになってるし……」
 背中の腰の部分がびよ〜ん、と半円形に伸びてしまっていた。正直言ってすごく格好悪い。
 真人は、早鐘のように脈打っている心臓の音を誤魔化すために、呆れたような溜息を一つ吐いた。
「あ、あんなもん、恭介の仕掛けたトラップに決まってんだろうが……ったく。い、いいか、二人とも。ここで待ってろ。オレが札を取ってきてやる」
「へ……? 真人くん、お札見つけたの?」
「おう。たりめぇよ」
 真人は踵を返して、もう一度理科室の扉を開けた。
「さっき見つけたんだよ」
 糸で吊らされている骸骨の頭をぱんぱんと叩きながら、真人は札をゲットした。
「あの骸骨の後頭部に貼ってあったんだよ。へっ……ちょろいもんだぜ。こんな弱小トラップ、オレにとっちゃ朝飯前だな」
 朝飯前のわりには体はズタボロになってるのだが、鈴たちはびびってしまってなにも言えない状態だった。
 真人は骸骨を元に位置に戻し、謙吾用にさらにハイトラップ化させておくと、鈴たちの元に戻ってきた。
「次のチェックポイントは……二階の音楽室だな。さっさと行くぜ」
 お札の後ろに、次のチェックポイントが書かれてあったのだ。

 
 ◆
 
  
 音楽室。
 なんと、ひとりでに不気味なピアノの音が聞こえてくる。
「はわぁぁぁ――――っ!?」
 噂によると、これは昔、思い詰めて自殺してしまった少女の霊で――、
「なわけねぇだろ」
 というのは、鈴のただの独り言だった。真人は頭をごすんと叩く。
「ほら、ここでテープをこっそり流してただけだ。札も取ってきてやったぜ」
 おおー! と鈴と小毬の二人が、真人の頼もしい姿に拍手を送った。

 
 ◆
 
 
 三階、美術室。
「はわあ!? ブ、ブルータスの目が――っ!?」
「こわっ!?」
 ブルータスの目が光っている。
 べつに、驚くことはない。ただの画鋲だ。
 胸像の目のところに、貼りつけられてあるだけなのだった。


 ◆


「で……ここが最後だな」
 四階の恭介の教室にやってくる。
 順当に考えればここが最後のはずだ。一階、二階、三階、四階、と上がってきたのだから、ここが最後でなければ不自然だ。
 真人は教室の中に入り、あたりを見回した。
「どうせ、恭介の席んとこだろ」
 真人が適当に当たりを付けてそっちのほうに歩いていくと――、
「ん?」
 ぽた、ぽた、と上のほうから滴ってくる、謎の赤い液体が!
 見上げると、そこにはなんと人の手首がつり下がっていて――。
「こわっ!!!!!!?」
「ひゃわあ――――――っ!?」
「げっ……」 
 真人もちょっと驚いてしまった。ここだけは恭介のお手製だったようだ。
「ひゅう……驚かせやがるぜ。くそ……」
 真人は、急いで机のところに貼ってあった札をゲットした。
「だが、もう大丈夫だ。ほら、札はゲットしたぜ」
 お札を小毬や鈴に見せてやると、二人は見るからにほっとした。
 上につり下がっている手首は、かなりリアルにできていた。真人はもうそちらを見ないことにして、札の裏面を見てみると、なぜかそこには――予想もしないことが書かれてあった。
「――校長室?」
 次のチェックポイントは、校長室。
 真人は首を傾げた。
「なんだ、まだ行くとこがあったのか?」
「へ? ちょ、ちょっと待て!? お札は……たしか三枚で終わりなんじゃないのか?」
「ああ……だよな。でも見てみろよ。ここに確かにそう書いてあるぜ?」
 真人がお札の裏面を見せてやると、鈴も「ほんとーだ……」とうなずいていた。
 今までとほんのすこし筆跡が違ったのだが、確かにそこには最終チェックポイント――校長室、と書かれてあった。
 鈴は、それじゃあはやくはやく、と真人を急かした。
「さっさと終わらそう! そしてはやく帰ろうっ!」
「お、おう。……っておまえ、やっぱ怖がりなんだなぁ。うりうり」
「悪いかぼけっ! ああそうだ、あたしめちゃくちゃびびっとるわ! とっくに精神の限界がきてんじゃ! ばーかばーか!」
「けっ」
 真人は噴き出して笑った。
「悪くはねぇがよ。怖ぇなら、ちゃんと捕まってろよ」
 真人には、なんだか今の状況が――こうして、鈴に純粋に頼られてることが、どうしてか心地よく、嬉しいだけなのだった。
 階段をすべて降り切り、入り口と反対方向にある校長室に近づいていくと、真人たちはふと、その扉に面した廊下のところで、立ち止まった。
 異様な空気を感じる……。
「な、な〜んか、空気変わったね〜……」
「ああ」
 だけど真人は、どうして外の風が急に止んだのだろう、とらいにしか感じなかった。
 こういったものは、男子よりも女子のほうが敏感なのかもしれない。
「こ、ここは……やめとこう……?」
「あ?」
 小毬は真人の学ランをぎゅっと握りしめ、後ろに引っ張る。
「危険だよ〜」
「おい、なに言ってんだよ小毬。それじゃあ、ゲーム負けたことになっちまうだろ?」
「でもぉ〜……」
「こまりちゃん……」
 鈴も、なにか得体の知れない存在を先に感じたのだろう、さっきより真面目な顔つきになって、校長室のほうを見た。
「真人……」
「なんだよ?」
 小声で囁いた。
「なんか、ほんとにちょっとやばいかもしれない……ここは、引き返すべきだと思う……」
「あぁ?」
 真人は見るからにがっかりである。ここまでせっかく頑張ってきたのに。
「謙吾に負けたことになっちまうのは癪だなぁ……」
「真人!」
「ちっ、わかったよ……」
 真人はしぶしぶうなずいた。まさかここまで真剣にお願いされるとは思わなかったので、驚いてしまったのだ。
 しかし、いやがってるものを無理にさせるわけにもいかない。
 これが自分だけだったら、しゃらくせぇ、謙吾なんかに負けるかよ、と思うものだが、女子がいるのなら仕方ない。
 残念だったが。
 だがそうして、真人たちが今来た道を戻ろうとしたところ、振り返ってみると、なぜかそこには、まったく別の――見覚えのない道ができていた。
 首を傾げる。
「ありゃ? ここって確か、便所じゃなかったっけ?」
「そうか?」
 鈴はあまり覚えてないようである。だが真人の記憶では、確かにここの壁は、男子トイレであったはずだ。
 ちょっとおかしい。
 なにかが変わっている。
 今回は、真人一人が思い悩むことになった。
 こんな間違いは、あり得るのだろうか
 自分はこういう風景の記憶には結構強いほうだ。たとえこのような薄暗い道だとはいえ、自分が今来た道を忘れるはずがない。
 どういうことだ。
 そもそも自分たちは、さきほど階段を降りてきたはずなのに、いつになってもその階段までたどり着かなかった――。
「……あのよぉ……なんか、さっきここ通らなかったか?」
「は? そうか?」
「と、通ったよ……」
 小毬がおずおずと同意する。
 見ると、壁に貼ってあるポスターが、さっきとまったく同じだった。平常時にはまったく見覚えのなかった不気味なポスターが――線がぐるぐるとうずまきにされている謎のポスターが――今ここでは、無数にある。あの張り紙の位置は、よく覚えていた。はじめて、その不気味なポスターを見かけたときだったから。
 そのとき、なにかがすぅ……っと自分たちの間を通り抜けていった。真人たちは急いで振り向いて、後ろを確認すると――、時間が凍ったような気がした。
 そこには、さっきと同じ、校長室だった。
「……」
「……」
 真人たちはなにも言わず、駆け出した。
 全速力で廊下を駆け抜けていく。
 だが、それもしばらくすると、力が抜けて、へたれ込んでしまった。
 息を切らしながら周りを見回してみると、またさっきと同じ場所だった。
 当然、後ろには校長室。
 しかも、さっきより近くに――。
「にゃ……」
「鈴?」
「にゃ――――――――っ!?」
「お、おい!? 待てよ、鈴!」
 鈴が超特急で駆けていってしまう。
 真人は追いかけることができなかった。小毬を置いていくわけにもいかない。そうしてどうしようか迷っているうちに――なんと後ろから、鈴が追突してきた。
 なぜだ。
 後ろからなんて、絶対あり得ない。
 しかし、もうそんな初歩的な疑問質問はこの状況に通用せず、真人たちはもう、否応なく、事実を深く認識するに至っていた。
「こりゃあ……」
 鈴は、頭のぶつけたところを押さえながら、首を横にふるふると振り、立ち上がる。
 そうして後ろを見て、凍り付いた。
 校長室は、もうほとんど目の前にあった。
「ふ、ふぇぇぇ〜〜〜ん……」
 小毬が泣き出した。
 真人は、小毬の頭に手を置き、立ち上がると、ぎゅっと腕を組んだ。
 そしてふつふつと、静かな闘志を燃やし始める。
「そうか……そういうことなのかよ」
「は?」
 鈴の半分助けを請うような目が向けられるが、真人は続けた。
「これが、恭介の仕掛けた最後のトラップってわけだな! けっ、あいつめ! さすがやってくれるぜ!」
「はぁ!?」
「ここまで手の込んだものを作るたぁ……恭介のやつ、本気だな……へっ……あの部屋にはなにが待ってんのかなぁ? さぁ行ってみようぜ、おまえら!」
「ちょ、ちょっと待てっ!?」
 もう話は聞かない。真人は鈴を無視して、意気揚々と二人を校長室に引きずっていった。
 だって答えはもう決まっている。あの場所をクリアしないとここから出られない。ならば、男らしく正面から挑んでクリアしてやるしかないだろう、と真人は結論づけていた。他二人は女だったが。
「は、はわわぁぁぁ〜〜!?」
「泣くんじゃねぇ、小毬! 大丈夫さ。ただ札を取ってくるだけだ。そうすりゃあ、このわけわかんねぇトラップも止まんだろ! さぁ……行くぜ!」
「やめにょ――――っ!?」
 鈴が無理やり背中に引っ付いて止めようとするも、真人は腕で無理やり校長室の扉をこじ開けた。
 洋風の大きな扉で、少々立て付けが悪く、開きづらかったが、真人は無理やりそれを開けてしまった。
 それは――勢いよく開けたつもりなのに、なぜか、その古い扉は、ぎぃ〜……と埃を落としながら、ゆっくりと開いていった。
「……けっ、んだよ」
 あとはべつに、とくに変わったところはなかった。
 ただの普通の部屋だ。
 奥のほうに校長先生らしい立派な机があり、その上方に明り取り窓が二つ。
 青白い月の光が、ぼんやりとそこから差し込んでいて、床の絨毯を淡く紫に照らしていた。
 静かすぎて、気が抜けてしまう。
 ここだけ、時の流れが止まってしまっているかのようだった。
「なんともねぇじゃねぇか」
 だがその部屋の中心に足を置いた瞬間――ばたん! と後ろの扉が独りでに閉まった。
「!?」
 三人で勢いよく振り返る。
 扉はもう完全に閉まっていた。
 閉まった扉に駆け寄り、鈴ががちゃがちゃとドアノブを弄ってみても、びくともしない。
 押しても引いても、無駄だった。
 まるで岩が、向こう側にぎっしりと詰められているようだ。
「ひっ――」
 この非現実的な状況に、ついに鈴も強がりをすべて消し、大粒の涙を溜める
 真人は呆然としていた。
「ど、どうしようまさと!? こまりちゃん!? あたしたち、この部屋に閉じこめられたぁ!?」
「ふぇ……」
 小毬が、とうとう子供のように泣き始めた。
「ふ、ふぇぇぇ〜〜〜〜ん!? もうだめだぁ〜〜!?」
「こまりちゃん!?」
「もっ、もう死んじゃうよ〜〜〜〜っ!? わたしたちきっとお化けに食べられちゃうんだぁ〜〜〜〜!?」
「うっ……」
 その小毬の泣き声が切っ掛けだったのだろうか。
 とうとう鈴も、涙を頬に流し始めた。ぐずぐずと唇を噛みしめ、真人たちに背を向けて、がちゃがちゃとドアノブをいじりながら、鼻をすするような声を上げる。
「やばい……ど、どうしよう真人っ!? うぎゅっ……ほんとに、開かないっ……まさと、なんとかしろぉー!」
「落ち着けぇ、てめぇら!」
「えぐっ……」
 真人は大声を出し、二人の涙を止めさせた。
 腕を組み、傲岸不遜な顔で校長室を見回す。
「いいか、よく考えてもみろ……」
「え……?」
「この状況はいったいなんだ? やっとここまで来て、それっぽくなってきやがったじゃねぇかよ……無限ループの廊下、勝手に閉まった扉……謎の校長室……ここまでやるたぁ、さすが恭介というもんじゃねぇか!?」
 二人はぽかん、と静かになる。
 怖いからではない。真人の馬鹿さ加減を思わず計りかねているのだ。
「まさか、ここまで力作のトラップを作ってくるたぁな……だが、あの恭介の仕業だと思えば、このレベルも納得できる」
「納得するなー!」
 鈴が涙を拭いて反抗するが、真人は笑ってそれを相手にしなかった。
「大丈夫だって鈴。ただ勝手に扉が閉まっただけだろ? まさか本気で呪われたわけでもねぇし――」
「だから、これから呪われるんじゃ、ぼけ!」
「はいはい、そうですね。わかったから、早くお札を探そうぜ」
「ばかまさと! おまえなんかしねばいいっ!」
 その手の罵詈雑言はもらい慣れている。真人はからからと笑ってお札を探し始めた。
 そして、早速発見した。
「おっ! あったじゃねぇか。簡単だなぁ。ラッキー♪」
 あくまで真人の態度は楽観的だ。
 そのお札は、これ見よがしに、机の背後の壁にどーんっ、と貼ってあった。
 すこし色が違っていたり、血痕のような跡もあったが、気にしない。
 真人がそれに手を伸ばしかけると、とたんにものすごい悪寒に襲われたが、真人は気にせず、無理をして、ぺりぺりっと剥がしてしまった。
 そうすると悪寒は消えたが、なぜか妙な力に引き寄せられるようにして裏面を見てみると、そこには――。
「黄色……の、泉……って、なんだ?」
 ぞぞぞぞぞぞぞぞ! 
 そうした瞬間、ありとあらゆる壁から、もぞもぞと謎の右腕が生えてきていた!
「ぎゃ――――――っ!?」
 鈴、失神。
 小毬は、壁から生えてきた腕に掴まれ、泣き叫びながら逃げ回っている。
「ひゃうっ!? た、たすけてぇー!?」
「小毬!? くそったれ――」
 真人は走っていき、小毬を掴んでいる謎の右腕を思いっきり拳で殴りつけた。
「おらぁ!」
 それを吹っ飛ばすと、その右腕はふっ、と消えてしまう。
 だがまた、すぐに新しいのが生えてくる。
 とんでもないことになってしまった。
「ちっ、なんなんだよこりゃぁ! やべぇな……ここは逃げるぜ!」
 真人は一瞬でそう判断し、助走をつけ、扉に向かって思いっきりのタックルをかます。
 すると、なんと扉が開いた!
 よかった――と思いながら、真人は腕に抱えていた小毬を廊下に置き、立ち上がった。
「まだ鈴ちゃんが!」
「なんだとぉ! くそっ」
 なんと、鈴がまだ中央で倒れていた!
 さらに扉がだんだんと閉まっていく。
「やべぇ!?」
 真人は、駆け出した。
 もう恭介の仕掛けのことなんて、頭に入ってなかった。
 ただ鈴が危険だ。危険だ。鈴を助けないとやばい。それだけが頭にあった。
「待てくそ! 閉まるんじゃねぇっ!」
 真人は、腕をぎりぎり扉に挟むことに成功し、扉が閉まりきるのを食い止める。
 その直後、ふっと自分の魂がどこかに持って行かれそうな気になったが、真人は胸に気合いを入れて、なんとかそれをしのいだ。
 そうすると、やがて感覚が徐々に戻ってくる。真人は一気に扉をこじ開けて、中に駆け込んだ。
 倒れていた鈴を抱えて起こしたころには、扉はばたん、と完全に閉まってしまった。
「くそったれが!」
 壁からの腕がいっそう長く伸びてきて、真人たちを取り囲もうとする。
「おい、鈴! てめぇ、しっかりしろ!?」
 鈴の眼は覚めない。
 揺り起こしても無駄だ。本気で気絶しているらしい。
 真人は心臓がぶち破られる思いになりながらも、起きない鈴を脇に抱えた。
「おい、しっかり捕まってろよ……っ!? いっくぜぇ――――っ!?」
 引きずり込もうと掴んでくる手を腕や肩ではじき飛ばしながら、助走をつけていく真人。
 そして、思いっきり、タックルを扉にかます。
「うううりゃぁぁぁ――――――――――っ!」
 ドアの中心部分を壊しながら、なんとか真人たちは、そこの穴になったところから外に脱出することができた。
 小毬の近くに、ごろごろと転げ落ちる。
 振り返ってみると、扉のところには、もう謎の腕たちの影はなく、壊れた扉が、ぎぃっ……ぎぃっ……と今の衝撃で揺れているだけだった。
 ほっと溜息をつき、鈴をゆっくりと抱え起こす真人。
「うっひゃ〜……」
 目を大きく見開いて、嘆息をつく。
「とんでもねぇ仕掛けだったぜ……さすが恭介だ」
 小毬の訴える視線が、それを思いっきり否定していたが、真人はその意味に気づこうとしなかった。
 真人は鈴を背負い、小毬と一緒に、慌てて校舎の中から脱出した。

 
 ◆
 
 
「ん……?」
 鈴が目を覚ましたころには、もう全員が校舎外に帰還した後であった。
 もちろん、あの真人が手に入れた「黄泉行」と書かれたお札は、もう焼却済みだ。
 とんでもない目に遭ったもんだ、と真人は思っていた。
「鈴、目を覚ましたんだね!?」
「え……りき?」
 鈴は薄目を開いたまま、あたりを見回す。
「ここは……」
 鈴がいた場所は、最初にみんなで集まった、あの夜の渡り廊下だった。
 帰って、来られたのだ。
 そして――、
「にゃっ!?」
 鈴の顔は唐突に真っ赤に染まることとなった。
 真人の背中に、おんぶされていたのだ。
「よぉ、鈴」
 振り返って、真人が話しかける。
「悪かったな、あれ……じつは、マジもんの化物だったらしいぜ。すげぇよなぁ……オレら。あいつらから逃げてきたんだぜ」
 九死に一生を得たように、はっはっは、と笑う真人。
 今となっては笑い話である。
 鈴は顔を赤らめたまま、数秒間、今の状況を理解するように、ぽかんと口を開けたまま聞いていた。
 だが、だんだんとさっきのことを思い出してきたのか、ふつふつと憎たらしい光を目に宿す。
「だ〜か〜らぁ〜あたしが言っただろぉ! 危うくおまえのせいで死ぬとこだった!」
「ああ、マジでやばかったらしいぜ……」
「え……」
 恭介が、横から真剣な口調で話しかけてくる。そうすると鈴は、冗談ではなかったのかと知り、顔をいっそう青くした。
 詳しい事情を説明してやると、鈴は顔をさらに青くさせながらも、しだいに落ち着いた表情を取り戻してきた。
「悪かったよ」
 そんな中で、真人がぽつりと言った。
「おまえ、ほんとうに間一髪だったもんなぁ……すげぇひやっとしたぜ。でも、こうして無事だったんだから、素直に喜んでみてもいいんじゃね?」
「……」
 鈴は、唇を噛み、しばらく真人のことを睨んでいた。
 そうして腕を出し、真人の首にかけ、スリーパーホールドを食らわす。
「いっ! だぁ〜、だだだだ!?」
「おまえが、あたしを、死にそうな目に遭わせたこと! これで、全部ちゃらにしてやるっ!」
「い! だだだだい!? ギ、ギブっ、ギブっ!?」
「しぃ〜ねぇ〜……」
「いや、死んじゃまずいでしょ!? 殺さないでよ!」
 理樹が止めに入ると、鈴はやっと手を離すのだった。真人は鈴のことを背中から下ろし、げほげほと咳き込む。
 恭介は、それを見ていて、どこか気の抜けたように笑った。
「……にしても、気絶までしちまうとはなぁ。よっぽど怖かったんだな、鈴」
「うっ!」
 恭介のなにげない一言によって、鈴は声を詰まらせ、顔を赤くしてしまう。
「普段から男っぽく偉ぶってるわりに、怖くなっちまうとそんなふうになるところが可愛いよなぁ」
「う、うっさいわ! おまえなんかに言われても嬉しくない!」
「お、そうか?」
 恭介が、なぜかにやにやとしながら鈴に近寄ってくる。
 顔を近づけ、ぼそぼそと耳打ちする。
「……真人にだったら、言われたいか?」
「ふぇっ!?」
 鈴の目が衝撃に見開かれる。
 すると恭介の指が、すっと真人に向けられた。
 真人は、一人で不思議そうに突っ立っていた。
「……小毬の話によると、なかなかかっこよく助け出してくれたそうじゃねーか……? すげぇな。おれもちっと、真人のことは見直したぜ。おまえもそうだろう?」
「む……」
 そうすると鈴は、口を尖らせ、面白くなさそうに真人をじっと見つめた。
「べつに、たいしたことなんかない」
「ありゃ?」
 恭介は不思議そうな顔になったが、するとその後ですぐまた、すべてを見通したかのようににやりと笑った。
「おまえ……ひょっとして、小毬だけにその姿を見られたの、悔しがってるのか?」
「っ――!」
 鈴はまるでそれが図星だったみたいに、顔を真っ赤にして、首をぶんぶんと横に振った。
「んっ、んなわけないだろっ!」
「はっ、素直になれよ鈴。真人はべつに、小毬にいいところを見せたかったから、おまえを助けたわけじゃないぜ。おまえが大事だったんだよ」
「しっ、知るか!」
「知らねぇとはねぇだろう。仮にもおまえの命を救ってくれたやつじゃねーか。ここはお世辞だけでもいから、とっても素敵だったよ、真人くん♪ 大好きだから! って言ってやれよ」
「誰なんじゃそいつは! あたしのキャラじゃない!」
 余計なことを言ってくる恭介を精一杯押しのけて、鈴は真人の前に立った。
 腰に手を当て、まるで勝負を挑むように真人を爛々と睨み付けるが――。
「おい、ばかまさと」
「んだよ?」
「……あ……あ、……」
「?」
 わずかに顔を赤く染め、もじもじと手を動かす。
「……よ、よくやった!」
「は?」
 真人はぽかんとしてしまう。まさか鈴に、あのことで褒められるとは思わなかったからだ。
 みんなもいつになく素直な鈴に驚いて、二人に注目している。
「だから……」
「?」
 目を伏せる。
「も、もしも……」
 そしてさらに顔を赤くすると、上目遣いになって、真人を見つめた。
「もしもまた、あたしが危なくなったら、助けてくれ……」
 周りの空気が固まって、思考がフリーズする。
 ひゅーっ、という恭介の口笛が聞こえるまで、真人はずっとその意味を掴めずにいた。
 みんなも、なんとなく関係を察したような視線を、二人に向けている。
 鈴を見ると、ものすごく恥ずかしそうに首をきょろきょろとさせ、「しまった!」と呟いていた。なんであたしがこんなことを――と顔に書いてある。
 そんな一所懸命な鈴が、余計に可愛かった。
 真人は笑った。こちらもすこし照れくさそうに。
 真人は、鈴のことを友だちだと思うようにしていた。
 心のどこかでそう、強く決めつけていた。
 けれど、友だちとはなんだろう。
 これ以上、鈴と親しくならないことだろうか。勝手な理想として、勝手な境界線を自分たちの間に引き、そこから鈴を絶対に立ち入れないことだっただろうか。
 自分は、自分にしかなれない。
 それはきっと真実なのだ。
 だから、それは必ず間違っている。
 もし誰かに、自分が自分であることで非難を受けるのなら、甘んじてそれも受け入れよう。
 だが、どうしてこれができるだろうか。
 鈴のように、まっすぐに自分をさらけ出してくれる少女を前にして、どうして自分を偽ることなどできようか。
 それは偽善に違いないし、そんなことができるやつは、鈴に対して責任を果たそうとしない、無責任な男だ。
 鈴――彼女が、どうして自分を頼ろうとしてくれたのか。
 それはまだ、わからない。
 でも、期待には応えたかった。
 彼女が自分に対して思っているとおりに、あるいはそれ以上に、自分も、また彼女に対して同じように想ってあげたい。
 そう考えるのは、自然で、当然なことなのだ。
 自分自身として歩むための、大事な一歩なのだ。
 間違っちゃいない。
 真人は、そう信じることにした。
「お安い御用だぜ。おまえが危なくなってんなら、すっとんで駆けつけっからよ!」
 真人のその言葉は、いつになく自然で、それでいて、深い親愛の情に彩られていた。
 真人自身でさえ、すこし驚いてしまったほどだ。
 鈴はその言葉を聞くと、とっても嬉しそうな顔を浮かべようとしたが、気恥ずかしさからか顔を逸らし、けれどわずかな視線を、深い信頼の色で満たし、真人に贈り返すのだった。
 一波乱も、二波乱もあった夜の肝試し大会は、このようにして幕を閉じた。

 
 ◆
 
 
 翌日の五月二十六日。
 とうとう朝のミーティングで、理樹がキャプテンに任命されることと決まった。
 理樹はびくびくと怯えながらも、バッテリーである鈴とともに支え合い、励まし合おうとすることで、どうにか乗り切ろうとしているようだった。
 さらに恭介の計らいで、昼休みに缶蹴りゲームを催してみたりもする。
 べつに、野球の試合は勝敗がすべてではないのだ。この試合を通して、鈴と理樹が成長してくれることにこそ最大の意味がある。
 真人も、とくに余計なことは考えずに、思いっきり遊ぶことにした。
 真人たちにとっても、もうこういう機会は、ほとんど残されてないのだから――。
「う〜ん……」
 夜になり、自分の部屋に戻ってきてからも、心配性の理樹はまだ思い悩んでいた。
 きっと、ポジションや打順など、細かい作戦について悩んでいるのだろう。さすがは責任感の強い理樹だ。
 真人は、すこし声をかけてやることにした。
「よう、理樹。あんまり思い悩むんじゃねぇよ」
「真人」
「勝負ってのはなぁ、やってみるまでどう転ぶかなんてわからねぇんだ。大事なのは、仲間を信頼することさ」
「仲間を、信頼……」
「オレをもっと信頼しろよ。バトルじゃねぇと筋肉はあんま役立たねぇけどよ、ヒットの一本ぐれぇは必ず打ってやっからさ」
「……」
 理樹は、ほっとしたような目をこちらに向ける。
 それから目を線にして、うん、と優しくうなずいた。
「そうだね」
 理樹は、リラックスできたみたいだった。
「頼もしいね、真人は……」
「へっ、オレから頼もしさを取ったら、なにが残るってんだい」
「見事になにも残らないね」
「ありゃっ」
 機嫌が良くなったのか、見事に返されてしまった。真人はずっこけてしまう。
 だが、理樹が元気になってくれてなによりだった。真人は理樹と一緒に屈託なく笑った。
 
 
 ◆ 


 それから、野球の試合当日。
 まず結果から言うと、試合には負けてしまった。
 僅差で最終回までもつれ込んだのだが、相手の防御がものすごく固くて、点が追いつき切れなかったのだ。
 しかし鈴は、自分たちのチームの中で一番活躍していた。
 今までの世界では、不安定な投球を続けたせいで、ヒットを何本も与えていたのだが、今回だけは安定した投球を見せて、中には連続三振などもいくつも取っていた。
 理樹の指示にもよく従い、無意味なタイムは一度も取らなかった。
 この成長に、恭介は裏でものすごく喜んでいた。
 鈴は、仲間を信じるようになったのだ。
 それはすごい快挙だった。
 真人は、そんな鈴の後ろ姿を、自分のポジションで見守れることが、すごく誇らしかった。
 自分も鈴に負けてられないと思って、ホームランを一本くらい打ってやったが、目立った戦果と言えばそれだけだったのが残念だった。
 格好悪いと思ったが、リトルバスターズは、やっぱり十人揃わないとチームとしては勝てないのかもしれなかった。
 それがどこか、悲しくもあった。
 もう十人いないのだ。
 負けた後、みんなでお互いに健闘をたたえ合ったが、負けてしまったのはもう仕方のないことかもしれなかった。
 その次の日に野球のお疲れ様会と称したホットケーキパーティが開かれ、みんなは食堂に集まった。
「は〜や〜く、してくれよぉ〜! オレ、すげぇ腹減ったぁ〜……」
「かちゃかちゃ皿を鳴らすな!」
 フォークで皿を叩いていると、調理組の仕事をしていた鈴に怒鳴られる。
 それでも腹が減ってしまったのだから仕方ない。このために自分は、今日理樹と一緒にお昼を抜いてきたのだから。
「はやくはやくぅ〜! はるちんにホットケーキをぉ〜! 余は、空腹なりよ〜!」
「って、葉留佳さんも真人と同類なの……!?」
「あっ、なに、理樹くん!? 私たちを男女差別するつもり!?」
「いや、男女差別がどうこうっていうより、真人とほとんど差別する要素がない葉留佳さんに純粋に驚いてるんだけど……」
「あぁ〜、もう理樹くんひどい! こんなやつと一緒にされるなんて! ひぇ〜ん、姉御ぉ〜!」
 端で聞いていたが、意味がさっぱりわからない。こっちだっておまえなんかと一緒にされて残念だ、と思った。
 助けを請われた来ヶ谷も、やんわりと葉留佳のことを否定した。
「はいはい。わかったが、君は自分でなにかパーティの準備をしたのかね?」
「へっ? 準備って……? じゃあ姉御たちはなにかやったんですかい?」
「無論だが」
「私たちは、買い出し組です」
「げっ……」
 突如現われた安全圏組にやんわりと非難され、葉留佳は顔を引きつらせながら、真人を指差して言った。
「じゃあ、こいつは!? こいつはどうなの!?」
「こいつ呼ばわりかよ、てめぇ!」
「真人は、さっき一人で皿並べてたよ?」
「げげっ……」
 そういうことだ。
 葉留佳は、とうとう一番だめな位置として確定され、冷や汗をだらだらと流しながら、さめざめと涙も流した。
「ひぇ〜……」
「まあ、君は片づけを一人で頑張ることだ」
「びぇ〜ん!」
 さめざめと涙を流すが、もう遅い。一人片づけ決定だ。
 まぁ真人も、所詮たいした仕事はしてないので、片づけは手伝ってやるつもりでいたが。
 理樹もすこし可哀想だったのか、どうどうと慰めていた。
「よぉ〜し! できたよぉ〜!」
 そうしていると、向こうから小毬やクドたちが料理を運んできてくれる。
 真人は跳び上がって、フォークを持って構えた。
「いやっほぉ――うっ! 待ってたぜぇ! はやくそれ寄こせよぉ!」
「井ノ原さん! 皆さんに配り終えるまで待っててくださいね〜」
「げぇっ、まじかよぉ!?」
 クドにやんわりと笑顔で注意される。真人は溜息を吐いて、皿の端をちんちんちん、とフォークで叩き出した。
 だんだん楽しくなってくる。ドラムみたくなってきた。
「謙吾! ようおまえ、ホットケーキいらねぇよなぁ?」
「なんだ……藪から棒に。それだったらおれは、どうしてここに来ているというんだ?」
「おまえがオレにホットケーキを分け与えるため」
「貴様……」
 謙吾の目が、刀の刃のようにすっと細められる。
「いいだろう。そんなに今ここで決着をつけたいなら、すぐに終わらせてやる!」
「ばか! 止めろおまえら!」
 一緒に料理を運んでいた鈴に両人が、回し蹴りをもらう。
 その後鈴は、宙に飛び上がらせておいたホットケーキの皿を、ちんちんちん、と見事に両手にキャッチした。
 おおー! と周囲から歓喜の声が上がる。
「弱い者いじめは、めっ! だ」
「あ……オレ、弱い者だったのね……」
 だったら、どうして自分が謙吾と一緒に蹴りを食らうはめになるんだろうか、とひそかに思いながら、真人はたんこぶのできた後頭部をしみじみと撫でるのだった。

 
 ◆
 
 
 その後、全員にホットケーキを配り終え、小毬の主催者挨拶も終わり、みんなの食事が始まった。
「っ……うんめぇ――――――っ!?」
 真人はほとんどすべて一口で食べ切ってしまっていた!
「じゃんじゃん食べてください♪」
「おかわりぃ!」
「はやいですーっ!?」
 クドがてんてこ舞いになるほどだった。
 だが、それではクドが可哀想すぎるので、真人は自分から進んで調理するのを手伝ってあげたり、謙吾の皿からホットケーキを奪ってあげたりなどしていた。
 竹刀の傷跡を大きくもらいながら、自分の席に戻ってみると、なんと近くに鈴が座っているのが見えた。
「よっ」
「ん」
 なにも、飾った言葉を吐く必要などない。
 自分たちの間には、これだけでいい。
 真人は席についてから、周りに聞いている人がいないかをなんとなく確認し、小声で囁いた。
「よう……お前、昨日はすげぇ大活躍だったじゃねぇか」
「ん」
 鈴がホットケーキにぱくついたまま、こちらを振り向く。
「ふん。まあな」
 そんなことはきっちりと肯定するくせに、全然鼻にかけたように見えないのが、鈴のすごいところだった。
 鈴はもぐもぐとホットケーキを咀嚼しながら、すこし楽しそうに笑って答える。
「あれはかなりやばかった。あたしの歴史に残るくらいの名戦だった。あの苦しみに見事耐えきったのは、さすがのあたしというところだ」
 真人も楽しくなり、耳を傾けた。
「どれくらいやばかったのかと言うと、こうだ――あたしの投げたボールは炎に燃えていたし、実際にピンチでもあった――」
「なるほど。二重の意味でやばかったってことだな」
「そうだ」
 真人がそのことで笑うと、鈴もすこしきょとんとしてから、たはは、と笑った。
 別段面白いこともなにも言ってないのに、真人たちが、まるで世界のくだらない秘密を知ってしまったみたいに大笑いできてしまうのは、なぜだろうか。
「相手のバッターもめちゃくちゃ強かったが、あたしは負けなかったぞ!」
「おう。それで?」
 鈴はさらに調子に乗ってきたのか、顔を上気させつつ、まるで恭介のような大振りの手つきになって、試合のときの状況を再現し始めた。
「つまりこうだ。あいつらは、目線であたしに語ってきた――『おまえの投げるボールなんて、ちょちょいのちょいで、たとえここにマイケル・ジョーダンが通ってても打てるぜ』」
「すげぇ自信だな」
 でも、なんでマイケル・ジョーダンなのだろう。
「あたしは目線で返してやった。『ばかだな。ジョーダンがこんなとこ通るわけあるか。おまえ、達人級のあほじゃないか』。そうすると、相手は見るからに平静を失い、すぐに空振り三振してしまった」
「だははは!」
 くだらない話だった。でも、鈴だったら、本当にそんなことを試合中に考えていたかもしれなくて、それがすごく面白かった。
「そのときのバッターは、あたしらが攻めるときピッチャーだったあの男だ」
「あぁ、野球部の」
 どうせ半分くらいは鈴の作り話なんだろうが、真人はそれでも興味ある話として聞いてみたかった。
「あの男は、あたしがチェンジになってバッターボックスに入ったときに、また声をかけてきた」
 鈴はそのときの様子を、薄目になって再現する。
「『子猫ちゃん……逃げ出すなら今のうちだぜ? あ、ちなみにオレ猫耳属性だから』」
「なんだ、変態だったのかよ。しかもさり気なくナンパしてるしよ」
「あたしは意味がわからなかったが、こう返しておいた」
 鈴はさらに自分も薄目になって続けた。
「『子猫だと思って甘く見ていると、おまえ、死ぬぞ? もしかしたら……相手は狼かもしれないからな』。そうすると、相手は明らかにパニクった。笑ってしまったくらいだ」
「……虎じゃなくて、狼なんだな。なんかすげぇシュールだな」
「そいつは動揺を隠そうとしたが、隠しきれず、マウンドに立ったときに、またあたしに目線で語ってきた。『なめんじゃねぇぞ、くそガキ! おれは、狼っ娘も十分守備範囲さ! あ、じゃあ、あとで喫茶店行かね? 食らえ、竜巻スプラッシュハリケーン03ッ!』」
「どんだけ変態なんだよそいつは!? しかも、また前後の文が全然噛み合ってねぇし!」
「あたしはそれを待ちかまえながら、こう叫んだ。『きしょいわ! しねぼけぇ――っ!』と。そして、見事その球を打ってやった!」
「おお! で、どうなったんだ?」
 鈴は大げさなポーズのままぴたりと動きを止め、溜息をついて、こちらをちらりと見た。
「……ファーストでアウト」
「しょぼっ!?」
 ずるっ、とこけてしまう。ゴロでアウトかよ。
 そういえば鈴は、攻撃面ではあまり活躍していなかった気がする。ヒットを打っていたのは、主に恭介や謙吾、理樹の三人だけだった。
 鈴はふて腐れたように口を尖らせながら、ジュースをちびちびと飲む。
「……だって、あのピッチャーめちゃくちゃあり得んかった。ものすごく球が重いんじゃ。あんなの打っても前に飛ばせっこない」
「まぁなぁ……」
 思い出してみるが、確かにあいつはすごいピッチャーだった。
 来ヶ谷でさえ、一応影の身だったが、ほとんど遠くには打てなかった。あいつは力もあって、判断力も走力もあるチームエースだっていうのに。
 強敵すぎるうえに、そもそも、女子と男子とでは力の差がありすぎるのだ。小毬やクドなどの非力な選手にとっては、つらすぎる対決となっていた。
 向こうは全員男子メンバーなくせして、こちらが半分以上女子で構成されているのも一つの主立った敗因なのかもしれなかった。
 今となってはどうでもいいことだったが。
「おまえのほうも、あたしに劣らずすごかったじゃないか」
「あ? まぁなぁ……」
 目を上げて、鈴は興奮冷め止まぬように、真人に話を振ってきた。
「つっても……」
 鈴は意外と真剣にこっちを見ているので、真人は前言を撤回しようとする。
 真人はふと考えた。
 自分はといえば、確か、三振やフライばかりだったような気がする。みんなからチームエースとして期待されていただけに(想像)、情けないことこの上なかった。
「いや……全然たいしたことねぇだろ。あんなのは」
「いや、ものすごくでっかいホームランを打ってたぞ」
「あぁ……あれなぁ……」
 鈴は興奮したように言ってくるが、真人の記憶にはそれほど良いこととして残っていない。あれはたまたま、ちょうどいいところに球が飛んできたから、思いっきり振り抜いてやったら、裏山のほうに飛んでいっただけだ。
 真人はあのとき、ぼーっ、と自分の球の行方を追っていたことを覚えている。
 とにかくボールを打つことだけに専念していた真人は、相手のピッチャーにきりきり舞いにさせられた。そのことばっかり覚えているのだ。
 あのホームランを打てたのは、本当にただ幸運だったからと言わねばならない。
「ただのまぐれさ、あんなの。おめぇだって、オレみたいに筋肉がありゃあガンガン前にかっ飛ばせただろうによ」
「ほんとうか?」
「ほんとうさ」
「うーん」
 と、鈴は唸りながら、力こぶを作ってみたりしている。
「でも……やっぱすごい」
「は? な、なんなんだよ、おめぇ、いきなり……」
 そこまで純粋に褒められてしまうと、なんだか照れくさくなってしまう。
 鈴のこちらを見つめてくる視線が、なんだか妙に熱くて気になる。
 自分が昨日、ホームランを打ったときに、鈴はなにを思ったというのだろうか。
「あんなにでかいホームランなんて見たことなかったぞ。謙吾のやつも、あそこまではなかなか飛ばせないと言っていた。ほんとに、みんな真人のことを見直してたんだ……」
「ほんとうなのかよ? ……うわ、や、やめてくれよ。気持ち悪ぃなぁ……」
 胸の動機がどんどん速くなってくる。べつに鈴に褒められることが、なんだっていうんだろう。
 体が熱い。
 どうして。
 頭がだんだん働かなくなってくる。
 どうして。
 どうしたことだろう。
 真人は、とっさに場の体裁を繕おうとし、鈴の眼をちらりと見た。
「……っ」
 鈴は黙ったまま、じっとこちらを見つめている。
 真人は否応なく意識してしまって、無理に体を硬くしようとした。
「な、なんか言えよ……」
「いや……」
 鈴は、テーブルに肘をつけて、それを頬に当て、こちらに柔らかな微笑みを送っている。
 唇が、まるで自分よりすこし小さい子供を見つめるみたいに、緩められる。
「なんか……おかしいな? おまえ」
「あ? おかしいって、オレの頭がおかしいってことか?」
 ここは自虐ネタでも使って避けてしまうに限る。
 本当に慣れないのだ、こういうのは。鈴に褒められること自体が今までの人生で少ないし。
「いや、そこまで自分をまっすぐに受け止めてはだめだ」
「まっすぐってか、せめて『違う』って言ってくれよ!?」
「あたしが言っているのはもっとべつのところだ」
 そう言いながらも、鈴の優しそうな眼差しだけは、ついに消えることがない。
 本当になんなんだろう、と真人は内心不思議になるほどだった。
「まさと……」
「な、なんだよ」
「あたしの記憶では、真人はそんなふうに、自分の功績を否定するような人間じゃなかったぞ」
「へっ……?」
 突飛なことと、今まで隠されていた事実を言い当てられた驚きに、真人はぴたりと固まってしまう。
 確かに、自分はそうだったかもしれない。
 もしこれが謙吾相手の会話だったら、ここで真人は、昨日ホームランを打ったことを散々自慢しまくっていたに違いない。
 それが、鈴相手ではなされないのは、どうしてだろうか。
「……どうしてなんだ?」
「……」
 細く、柔らかい声で尋ねられ、真人は黙ってしまう。
 どうしてだろう。
 わからない。
 なにか、明確な目的などはなかったような気がする。
 なぜか今の鈴に対しては、自分の功績をひけらかすようなことがひどく不作法だというように思えてきたのだ。
 それは、どういう感情から来たものなのか。
 いや、その答えは――、もうすでに決まっているかもしれない。
「決まってるさ」
「……ん?」
 鈴のそんな優しい返事は、なんだか初めて聞いたみたいにものすごく女の子っぽかった。真人は、胸が打たれたみたいに激しく緊張する。
 鈴はもしかしたら、もうすべて、お見通しなのかもしれない。
 それならそれでよい。
 伝えたいことだけを伝えるだけだから。
「……ああ、簡単さ。かっこつけたかったんだ。男っていうのは、みんなそういうもんなんだよ」
 そして、かっこつけたいと思うのは、今ここでも同じだ。
 言葉を一つ一つ、選んでいく。
「ここぞってときに、男ってのはいいところを見せたがるもんなんだよ。その……一番見せたいやつの前ではな」
「……」
「だから……っ、それだけなんだよっ」
 息を呑む鈴に、真人は胸がつぶれそうな思いになりながらも、最後はどぎまぎとしながら、伝え終えた。
 鈴は優しく唇を緩めながら、ぽーっと顔を赤くして、それに聞き入っていた。それから、「そうか」と短く呟いて、息を吐く。
 あとは満足したように軽く微笑んで、鈴は元の様子へと戻った。
 年相応の、すこし男勝りなシャイガールとなって、またさっきの続きを話し始めた。
「それでな、おまえのホームランの話だが、それがどれくらいすごかったかというと、」
「またその話かよ!」
「このくらい」
 ぴっ、と手元のホットケーキを指差した。
 真人は当初、その意味がさっぱりわからないでいた。
「は……? そのホットケーキぐらい?」
「うん。これはめちゃくちゃすごいぞ。棗鈴特製スペシャルだ」
「へぇー……?」
 特製と、スペシャルがかぶっているのは、つっこまないでおくべきだろうか。
「マーマレードジャムと、イチゴジャムと、ラズベリーと、あとバニラのクリームがかかっている。すごく美味しいぞ」
「……オレが一口で食べきれちまうサイズだなぁ」
「食うなぼけ!」
 頭を叩かれる。ただ、その比較対象のことを突っこんだだけなのだが、鈴にはどうやら勘違いされたみたいだった。
 まあ、確かに見るとそれは食べてはいけないものだった。具体的には鈴の食べかけ。鈴との間接キス対象となる。それだけではないが。
 べつに食べかけなんか食うかよ、などと思いながら鈴を見ていると、鈴はなぜかはっとしてこっちを見た。
「おまえ……」
「あ?」
「……これ、食べたいか?」
 なぜか真剣な顔でそんなことを聞いてくる。
 真人はすこし、身を引いた。
「い、いや……?」
「食べたいんだな? そうなんだな!?」
「いや……」
 なぜかマジだ。その顔に、食べたいと言ってほしい、と書いてある。
 まさか、いきなりそんなマニアックプレイを強要させられることになるとは――。
 これこそ男の夢――というか、そんなはずはなく、男でも女でも誰でも普通にいきなりは困るものだ。
「た、食べてぇっつーか……そういう問題か?」
「食べたいと言えっ!」
「は、はいっ!? 食べたいです! すごく!?」
「なにぃー!?」
 なんで驚いてるんだろう。
「うみゅう……そうか。そうなのか……」
 真人が困惑していると、鈴は顔を思いっきり赤くして、腕を組みながらも、うーむ、とホットケーキと真人の顔とを見比べたりしていた。
「どうしよう……本気か? 本気なんだな?」
「もう、好きなように取ってくれ……」
「そうか。ううむ……」
 鈴は上気した頬に手を当てたりして、熱心に考え込む。
 もうどうにでもなれ、と思った。そう思いながら、真人は横目で鈴のことを見つめる。すると、
「わかった」
 鈴は頷いて、そのホットケーキを一口で全部食べ切ってしまった。
「……おい?」
「もぐもぐ……」
「待てコラ……ちっと、つっこみたいことがあるんだが、いいか?」
「はむ?」
 鈴がホットケーキを美味しそうにもぐもぐさせながらこっちを振り向いた。
「てめぇ、なんでそれを全部食ってんだよ!?」
「……ふん」
 鈴は不機嫌そうに薄目でこちらを睨むと、口の中のものを全部飲み込み、ふう、と溜息をついてから、答えた。
「あほか。べつにおまえにこれをやるわけじゃない」
「はあ……?」
 そうだったか。
 しかし、なんだかすこし残念なのは、どういうわけだろうか。その意味を詮索することなく、真人はその気持ちを見えないところへとやった。
 真人が混乱していると、鈴はすっと立ち上がり、すたすたと向こうに歩いていく。
「ちょっと待ってろ」
「……?」
 不思議になり、真人も一緒に立ち上がろうとすると、
「来んなぼけ!」
 なぜか怒鳴られる。真人は身を引いた。
 ここは動かないほうが賢明そうだ。浮かしかけていた腰を、元の椅子に戻す。
 なんとなく、隣が寂しくなったような気がする。
 いったい、なにをするつもりなんだろう。鈴だけに、わからないことは余計不気味だった。
 内心びくびくとしながら待ちかまえていると、しばらくしてから鈴が戻ってくる。
「お待たせだ」
 なんと、その手に新しいホットケーキの皿を持って。
「へ……?」
 こんがりと美味しそうな焼き色がついていて、もくもくとそこから湯気が上がっている。すごく美味しそうだ。
「できたぞ。棗鈴特製スペシャル」
 鈴が得意そうにそう言うのだった。真人は驚きで呆けてしまった。
 これは、すなわち――、
「どうした、食わないのか?」
「……」
 手作り――というべきものだろうか。
 これを食べさせいと思ったのか、鈴は――。
 真人は、胸がまたどんどん速く、そして速すぎて痛くなってくる。
 黙ったままフォークを持って、それに突き刺し、口元に持ってこようとする。
 その瞬間に、ふと真人は考えた。
「おめぇ……この種のイベントにありがちな、とんでもねぇ味ってことはねぇだろうな?」
「そんなことはない」
 振り返りながらおそるおそる尋ねると、鈴は不機嫌そうになって言った。
「そうか? じゃあ……いくぜ?」
 緊張を誤魔化すための冗談だったのだが、悪いほうに受け取られたようだ。真人はどきどきとしながら、それを口に運ぶ。
 だが、
「……ありゃ?」
 その鈴のケーキの味は、口の中にしっとりと柔らかに溶け込み、ときおり過剰な甘さを演出しながらも、中の奥にふんわりと膨らむように広がっていくのだった。
「……うめぇ……?」
「とーぜんだ」
 真人がふと感想をもらすと、鈴が自信満々にうなずく。
 真人は今まで、鈴が料理をできるということをまったくもって知らなかった。
 いや、できたとしても、どうせ子供の遊び程度だったり、インスタントラーメンを三分で作れるとか、そういった類のものだと思っていた。
 しかしこれは、なんて女性的な一面――。
「すげぇ……うめぇっ!?」
 鈴の意外な一面を知ってしまった。
「すげぇーっ! うめぇーっ!」
 真人は感動しまくっていた。
 すげぇとうめぇという単純な語句を繰り返し繰り返し発し、フォークを動かしていく真人に、数秒ほどもそのホットケーキが耐えられないのは明白だった。
 気づいたころには、すべて、
「おかわりっ!」
「なにぃ!」
 なくなっていた。真人は空の皿を突きつける。
 鈴が思いっきりびっくりしている。
「ど、どうして、あたしがおまえのためにそう何度も作らなきゃいけないんだ!?」
 そう反論してきたが、鈴の顔はまんざらでもなさそうに緩んでいる。
 美しく、嬉しそうに頬を綻ばせ、鈴は空の皿を受け取る。
「しょうがねぇだろ!? おめぇのホットケーキ、すげぇうまかったんだからよ! すぐにもっかい食いてぇ! はやく作ってくれ!」
「え……う、う〜ん」
「オレ、もうおまえのしか食えねぇよ! んだよ……それとも、もう終わりなのか?」
 真人が残念そうにそう言うと、鈴ははっと顔を上げて、赤い顔をぶんぶんと横に振った。
「ん、んなわけあるかっ!」
 鈴は皿を胸に持って、真人を見つめると、それから、ぷいっと顔を逸らした。
「今度はもっと作ってくる!」
「おう! 待ってるぜ!」
 鈴は目を伏せながら、ぱたぱたと厨房へ駆けていった。
 真人はその間に、なにか味付けでも手伝おうかと厨房へ近づこうとしたが、さっきよりなぜか大声で「来んな!」と叫ばれ、追い返されてしまった。
 どうやら、待っててもらうのがいいらしい。
 真人が元の席についていると、しばらくして、また鈴が戻ってきてくれた。
 その両手に大量のホットケーキを添えて。
「うっひゃ〜! うっまそ――っ!?」
「は……はやく食え!? はやく食ってくれ!」
 きょろきょろと目をあたりに動かしながら、鈴はなぜか真人を急かす。
 真人は言われるまでもなく、フォークを片手に瞬時に持つと、がつがつがつ、と速攻で食していった。
 食べている間も、鈴がすこし不安そうに尋ねてくる。
「う……うまいか?」
 真人は口が塞がっていたので、声では答えられなかったが、親指だけで最高の返事を返してやった。
 ごくんっ、と中のものを飲み干し、真人はばんばんと隣の椅子を叩く。
「ほら、おまえも食えよ、鈴! 一人だけでこれ食ってたってしょうがねぇだろ!? おめぇと食いてぇんだよ!」
「え……」
 鈴の顔はまた羞恥に輝いて、周りをきょろきょろと一通り見回すと、すこし躊躇してから……やがて、こくん、とうなずいた。
 とことこと駆け寄って、真人の隣に座る。
 そこからは、とても楽しい時間が二人の間に流れた。
 真人がそのとき、そんなふうに思えたのは、単にリトルバスターズの仲間が好きだったからではないと思う。
 本当に、特別な気持ちが心に芽生えたからだ。
 それを邪なものとして遠ざけようとしたのはいつのことだったろう。
 とても昔のことのように感じる。
 それをまた自然なものとして抱え直したのは、いつだったか。
 そのときの決心が、正しかったか、あるいは間違っていたか。
 それは敢えて、深く考えないことにしよう。
 今が後ではないし、その答えは後になってわかるから。
 もしそのことで誰かに非難されたときには、こう言ってやろうか。
 いつか、離ればなれになるときが来たとしても。
 悲しまねばならなくなったときが来たとしても。
 今、ここで気持ちを断ずるだけの理由にはなるまい。
 自分たちは、正しさのために恋をしているわけではないのだから――。
 なにか証が欲しくて、恋をしているわけではないのだから――。

 

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