夕食を採ったあと、真人と理樹が部屋でのびのびとくつろいでいると、急に部屋の扉が、どかん、と開いた。
 なんだろう、と思って見てみると、鈴が両手にルーズリーフをテープで貼り合わせたようなものを持って立っていた。
「できた!」
「あん?」
「なにが?」
 靴をぽんぽんと脱ぎ捨てて、部屋に入ってくる。
 鈴は理樹の質問に、誇らしそうな顔をして答えた。
「そうじ当番表」
「はあ?」
 真人が口を大きく開いていると、鈴はいそいそとその巨大なルーズリーフを床に敷いた。
「また、どうして?」
「おまえら男子は馬鹿だから気づかないんだ」
 鈴は腰に手を当てて二人を説教するように見下ろす。
「だから、なんなんだよ?」
 鈴はふん、と鼻を鳴らして、部屋の外を指差しながら言った。
「流しとか、風呂とかの共用部分が汚いんじゃ」
「どうしておまえが男子の風呂場を知ってんだ?」
「謎だね……」
 理樹がほんのちょっと顔を赤くする。
「そんなことはどうでもいい。とにかく、汚いんじゃ」
「ていうかそれって、掃除当番を回してたんじゃなかったのか?」
 鈴に指を差される。
「おまえ、いつそーじした」
「え? えーっと……あれは確か、去年の」
 言い終わる前に、真人の後頭部にどごっとつま先が突き刺さった。
 理樹は体を震わせながら、愛想笑いを浮かべて鈴に言った。
「そ、そういえば……掃除当番止まってたんだね。ぼくも、たしかずっと掃除してなかったかも……」
「ふん。だからあたしがそうじ当番表を作ってやったんじゃ。感謝しろ」
 鈴が、床に広げた巨大なルーズリーフを指差して言う。
 真人たちがそれを覗き込んでみると――。

【そうじスケジュール】

五月十七日(木) 直枝理樹
五月二十四日(木) 井ノ原まさと
五月さいご けんご
六月はじめ きょーすけ
次りき
その次まさと
次けんご
次あいつ
次もうかかんでもわかるだろ

「途中から、なんだかあからさまにやる気をなくしてるんだが」
「っていうかこれ、どうしてぼくらの名前だけ……」
 理樹が訴えるような眼差しを向けると、鈴はけろりとして言った。
「ほかの男子は、あたし知らないからだ」
「そんな理由でオレたちだけなのかよ」
「うん、そうだ」
 真人と理樹は言葉をなくしてしまう。
「う、うーん……でもこれ見たら、きっと恭介や謙吾たちも怒るんじゃないかなぁ……」
「なに、そうなのか」
「少なくとも、このまま黙ってはいないと思うよ」
 理樹はすこし言いにくそうに言う。
 鈴は、うーみゅ、と腕を組んでうなった。
「ちょっと待ってろ」
 すると、そう言って部屋の外に出ていってしまう。
 しばらくすると、真人の携帯が突然ぶるぶると震えた。
 なんだろうと思って開けてみると、鈴からのメールだった。
『どうしたらいい』
 それ、ただ一言だけだった。
 真人は――こっちこそどうすりゃいいんだよ、と言い返したかった。
 なんにも打ち合わせなんかしてないのに。真人は混乱して、ばかばかしくなって、わけがわからなかった。
 しばらく無視して黙っていると、またもう一件メールが続けて来た。
『これ、あのかだいのつづき。ものすごくこまってる』
 困ってるのはわかるけど、こっちだって困ってんだよ、と打ち返そうとしたが、半分打ったところで思いとどまり、すぐに消してやった。
 ちょっと可哀想かもしれない。
 なにかいい案はないだろうか、と頭を働かせてみると、真人は以前、これとよく似た状況があったことを思い出した。
 あのときは理樹が携帯を操作していた。とすると、おそらく鈴は、あのときそれをそのまま自分に伝えたのだろう。
 ならば自分も、あのとき理樹が取っていた方策を、そのまま鈴に伝授してやればいいのかもしれない。
 なんか腑に落ちない気もするが、まさか自分がここで今作戦を考えるわけにもいかず、真人は軽い気持ちで返信文を打ってやった。
『週ごとにリーダーを決めて、そいつにメンバーを集めさせたらいいんじゃねぇか? って筋肉さんが言ってたぜ』
 我ながら、こんな名案がほいほいと飛び出てくるのは気持ち悪いなと思いながらも、真人は躊躇することなく送信ボタンを押す。
「誰からメールだったの、真人?」
 急に理樹に核心に迫る質問をされて、真人はどぎまぎとする。
 とっさに、頭に思い浮かんだ言葉を口にしてしまう。
「あ、ああ……オレの彼女からさ」
「ええー!」
 理樹が仰天しているすきに、鈴が部屋に戻ってくる。
「あ、鈴! 聞いて! あ、あのさ、今真人が、」
「話しかけるな。忘れる……」
「え?」
 鈴は、床の木目を睨みながら、半分能面のような顔になって、固い口調で言った。
 やばい、と真人が思ったのは、まさにこの瞬間であった。
「週ごとにリーダーを決めて、そいつにメンバーを集めさせたらいいんじゃねぇか?」
「……なんか語尾変じゃない? 鈴」
「……って、筋肉さんが言ってたぜ」
「ええー」
 理樹が、困惑度MAXの顔を作る。
 しばらくして、こっちに疑いの目を向けてくる。ばれた、確実にばれた、と真人は思った。
 真人は苦し紛れに、誤魔化しの笑顔を浮かべる。
「お、おお。すげぇじゃねぇか鈴! 筋肉さんと交信したんだな! 尊敬するぜ!」
「うっさい。おまえなんかに尊敬されても嬉しくない」
 なぜか適当に悪口を言われて終わる。真人はがくっと肩を落とした。
 微妙な空気がただよう中、鈴だけがその空気を読まずにいた。
「どうだ? あたしとしては、なかなかいい案だと思うんだが」
「うん……」
 理樹が疲れたような顔でそれに答える。
「まあ、それなら、恭介とかが三年生の人たちを集められるだろうし、いいと思うけど」
 理樹が横目でこっちを怪しんでいる。真人は内心死にかけだった。
「よし!」
 鈴は、ルーズリーフを折りたたんで、部屋を出て行こうとした。
「どこ行くの?」
「これ、どっかに貼ってくる。あすからおまえら、これにしたがって掃除するんだぞ」
「えー」
 理樹のいやそうな声を聞くこともなく、鈴はばたんと扉を閉めて行ってしまった。

 その後、真人たちが風呂場か戻ってくると、
「うお!?」
「ええー」
「まるでここが、掃除する本部みてぇになってるじゃねぇか……」
 なんと、部屋の扉のまん中に、あの巨大ルーズリーフがでかでかと貼りつけられてあったのだった。
 出かけるときには気づかなかったのだろう。
 真人の脳裏に、ほくほくとした鈴の笑顔が思い浮かんだ。


 ◆


 翌朝。食堂のテーブル。
 真人たちは、ずっと無言で食事を採っていた。
 テーブルの中央には、鈴が作ったミニサイズ版の掃除当番表がある。
「文句のあるやつは、いま言え」
「あったら、減らしてくれんのかよ」
「増やす」
「なんでだよ!」
 真人は立ち上がって怒鳴った。
 よくよく考えてみたら、あれは自分たちにかなり不利な提案だったのだ。
 四週間ごとにリーダーが回ってくるなんて、嫌がらせとしか思えない。ただリーダーの言うことを聞いているだけの身分が、どんなに幸せなことか。
 もっと簡単で、適当なやつにしとけばよかった、と真人は今さらながらに後悔する。もう遅いが。
「そもそも、これはおまえがあたしに言ってきたことじゃないか。それでいま文句言われても、困る」
「う」
 鈴がすこし不機嫌になったように言う。そんなふうに言われると、真人はもうなにも言い返すことができない。
「やっぱこれ真人が考えたんだね……」
「あ」
「おいおいおい! ちげぇーよっ!」
 鈴は口に手を当ててはっとする。真人は立ち上がったまま抗議した。
「なに? こいつは真人が考えたやつなのか?」
「そう」
「おい!」
 なぜか、鈴が真っ先に肯定していた。真人は目の奥が真っ暗になる。
「そ、荘田菊之助……」
「誰なんだよ!?」
 そして誰か知らない人の名前を呟いていた。真人は目の奥が真っ暗になった上に、頭痛までしてきた。
「ふう……危なかった。間一髪だな」
「てめぇが間一髪でダメな方に飛び出してんだろうがよ!」
「なんだと〜……」
「ふ」
 恭介は、二人のやり取りを眺めながら、にやりと笑った。そして身を乗り出して、小声で二人にささやく。
「なんかおれに隠してるんだろ、おまえら」
「うっ」
 二人とも言葉に詰まってしまう。なにも言い訳ができない。かといって、ここで完全に認めてしまうわけにも――。
「この二人がぼくらに隠し事なんて、めずらしいね」
「明日は雪でも降るかもな」
 理樹と謙吾は、もうあまり興味なさそうにしていた。不思議なこともあったもんだ、とぐらいにしか思ってないのかもしれない。
 真人はほっと溜息をついて、みんなを見回しながら言った。
「ちっ、オレはべつに、たまたまなんだよ」
「たまたまって?」
 理樹が聞き返す。
 どうせ、なにもわかってないんだろう。
 鈴はたまたま真人を相手に選んだだけだ。たまたま近くにいたから。たまたま紙を見せる機会があったから。
 だから鈴は、真人にあの紙を見せて、協力してくれと言ってきたのだ。理樹がもしあそこにいれば、今ここで困っているのは理樹のほうだったはず。
 理樹はなにも知らない。
 知っているのは――、きっとあいつ――。
 恭介は、鈴と遊んでいる。
 謙吾は、ずずずとお茶を啜っている。
 真人は、急いでご飯をかきこむことにした。


 ◆


「どういうつもりだって?」
 真人は、渡り廊下のところで恭介を捕まえた。恭介はすっとぼけた顔で聞き返した。
「わかってんだろ? おまえが鈴に、オレに相談しろって言ったことだよ」
「そんなこと言ったか?」
 恭介はなおもすっとぼけた顔をする。もっとも、本気で忘れているだけなのかもしれないが。恭介だったらあり得る……もっとも、それを見越した上での演技かもしれないが。
 恭介は、腕をこまねいて思案し、しばらくたってから口を開いた。
「まあ、確かにそんなことも言ったような気もする」
「だろ」
 真人はすこしせいせいしたような気持ちを感じながら、溜息を一度つき、恭介を半分睨みながら言った。
「どうすんだよ……あいつ、オレに頼って来てんじゃねーか。本当だったらこれは、理樹の役目だっつーのに」
「まあ、そうだな」
 恭介はあまり興味なさそうに相づちを打って、ふらりと歩き始める。
 真人はその後を追った。
「だから、おめぇはいってぇなにがしてぇんだよ? オレにあんなことをさせて」
「べつにいいじゃねーか」
 恭介はこちらを振り返らないまま、適当に言ってのけた。
「理樹がいなくたって、鈴があのミッションに挑戦することには意味があるんだから」
「そうじゃねーだろ」
「は?」
 恭介は足を止めて、首だけで振り返る。
「だからどうして、『オレ』が関わるんだよ? そのわけが聞きてぇ」
「だから、いま言った通りさ」
「はあ?」
 恭介は体の向きを変えて、渡り廊下の壁に寄りかかりながら言った。
「べつに、おまえじゃなくてもよかったよ。誰だってよかったんだ。鈴のことを手伝えるなら……。だから鈴に相談されたとき、おまえの名前をつい言っちまったんだ。最初に頭に思い浮かんだやつだから」
「なんだよ、そりゃあ」
 真人は呆れた声で言い返した。
 やっぱり、あれは恭介にとってあまり考えられた結果ではなかったらしい。それは恭介らしいといえばらしいが、こっちはとんだ迷惑でしかなかった。
 恭介は、こっちを見て涼しげに笑う。
「おれのことを馬鹿なやつだと思うだろ? だが実はそうでもない。おれがまさか自分で考えたミッションに挑戦するわけにはいかないからな。そのことはわきまえている。そうしたら本当の馬鹿だ」
「馬鹿っつーか、あほっつーか……おいおまえ、もしかしてちょっと寂しいのか? って心配になっちまうぐらいだな」
「だから、そんなことにならないために」
 恭介は強くそこで言葉を切って、すっと人差し指を真人に向けた。
「おまえの名前を、あそこで言う必要があったんだ」
「結局おまえの身勝手から発したってことじゃねーかよ」
「いいじゃねーか。いい暇つぶしになるんだから」
「なんの暇つぶしなんだよ?」
 恭介はそこですっと目を細めて、薄く笑った。
「繰り返す中での」
 真人は――、もう、なにも答えようとはしなかった。
 顔をそむけて、恭介の隣を歩いていく。
 恭介が今、おれたちが死ぬまでの――という言葉を使わなかったことには、気づいていた。詳しい理由はわからないが。
 真人はむしゃくしゃした気持ちのまま、教室に向かっていった。


 ◆


 休み時間の教室。
 毎度のように来ヶ谷にボコボコにされて、一人落ち込んでいると、突然鈴が真人に襲いかかってきた。
「しねっ、まさと――っ!」
「うお!?」
 後頭部に蹴りが入る寸前で、慌ててガードする。鈴はこっそり舌打ちをして、ぴょんと後ろに飛び跳ねた。
「は……って、おまえ! なにすんだよ、いきなり!」
「問答無用!」
 さらに襲いかかってくる。
 謙吾を見つけると、さらにそっちにも攻撃をし始めた。慌てて竹刀を取り出して応戦する謙吾。
 大混戦の観を呈し始めたころ、ちょうどよく理樹が教室に帰ってきて、すぐに鈴のことを止めに入ってくれた。
「ちょっと! どうしたの、鈴!? いったいなにがあったの!?」
「うっさい! 学食を救うためにはしかたないことなんじゃ!」
「意味わかんないよ! 学食ってなに!?」
 理樹が不可解そうな言葉を告げると、鈴は一瞬はっとして、攻撃する手を止めた。
 真人は、その「学食」という言葉を聞いてぴんと来た。
「学食を救え」の課題か。もう来たらしい。
 鈴はおそらく、それで自分たちのことを学食の騒ぎの原因だと考えて、奇襲を仕掛けてきたのだろう。
 そんな勘違いで倒されちまうわけにはいかねぇぜ、と考え、真人は再び腕を高く構えなおした。
「待て、鈴! 勝負だったらちゃんとルールを守った上でやれ!」
 恭介が窓から飛び込みがてらに言う。すたっと床に着地して、全員の前に立った。
「ふん……」
 鈴は恭介のほうをちらりと見て、高慢ちきに鼻を鳴らした。
「望むところだ。あたしが、こんなばかどもに負けるはずがない」
「なんだと、てめぇ」
 しだいに好戦ムードとなる。真人も今の言葉にはかちんときた。
 どよどよと教室に集まりだしてくる観客の中で、真人は、先日鈴につけられた「クズ」という称号のことを思い出していた。
「へっ! これであの『クズ』っつーわけわからねぇ称号ともおさらばしてやるぜ!」
「ふん」
 鈴は腕を組み直して、傲岸に真人のことを見上げた。
「称号とはおさらばできても、中身的におさらばできると思うなよ」
「うっせぇーよっ!」
 真人は、後ろを振り返って観客に怒鳴りつけた。
「おまえらぁ! なんか武器を寄こせぇ!」
 おぉー! とノリのいい観客たちは叫び返して、鈴と真人の間に次々と武器を投げ入れる。真人は目を閉じて、かっと心眼を開き、腕をまっすぐに伸ばした。
「これだぁ――っ!」
 武器をつかみ取る。それは――、
「えーっと……? って、なんだこりゃー!?」
 カットわかめ――。一パック二百円。磯の香りのハーモニー。
「だれだ! こんなもん学校に持ってきてやがんのは!?」
 観衆たちが、どよどよとざわめきだす。
「そういえばあれ、たまに購買で売ってるよな」
「ほんとうちの購買ってなんでもあるからな」
 適当な解説が聞こえてくる。そんな中、恭介が真人にすっと近づいた。
「おまえの武器はそれでいいのか?」
「これで殴っていいのかよ……」
「だめだ。それは、相手に食べさせて戦うこと」
「それ戦いじゃねぇ――!?」
 一方鈴は、また足下に猫たちがわらわらと集まりだしていた。
「って、また猫なのかよぉ――っ!?」
「おまえたち、一緒に戦ってくれるのか!?」
 鈴の言葉に、にゃおーっ! と力強く叫び返す猫たち。鈴は嬉しそうな顔を作って、猫たちを見回した。
 するとそこに、一際大きな影……。
「って、おまえも来たのか!?」
「ぬおー!」
 ドルジだった。横綱級の巨体をふるわせて、真人の手に持っているカットわかめを虎視眈々と狙っている。
 真人は、自分の手にある武器と相手の武器を見比べて、ある種の運命的な不条理を感じた。
「それでは、バトルスタート!」
 かーんっ、と誰かが持ってきたゴングが鳴る。
 鈴の武器は、猫十二匹+ドルジ、対する真人の武器はカットわかめだけ――。
「オレにどうしろと!?」
 真人は、餌だと思って飛びついてきたドルジに押しつぶされ、速攻で敗北した。
 わかめをむしゃむしゃと貪っているドルジ。本来この系統の食品はそのまま食べると危険だが、彼の胃袋にはそんなこと関係ないのだろう。ドルジは満足げに、ぬおー、と鳴いて、ぼよんぼよんと真人の上で飛び跳ねた。
 とくになにもしてない鈴の手が、レフェリーの手によって高々と挙げられる。
「勝者、鈴!」
 おおぉぉぉ――! と観客が喜んだ。真人は倒れ伏しながら、先ほども感じた不条理を、哲学的なアプローチで理解しようと試みていた。
 どうしてオレ こんなに不幸 でもまけない by まさと
「それでは鈴様、あの敗北者めに新しい称号を」
「クズ三段」
 真人は、「クズ三段」の称号を得た!
「ちょっと待てぇ! それじゃまるで、オレがクズを目指してるみたいじゃねぇか!」
「じゃあ、クズ免許皆伝」
 真人は、「クズ免許皆伝」の称号になった!
「って、ぜんぜん嬉しくねぇぇ――――!?」
 そうして、鈴はバトルの女王の名をほしいままにし、休み時間の幕は閉じられるのであった……。
 鈴はふと、「そういえばなんにも解決してない」と頭で考えた。


 ◆


 その日の夜。
 真人たちは、いつものように理樹の部屋で、鈴の勧誘ミッションを見守っていた。
『ん?』
 恭介の携帯のスピーカーから、鈴の声が聞こえる。
『あれ? どうしておまえら、黙ってるんだ?』
「さっきから言ってるだろうが」
『もしもーし!』
「もしもーしっ!」
「もしかして、声が届いてないのか?」
 謙吾が怪しんで言う。確かに、届いてないようである。
『おーい! もしもーし!』
「かめよー!」
『かめさんよ』
「届いてるのか?」
 なぜか奇跡的に噛み合った瞬間だった。真人が一番驚いた。
 恭介が、一通り笑って携帯を指差す。
「まあ、ちょっとした細工をしてだな」
「また恭介の仕業?」
「ああ」
 理樹の心配そうな目に、恭介はまた笑って答えた。
「今日は、あいつ一人だけにやらせてみようと思ってな」
「そんな、大丈夫かなぁ……」
「きっと大丈夫さ。いままでの経験が生きるって」
 恭介がそう励ますと、やがて鈴は、通信を諦めたのか女子寮の廊下を歩き始めた。
「歩き始めたようだぞ」
 たったったった、と歩く音がする。やがて鈴はぴたりと歩きを止め、向こうから誰かが近づいてくる音がした。
「だれだ?」
『ありゃ、鈴ちゃん』
『ん……』
 鈴はすこし警戒したような声を返した。
『こんばんは……』
『おーおー、こんばんはー♪』
「ありゃ、もしかして三枝か?」
 携帯のスピーカーから聞こえてくるのは、確かに葉留佳の声だった。鈴は固い声で挨拶をする。
『なにやってんの? なにか面白いこと見つけた?』
『う……』
 なぜか鈴がどぎまぎとしている。
『かんゆ、』
『おおっと待った! 当てて見せよう!』
『むっ』
 妙な展開になる。
『かん、かん……缶ケリのルーツを探る旅?』
『ちがう』
『カンカンダンス?』
『ちがうっ』
『乾期……サバナ地方に住む人々にとって、乾期はつらい時期。だがその苛酷な環境の中にも』
『ちがうったらちがう!』
 鈴がきーっ、と怒り出す。葉留佳は、やははとからかうように笑った。
『もう、おこらないでよー。あ、ほら、これお詫びにあげるですヨ』
『え?』
 しゃかしゃか、となにかが鳴る音がする。
『なに、これ』
『タンバリンですヨ。ほら、こんなふうに……シャカシャカヘイっ!』
『しゃかしゃか?』
 しゃかしゃかと音が鳴る。
『このように使用するとよろしいですヨ』
『むー……』
 ふて腐れたようにしながらも、鈴はしゃかしゃかとタンバリンを振っていた。
『それじゃ、なんだかよくわからないけど頑張ってね〜。あでゅ〜』
『あ、』
 鈴がそう声を発したとたん、葉留佳の足音はぴゅ〜っ、と遠のいていった。
『逃げられた……』
 すこし口惜しそうな呟きの中、タンバリンは、しゃかしゃかと鳴る。
『……』
 しゃかしゃか。
『……』
 しゃかしゃか。しゃかしゃかっ。
『……しゃかしゃかへいっ!』
「鈴は、どうやら新たなアイテムを気に入ったようだな」
「思いっきり本筋から外れてるけどね……」
 無線の音に、ちょくちょくタンバリンの音が混じるようになった。
 そしてその後、よく平常時も葉留佳のタンバリンを携行するようになった鈴であった。

 
 ◆


 翌朝。七時前。
 真人が部屋で寝ていると、急に布団を引っぺがされた。
「起きろ、ばか!」
「んあ?」
 目をうっすらと開けてみると、なぜか鈴が二段ベッドのはしごを掴んで、真人の目の前にいた。ぺちぺちと頬を叩いてくる。
「ん……なんだ? 鈴か?」
「はやく起きろ! 起きろったら、起きろー! このぼけ――っ!」
 もう起きてるのに、鈴はまだ寝ていると思ったらしく、肘の攻撃に及んできた。
「って、いてぇ――っ!? 起きてるよぉっ!?」
「なんだ」
 鈴はやっと気づいて、肘をすっと真人の顔から離す。
「起きてたのか。あほ面だったからよくわからなかった」
「ってそれ、寝てる要素に関係なくねぇ!?」
 真人がつっこみながら身を起こすと、鈴はぴょんと下に飛び降りて、真人のことを見上げた。
「いってぇなんなんだ……こんな朝早く……しかもここ男子寮だぞ。どうしたんだよ?」
「いいから早く起きろ。えらいことが起きた」
「えらいこと?」
 真人がとんとんと梯子を下っていくと、鈴は真人の顔を見ながらうなずいた。
「いいか、よく聞け」
「おう?」
「あたしも驚いた」
「うん」
「めちゃくちゃ驚いた」
「ふーん……」
「いや、もうめちゃくちゃじゃない。くちゃくちゃだ。くちゃくちゃ驚いた!」
「うん」
 真人は半分寝ぼけながら適当に相づちを打った。
「で、そのくちゃくちゃやったガムがどうした?」
「――っ!」
 鈴はぱーっと目を開いて、真人の脛にローキックを加えた。
「つぉ――――――っ!?」
「ガムじゃないわ! ぼけ!」
「あ、あがががが……」
 ぼすぼすと続けて軽いパンチをもらう。真人は今の蹴りとパンチで、さっきまでの寝ぼけた感じが一気に吹き飛んだ。
「ちゃんと聞け! いいか……よく聞け!」
「ああ、だから、聞いてるっつーの……」
「うむ」
 鈴は少し考えるようにしてから、おずおずと口を開いた。
「学食のおばさんが……」
「ん?」
 その深紅の瞳が、ふわりと煌めく。
「だれもいない」
「へっ?」
 真人は、固まった。
 これはまだ、夢の中だろうか。
 学食のおばさんがだれもいなくなってると。そんなことがあり得るのだろうか。
 真人は、それがあの恭介のミッションだということに気づくまで、数秒ほどかかってしまった。
 そうだ。これは恭介のミッションなのだ。
 後ろからは、理樹の規則正しい寝息が聞こえてくる。
 いつも自分は、理樹の後に起こされていたはずだ。ここでも世界のありようが変わってしまっている。
 いつもはただ問答無用で叩き起こされて、いびきをかいていても食堂に引きずられていくだけの自分だったから、この事態の意味がうまく理解できなかったのだ。
 真人は気を引き締めて、頭を働かせた。
「どういうことだそりゃ。みんなで温泉旅行にでも行っちまったのか?」
「んなわけあるか。そしたらあたしらが困るだろ!」
 ふしゃーっ、と怒られる。それは確かにもっともなことだ。鈴は腰に手を当てた。
「とにかくだれもいないんだ。朝練を終えた連中が、食堂で困ってる」
「そりゃそうだな。朝練が終わったあとに朝メシがねぇ、なんて言われたら……」
 自分だったら一暴れするかもしれない。謙吾に勝負を挑むかも。
「とにかくあたしと一緒に来い。なんとかやってみせる」
「お、おう? って……おまえがやるのかよ!?」
「そうだ!」
 いつになく積極的な鈴に、真人はすこしたじろぐ。
 きっと「学食を救え」の課題が来ているからだろうが、ここまで積極的な鈴は、今の真人の目にはすごく新鮮だった。
 真人は軽く顔を洗い、学ランに着替える。その間に、鈴は理樹のことを起こしていた。自分よりもいくぶんか丁寧に、ゆさゆさと肩を揺する。
 それでもなかなか起きないのを見ると、鈴もやがてしびれを切らし、ビンタの行使に及んだ。
 びっくりして跳びはねる理樹の体を掴んで、母親のようにパジャマを脱がしていく。
「ちょ、ちょっと!?」
「いいから早く着替えろ! このあほども!」
「え、り、鈴――?」
 寝ぼけ眼のままパジャマを脱がされ、理樹はおろおろと顔を赤くしていた。
 鈴は、理樹の制服を押し入れから引っ張り出し、ぶん投げる。ぼうっと突っ立っていた真人を部屋の外に追い出すなど、いつもより数倍行動的になっていた。


 ◆


 真人たちが支度を済ませてから食堂に向かうと、確かにもう部活を終えた連中が集まりだしてきていた。
 ざわざわと困惑する声が飛び交う中、真人たちは人波をかきわけるようにして、なんとか厨房の入り口にたどり着く。
「ありゃ?」
 来てみると、もうみそ汁の大鍋からはもくもくと湯気が上がっている。
「もしかして、これってもう全部準備できてんじゃね? ラッキー♪」
「ほんとーだ」
 ご飯の釜を開くと、確かにもうすべて炊き終わっている。まん中のテーブルには、鮭の切り身とひじきの煮付けが並んでいる。
「よかった! じゃあぼくらは、これを皿に盛りつけるだけでいいんだね? でも、どうして食堂のおばさんたちが……」
「理樹、いまはそんなこといい! いそげ!」
「あ、う、うんっ!」
 鈴の檄が飛ぶと、理樹は大慌てでみそ汁の鍋に近づいていく。鈴は、テーブルから鮭の切り身を取って、業務用オーブンに入れた。
「真人はそこの皿を並べろ! 終わったら、ひじきの煮付けを均等に分けて載せてけ!」
「おうよ!」
「手の空いてるやつは生卵と海苔をたのむっ! いそげいそげ、おまえら――っ!」
 鈴が中心となって、どんどん朝食のメニューが出来上がっていく。
 真人も皿を持って、ほいほいほい、と手際よく作業を進めていった。単純作業はわりと好きなのだ。
 だが、いかんせん人手が足りなさすぎた。時間内に終わる気配がまったくない。このままじゃまずいぜ。そう思い始めてきたころ――、
「なにをやってるんだ、おまえら?」
 なんと謙吾が、不思議そうに厨房に近づいてきた。
「おいおまえも手伝え、謙吾!」
「どういうことだ?」
 鈴が事情を話すと、謙吾はすぐに微笑んでうなずいてくれた。
「なるほどな。そういうことなら、任せておけ!」
 謙吾はすぐに駆け出して、部屋から恭介を呼んできてくれる。
「ピンチなんだってな」
「おれたちも力を貸すぞ」
 謙吾と恭介が作業の列に加わり、なんとか真人たちはスピードを上げて、時間までに全員に配膳し終えることができた。
 八時頃、ようやく生徒の数も減り始め、真人たちは休憩できるようになる。
「つ、つかれたぁー……」
 理樹がぐったりと椅子にもたれ掛かっている。いつもだったら理樹が中心人物となるため、ここではだいたい真面目な顔をして立っているものだが、今日は理由もわからず働かされたためか、疲れが数倍になったのだろう。逆に真人はわりと平気なほうだった。
「おい、真人」
「ん?」
 真人が突っ立っていると、向こうから朝食のトレイを盛った鈴が歩いてくる。
 真人の前まで来て、言った。
「手伝ってくれたお礼だ、食っていいぞ」
「へ?」
 とん、とテーブルの上に置かれる。
「おい。それって……余った分のメシだろ?」
「そうだ」
「おまえの分はあんのか?」
「ないな」
「なんだよ、そりゃあ」
 真人は呆れて溜息をつく。よく見てみると、理樹や恭介の分はちゃんとあった。謙吾の分もある。鈴の分だけが足りないのだ。
「おまえが一番ひょろっちいんだから、それおまえが全部食っとけよ」
「でも」
「オレのは百円でいいよ。百円玉くれ。なんか適当にパン買ってっくっからよ」
「でも、百円じゃあんパン一つしか買えないじゃないか」
「まあ、そりゃその通りだが」
 でも、いつもおまえ百円玉しかくんねーじゃねーかよ、と思ったが、真人は黙っていた。
 べつに百円玉さえあれば、昼まで腹はもつ。もちろん授業はすべて睡眠学習となるが――。
「しかたないな。じゃあ半分こにしよう」
「半分こだぁ?」
 平気そうな顔でさらっととんでもないことを言い出す鈴。真人は目をぱちくりとさせる。
 なんて女の子趣味な。それは理樹限定の必殺イベントだろうが。オレと一緒に同じ皿を突っつきあって、なにが楽しいんだろうか、と真人は真剣に思い悩んだ。
「い、いいってそんなもん。それこそ、オレの腹には全然足りねーから……」
 そう言っているうちに、鈴は勝手に箸を持ってきて、勝手に対面の席に座る。
「ぐちゃぐちゃ文句言うな。もう一つしかないんだ」
「いや、一つしかねぇのはわかるけどよ……」
 だからオレに百円玉くれるだけでいいのに、なんでそんなことするんだろう、と真人は突っこみたくても突っこみきれず、すこし上機嫌にふんふんふん♪ とおかずを取り分けていく鈴の顔を眺めていた。
 やがて小さいお皿に、真人専用の朝食ができあがる。
「さあ、食え」
「えー……」
 真人はなんとも言うことができず、呆然とそれを眺めていた。
「本気なのかよ?」
「おまえが食っても食わなくても、もうあたしはこの半分しか食わないからな」
「げっ」
 真人はそうなったときのことを想像し、ふるふると首を横に振った。そうして、ゆっくりと対面の席につく。
「しょうがねぇ……もらうよ」
「余計なこと言わないで、さっさと食べればいいんだ」
「へいへい」
 真人は改めて、そのミニサイズとなった朝食をじっくり眺めて、言った。
「まるでお子様ランチだな……」
「あたしのも、お子様ランチだ」
 そう言う鈴は、わりと楽しげであった。
「まっ、食うか♪」
「うん。……いただきます」
 手を重ねて鈴がそう言い終わらないうちに、真人はがつがつがつっ、と瞬時にすべての料理を食い尽くしてしまう。
「って、いただきますを言えぇ――っ!」
「ぐほっ!?」
 鈴から正義の鉄槌を眉間にもらう。真人は身悶えながら鈴の顔を見て、言った。
「ひははひまふっ!」
「って、いま言うんじゃないわ――っ! なんか飛んだだろうが!」
「んごご!」
 鈴からまた正義の鉄拳をもらうと、真人はさらになにかを口から出しそうになった。鈴はひいぃっ、と顔を引きつらせ、さらに高速の乱打をお見舞いした。
 さらに頭を抱えて身悶えながら、もぐもぐとゆっくり中のものを咀嚼していく真人。
 やがて、ごっくんと飲み込んだ。
「っはぁ……、危なかったぜ……」
「危なかったのはこっちのほうじゃ、ぼけ」
「ふう」
 真人は鈴のつっこみには反応せず、空になった皿を眺めて、すらっと冷や汗を流した。
「ひゅう……もうなくなっちまったのか。恐るべき足りなささだぜ」
「もう、ごちそうさまになってるじゃないか、おまえは」
「ああ、ごちそうさま」
 言いながら真人は、お腹のあたりをぽんぽんと触ってみる。全然足りてない。
 これだったらまだ、あんパンを食ったほうがましだったかもしれない。量的には同じかもしれないが、こっちのほうはおかずがそれぞれ半分ずつしかないから、まるで食った気にならないのだ。
 一方の鈴は、ちょっとずつおかずを箸で分けながら口にしていた。
「あっ、てめぇ! ずりぃぞ! そうやってちょっとずつ食べて、腹をふくれた気にさせようって魂胆だな!」
「もぐ……ふん」
 眼の端をキラン、と輝かせて、不敵な眼差しで真人を見つめる鈴。
「べつにこれはずるくないぞ。こんなの、しょせん一般人の知惠だ」
 もぐもぐと口を動かしながらそんなことを言ってる鈴は、ちょっと間抜けだった。
「ちくしょう! オレはそのこと知らなかったぜ! もう、ぜんぶ食っちまったじゃねぇかぁ――っ!?」
「おまえがばかなのが悪いんだ。ふん……そうやっておまえはひもじい思いをしているがいい。あたしは一般人の知惠で、お腹をふくれさせる」
 えらく貧乏くさい一般人の知惠だった。
 真人が鈴の食事する様子を見て落ち込んでいると、横からとんとんと肩を叩かれる。
「よぅ、これ食うか、真人?」
「へ?」
 差し出された恭介の手には、半分に取り分けられた鮭があった。そしてそれに続いて、理樹と謙吾も皿を持って近づいてくる。
「ねえ鈴。このひじき、ぜんぜん手つけてないから食べなよ」
「え?」
「おまえら……こんなところでいったいなにをやってるんだ。おかずが足りないなら、遠慮なくおれたちに言えばいいだろう。水くさい」
「う」
 鈴もびっくりした顔で、おずおずと謙吾や理樹の皿を見比べる。
「い、いいのか?」
「いいもなにも、おれたちの皿だろう。さっさと食え」
「……ありがとう」
 ぼそぼそと、小さくお礼を言う。鈴は照れくさそうだった。
「ほら、これも食えよ、鈴」
「うん。って、それは……おまえの食べかけじゃないのか?」
 確かにいま恭介の差し出した皿には、ちょっと食べた跡があった。
 口を尖らせる恭介。
「気づかずに食っちまったんだよ。しょうがねぇだろ、ほら」
「いらん」
 ぷん、と顔を逸らしてしまう。
「なんだと? 真人とは食べかけを分かち合えて、おれとは分かち合えないって言うのか? おれたち兄妹じゃないか?」
「いや、べつにこれ食べかけじゃねぇし」
「きもちわるい……きょーすけ」
「なんだと!?」
 端からそれを眺めていた理樹が、呆れてつっこむ。
「汚いから、恭介……」
「理樹までそんなことを言うのか!?」
「だいたい、鈴は嫌がってるんだから、無理に食べかけのものを勧めるな……」
「いいじゃねぇかよ! 兄妹なんだから!」
「だからなんだっつーんじゃ、ぼけぇ――っ!」
 鈴がふしゃーっ、と牙を剥く。恭介は絶望したような顔をして、ゆっくりとお皿を下げた。
「へっ、謙吾。カツ寄こせよ」
「いや、そもそも品目に入ってないからな……」
 謙吾の呆れた声とともに、朝食の喧噪は幕を閉じる……。


 ◆


 休み時間。真人たちは再び食堂に集まった。
「昼休みはメニューがあるわけだから、全部の注文に対応しなきゃいけないわけだけど……」
 理樹は腕を組んで、不安げな眼差しを鈴に向ける。
 鈴は躊躇することなくそれに頷いていた。
「そうだな」
「冗談じゃねえぜ、全部作れってのかよ!」
「……むりか」
 残念そうな顔をする。謙吾がその後を引き継いで口を開いた。
「緊急事態なんだから、メニューなんか無視すればいいだろう。やむを得まい」
「それもなんかかわいそうだな……」
 鈴も腕を組んで、むーんと唸る。
 休み時間になっても、食堂のおばさんたちは帰ってこなかった。この様子じゃ、昼休みは大変な事態になる。やっぱり真人たちがどうにかするしかなかった。
「まあ、昼メシが一品のみなんて言われた日にゃぁ、暴れ出したくもなるが……」
「んみゅ」
 鈴は、真人の言葉を聞いて、ゆっくりと顔を上げた。
「よし。ちょっと待ってろ」
 背中を向けて、とことこと駆けていく。
 しばらく待つと、真人の携帯がぶるぶると震えた。
 開けて画面を見てみると、メールが一件。
『どうすればいい』
 またこれだった。
 真人は頭が痛くなるのを抑えながら、心の中で激しくつっこみを入れた。
 どうしてそれをオレに聞いてくるんだ、知るか、オレがそんなこと、と打ち返したかったが……べつに、なにも頭に考えがないわけではなかった。
 一品だけだったら客に迷惑だ。暴れ出す生徒も出るだろう。だったら、それ以上にしておけば問題ない。
『一品だけだと客も怒るだろうから、せめて二種類に定食を分けたらどうだ?』
 二種類にしてみろとは、自分ながらなかなかできた案だと思った。自信を持って、ぽんと送信ボタンを押す。
 しばらくすると、鈴がぱたぱたと駆けて戻ってきた。
「いいかおまえら、よく聞け!」
 まるで軍の司令官のように、鈴は意気込んで言う。
「せめて二種類に定食を分けたらどうだ?」
「堂々としてたわりには、穏やかな提案だね……」
 つっこんでる理樹の後ろで、真人がずっこけていた。
 またセリフをそのまま読まれてる……。
「ん、どうしたの、真人?」
「い、いや……ちょっと、そこにバナナの皮があってな……」
「はぁ?」
 理樹が不思議そうな目をする。
 瞬間的にまずい、と思った。また理樹に疑われてるかも。どうすれば……。
「もしかして……また真人の入れ知恵?」
「げっ!」
 ぎくうっ! と真人は飛び跳ねた。
「なんだと?」
 恭介も、面白そうな顔をする。
「またおまえら、おれらに内緒にしてなんかやってるのか」
 にやにやと面白がるような顔を浮かべ、恭介は鈴と真人を見比べる。鈴は今ごろになって、「あっ!」と口に手を当てていた。
「せっ、せめて二種類に定食を分けろっ、ぼけーっ!」
「いや、今ごろ言い方を変えても遅いから……」
「なんだよ。いつの間にそんなに仲良くなったんだよ、おまえら。怪しいな……」
「あ、怪しくなどないわっ!」
「ふーん」
 必死に首を振っている鈴を前に、恭介はさらにからかうような表情を浮かべ、真人と鈴の前を行ったり来たりしていた。
「謙吾、おまえはどう思う?」
「さあな。おれは、そういうものは専門外でな」
「ありゃ?」
 冷淡にあしらわれて、恭介が呆気に取られる。
 謙吾が、恭介と反対する立場にあるということを、恭介は忘れていたみたいだ。
「そうだったっけな……」
 すこし寂しそうに笑った。どこか自嘲的な笑みだった。
「そりゃそうと、その案で行くのか、鈴?」
「うん」
 鈴はうなずいてみせた。
 真人は心中冷や汗だらだらだったが、これでうまく方針がまとまってくれたようだ。
「次はメニューのほうだね。なにを作る、みんな?」
「あまり難しいものはできんぞ……なるべく簡単なもので頼む」
「ひとつは揚げ物にしようぜっ!」
 真人が真っ先に自分の好みを言うと、鈴はすぐにうなずいてくれた。
「よし。じゃあひとつは揚げ物定食だ」
「いやっほう!」
 真人は嬉しくって跳び上がる。鈴はもう少し首をひねって、その定食の内容を詳しく考えた。
「ミックスフライ定食だ。内容は、コロッケ、エビフライ、一口カツ、千切りキャベツ……」
「エビフライは二尾なっ!」
「わかった。じゃあエビフライは二尾だ。よし、これで決まりだ!」
 どーん、と一つ目のメニューが決定する。真人はさらに喜んだ。
 今日の鈴はなかなか気前がいい。真人の目には、まるでどこかの女神様のように映っていた。
 さささっ、と理樹がメモ用紙にそれを記入する。
「じゃあ、次は?」
「うーみゅ……一つは揚げ物だったから、次はなるべく軽いものがいいな」
「おにぎり定食なんていうのはどうだ?」
 謙吾が簡単なメニューを提案する。
 鈴は、ちょっと食べたそうな顔を浮かべて、うんと頷いた。
「よし。じゃあ、もう一つはおにぎり定食だ!」
「おかずはどうすんだ?」
 鈴の眼がきらんと光る。
「カップゼリー」
「へぇっ?」
 真人が目を丸くする。
「い、いや、カップゼリーは、おかずじゃねぇんじゃねぇのか……?」
「なにを言ってるんだ。立派なおかずだ」
「えー……」
 真人は若干引いてしまう。本当だろうか……。
「いいんじゃねぇか? 女子に人気が出そうで」
「まあ、恭介がそう言うならいいけどよ……」
「じゃあ、おにぎり二つに、みそ汁とカップゼリーで定食だ!」
 無事に二つ目の定食も決まった。これで昼休みに挑むことになるかと思いきや、冷蔵庫を開けた謙吾が、そこにカレーのレトルトを発見した。
「これは……非常食だな。レトルトならすぐにできると思うが」
「その非常時は今だろ?」
「どうするの、鈴? カレーもメニューに加えてみる?」
「うーむ」
 鈴は腕を組んだが、またすぐにうん、と頷いた。
「よし、カレーもメニューに加える! それじゃミックスフライ定食と、おにぎり定食と、カレーの三つで決まりだ!」
「よっしゃ! 燃えてきたぜぇ!」
 なかなか見栄えのいいメニューも出来上がったので、真人たちは昼休みの決戦に向けて闘志を燃やした。
 きたるべき闘いのときに備え、真人たちは具体的に材料や調理法について確認する。
 理樹だけが、そんな雰囲気の中で、食堂のおばさんたちがいなくなったことを不思議がっていた。


 ◆

 
 昼休み。ついにやってきた、決戦のとき。
 真人たちリトルバスターズは、すでに厨房の中でスタンバイしていた。
「まあ、仕事の分担なんかは適当でいいよな。おまえら、注文された料理を片っ端から出していくこと」
「いいのかよ、そんな適当で……」
「なんとかなるだろ」
 恭介が一人、余裕そうに笑っていた。他のメンバーは白けた目で恭介を見る。
「んなわけないでしょ……」
「ほんとこいつばかだな」
「まあ、恭介の言うとおりにした場合、破滅するのは目に見えているな」
「ほんとだぜ。ったくよ」
「……」
 恭介の背後を白い風が吹き、鈴はその場から目を離して、みんなに適切な指示を与えた。
「厨房の中で動くのは、あたしら理樹以外の四人だ。理樹は、出された食券に応じてトレイを配ること」
「わかったよ」
 理樹が、すたすたと手前のほうに歩いていく。
 すると早速、オーダーが突風のようにやって来た。
「おにぎり二つと、カレー三つに、ミックスフライ三つ、お願いっ!」
「おおっ、ついに来やがったな!」
「さっさと動け、あほっ!」
 鈴に怒鳴られ、真人はぱたぱたと飛ぶようにして動く。
 まずは揚げ物を作り、皿に載せ、つぎに千切りレタスを載せて、おにぎりも載せていく。なんだかよくわからず混乱しているうちに、どんどん客の注文が飛んでくる。いいや、かまわねぇ、と適当に手落ちした皿のまま出すと、客の苦情が雷のようにやってくる。
「ちょっ、こんなに食えるかよっ!?」
「おにぎりにキャベツぅ?」
「ちょっとこれ!? こんなに高カロリーな定食頼んでないんだけど!?」
「おかず足りてないだろ!」
「皿しかねーよ!」
「お味噌汁こんなに飲めないわよ!?」
 次々に客の文句が飛んでくる。ああ、うるせぇ! と心の中で返しながら、真人はせっせと手を動かしていく。
 こんなに大変なことを毎日やっているなんて、食堂のおばちゃんたちはなんてすごいんだろう。尊敬する。本当に。
 ただ、そんな殊勝なことを考えても、飛んでくる客の文句が減るわけではない――。
「おい、カップゼリーどんだけ食わせたいんだよ!」
「ゼリーこれで合ってるのー?」
「ゼリーに埋め尽くされてるじゃないか!」
「ゼリー定食かしら……?」
「こんなにゼリー食えねーよっ!」
「おれゼリー苦手なんだけど……」
 いや――、
「ゼリーだっ!」
 そんなことよりも――、
「ここでゼリーだ!」
 もっと重要な、いや、深刻な――、
「やっぱゼリーだな!」
 真剣に考えるべきことがあった――。
「ゼリー革命だ! きゃっほ――」
「いいかげんにしろ、てめぇ!」
 真人は、まずは目に付く馬鹿から対処するべきだということを知った。
 鈴の襟をふん捕まえてゼリー宝庫から遠くにやると、客の苦情はちょっと減ってくれた……。


 ◆
 

 昼休みも終わるころ――、
「すごいな、あたしら! もしかして定食屋開けるんじゃないか!?」
「ああ、そうかもな……」
 ずーん、と肩を落とす真人と理樹。ぐだぐだすぎて、鈴のボケに付き合ってやれる気力もなかった。
「もうおまえ、いっそゼリー定食屋開いたらどうだ……?」
「わー、すごいね……ぼくきっと食べにいくね……」
「ほんとーか!」
 きらきらと目を輝かせる鈴。
 昼休みの決戦の結果は、惨敗。さんざんな出来だった。
 鈴だけが、ゼリーをたくさん途中でつまみ食いして、ご機嫌だった。真人たちは力なく食事を口に運んでいった。
 あとで食堂のおばさんたちになんて言われるか心配だ。


 ◆ 


 午後。真人は、言いつけられた理科室の片づけを終え、すこし手伝ってくれた理樹と一緒に教室に帰ることにした。
「あれ?」
「お? どうした」
 途中で理樹が声をあげたので、そっちを見てみると、なにやら教室の中が騒々しかった。生徒たちの悲鳴が聞こえ、それに続けて椅子や机が倒れる音が聞こえてくる。
「やははー! って、ひゃっ!?」
 ちょうどよく教室から出てきた影と、理樹は正面で衝突してしまう。
 どすんと後ろに尻餅をつく影。よく見てみると、それは――、
「あっ、てめぇ三枝!」
「げ!」
 特徴的なツインテール、三枝葉留佳だった。
 葉留佳は、真人の顔を見上げて、びくっと顔を引きつらせる。
「や、やあ〜。奇遇だね、二人とも」
「奇遇だね、じゃねぇよ! この野郎!」
「葉留佳さん。手、貸して」
 理樹は葉留佳の手を引いて立たせてやる。ぽんぽん、とお尻の埃を落とす葉留佳。
「葉留佳さんとなんかあったの、真人?」
 理樹が不思議そうな顔をこっちに向けてくる。真人はそれにうなずいた。
「ああ、よく聞け――。こいつは、さっきの物理の時間、」
 真人は、先ほどの葉留佳のいたずらを思い出して言った。
「オレのプリントの名前と名字の間のところに、☆(スター)って書き入れやがったんだ! そのせいでオレは、『井ノ原☆真人』って名前で提出するはめになっちまったんだぁー!」
「うわぁ……」
 なんてしょぼいイタズラなんだろう……と理樹が表情に浮かべる。葉留佳はまったくの反省の色なしに、やはは、と頭をかいた。
「ばれちゃったか〜。でも、漫画家みたいでかっこいいですヨ、真人くん?」
「うっせぇ! オレはそのせいで教師にからかわれたんだよ! ペンネームみたいな名前で楽しそうだな、井ノ原、ってな!」
「だって〜」
 む〜、と葉留佳は口を尖らせる。
「廊下にプリントが落っこちてたんだもん。あ、真人くんのだ、って思ったら、やっぱりイタズラせざるを得なくて」
「なんだその自己中心的な理由! オレが迷惑じゃねーか、ちくしょう! だいたいなんだよおまえ、ボールペンで落書きしやがるから、ぜんぜん消せなかっただろうが!」
「それは〜、はるちんからの特別サービス♪」
「うぁぁぁ――! なに言っても通じねぇ――――っ!?」
「もう……」
 理樹は呆れ顔を浮かべた。だめだよ? と軽く注意する。
 がくっと肩を落とす真人。今回は、理樹は葉留佳の味方のようだ。いつもより自分に冷たい気がする。
 教室の中からどたばたと生徒たちが飛び出してきた。きっと葉留佳のいたずらに遭った人たちだろう。彼らが口々に言うには、どうやら葉留佳は、後ろの黒板に今日の推理ドラマのネタバレを書き記したらしい。
「うわぁ」
 確かにそれは重罪だ、と理樹も真人も同意する。二人とも娯楽室通いだったころがあるのだ。
「まあまあ、諸君抑えて」
 そしてなぜかイタズラをした張本人がなだめていた。
「おまえが言うな、三枝!」
「だってあれは、ただのはるちんの作り話ですヨ?」
「え?」
 生徒たちの怒りがぴたりと止まる。
 そして、なぜかそこから、葉留佳の推理講釈会がスタートしてしまった。神妙に息を呑んで、葉留佳の説明に耳を傾ける人々。
「へえ」
 やがて、目の前の男子が言った。
「おまえ、すごいな」
「へへん♪ はるちんは、これでも推理ドラマ界の女王と言われているんですヨ♪」
「だが、おまえのその推理には穴がある」
「へえ、聞かせてもらいましょうかね。なになに?」
 そしてなぜか、さらにそこから推理の討論会に発展してしまう。
 真人は肩をすくめた。理樹は苦笑していながらも、どこかそんな葉留佳を眺めるのが楽しそうであった。
 しかし、そんな楽しい時間も、突然終わりを告げる。
「あ、悪い三枝……続きはまた今度な」
「え?」 
 生徒たちは、なにかに怯えるように、こそこそと教室の中に帰ってしまう。
「え、ちょっと……」
 置いてきぼりをくらった葉留佳は呆然とするが――、
「あ、風紀――」
 といった女子生徒の声に、目ざとく反応した。
 真人も葉留佳と一緒にそちらのほうに目を向けると、廊下の奥から、深紅色の腕章をつけた一団が、ぞろぞろと大人数で道のまん中を歩いてきた。
 理樹と真人は、かれらに道を空ける。
「……男子寮長候補との、折衝の件は?」
「現在進行中です」
「そう。それじゃ向こうのほうも手を打ってちょうだい。急いでね。……って、ん?」
 中心人物と思われる少女が、ちらりと葉留佳のほうを見る。
 じっとその顔を見て、わずかにさげすみの色を浮かべる。
「どうかしましたか?」
「いいえ。なんでもないわ。行きましょう」
 葉留佳からも注がれる睨みの視線に応える間もなく、その少女は足を機械的に動かして行ってしまった。
 しん、と静まり返った廊下。
 また活気が満ちるまで、しばらくの時間を要した。
 当の葉留佳本人は、さきほどの楽しい雰囲気とは打って変わって、まるで氷の彫像のように冷たく美しい表情で、先ほどの少女の後を目で追っていった。
 尋常ではない雰囲気をそこに感じ取ったのか、理樹がおずおずと話しかけると、葉留佳はふっと氷が溶けたように微笑んで、また元の話をし始めた。
 真人は、そんな様子を少し遠くから見つめていて、ふと頭で考えた。
 今ごろ鈴は一人でなにをやっているのだろうかと。
 きっと食堂のおばさんたちが、全員いなくなってしまった理由について、考えているに違いない。
 真人はもう、そのことは深く考えないことにした。


 ◆


 放課後の野球の練習を終えて、真人たちは食堂へ向かう。新たにメンバーに加わった小毬と来ヶ谷も連れて。
「今日は本当にありがとね。助かったわ、あなたたち」
 病床から起き出してきた食堂のおばさんにお礼を言われる。
「いいえ、そんな」
 照れて頭をかく理樹。横にいた小毬も、それに答えて微笑んだ。
「お料理は好きですから、構いませんよ〜」
「うむ。私もお料理をしている小毬君を見れてハッピーだ」
「ええ〜っ」
 そんなやり取りを離れたところで見ている真人は、延々とサラダ用の野菜を切り刻んでいた。
「あ〜……終わりが見えねぇ……」
「さっさとやれ、ぼけ」
 隣の鈴から文句を言われる。真人はそっちに振り向いて言った。 
「いっそ、オレの歯で噛み千切っていくという効率的な方法もあるが、どうだ?」
「あほなこと聞くな!」
 ふしゃーっ、と怒鳴られる。そんなことを言ってる鈴は、たまねぎの汁を目にくらってうるうると涙していた。まぬけだった。
「でも、こうしてると、嫌いな食べ物を残すなんて、とってもいけないことだってわかるね」
「そうだね〜」
 真人も、理樹と同じことを考えていた。こんな大変な仕事をしているなんて、おばさんたちはなんて立派なんだろうと思った。明日からは嫌いな食べ物もすこしは食べる努力をしてみようと思った。
「そうね。確かに大変だけど、それはあなたたちも同じでしょう?」
「ふえ?」
「私たちは、ご飯を作るのが仕事。あなたたちは、勉強をするのが仕事」
 おばさんは、温かく、深い微笑みを携えながら言った。
「たくさん食べて、一生懸命勉強をしてくれて、それで毎日元気でいてくれたら、おばさんたちはそれだけで嬉しいわ」
「おばちゃん……」
 真人はじっとおばさんの言葉に聞き入って、にっと笑った。
「惚れそうだぜ」
 夕食のカレーは、時間ギリギリに作り終えることができた。


 ◆


 あとは配膳するだけとなったところで、理樹が突然床に倒れた。
 ナルコレプシーの発作だ。眠ってしまったんだ。
 恭介が慌てて駆けつけ、理樹の身を起こす。
「おい、真人」
 名前を呼ばれた声だけでわかる。理樹を部屋に運べと言うんだろう。それは自分の役目だから、真人はなにも言わず、すぐに理樹を背中におぶってやった。
 発作が起きたときはいつもこんな感じだ。真人は理樹の体温を背中で感じながら、のそのそと部屋に歩いていく。
「お?」
 すると、すたすたと後ろから鈴もついてくる。
 ぴたりと顔を見合わせ、なんだ? と鈴が眉を動かすと、真人は口だけでふっと笑いかけた。
 きっと鈴も、理樹のことが心配なのだろう。当然だ。もっとも親しい男子なのだから。
 真人は鈴に背中を向けて、あまり会話することなく、部屋にまでたどり着いた。
 ベッドに理樹の体を横たえ、真人は立ち上がる。
「よっと……行くか」
 用事を済ませたので、真人は部屋から出ようとする。
 すると、なぜかまた鈴が後ろからついてきた。
「あん?」
「ん」
 振り返って見てみると、向こうもなぜか驚いた顔をしている。
 どうしていま鈴が一緒に部屋を出ようとしたのか、真人にはわからなかった。二人はドアのところで立ち止まって、しばらく見つめ合う。
「おまえ、どこ行くんだ? 便所か?」
「んなわけあるか。あたしはこれから食堂に戻るんだ。おまえこそ、トイレなのか?」
「は?」
 呆気に取られてしまう。二人はそのまま数秒ほど見つめ合って、首をひねる。
 どういうことだろう。
 お互いに相手が部屋に残ってくれるものだと思っているらしい。そしてどっちも食堂に行こうとしている。
「ちょっと待てよ。おまえが理樹を看病するんじゃねーのか? オレは、これから食堂へ戻るところだが」
「なにっ」
 鈴は今気づいたらしい。お互いの考えが食い違っていることに。
 目をぱちくりと開けて、まじまじと真人のことを見つめる。
「どうしてそーなるんじゃ。食堂に行くのはあたしだ。みんなに指示を出さなきゃいけないだろ」
「指示なんかあったか?」
 思い返してみるが、とくになかったような気がする。
 夕飯はカレーだけで、指示もすべておばさんがやってくれたから、あとはもうカレーを配るだけだ。鈴はと言えば、真人の隣でたまねぎの汁を食らって目を潤ませていただけだ。
「どっちにしろ!」
 鈴はふるふると首を横に振る。
「どっちにしろ?」
「理樹を、このまま一人にしておくわけにはいかない……」
「まあ、そりゃそーだな」
 真人はうなずく。理樹のほうを見ると、すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。
 寝ている間にどんなことが起こるかわからない。必ず誰かがそばについていてやらなくてはならない。
 カーテンが開けられたままの部屋の窓からは、温かい、薄い炎のような夕焼けが差し込んでいる。綺麗だと思った。
 真人はこの場所に、二人っきりでいる鈴と理樹の姿を想像してみた。
 理樹はベッドで寝ていて、鈴はその近くで体育座りをしている。
 やがて理樹は目を覚まし、鈴になにかを伝えるだろう。
 そのとき、自分はそこにいない。
 どうやっても、自分がそこにいる光景を想像できない。
 真人はなぜか、ふとそんな情景が頭に思い浮かんだ。
「まあ、ここはおまえが残っとけよ」
 真人は、にっと笑いかける。
「あとはもうカレーを配るだけだし、それに、筋肉担当のオレがそこにいなきゃ始まんねーだろ?」
「べつに筋肉と配膳は関係ないぞ」
「え……」
 思い返してみたら、そうであった。
 手は二つしかないし、どうあってもその事実は変わらない。
「いや待て……もしかしたら、ちょっとはあるかもしんねぇじゃねぇか?」
「絶対ないと思う」
「うぁぁ、言い切られたぁー!?」
「うっさいぼけ! おまえの筋肉なんかより、あたしの指示力のほうがずっと大事だ!」
 べーっ、と舌を出されて馬鹿にされる。真人はすこし呆然とした。
「いや、だからもうあとはカレーを配膳するだけなんだって……」
 このお嬢様も相当きている。だから指示なんかいらないって、なんべん言えばわかるんだろう。
「おまえはあほか! 配膳道をなめるなーっ!」
「なにぃ?」
 配膳道?
「配膳とは、ただご飯を客に配ることだと思っているな……? あまいっ!」
「えー?」
 違うのだろうか。
「あの、お客様にご飯を配る素早さ、接するときの態度、愛想、テーブルに置くタイミング、腕の角度、力の入れ具合。そのどれもが、ある一国の国技に認定されているほど奥深いものなのだぞっ!」
「どうでもいいけどよ、これって学食の配膳だよな?」
「うっさいわっ! サバンナに棲息する獅子は我が子を狩るのにも全力を尽くしたという……ここは、あたしの指示なしにやってはだめだ!」
「なんかおまえ、変なの混ざってねぇか?」
 獅子が、どうして我が子を狩っちゃうんだろう。全力を尽くしちゃだめじゃないか、と真人はつっこみたかった。
「いったいどうすりゃいいんだよ? 二人で食堂行くか?」
「っ!」
 鈴は目をぱちりと開けて、ふるふると首を横に振った。
「それは……だめだ」
「だよなぁ……」
 ぷいっと二人で理樹のほうを見てみる。理樹を、一人にすることはできない。なにかあったら大変だし、そもそも理樹が目を覚ましたときにだれも近くにいないようじゃ、自分たちの友情に傷が付く。
「じゃあ、残ってる選択肢は……っと」
「ん」
 鈴と目を見合わせる。考えたが、やっぱり馬鹿らしい意見だった。
 やっぱり真人と鈴のどちらかが食堂に行ったほうがいいだろう。面倒くせぇことになった、と心の中で思っていると、突然真人の携帯がぶるぶると震えた。
 取り出して見てみると、恭介からの電話だった。
『よぉ、真人』
 恭介の声だ。
『こっちは、全部準備終わったぜ。一般生徒からの協力もあってな。だからもうおまえら来なくていいぜ。二人で理樹の面倒見てろよ。それじゃあな』
「え? お、おいっ!?」
 ぷっ、と切れる。
 一方的な物言いは、恭介の無言の命令だ。つー、つー、というむなしい電子音が、無言の圧力となって真人の胸にとぐろを巻く。
 もちろん理樹のことだから、べつに言われなくても従うつもりだが……。
 真人は、鈴と目を見合わせて、呆然とした。
 きっと鈴も今の声は聞こえていたことだろう。鈴は、黙って真人から顔を逸らすと、靴をぽいぽいと脱いで部屋に上がった。
 自分もその後に続く。
 腰を下ろしながら、妙なことになっちまった、と思った。


 ◆


 あまり食欲はなかったが、夕食は鈴と交替で採ることにした。
 まず鈴が先に行き、その後で真人が行く。
 真人が食堂から部屋に戻ってくると、鈴はすこし物憂げな顔で、床に体育座りをしていた。
「ただいまー」
「んー」
 目だけで「おかえり」と言ってくる。鈴の独特の仕草だった。
 真人は、ふう、と溜息をついて床にあぐらをかく。
「今日はいろいろあったなぁ……すげぇ疲れた」
「そだな」
「食堂のおばちゃん、いったい今日はどうしたんだろうな? 妙なこともあったもんだぜ。全員がいっぺんに風邪ひいちまうなんて……まるで口裏合わせてたみてぇじゃねーか」
「うむ」
 鈴はぽてん、と膝にあごをくっつけた。
「じつはあたし、いまそれ考えてた」
「おお! で、どうなんだ? なんかわかったのか?」
「……」
 鈴は眉をハの字にして、首を小さく横に振った。
「わからん……」
「ちぇっ」
 真人は頭の後ろで両手を組んで、壁に寄りかかる。
「ほんとわけわかんねぇな。実はひそかに温泉旅行行ってるんじゃねぇのか?」
「だから、食堂のおばさんがそんなことするか。おまえらじゃあるまいし」
「あんだと? じゃあ……おまえはなんでだって思うんだよ!」
「それは……」
 鈴は言いよどんで、まるで、これを言ってもいいか迷うみたいに、真人をちらちらと見やった。
「誰か……べつに犯人がいるんだと思う」
「犯人?」
 真人は目を丸くする。
「これ、見ろ」
「お?」
 真人は、鈴からくしゃくしゃの紙を手渡される。
 それを広げてみてみると、そこには、でっかく『学食を救え』と書かれてあった。
 鈴が、紙の向こうから口を開く。
「それ、昨日の朝に、あたしのところに来た」
「へぇー……って、まじかよ!?」
 真人はびっくり仰天する。もちろん芝居だが。
 食堂のおばさんたちがいなくなったのは、今日の朝のはず。なのに昨日の朝に『学食を救え』の課題が来たというのだ。ここで驚かないのは不自然だ。
「きっとその紙をくれた人は、おばさんたちが今日いなくなることを知っていたんだ」
「っていうか、こいつが犯人なんじゃねぇのか?」
「ん……」
 鈴は言いにくそうに口を閉ざした。鈴も内心そう思っているが、まだその人を疑いたくないというところだろう。
 弁護するみたいに言葉を返す。
「もしかしたら、その人は、学食に悪さをしようとしている連中を知っていたのかもしれない。それで、あたしに頼んできたんだ」
「なんか、一気にスケールがでけぇ話になったな……」
「じつは次の課題が楽しみなんだ」
 鈴が恭介みたいににやりと笑った。真人も少し気が抜けてしまって笑った。
 鈴は、きっと細かいことは気にしないのだろう。どうしてそいつが自分でやらないのかとか、風邪をひかせることが悪いことなのかとか、そういうことは。 
 きっとつまらなくなるから。
「でも、その犯人がどうやっておばさんたちに悪さをしたのかわからない」
「まさか風邪をひかせる薬があるはずねぇしなぁ」
「うん」
 鈴はうなずいた。風邪をひかせるなんて、人の手じゃできない。偶然でもなければ。ここに恭介の問いかける謎の答えがある。
 まさか、鈴が一人でその答えに行き着けるわけがないが。
 理樹と一緒じゃなきゃ、その答えの一端を知ることも難しいだろう。
「理樹はのやつは、なんて言ってたんだ?」
「え?」
 鈴は驚いたように目を開いて、真人のことを見た。
 真人は首を傾げる。
「理樹にも……相談したんじゃねぇのか?」
「っ」
 鈴はすこし怒ったような、蔑んだような眼差しで真人を見る。そのまま真人から顔を逸らして、言った。
「理樹には……言ってない」
「は?」
 きゅっと腕を組み直して、鈴はそれ以降黙ってしまった。
 すこし緊張した空気が流れる。理樹の寝息だけがすぅすぅと穏やかに聞こえる。
 真人は鈴の顔を覗き込んだ。鈴は口を尖らせて、理樹のほうを見つめたままであった。
「おまえ……なんか理樹に遠慮してるか?」
「遠慮はしてない」
「本当か?」
「ほんとうだ」
「ふーん」
 真人は腕を組んで考える。理樹と鈴は、この前の日に仲直りしたと思っていたのに、どうしてなんだろう。なかなか複雑な事情になっているようだ。
 自分は理解し得ない。
 ただ、これ以上長引かせるのはよくない。真人の勘はそう言った。もうこれ以上無理強いするのは止めておけ、と自分の勘が言っていた。
 真人はそれに、従うことにした。
「まあ、それならそれでいいんじゃねぇか?」
「む」
 鈴はすこし驚いて、真人の目を見つめた。
「理樹に相談しねぇんなら、今まで通りに頑張ればいいよ。筋肉さんの力が借りたくなったら、いつでも気軽に言ってくればいいぜ。前みてぇに手伝ってやっからよ」
「……」
 もう、鈴の相手が誰じゃないといけないとか、そんな面倒なことを考えるのは止した。
 なるようにしかならない。ならばそれを自分は受け入れよう。
 自分にできることは、それだけだ。広い腹を持つことだ。
 真人は次第に、そう考えるようになってきていた。
「次の課題にも挑戦すんだろ?」
「うん」
 鈴を一人で頑張らせることにしよう。みんなの手を借りさせながら――。
「じゃあ、なんかあったらすぐ言えよな。今日みてぇに」
 鈴は、こくんと小さくうなずいた。
 真人は安心して、にかっと笑う。すると鈴は、むずむずとして顔を逸らし、すっと立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
「きょーすけたちを呼んでくる。二人じゃなんかあれだ」
「ふーん」
 真人は、そのせかせかと急いで歩いていく鈴の背中を、無心に目で追っていた。
 すると鈴は、ドアのところでふと立ち止まる。
「まさと」
「ん?」
 呼ばれたので返事してやると、鈴はふっと首だけをこっちに向けて、
「あすからよろしく」
「へ?」
 ちりん、というひとすじの鈴の音とともに、鈴は至極無愛想に、そんなことを言うのだった。
 真人は固まる。
「じゃあ」
 固まっている中、鈴はひらひらと軽く手を振って、部屋を出て行ってしまう。
 呆然とする真人。いま、なにが起きたのか――。
 足りない脳細胞を駆使して、さっきの鈴とのやり取りを思い出すと、真人はあることに思い当たって、「あっ!」と叫んだ。
「あー、あぁー!」
 後悔して叫んでも、真人の苦悩を理解してくれる者など誰もいない。
 井ノ原真人、棗鈴、二名。
 恭介のミッションに挑戦することが決まった。

 

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