序言

 このお話は、黒旗蒼鶻様の『うたかたの夢に抱かれて』というSS作品をモデルにしています。

 ご本人には一応許可をいただいております。

 『うたかたの夢に抱かれて』をどむとむ風にアレンジしてみました。では、どうぞお楽しみください――。

 

 

 

 思いがけずに、ある一人の女子から声をかけられる。
「ねえ、井ノ原君。棗さんどこに行ったか知らない?」
「あん?」
 真人が振り返ってみると、そこにはつり目をしたクラスの女子が一人立っていた。
 その女子は腰に手を当て、ふう、と愚痴っぽく溜息をついた。
「また、日直サボってるんだよね」
「あ、あぁ〜」
 真人は、鈴の席に目をやって、そこに誰も座ってないことに気づくと、そこにいねぇんなら知らねぇぜ、と手を振ってみせた。
 本来であればここで、真人の言葉に続く者がいるはずだが、今はすこし席を外していた。そのため、女子は一人に向かって愚痴を吐き始めたのだ。
「ほんと棗さんって協調性ないっていうか……今日も黒板、ちゃんと消してないし」
「どうせまた猫と遊んでるんじゃない?」
「調子に乗ってるんだよ。男子に人気あるからってさ」
 どこかの席から、くすくすと笑い声が洩れる。それで、その子も少しは溜飲が下がったのか、表情を軽くして、その別の女子たちと品評会に入った。
 真人は、そんな女流社会の陰湿な決まり事に付き合う気にはなれず、呆れた心持ちで、隣の席に目をやった。 
 直枝理樹の席、空白――。
 本来ならここで鈴を探しに行くのは、理樹の役目となっているはずだ。
 しかし今はここには不在。どこかに行って、自分の知らないなにかをしている。
 自分は、日常を守るのが仕事だ。変わらないものが、自分から動き出してはいけない。
 けれど、そうは思っても、今のままではすこし鈴が可哀想だ。
 真人は、重い腰を上げて、鈴のことを探しに行ってやった。

 
 ◆ 


 鈴はすぐに見つかった。渡り廊下のところだ。
 世界がリセットされて間もないときは、ここの人物は大抵似たような行動を取る。
 この日のこの時間、鈴がいなくてはならないのは、この渡り廊下の付近なのだ。
「お〜い、鈴」
「ふぎゃ!」
 真人が鈴の名前を呼ぶと、鈴は髪を逆立てて、立ち上がった。
 真人だとわかるとすぐに髪を振り乱して、「ばかだ、逃げろ!」と猫たちを追い払おうとする。しかし猫たちは鈴と遊んでもらっていると勘違いしたらしく、喜んでご主人様の服に飛びつき始めた。
 睨んでいる鈴の、四肢は猫だらけになっている。まるで、猫襦袢のようだ。
「へっ。新しい筋トレでも開発したのかい?」
「うっさいわ! だまって見てないで助けろ!」
「へいへい」
 服に引っ付いていた猫を剥がしてやる。すると猫たちは、もう興味の対象を変えたのか、喜んで地を這う虫を追っかけていた。
 鈴は、真人のことを睨んで口を開く。
「なんの用じゃ、ばか」
「あ? おまえを呼びに来てやったんだよ。ほかの女子たちが文句言ってたぜ。棗さんったら、また黒板消してないのね! って」
「ふん」
 鈴は、なんだ、そんなことか、と不満げに鼻を鳴らして、自分でも一匹一匹猫を剥がしていく。
 真人はきょろきょろとあたりを見回した。
「つーか、おまえはこんなところでいったいなにやってんだ?」
「……」
 鈴は猫を全部剥がし終えて、地面を見つめた。
「ヒョードルとヒットラーが」
「が?」
「喧嘩してたんだ」
「ほほぉー」
 真人はしげしげと猫たちを見下ろしてみる。
 どれがヒョードルで、どれがヒットラーなのかわからない。ただ、白い猫がレノンだということぐらいしか知らない。
「で、そのバトルはどっちが勝ったんだ?」
 うきうきして聞くと、鈴はうざったそうに目を細めた。
「ばーか。おまえらみたいなあほじゃないし、すぐに止めた」
 真人は、んだよ、と笑った。
「男たちの熱きバトルを邪魔するたぁ、つれねぇ女だな、鈴」
「どっちもメスだ!」
「え、なんだって? するってーと、そりゃ女同士のバトルってわけか。なんか恐ろしいな……インモータルなバトルなのか」
「意味わからんわ!」
 真人はただ、陰湿とインモータルを間違えただけである。原型を留めてないのはご愛敬。
「ふんっ」
 鈴はぷかっ、と鼻を鳴らして、真人から少し離れたところにしゃがみ込んだ。
 三毛猫と黒猫の二匹の頭を探して、ごつんと軽く叩く。
「めっ! だ。喧嘩はよくないんだ。ちゃんとみんな仲良くしなきゃだめだ」
「誰かさんも、クラスの女子と仲良くしねーと、めっ! だぜ」
「うっさいわ! まねすんな!」
 鈴は立ち上がって、ふしゃーっ、と唸る
 鈴の口調は剣呑だが、纏う雰囲気はいつも通りだ。真人はにやにやと笑っている。
「だいたい、あたしは女子と喧嘩なんかしてない。みんなとっても仲良しだ。ツーカーの顔パスだ」
「嘘つけよ」
「ほんとうだ! 嘘じゃない!」
「じゃあ、おまえは誰と仲良しだってんだよ。言ってみろよ」
「う……」
 答えに詰まってしまう。
 だいたい、このときの鈴が、誰ともまだ仲良くなってないのは知っている。これから、少しずつ仲良くなっていくんだから。
「う、後ろの人」
「おまえ……名前知らねーだろ。そんなこと言ってる時点で」
「知ってるとも!」
「じゃあ、誰なんだよ?」
「う……」
 困り切った顔をこちらに向けてくる。当人は、こんなのでも真人に隠し通せていると思っているらしい。
 だが、言い訳と、わがままさにおいては他の類を見ないリトルバスターズのお姫様だ。信頼性はもともとゼロだ。
「う、うしぞの……さん」
「牛園? どっかのステーキ屋みてぇな名前だな……」
 西園さんはなんと牛にされていた。
「う、うっさいわぼけ! じゃあ、おまえは自分の後ろの人を知っているというんだな!? ふん……ばかに、そんなことがわかるはずがない」
「いや、そんな決めつけられても!? 見てろよ、くそ……えーっと、後ろの人だろ? えー……と? あれ? 誰だっけ?」
 記憶の穴が、ぽっかりと空いてしまう。
 するととたんに、鈴にしゅばっ、と面白そうな指を向けられる。
「ほーら見ろ! おまえだって知らないんじゃないか! ばかだ!」
「いや……だから、おまえも、知らねぇんだろ?」
「……」
 鈴はそのまま固まり、数秒口をもごもごとさせた後、腕を組んで、真面目そうな目つきで真人のことを見つめた。
「まあ、そんなのはどうでもいいことだ」
「……ど、どうでもいいことにされた」
「うっさい。そもそもおまえは、なんでここに来たんじゃ」
「あん?」
 真人は目を丸くする。
「だから、そりゃおまえのことを呼びに……って、ありゃ?」
 そういえば――、と真人は思い当たる。
 どうして自分は、鈴のことを呼びに来ようと思ったのだろう。とくに理由はなかったはずだ。
 いや、あるにはあったはずだが、それがいったいなんだったのか、今では忘れてしまった――。
「ふん。しょせん、ひまじんのすいきょーにすぎないということか」
「おまえ、自分の言葉が相手に対して失礼だと思ったことはねーのか……」
「うっさいわ。べつに頼んでない」
「ったく、じゃあもうなんにも知らねぇぞ」
 真人はなんだかあほらしくなって、鈴に悪態をつくと、その顔に背中を向けた。
 しばらく歩くと、後ろから「しね、ばーか」という罵倒が返ってくる。
 ずっと無視して歩いていたが、やっぱり頭に来たので振り返ってみると、鈴は、
「――、」
 やっぱり、猫たちとだけ遊んでいた。
 太陽の光を背後に受けて、面に影が差しているその横顔は、ここからではそれが楽しげなのか寂しげなのか、判別がつかない。
 ただ、容易に近づきがたい雰囲気だけがそこにあった。
 真人は、すこしの間、その姿に見とれていた。
 そして、長く息を吸い込んで、腹に力を入れ、遠い距離を声に渡らせた。
「お――いっ!」
 鈴が驚いてこっちに振り返る。
「教室で待ってっからなー! はやく戻って来いよー!」
 鈴はなにか真人に叫び返したような気もしたが、最後の「ぼけぇ〜〜〜!」という間延びした声しか、真人には聞こえなかった。


 ◆


 それから放課後。
 HRが終わると同時に、逃げだそうとした鈴の肩を真人はつかむ。
「はなせ、きしょいっ!」
「取りあえず、鈴確保、と」
「いやだっ、はなせぼけー!」鈴は暴れて髪を振り乱す。
「それじゃ、参りましょうか」
 苦笑している理樹とともに、真人は鈴を連れて、恭介のクラスへと向かった。

「バンドを組もう」
「は?」
 会ったとたん、恭介の発した言葉はそれだった。
「バンド名は、リトルバスターズだ」
 どたっ、真人と理樹はずっこける。
 いつもながら思うことだが、この恭介の言葉には本当に脈絡がない。脈絡がなさすぎて引く。
「ちょっと待てぇ! 野球チームじゃなかったのかよ!?」
「え?」
 恭介は、きょとん、と一瞬硬直して、それからすぐ思い出したように幼い笑顔を浮かべる。
「ああ、悪い悪い。そうだ、野球だ。野球チームだ。さっきまで読んでいた漫画がバンドものだったから、すっかり影響されちまったぜ」
「ほんとはどーでもいいんだろ、おまえ」
「そんなことはねぇさ。ちゃんと野球をやる。だろ、理樹?」
「ぼくにそんな反応を求められても困るけど……そうだね」
「よし」
 恭介は、再び子供っぽく笑って、理樹の両肩を叩くと、くるりと真人たちに背中を向けた。
「いくぞ、おまえら?」
 どこに? と聞き返す間もなく、恭介はすたすたと廊下を歩いていく。
 ちゃんと行き先はわかっている。グラウンドにある野球部の部室だ。
 廃部寸前となってしまった野球部の部室。自分たちはそこを横取りする。
 すべての始まりとなった場所。今はまだ、なにものにも使われてない、ただの埃がかぶった汚い部屋。
 そこに真人たちが到着してまずすることは、当然、そこの掃除と決まっている。
「ありゃ、鈴のやつはどこいった?」
 気がつくと、いつの間にか鈴は消えていた。
 理樹が、疲れたように笑って答えた。
「ぼくにモップと雑巾を渡して逃げてったけど」
「なんだとー!」
 真人が仰天する。理樹は、その両手にモップと雑巾を持って、疲れた目を屋外のほうに向けていた。
「おまえ、なんで止めねーんだよ! 三人で野球ができるかよ!」
「いや、四人でも野球はできないけどさ……」
「ふん。おいおまえら」
 恭介が、なんでもわかっているというような声で二人に呼びかけた。
「おれを見くびるな」
「おっ、なんだよ恭介。やっぱちゃんと考えてくれてんのかよ」
「三人でやる」
「えー」
 やっぱり答えは同じだった。
 真人たちは心沈む中、たった三人で部室の掃除をさせられたのだった。


 ◆


 なぜか延々と続けられるノックを途中で放り投げて、真人は一人、寮に帰る。
 それが自分の役割だからだ。ここでは野球チーム作りには不賛成なのだ。
 その途中で、ふと、鈴のことを見つけた。
 やっぱり鈴は一人でいた。いつもと同じ場所だ。
 たった一人で鈴は、猫たちと遊んでいた。
 ずっと変わることのない、五月十四日の夕方の景色。
 変わることのない日々を守っていくのが自分の役目だ。
 しかし、実際にこうして変わらない日常を目にしてしまうと、真人はすぐに手持ちぶさたになってしまう。
 いや、こんなこと考えちゃいけねぇぜ、と真人は頬をはたくが、しかし、またすぐに同じことを考えてしまう。
 あそこにいる鈴は、校舎の影で、やはり顔色がよく見えなかった。
 真人は、心中で、なにか動き出してくれるものを待ち望んでいる。
 それを自分で気づきながらも、それを特定し、処理しきるだけの目と能力を真人は持っておらず、煮え切らない感じを自分に対して抱いていた。
 もやもやと煙のような苦しみを感じながら、真人は鈴に背を向けて、寮への道を歩き出した。
 その夜は、いつもの通り、恭介の名言回収に付き合ってやった。


 ◆


「鈴確保……って、いねぇー!?」
 翌日の放課後。昨日のように鈴を確保しようとしたところ、鈴の席はとっくにもぬけのからになっていた。
 だんだん仰天した振りをするのも面倒くさくなってきた、と真人が心の中で考えていると、隣の理樹は、
「案外、先に行ってるんじゃないのかな?」
「え?」
 意外に、こんな反応をしていた。
「お、おう。そうかもな」
 理樹はどうやら、鈴を探しには行かないらしい。ここで直接反対するのは不自然なため、真人はにっと笑い、理樹にうなずいた。
「よし。そんなら行こうぜ」
「うん」
 本当は鈴、そこにはいねぇんだけどなぁ……と心の中で思いながら、真人は、理樹と一緒に階段を降りていく。
 やがて下駄箱に到着し、靴に履き替えているときに、やっぱり真人は鈴のことが気になって気になってしょうがなく、とっさにある妙案を頭に思い浮かべた。
「あっ!」
「え?」
 わざとらしく大声をあげてみる。理樹は、靴を履き終わり、とんとんとつま先で床を叩きながらこっちを見た。
「どうしたの? 真人」
「悪ぃ理樹、教室に忘れもんしちまったぜ! オレのことはいいから、理樹は一人で部室に行っといてくれよ! あとで行くからよ!」
「え……そっちは外だけど? 真人」
 ぎくり、と真人は足を止める。
「う、うるせぇ、コンビニに忘れもんしたんだよ!」
「え? コンビニ?」
 理樹の目が不審げに細められる。真人の心臓はどんどん速くなっていく。まずいまずい……。
「コンビニに……いったいなにを忘れたの?」
 完璧に怪しんでいる。やべぇ、と真人はとっさに思い、すぐに理樹のことを誤魔化せるボケを考えついた。
「ああ。あの過去の日の……ちょっとした痛い思い出ってやつかな」
「どんな思い出、それ!?」
「そういうわけだからよ、理樹、ちょっくら外に出てくるぜ。速攻で戻ってくるから、あんま心配すんなよ。オレが戻ってくるまで、恭介と二人でキャッチボールでもしててくれ」
「えー」
 どうだ、いけるか、と頭の奥で念じながら、真人はやや引きつった笑みを浮かべてみせた。
 理樹は、いまだ疑いが晴れないのか、訝しげな視線を崩さず、じっと真人のことを見つめていた。
「もう。練習にはちゃんと来てよ……? 昨日みたいなのはもういやだからね」
 理樹は、別のところを疑っていたのだった。真人は心の中でほっとした。
「ああ、わかったよ。ったく、理樹は心配性だな。それじゃ、心臓の筋肉までしおれちまうぜ? へっ!」
 それってぼく死んじゃうってことだよね!? と後ろからつっこみが返ってくるが、真人はそれを無視して駆け出した。
 やがて遠くから、「コンビニならローソンがお勧めだよ〜!」という声が聞こえてきたが、それはもう真人もどう返せばいいのかわからないものだった。


 ◆


 鈴はやっぱり、いつもと同じところに座っていた。
 真人が近づいていくと、鈴はまた髪の毛を逆立て、猫たちをあたりに散らそうとする、だがその後、またこんもりとした猫襦袢を着るはめになるのは、もうお決まりのことだった。
「取ってくれなんて……言ってない」
 礼なんてすると思うなよ、とでも言わんかのようなツンデレっぷりに、素直に付き合ってやれる真人ではない。
「え、そうなのか? じゃあ、ほらよ」
「うにゃー!? あほー!」
 持っていた猫たちを頭の上に乗せてやると、鈴はついに重さに耐えられなくなったのか、ぼろぼろと地面に崩れだした。
「さっさと取れ、あほっ!」
 にゃー、にゃー、と元気よく這いずり回っている猫たちの下で、鈴が叫ぶ。
「えー」
 真人は、なんだか納得いかない気がしつつも、素直に鈴のことを救出してやった。
「ふん……」
 起き上がりながら、ぱん、ぱん、と制服の汚れを払う鈴。今のシーンに関することはスルーするようだ。少なくとも、礼を言う気はないだろう。
「なにしに来た、ばかが」
「なんつーか……おまえってほんと助けてもらった相手に対して失礼だよな」
「うっさいわ! じゃあなんか礼を言えばいいのか!? ありがとう! さんきゅー! ほら、これを礼にやる!」
「え?」
 真人は、鈴から猫用のお菓子を受け取った。
「おう、ありがとな」
 そして普通にそれを食っていた。
「ほんときしょいなこいつは……」
「ところで、おまえはいってぇこんなとこでなにしてんだよ? 野球は一緒にやんねぇのか?」
「ふん」
 鈴の目は、おまえだって昨日野球は反対してたじゃないか、といったものだった。
「あたしはそんなことしてる場合じゃない。見ろ、これ」
 鈴は、ごそごそとポケットの中から丸まった紙を取り出し、真人に開いて見せた。
「ん? なんだぁ、こりゃ?」
「それ、レノンの尻尾に巻き付けられてた。こっちにもある」
「お、お?」
 鈴から手渡された二枚の紙には、それぞれボールペンの太い字で、『この世界には秘密がある。それを解き明かしたければ、すべての課題をクリアせよ』『校内のイモムシ問題を解決せよ』と書かれてあった。
 それを読んだ真人は、すぐにこれが恭介のミッションなのだと気が付いた。
 というか、筆跡がもうそのまま恭介だ。何度も課題を出してるうちに、だんだん誤魔化すのが面倒くさくなってきたんだろう。
 一応、知らないつもりですっとぼけておく。
「これが、いったいなんだってんだよ?」
「ふん、馬鹿にもわかるように説明してやるか」
「……」
 こんなもん、馬鹿だろうがなんだろうが、見せられただけでわかるかよ、とつっこみ返したかったが、真人は口の中に隠した。
「うほん……あたしは、そのミッションに挑戦してみることにした」
 とくにたいした説明にもなってなかった。
「ちょっと待ってくれよ。世界の秘密だとか……わけがわからねーぞ。頭がおかしいやつからの不幸の手紙とかなんじゃねーのか?」
「ふん、まあ頭が不幸なやつからはそう見えるだろう」
「うるっせぇーよ!」
 激昂する真人をよそに、鈴は涼しげな顔でレノンのことを指差した。
「こいつの尻尾に、わざわざそれが巻き付けられていたんだ。そのことが意味するところは、ひとつだ」
「なんだよ」
 鈴は学者チックに腕を組んで、勿体ぶったように言った。
「そいつは、猫がとっても好きだってことだ」
「……」
「猫好きなやつに悪いやつはいない。だから信用できる」
「おまえの頭が、ハッピーすぎるんじゃねぇかよ……」
「うっさいぼけ。おまえよりはましじゃ」
 べーっ、と小さく舌を出す。それから真人から紙を引ったくった。
 横顔を向け、静かな口調で続きを話しだす。
「ただ、あたしは知りたいんだ」
「あ?」
 その鈴の瞳に、今までよりも強く、もっとも深い火の光が灯る。
「この人の伝えたいこと、知りたいんだ」
「……」
 真人は、口を閉ざしてしまった。
 脳裏に、みんなの表情が思い浮かんでくる。
 恭介、謙吾、自分、小毬、葉留佳、来ヶ谷、美魚、クド――。
 みんなが伝えたいこと、それを鈴は知りたいという。
 そんなもの、数多くありすぎて、とても一つの言葉にすることができない。
 もっとも真人は頭が悪いから、なんにも上手な言葉は言えない。
 でも――できることがただ一つある。
「へぇ」
 知らない振りをして、感心することだ。
「おまえにしちゃ、いつになくやる気だな」
「ん」
 鈴は、恥ずかしそうにして、じれったそうな眼差しを真人に向けた。
 だけれど――、
「まあ、せいぜい頑張れよ」
 手伝うことは、約束できない。
 手伝うことのできるのは、理樹だけだからだ。
「なにか困ったことがあったら、いつでも筋肉さんに言ってこいよ。簡単な仕事だったら、引き受けてやるぜ」
「……」
 鈴は、なにか言いたそうにしていたが、結局口は動かさず、ちりん、とゆっくり鈴を一度鳴らすだけだった。
「よっしゃ。部室行くか」
 肩を叩いてやると、「ふん」とまた鼻を鳴らして、そっぽを向く鈴だった。
 

 ◆


 からんからんっ、とグラウンドの地面に爪切りがこぼれ落ちる。
 それから続けて、どすん、と地に両手をつく真人。
 ギャラリーの歓声が強くなる。
「勝者、鈴!」
「ちっくしょー!」
 初のバトルランキング戦で負けたのだ――。
 いつもながらに思うことだが、ここで鈴に勝つにはどうしたらいいんだろうか。すべて負ける。ことごとく負ける。なにか運命的な力が働いているとしか思えない――。
「では鈴様、あの敗北者めに称号を」
「クズ」
「うおおぉぉぉ――!? そんな称号いやだぁ――――っ!」
「うっさい、クズ!」
 げしげし、と蹴りが加えられる。それによってさらに盛り上がる観衆たち。真人は泣き出したい気分だった。
 夕食中も、仲間たちにそのことでからかわれていた。
「悪ぃ、クズ。醤油取ってくれ」
「……ほらよ」
 恭介が醤油差しを指差して言う。真人はすぐにそれを渡してやる。
「ありがとな、クズ」
「……」
「まさ……いや、クズは、マヨネーズはかけないのか?」
「もらうよ」
 真人は、謙吾からボトルをもらった。それを揚げ物の上にどばどばとかけていくと、正面にいた理樹はびっくりしたような顔つきになった。
「えっ、そんなにかけるの!?」
「わりぃかよ……」
「なあ、クズ」
「んだよ」
「呼んだだけ。……ぷっ」
「……」
 鈴がぷっ、と噴き出しそうになっている。それを見た真人の中で、なにかがぷっつりと切れた。
「うぉぉぉ――――っ!? こんな屈辱に耐えられるかぁ――――!?」
「うっさい、ぼけ!」
「あ? いまおまえ、『ボケ』って言ったよな!? そんな呼び方許可してねぇーよっ!」
「うっさい黙れ、クズ!」
「うぁぁぁ――――!? そっちのほうが傷つくことを思い出したぁ――――っ!?」
「静かに食べようよ。二人とも」
 理樹のつっこみが聞こえてくる。鈴は慌てて手を横に振った。
「ちがう! あたしはこのクズに注意してただけだ! このうっさいクズがな!」
「二回言うんじゃねーよ! くっそ、クズクズってよう……おまえも理樹にうるせぇって思われてんじゃねーかよ! ばーか、ざまあみろ!」
「とりあえず真人が一番うるさいからね……」
「理樹。ちゃんとルールを守れ」
「あ、そうだ……うん。とりあえずクズは、一番うるさいからね」
「うぁぁぁ――!? きちんと言い直されたぁ――――っ!?」
「うっさい、クズ!」
 鈴の蹴りがまた真人に飛ぶ。
 それからまたいつものような喧嘩が始まり、理樹や謙吾が心の中で願っているような静かな食事には、また今日の夜も与れないのであった。


 ◆

 
 翌朝。早いころ。晴れ。
 流れている空気の冷たさと、こぼれ落ちる陽射しが重なるころ。真人は、今朝の葉留佳のいたずらによってびしょ濡れにされた謙吾の、胴衣の洗濯に付き合わされていた。
「あ、あやつめぇ……今度こそ、すべてかわしきれたと思ったのに、まだ最後の奥の手が残っていたとは……」
 熱心に手を動かしている謙吾の、顔面は蒼白になっている。
「あいつって、なんかおまえ専用にトラップ作ってるみたいだよな」
「そんな馬鹿な事実があってたまるか! まさか、前の世界の記憶を引き継いでいるわけじゃあるまいし……くそっ。どうしてトラップの質がどんどん上がっていくんだ? あ、ここだ! こここすって落とせ!」
「んだよ、面倒くせぇな」
 真人が呆れた溜息をついて、たわしに力を入れる。
 毎度のことになっているが、謙吾はここで必ず葉留佳のトラップに引っかかる。
 べつに、わざとやってるわけでもないのに、この事実だけは絶対に変わらない。
 葉留佳のほうでもだんだん腕前を上げているようだ。彼女も少しずつ成長しているのかもしれない。だめな方向で。
 真人は、冷たい水をぱしゃぱしゃと弾きながら、そんなことをうっすらと考えていた。そうしているうちに、本当に面倒くさくなってきた。
「いっそ、このまま胴衣をオレの筋肉で引きちぎり、謙吾にはふんどし一丁で登校してもらうという手もあるが、どうだ?」
「いっそもなにも、おれが変態になるじゃないか! 喧嘩売っているのか貴様! もしおれの魂の胴衣になんかしたら、ただじゃ済まさんぞ!」
「ちっ……なんだよ、つれねぇな。じゃあ……いつもあれ、やっとくか!」
「へ? ……う、うわ、わぁぁぁぁ――――っ!?」
 ざば――――ん、と謙吾の体が一瞬で真っ白になる。
 洗剤を頭からぶっかけたのだ。口をぱくぱくと動かしている謙吾。一陣の風が吹いて、白い粉が一気に宙に巻き上がった。
「な、な、なにするだ貴様ぁぁぁ――――!?」
「おっと、やるかい?」
 立ち上がって、ファイティングポーズを取る真人。対する謙吾は、どこからともなく一本の竹刀を取り出して、ぷるぷる震えながらもそれを正眼に構えた。
 これから軽く一戦――と思われたところで、ちょうどよく遠くのほうから始業のチャイムが聞こえてきた。
「あらー」
「くっ!」
 真人が呆然としている一方で、謙吾は急いで柱時計で時刻を確認。当然……朝のHRが始まるころだった。
「こうしちゃいられん! 真人、この勝負は一時お預けだ! 急いで教室に戻らねば!」
 そう言うなり一気にジャージを脱ぎ捨てる謙吾。それを持って、真人にびしっと突きつける。 
「これはおまえが洗濯しておけ! おまえが汚してしまったのだからな――って、おい!?」
 真人はそのころ、颯爽と逃げ出していた。
 振り返りざまに、遠くにいる謙吾に手を振る。
「あとはおまえに任せるぜー! わりーなー!」
「って、ごらぁぁぁ――――っ!」
 真っ白な顔に、ふんどし一丁という出で立ちで追っかけてくる変態がいた。自分が捕まるのが先か、それともあいつが警察に捕まるのが先か――などと考えながら、真人は校舎の角を曲がりきる。
 そこからしばらく走ると、もう謙吾の足音は聞こえなくなった。

 
 ◆


 その日の休み時間。
 真人が一人でぼうっと教室の喧噪を眺めていると、また一人で席についていた鈴が、おもむろに立ち上がって、すたすたとこっちに向かって歩いてくる。
「あ? なんだ鈴。オレになにか用か?」
「ん」
 鈴はとくになんとも答えず、真人の机の前にまで歩いてきて、すとんと机の表面に両手を置いた。
「あたしにちえを貸してくれ、真人」
「は?」
 ぴきり、と周囲の空気が凍る。
 あの仲の悪い二人が――というよりも、そもそもあの中間テストで五教科四十点を記録した真人にその質問は究極的に間違っているのでは――という突っこみは、この近くで会話している者たち共通のものだった。
 そしてそれは、真人当人にとっても例外ではない。
「あのよ、それ……オレに言うの、間違ってんじゃね?」
「なんだ、自覚あるのか」
「うっせぇ――よ!」
 周囲から、おおー、と拍手が送られる。真人が鋭い一瞥をくれてやると、みんな知らない振りをしてそっぽを向いた。
 真人は、心の中でさめざめと涙を流す。
「なんだこれは……また遠回しにオレは馬鹿にされているのか? これが、現代の陰湿な(理樹に教わって直した)いじめってやつなのか!? そうなのか、あぁん!?」
「そうとも言うな」
「肯定された――!?」
 鈴はふるふる、と首を横に振る。
「ちがう。あたしが言いたいのはそういうことじゃない。まあ、おまえの言うことも間違いじゃないが……もう、めんどくさいなっ! とりあえずあたしの話をよく聞け!」
 ぽかん、と頭を打たれる。真人は、なんだ、いつもより痛くねぇな……となんとなく思いながら、やや前のめりになって、肘を机にくっつけながら腕を組んだ。
「んだよ。今オレのマイハートは、ちっとセンセーショナルなんだからよ、言葉はなるべくサランラップに包んでくれよ……」
「なんだおまえ? 色々間違ってるな。大丈夫か?」
「……」
 周囲の人間から、こそこそと、「オレのマイハート」ってちょっとあり得なくない……? センセーショナルじゃなくて、それを言うならセンチメンタルでしょ……ううん、きっと、井ノ原君的にも意味があることなんだよ、察してあげようよ……と内緒話が聞こえてくる。
「意味なんてねぇ――よ! ごめんなさいでしたぁ――っ!」
「やっぱばかだな、おまえ」
「んだとてめぇ、触りまくってばかうつすぞ!」
 ずどんっ――とハイキック一閃、鈴のつま先が、真人の右顔にめり込む。
 今度は容赦ない攻撃だった――。
「おまえ……やっぱり人に物頼むときの態度ができてねーだろ……」
「変なこと言うからだ。せっかく練習してきたのに」
「え、練習? してきたのか? おまえが?」
「うん」
 首をごきごきと元の角度に直しながら、真人は心の中で感動した。
 まさか、あの鈴が、なんと人に物を頼むときの態度を練習してきたと……これは、大いなる進歩かもしれない。
 思わず、真人は叫んでしまいたくなる。実際にそう言われる立場じゃなかったとしても、真人はきっと鈴のことを褒めちぎっただろう。胴上げしたかもしれない。不審に思われるので、やらないが……。
「ん? ん……?」
「どうした」
 見ると、鈴が腕を組んでうんうんと唸っていた。なにやらなにかを思い出そうとしているようだ。
「なんだっけ……あたし、おまえになにを言おうとしたんだ……?」
「いや、それはオレが聞きたいが」
「うーみゅ」
 鈴は難しい顔をしたまま、また左右へころんころんと首をひねると、やがて精も根も尽き果てたのか、はあと溜息を吐いて、
「わすれた」
「おい!」
 至極簡単にそう言ってのけるのだった。そして真人にくるりと背を向けて、すたすたと元の席に戻っていく。
「また来る」
「……」
 鈴が去っていくと、しぃん――と周囲に微妙な空気が流れる。
 つっこもうとする者はいない。真人がどうすればいいのかわからず固まっていると、やがて、みんなも興味を失ったのか、今までの無駄話を再開し始めた。
 すると今度は、鈴はがたっと席から立ち上がって、急いでこっちに駆け寄ってきた。
「そうだ! 真人!」
「どうした?」
「おまえが余計なことを言うから、忘れたんだ!」
「それをわざわざ言いに来たのかよ!?」
「ちがう、ばか!」
 ぴしゃり、と真人のおでこを引っぱたくと、鈴は、またなんだなんだと視線を向けてくるクラスメートたちを困惑げに見て、がしっと真人の腕をつかんだ。
「いいからこい! ここじゃなんかあれだ!」
「は? お、おい!?」
 問答無用で引っ張られる。真人は教室を飛び出し、廊下を走り、階段を二段飛ばしで降りていく。
「な、なんなんだよ!? おいこらっ――危ねぇだろ!?」
 よろよろとよろめきながら、真人は前方の鈴に怒鳴りかける。
 女の子のすべすべした手を、鈴は真人のざらざらした手に重ね合わせ、ぎゅっと握り、後ろを見ないまま答えた。
「いもむしだ!」
「イモムシ?」
「そうだっ!」
 その言葉の意味を理解する間もなく、真人はそのまま玄関口を通り抜けて、校門近くの葉桜の前にまで連れてこられる。
 そこには、一人の用務員さんが待っていた。
「連れてきた!」
「なんなんだ!? いってぇ……って、うぉぉ!?」
 その葉桜の上を見上げて、真人は愕然とした。
 そこには、もううじゃうじゃ、いるわいるわ、イモムシの大軍。イモムシ天空大帝国が、そこに築かれてしまっていた。
「いや、悪いねぇ、二人とも。私の手ではどうにもできなくってね。助かったよ」
「あたしだって、どうしたらいいかのわからない。だから、助っ人を連れてきた」
「助っ人?」
「ふむ……それはいいけれど、君はこの子にちゃんと事情を話したのかい?」
「うん」
 鈴はそう言ってうなずくが、真人のほうをちらりと見ると、不思議そうに目を丸くした。
「ん? なんでおまえは、そんな変な顔であたしのことを見てるんだ?」
「いや……そんな説明とか全然聞かされてねぇなぁって思ってよ」
「なにぃ! さっきあたしが全部話したじゃないか! おまえは耳が遠くなったおじいさんか!!」
「うっせぇーよ! たった一語だけだろうが! それでどうやってこの状況を想定しろっつーんだ!」
「なんだと〜……」
「まあまあ、君たち」
 穏やかな顔をした用務員さんに止められる。絶えずニコニコとしていて、気持ちのよさそうな人だった。
「喧嘩しちゃだめだ。事情だったら、私のほうからもう一度話すから」
 用務員さんは、二人の顔を見ると、順を追って丁寧に事情を説明した。
 最近、この葉桜の上に大量のいもむしが住み着くようになったらしい。以前から女子生徒たちによる人気スポットだったのに、今じゃ気持ち悪がって誰も寄りつかなくなってしまった。
 どうしようと考えていた用務委さんのもとに、この前ついに苦情の手紙が来たとのことだった。
「苦情の手紙だ?」
「まあ、ようするに一刻も早く駆除してくれ、ってことですな」
「ひどいと思わないか。おじさんが悪いわけじゃないのに、だ」
「まあ、そりゃ思うけどよ」
 そう言葉に出しながら、真人は、内心困ったことになっちまったな、と思っていた。
 ここで鈴のことをサポートするのは理樹の役目だ。真人はただ、途中で参上して、適当にその仕事に付き合い、適当に去っていくだけの役割。ここで深く関わってしまうと、あとで絶対に面白くないことが起こる。
 そういうのはなるべく避けたい、と思っていた。
 けど、ここでなにか不満を言うのも鈴に可哀想だし、第一自分の性に合ってない。ここは、そんな細かいことは無視して気前よく鈴を手伝ってやるべきだと考えた。
「そもそも、おまえはいったいどうしたいんだよ? やっぱこいつらを殺したくねぇって思うのか?」
「当然だ」
 鈴は真人の目を見て、その女子生徒たちに怒りを向けるように言った。
「できたら、こいつらを全員裏山に逃がしてあげたいと思う。でも……」
「だったら簡単じゃねぇか」
「え?」
 鈴がびっくりしているのをよそに、真人は葉桜から数メートル距離を取り、ぐっ、ぐっ、と土を深く踏んで、クラウチングスタートのポーズを取る。
 呼吸を整え、それから数秒後、だっと駆け出した。
 短い距離の間でぐんぐんスピードを上げ、真人はそのまま木の幹にショルダータックルをかます。
 天から雨あられのように降ってくるイモムシたち。当然、鈴の髪にもうじゃうじゃかかる。
「ぎゃ! な、なにすんじゃぼけぇ――っ!」
 ずびし、ずびし、とハイキックを食らわされる。
「うっ、うっ! すみません! 次からはちゃんと確認します!」
「次なんてあるかぁ――っ!」
 真人たちがぎゃーぎゃー騒いでいるのをよそに、用務員さんは走って軍手と虫取り籠を取りに行ってくれた。


 ◆


 イモムシたちを捕まえる作業は、休み時間をまたいで行われた。
 真人は、ときどき木の幹を蹴っ飛ばし、まだ上に残っているイモムシたちを落っことすと、それを順々に拾っていった。やがて、もう何度蹴っても落ちてこなくなったとき、もうすべて取り終えたのだと知った。
 真人と鈴は、次の休み時間に裏山へとかれらを放しに行った。
「ばいばい」
 鈴は、去っていくイモムシたちに一人手を振っていた。
 そうしてまた元の場所に戻ってくると、葉桜の下にはもう女子生徒たちが集まってきていた。
「まったく現金なやつらだ」
 鈴が呆れたような声で言う。用務員さんは苦笑していた。
「あら?」
 その中から、一人の女子が鈴の姿に気づき、こちらへと歩いてくる。
「棗さんじゃありませんこと?」
「おまえは――、ささせがわささみ!」
 言うなり、しゅばっ、と臨戦態勢を取る鈴。
 一方の佐々美は、お気に入りの場所が戻ってきてご機嫌モードなのか、ほほほ、と余裕たっぷりに笑った。
「あなたと喧嘩するつもりはございませんわ。それに、話を聞いてみた限り、ここのイモムシたちを追っ払ったのは、棗さんなんでしょう?」
「む」
 言い方は良くないが、べつに間違ったことはしてないので、鈴は否定しなかった。
「なにか謝礼が出るの? それとも人気とり?」
「両方ともちがう」
「そう。だったらいいのだけれど」
 佐々美は少し意地悪そうに、目を細めて笑う。
「あなた、男子にほんのちょっぴり人気あるようだから、調子にのって誰かの気を引こうとしているのかと邪推してしまいましたわ」
 聞いていた真人は、なんだか面白くない気分だった。自分が、なんだか悪い目的で鈴に協力したように思えたから。
 でも、言い返せる言葉といえばなにもなかったし、真人はべつに佐々美と喧嘩する気もまったく持ってなかった。
 とくに理由があるわけじゃない。真人は、直感で喧嘩する相手を選んでいるだけなのだ。
 ただ、ふと頭にのぼった疑問だけは、訊いてみようと思った。
「どうしておまえも一緒にやんなかったんだ? 謙吾の気が引けるかもしれねぇのによ」
「へっ!?」
 佐々美はそう言うなり、さーっと頬を赤くした。ん? と鈴が目を丸くする。
「こいつ、謙吾のことが好きなのか?」
「じゃねぇのか?」
「じゃねぇわよ! ……う、お、おほんっ」
 取り乱したのを誤魔化すみたいに咳払いして、それからもごもごと続けた。
「ち、違ってもありませんけど……」
「ふーん」
 指をつんつんさせている真っ赤な佐々美に、鈴は興味なさそうな返事を返す。するとやがて、妙なことを口走っているのに気が付いたのか、佐々美はさらに顔を赤くして、ぶんぶんと首を振った。
「で、ですが! そんな不純な理由で人助けをするなど、この笹瀬川佐々美のプライドが許しませんわ! そんな軽薄な真似をしなくとも、すぐにわたくしは宮沢様の心を射止めてみせます!」
「まあ、がんばれ」
「ええ、もう!」
 鈴の応援に、鼻息を荒くしているのにまた気がいたのか、佐々美はまたさらに顔を赤くして、ぷいっと背を向けた。
「べ、べつに! 悔しくなんか思ってないんですからね!」
 鈴がきょとん、としてしまう。佐々美は逃げ去るように走っていった。
 そうこうしている間に、だんだん葉桜の下にほかの女子たちが集まってきた。
「相変わらず、よくわからんやつだ」
「ごめんあそばせ、とか言いそうだよな」
 本気でわけわからなそうにしているのが、鈴らしくって面白かった。
 それから真人たちは、そろって帰路につく。
 その途中で、ふと真人は、気になっていたことを口に出した。
「なあ鈴」
「ん?」
 振り返ってくる。
「どうして、オレだったんだ?」
「?」
 鈴は、真人の質問が本気で理解できないように、きょとんと目を丸くした。
「なんで、理樹じゃなく、オレ相手に相談してきたんだよ?」
「ん」
 鈴はすこし考えるようにして、足を止めた。
「きっと、おまえしかいなかったからだ」
「オレしか?」
 真人は、なんだか納得がいかない気持ちだった。
 普段だったら、へー、そうなのか、そりゃ筋肉のおかげで助かったな、とでも言って済ませるところだが、この場合にまではそうはいかなかった。
 理樹は今どうしているんだろう。鈴をここに置いて、なにをしているんだろう。どうして自分が理樹の役をやらされてる? 真人は頭が痛くなってきた。
 難しいことを考えるのは苦手なのだ。
「おまえしか、あたしの課題を知っているやつがいなかっただろ」
「あ……そ、そうか」
 真人はここでようやくほんの少し理解できた。そうだ、あれがいけなかったのだ。
 あれさえやらなかったら、いまこの光景はあり得なかったのだ。
 そうだ、それをここで修正してしまえばよいのだ。
「理樹に話すのはまずいのか?」
「ん」
 鈴はここで初めて、すこし困ったような表情を浮かべた。なんなんだろう、と思ったが、真人はあえて気づかない振りをした。
「理樹には……話したくない」
「なんでだよ?」
「っ、知らんわ、ほけ!」
 なぜか鈴はそう怒鳴って、ぷいっと顔を逸らしてしまう。
 わけがわからねぇな――と一瞬思ったが、鈴がそうやって言うときは、きっと自分でもよくわかっていないときに違いなかった。真人は、幼馴染みの性格を思い出して、溜息をついた。鈴は一人で先に歩いていく。真人はその後を追う。
「恭介に話してみたら、」
「ん?」
「そういうことは、真人に聞けって言われた」
「は?」
 尋ねてもいないのに、べらべらと喋ってくれる鈴。
 真人は、すこし虚を衝かれたように立ち止まって、その恭介の言葉の意味を考えていた。
「どうしてだ、そりゃ」
「知らない。しゅーしょく活動が忙しいから、って言ってた」
「ふーん」
 真人は適当に相づちを打ってみたが、内心その恭介の言葉には驚いていた。
 どういうつもりなんだ。
 もしかして、また妙なことを企んでいやがるのか、と思ったが、真人は、あの恭介に口を出すのは止めようと思った。べつに争う理由はないんだから。
 しかしどうしたもんだろうか、この状況……と考えているうちに、真人はやがて玄関口について、上履きに履き替える。その間に、ふと廊下の先から理樹と思われる話し声が聞こえてきた。
「それじゃあね、理樹くん♪」
「うん。葉留佳さんも、ちゃんと遅刻せずに授業に出るんだよ? サボりはだめだからね」
「やはは……人が努力していいのは、自分の好きなことだけなんだぜ、嬢ちゃん、って昔の偉い人が言ってたんですヨ?」
「だれ、その昔の銭湯とかにいそうなおじさん……」
「ちぇー、理樹くんつまんなぁーい!」
 呆れた理樹のつっこみが聞こえ、真人がひょいっと下駄箱から首を出してみると、ちょうど理樹は葉留佳と別れるところだった。
「ありゃ、三枝と一緒だったのか? あいつ」
「……」
 鈴はなにも言わない。
 あ、そういえば――、と真人は思い当たる。
 さきほども理樹は、教室にはいなかった。もしかしたら葉留佳と一緒にいたのかもしれない。
 しかしこいつはいい機会だぜ、と真人は逆に思った。
「なんだったら、オレが今あいつに話してやろうか? おまえの課題のこと」
「っ!」
 鈴はびくっとして、一瞬おびえた表情を作ったが、真人はそんなものは無視して、どすどすと理樹のほうに歩いていく。
 べつに、さらっと伝えるだけだ。なにも難しいことなんてない。真人は馬鹿だから、その後の展開を予想し得ない。やってはいけないことと構わないことを直感で区別するだけだ。そして、これは後者で間違いない自分の直感が語っている。だから足を向けたのだ。
「おぉーい、理樹ぃ―!」
「あ、真人?」
 真人が手を振ると、理樹はこちらに振り向いて、びっくりしたような顔を作った。
 鈴までが一緒にいるのはめずらしいと思ったんだろう。「鈴も?」と呟いていた。
「二人ともどうしたの? もう授業始まっちゃうよ? はやく教室に行かないと」
「それなんだけどよ、ちょっとここで話したいことあるんだが、いいか、理樹?」
「え?」
 うん、となにげなく答える理樹。真人はほっと安心した。
 鈴の背中を押して、にかっと笑う。
「今、こいつが挑戦しているミッションのこと、理樹は知ってるか?」
「え、野球のメンバー勧誘のこと? それなら――」
「ちっちっち。そうじゃないぜ」
 真人は理樹の言葉を遮って、にやりと笑った。
 不思議そうな顔をしている理樹に、これまでの過程をごく簡単に説明してやる。あのときの紙も見せてやった。
 鈴は、あの課題の紙を見せるときに「ん」と言っただけで、あとはもう余計なことはなにも言わなかった。ときどき、真人の説明が足りないところを、後ろから補ってやるだけだった。
「うーん」
 話を聞きおわったあとの理樹は、この件にどう対応していいかわからない、といった態度を見せていた。
「これ、ただ相手の人を突き止めればいいの?」
「ちがう」
 鈴はきっぱりとそれを否定した。
「この人の伝えたいこと、知りたいだけだ」
「うーん……」
 理樹はまだ、鈴のやっていることを完全に理解できないようであった。
「でも、この『この世界には秘密がある』って、ちょっとこれ、人をからかってるんじゃないのかなぁ」
「ありゃ、おまえってこういうファンタジーっぽいの好きじゃなかったっけ?」
「それは恭介の分野だよ。ぼくはもう、そういうのは昔卒業したから」
 すこし心外だな、といった調子で言う。
 真人は、やっぱ恭介がオレらの中で一番子供なんだな、と妙に感心してしまった。
「それで、鈴はこの課題を全部解いてくつもりなの?」
「うん、そうだ」
「たった一人で?」
「きっと、そうだ」
 鈴は少し語尾を強くして答えた。
 理樹は、そこで初めてすこし鈴が心配になったようであった。真人はほっと安心して、言った。
「理樹、おまえがそれ手伝ってやったらどうだ?」
「え、うん……」
 と理樹は戸惑いげに、真人にうなずく。
 ちらり、と鈴のことを見やる。
 少しの間悩むようにして、それから、うん、そうだね、ともう一度首を縦に振ってくれた。
「いいよ、鈴。ぼくにいつでも相談してよ。必ず力になるから」
「おお! よかったな、鈴!」
 鈴はなにも答えずに、ぽんぽんと頭をはたいてくる真人を、妙な視線で見つめていた。
「うっさい、気安く触るな」
 髪を振り乱して、すたすたと前に歩いて行ってしまう。
 それからちらり、とこちらを振り返って、静かな口調で言った。
「授業におくれるぞ」
「あっ、そうだ! ぼくらも急がなきゃ!」
「へっ! 負けるかよっ! オレが一番だぜ!」
「いや、そんなことで目一杯張り合われても……」
 真人は走り出した。走りたかったのだ。ようやく肩の荷が下りたような気がしたから。
 これでいつもの自分が戻ってくる。真人は、そうはっきりと言葉で悟ったわけではないけれども、馬鹿には馬鹿なりの思考回路で、なんとなくそれを掴んだのだった。
 日常にいる自分は、なんとなく気持ちがいい。
 安心して、すがすがしい気持ちがする。
 終わりの日まで、ずっとこんな気持ちであれたら、と思ったが、それはただの真人の願望にすぎなかった。
 それが信念というものに昇華されるのは、これからもう少し先のことなのだから。
  

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