むくり、とベッドから起き上がる。
 そして今日何度目になったかわからない溜息を、またここでもついた。
 あれから四日が経つ。
 私の井ノ原さんへのイメージは、時間が経つことで途切れるどころか、日ごとにいっそうその膨大さを増してきていた。
 電気を消して目を閉じれば、彼の今日の姿がたくさん浮かんでくる。授業中に寝ているところとか、みんなと遊んでいるところとか、バットの素振りしているところとか……。羞恥と憧憬[しょうけい]の感情がない交ぜになり、私の胸を強く刺激する。
 こんな状態で、まともに眠れるわけがない。
 今晩なんかもうひどい。彼と二人っきりで仲睦まじく会話しているシチュエーションなどを妄想してしまった。
 なにか間違いが起こってしまう前に、潔く死んでおくべきか。
 西園死せども、直枝×棗への愛の力は死なず! か。あほらしい。
「もう……認めてしまうべきなんでしょうか……」
 答えてくれる者は誰もいない。
 私はベッドから降り、部屋のガラス窓を開けてベランダに出ると、冴え冴えとした十二月の空気にはっきりと目が覚めた。
 しばらく私はぼーっと外の宵闇[よいやみ]を眺めていたが、なんだか急に肌寒くなってきたのを感じて、慌てて部屋にカーディガンを取りに戻る。
 ゆるやかな月影は、周りの景色までもは、明るく照らしてくれなかったようだ。
 私の瞳の中にだけ、そっと……その青白い月の光が入り込んでくる。
 弱々しい光だ。
 ずっと私たちのことを眺めてきたお月様なら、良い解答を示してくれたっていいのに。
「私は……」
 ……恋をしてしまっている、のかもしれない。
 考えたこともなかった。あんな相手。
 私の理想から遠く離れているくせに、やけに現実的な歩調でもって、それは私の心の中に入り込んでくる。
 認めたくないという気持ちは、依然として変わらない。
 けれどそれが……天上のお月様に言わせれば、本当の恋というやつなのなのかもしれない。
 ただの間違いであってくれれば、すごく助かるのだけれど。
 私はただ、三枝さんから変な話を吹き込まれたせいで……悪い影響を受けてしまっているだけで。
 新しい男性の魅力に気づけたことで、一段上等な女になれたと勘違いをし、そんな自分に陶酔してしまっているだけで。
 でも――。
「あんな広い背中に……守ってもらえたら、」
 無意識に呟いていた言葉に私は呆然とし、慌てて口を塞いだ。
 ぼんやりと頭の中にイメージされかけていた光景を急いで消去し、私はぐっと息を飲んだ。
 頭が真っ白になり、胸の動悸がいっそう激しくなるのを感じる。
 頬が、熱くなってくる。
 なにやってるんだ……私は。
 理想化すべきでない、とこの前決めたばかりじゃないか。
 あの井ノ原さんが、私にそんなことをしてくれるはずがない。たとえしてくれることになったとしても、私ならば全力で拒否する。気持ちが悪い。
 ああ、けど……だめだ。
 この気持ちを否定しようとすればするほど、私は彼との関係を深く思索してしまう。
 体裁の裏に隠れた自分の願いに気づけば気づくほど、私はさらに深い思考の淵に埋もれてしまい、結局は、自分の気持ちをより強く再確認するだけに終わる。
 どうしよう。
 私は、どうするべきなのだろう。
 こんなこと……恥ずかしくて、誰にも相談できない。お月様、どうかこの悩みの答えを教えてください。
「もしかして……三枝さんなら」
 三枝さんなら……大丈夫だろうか。
 井ノ原さんは、ちょっと彼女自身の趣向とは外れているわけだけど、でも……それでも、三枝さんが彼の魅力を理解できないなんてことはあり得ない。むしろほかの人よりは理解を持って私の話を聞いてくれるはずだ。
 彼女が面白がってこの話を誰かに吹聴しないかは少し心配だが……彼女は、人が傷つくようないたずらは絶対にしない人だ。ちゃんとこちらの事情を真剣に話せば、必ず約束を守ってくれることだろう。
 こんな気持ち、絶対に認めたくないけど。
 でも……もう寝不足にも耐えられないし、一人でうんうんと悩むのもいいかげんうんざりだ。
「明日……一番に、彼女に話しましょう」
 それしかない。
 確かめなければならない。この気持ちが本当なのかどうか。
 例えば……もしそこで、この気持ちがただの勘違いなのだと判明したら、それはどんなにほっとすることだろう。
 だけど……私はそれで、本当にその真実に納得ができるのか、わからない。
 とにかく、話す時間はいっぱいある。明日は奇しくも土曜日だった。
 おやすみなさい。

 

 

 失敗、という大の二文字が、私の脳裏をよぎる。
 朝一番に私は彼女に携帯で連絡をし、「ちょっと相談に乗ってほしい」と約束を取り付けた。それまではよかった。
 三枝さんは軽やかな了解の返事をしてくれて、今すぐこっちの部屋においでよとまで言ってくれた。
 そんな彼女の屈託のない優しさが、今の私にはとても頼もしかった。
 しかし、
「三枝さん、入りますよ?」
 三枝さんの部屋にたどり着いて二三ノックをした後、私の運命は唐突に奈落の底に叩き込まれることとなる。
 がちゃ、と向こう側から扉が開き――そして、ぬうっと目の前に現われた人物を見て、私は愕然とした。
「やあ、おはよう。今日も麗しいね、美魚君」
 え。
「ふふっ……君に先ほどラブコールをもらってから、皆で今か今かと待ちわびていたんだよ。さあ、入ってくれ」
 な、なんであなたがいるんですか! とは、言えなかった。
 来ヶ谷さんは普段とは比べものにならないくらい優しい微笑みを見せて、私を部屋に招き入れようとするが、その前髪に隠れたダークブルーの瞳は獲物を狙うハイエナのように爛々と輝いていた。
 ちょ、この事態はまさか――。
「やーやーみおちーん、おはよーう!」
 満面の笑みで手を振っている三枝さんが見えた。やっぱりおまえのせいかっ!
 そしてその隣には――、
「おはよう、西園さん。あぁ……悪いけれど、入ったらドアを閉めてくれるかしら? 廊下の風が入ってきちゃうわ」
 なぜか風紀委員長さんまでいた。こたつの一角に座り込んで、ぬくぬくとババくさく暖を取っている。なんでいるんだよ、あんたまで。
 私が危うく失神しそうになったところを、「おっと」……来ヶ谷さんに支えられた。
「まぁ、君が驚いてしまうのも無理はないか。私たちリトルバスターズと風紀委員会は、表面上では対立していながらも、実は結構裏で交流などがある。今君が見ている光景は、その一環にすぎないよ」
 来ヶ谷さんがなぜか私の耳に口を近づけて、説明になってない説明をしてくれる。
 ウールのセーターを着込んだ二木さんは、緑茶を飲みながら、めんどくさそうに目を細めて来ヶ谷さんに反論した。
「別に、あなた方と親しくなりたいわけではありませんが? 万が一にも葉留佳におかしなことが起きてしまったら大変だから、見張りに来ただけです」
「ほほう、なるほど? だから君はすすんで葉留佳君の身代わりになってくれたというわけかい? なぁ美魚君……ちょっと聞いてくれないか。佳奈多君ったらな、昨日の夜自ら私のベッドの中に入ってきて……ふふふ」
「ちょ――あ、あれはっ、たまたま夜中で寝ぼけてただけよ! 断じてあなたなんかと一緒に寝たかったわけじゃないから!」
 真っ赤になって机を叩いている二木さんに、来ヶ谷さんがニヤニヤと意地悪い笑みを返す。
 私はいまだ目の前で繰り広げられる光景に理解が追いつかず、ただ呆然と入り口の付近に突っ立っていた。
 やがて、隣の来ヶ谷さんに肩を押され、よろよろとこたつの一角に座らされる。
 手早く目の前にお茶とみかんが用意され(二木さんは朝からせんべいを食べていた)、来ヶ谷さんがもう片方の席についた。
 ぎぎぎ、とゆっくり首を動かして三枝さんを見てみると、彼女はさして悪びれたふうもなく「ん?」と首を傾げていた。
「もしかして、姉御とお姉ちゃんのこと? えっとねー、みおちんから電話受けたときに、姉御もお姉ちゃんも――えっと、佳奈多も一緒にいてさ。どうせ相談受けるんならはるちんだけじゃなくて、経験豊富そうな二人にも一緒にいてもらったほうがいいかなと思って、話してみたんですヨ」
 ああ、そうですか――と私はつぶやいて、こたつの布団の中に頭を突っこんでしまいたくなった。
 二人っきりで話したい――と、私は電話で言わなかったのだ。三枝さんはすべて親切心からこの二人のことを呼んでくれた。
 いや、正確には呼んでくれたという表現は正しくない。そんなものよりは、むしろ――。
「こんな面白そうな話、私が簡単に見逃すはずがないだろう」
 ですよねー。
「幸いにも、この部屋にはこたつがあるわ」
 こたつは関係ないと思うんですけど。
「人数もちょうど四人になるわね。今日は休日だから時間の余裕もあるし、ここでまったりお茶でも飲みながら話してみれば、きっといい案も思いつくと思うの。私なんかでよければ、だけど」
 その控えめな態度が逆に断りづらかった。
 私が三枝さんに助けを求めるような視線を向けると、当然のように彼女はその意図を素敵に勘違いしてくれて、
「えへへ、よかったねーみおちん! 昨日はね、私のルームメイトがみんな家に帰っちゃったから、二人がこっちにわざわざ泊まりに来てくれたんですヨ。いやー、なんてグッドなタイミング! はるちんすげぇ!」
 なんて言って笑ってくれた。はいはい、私にとってはなんてバッドタイミング。最初から部屋にいやがったというわけか。ちきしょう。
 私は深呼吸をして、取りあえず目の前の差し出された緑茶を飲み、状況を整理してみる。
 正面には二木さん、左手には三枝さんが座り、右手には来ヶ谷さんがなぜか待ち遠しそうな視線で私のことを見つめている。
 この人には……恐らくバレているんだろう。ああ、誰かに恋をするということがこんなに不名誉なことになるなんて思ってもみなかった。
 つーか待てよ、私。別に恋なんかしていない。恋=ノー。それはただの勘違いだと証明するためにここに来たんじゃないか。ばか。
 私にとっての恋人は、本だけだ。
 永遠の文豪――夏目漱石に鴎外、武者小路、志賀直哉、国木田独歩、ツルゲーネフにヘッセ、ドストエフスキーにファージョン、アンデルセン――さらに秘蔵のBL本多数ほか一般同人誌、そしていまだ現われぬ未来の名作もすべて私の――。
「どうせ真人少年のことだろう?」
 ぶほっ、と茶を噴き出しそうになって、私はげほげほと咽せた。
 それに反応して、二木さんが「えぇ?」と素っ頓狂な声を上げたのが聞こえた。
「真人少年って……え……、あの井ノ原真人のこと? なんで西園さんが、あの馬鹿の話なんかするの」
「それは、本人に直接聞いてみた方がはやいだろうな。なあ美魚君、大丈夫か?」
「けほっ、けほけほ……っ、う……く……」
 涙目になってあたりを見回すと、心底驚いた表情でこちらを見つめている三枝さん・二木さん姉妹と目が合った。
 胸の奥の心臓が、ばくばくと音を立てて鳴っている。
 私はなぜか、みかんの皮を剥いて実の一つを口に含んだ。
「あの、まさか……みおちん……?」
「みゅっ!?」
 三枝さんが目をむいて、こちらをじっと見つめている……。
 それを見た私は、ひとたび呼吸をするのも忘れてしまい、黙って二人で見つめ合ったまま、じわじわと頬を紅潮させていった。
 お願いだから、今思っていることを声に出さないでほしい――三枝さん――!
「え……ちょ、マジっすか……?」
「……う」
 三枝さんは、だんだんと、よもや信じられないといった表情から、中年オヤジのようなニヤケ顔へと変わっていく。
 恥ずかしさに耐えられなくなった私は、「はぐー!」という地球外の言語を叫んで、こたつの布団の奥へと頭を突っこんでしまった。
 ぷっ、と噴き出したような声が上から洩れる。
 知られてしまった、知られてしまった――。
 もう、まともに生きていけない――!
「はっはっはっは。やっぱり可愛いなぁ、西薗女史は。普段からちょっぴりませている分、それが落ち込んだときの差分がひどく萌えるのだよ」
「ねぇ……ちょっと来ヶ谷さん、これって、いったいどういうことなの?」
「なあに。ちょっとした思春期の病というやつさ。君らにも多少経験があるだろ?」
「はあ? 思春期の病ってなにそれ……へっ!?」
 こたつの外で交わされる、好き勝手な話し合いが聞こえてくる。
 私は全力で目をつぶって両耳を押さえ、身を焼き焦がされるような猛烈な羞恥に必死に耐え続けていた。
 いやいやいや、思春期の病って――そんなふうにほのかにぼかすような言い方やめてください! 否定の余地がないでしょう!?
「ちょっとそれ、……え……え、えぇ? ……ほ、本当なの、西園さんっ!?」
 問いかけてくる二木さんの声にも、若干嬉しそうな気配がにじむ。だから、そんなの知らないですよ私は! それがわからないから確かめに来たんです!
「やはは……ちょっと信じられないですけど、どうやらこりゃ本当みたいですねぇ〜……ねぇ、みおちん♪ ウエッヘッヘッヘ……げっぎゃぎゃぎゃー!」
「なんだ葉留佳君、その、げぎゃぎゃぎゃというのは?」
「え? はるちん風悪者の笑い声ですけど」
「ちょっと待って葉留佳、私たちは悪者なんかじゃないわ! 彼女の悩みをこれから聞いてあげるんじゃない! ……その、恋の」
 一見こちらを優しく気遣ってくれているように見えるが、その実二木さんもすごい興味津々といったふうである。所詮彼女も人間ということか。
 耳を塞いでいても聞こえてきてしまったその「恋」というワードに、私は思いっきり顔を赤くして、こたつの中で頭をぶんぶんと振った。
 それは違います、恋なんかじゃありません! 一時の気の迷いですこんなのは! 
 男への見方を変えた瞬間に一目惚れしちゃうとか、あんな男に限って……そんなことあってたまりますか!
「もう無駄な抵抗だよ、美魚君。君がどれだけ懸命に隠そうとしたって、私には全部わかってしまうんだからな」
「ありゃ? そういえば、姉御はどうしてみおちんの好きな人が真人くんだってわかったんですか?」
 三枝さんの素朴そうな疑問。ってか、好きな人とか言わないでください! 
「む。なんだ……君は気づかなかったのか? ここ数日間、美魚君は真人少年へのラブラブ光線を出しまくりだったじゃないか」
「はぃ――っ!?」
「なんですってっ!?」
 両者の驚いたような声。こっちの心臓はどくどくどくどく、とエンジンのように脈打っている。
 ラブラブ光線って……なに? そんなものを常時出していたのか私は!? 
 っていうか、あれを見られてしまっていた!? しまった……席が一番後ろだからって油断してた……! 来ヶ谷さんは決して気の抜けない人だってわかっていたなのに、私のなんてばかばかばか!
「まぁ、皆で遊んでいるときは上手く隠していたがね。だが……あれくらいで私の目をあざむけると思ったら大間違いだよ、美魚君」
「うきゅ……」
 はっはっはっは、と楽しそうに高笑いする魔女に、私はもう逃げる道が存在しないことを悟る。
 最初から気づかれていた。
 あるいは、私がそろそろ三枝さんに相談を持ちかける頃だと思って、それでこの人は三枝さんの部屋に宿泊を申し込んだのかもしれない。来ヶ谷さんなら全然あり得てしまいそうな事実に、私はもうすべての懸念に諦めがついた気がした。
 もう逃げられない。
 すらりと伸びる来ヶ谷さんの生足を眺めつつ、私は涙を拭いて、そっとこたつの中から這い出ていった。
「おっ、出てきた♪」
 三枝さんが楽しそうな笑みを見せる。
 部屋の空気は冷たく、いやが応にも自分の顔が熱くなっていることが認識させられる。
 心臓の動悸はまだ烈々としている。
 あの恥ずかしい姿を、来ヶ谷さんに見られていたのだ。もう隠し通せる余地は残っていない。
 来ヶ谷さんが口元に笑みを浮かべて、ひらひらと手を振る。
「いや、勘違いしないでほしい美魚君。私はただ、面白い話をもっと面白くしてやりたいだけだ。どこにもやましい気持ちなんてないよ」
「やましい気持ちしかないじゃないですか!」
 声に出して突っこむ。来ヶ谷さんは「はっはっは、そうとも言うな」とカラカラ笑って返した。この人は、私をからかうことだけが目的なんじゃないだろうか。再びこたつの中に入ってパンツを覗いてやろうか。
「まぁ……面白いとか面白くないとか、そういう話はひとまず置いときましょう」と二木さんは咳払いをして前置きした。
「ここで重要なのは、現在起こっている問題の解決よ。西園さん、自らの想いを告白するのが恥ずかしいのはわかるけど、その場所からずっと逃げ回っていたってなにも始まらないわ。まずは現実にきちんと向き合ってみるのが大事。そうでしょ?」
 なんて真面目くさった顔で言っているが、その実、彼女の裏に隠されているのは「さっさとあたしらにkwsk(詳しく)!」……という意志だった。その瞳が野次馬根性でギラギラと輝いているのは知っているのだろうか。
 いまだなんとなく恥ずかしい気持ちで、私は視線を周囲に彷徨わせていると、なぜかこちらをニヒルな眼差しで見つめている三枝さんと目が合った。
 猫のしっぽみたいな長いちょんまげをハードボイルドにかき上げると、なぜか三枝さんは口元に薄い笑みを浮かべて言った。
 ちょ、だれだあんた。
「大丈夫、ちゃんとわかってるんだぜ……? はるちんがこの前、みおちんにあんな話をしちまったから……ってことなんでしょ? 男への見方を変えちまったから、それでみおちんはなんとなく真人くんを意識してしまった……。そうなったら……もうその先に待っているのは、終わりなきスパイラル。フォーリンラブのタイフーンさ」
 日本語しゃべれ。
「なんだ葉留佳君……その謎めいたダンディー調のキャラは」
「へ? はるちんが尊敬しているデンジョー先生ですけど」
 だから誰だよ!
 私は再び突っこもうとしたけれど、三枝さんはこっちを振り返って「ゴメンゴメン」と申し訳なさそうに笑い、手を振った。
「でも、当たってるんでしょ? 私がこの前あんな話をしちゃったから、みおちんはその……真人くんに……ネ?」
 私は、その先に隠された言葉を想像し、再び頬を炎のように赤くしてうつむいた。「はるちんのせいだって、ちゃんとわかってるぜ?」とおちゃらけて言う三枝さんに、二木さんから軽いチョップが飛ぶ。
 私は手元のみかんの皮をじっと見つめ……もじもじと実を口に入れて咀嚼した後、ゆっくりと色々なことを考えて、それから顔を上げた。
「別に……これが恋だと、決まってしまったわけではありません」
 三人の視線がじっとこちらに集まる。
 いまだ心の中のどこかで……少しでも三枝さんのせいにしようと思っていた私は、彼女の今の言葉を聞いて、自分自身の気持ちが恥ずかしくなってしまった。
 もう……闇雲に自分の気持ちを否定しようとするのは終わりにしよう。
 自分でもはっきりそう思えたとたん、私の口からは、するりとその言葉が出てきた。
 心の中にわずかに残った羞恥の残滓[ざんし]に耐えつつ、私はまた目を細めて、口に手を当てながら続ける。
「ただ、あの背中が……ちょっといいな、って……思ってしまっただけです」
 言葉を吐いた瞬間、三人の口から、ほうっ……と熱い溜息がもれる。
 ちょ、なんですか……。みんなからの生暖かい視線にさらされた私は、また恥ずかしくなって辺りにきょろきょろと視線を惑わした。三枝さんが、やははーと照れたように頭をかく。
「そう……。それで? あとは彼のどこが好きなの?」
 二木さんはもう適当な理屈を飾ろうとさえしなかった。ぽーっと頬を赤くして、目をキラキラとさせてこっちの話の続きを待っている。風紀委員長の新たな顔をかいま見た気がした。いくらなんでもストレートすぎるだろ。
「別に……ですからっ、まだ彼のどこが好きだとか決まってしまったわけではありません!」
「はっはっは。そう恥ずかしがらなくていいのだよ、美魚君。君はもう真人少年自身を好きになってしまったのだろ、とは聞いていない。好きになった部分だけでいいんだ。それを我々に教えてくれ」
 迂遠な言い回しで上手く誤魔化しているが、結局来ヶ谷さんが言っているのは、どうしてあの男を好きになったんだ、という質問にほかならなかった。
 質問を受けて、私がなんとなく彼の姿を頭の中でイメージしてみると、とたんに胸の心臓がばくばくと強く脈打ち、息が苦しくなる。
 ああ、まただ。
 以前はこんなこと想像するくらいじゃなにも起こらなかったのに……。私はもう、こんなところまでやって来てしまっていたのだ。
 好きだ、と思ってしまったら最後。捕らわれる。
 私は心の隅に残った最後の名誉のために、精一杯頭を振って事実を誤魔化そうと……したけれど、口だけは自然に、ぽろぽろと恥ずかしい言葉を紡ぎ出していった。
「えっと……井ノ原さんが、たとえば直枝さんと楽しそうに笑い合っているところとか……宮沢さんとじゃれ合っているところとか……あとは広い肩とか、すらっとした足とか……です」
 聞いている来ヶ谷さんまでもが顎を引いて、ちょっぴり顔を赤らめるほどだった。
 私が元々好きだったのは、自分がよく読書をしている樹の傍で、ぴったりと寄り添ってくれる小鳥のような人。
 そんな人であれば私とも趣味がよく合うだろうし、当然相性もいいだろうと思っていた。
 ましてや、あんなイノシシとツキノワグマの混合生物のような恐ろしい人種とは、住む世界も考えることもまったく異なるものだと思っていた。
 それもちゃんとわかっているのに、どうして私は、こんなふうに――。
「まぁ……そこまでわかっているんなら、もう決まりじゃないのかね?」
 まるで私の今考えていたことを綺麗に読んだかのように来ヶ谷さんがつぶやく。私は顔を弾けるように上げて、ぶんぶんと首を横に振った。
 決まってしまったらもう終わりになるのだ――色々と。
「なぜ? 人を好きになるのに不思議な条件などは必要ないだろう? 君がそう思ったのなら、それがそのまま恋の形だ。それに奇しくも――君が言った真人少年の良さは、私も少しは理解できているつもりだよ」
 少し恥ずかしそうに微笑んで答えた来ヶ谷さんの言葉を、二木さんがそのまま引き継ぐ。
「そうね……。あいつはちょっと馬鹿で、大ざっぱなところがあるけれど……不思議と嫌な感じはしないわ。たくましい体つきも、見方によっては頼もしく見えるかもしれないわね」
「おや? 君がそんなふうに真人少年を評価するとは……。普段辛辣[しんらつ]な言葉を浴びせておきながらも、意外と深く観察しているものだね」
「べ、別に……。私は特に、そういう意味で言ったんじゃありませんから」
 二木さんまでもが恥ずかしそうに首を横に振り、来ヶ谷さんはそれを見てからからと笑った。
 私は、内心彼女たちの会話にとても驚いてしまい、どくんどくんと、胸の動悸をいっそう強めていった。
 てっきり、あんな男を好きになるなんてちょっと神経を疑ってしまうぞ美魚君? ――そう言われるかと思っていたのに。
 来ヶ谷さんと二木さんならば、結構その態度に辛辣なところがあるから、ここで井ノ原さんをけちょんけちょんのぎったんぎったんに罵って、絶対あんなやつお勧めしないと言ってくれるかと思っていたのに……。心のどこかで願っていた逃げ道が、急に途絶えてしまったような気がした。
 自分の気持ちを無理に否定しようとするのはもう止めにした私だけど、それでもまだ心のどこかで、これがなにかの間違いであってくれればと思う気持ちがあるのは確か。
 来ヶ谷さんや二木さんに、無理矢理にでも引き止めてもらえれば、上手く諦めきれるかと思ったのに――。
「えっと〜。それじゃあ、あのさ」
 三枝さんが、あははと笑いながら話を切って、こちらを見やる。先ほどの人をからかうような態度は、もうどこにもなかった。
「じゃあ、これからみおちんがどうしたいかってことが、次の問題になりますネ」
 どきり、と胸が弱く跳ねた。
 来ヶ谷さんと二木さんはお互いに神妙にうなずいて、こちらをじっと見やる。
 これは――あくまで私が、自分で答えねばならないのか。
 どうせ答えなんてもう決まっているんだろう? と声もなく語りかけてくる三人に、私は遠くのほうからじわじわと耳鳴りが聞こえてきた気がした。
 ごくりと息を飲んで、少し頭を冷やして考えてみる。
 私が今も願っているのは、これが間違いであってくれればということ。
 今まで「美しくないです」と散々馬鹿にし続けてきた男と真面目に恋愛するなんて、恥ずかしすぎるにも程がある――というか、それ以前にこちらのプライドの問題があるし、向こうもそんな辛辣な態度を見せ続ける私になんとも恋愛感情を抱いていないのは明白だ。
 第一、お互いの相性もそんなに良くないと思う。
 体育会系と文化系では、共有できる話題も少ないだろう。誰にだってわかることだ。
 だからなるべく、この気持ちは間違いであってほしいと思う。
 むなしい戦いは……したくない。
 だから、今やれることと言えば、それはなにかの証明だ。
 もう一人でうじうじと悩み続けるのは懲り懲りなんだ。
 今ここで重要なのは……確かに三枝さんや二木さんの言うとおり、前に向かって前進することなんだろう。
 私は目を上げて、三人の顔をそっと見回した後、ゆっくりと口を開いていく。
 幸いにも(幸いか?)、今の私には心強い三人の味方がいる。
 話す度に顔の熱が上がっていってしまうのは、もうどうしようもないが。
 行き着くところには、きっと行き着くだろう。
 私がほんの少しの勇気を出しさえすれば、きっとその場所に後悔は残らない。

 

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