なんとなくこの日は、あの男に目が行ってしまう。それがどうにも納得いかなくて、私はとても腹立たしいのだ。
「なぁ、オレの筋肉座布団、どこに行ったか知らねぇ?」
そんな謎の質問に目を丸くしている直枝さんの隣――私たちの教室の窓側の席で、井ノ原さんがちょっと困ったような顔つきで話しかけている。
私はやや後方の席で、本を読んでいる振りをしながら、その井ノ原さんの無骨な顔を「なぜか」こっそりと見つめていた。
「ええー……筋肉座布団って、なに? なんだかすごく座り心地悪そうだね」
「ああ。本当にすごく悪い。けれど、片方で授業を聞きながらもこっそり筋トレできるっていう、なかなかの優れモノなんだぜ? 馬鹿にしちゃぁいけねぇな」
「いや……っていうか、尻筋まで鍛えてどうすんの? それに真人、授業なんかいつも聞いてないでしょ」
尻筋、というワードにぴくりと反応してしまう。
いや、彼は……まさか。
い、いやいやいやっ……そんなわけがない。
私は勝手に顔が熱くなるのを感じながらも、慌てて首を振って、手元の文庫に目を落とした。今日は夏目漱石の短編集だ。だが当然のように文字は頭に入ってこない。
ちらり、ともう一度こっそり目を上げてみると、
「そんなのどうせ理樹が聞いてるんだからいいじゃんかよー。ほら、オレはこっちで筋トレ頑張ってるからさ」
眩しいくらいの笑顔が、見えた。
後ろの窓から入り込んでくる柔らかな日光のせいか、やけにその顔がキラキラと輝いて見える。
「いやいやいや、全然意味がわからないから。それに……それって、一見二人で分業しているみたいに見えるけど、結局僕に負担があるだけでしょ」
数秒のあいだ見とれてしまっていたことに気づいて、私は慌てて首を引っ込めた。
そこからすぐに視線を外し、私は長い溜息を吐いて、教室全体を見回してみる。
小毬さん、鈴さん、能美さんの三人が、前のほうの席に集まって、一緒にノートを開いているのが見えた。あれはさっきの授業の復習だろうか。
廊下側に視線を移せば、来ヶ谷さん、三枝さんの二人が楽しそうに談笑しているのが見える。その隣では宮沢さんが他の男子生徒たちと輪を作っていた。
いつもどおりの風景だ。
そして私は、この自分の席でいつもどおりに読書を続け、たまに三枝さんや鈴さんに引っ張られて、彼女らの輪の中に入る。
暦はもう十二月となり、外の肌寒さもいよいよ本格的となってきた。
だとしても、この風景のありようは変わらない。
恭介さんが窓の上からやってこなければ、いつの季節になっても、教室の様子はこんな感じだ。
なのに……今日は私だけが、ちょっとおかしいのだ。
「だけどそうすると困っちまったなぁ……。あれがねーと、今日の授業中筋トレできねーんだよ」
すっ、と彼に目が行ってしまう。
井ノ原さんは、なにやら難しそうな顔で腕を組んでいた、
「え、えーっと……ちなみに授業は、筋トレする時間じゃないよね?」
まったくだ。隣で授業を聞かなければならない直枝さんに深く同情する。
けれど……。
「あーっ、もうどうしようもねぇな。次の時間も寝るぜっ」
あ、と呟きをもらしてしまう。
井ノ原さんはそう叫ぶなり、正面に座り直し、どかっと机に突っ伏してしまった。
こちらから顔は見えなくなり、代わりに彼の背中がよく見えるようになった。
私はなんだか気恥ずかしい気持ちになって、そこから目を逸らす。
だけど……やっぱり、ちらりと横目で見てしまった。
「うーん……真人には黙って授業を受けようという選択肢はないんだね……。じゃぁ次の時間のノート、謙吾に見せてもらってね」
「りっ、理樹さまぁぁ――――!? どうかご慈悲をぉ――――っ!」
がばっ、と急に井ノ原さんが起き上がったので、びっくりする。
こっそり見ていたのがばれてしまったのかと一瞬ひやひやしたが、どうやら彼は、こっちの視線には気づいてないようだった。
なにがなんだかよくわからないが……井ノ原さんは頭を抱えてぐわんぐわんと悶えている。うん、やっぱり気持ち悪い。
全然かっこよくない。
もし知り合いじゃなかったら、なるべくお近づきになりたくないタイプだ。暑苦しいし。頭悪そう。
でも……だったら私は、どうして今さらあの人のことなんかを気にしたりしているんだろう。
そんな事実があるというだけでも、まるで身の毛がよだつほどの屈辱だというのに。
なるべく意識すまいと思えば思うほど、その馬鹿みたいな大声が耳に入り、その後ろ姿を目で追ってしまう。
そして、その度に私は、そんな自分自身のことを恥じ、侮辱して、
これは、きっとなにかの間違いだ。
そうだ――今日はたまたま井ノ原さんの日だったのだ。
そして明日はきっと能美さんの日で、明後日は三枝さんの日、その次はたぶん鈴さんの日だ。そんなふうに私が観察したくなる人間が日ごとに入れ替わっていくに違いない。
んなわけあるか……ばか。
けれど……そもそも私が、井ノ原さんを気にする理由なんてどこにもない。好みのタイプからはだいぶかけ離れている。わけがわからない。
どうして……こんなふうになっちゃったんだろう。
そういえば……もしかして昨日、あんな話を聞いてしまったからだろうか。
私はゆっくりと、昨日の夜の出来事を思い出していった。
ふと、ひょんなところから話題になった、好みの男性像の話。
昨日の夜、思いがけなくこちらの部屋に泊まりにやって来た、三枝さんが言い出したのだ。
「ねーねーみおちんみおちん。みおちんってそういえばさー……。あ、はるちん、こういうところで出すべき話題って知ってますヨ。こんなに可愛げな少女二人組のパジャマパーティって言ったら……もちろん、ムフフ……な話題ですよネっ! ねー、みおちん? さぁさぁ、はるちんは今、何回みおちんって言ったでしょう!?」
知るか。相変わらず支離滅裂だ。意味がわからない。それと、あんまりこっちにくっつかないでほしい。
むにゅむにゅと子供っぽく詰め寄ってくるこの脳天気娘の体を押しやって、私は答えた。
「……ん……むふふ、って……っ、全然意味が……、わかりません……。なんなんですか」
「フッフッフ……みおちんにはまだまだわからないみたいですネ? この妖しくて、神聖な、身も凍るほど寒い夜に……ほのかに温かいベッドの中で繰り広げられる、熱き夜の宴は!」
もんもんもんと拳を強く握りしめて、三枝さんは熱く語る。あと、夜って二回言っている。
「いやらしいです……。そこのバスルームを貸しますので、どうぞ一人でやってください。私は寝ます」
なんとなく気持ち悪かったので、顔を背けて、もぞもぞとベッドに入ろうとすると、三枝さんが「えー?」と
ちょ、私のベッドなのに。
「なにするんですか!」
「いやらしいって、どうしてー? はるちんが言ってるのは、コイバナとか、そういう女の子なお話のことなんですヨ?」
「……」
ぴったりと毛布をかぶって、その先からぴょこんと紫がかった髪が飛び出ている。
そして、ゆっくりと三枝さんが顔を出した。
マリンブルーの鮮麗な瞳と目が合う。
だんだんと、想像していたことに恥ずかしくなってきた私は、わざとらしく口を横一文字にして、
「……あなたの表現の仕方がいやらしいと言ったんです。別に……それだけですから」
そう言って、もぞもぞと三枝さんの隣に入り込んだ。てか、それだけなら最初からそう言えと。
だいぶ狭くなってしまった一人用ベッドの中で、三枝さんが「にゃー♪」とこちらの背中に抱きついてくる。
ふくよかな胸の感触に少々複雑な気持ちになり、私は仰向けになってその手をほどいた。
「ありゃ。なんでほどいちゃうのー?」
「……ご自身の胸に聞いてください」
「へ? はるちんの? えー……なんか悪いことやったかなぁ……」
別に……三枝さんはなにも悪いことやってないんだけど。その胸が全部悪いんだよ、その胸が。
一緒に仰向けになった三枝さんの艶やかな髪が、電灯の淡い光線に照らされて、てらてらと茶色に輝いている。
私はなんだか気にしているのもアホらしくなってしまったので、とっとと目を閉じて寝てしまうことにした。
「恋の話なんて知りません。私は本さえあれば生きていけます」
きっとこんな女がいるから、世の中には結婚できない人が増えているんだろうけど、それはそれ。私は事実を言ったまでだ。
「えー。そんなー……だって本、食べられないじゃん」
おまえはいったいなんの話をしているんだ。
「……本を食べるだけで空腹を満たせるのなら、どれだけ幸せだろうかと考えたことがあります」
「ねね、みおちんみおちん。みおちんは〜、恭介くん系と謙吾くん系、どっちが好き?」
「人の話を聞いてください」
相変わらずマイペースな三枝さんに、私は呆れて物も言えなくなる。
髪を下ろした三枝さんは、少し体を起こした状態で、枕元に頬杖をつきながら「にゃはは」と笑っていた。
「やはは、ちゃんと聞いてますヨ? 美魚ちんは、将来ヤギさんになりたいって言ってるんですよネ?」
「……言ってません」
私はいったい何者だ。前途多難な幼稚園児か。
「まぁまぁ。さっきもちょっと聞こうと思ってたんですけど、やっぱりこういう話題は、こうやってベッドインしてからのほうが話しやすいですからネ」
「その……ベッドインとかいうのやめてください」
きっと特別な意味なんかないんだろうけど、なんか急に怖くなっちゃうから……色々と。私は寒かったので、もぞもぞと首まで毛布をかけた。
ああ、あったかい。で、なんだって?
「はるちんですね〜、ちょっと思うわけですヨ。リトルバスターズのみんなって、結構均一にバランスが取れてるなーって」
ちょっと固い口調でしゃべり始める三枝さん。ふむ……もしかして、この話の意図を悟られまいとしているのか。
私は首を傾げて、あえて気づいてない振りをしてやることにした。
「バランスって、なんのことですか?」
「ほらほら、たとえば、皆さんどうぞ選り取りみどりーっていうか!」
「意味がわかりません」
三枝さんは、ぶわぁーっと両手を広げてみせるが、そのジェスチャーの意味するところは不明だ。
「もう、みおちんったらニブイなぁ……。平たく言えば、みんなそれぞれ好みのタイプを選べるよネ! ってことですヨ」
「……余計わかりにくくなった気がしますが、あなたの言っている意味はだいたい察知することができました」
「おお、みおちん賢い!」
どっちだよ、いったい。ったく……つまるところ、あれなんだろう。
たとえば、ギャルゲーや乙女ゲーなどによくある、正統派、つんデレ、ロリ、ショタ、クールなどのタイプを全部揃えました――とかいうアレで、我がリトルバスターズの面々はちょうどそんな感じにみんなを分類できるよねと言いたいのだ、この人は。
そう考えると、まるで自分が誰かの攻略対象に挙げられたみたいで少し気持ち悪くなったが、私はだいたいそれで三枝さんの本意に気づくことができた。
「つまり……そんな形で、私たちが男性陣たちのタイプの良さについて議論しましょうということですね?」
「えっ? い、いやぁ……」
図星だったのか、三枝さんは照れて「やはは」と頭をかいている。そんなことされると、逆にこっちが恥ずかしくなるんだけど。
だが、ほんの少し三枝さんの話に興味を持った私は、顔をゆっくりと動かして、しばらく彼女の言葉に耳を傾けてみることにした。
「えへへ……。現代っ子の少女たちの興味はですネ、だいたい繊細系な男子諸君に向けられていると思うんですヨ」
三枝さんは、決まり切ったことのように言う。別に、必ずしもそうではないと思うが。
けれど……まぁ、それもあながち的外れでもないかもしれない。私としても、どちらかというと美しく繊細な男性同士の絡みを好むほうだから、ご多分にもれず、そんな現代女子の範疇に入れられていると言っていいんだろう。悪いけど、マッチョはいやだ……。
「でもねっ、やっぱり私は、もっともっと力強くて男らしい男子のほうがかっこいいと思うんですヨ!」
ぐっ、と拳を握りしめて、三枝さんは熱い眼差しで語った。
「それは……三枝さんが、マッチョ好きだということですか?」
私がそう聞くと、三枝さんは驚いたように目を丸くし、「うーん」と曖昧な笑みを浮かべた。
「あんまりにもマッチョすぎるのは嫌ですけどネー……こう、胸毛わしゃーっ! みたいな」
「マッチョ=胸毛というのはいささか短絡的すぎると思いますが……胸毛の点においては同意です。たとえ綺麗に手入れされてても厳しいですね」
「うんうんそうそう。でも、かといって全然男の子っぽくなくっても困りますよネ。こっちが守ってあげなきゃ〜、っていうのは、ちょっと〜……」
「いえ……ですが、それでお互い支え合うという形になれば、全然いいと思います」
「いや〜甘いねみおちん。そんなことができる夢の男子ってのはゲームや漫画の中にしかいないもんですぜ? 力がない子には、やっぱり同時に甲斐性もないと思うねはるちんは」
二人で、好き勝手な主義主張をぶつけ合う。
しかしなるほど……私は、三枝さんの言っていることもよくわかった。ちゃんと地に足がついた考え方だと思う。案外しっかりと見ている。
けれど、だとしたら彼女は……。
「三枝さんは、直枝さんのことはお嫌いですか?」
「えうっ」
やばっ、しまったー、といった顔つきになった。いささか言葉がすぎたと思ったんだろうか。
「や、やははー……。理樹くんは、力があって男らしいから別枠ですヨ?」
「……あれほど優男で男らしいもなにもないと思いますが、あの方がちょっと別枠扱いというのは頷けます」
あれは、繊細さと強健さが同居した希有な例だ。そのへんの女の子にはたまらない相手だろう。
しかし、三枝さんは――一度こういう話をしてみてわかったが、もともと直枝さんのような人はそこまで好みのタイプじゃなかったようだ。もっとこう、最初から強く自分を守ってくれそうな人がいいんだろうか。結構意外だ。
「ですが……私は断然、恭介さんや直枝さんといった方々のほうが好みですね。兄弟愛にはなにより美しさがないといけません」
「……あのー、みおちん? それってなんか違ってないですか?」
「はうっ」
気づくと、三枝さんに若干困惑した表情で引かれていた。くそっ、一般人か。
私はいつの間にか荒くなっていた呼吸を急いで整え、三枝さんのほうに向き直って、ぐっと拳を握る。
「しかし……男子はやはり優しく、どこまでも美しくあるべきでしょう。無駄な肉などついてはいけません。高貴さまでなくなってしまいます」
「えー。でもそれだと、なんかちょっと頼りなくないですかね? それに、優しさは特に肉とは関係ないと思いますけど」
「う……」
なかなか痛いところを突いてくる。本当は、ただ体が大きい人がちょっと怖いってだけなんだけど。
しかし……力があるような男性には、反対に美しさはないような気がする。それはあの井ノ原さんがいい例だろう。美しいの「う」の字も知らなさそうだ。
「三枝さんは、井ノ原さんみたいな方がお好きなのですか?」
三枝さんはきょとんとして、それから目を細めて考え込んだ。
「え? う、うーん……。真人くんはなんか、ちょっぴり違うかも……。ちょっと馬鹿っぽすぎですネ」
「なるほど」
馬鹿っぽすぎとは酷い言葉だが、これで色々理解することができた。
三枝さんは多分、宮沢さんのような人が好きなんだろう。
確かに宮沢さんは、力強さと同時に、美しさも聡明さも兼ねそなえている――外見上は。
けれどその中身は……こう言ってはなんだが、色々とひどい。
のりたま、ジャンパー、マーンッ! しか単語を知らない人間に、私が求める本質的な美しさと聡明さがあるかといえば、それはノーである。
外見の華やかさだけで絡みを生み出そうというのは、ちょっと邪道だと思う。
「というより、真人くんはちょっとマッチョすぎですネ。脳みそまで筋肉って感じ」
それを本人に言ってやったら喜びそうだが。
「三枝さんは、もっと宮沢さんのような、スマートな雰囲気を持つ方がよろしいですか?」
「そうそう、そうですネ。ちょうど謙吾くんがいい感じ――って、なんかはるちん際どいこと言っちゃってる!?」
「ええ。それは、まあ」
ああぁ〜……と小さく叫んで、顔を枕の下に隠してしまった。
布団の中でもぞもぞと手足が動き、恥ずかしさに悶えているのがわかる。まじで意中の相手だったわけですか。
まぁ……宮沢さんの良さもよくわかるけれど、ここは敢えて三枝さんに反論せねばなるまい。
「それでもやはり私は、繊細系の男子を推しましょう。まず体の細さをベースにして、そこから生まれる意外な『攻め』――いえ、意外な力強さには、一般女子としては萌えるものがあります」
「燃えるものですか?」
「はい、萌えるものです」
私は三枝さんの目を見ながら、熱弁を振るった。三枝さんは、まだいくらか顔の赤さを残したまま、顎を引いて「うーん」と考え込んだ。
「それも……よくわかりますけどネ〜」
そう言いながらも、やっぱり三枝さんは、あまりそこまで興味があるふうではなかった。
「やっぱり線の細い男の子だと、一緒に居てちょっと不安になっちゃいますネ」
「それはどうしてですか? 繊細系男子なら、総じて素敵だと思いますが」
「うーん。だって、あんまり多くのことを期待できないじゃないですか」
う、と私は顔を引いた。
なるほど……そう言われると、ちょっと反論しづらい。
三枝さんは恐らく、男性自身を、私たちのように極端にまで理想化したことがないのだろう。
求めるものが、私たちよりもずっとシンプルで、大人なんだ。
三枝さんが求めるのは、わかりやすい信頼。そして安心。そこから生まれる無垢な愛情。
なんだか自分が、とても小さい子供のように思えてきた。
「そりゃあ、そういう男子がかっこいいのはわかりますヨ? 理樹くんだって、そんな雰囲気が素敵なんだと思うし」
「それでは、恭介さんはどうですか?」
「恭介くんはダメ」
「なんでですか」
「あの次元が異なるぐらいのハチャメチャ感には、正直ついていけないっス……」
そう言って三枝さんは、ずぶっと顔を枕に埋めた。ちょっとでも彼に恋愛感情を抱いたことがあったんだろうか。それはまぁ、気の毒に。
「あれは……はるちんなんかよりも、もっとビシバシ叱り飛ばせる人がいいですネ……」と顔をこっちに向けて答え、また再び頭を上げる。
「と、とにかくっ、全ての男はやっぱり男らしさを考えた上で、そこから真っ直ぐにかっこよさを目指すべきなんですヨ!」
「なるほど……」
彼女の理論の組み立てはともかく、意外とまともなその見方に、私はいささか感心してしまった。
確かに、現代少女である私たちは、少々男性に対して夢見がちなところがあるというか……繊細そうなビジュアル系男子ばかりに目が行ってしまうものだが、それとは反対の、健康そうな正統派男子を嫌う理由なんてのはもともとなかったはずだ。
いやむしろ、(暑苦しいのは嫌だが)そちらの相手のほうが現実として、恋愛感情が満たされる場合が多いと思う。
直枝さんとの恋は……まぁ、アレはアレで別の話だろう。
私はぼんやりと、ちょっと前に読んだことのあった「優男、金も力もなかりけり」という川柳を思い出していた。
最初あれを読んだときなどはまったくわけがわからなかったが、なるほど……今こうやって思い返してみると、確かに少しだけ理解できるところがあるかもしれない。直枝さんや、恭介さんのような人がダメ、というわけではまったくないのだが。
「なんかこう……腕や肩とかが、がっしりしている人って燃えますよネ!」
「確かに。少し惹かれてしまうところがあるかもしれませんね。ちょっと怖いのが気になりますが、性格が優しければ」
「そうそう。粗野で乱暴な人だったらもちろんアウトだけど、もしそれで紳士的なところがあったら、もー……やは〜♪ ってなっちゃいますネ!」
「やは〜、ですか」
「やは〜♪ ですヨ!」
三枝さんは目を猫のように細くして、にゃー! とベッドの中で恥ずかしそうに身を悶えさせていた。
私もそれと同時に身をよじる。さっきからずっと三枝さんが隣でもぞもぞと動いているので、いいかげんベッドの中が熱くなってきてしまった。
私はやがてベッドから這い出し、部屋の電気を点け、三枝さんになにか温かいお茶でも淹れてやることにした。こんなんでまともに眠れるわけがない。
その日は夜通し、三枝さんとくだらないことで議論し合ったのだった。
それが昨日、日曜の夜のことだ。
そして月曜日になった今日、私は、どうしてか井ノ原さんのことが気になって気になってしょうがないでいた。
なぜ? そんなの、私が聞きたいくらいだ。
最初こそは、「たくましい男性の魅力というのはいったいどういうものだろう」といった気持ちでふらふらと井ノ原さんを眺めていたのだが、それがいつの間にか井ノ原さんの様子を深く観察するまでに至っていた。
これではもはやストーカーだ。相手にも失礼というものだろう。
いやむしろ、私のストーカー相手があんなのだということが、私にとって失礼だ。
……なんだか、頭が混乱してきた。
首を振って視線を正面に戻すと、数学の先生が黒板に向かって数式を板書しているのが見えた。
手元にあるノートは真っ白だった。ふざけんな、私。
慌てて私は黒板の板書を書き留めようとするが、視線だけはどうしてもちらちらと井ノ原さんの背中へ行ってしまう。
こういうとき……自分の席が一番後ろでよかったと思う。誰にも不審に思われない。
っていうか井ノ原さん、ガチで寝ているんですけど? 本当に進級する気はあるんだろうか。つーか気づけよ、
「あー……それじゃあ、今からここの公式を使って、実際に誰かに問題を解いてもらおうか」
そう言って蜷川先生が後ろに振り返ると、その両の目はじっと井ノ原さんの席へと注がれた。
井ノ原さんは依然としてぐーぐー寝ている。
教室に、重い沈黙が下りた。
「おーい……井ノ原?」
寝ている。
「……そろそろ起きてくれないと、先生も困っちゃうぞー?」
どうやら最初からちゃんと気づいていたらしい。それにしても弱気な先生だった。もっと威張ってくれていいのに。
「すか〜……ぴぃ〜……」
っていうか、すごい……。先生に名前を呼ばれたら普通飛び上がったりして起きるもんじゃないだろうか。あの人はどれだけ深い眠りの中にいるのだろう。
教室中の視線が、一斉に井ノ原さんへ注がれたとわかったので、私もそれに乗じてまじまじと見つめてみることにした。
それにしても、広い背中だ。まるで熊さんみたいだった。
隣の直枝さんも、どうやらもうこれ以上場の空気に耐えられなくなったらしく、シャーペンの先でつんつんと井ノ原さんの肩を突っついている。
だが、反応はなかった。
「……筋肉アイス……びよよ〜ん……むにゃ〜」などという寝言を発し、教室にいる人間全員の表情を凍り付かせた井ノ原さんだった。
「直枝……すまん。これ以上なにかが起こる前に、井ノ原を起こしてやってくれ」
「はい……」
先生はどこか哀れむような表情を浮かべて言った。直枝さんが、嫌そうに席を立って真人の隣に立つ。
そして耳元でごにょごにょとなにかを耳打ちすると、
「はあっ!?」
がばっ、と井ノ原さんが顔を上げ、混乱したようにきょろきょろと辺りを見回す。
「ど、どこだぁ!? その、闇組織の筋肉って野郎は!? もしかしてオレ狙われてんのかっ!?」
またそのネタですか、直枝さん。
席を立って狼狽しつつ、きょろきょろと辺りを見回している井ノ原さんに、クラス中から失笑がおくられる。
これも、いつもと変わらない光景だった。
ただ、私だけが異なってしまっている。どうしても横目で、彼の姿をとらえてしまう。
黒板に立った先生は、顔に冷や汗を浮かべつつも、どすん、と教壇を両手で叩いて、井ノ原さんをそちらに振り向かせた。
「私がその刺客だ、井ノ原。さぁ、もうこれで筋トレと居眠りだけの日々は終わりにしよう。これからは数学と共に生きてもらおうか」
「げえっ、蜷川!? てめぇ、いつの間にそこに!?」
「もう授業開始してから三十分以上経過してるんだがなぁ……。それと井ノ原、先生に向かって『てめぇ』は良くないな。よし……あとで職員室に来い。どっさり課題を出してやるぞ」
「ぎゃぁぁ――――――っ!? すんませぇ――――ん!」
頭を抱えて悶絶している井ノ原さんに、教室中から笑い声がおくられる。
私はそんな状況の中で、みんなとは離れて一つも笑わず、じっと彼の姿を見つめていた。
こんな状態で笑えるもんか。むしろ、自分自身に対して苛立ってしまってしょうがない。
どうして私は、昨日の夜あんな話をしただけで、井ノ原さんに対してこんなに目が行ってしまうのだろう。
三枝さんもちゃんと、昨日は井ノ原さんの魅力を否定していたではないか。
だけど……、あの井ノ原さんの広い背中……意外と、目がとまる。
「さあ、今日からは一緒に井ノ原も数学馬鹿になろうな! それじゃあ、手始めにこの問題をやってみてくれ!」
「な、なにい……! ……おい、理樹。あの問題の答えを教えてくれ……」
「無理だよ。今から僕は、真に友のこと想える人間になろうって決めたんだ。悪いけど、ばっさり切られてきて?」
「りっ、理樹様ぁぁぁ――――――っ!?」
ばかやろうっ、と私は頭を横に振った。
あんなの、まるで日本アルプスに生息する熊ではないか。恐ろしすぎるケダモノだ。
広い背中がいったいなんだというのだ。まるで美しくない。
その引き締まった腕も、広い肩も、すらりと地に伸びている両足も、まったく私の好みのタイプじゃない。
しかし……なにか、おかしい。
三枝さんからあんな話を聞いたからか、ひどく私の「理想の男性像」というものが揺らいでしまっている気がする。井ノ原さんの魅力を、最後の最後まで否定することができない。
わけがわからない。もう死んでしまいたい。
そうだ、今こそ夏目漱石を読もう。『夢十夜』の幻想的な詩文に浸ってしまおう。馬鹿な頭を、崇高なる文学の世界に飛ばすんだ。はやく、はやく!
……全然、頭に入ってこない。
私は、す〜、は〜……と長い深呼吸をくり返し、ゆっくりと教室の様子を見回す。
けれど、それでもその視線が最後に行き着いてしまうのは、やっぱり彼――井ノ原さんの広い背中。
「ああ〜……もうしょうがねぇ……! いっちょぶち当たってくっか!」
左手で頭を掻きながら、井ノ原さんはのそのそと黒板のほうへと歩いていく。
その大きな後ろ姿に、私の視線は釘付けになる。
それにしても……よく見てみると、井ノ原さんの姿勢はすごく良かった。ちゃんと背中の筋肉を鍛えているから、猫背にならないんだろう。
とても堂々としている。
少し野暮ったい雰囲気があるのは否めないが、不思議と眺めていて嫌な気持ちにはならない。
なんだか、頬が熱い。
私は恥ずかしくなって、手で顔を覆った。
もうなにも見たくない! すべて忘れてしまいたい!
こんなの絶対におかしい! 少し男性への見る目を変えただけで、こんなにも心が揺らいでしまうなんて。発情期か、私は。
この感情の正体を知りたい。今すぐ。
まさか……いや、そんなわけがない……。
あ……あってたまるか、そんなこと! だって全然美しくない!
私は覆っていた手をゆっくりと離していき、うっすらと目を開けてみる。
「へっ! これでどうだあ!」
「はっ……」
無事に数式を書き終え、正面に振り返った井ノ原さんと、私の視線は……今まさに、ぴったりと重なった。
一瞬、私は時が止まった気さえした。
けれど、井ノ原さんは……きっとこの私なんかを見ているわけじゃない。現に今も、彼は自信にあふれた瞳で教室を見回し、周りから贈られる拍手に応えている。
「うむ……全部間違っているぞ」
「うそおっ!?」
ぎゃはははははっ、とクラス中にひやかしが起きる中も、私はずっと呼吸を止めたままだった。
いや……止めていた、という表現は正確ではない。
呼吸が、止まってしまったのだ。
「だが、それでもこうやって前に出てこようとした根性は偉いぞ。その男らしさに、課題のページ数を百十ページから百ページへと減らしてやろう」
「いや、もっと減らしてくれよ!? いくらなんでも多すぎるだろ!?」
再びクラスに笑声が巻き起こっている最中も、私はただぼーっとして、彼の姿を見つめていた。
凍ってしまったような世界の中で、唯一私の頬だけが、炎のような熱を放っていた。