ある日、夕焼けが滲む学校の中庭に、二匹の犬と、一匹のクドリャフカさんがいました。
二匹のうちの一匹は、とても賢そうな顔をした大きなハスキー犬でした。名前はストレルカといいます。
もう一匹の方は、つぶらな瞳が印象的な、小さくて黒い犬でした。こちらの名前はヴェルカといいます。
そしてクドリャフカさんは、やっぱりそのままクドリャフカさんでした。
この三匹の姉妹は、とっても仲良しさんでした。
毎日みんなで追いかけっこをしたり、フリスビーを投げて一緒に遊んだり、中庭の芝生の上でひなたぼっこをしたり、風紀委員のお姉さんの手伝いを一緒にしたりして、いつも仲良く楽しそうに暮らしていました。
しかし、今日の三匹の様子はいつもとほんのちょっとだけ違っていました。
みんなで遊ぶときならいつもるんるん笑顔になるクドリャフカさんも、今日は少しだけ怒った顔をしていました。いつも被っているお気に入りの帽子は芝生の隅にまで飛ばされてそのままにしてあります。
クドリャフカさんは仁王立ちのまま腰に手を当て、芝生の上にちょこんと所在なげに座るストレルカとヴェルカを、きつく睨むようにして言いました。
「どうしてさっきはあんなことをしたのですかっ、ストレルカ、ヴェルカ!」
二匹の犬はつん、と顔を逸らして答えません。
「いくら私たちが仲良しさんだからって、やっていいことと悪いことがあるのですっ! 親しき仲にも礼儀あり、なのですよ!」
でも本当はストレルカとヴェルカは犬なので、クドリャフカさんが話す言葉をきちんと理解することができません。
しかしクドリャフカさんはそんなことにもお構いなし。くしゃくしゃになった髪や服を苛立たしげに手でごしごしと整えて、もう一度びっ、と二匹の犬を強く指さし、めずらしく威圧的に言い募ります。
「どうして二人は私にああやって意地悪するのですかっ!? いつもちゃんと遊んであげているでしょう!? それなのに、私の大事な時にはああやって二人は意地悪するのですか!? なんでですかっ! こんな、こんなこと――……私、」
リキ――……と言おうとしたけれど、クドリャフカさんのその呟きは声になりませんでした。
やがて顔を俯かせて、クドリャフカさんの大きな蒼い瞳に、キラキラと明るい夕陽の光が揺らめくように映りました。
クドリャフカさんは、だんだんと泣き出してしまったのです。
すすり泣くように声を詰まらせ、制服の裾で濡れた目元を擦りながら、クドリャフカさんは先ほどのことを少しずつ思い出しました。
まず一番最初に頭に浮かび上がってくるのは、大好きなあの人の顔。
それはクドリャフカさんがひそかに恋をしている、ある一人の少年でした。名前は直枝理樹くんといいます。
そしてやっぱり次に浮かんできてしまうのは、彼の気まずそうな笑顔でした。
あははは……と具合悪そうに苦笑し、思いっきり目を宙に泳がせて、さてどうやってこの場から逃れようか、と裏で考えていそうな理樹くん。
そしてまた、クドリャフカさんの目の奥に熱いものがこみ上げてきます。
首を短く横に振って、クドリャフカさんはそんな悪いイメージを振り払おうとしますが、それはどうしても消えてなくなってはくれませんでした。
やがて、その口がとても痛そうに歪み始め、そしてとうとうクドリャフカさんは、「ひ〜ん……」と辛そうな泣き声を上げてしまうのでした。
どうしてこんなことになってしまったのでしょう。
クドリャフカさんは自分自身でさえもまったく理解できず、でもただこれで、この目の前にいる二匹の犬が少しでも反省してくれればいいやと、頭の隅っこの方でそんな悪いふうなことを考えてしまうのでした。
口をきつく閉じて、クドリャフカさんは泣くのを精一杯我慢しながら、目元を押さえていた手を恐る恐る払ってみます。
そしてそこでクドリャフカさんは、はっ! となりました。
「えっ! な……ス、ストレルカ!? ヴェル――」
二匹の犬たちは、もうそこには居ませんでした。
びっくりしたクドリャフカさんは、慌ててその犬たちの名前を呼び、くるくると辺りを見回して……そして、すぐに声が出なくなりました。
「あ……」
遙か向こうの先、ストレルカとヴェルカは居ました。
けれどそれは、こちらを一度も振り返ろうとせずに、ずっと遠くに走っていってしまうストレルカとヴェルカの姿でした。
橙に染まるコンクリートを蹴って走り、そしてやがて、角を曲がって見えなくなりました。
「わ、わふ……、……いたっ!?」
すぐに追いかけようとして、とたんにクドリャフカさんは前に転びそうになってしまいます。
右足の中くらいのあたりに、ひりひりと刺さるような痛みを感じたのです。
慌てて顔を下に向けてその部分を見てみると……なんと、クドリャフカさんが履いている白いニーソックスの上に、それはそれは痛ましい真っ赤な血の跡が滲んでいました。
そしてクドリャフカさんは、すぐにその怪我の原因に気がつきました。
この怪我は、先ほど理樹くんと会ったときに、クドリャフカさんが堅いコンクリートの上に転んでしまって出来たものでした。
そしてそれは、同時にあのストレルカとヴェルカのせいでもありました。
クドリャフカさんは再び泣きそうになって顔をきつく歪めましたが……でも、決して泣いたりしませんでした。
むずむずと唇を尖らせて、涙が零れそうになるのを精一杯我慢して、ゆっくりとニーソックスをめくってみました。
その真っ赤な傷ができていたのは……それは小さな小さな、クドリャフカさんの膝小僧の上でした。
それから、数日ほど経ちました。
クドリャフカさんは、ずっとストレルカやヴェルカたちと会っていません。
リトルバスターズの友人たちにずっと元気がないのを心配されましたが、でもクドリャフカさんは、そんなときはいつも、
「大丈夫ですよ。ちょっと怪我したところが気になるだけなのです」
と、笑って答えるだけでした。
でもリトルバスターズの優しい仲間たちは、そんなクドリャフカさんの笑顔がただの嘘だということを、ちゃんとすぐに気がつきました。
けれど、面と向かって嘘つきと言うのはどうにも気が引けてしまい、リトルバスターズのみんなは、なんとなくクドリャフカさんのことを遠くから見ているだけしかしませんでした。
あの理樹くんもすごくクドリャフカさんのことを心配しましたが、クドリャフカさんはそんな彼にもただ笑って嘘をつき続けました。
せっかく彼と親しくなれるチャンスがあったのに、クドリャフカさんはそれもわざわざ棒に振ってしまいました。
そしてきっとクドリャフカさんは、そんな大失敗を犯してしまったことにも、全然気づいていませんでした。
「ほら、クドリャフカ。膝のところ出しなさい。今日も診てあげるわ」
クドリャフカさんは寮の部屋まで戻り、いつものようにルームメイトの佳奈多さんに膝の傷を診てもらいます。
佳奈多さんは、クドリャフカさんよりずっとずっと頭がよくて、傷の治療も全部一人でできるすごい人です。
クドリャフカさんには全くわからない医学の詳しいことも全部知っていて、おまけにとっても優しいので、あの日クドリャフカさんが帰ってきた後にもすぐに「全部私に任せておきなさい。素人が勝手に判断するんじゃないわよ」とだけ言って、治療をしてくれました。
いつものように優しくガーゼを剥がし、柔らかい脱脂綿で傷をふきふきしてくれます。
この小刻みにチクチクと刺さってくるような冷たい痛みを、クドリャフカさんがひそかに楽しみにしていることは、ちょっと秘密です。
「ふむ……もうそろそろガーゼもいらなくなる頃かしらね」
きょろきょろと顔を動かして傷を注意深く観察しながら、佳奈多さんは少し安心したように頷いて、そう言いました。
「えっ? で、でも、まだじゅくじゅくいってますよ?」
「その、じゅくじゅくっていうのやめてちょうだい……私の目の前にまさにソレがあるのよ……」
「わふっ、すみません!」
佳奈多さんが顔を顰めて言うと、クドリャフカさんは慌てて頭を下げました。
佳奈多さんはいつものように呆れた溜息をついて、そしてその後またいつものように、穏やかに笑ってくれました。
「もう、本当にしょうがないわね……うん、これで大丈夫よクドリャフカ。ここからはガーゼを外して少し傷を乾かしましょう。後は水に濡らしたり、わざと指で弄くったりしなければ、きっと自然に治っていくわ。よかったわね」
「は、はいっ! ありがとうございます佳奈多さん! 本当によかった――」
――です、と言おうとして、クドリャフカさんはそこで口が固まってしまいました。
全然なにも、これでよいわけがなかったのです。
不思議そうに首を傾げている佳奈多さんの目の前で、クドリャフカさんは黙って俯いてしまいます。
「? どうしたのクドリャフカ? もしかして、まだどこか痛いところでもあるの?」
「わふっ……い、痛いところ……えと、痛いところ、ですか……」
囁くように声に出して、クドリャフカさんはそっと、ぎゅっと胸の辺りを押さえました。
胸の奥にあるなにかが、きゅんきゅんと内側から抓るようにして、クドリャフカさんを虐めてくるのです。
「よく、わからないのです……」
クドリャフカさんは、佳奈多さんに対してはみんなよりも少し正直でした。
「……ふーん……理由はわからないけれど」
でも佳奈多さんは、別にそれを言わなくても全部知っているようでした。
立ち上がり、人差し指を頬にトントンと当てて、なにを言うべきか考え込んでいます。
クドリャフカさんが恐る恐る佳奈多さんの目を見つめると、佳奈多さんは「ふっ」と柔和な笑みを作りました。
「これがもし葉留佳だったら、すぐ説教ものなのだけれど」
そして佳奈多さんはもう一度しゃがみ込み、クドリャフカさんの傷を撫でるように手をかざします。
けれど、まだ乾いていない傷を触ってしまうわけにはいかないので、本当には手を当てません。
「クドリャフカだったら……きっと言わなくても大丈夫よね。とってもいい子だもの」
間に見えない壁があるように、佳奈多さんはほんの少しだけ隙間を空けたまま、クドリャフカさんの傷を優しく撫でてくれました。
そしてそのまま、ベッドの端に座ったままのクドリャフカさんと視線を合わせるようにして、静かな口調で言いました。
「大丈夫よクドリャフカ。傷は……治るんだから」
胸を押さえたままだったクドリャフカさんの手を、優しく握ってくれました。
そしてまた、数日が経ちました。
クドリャフカさんは、まだ犬たちと会っていません。
なにをしているのかも全然知りません。
佳奈多さんに訊けばすぐに教えてくれたかもしれませんが、クドリャフカさんは、なんとなくそれをしようとは思いませんでした。
「ようー、クー公。この前の傷は大丈夫かー?」
「んー、クド」
「あ、井ノ原さん、鈴さん……ぐっもーにんですー」
前をやってきた真人くんと鈴さんに、クドリャフカさんはいつも通りの笑顔で挨拶をしました。
しかし、それを見て二人が心配そうな顔を浮かべるのも、またいつも通りでした。
「おっ! だいぶ良くなってきたじゃねえか。これはもう少ししたら、全部剥がれるかもな」
そして真人くんはいつも通り、すぐに顔を楽しそうな笑顔に戻してしゃがみ込み、クドリャフカさんの膝小僧にある大きなかさぶたを指差して言いました。
しかしクドリャフカさんはそれを見て、恥ずかしそうにかさぶたを手で隠しました。
やんちゃな女の子だと思われるのが、ちょっと嫌だったのです。
「わふー……早く元通りになってほしいのです……」
膝に置いた手を見下ろしながら、クドリャフカさんがそう言いました。
それはきっと、クドリャフカさんの本心でした。
「へっ、心配すんなクド! こんな傷、膝の筋肉を使えばすぐ元通りになるさ!」
「なるか、あほ」
「わふー……」
真人くんと鈴さんがいつものようにおかしなやり取りで元気づけようとしてくれますが、クドリャフカさんはそれでも元気を出すことができません。
でもちょっとだけ面白かったので、クドリャフカさんは少しだけ目を細めて笑いました。
「あー……」
もしかしたら自分がいけないことを言ってしまったのかなと、鈴さんが具合悪そうに頭をかきます。それと同時に鈴さんの頭に付けられていた鈴が、一度だけちりんと鳴りました。
「んー……昔のあたしらは、そんな傷なんてあんま珍しくなかったぞ。とくにこいつと謙吾なんか、いっつも体中傷だらけだった」
「はんっ。ま、少なくともあいつの方には、オレよりももっと多くの傷をつけてやったつもりだがな」
「だーれもお前らの喧嘩の話などしとらんわっ! ちと黙ってろ! あほ!」
「あ、あんだよ……」
ふしゃー、とまるで近所の猫がするように、鈴さんは真人くんを威嚇しました。
すると真人くんは少し納得いかなさそうでしたが、黙って身を後ろに引いてくれました。
そして鈴さんはゆっくりと前に振り返り、二人が喧嘩になってしまわないかとオロオロするクドリャフカさんに向かって、なんでもないふうに言いました。
「あたしや理樹にだって、昔傷はたくさんあった。そんな膝頭にできた傷なんか、もうとっくに数え忘れてしまったくらいだ」
「鈴さんやリキにも、ですかー……?」
「うん」
クドリャフカさんの問いかけに、ちりん、と一つの鈴の音が答えました。
「その度にあたしらはその傷を治して、またその上に新しく傷を作ってきた……あの厳しい戦場では、それぐらいの苦難が当たり前だったのだ……懐かしい遠き日々よ」
腕を組んで、どこか遠くに思いを馳せるように、鈴さんがかっこよく言いました。
「クー公、なんかこいつ偉そうなこと言ってるけどよ。実は鈴のやつ、その度に半泣きになって恭介に『痛いの痛いの飛んでけー!』ってされてたんだぜ。そうするといつも元気出すんだ」
「わ、わふー……」
そんなことを言うと、また鈴さんが恥ずかしがって真人くんにハイキックをしてしまわないかとクドリャフカさんは心配になりましたが、けれど今日に限っては、そんなことはないようでした。
鈴さんはちょっと照れたように顔を赤くしたまま、クドリャフカさんの目の方を見て言います。
「ま、そういうことだ」
「わふ?」
「いや、だから……その……うんと、なんだ……」
鈴さんは、まるで猫のように丸めた手で鼻をかきながら、精一杯自分の言いたい言葉を探します。
そしてそれが五秒くらいたった後、鈴さんは少し恥ずかしそうな顔になりつつも、はっきりとこう言いました。
「だから……げ、元気出せ。クド」
クドリャフカさんはその言葉を聞いたとたん、ほわっ……と胸の中が温かくなりました。
胸の奥にあったよくわからない痛みも、少しだけ和らいでくれた気がしました。
だからクドリャフカさんは、鈴さんにこう言うことにしたのです。
「ありがとうです、鈴さん。それと井ノ原さんも」
「お、おう……」
「んみゅ」
クドリャフカさんの感謝の言葉に、二人は少し戸惑いつつも、しっかりと頷いてくれました。
そして、クドリャフカさんは前に歩き出します。
ちょっとだけ照れくさかったので、クドリャフカさんは距離がだいぶ離れたところで振り返って、二人には聞こえないように、小さな声でぼそっと言いました。
「ばりしょーぇ、すぱすぃーば……べりべりー、さんきゅーなのですー……とても、嬉しかったです」
見ると、後ろの二人は満足そうな顔をしていました。
「ありゃ? 今日は怒らねぇのか?」
「うん。あれはクドにとってひつよーなことだった……だから怒らないで、ちゃんと伝えなきゃいけなかったんだ、あそこでは」
珍しいこともあったもんだな、と真人くんは腕を組みながら思いました。
しかし、そこで安心しきって警戒を解いてしまったのが、真人くんの運のつきでした。
「だがあたしは忘れてないぞ……この大馬鹿やろー……」
「へ?」
「なっっっにあたしの恥ずかしいことを勝手にバラしとるんじゃお前はぁ――――っ!」
そうして真人くんはいつも通り、きっちりとハイキックのお仕置きが下されたのでした。
雨が降っていました。
今日の野球の練習は中止となり、リトルバスターズのみんなは、それぞれ自由に放課後を過ごすことになりました。
クドリャフカさんは、このまま理樹くんのところに行って名誉挽回のために一緒に遊ぶこともできたのですが……なぜか、それをしようとは思いませんでした。
「わふ〜……傘を持ってきてよかったのです」
ばさっ、と男の子に似合いそうな宇宙ロケット柄の傘を広げます。
クドリャフカさんは、一人で寮の部屋まで帰ることにしました。
「……かさぶたぶたぶかっさぶた〜……♪」
周りに誰もいないことをいいことに、クドリャフカさんは一人、とても調子外れな鼻歌を歌います。
でも、決してご機嫌なわけではありません。
無理やりにでもそんなふうに振る舞っていないと、どうしてか、自分の中の大事な歯車が外れてしまいそうで怖かったのです。
「かさぶたぶたぶー……」
そうしてクドリャフカさんは、そこでふと……寄り道をしてみたくなりました。
いつもだったら途中でそのまま通り過ぎてしまうところに、今日はちょっと寄ってみたくなったのです。
今日は野球の練習もなく、めずらしく一人になれた日なので、そういうことをするにはうってつけの日でした。
しとしとと地面に跳ねる水音を聞きながら、クドリャフカさんは歩き出します。
目指すのは、あの中庭でした。
雨が強くなりました。
クドリャフカさんは、膝のかさぶたを雨に濡らしてしまわないように、傘を持ってない方の手でマントをたぐり寄せて膝を隠しました。
中庭には誰もいませんでした。
クドリャフカさんは身体をマントで包み込み、まるでてるてる坊主のようになりながら、雨水がぴちゃぴちゃと弾ける中庭をゆっくりと歩いていきます。
「……かさぶたぶたぶかっさぶた〜……」
クドリャフカさんは、再び鼻歌を歌いました。
でもそれは、この強い雨音に簡単にかき消されてしまうような、か細い歌声でした。
きっと、このクドリャフカさんの膝小僧にあるかさぶたでさえも、その歌を聞き届けてはくれなかったでしょう。
「かさぶたぶたぶかっさぶたぁー!」
いやこんなのじゃダメだ、私はちゃんと今でも元気なままなんだもん、とどこぞの誰かに強く自慢するかのように、クドリャフカさんはもっと大きな声で歌い出します。
そうしてクドリャフカさんは少しずつ、思い出さないようにしていた記憶を思い出していきました。
別にクドリャフカさんがそれを思い出したくないと思っても……その中庭をよちよちと横切っていくだけで、どうしてか、ふわふわと頭の中に懐かしい光景が浮かんできてしまうのでした。
「ボクはかさぶた♪ 君の膝小僧、擦りむいたとこから生まれた〜♪」
せんの雨が降り注ぐ視界の先に、灰色に染まった芝生が見えました。
あそこの芝生は、よく佳奈多さんに許可をもらって、ストレルカやヴェルカとひなたぼっこをした場所でした。
西園さんの友達である小鳥さんたちを驚かせてしまって、みんなで一緒に謝りに行きました。
後で仲直りをして、みんなで一緒にひなたぼっこをしました。
小鳥さんにちょんちょんとお腹をつつかれ、複雑そうな顔をしているストレルカが、クドリャフカさんにはとっても印象的でした。
「今日の放課後、喧嘩した君の〜♪ 泣き声に呼ばれた〜♪」
隣の方にあるずぶ濡れになったベンチでは、葉留佳さんや佳奈多さんにシフォンケーキをご馳走になりました。
クドリャフカさんはそれを食べてとっても美味しいと思ったので、妹のストレルカやヴェルカたちにもあげようとしましたが、そうしようとすると佳奈多さんに怒られました。
それは、一度人間の食べ物をあげてしまうと犬たちはもうその美味しさを覚えてしまうから、後で食べ物の好き嫌いを作って身体を壊してしまうのよ、ということでした。
クドリャフカさんは、賢いストレルカならきっとそんなことはないと思いましたが……でもヴェルカの方はちょっとどうだろうと不安になりました。
そのためクドリャフカさんは、急いでそのシフォンケーキを食べきることに決めました。
そんな様子を切なげに見上げているストレルカとヴェルカのまん丸い瞳を、クドリャフカさんはちょっと可愛いなと思ってしまいました。でも、お姉さんが食べきるまでじっと地面に座って待っているのですから、とても偉い犬たちでした。
その後は、佳奈多さんが特別に犬用の餌を持ってきてくれました。
クドリャフカさんがその二匹の食べている様子をうらやましそうに眺めていると、ぱちんと佳奈多さんに頭を叩かれました。
「初めまして、仲良くやろうぜ〜♪ 痒いからって、はがすなよ〜♪」
水たまりがたくさんできている中庭の道路では、理樹くんと一緒にフリスビーを投げて遊びました。
クドリャフカさんも、ストレルカやヴェルカに混じってフリスビーを一緒に取りに行きました。
ストレルカとヴェルカはとっても足が速くって、でもクドリャフカさんの方も手の長さがあったので、それはそれはいい勝負になりました。
夕方になって、遊び疲れてくたくたになったまま、みんなで一緒に寮に帰りました。
「短い間だと思うけど〜♪ ここは、任せとけ〜♪」
あそこの雨風に揺れる大きな欅の下では、理樹くんがとある場所で他の女の子と仲良く歩いていたことに落ち込んでしまったクドリャフカさんを、ストレルカとヴェルカが顔を舐めて慰めてくれました。
あの灰色に染まった校舎側の木立では、真人くんが変な虫を見つけてストレルカとヴェルカに食べさせようとしたところを、あの強くてかっこいい来ヶ谷さんが守ってくれました。怖かったね、とクドリャフカさんは二匹を抱きしめました。
あそこの暗い雨霧に霞んでいる道路では、部活でランニングをしている謙吾くんを応援しました。ストレルカとヴェルカが列に混じって一緒に走りました。クドリャフカさんも一緒に走りましたが、すぐに疲れて止まってしまいました。すると犬たちはすぐに戻ってきてくれました。
「かさぶたぶたぶかっさぶたー……」
あそこは、みんなで一緒に追いかけっこをしたところでした。
あそこは、みんなで一緒にフリスビーを投げて遊んだところでした。
あそこは、みんなで一緒にひなたぼっこをしたところでした。
あそこは、みんなで一緒に慰め合ったところでした。
あそこは、みんなで一緒に葉留佳さんのゴミ拾いを手伝ったところでした。
あそこは――
「か、かさぶったぁ〜……」
中庭は、どこもかしこも、犬たちとの思い出で溢れていました。
今は全て暗い雨に覆い被さっていますが、でもクドリャフカさんはちょっとそのあたりに目をやるだけで、すぐにその楽しかった光景を全て思い出すことができました。
「か、かさぶ……」
でもクドリャフカさんの隣に、もう犬たちはいませんでした。
夕焼けの道を走って、クドリャフカさんのもとから消えていってしまいました。
「ぶ、ぶん……」
胸の痛みは、もうありませんでした。
ただその代わりに、がらんとしたとっても大きな空洞が、クドリャフカさんの胸のあたりにぽっかりとできている気がしました。
「……」
空は強い雨でした。
みんなで一緒に見上げた青い空は、もうどこにもありませんでした。
「うぎゅっ」
クドリャフカさんは、もう帰ることにしました。
佳奈多さんと一緒に、お風呂に入ります。
かさぶたを濡らしてしまわないように慎重に体を洗ってから、湯船に浸かります。
クドリャフカさんは膝小僧をお湯の中につけないように、こぢんまりとした体育座りで、ちゃぷちゃぷとお湯の中に浸かりました。
「ゆっくり浸かってなさい。さっきの雨のせいで体が冷え切ってしまったでしょう。もう……体全体が冷えると傷にも響くんだから。気を付けなきゃダメよ」
「ご、ごめんなさい……」
佳奈多さんはいつものようにそうやってクドリャフカさんを優しく叱ると、石鹸を染みこませたタオルを使って、自分の体をゴシゴシと洗っていきます。
佳奈多さんは、傘を差していたのにずぶ濡れになってしまっていたクドリャフカさんを見つけて、すぐにお風呂に入れてくれました。
「まったくもう……水に濡らしちゃダメだってあれほど言ったでしょう。いくらマントで隠していたからといって、そのマントがびしょ濡れになるまで外をほっつき歩いてちゃどうしようもないじゃない」
「わ、わふ〜……」
佳奈多さんにそう言われ、クドリャフカさんはそっと自分の膝小僧を眺めてみました。
佳奈多さんの言った通り、その傷はほんの少しだけ冷たく湿っていました。
もうこれ以上濡らすことはできません。佳奈多さんにもっと厳しく怒られてしまいます。
だけどクドリャフカさんは、それでもまたすぐに膝を濡らしてまうのでした。
「……どうしたの、クドリャフカ? もしかして……また膝が痛むの?」
「わふ……」
クドリャフカさんは、ゆっくりと、首を横に振りました。
それは、クドリャフカさんの涙の雨でした。
その小さな雨は、ぽたぽたと少しずつ目から零れて、膝の傷を濡らしていきます。
ぽたぽた、ぽたぽたと、小さく、雨は降り続けました。
「う……」
別に、膝が痛むわけではありませんでした。
ただ、クドリャフカさんが涙を流すのは、あの二匹の犬のこと。
ストレルカとヴェルカのことでした。
「ううぅ〜……」
そしてとうとう顔を俯かせて、クドリャフカさんは声を上げて泣き出してしまいました。
あの思い出が、本当にただの思い出となってしまうこと。
二匹がいなくてすごく寂しいと思う気持ちを、ずっと誤魔化し続けて、永遠に独りでかっこよく笑い続けること。
それはきっと、クドリャフカさんにとって、あの理樹くんに自分が嫌われてしまうことより……ずっとずっと、辛いことでした。
「クドリャフカ……」
佳奈多さんが、心配そうに呟きます。
そうしてシャワーを出した状態にしたまま、そっと湯船の方に体を寄せると、クドリャフカさんの頭をゆっくりとなでてくれました。
「……仲直りが……したいのね?」
クドリャフカさんは泣きながら、こくりと小さく頷きました。
もうこんなの、クドリャフカさんには絶対に耐えられませんでした。
「そう……わかったわ。大丈夫よクドリャフカ。あの子たちもきっと、クドリャフカと仲直りがしたいって思ってる……恥ずかしいと思うのは、ちゃんと向こうも一緒よ……だから大丈夫」
クドリャフカさんは、もう一度こくりと頷きました。
息を詰まらせて、細く肩をふるわせながら、ぽろぽろと涙を流し続けました。
佳奈多さんはまるでクドリャフカさんのお母さんのように優しく微笑んで、その頭をなでてくれました。
「大丈夫よ……傷は、元通りになるのだから」
クドリャフカさんは、目元をごしごしと手で擦って、ゆっくりと首を縦に振りました。
佳奈多さんはそれを見て安心したようにぽんぽんと頭を優しく叩くと、手を離して、もう一度シャワーの方に戻っていきました。
そして、ようやく体についた石鹸の泡をシャワーで洗い流します。
そんな様子を見ていて、クドリャフカさんは佳奈多さんに一つだけ聞いてみたいことができました。
「……かなた、さん」
「ん? なに?」
自分がまだ少しかすれた声だったことに気づいて、クドリャフカさんは小さく咳払いをして声を整えます。
まだ目元に残っていた情けない涙も拭って、鼻をもう一度すすりました。
「佳奈多さんのその傷も……元通りに、なったのですかー……?」
クドリャフカさんがそうやって静かに聞くと、佳奈多さんはクドリャフカさんの方をちらりと横目で見て、唇の端で笑みを作りながら答えました。
「ええ、元通りになったわよ。ちゃんと」
「……でも、まだ傷残ってます」
クドリャフカさんは、これはあまり佳奈多さんに聞いてはいけないことだとわかっていながらも、やっぱり続けて聞いてみました。
佳奈多さんの背中の方を指差して、もう一度だけ尋ねます。
自分だけが元通りになるのは……なんとなくクドリャフカさんは、ちょっとだけ嫌なのでした。
けれど佳奈多さんはそれでもなんでもないふうに笑って、背中のひどい傷跡をぺちぺちと触りながら言いました。
「これは、これでいいのよ。……これが元通りなの。私にとっての」
「痛くないですか?」
「ええ、痛くないわ。けれどまあ……まだやっぱり、これをクドリャフカや葉留佳以外に見せてしまうのは怖いけれどね」
佳奈多さんはそう言って、少し恥ずかしそうに微笑みながら、静かにシャワーの水を止めました。
でもクドリャフカさんは、どうしてもこの佳奈多さんが我慢しているようには見えませんでした。
きっと元通りのカタチはこうやって人それぞれにあっていいのだと、そう結論づけることにして、もう一度冷たい涙を拭って頷きました。
「ねえ……気づいてる?」
「はい……? なんですか?」
「それよ」
お湯を少しだけ抜いて、二人で一緒にお風呂に浸かったところで、佳奈多さんがクドリャフカさんの方を指差して言いました。
クドリャフカさんがその差された方向をたどっていくと……そこには、クドリャフカさんの膝小僧にできたかさぶたがありました。
「だんだん……小さくなってきているわね」
佳奈多さんの言うとおり、かさぶたは、だんだんと小さくなってきていました。
もう少しで、全部取れそうでした。
次は、よく晴れた日でした。
クドリャフカさんはいつも通り、学校に行きました。
かさぶたを剥がしてしまいたくなるのを我慢して、じっとその時を待ちました。
いつも通りに授業に出て、いつも通りにリトルバスターズのみんなと遊びました。
でもクドリャフカさんは、その間もずっと、その時のことだけを考えていました。
そしてついに、お昼休みになりました。
理樹くんがちょっとクドリャフカさんと大事な話があるふうにご飯に誘ってくれましたが……でもクドリャフカさんはすごく迷った後、最後にはそれを断ってしまいました。
クドリャフカさんは、きっと理樹くんは自分にずっと元気がなかったことを心配してくれたのだと思いましたが、でもやっぱり、そのお誘いは断ることにしました。
今日のお昼休みにはどうしても絶対に外すことのできない、とってもとっても大事な約束があったのです。
「わふー……」
クドリャフカさんはまだ水たまりの残っている中庭で、一人待っていました。
まだまだ湿り気があるベンチや芝生には、そこに座ってお昼を食べようとする生徒は全然いません。
今の中庭には、クドリャフカさん一人しかいませんでした。
「うーん……」
クドリャフカさんは、待っている間もかさぶたが少し気になりました。
ぺりぺりと端っこを指でめくってみますが、本気でやると佳奈多さんに怒られてしまうので、やっぱり剥がせないままでした。
でも本当にもうすぐで、全部取れてしまいそうでした。
「あっ」
やがて、遠くの角から風紀委員の腕章をつけた佳奈多さんが現れました。
佳奈多さんはすぐに後ろを振り返り、中腰になりながら、ちょいちょいと小さく手招きをします。
するとそこから、少し怖がるみたいに、ゆっくりと二匹の犬が出てきました。
クドリャフカさんは……もうずっと、その姿を見ていなかった気がして、ごくりと息を飲みました。
「……す、ストレルカ……」
ストレルカは、クドリャフカさんの方を一度だけ見て、少し固まりました。
そしてすぐに、ちょっとだけ目を逸らしました。
なんだかストレルカは……すごく困っているようでした。
「ヴェルカ……」
ヴェルカはこっちに気づかない振りをして、佳奈多さんの周りをくるくると駆け回っていました。
早く次の指令をくれ、と頻りに叫んでいるようにも見えます。
クドリャフカさんはすぐにでもそっちに走っていきたい気持ちに駆られましたが、でも少しだけ怖くて、やっぱり動けないままでした。
そして、その二匹を連れた佳奈多さんは、そのままクドリャフカさんの方にゆっくりと歩いてきます。
クドリャフカさんは、わざとらしく手を大きく振り上げて挨拶をしました。
そして佳奈多さんは、それに少し首を縦に動かすだけで答えました。
「少し待っていなさい、ストレルカ、ヴェルカ」
佳奈多さんは手のひらを少し押し返すようにして、二匹に『待て』の指令を送りました。
すると二匹は、すぐに足をたたんで地面にぴったりと座ります。
でも、どちらの犬もすぐに顔をきょろきょろと動かし始めて、やっぱりどこか気まずげな雰囲気でした。
「ほら、ちゃんと連れてきてあげたわよ。クドリャフカ」
「わふ……」
「勇気、出しなさい」
佳奈多さんはクドリャフカさんにそれだけを言って、もう一度振り返り、『待て』の指令を解いて二匹におやつをあげました。
そうして頭をなでなでしてあげた後、少し横にずれて、クドリャフカさんと向かい合うように二匹を立たせてあげました。
わずかに……そよ風が吹きました。
クドリャフカさんは、ゆっくりと……二匹と目線を合わせるようにその場にしゃがみ込み、少し息を吸いました。
「……」
それは、とても懐かしい風景でした。
穏やかな風が吹くように毅然とした、かっこいいストレルカの表情も。
キラキラと丸く輝く、かわいらしい子供のようなヴェルカの瞳も。
そして、この雨が止んで、澄み切った空気に包まれた中庭も。
青空を模した葉っぱの雫が、ぴちょんとひとすじ、地面に跳ねました。
「みんな……」
恋をしている理樹くんに嫌われてしまうことは、やっぱり確かにつらいことでした。
でも、大好きなストレルカとヴェルカにまで嫌われてしまうことは、やっぱりクドリャフカさんにとって、もっともっとつらいことでした。
ずっと、みんな一緒のままが好きでした。
クドリャフカさんは今、確かに心の底からそうありたいと願っていました。
クドリャフカさんは……やっぱりストレルカとヴェルカのことが、とっても大好きでした。
「ごめんなさい……ストレルカ、ヴェルカ」
だから、クドリャフカさんは謝ることにしました。
別にストレルカとヴェルカに許してもらえなくても、クドリャフカさんはちゃんと謝ることに意味があると思っていました。
ストレルカとヴェルカのことが、大好きであるというこの気持ち。
そんな大切な気持ちを、クドリャフカさんは絶対に失いたくはありませんでしたし、自分で適当にかっこつけて誤魔化したくもありませんでした。
いつまでも、ずっと心の中に持っていたいと思いました。
だから、素直に謝ることにしたのです。
「ごめんなさい……ごめんなさい……、……わ、わふっ?」
気づいたら、突き出していた自分のおでこが、ぺろぺろとなにかに舐められていました。
クドリャフカさんが慌てて顔を上げてみると……そこには、あの懐かしいストレルカとヴェルカの顔がありました。
二匹はこちらをじっと見つめて、ゆっくりとしっぽを左右に振っていました。
「わふ……」
クドリャフカさんは、二匹と顔を見合わせます。
ストレルカはお座りの状態になって、クドリャフカさんのほっぺたに鼻先をスンスンとくっつけてきました。
ヴェルカは目一杯背伸びをして、クドリャフカさんの口の下のあたりをぺろぺろとゆっくり舐めてくれました。
クドリャフカさんは……呼吸をするのも忘れて、ただじっと、その懐かしい光景を思い出すかのように、二匹の顔を静かに見つめていました。
そして、だんだんとクドリャフカさんの顔が、嬉しそうに歪んでいきます。
「……す、ストレルカ……ストレルカっ! ヴェルカっ!」
クドリャフカさんは、叫ぶように二匹の名前を呼んで、がしっと強く、その身体に抱きつきました。
ほっぺたをストレルカのお腹にぎゅ〜っとくっつけて、クドリャフカさんはもう一度、静かに心から涙を流しました。
ストレルカは優しく、鼻先でクドリャフカさん肩をつついてあげました。
「……ご、ごめんなさいっ……本当に……とっても、ごめんなさいですっ……あんなことで、お、怒っちゃって……っ!」
両手で二匹の背中を強く抱きしめながら、クドリャフカさんは、ずっと今まで溜めてきた気持ちを押し出すように、次々と涙を流しました。
嬉しそうにくるくる回る二匹のしっぽに、手をぱしんぱしんと引っぱたかれながら、クドリャフカさんはこうなったことがとっても嬉しくて、悲しさから来るものとは全然違う、キラキラと輝く水晶みたいな涙を流し続けました。
それを恥ずかしそうに手で拭うことも、しませんでした。
「二人がいないなんて……もっ、もう絶対いやです……っ! ……い、いや、だよう……! 寂しかったよう!」
ぐりぐりと押しつけるほっぺたと手の奥から、じんわりと、二匹の温かい体温が伝わってきました。
ストレルカとヴェルカは、確かにここに居てくれました。
クドリャフカさんのもとに、こうしてちゃんと戻ってきてくれました。
二匹は確かにここに居てくれて、泣いているクドリャフカさんを慰めたくて、顔をスンスンとくっつけてきました。
クドリャフカさんの胸の中が、とっても熱くなりました。
「ストレルカぁ……ヴェルカぁ……もう、どこにも……っ! どこにも行かないでっ! ……お願い……」
クドリャフカさんが、そう掠れた声で叫ぶように話し、二匹の犬は嬉しそうに回るしっぽでそれに力強く答えました。
ストレルカのふさふさとしたお腹の毛が、クドリャフカさんの目元に溜まった涙を優しく拭ってくれました。
ヴェルカのぺしぺしと跳ねる柔らかい肉球の感触が、クドリャフカさんの震える身体を温かく包み込んでくれました。
クドリャフカさんはようやく……胸の中にあった空洞が、元通りになってくれた気がしました。
二匹の存在が、ちゃんとこうして、クドリャフカさんの一部となっていたのです。
「……ね? だから言ったでしょう? 傷は治るよって。ちゃんと元通りに……なるんだって」
佳奈多さんが、クドリャフカさんの傍にそっとしゃがみ込んで、その身体を優しく支えるように言いました。
クドリャフカさんは顔をゆっくりとストレルカから離して、その潤んだ瞳で佳奈多さんを見やって、こくりと頷きました。
クドリャフカさんにできた傷は、こうして元通りになったのでした。
膝小僧にできていたかさぶたも……ヴェルカの肉球に剥がされたのか、いつの間にか、綺麗に消えてなくなっていました。
傷は、こうして治ったのです。
でもクドリャフカさんは、きっとそれは、こうして自分の傷を守ってくれる存在が、ちゃんと自分の傍にずっといてくれたからだろうと思いました。
自分一人では、こんな傷はきっと絶対治せなくて、きっと全部がダメになっていただろうと思いました。
だからクドリャフカさんは、こうなってとても嬉しいと思うと同時に……けれども、膝のかさぶたが自分の傍から消えてしまって、少し……ほんの少し、寂しいなと思いました。
また今度いつか会えたときは……その時こそは、ちゃんと今日のお礼を言おうと……そう、クドリャフカさんは決めたのでした。
「……えへへ……それじゃ、久しぶりにみんなで遊びましょうっ! ストレルカ、ヴェルカ! こっちの佳奈多さんも混ぜて、みんなで一緒にフリスビーですっ!」
クドリャフカさんは、今日ずっと背中に隠しておいたフリスビーを取りだして、大きく天にかかげました。
燦々と降り注ぐ陽光に照らされて、雨に濡れた中庭の草木は、キラキラとまぶしく健やかに輝きました。
そんな晴れやかな心の情景に響き渡るのは、二匹の嬉しそうに吠える返事と、え、私に取りに行かせるの……? という佳奈多さんの呆然とした呟きと、そして、
――やっと、君の笑う顔が見れたね。
――もう、転んじゃダメだよ。
そんな幸せそうな……でも少しだけ寂しそうな、傍にいたクドリャフカさんにだけわかる、不思議な声でした。
おしまい
【超いらないオマケ】
「……で、結局そういうことだったわけね」
「わふー……」
佳奈多さんが、それに付け足すように聞きます。
「そして、それをクドリャフカにプレゼントしたのがあの来ヶ谷さんだったと。はぁ……まったく、ただの馬鹿というか変態というか、いい趣味しているというか趣味が悪いというか……とにかく、本当に災難だったわね。クドリャフカ」
「はい……。本当はそんなつもりなんか全然なかったんですけど、その日は何故かそれしか手元になくて……」
そうしてクドリャフカさんからストレルカたちとの喧嘩の原因を聞くなり、佳奈多さんはすごく複雑そうな顔を浮かべ、はぁ……と重たい溜息を吐きました。
クドリャフカさんは手でストレルカの背中をなでなでしながら、顔を俯かせて、実はあんまり解決していなかった今回の事件に、目を細めて憂鬱そうな溜息を重ねました。
けれど佳奈多さんはそれでようやく納得がいったように、クドリャフカさんと二匹を交互に見つめて、やや呆れた溜息をつきながらも、かすかに笑顔を作って見せました。
「じゃあもしかしたらこの二人は……あの直枝理樹に、ただ嫉妬していたのかもね」
「ふえ? しっと?」
クドリャフカさんが片言で不思議そうに聞き返すと、佳奈多さんはちょっと恥ずかしそうに視線をストレルカとヴェルカに移し、本で読んだことがあるだけだけど、とわざとらしい前置きを作って言いました。
「大好きな人が、他の子に夢中になってて自分の方に構ってくれない、だなんて、誰だって嫌な気持ちになるものじゃない? ……い、いや、知らないわよ? ただの本に書いてあった情報から推理した想像よ? 私自身、そんな気持ちになったことなんて全然ないんだから。けれど……多分、そうなんじゃないかしら。そして後は……そうね、そのせいでお姉さんを泣かせてしまったから、この子たちが自分自身に責任を感じて……ってのはさすがに都合よすぎるかしらね。……いや、知らないわよ? 本の知識よ?」
佳奈多さんのそんな複雑な心境などを理解する間もなく、クドリャフカさんは、すぐにストレルカとヴェルカの顔に目を落として考え込みました。
ストレルカとヴェルカは、なにを言っているのかわからないように不思議そうに首を傾げて、その後は暇だったのか、お互いにじゃれ合いを始めました。
クドリャフカさんは、暫しの間、ある一点を見つめて考え込んでいましたが、やがて納得したようにかすかに笑いながら頷くと、もう一度ストレルカたちと目線を合わせるようにしゃがみ込んで、そっと言いました。
「そういうことだったんですねー……ストレルカ、ヴェルカ。だとしたら、そう思わせちゃって本当にごめんなさいです。……でも私、二人のことをどうでもいいだなんて、全然思ってないですよ? ずっと、これからもみんな一緒です。ずっと、ずっとずっとずぅ〜〜〜っと……一緒にいましょう。……ね?」
クドリャフカさんは、そうかすかな声で言い終えるのと同時に、手で二匹の体を抱き寄せて、ぎゅ〜っとしました。
ぺちぺちと跳ねるように繰り出されるヴェルカの前足が、クドリャフカさんにはとっても心地よくて、クドリャフカさんは幸せいっぱいに、ヴェルカの鼻先にキスをしました。
佳奈多さんも、目の前の現実を忘れてとても幸せそうにしている三匹に少々呆れながらも、ほっとした優しい微笑みを三匹に向けました。
これで元通りとなった、ある中庭の幸せな風景がありました。
そこからは本当にいつもの通り、幸せな時間が紡がれるはずでした。
しかし。
「クドーっ!」
ふと、ある一人の少年の、決意に満ちた声がそこに響き渡りました。
クドリャフカさんと佳奈多さんが驚いたように顔を上げてそちらを見つめると、そこに居たのは、なんとあの話題の渦中にあった直枝理樹くんでした。
するととっさに、クドリャフカさんの顔が緊張で強張ります。
「え、ええっと……わふー……」
よくよく考えてみれば、クドリャフカさんと理樹くんの関係は、いまだ気まずい状態のままでした。
あれだけ恥ずかしいことを理樹くんの前でやらかしてしまってからには、自分はまず嫌われて当然だろうとクドリャフカさんは考えていました。
しかし、それでも自分からあんなことを声に出して言うことはできず、理樹くんもなるべくその話題を避けるようにしていたようなので、クドリャフカさんと理樹君の間には、ずっとむずむずと互いに探り合うような日々が続いていたのです。
理樹くんは、こちらに向かってまっすぐに走ってきます。
その顔は、とっても真剣なものでした。
知らず、クドリャフカさんの心臓の鼓動も速くなってしまいます。
「はあ、はあ……はぁ……ク、クドっ! やっぱり僕……君と、ちゃんと話がしたくって! だからずっと、君のことを探していて……っ!」
「え……リ、リキ……?」
そしてその一言によって、クドリャフカさんの心臓のスピードが、ぐーんと一気に跳ね上がりました。
いくら彼に後ろめたい思いがあろうとも、まさにクドリャフカさんは彼に恋をしているのです。
僕は君のことをずっと探していたんだよ、などと好きな人から言われて、これで女の子が嬉しくならないわけがありません。
知らず知らずのうちに、クドリャフカさんも熱い視線を理樹くんに送り返してしまいます。
「僕は……ずっとあれから、一人になって考えてみたんだっ。すごく悩んで、悩み抜いて、でもどうやってクドと接すればいいのかわからなくって……今あのクドに元気がないのも、ひょっとしたら自分のせいなのかな……って、考えて」
「リキ……」
クドリャフカさんは、すごく真剣なふうに話す理樹くんを見て、思わず熱い溜息をもらしていました。
自分のことをこんなに真剣に、大切に想ってくれている素敵な男の子に、今すぐ抱きついて愛の告白をしてみたい気持ちに駆られました。
そして当の理樹くんは、汗で額に張り付いた前髪を男らしくぐいっとかき上げて、これまた男らしいキリッとした両眼をクドリャフカさんに向けます。
「僕は悩んで悩んで……悩み抜いたよ。でも一人なんかじゃ答えは到底出せなくって……だから、あの恭介にも相談してみたんだ。クドには申し訳なかったけど、でもなんとなく、僕はもう無責任な答えなんか出したくないし、やっぱりこういうことを相談できるのは彼しかいないと思って……だから、」
理樹くんは、顔が上気して真っ赤っかになってしまったクドリャフカさんの双肩に、そっと両手を添えました。
そして、クドリャフカさんのキラキラ輝く瞳を真っ直ぐに見すえて、静かに口を開きます。
「だから言うよ……僕は、ここで変わらなきゃいけない……言って、前に進まなきゃ。優柔不断な僕の背中を押してくれた、あの恭介のためにも……そしてなにより、君と僕のためにも」
「わ、わ、わふっ……リ、リリリリキっ……」
クドリャフカさんは、もう頭がいっぱいいっぱいで、普通に喋ることすらもできなくなっていました。
それほどまでに目の前の理樹くんは男らしくてかっこよくて、クドリャフカさんの乙女心をきゅんきゅんと強く刺激してきました。
クドリャフカさんはもう、自分が自分ですらなくなってしまったような感覚になって、夢心地に、自分を爽やかに天空へと舞い上げていくロケットのような気流へと、自然に身を委ねていきました。
だから、
「やっぱり僕はっ、クドみたいなロリにニーソックス+紐パンツって最高だと思うんだよっ! だから! 今度からはそれを僕だけに見せてください――ってう゛ぉほっ!?」
横から飛んできた佳奈多さんのロケットアッパーによって本当に天空へと舞い上がっていく理樹くんを、ただ呆然と、眺めていることしかできませんでした。
こうして……クドリャフカさんに、絶対に治したくないと思う新しい傷ができました。
ならばそれは、きっと自然に治ることもないのでしょう。
これは、そんなかわいそうな一匹のクドリャフカさんの、ある恋の終末の物語でした。
おしまい
【あとがき】
作者はただの馬鹿です。こんな意味不明な作品を作ってすみませんでした。